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江戸川駄筆のサッカー日誌
2000-2001/第18節

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2月10日(土)10:40 a.m.
BGM/ SHAMBARA "shambara"

 まったく寝言というやつには驚かされる。昔、大学のサークルで合宿をしたとき、同じ部屋で寝ていた奴が、いきなり「あれ、おまえ、あのとき居たっけ?」と言ったことがあった。ものすごくハキハキした口調だったので、誰も(4人部屋だった)最初はそれが寝言だとは思わなかった。だから、そいつ以外の3人は一様に「……おれ? どのとき?」という漠然とした不安を胸に抱きながら眠れない夜を過ごしそうになったのである。どうやら寝言らしいとわかったものの、「続き」があるんじゃないかと、しばらく落ち着かなかった。漫画やドラマなどで寝言を「ムニャムニャ……」と表現するのはウソだということがわかった。もっとも、他人の寝言を聞いて、自分も同じように寝言しているだろうと思う人はあまりいない。それは「特別なこと」あるいは「特別な人」であって、寝言なんか自分とは関係ないと思う。俺もそうだった。ところが。結婚することのメリットの一つは、寝言モニターを得ることである。この日誌でも何度か紹介してきたとおり、俺は「寝言の人」だということが、結婚によって判明したのである。

「1日19枚か。キツイなー」

 一昨日の寝言である。これを聞いて、愚妻は夫が不憫でならなかったという。説明が必要だろう。ここで俺は「割り算」をしている。分母は〆切までの残り日数。分子は〆切までに書くべき残り枚数である。つまり1日19枚のペースで書けば〆切に間に合う、ということだ。それを「キツイなー」と嘆いている。だから不憫なのである。驚くべきことは、まず、睡眠中の計算であるにもかかわらず、「20枚ぐらい」という概数ではなく、「19枚」という正確な値を算出していることだ。この寝言人の計算能力には驚嘆せざるを得ない。さらに、この計算結果が現実の状況とほぼ一致しているという事実も我々を驚かせる。寝ているあいだもペース配分を考えることを忘れない。そんな人のことを、世間の人々が何と言うかは決まっている。「なんて仕事熱心な男なんだろう」だ。むろん「ペース配分を考える」と「ペースを守る」が同じではないことは言うまでもない。

*

 仕事のできる人、できない人。それについて書かれた本が売れているらしい。読んではいないが、まぁ、わりとヒキの強いタイトルだとは思う。赤提灯の話題というのは、おおむね「仕事のできる人、できない人」がテーマだからである。

 仕事のできない人というのは、えてして過緊張だ。なんか知らんがやたらキンチョーしている。だから言うことが支離滅裂になる。緊張とはちょっと違うが、肩に力が入りすぎている人も少なくない。そういう人は、たかが2ページの雑誌記事のことをとてつもない大事業であるかのように話す。彼らの話を聞いていると、雪ダルマ作りがまるでピラミッド建造のように思えてくることがしばしばだ。だから簡単な話もものすごく難しくなる。

 また、仕事のできない人というのは、えてして物事の優先順位がデタラメである。たとえば話を細部から始めることが多い。総論なしにいきなり各論から入る。だから、何が言いたいのかサッパリわからない。どの方向に話を進めようとしているのか、サッパリ見えてこない。そして僕は途方に暮れる。迷子になる。

 あと、仕事のできない人というのは、えてしてこちらを区役所職員と役所のカウンター越しに話しているような気分にさせる。つまり、事務処理ロボットに徹しようとしている。この打ち合わせさえ無事にやり過ごせば厄介な責任から解放される、と思っている。書類さえ遺漏なく作成すれば事が済むと思っている。自分がロボットだから、相手もマニュアルどおりにコマンドを与えれば稼働するマシンだと思っている。だから突っ込んだ対話が成り立たない。話も深まらない。

 ちなみに世間では一般的に、「自分の意見を持たないただの連絡係」が「仕事のできない人」の典型だと考えられているフシがある。だが俺に言わせれば、それはまだマシなほうである。きっちり正確に連絡係の役目を果たしてくれれば、何も問題はない。連絡係とのつきあい方は、こちらも心得ている。しかし世の中には、連絡係さえまともに務められない者(あるいは連絡係のくせに自分の意見を持とうとする者)のほうが多いのである。

 幸いなことに、ここ1年ぐらい、上記のような人たちには遭遇していない。昔はしばしば愕然とさせられた。最初の打ち合わせで、こちらにコンテを渡すやいなや、いきなり「えーと、文体は<ですます調>にしたほうがいいと思うんですけど、どう思われます?」という質問をする編集者がいたら、そいつは九分九厘、仕事ができないと思ってよい。俺はまだコンテも見ていないのだ。読者層がどう想定されているかも知らないのだ。テーブルの珈琲にも口をつけていないのだ。やおら文体の話をされても困る。

 仕事とは、つまり対話のことだ。仕事は対話でできている。だから、まともに話ができりゃ、まともに仕事ができる。少なくとも連絡係的編集者にはなれる。人に迷惑をかけずに働ける。いくばくかのカネが稼げる。ただそれだけのことである。それだけのことができないから、みんな困っている。組織人は「人材がいない」と嘆いている。俺は嘆かない。話のできない人とは次から対話をしなければよい。つまり仕事をしなければよい。それで俺がいくばくかのカネや人脈を失ったとしても、それは世間の関知するところではない。つまり、とやかく言われる筋合いはない。もちろん俺は、いま自分のことを棚に上げている。棚から下ろすつもりもない。江戸川は仕事のできる人間だ。江戸川は仕事のできない人間だ。人はいろいろなことを考える。俺の知ったことではない。

*

 で、文体である。
 あなたは文体のことを考えて生きているだろうか。俺はいつも文体のことを考えて生きている。というのはウソだが、このところさまざまな人のウェブ日誌を読む機会があって、文体のことを考えるようになった。世の中にはいろいろな文体の持ち主が存在する。

 ちなみに仕事では文体のことなど考えない。そんな余裕はない。ゴーストライターは他人の文体をなぞるのが仕事だと思っている人がいる。それは誤解である。文体は向こうからやって来る。なぞろうとしてなぞれるものではない。よほど著者がユニークな文体の持ち主であれば話は別である。よほど魅力的な文体の持ち主であっても話は別である。もし村上龍や京極夏彦のゴーストをしろと言われれば、それが成功するかどうかは別として、俺は喜んでその文体の再現にトライすることだろう。しかし残念ながら、そういう文体の持ち主は普通ライターを使わない。自分で書く。だからライターは文体のことなんか考えない。考えるライターもいるかもしれないが俺は考えない。江戸川の原稿は著者の文体に似ている。江戸川の原稿は著者の文体に似ていない。どちらにしろ、俺のせいではない。

 むろん、ここで言う文体とは、常体(である調)か敬体(ですます調)かなどという単純なものではない。ATOKには「文体チェック機能」みたいなものがあるようだが、使ったことはないものの、これもたぶん「である調に紛れ込んだですます調(あるいはその逆)」を発見して警告を発するものだと思われる。である調で書いているときに、うっかり一部だけですます調にしてしまうなんてことが、あるものだろうか。まったく無駄な機能だと僕は思います。文体をチェックするというなら、「この段落には、村上春樹が15パーセント、嵐山光三郎が3.5パーセント、混入しています」ぐらいの指摘はしてもらいたいものでR。

 では文体とは何か。これがよくわからない。文体。厄介な言葉である。胴体。これはわかる。車体。機体。これもわかる。死体もわかる。死に体もわかる。国体。このへんから、よくわからない。胴体も車体も機体も死体も死に体も「ボディ」のことだ。国体はボディだろうか。文体はボディだろうか。国体はボディかもしれない。国体を守る。ボディを守る。ボディは大事だ。あとでじわじわと効いてくる。しかし文体は。文章のボディ。そんなものがあるのか。ボデボデした文体。これはありそうだ。しかし文章のボディとは。文体の「体」って、英語で何ていうんだろう。スタイルか。でもスタイルなら文体ではなく文型ではないのか。文体は「型」ではない。やはり、もうちょっと、「ボディ」っぽい何かだ。

 勘の鋭い読者諸氏には自明のことと思うが、この日誌の文体はさまざまな書き手の影響をモロに受けている。俺はときどき、自分が、他人の文章の内容ではなく文体を読んでいるのではないかと疑うことがあるぐらいだ。笑うときも、内容ではなく文体に笑わされている。そうとしか思えないことがある。読んだばかりの小説のあらすじを人に説明できないのはそのせいかもしれない。そもそも「筋」を読んでいないのだ。

 とくに強い影響を受けている書き手は何人かいる。照れくさいので具体的な名前は挙げない。おそらくあなたの思っているとおりだ。一つだけ白状する。今日はちょっぴり養老センセーを意識している。きゃっ、恥ずかしい。動揺して文体が乱れた。「似てねーじゃん」などと言ってはいけない。「意識する」と「似せる」は同義ではない。ちなみに養老センセーの特徴は、「読者を冷たく突き放す」「面倒臭いので、あったほうが流れがわかりやすくなるとわかっていても、指示語や接続詞を省く」「面倒臭いので、少しぐらい論理に飛躍があってもいちいち説明しない」「つまり誤読を恐れない」「誰も嫌いだなんて言ってないのに、どうせ私なんかみんなに嫌われてるんだからどうだっていいや、という捨て鉢な態度を取る」「その結果、ときどきスネる」といったあたりだと俺は分析している。

 それはともかく、文体は伝染るのである。意識的であれ無意識的であれ、あたかも『リング』の貞子念写ビデオのごとく、文体は空気感染する。意識的なら、それは剽窃だ。しかし文体を剽窃したからといって訴えられることはない。たぶん、あらゆる知的生産物の中で、最後まで知的所有権なるもので保護されないのが、文体というものではないだろうか。もちろん、文体を持つのは文章だけではない。映画にも文体はある。彫刻にも文体はある。盗まれても文句は言えない。文体は人類の共有財産にするしかない。

 文体とは、「思考の流れにおけるボケとツッコミの様相」のことではないかと俺は睨んでいる。ボケる。ツッコむ。笑いが生まれる。弁証法である。アウフヘーベンである。芸人でもない人間が楽屋用語を使用すると、小林信彦に怒られるかもしれない。怒りたい人は怒ればいい。俺も怒りたいときは怒る。だから、それはいい。必要なら、楽屋用語だろうが現代用語だろうが差別用語だろうが俺は使う。あらゆる文章は、広義の「ボケ」と「ツッコミ」の連なりだと言えないか。相方は、自己の主観世界に存する他者。その相方と交わす対話の「ノリ」や「調子」や「テンポ」や「リズム」みたいなもの。それが文体だ。たぶん。

 つまり文体は、その「自己」に固有のものではない。「私」の文体はそのときどきの他者のありようによって千変万化する。相方が変わればボケとツッコミのパターンも変わらざるを得ない。そもそも「自己」などというものは他者との関係性なしに成立しない。『痛快!心理学』にそう書いてあった。私と他者が交わるその対話空間に、自己は可変の存在としてふわふわと漂っている。文体も漂っている。

 他者のいないところに、自己はない。地球上に1人だけ生き残る。そこに「自分」はない。一人称は必要ない。蛋白質の塊としての「生命」はある。だが関係性と不可分の「人生」はない。その生命体が人間かどうかも定かではない。他者との対話なしに人間が成り立つか。それは定義による。一概には言えない。俺は成り立たないと考えてみる。そう人間を定義してみる。人間の「生」を「生命」と切り離してみる。すると「私」の対話のあり方は、「私」の生き方そのものだ。人間性そのものだ。そして文体とは対話の様相だ。だから文体は「私」だ。「私」が文体だ。

 かつて横綱曙は言った。「相撲は単なるスポーツじゃない。ライフスタイルだ」と。作家大沢在昌の創造した私立探偵佐久間公は言った。「探偵は職業じゃない。生き方だ」と。ならば俺も言ってみよう。ゴーストライターは職業じゃない。生き方だ、と。

 ああ、もう、最後の最後でそんなボケかましてどうすんだ。ゴーストライターは単なる職業である。そんなもん生き方にしちゃいかん。……あらためて言ってみよう。文体は単なるスタイルじゃない。生き方だ、と。

*

 タボンさんが寄稿してくださいました。どうもありがとうございます。無知な俺は読者の皆様に支えられなければ生きていけません。


Readers' Mail No.107「ジャイ通り魔について」(2/9)

 私が思うに、「ジャイ通り魔」というのは、シドニー五輪の男子走り幅跳びで銀メダルを獲得した 豪州選手のジャイ・トーリマにあやかった名前なのではないでしょうか? なんでも彼は、タバコは吸うわ、酒は飲むわ(本人によれば「俺は練習してる時間よりも酒場にいる時間のほうが長い」んだそうな)、きっと女にも見境がないに違いないと思わせる、およそスポーツ選手の風上にも置けない汚らわしい男なんです。いくら地元だからと言って、彼に大声援を送るオーストラリア人というのも信じられません。こんな悪趣味なペンネームをつけるなんて、品性が疑われることはなはだしゅうございます。いったい誰なんざんしょ?(タボン・デブール)


 ははあ。そうだったのか。五輪、あんまり見なかったから知らなかった。失礼こきました、ジャイ通り魔さん。とくに陸上はぜんぜん見なかったなー。高橋尚子も見ていない。そういえば俺、我ながら信じられないのであるが、陸上男子100メートルの勝者も知らないぞ。


あなたの寄稿をウェブにします。

 本誌『愛と幻想のフットボール(FLF)』では、読者の皆様からの寄稿をお待ちしております。原則としてテーマは問いません。ま、そうは言っても、「古代エジプト中王国時代のミイラ製作における脱水技術の今日的意義」なんて研究論文をいきなり送られても困りますが。そういうのはここじゃなくて然るべきところに送るように。あと、編集人自ら非常識な量の日誌を書いておきながらこんなこと言うのも何ですが、分量も常識的な範囲(江戸川の日誌1ヶ月分に相当したらちょい非常識かも)に押さえた上で、h_okada@kt.rim.or.jpまで、どしどしお送りください。このページに関するご意見やご感想など、寄稿以外のメールもお待ちしています。なお寄稿の際は、私信と区別するため、文末にお名前かペンネームをカッコに入れて記入するよう、お願いします。掲載にあたっては、編集人の編集権が及ぶと思われる範囲内で加筆、修正、削除などの編集作業が加えられることがありますので、あらかじめご諒承ください。むろん、原則として届いた寄稿はすべて原文に忠実に掲載いたしますし、編集人の主張と相反するからといって却下するようなことは絶対にいたしません。また、お寄せいただいた原稿はできるかぎり迅速に掲載させていただきますが、編集人の都合によっては到着から掲載まで数日かかることもありますのでご容赦ください。



2月9日(金)10:50 a.m.
BGM/ Eagles "The Best of Eagles"

 転校生vs番長さんが優勝した。強いなぁ。あ、でも0.5差か。最小得点差だ。俺も最初に優勝したときはそうだったような気がする。よくできたゲームだ。あー、なるほど。あの何者かによる決勝点でダイタクヘリオスさんは憤死したわけだな。気の毒だ。おっ、エタメ起家さんも3位に粘ってるじゃないか。国府田さんって人と同点だ。国府田さんはすごい。ブービーは、いや〜ん@ソープさんである。夫婦でせこせこ稼いでいて羨ましい。あーあ。ネスタンコビッチもシネオネドベドも八塚浩子もぜんぜんダメじゃないかよお。ジダンユベンテーノさんにも抜かれるとは。もう大ハンデ逃げ切り作戦は通用しない時代になったということか。ちきしょー。後半戦はぶいぶい言わしちゃる。それにしても、最後まで「ジャイ通り魔」って何のことだかわからなかった。

  ……たまに説明抜きで内輪ネタを書くのはけっこう愉快だ。たぶん読者の中でも理解できるのは愚妻を含めて4人ぐらいだと思う。背景を知らない人は、いったいどんな世界を想像するんだろうか。いきなり「転校生vs番長さんが」って言われても困るよな。愉快愉快。

*

 今朝の『ののちゃん』で、明日から3連休だということを初めて知った。舶来のカレンダーを使っていると、たまにこうして祝祭日を忘れる。でも、どうせなら知らないまま仕事したほうがよかったかも。「世の中が休み」だと思うと、どうしても逃避力が向上する。

*

 K社から電話。ジュニア教室の勧誘ではなく、仕事の依頼である。「秋に出したいんだけど予定は?」って言われてもなぁ。そんな先のこと、どうなってるかようわからんぞな。なので、「えーと、3月があれで5月がこうでそのあともう一本あるから、んーと、秋になってから書くって感じになっちゃうかも。それじゃ遅いですよねぇ。ま、ひとくちに秋ったって長いわけですが」と言ったら、9月いっぱいまでに上げれば11月には出せる、と言われた。なるほど。秋に書いて秋に出す。秋を精一杯ワイドに使った攻撃だな。両サイドは広く使ったほうがよろしい。

 たぶんいま抱えてるのは7月ぐらいには全部カタが付く予定だから、まぁ、9月いっぱいまで時間を貰えれば、と答えはしたものの、予定は未定で決定ではないんである。大丈夫か、俺。やれるのか、俺。と、おのれの自己管理能力にいささか不安を抱き、「いっやー、でもどうかなー、ん〜〜〜〜〜、夏にやる予定の仕事もまだ流動的でどういう段取りになるかはっきり決まってるわけじゃないしぃ、いや、ほら、こういう仕事ですからねー、どこでどれだけズレ込むかちょっと読めない部分もあるしなー、まあ、それも要は私次第なんですけどね、あはははは、ですから9月いっぱい貰えれば大丈夫って胸張って断言できるかっていうとそうでもなかったりするわけですよぉ、でも、まぁ、9月いっぱいかー、きっと、がんばれば何とかなるんだろうなー、成せば成るって言いますもんねー、いやはや、何とも、なんかヘンな汗出てきちゃった、えへへへ、ぐちゃぐちゃ言ってすみません」などとツベコベ言いながらも結局は「やる」と言ってしまうのは、自己管理能力に対する不安よりもセーカツの不安のほうがはるかにでかいからなのであった。稼がなあかん。休んだらあかん。走らなあかん、W杯まで。嗚呼。「え〜、夏休みどうすんのよぉ」という妻の声が聞こえる。その結婚、という婦人公論の見出しも目に浮かぶ。

 でもさー、どんな企画も最初に聞いたときは「ああ、うまくすれば意外にそこそこ売れるかもなぁ」と思えちゃうから困るんだよねー。あれ。「うまく」いっても「そこそこ」かよ。だが、この世の中、どこからどんなヒット商品が生まれるかわからない。もし断った企画を他のライターが書いてベストセラーになんかなっちまった日にゃ、あんた、悔しくて眠れないやおまへんか。

 だから、引き受ける。ところが引き受けた後で友人の編集者に話すと、「江戸川さんってば、まーた、そんな売れそうもないもん書いてんの? ダメだよ仕事選ばなきゃ」などと言われて落ち込むのである。そして、実際、売れない。ふう。だけどさー、仕事選んでる余裕なんかどこにある? 考えてもみなさい。「そんな先のこと」と言ったって、たかだか半年かそこらの話だ。フリーターだって、もうちょっと長いスパンで「食い扶持」を確保してるんじゃなかろうか。フリーターよりも行き当たりばったりで、綱渡り。計画性ゼロ。危なくてしょうがない。とりあえず9月までは埋まったが、2月の時点で10月以降の仕事が決まっていないというのは、あんがいスリリングな人生だとは思わないかね、きみ。


2月8日(木)9:30 a.m.
BGM/ CHARA "Strange Fruits"

 CDプレイヤーの操作にも習熟したセガレが最近、スモーク・オン・ザ・ウォーターにハマっている。テレビで耳にしたときに楽しそうだったので、「これなら父さん、CD持ってるぞ」などと言ったのが運の尽きだった。聴きたがる聴きたがる。ゆうべも3回、聞かされた。サビのたびに「しゅのうううううう、ころうぇーいたー。わららわらわら。わららわらわら。しゅのうううううう、ころうぇーいたー。んっ、んっ、んーっ。んっ、んっ、んんーっ」と謎めいた呪文をシャウトしながら、合間に「とうっ!」とか「へやっ!」などと叫んで格闘ポーズをキメている。どうやらディープ・パープルは男の子の攻撃欲を刺激するらしい。そういうもんか。そういうもんだ。

*

 レアル・マドリー×マラガ(リーガ第21節)を観戦。マラガが序盤からアウエーとは思えぬ果敢な攻撃を見せていた。頼もしい。どうせ負けてモトモトなんだから、ユナイテッドと戦うプレミア下位チームも見習ってほしいもんだ。しかし先制したのはマドリー。マラガDFがクリアミスしたボールを、ドイツ宇宙技術協会(略称GUTI)がゲットである。しかしマラガも、GKカシージャスの中途半端なパンチングを何者かがヘッドで決めて追いつく。さらにデリー・バルデス33歳が驚異のボディバランスで放ったシュートがゴールネットを揺らして逆転。おお。やるじゃないかマラガ。だがしかし。ゴールは続くよどこまでも。右からフランス国際行政機構(略称FIGO)がクロスを入れると、ロシア芸術大学研究室(略称RAUL)がGKとの火花の散るような競り合いを制してヘッドで決める。お次も略称FIGOと略称RAULのコンビ炸裂で3-2。前半だけで5ゴールである。このカード、マラガホームでも3-3の乱戦を演じたらしい。ゆるい。後半、マラガがダリオ・シルバのゴールで再び追いついたものの、まるでそれを待っていたかのように即マドリーが勝ち越しゴールを決めて4-3であった。うーむ。やはりフィーゴとラウールの仏露ホットライン(ほんとうはポルトガル人とスペイン人です。念のため)は脅威じゃ。もうじきCLのラツィオ戦だというのに、ここまで影の薄かったラウールが高ぶってきたのは辛い。


2月7日(水)10:40 a.m.
BGM/ Sonny Clark "Cool Struttin' "

 普段そんなものに注意が向くことはないのだが、今朝の朝日新聞に載っていた『婦人公論』の広告には視線をしっかり捕捉された。なんたって、特集のタイトルがタイトルだ。

「あなたにその結婚は必要か」

 いい質問である。これがもし「あなたに結婚は必要か」であったなら、これほどのインパクトは生まれなかったに違いない。しかし婦人公論は、思い切りこちらを指さして「その結婚」を糾弾するのである。朝っぱらから「……こ、この結婚ですか?」と言葉を失った者は少なくあるまい。そうだ。その結婚だ。他のどの結婚でもない、おまえが今しているところの、その結婚だ。その結婚は必要なのか。おらおら。言うてみぃ。答えてみぃ。黙ってちゃわからんぞ。えーんえーん、出勤前の慌ただしい時間にそんなこと言われても。

 しかし問うているのは婦人公論だから、この「あなた」は女性である。だから、われわれ男は答えなくてよろしい。問題は、夫の出勤後に新聞をめくり始めた妻たちが、一人でぼんやりと「この結婚かぁ」と考え始めることである。世の中には、考えたほうがいい問題と、考えないほうがいい問題があるのに。「この結婚は不要だけど、あの結婚ならいいかなぁ」とか「こんどは、どの結婚にしようかしら」などと思い詰めてしまったらどうしてくれるんだ。結婚に「いろいろ選択肢がある」なんて間違った世界観を持ってしまったら困るじゃないか。

*

 きっと最初から違和感を抱きながら使っていたような気がするのだが、「投稿」って言葉はどうもなぁ、と思わないでもない。今までも、読者の皆様から賜った玉稿を「投稿」と呼ぶとき、俺はいつも軽い躊躇いを覚えておった。投稿。なんか躊躇いませんか。もしかしたら、この語感が心理的な障壁になっている人もいるかもしれない。いや、これまで投稿してくださった方々の中にも、「そうかぁ、おれは投稿するのかぁ。投稿ってのはどうなんだろう。なんせ投稿だもんな。投稿したら投稿者だもんな。ちょっとヤだな。でも江戸川が投稿っていうんだから投稿ってことにしとくか」などと躊躇いつつ投稿なさった方がいらっしゃるだろうと思う。その気分はよくわかる。投稿という語には、どこか「まずい感じ」がつきまとっていないか。

 とくに写真の投稿はまずい。投稿写真。写真を送るだけなのに、なぜかマトモぢゃない雰囲気が横溢している。新聞の投稿もちょっとまずいような気がする。何がどうまずいのかうまく言えないが、「声」はまずいだろう「声」は。しかし、もっとまずいのが「はがき通信」だ。「秘密戦隊シリーズでいつも女性隊員がピンクなのは男女平等に反すると思います」って、どうしてそんなことわざわざはがき通信したくなるんだそこのお母さん。むろん、載せるほうが悪いことは言うまでもないが。っていうか、ほんとに来てるのかそんな葉書。つくってないか。もう雑誌自体が存在しないから白状するが、俺は女性誌の読者投稿欄を担当していたとき、つくったことが何度もあるぞ。しかし驚いたことに、この「はがき通信」が効いたのかどうか、近々はじまる秘密戦隊の新シリーズ「ガオレンジャー」では、女性隊員が「白」であるらしい。ピンクはなし。ついでにグリーンもなし。ガオレッド、ガオブルー、ガオイエロー、ガオブラック、そしてガオホワイトの5人組である。ピンクをなくすために白を入れ、おまけに白との対比で黒を加えた結果、伝統のグリーンまで消えてしまうとは。はがき通信、おそるべし。

 そんなことより、投稿である。正直に告白するが、俺も中学生の頃、投稿少年だった時期が少しだけあるのだった。『ぴあ』の「はみだしYOUとぴあ」には1回、『ビックリハウス』にはたぶん5回ぐらい掲載されたと思う。「コンポ」(今月のポーズ)というコーナーには、あろうことか兄貴と2人で撮ったツーショット写真まで載ってしまった。投稿写真だ。かなりまずい兄弟である。嗚呼。イヤなことを思い出してしまったものだ。

 そんなわけだから、「投稿」はあまりよろしくない。そもそも、どうして「稿を投げる」のかがよくわからない。投げるなよ、せっかくの稿を。そうか。ポストに投函するから投稿なのか。じゃあ、やっぱメールで投稿なんておかしいよな。だから投稿は禁止。これからは「寄稿」でどうだ。稿を寄せる。おー。いいじゃんいいじゃん。どこかぶっきらぼうな「投稿」と違って、「寄稿」は実に親しげで、奥ゆかしい。ここはやはり寄稿だ。寄稿に決定。最初からそう呼べばよかった。これまで稿を寄せてくださった皆さん、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

 あ。新聞のは「投稿」じゃなくて「投書」か。投稿と投書って、どう違うんですか。原稿用紙に書くのが投稿で、便箋にしたためるのが投書? よくわからない。よくわからないが、投書はヤだな。1通の投書からは、いろんな波紋や厄介事が巻き起こるものだと相場が決まっているからである。「それは1通の投書から始まった」だ。事実、企画段階では存在していたかもしれない「ガオピンク」は永遠の闇に葬り去られた。投書はいつも「告発」だ。「あたしはこんな非道い目に遭ったんですう」と被害者が訴えるのが「告訴」で、「あたしじゃないけど、世の中にはこんなに非道い目に遭ってる人がいるんですよお」と被害者以外の人が訴えるのが「告発」である。被害者じゃないのに被害者ヅラ。そうか。さては何の利害関係もない第三者のくせに「言いつける」のが投書だな。なるほど。だから「声」欄には、トモダチいないくせに先生だけには好かれている優等生(ただし成績は中程度)みたいなニオイが漂っているのか。投書する人が昔そうだったとは言っていない。ニオイの話をしている。高校2年生のとき、体育祭のリハーサルをさぼって柔道部の部室で麻雀をしていた俺たちを教師に「言いつけた」のは誰だったのか。言いつけるなよ。屈強な体育教師に「おめえら何やってんだあああああ」と踏み込まれてものすごく怖かったじゃないか。俺、その半荘にかぎってトップ目だったのにワヤんなってしもたやないか。告訴してやる。

*

 プルルルルルル。プルルルルルル。
おれ「はい。江戸川です」
学研「もしもし、学研のホニャララ(聴取不能)担当の者ですが」
おれ「あ、どうもお世話さまです。でも『ムー』の担当の方が私に何の用ですか」
学研「ち、違います。あの、ジュニア英語教室の担当の者です」
おれ「ジュニア英語教室」
学研「はい」
おれ「どうやら原稿の依頼ではないようですね」
学研「はあ?」
おれ「あれは何年前だったかなー。『高1コース』の仕事したのは」
学研「高1コース、ですか」
おれ「あと、『ドンキホーテ』って雑誌もあったな学研には。3号で廃刊になっちゃったけど、ミステリ書評を書かせてもらったっけ。西孝雄ってペンネームはあのとき初めて使った」
学研「そ、そうですか」
おれ「でもジュニア英語教室なんて知らない。そもそも私は英語が苦手だ。英語のテキストなんか書けない。もし訳文をまともな日本語に直してくれというのであれば、悪いが断る。もう泣きながら仕事したくない。あなたはハーレクインロマンスを読んだことがありますか」
学研「……へ? あの、R太郎くんのお父さまでいらっしゃいますよね?」
おれ「ん? いかにも私はR太郎の父親だが、おたくはどうしてセガレの名前をご存じなのか」
学研「はあ、それは、あの……」
おれ「学研のKさんには年賀状を出したが、まさかそれを見たのか?」
学研「いえ、あのう、えーと、出生届とかお出しになりましたよねぇ」
おれ「当たり前だ。誰だって出す。確定申告の提出期限は一度も守ったことがないが、出生届を忘れるほど私はずぼらではない。確定申告だって、今年は期限を死守する覚悟だ。原稿の〆切だってそうだぞ。今年は守るんだぞ。日誌ばっかり書いてちゃいけないんだぞ」
学研「……はあ」
おれ「それで、出生届を出したことがどうかしたのか」
学研「えーと、その、出生届とかのほうから……お名前を……」
おれ「ちょっと待ちなさい。出生届とか、とは何だ。とかとは。出生届は出生届だ。出生届に似たものが他にあるなんて知らないぞ。あったとしても、そんなもの私は出した記憶がない。出さないといけなかったのか? 私はずぼらな親だったのか? そのせいでセガレはまだ日本人と認められていないのか? もうパスポートだって持ってるのに、これ以上どうしろというのだ」
学研「いえ、そんなことは……」
おれ「それに、おたく学研だろ? 役所じゃないんだろ? 出生届って、誰でも閲覧できんのか? 閲覧できたとしても、電話番号なんて書いてないだろ。ということは、セガレの名前とここの電話番号が記載されている名簿みたいなもんがそこにあるわけだ。それをどう入手したかと私は訊いている」
学研「ん、ん〜〜〜〜〜、い、いやあああああああああああ、あのう、すみません、あたしは会社のほうから電話しろって言われてるだけで、詳しいことは何も知らないんですう」
おれ「詳しいことをご存じないのなら、いい加減な受け答えはしないほうがよろしい。知ったかぶりは後で自分を苦しめることにしかならない。私も日頃から、わからないことはわからないと言うようにしている。お陰で電気が光る理由さえ答えられず、セガレにもバカだと思われているぐらいだ」
学研「はい。すみません」
おれ「そのジュニア教室では、電気が光る理由を教えてくれるのか?」
学研「いえ、こちらは英語教室ですので……」
おれ「そうか。英語か。英語じゃしょうがないな。英語で電気が光る理由を教えてもらっても困る。で、セガレの名前を知り得た経緯を詳しく知っている人間はそこにいるのか」
学研「いやあ、あの、あいにく……」
おれ「じゃあ、いい。ともかく、知らない人にセガレの名前を知られているのは気持ちの良いことではない。私は気持ちの良くない人とはあまり関わらないようにしている。私のことを気持ちが良くないと思っている人とも、あまり関わらせてもらえないが。したがって、どんな形であれおたくと取り引きするつもりはないからそう思いなさい。だいたい、そうでなくても学研のM文庫とはイヤな思い出があるのだ。学研のせいじゃなくて、Mって国際政治学者のせいだけどね。ともかく、そんなわけだから、二度とここに電話をしないよう、他の従業員にもよく言い含めておくように」
学研「はい。わかりました。失礼します」
おれ「わかりました、じゃない。かしこまりました、だ」
学研「かしこまりました。……あのう、もうお切りしてもよろしいでしょうか」
おれ「うむ」

 ふう。かつてないほど会心のゲーム運びだった。俺って、もしかしてヤな奴?

*

 レスター×チェルシー(プレミア第26節ぐらいかなぁ。よくわからんぞ)を観戦。マンチーニだ。10番だ。スタメンだ。かっこいいなー。それにしてもマンチーニとゾラがこんなところで同じピッチに立っているとは。うへへへへ、こりゃたまりまへんなぁ。マンチーニ、全然やれるじゃないか。いくらチェックの甘いプレミアとはいえ、あれだけのブランクを経てあのラストパスの精度は感涙もの。「嗚呼、そこにサラスがいればなぁ」「これが愛弟子のシモーネ君だったらば」と思うシーンの連続である。連続って、その2回しか覚えてないけど。2回も決定機を演出すりゃ十分だろう36歳。試合のほうは、後半開始時にはゾラとポジェがアウト、やがてマンチーニもいなくなって興味半減だった。チェルシーがハッセルバインクのゴールで追いついた直後に勝ち越しゴールを奪われ、2-1でレスターの勝ち。チェルシー戦は中継が少なく、予定されていたカードが雪で中止になったためラッキーにも観戦できたのだが、負けちゃしょうがねーな。最近、ばかすか点を取ってたらしいのに。



2月6日(火)10:15 a.m.
BGM/ Sadistic Mika Band "黒船"

 去年の暮れ、久我山駅前のバーガーキング跡地に松屋ができて助かっている。もちろん松を売る松屋でも百貨店の松屋でもない。牛めし屋の松屋である。吉野屋は牛丼で、松屋は牛めしだ。とくに本質的な違いはないと思うが、そういうものである。どちらかが商標登録してるのかもしれない。朝7時に牛めし屋の松屋久我山店でハムエッグ定食などをかき込んでいると、俺ってまるで場末の人みたいだ、という思いが頭を過ぎるから不思議だ。隣の席では、そんなに食欲があるようには見えない疲れた表情のおっさん(職業不明。非背広組。あ、俺もだ)が、朝っぱらから鉄板でカルビをジュージュー焼いていたりする。場末である。カルビ以上に場末を感じさせる食材が他にあるだろうか。ハムエッグ定食を平らげた俺は牛めし屋の松屋を出て、神田川沿いの遊歩道を仕事場に向かってとぼとぼと歩き出す。向こうから、勤め人やら学生さんやら何やらかんやらが大勢歩いてきて、俺とすれ違う。俺だけが駅に背を向けて歩いているからである。ますます場末に近づいていくような感じ。「場末」と「世界の果て」には何か違いがあるのだろうか。

*

 日本代表の新ユニフォームが発表された。日刊スポーツで見たが、円谷プロとは関係なさそうなので落胆した。ウルトラマンコスモスがよかったのにぃ。ルナモードはシンプルでサッカー向きだ。ブルーだし。ちなみにコスモスの別バージョンは、コロナモードという。色は赤と青で、デザインは左右対称ではなく、カラータイマーを中心とする点対称である。コロナモードは走力、泳力(コスモスは泳ぐのだ)などの点でルナモードを凌ぐスペックを誇っているらしい。だったらいらないじゃん、ルナモード。そんなことはともかく、代表ユニである。肩に幅広の白ラインが入っていて、これが選手を大きく見せるそうだ。そういうもんか。トルシエはんはこの新ユニがお気に入りのご様子で、「フランス代表に似ているが、われわれのほうが攻撃的だ」とコメントしたらしい。この人の言うことは、ときどき意味がわからない。デザインが攻撃的。芸術は爆発だ、みたいなことだろうか。あるいは翻訳がまずいのかもしれないけれど。

*

 今日は、ルーキー投稿者のデビュー2連発。まずは、「東北新幹線E2」さんからです。ちなみにこの方が、某国立大学で政治学を教えてらっしゃる先生です。どうやら江戸川と同い年でいらっしゃるようです。そうかー。俺の年齢って、大学の教壇にも立てる年齢なのかー。考えちゃうなー。何をって、人生を。


Readers' Mail No.105「ジュリアンの分析について」(2/4)

 江戸川さん、いやさ駄筆さん、こんばんは。江戸川さんの「ジュリアン」についての分析、面白かったです。ロランバルトがバルザックの小説を要素分解して読み込んだ「S/Z」という論文を思い起こしました。筒井康隆が「唯野教授の小説作法」で『一杯のかけそば』をネタにパロディにしたやつです。(それを念頭に置いて書いたんだよ、であれば妄言多謝)

 ただ、この項の最後に「深層心理は・・・わからない」といった趣旨のことが書いてありますが、文学理論の世界では「作者」の優位性を否定しているようです。つまり、作者、語り部、主人公を全部切り離すのです。

 そうすると、例えば夏目漱石の『坊ちゃん』は次のようになります。

・作者=夏目漱石=実在の人物=生きていたら、読み方に難癖をつけるかもしれない人
・語り部=『坊ちゃん』という物語世界をつむいでいる人。つまり、あれは毎日の日記ではないのだから、ある時点が経過して語られている。
・主人公=坊ちゃん本人

 で、東大の教授、小森陽一という人は『構造としての語り』という漱石研究の中でさんざん駄筆さんばりに(いや、駄筆さんのほうがちょっと上か)分析をしたあげく、坊ちゃんの語り手は、それから数年してすっかり世慣れした、すなわち一本気を捨てて挫折しちゃった坊ちゃん本人で、彼が昔を懐かしんで語っている、という衝撃の読み込みをしました。要は読み込みにおいては、作者の意図は一応無視してよい、ということですね。

 話はそれましたが、この本を僕に読ませた中国文学専攻の後輩「大陸浪人ウエバル」氏は、現在中国で浪人しており、以下のようなメールを送ってきました。

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 ここ中共は蹴狂の人咲きにぎわう土地でもありまして、日本放送協会にあたる中央電視台のスポーツチャンネル(5チャンネル)では、上は欧州選手権、チャンピオンズリーグ、セリエA、ブンデスリーガ、プレミアリーグなどのヨーロッパの主要リーグから中国職業足球連盟、中国女子足球連盟といった地味なものまで、昼夜を問わずぜーんぶ「免費」ただで放送しており、当然のことながら例のアジアカップも全試合中継されておりました。

 日本隊の漂亮(ピァオリァン)なパスワークは大人気で、電視台のアナウンサー、解説者ともども 感嘆極まりなし、といった絶賛を繰り返しながら、「こういうことが体力の劣る日本でできるのですから、ミル率いるわが中国隊はこれ以上のプレーが必ずや容易に達成できるに違いありません!!」と、結局試合の結果はどうでもいい身勝手な憶測を並べているのには、笑わされました。

 日本隊の人気、関心度、認知度はこのアジアカップでかなり高くなったことは間違いなく、私の知り合いの中国人たちは、勉強のことは脇に置いておいて、「10番のミンポーハオって日本語ではなんて発音するんだ」とか「チョンツンチュンフの頭のパーマは自然かそれとも天然か?」「ガオユエンとかシァオイエとか日本隊は坊さんが多いんだなあ」というへんな質問ばかり繰り返し、うんざりする位でした。ですから例のアプティバの宣伝、こちらで流してもなかなか受けること請け合いで、アイビーエムゴンスーを本格的な大陸進出を目指して考えてもらいたいと期待しているところです。僕も是非見てみたい。(大陸浪人ウエバル)

*

 持つべきものはマイナー(サッカー的に)な土地にいる友人ですな。小生、94年から95年まで、カリフォルニアの大学にいたのですが、寮の中でサッカーファンのアメリカ人院生(しかも40過ぎ)がいて、95年の女子W杯を毎日見ていたり、ヒマがあるとバスケでなく草サッカーをしたりしてました。アメリカ人も侮れません。

 そう言えば、駄筆さんは「書く疲れは書いて癒す」旨のこと、書いてましたよね。僕も激しく共感です。元タイガースの掛布は、野球でストレスがたまるとハードなドライブに出かけたそうです。運転のストレス(というか緊張)は、野球の緊張をほぐすんだそうで、のんびりすればストレスが取れるってもんでもないんですね。僕は本を読むのに疲れると、別の本を読んでリラックスします。なんだか『本の雑誌』の目黒孝二社長みたいですが、本当にそうなんだなぁ。ではまた。(東北新幹線E2)


 あー。あんな駄文に過分なお言葉。もちろん江戸川はたいへんな教養人であるので、ロランバルトもバルザックも筒井康隆も栗良平も踏まえた上で書いてます。ごめんなさい。今、ちょっとした出来心からウソをつきました。ほんとうは、この中で読んだことがあるのは『一杯のかけそば』だけです。女性誌編集者時代、酒乱の芸能ニュース班デスクが目を真っ赤に腫らしながらこれを会社で読んでいたのを思い出す。どうして泣けるんだろう。一杯のかけそば。『ちびまる子ちゃん』でさえ泣ける俺が泣けなかったというのに。俺が泣いた『ちびまる子ちゃん』は、単行本の第何巻かは不明だが、まる子ちゃんが母の日にお小遣いをはたいてお母さんにハンカチをプレゼントしたのに、すでに同じハンカチをお母さんが持っていた、という話である。どうして泣いたんだ俺は。何か、泣くために不可欠なストーリー上の要素を忘れているような気がする。

 ついでに告白しておくと、俺は昔「ハーレクイン・ロマンス」の下手糞な翻訳文をまともな日本語に直す、という絶望的な仕事をしていたとき、夜中にゲラを読みながら、不覚にも赤ペンを握りしめて泣いたこともあった。10代の娘(フィギュアスケートの選手)が怪我をきっかけに父親との絆を取り戻す、という話だ。なぜ泣いたかというと、「それでも、私はきみの父親だ。たった一人の父親なんだ!」という父親の台詞(いや、「きみは私の娘だ」だったかな)に胸を打たれたというわけでは決してなく、たぶん、疲れていたんだと思う。もっともその仕事では、あんまり訳文がひどすぎて泣けてきたことが何度もあったけど。翻訳は、ちゃんと日本語のできる人がやったほうがいいと思う。

 んなことはともかく。なるほど、作者、語り手、主人公を切り離す、わけですか。ふーむ。すると「ジュリアン」の場合、作者=プリプリの中山某、語り手=「ジュリアン」の歌詞世界を紡いでいる人、主人公=「私」、となるわけですね。ふむふむ。んで、小森教授の「坊ちゃん」解釈になぞらえて言えば、語り手はジュリアンとの別離から数年してすっかり傷心の癒えた、すなわちストーカーの本分を捨てて正気を取り戻しちゃった「私」本人で、彼女が昔を懐かしんで歌っている、という衝撃の読み込みが成立する可能性があるってことですか。はあはあ。昔を懐かしむ元ストーカー。懐かしんでないで反省したほうがいいと思う。つまり、文学において純粋な一人称はあり得ないということだろうか。逆か。三人称の不可能性、か。たぶん、ぜんぜん見当違いのことを俺は言っている。人称の話ではない。むずかしいなぁ文学は。よくわかんないや。俺、いちおう文学士なのに。たしか卒業証書にそう書いてあったと思う。もう少し勉強してから出直します。「作者の意図は一応無視してよい」ということだけ、わかりました。これからも無視することにします。

 ところで、「ミンポーハオ」が名波、「チョンツンチュンフ」が中村俊輔であることは前後の文脈から明らかなのですが、「ガオユエン」とか「シァオイエ」は単純に高原と小野のことだと理解していいのだろうか?と思ったので東北新幹線E2先生に確認したところ、やはり高原と小野のことだそうです。坊さんじゃないっつーの。それにしても、中国でそんなに欧州サッカーが放送されているとは。そういえば、以前から疑問に思ってるのですが、サッカー選手(に限らず非漢字文化圏の人間)の名前やチーム名って、彼の国ではどう表記するんでしょうかしら。ダビッツは駄筆じゃないだろうし。オーウェンは応援じゃないだろうし。シメオネは締緒寝じゃないだろうし。C・ロペスもたぶんC・呂比須じゃないだろうし。UEFAチャンピオンズリーグは欧州的王者中王者決定大会、レガカルチョセリエAは伊太利亜足球連盟範疇A、かな。締緒寝って、そこはかとなくセクシーな語感だ。オフェルマルスとかグリエルミンピエトロとか、けっこう困ると思うけどなぁ。ちなみに、ATOK的には「おふえるまるす」は「オフ得る間留守」である。おー。ATOK君も、そう見えてけっこうちゃんと考えてるんぢゃないか。感心感心。たしかに、貴重なオフタイムを得れば誰だって息抜きに海外旅行でもしたいから、その間、家は留守にしがちである。なるほど。なるほど、じゃないですね。ラツィオは「羅墜雄」なんて強そうでいいかも。墜ちてどうすんだ。中国のスポーツ新聞を見てみたい。そのままアルファベットで、なんてことだったらつまらないなー。……あ、先生のほうから「大陸浪人ウエバル」さんに訊いてみていただけませんかねぇ。オフェルマルスの中国語表記。

*

 続いて、「不意唇 虚空(フィリップ コク)」さんからのお便りです。不意唇虚空って、どことなくみだらな感じでいいなー。漢詩の一節みたいだ。五言絶句とかそういうやつ。こちらは学生さんです。アンケートをやってみて、意外に学生さんの読者が多いことがわかりました。もっとも、インターネット利用者における学生さんの占有率と同じぐらいなのかもしれませんが。


Readers' Mail No.106「サッカー観戦者の愚痴」(2/6)

 どうも。以前、愛読者カードでKアナの悪態をつかせて頂いた来年度5年目を迎える学生です。

 僕は、中田が大好きです。だから、中田の所属するローマも大好きだし、たとえ中田が出て無くてもテレビの前でローマの勝利を切に願って止みません。柱谷哲二さんや、石川智徳アナと一緒になって、固唾を飲んでローマの行く末を見守っています。こないだのパルマ戦、バティの2ゴール、見事だったな〜。「バティダブル!」と一人で絶叫していました。……などという寝ぼけた意見が世のマジョリティなのだろうか? そんな訳で、今日はIアナ(今更匿名にするのも阿呆らしいが)の実況についての江戸川さんの意見をお聞きしたく、投稿を試みた次第です。

  僕は、今年はパルマに肩入れをしていて(メールアドレスのアカウントもmbomaにしてしまった)、先日のパルマ・ローマ戦も当然パルマを応援していたわけなのだが、奇しくもIアナの裨益により観戦中にストレスが次第に鬱積してゆき、危うく我が家のテレビを蹴り飛ばすところであった。

 さて、そのIアナの実況の中身を見ていくことにする。ローマのゴール前にパルマがボールを放りこめば「危ない!ローマ!」とのたまい、パルマ先制を受けて「入れられてしまった〜!」と絶叫し、ローマの猛攻をパルマが体を張ったディフェンスで守りきった日には、「敵ながらアッパレと言うしかないですね」などとほざく始末。挙句の果てには「バティダブル〜〜〜!!!」である。終始腹立たしい思いをしながら観戦していたのですが、終いには憤りを遥かに通り越して唖然としてしまった。船越の匂いまでしたぐらい。「敵」って何よ? 誰にとってのどちら様が敵なんだ? 何様のつもりだ、お前は? 鼻白むこと甚だしい。

 何故、ああもローマ贔屓の実況ができるのか? 僕は中田が出ればローマの試合も見たいと思うし、彼を応援する。とはいえ、中田の出ていないローマの試合など面白くもなんともないし(まぁ中田が出ていたら面白くなるかと言えば疑問だが)、微塵も見たいと思わない。だのに、Iアナはさも「ローマを皆で応援しましょう」的な態度で実況に臨むのである。

 解説の柱谷弟がロマニスタなのは別に構わない。実際、金田さんはバーリ贔屓だし、原さんはレッジーナの勝利を願いながらの解説である。だからと言って、果たして実況の人間が解説者に迎合する必要があろうか? そんな実況をする人間は未曾有である。最近は、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではないが、顔まで気持ち悪くて仕方がない。スタジオをイチイチ映さんでよろしい。

 上記したような寝ぼけた意見が世論であって、僕が少数派であれば、少数意見が看過されがちな国に住んでる以上我慢もするが、そもそも「中田が見たい」人や「イタリアのサッカーが見たい」人がわざわざ金を払ってスカパーに加入するのではないのか。そんな人達の為にスカパーはセリエ全試合放送などと気合を入れて視聴者拡大を目論んでいるのではないのか。間違っても「ローマが見たい」人だけのためではなかろう。

 そんな訳で、以前に江戸川さんの日誌でも触れられていたIアナの聞き苦しい愚劣な実況について書き殴ってみました。まだ、W杯の日本戦をKアナが担当した時の懸念(俊輔がセンタリングをあげる度に「スワーブがかかって・・・」とのたまわないか、中田が肉体の強さを見せる度に「すごい!」と叫ばないか、トリッキーなパスを押し並べて「チップキック」と称したりしないか、「いい展開」は何回あるか、など)や、W辺T夫のそもそもアナとしての資質がないのでは(噛みすぎ)、彼レベルの実況なら小学生でもできるのでは、というネタも書きたかったのですが(←書いてんじゃん)、今日はこれで失礼します。(不意唇 虚空)


 ……まぁまぁ、そこまで言わなくても。と、人が怒っているのを見ると自分のことは棚に上げて窘めたりする江戸川なのであった。誰よりも喧嘩っ早いくせに、他の選手がモメているとオトナの顔して止めに入るデニス・ワイズみたいだ。虚空さんのお気持ちは、よ〜〜〜〜〜っくわかります。いや、もう、おっしゃるとおり。だから我が家では、よほど他に見るものがないとき以外、彼の実況する試合は見ません。チャンネルを合わせた瞬間にあのお通夜トーンが聞こえると、愚妻と共に「うわっ」と顔を歪めて小さく叫びつつ、速攻でチャンネルを替えます。本誌にフランスリーグに関する記述がほとんどないのも、そのためです。ローマダービーの実況が八塚アナだとわかったときは、ほんとうに嬉しかった。

 世間のマジョリティが「中田がいなくてもローマ応援モード」かどうかは微妙なところですが、俺は決してそんなことないと思います。少なくともスカパー視聴者という「世間」に限れば、虚空さんや俺のような人間は決して少数派ではないのではないでしょうか。というか、CS視聴者というのは全てが「少数派」だと言ったほうがいいかもしれない。前にもちょっと書いたような気がするけれど、そもそもCSってのは、「みんなで同じ番組を見てテレビ世論を形作る」ような「世間」では成立しにくいメディアだと思うからです。それぞれの視聴者が「マイブーム」の中でチャンネルを選択し、番組を消費する。だからプロ野球だって、パ・リーグ全試合中継なんてことができるわけでしょう。ましてやサッカーファンは、おそらく野球ファンよりも「マイブーム濃度」が高いはず。そのへんのことが、彼にはぜんぜんわかっていないのです。それに対して、さすがに粕谷さんなんかは専門誌を作っているだけあってファン心理がよくわかっているのか、辛口コメントをする際には「イプスウィッチ・ファンの方には申し訳ないんですが……」などという気配りまでしますよね。この国のどこにいるんだイプスウィッチ・ファン。と、思わないでもないわけですが、きっといるんですよ。この国には。イプスウィッチに入れあげている人々が。それが「世間」なのであれば、やはりIアナのスタンスは間違っているとしか言いようがない。あれはプロ野球中継でたまに用意される「副音声の第2実況」にこそ相応しいノリでしょう。

 そんなにイヤならセリエも副音声で聞けばいいんでしょうが、あの「スタジアム・サウンド」というのは、やはり今ひとつ盛り上がりに欠けるのも事実。気に入らないアナや解説者のとき、我が家ではいつも「イタリア語の実況を聞かせてくれればいいのに」と言っています。選手の名前なんか、外国語の実況のほうがよっぽど把握しやすかったりしますからね。ともあれ、実況者が「公正中立」を忘れてならないのは当然のこと。さらに意地悪な見方をしちゃうと、彼の場合、「ローマ戦はスカパーのドル箱」という意識があり(それ自体が錯誤だと思うが)、それを自分がほぼ一手に任されていることに大いなる自己愛(自尊心、誇り)を感じているのかもしれません。たまに現地まで行かせてもらえるし。それで他の試合では見られないほどテンションが上がってしまい、「ろーま、ろーま」「なかた、なかた、なかたぁぁぁぁ」になるのではないでしょうか。ま、「これだけは手放さないぞ」というフリーランスの心理はわからんでもないっすけどね。そう考えると、少し同情してあげてもいいのかもしれない。

 あと、虚空さんの「小学生でも云々」は単に怒りが書かせた過激なレトリックだと承知しているので、それに対する反論では決してないのですが、世の中には本気で「あれなら俺でもできる」と考える人がいます。プロ野球なんかでも「中畑みてーな解説なら、俺にもできらぁ」と言う人は少なくありません。これは俺、ちと疑問であります。同じことを「考える」ことと、「マイクの前で言える」ことは同じではない。そういう人は、いっぺん生放送のマイクの前に立ってみるといいのではないでしょうか。もちろん俺にもそんな経験はないけれど、実際に実況席に座ったら、「中畑程度の解説」どころか、一言もまともに発せられないと思うのであります。内容はどうあれ、放送事故を起こさずに破綻なく喋り続けること。それだけでも、プロしか持つことのできない高いスキルが要求されるはずです。たまに「新人アナの研修風景」なんかテレビで見ると、ますますそう思わされるのであります。原稿のあるニュースだって、時間内にきっちり読むことは至難の業。簡単に見えることが実は難しい。仕事って、そういうもんです。……おっと、これは失礼。相手が学生さんだと思って、ちょっぴりオトナぶっちゃいました。ごめん。許して。

 それにしても虚空さん、「裨益」なんて難しいコトバをご存じなんですねぇ。俺、初めて見た。辞書を引いたら、<ある事の助け・補いとなり、利益となること。役に立つこと。「教育に----するところ大である」「社会を----する」>と書いてありました。へえ。裨益を知ってる虚空さんはえらい。裨益を変換するATOKもえらい。

*

 昨夜は、ナポリ×フィオレンティーナ(セリエ第17節)を観戦。デビュー戦の故障で世間を心配させたエヂムンドだったが、無事にスタメン出場である。古巣との対戦に期待感が高まるが、どうも彼、表情がやさしくなったような気がして物足りない。どっかで毒気を抜かれて来たような感じである。フィオのほうは、なぜかレアンドロ&ミヤトビッチの2トップ。コッパイタリア準決勝を控えての主力温存って話だが、そんなこと言ってる場合なんだろうか。試合のほうは、前半0-0。やたらパスカットの多いガサツな展開である。後半は、睡魔に負けて気絶。「気絶」と「睡眠」って、どう違うんだろう。半ば夢の世界に漂いながら、「エヂ、行け! がんばれ! エヂエヂエヂ!」という愚妻の声を聞く。この人、どうしてこんなにサッカーが好きになったんだろうか。「うわ、入ったぁぁぁ!」との声に覚醒して画面を見ると、後半45分にナポリが決勝点を入れていた。エヂの横パスを受けた何者かがミドルを放ち、トルドがフィスティングしたボールがゴール前に落ちたところを、別の何者かが押し込んだのである。トルドには珍しいミス。あそこは後ろに弾いてコーナーに逃げるべきだった。それができないボールじゃなかった。1-0でナポリ。ナポリには大きな大きな勝ち点3、フィオには痛い痛い勝ち点ゼロであった。この試合でいちばん面白かったのは、八塚アナの実況である。ディ・リービオがドリブルで駆け上がったシーン。「ディ・リービオ、ディ・リービオ、まだディ・リービオ、ずううううっとディ・リービオ……」。それゆけディ・リービオ。世界の果てまで駆け上がれ。



2月5日(月)9:30 a.m.
BGM/ Candy Dulfer "For the love of you"

 ゆうべ、ここ1週間の日誌にまとめて目を通していた愚妻に、「こ、こんなに……」と絶句されてしまった。家族も呆れさせる江戸川日誌。先日も、プリプリ話のあまりの膨大さに唖然(これは変換するのかATOK)とした自称「SILENT READER」の友人某が心配して(?)久しぶりにメールを寄越してくれたしなー。「やめられない、止まらない」があらゆる依存症の特徴なわけだが、読み手に心配かけるとなると深刻だ。いかん。しかしまぁ、心配するな。俺はたぶん正気だ。狂人が自ら発狂宣言することはたぶんないから保障はできんが。狂気は狂人に内在せず、ただ他者の主観世界に存するのみ。……うああっ、CIAとFBIとFIFAとUEFAと略称CAFUから緊急指令を告げる電波が脳にっ。ウソだよん。カフーに命令されたくない。

*

 ラツィオ×レッチェ(セリエ第17節)をライブ観戦。前日のユーベ敗戦で2位タイ浮上のチャンス到来だが、こういうときこそ「おつきあい」しないよう気をつけないといけない。ホームのレッチェ戦は去年も苦労した記憶があるし。……と思っていたら、案の定、攻めても攻めてもゴールが奪えない。前半だけでCKが11本。ヤな感じである。しかし41分、ペナでベーロンからクサビを受けたクレスポが目にも留まらぬスピードで時計回りに反転してシュート。これぞセンターフォワードという感じの先制ゴールであった。しかも「キンコーン」という場内の音を聞いてパルマ×ローマ戦を覗いてみると、パルマが先制しているではないか。「このまま終われば3差に3チーム」の期待を胸に試合は後半へ。ところが52分、レッチェのスローインからゴール前に入ってきたボールを何となくみんなで処理し損ねているうちに、何となくシュートを撃たれて何となく同点。この日のペルッツィはどことなく集中を欠いていた。しかしまぁ、まだ時間はたっぷりある。その後、65分にはまたまたクレスポがやってくれた。左サイドからのパンカロの折り返しに反応してニアサイドに詰め、マーカーを背にしながら右足アウトサイドでゲット。さらに75分にはベーロンもミドルをブチ込んで、念願の「2点差」にしたのであった。安心しつつパルマ×ローマに浮気すると、バティのゴールで同点になっている。やれやれ勝負強いなぁと思ってオリンピコに戻ると、こっちはまたぞろ勝負弱さを発揮し始めた。守りに入ると、どうもいけない。バタバタした挙げ句に、コウトがPKを与えて1点差。どうしてこうなるんだろうなー。と思っていたときに、愚妻が呟いた。「そういえば曙も結局、全勝優勝しないまま引退しちゃったもんなー」。こんなときに、なんで曙のことなんか思い出してんだおまえは。……ああ。ラツィオの勝負弱さを曙の勝負弱さになぞらえているわけね。なるほど。なんとか3-2で逃げ切ったものの、疲れる試合だった。ローマのほうは、バティの連続ゴールで逆転勝ち。ちぇっ。



2月4日(日)

 毎度のことながら、どうもキカイ運が悪すぎる。こんどは新しい電話機の具合が悪いのだ。留守録を携帯に転送すると、携帯で出た瞬間に切れてしまうのである。ソニーのサービスセンターに電話した。電話機につないでいるTAの型番を訊かれたので教えた。「TA(オムロン製)との相性の問題かも」と言われた。なんだそりゃ。じゃ、やっぱり前の電話機も壊れたんじゃなくてTAとの相性の問題だったのか? 同じソニー製品だし。使っていなかった古いファックス(東芝製)を代わりにつないでみたら切れないので、電話機自体の問題だと判断したのだが……やれやれ。壊れたのと同じメーカーのキカイなんか買うもんじゃない。これは江戸川家の家訓にしようと思う。

 というのが、一昨日のことである。んで、きのう修理屋さんがキカイを引き取りに来た。対応が早いのは評価しよう。修理屋さんは、代車ならぬ代電話機を置いていった。修理屋さんが帰った後、代電話機の取説がないことに気づいた。おいおい転送の設定方法がわからんじゃないか。溜め息を漏らしつつ、なんとなく留守電の設定ボタンを押してみた。「用件は、1件、です」と代電話機が女の声で言った。なんで用件が入ってんだ。「日曜日のナンタラカンタラのことですけど、どうしたらいいでしょうか。電話ください」という子供の声が吹き込まれていた。そんなこと俺に言われても。たぶん、俺の前にこれを代電話機として貸与されていた人が受けたメッセージである。その人、ちゃんとメッセージ聞いてから返したのかなぁ。心配だ。でも、取説がないから、メッセージの消去方法がわかんなかったのかも。だったらおまえが消しとけよ修理屋。

 ともあれ、消し忘れられていたメッセージが、「子供は預かった。殺されたくなかったら、明日の朝までに使い古しの1万円札で342億円用意しておくように。警察に通報したらガキの命はないものと思え」とか「あなた、ほんとはそこに居るんでしょ? どうして出てくれないの? アタシ、ほんとに死ぬわよ。ウソじゃないわよ。もう、誰が何と言ったって死んじゃうんだから。化けて出てやるんだから。ガチャッ」とか「もしもしミチコです。お世話になりました。どうか探さないでください」とか「……は、は、犯人は、お、お、おか、おか……プチッ。ツーツーツー」みたいな「用件」じゃなくてよかった。ツーツーツーって、あんた、ちょっと、それ。誰なんだ誰なんだ犯人は。岡本か。岡崎か。岡山県出身の人か。お菓子職人か。それともお母さんか。よその人に言うときは母と言いなさい母と。……これ、ミステリの小ネタに使えそうだな。ヒッチコックばりの「巻き込まれ型サスペンス」ができるかも。留守電版・知りすぎた男。巻き込まれたくない。知りすぎたくもない。ま、身代金の要求を留守電に吹き込む誘拐犯もいないとは思うけど。

*

 アタランタ×ユベントス(セリエ第17節)を観戦。モルフェオというカンフル剤を得たアタランタが真っ向勝負を挑んで白熱の好ゲームに。73分、右からのセンタリングをインザーギが頭ですらし、これがアタランタDFに当たってオウンゴール。ユーベ先制。時間が時間だけに、ユーベが寝技に持ち込んでこのままイチゼロで逃げ切るかと思いきや、その2分後にアタランタが追いついた。セットプレイからロレンツィの放ったヘディングシュートが、「ここしかない」の奇跡的な軌跡を描いてファン・デルサールの指先をかわし、ゆったりとゴールインしたのである。さらに6分後、前がかりになったユーベの隙をついて裏へ抜け出したベントラが冷静に決めて2-1。おお。ユーベが負けた。開幕のアタランタ戦でラツィオがドローに持ち込まれたとき、「他の強豪も食ってくれれば許す」と書いたのを思い出す。許そう。もう、笑って許しちゃう。アタランタえらい。

*

 バルセロナ×ビルバオ(リーガ第21節)をメシ食いながら横目で見る。箸を休めて目を向けるたびにゴールが決まっていた感じ。前半だけでバルサが6ゴールの猛ラッシュである。何やってんだビルバオ。日本×フィリピン戦じゃあるまいし。どうしてそんなことになったのかよくわからないが、バルサはやたらハイテンションで、はじめから「今日は大量点」を目標にしていたような印象だった。後半にも1点入れて7-0。内訳は、ルイス・エンリケ3、コクー2、アベラルド1、オフェルマルス1。リバウドもクライファートもノーゴールで7点は驚きだ。得点したコクー、オフェルマルスをはじめとしてオランダ勢の好調さが目立つ。この連中に加えて、ダビッツやセードルフも調子いいし、スタムも復帰したしで、ファンハール親方としては今すぐW杯予選を再開してほしいだろうなぁ。



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