|Home|投稿欄|バックナンバー|98-99総括|CL観戦記|W杯98|似てる人|異業種サッカー化|愛読者カード|BIP|


江戸川駄筆のサッカー日誌
2000-2001/第17節

→ 続きはこちらのページへ!

2月3日(土)9:50 a.m.
BGM/ Flying KIds "続いてゆくのかな"

 何者かに刺された耳の不自由な女性はアパートの階下に降り、結果的に殺人事件の「第一発見者」となる女性に向かって親指を立てて見せたという。それを「第一発見者」は、彼女が手話で「犯人は男」であることを伝えたと解釈した。……江戸川区で起きた殺人事件は、なんとも本格推理テイストである。いわゆるダイイングメッセージもの。しかし最近読んだ新本格モノに、こんな指摘があった。「被害者が犯人を名指ししてから息を引き取るのは、小説だからこそ。現実には、その時点で被害者はまだ自分が死ぬとは思っていないのだから、ダイイングメッセージなんか残すより、まず何とかして助かろうと考えるはず」というのである。そりゃそうだ。被害者は犯人を知っているんだから、「まだ生きていられる」という一縷の望みがあるかぎり、ダイイングメッセージなんか残す必要はない。病院で手当を受けてから、刑事に犯人の名前なり人相なり性別なりを教えればいい(と、被害者は考える)のである。仮に「もう死んでしまうかも」と思ったとしても、息も絶え絶えの状態で「犯人は男」なんていう中途半端なメッセージを誰かに託そうとするもんだろうか。「犯人は男? 女?」と質問でもされたなら話は別だが。だとすると、この「手話メッセージ」の意味するところは……現実の事件についてこれ以上のことを書くのは差し障りがあるので書かないけれど、ものすごく怪しい。

*

 きのうの朝日新聞夕刊に、ある小学校(中学校だったかな)の校歌をめぐる話が紹介されていた。昔の校歌に男女平等に反する歌詞があると生徒から疑問の声が上がり、それを受けて校歌制作委員会なるものが結成され、新しい校歌が作られた、ということである。まぁ、いかにも朝日が好きそうなネタである。そして、いかにも江戸川が嫌いそうなネタである。ほんとに疑問の声は生徒から上がったのか?と思わないでもないが、それはまあよろしい。問題は新しい校歌の歌詞である。大新聞の一角を割いて掲載するほどのもんか、それ。陳腐で空疎な耳障りの良い言葉の羅列。おまけに「ほんとの自分」とか「やさしさ」とか、虫酸が走りそうな言葉がわざわざ引用符つきで強調されたりしている。なんちゅうか、「委員会」なんかで話し合った挙げ句に多数決でモノを作るとこうなってしまう、という見本だな、ありゃ。作曲をプロに依頼したんなら、作詞もプロに頼めばいいじゃん。「曲は作れないけど、詞は僕たち私たちでも作れる」と考えているとしたら、プロの作詞家に対して失礼である。きのう「ジュリアン」について考えたせいもあって余計にそう感じるのだが、詞にしろ曲にしろ、何であれ創作物なんてものは、個人(あるいはきわめて濃密な信頼関係で結ばれた少数のグループ)の、良い意味で狭くて深くて昏い情熱と思い込みで作られなければ、人の胸を打つような独自の世界観を表現できないもんだと俺は思う。「委員会」なんかでまともな作品が生み出せるなら、誰も苦労はしない。まぁ、校歌なんてどうでもいいっちゃどうでもいいんだけど、作品の出来そのものよりも「みんなで作った」ことに意義を感じているように見えるのが、気に入らない。大事なのは「出来」だ。それを真摯に追求することが、50年も歌い継がれた「昔の校歌」へのせめてもの供養であり、その作詞者に対する誠意というものではないだろうか。

*

 仕事の原稿で「ないるがわのかりゅう」と打ったら、我がATOKは「ナイル川のカリュウ」と変換した。エジプトはナイルの賜物である。古代エジプトとは「ナイルの流れるところ」であり、古代エジプト人とは「ナイルの水を飲む者」のことだ。そのナイル川流域は、紀元前30世紀に最初の統一王朝が成立するまで南北2つの地域に分かれていた。アスワンからメンフィスに至る上流一帯が「上エジプト」と呼ばれていたのに対して、ナイル川のカリュウは基本的に身長を生かしたポストプレイが期待されているものの、彼の場合は意外に小技も使えるので、メンディエータとキリの動き次第では2列目に下がってドリブルも……って、だから「下流」だっつーの。ATOK相手に長々と乗りツッコミしてる場合か。悪くないボケだったけど。学習機能も考えものである。俺が覚えさせたんだけど。この際はっきり言っておくが、カリュウはノルウェイ人だ。所属クラブはバレンシアだ。エジプトとは関係ない。どうせなら、そこまで学習しとかんか。うっかりそのまま送稿しちゃったら恥ずかしいじゃねーか。

*

 なんと、サッキが辞任。はえーなー。たった3週間だ。極度のストレスで動悸と目眩が……ということらしい。ちなみに後任はウリビエリっていう人だ。何者だ。これ以上ないほど陳腐な感想で申し訳ないのであるが、ビエリが瓜を握りしめて吠えている図しか思い浮かばない。いちいち吠えるな。



2月2日(金)11:40 p.m.
BGM/ PRINCESS PRINCESS "PRINCESS PRINCESS"

 おいおい、今日もプリプリかい。そうです。今日もプリプリです。いまプリプリにハマっているのは日本広しといえども俺だけだろう。あー。カラオケ行きてー。行って、「ジュリアン」熱唱してー。

 しかし。俺は今までこの歌が失恋ソングだと思っていたのだが、昨日から何度も聴いているうちに違うような気がしてきた。いや、失恋には違いないのだが、「つきあっていた男と別れた」という通常の意味での失恋ではないように思えるのである。この女、ジュリアンという男と交際などしていなかったのではないか。それどころか、女は当然ジュリアンのことを熟知しているのに対して、相手のジュリアンはこの女の名前はおろか存在すら知らないのではないかと感じられるのだ。

 この女がジュリアンと交際していなかったと思われる根拠の1つは、<恋すると苦しくて諦めようとするけれど 蕾のままこの想い摘むなんてできない>という部分である。恋人と別れたのであれば、いまさら「恋すると苦しくて」というのは違和感がある。これは片思いにこそ相応しい科白だろう。しかも彼女の「想い」は、いまだ「蕾のまま」なのだ。たとえ短期間にせよ交際していた時期があるのなら、すでに「蕾」はいったん花開いていなければおかしい。片思いだからこそ「蕾」なのだ。だが、単なる「片思い」と片づけるには、この女のジュリアンに寄せる思いは濃密すぎる。具体的な「思い出」が語られているわけではないが、女とジュリアンの間には何かしら「片思い以上のただならぬ関係性」が存在するようにしか聞こえないのである。ただし、その「関係性」は2人の共通認識として存在するわけではない。前述したように、ジュリアンが女のことを知らない可能性があるからだ。

 ジュリアンが女の存在を知らないという印象を与える決め手は、歌詞の最後の一節である。<言葉では何ひとつ言えなかったあなたに この歌を贈るわ>……そうなのだ。この女、ジュリアンと言葉を交わしたことが一度もないようにも読めるのだ。だとすると、<あの夜にあなたとめぐり会えたこと それだけでも嬉しいけれど>という部分は、どういう形かは判らないがかなり一方的な「出会い」だったことになる。彼女はジュリアンに「会った」が、ジュリアンは彼女に「会って」いないのだ。事によると、2人の接近遭遇は後にも先にも「あの夜」ただ一度きりのことだったのかもしれない。女が<またいつか会いたいね でももう二度と会えないね>と語りかけている部分も、それを暗示している。女は恋焦がれるジュリアンのたった一回の「目撃体験」を大切に胸の中に秘めながら、ひたすら彼への思いを募らせてきたのだろう。辛苦に満ちた片思いである。その鬱屈が限界に達して、やがて彼女は<あなたのことだけで心が溢れてしまいそう>になり、最終的に<さよなら言わなきゃ>という心境になったのではないか。したがって、ジュリアンは滅多に目撃できないぐらい遠くで暮らしている可能性が高い。ならば、<あなたの笑顔は日毎にそっと滲んでゆく>のも無理はないし、この女が<何もできないままで時間だけが過ぎてゆく>と嘆くのも、<恋しくて痛いほど張り裂けていく心知らずに あなたは今どこで眠るの>と問いかけたくなるのも、当然であろう。

 ここで、この女の正体に関して1つのイメージが浮上する。もう言うまでもなかろう。ストーカーである。それも、身近な人間ではなく有名人をターゲットにする古典的なストーカーだ。そう考えれば、ターゲットがジュリアンなどという日本人離れした名前であることも腑に落ちる。おそらくロックバンドか何かのメンバーなのだジュリアンは。CDをお持ちの方は、主人公がミュージシャンのストーカーだという前提でこの曲を聴いてみていただきたい。かなり怖いはずである。なにしろこの女は、<あなたの仕草を鏡で真似>した挙げ句に、その鏡に向かって<元気でいますか>と話しかけたりしているのだ。これは普通じゃない。普通の人は、失恋してもそんなことはしない。そして、奥居香が<砕けそうな心をまっすぐに大切に あなただけに傾けていた>と歌い上げるとき、そこには変質者特有の得体の知れない闇に覆われた破滅的パワーが生じるのであった。

 また、「会いたいけど二度と会えない」「せめて夢枕に立ってほしい」を根拠とする「ジュリアン死亡説」や、「名前がカタカナ」「言葉が通じない」を根拠とする「ジュリアン=飼い犬説」なども検討に値する仮説ではあるが、死別した相手に向かって「元気ですか」はないと思うし、鏡の前で犬の仕草を真似るのもあんまりだと思うので、却下する次第である。

 さらにこの歌が不気味なのは、登場人物の性別が判然としないことだ。ジュリアンって、どっちかっていうと女の名前のように思えるのだがどうだろうか。主人公の「私」も、ここまでは女だという前提で書いてきたが、そうとは限らない。「私」は男でジュリアンが女かもしれないのだ。もしそうなら、この曲の歌詞はプリプリのメンバーに送られてきた男性ファンの手紙を下敷きにしている可能性さえある。そもそもこのアルバムには、「すり切れたレコードの中で こんなふうに歌うこと夢見た」(ROCK ME)「BABY もっと練習しなくちゃ」(錆びつきブルース)など、歌詞世界にメンバー自身が登場していると思われる曲が多い。『PRINCESS PRINCESS』というタイトルからして、アルバム全体がメンバーを主人公としたストーリーになっている可能性を暗示していると見えなくもないのだ。話を性別に戻すと、実は「私」とジュリアンが異性であるという保証もない。どっちも女、あるいはどっちも男である可能性だってゼロではないのであった。嗚呼。「ジュリアン」は謎だ。でも熱唱したい。

 なお、作詞者の中山某がこの曲の意味に関して何かを語っていたとしても、それは俺の関知するところではない。歌詞の真相は作者さえも知ることのできない深層意識の底に沈んでいるのであり、それは優れた精神分析医か名探偵の手を借りなければ明らかにならないのである。以上。次回の「ラブソング探偵団」は、今井美樹『去年は、8月だった』(アルバム『retour』より)の謎に迫る予定である。この曲はタイトル自体が謎だ。「去年」という主語に対応するのは「1994年」とか「昭和62年」とか「ねずみ年」とか「厄年」とか「ラツィオ創立100周年」とかそういうものであって、去年が8月だったなんてことは普通あり得ない。8月のことを言うなら「先月」だ。しかし『先月は、8月だった』では歌にならないのも事実なのであった。ちなみに今日の日誌、日本音楽著作権協会の承認だか認可だかは受けておりません。いけないんでしょうか。いけないんでしょうね、きっと。ごめんなさい。

*

 タボン・デブールさんから投稿をいただきましたので、下に掲載します。いちいち囲みにするのは手間なので、今後は投稿もこういう体裁で日誌内に挿入することにします。最初からそうしときゃよかった。


Readers' Mail No.104「座高について」(2/2)

 何を隠そう実は私も、かつて「座高タカシ」と呼ばれておりました。忘れもしない高校3年時の(つまり最後の)身体測定、座高測定場で私は有難いことに担当教師に「うむ、全校で五本の指に入るな」とのお墨付きを頂いたのであります。ちなみに身長は全校どころかクラスでも五本の指には入りません。うるせえ。ほっとけ。

 これは想像でしかありませんが、少なくとも戦前の日本においては「座高」は国民の健康状態を把握する上で、また当時の主力産業であった繊維工業の振興上の要請(つまり衣料品のサイズの問題)により、あるいはひょっとしたら軍事的な必要上(塹壕の深さとか)、重要な指標であったのではないかと想像されます(全然説得力ないけど)。

 問題はこの後で、江戸川さんのおっしゃる通り、現在のように何ら積極的意義が認められないにもかかわらず、何故「座高測定」が中止されることはないのか。これは恐らく「座高測定機製造産業」を保護するためなのです。いや積極的に保護する気は政治家にも官僚にも別にないんだろうけど、要するにもし「中止」という事になると関係業界がうるさいから放っとこう、となるのでは。日本中、この手の本末転倒だらけです。それで私も皆さんも飯を食ってるようなもんだけど。

 日航機ニアミス事故の報道を見ていて思ったのは、20世紀が『絶対的人権の追求』の世紀であったとするなら、21世紀は『一般的人権』と『個別的人権』の相克の世紀、という事になるのでは ないか。あの事故に当てはめると、「原因を徹底的に究明して二度とこのような事故の起こらないようにシステムを整備する」のが『一般的人権』の要請で、「大惨事をぎりぎりで回避した英雄的な操縦士が不当に抑圧されたり精神的苦痛を受けることのないよう希望する」という乗員組合の見解が『個別的人権』の主張という事になる。

 そして、20世紀初頭においてはまだ「個人」が政治的にも法的にもあまりにも弱い存在であったことが影響してか、20世紀の絶対的人権の追求の主張はほとんど『個別的人権』の側に偏ったものであったような気がする。そして『一般的人権』は「人権」としての形すら与えられず、「公共の福祉」というテキストに落とし込まれてむしろ人権とは対置される場所に追いやられていた(by戦後民主主義者)様な印象だ。こういった傾向が最も顕著なのはもちろんアメリカ合衆国ではあるが。『個別的人権』に該当する事象としては、未成年者の刑事罰の適用に関する問題とか、現実に自民党のばら撒き景気対策を待望して止まない中小企業の問題とか、私たちが心の奥で「気持ちは分かるんだが何だか違うんでは」と思っている事柄の多くが含まれる。もちろんサッカーとて例外ではあるまい。契約の自由と果てしない報酬増を求めるサッカー選手(およびビッグクラブ)の『個別的人権』は「面白いゲームをリーズナブルに楽しみたい」ファンの『一般的人権』との間で調和を図られなければならない。

 大相撲も同じだ。協会やNHKが人気回復のためにどれだけファンの声を拾っても「相撲茶屋」の話が聞かれないのは何故か。今は協会がどんな話をしてもおためごかしにしか聞こえない。茶屋制度がある限り相撲の観戦がリーズナブルなものとはなり得ないし、階級主義的二重価格制度が存在する限り、近代的スポーツ(あるいはスポーツビジネス)としての要件が満たされることはないのである。…あれ、ひょっとしてサッカーは近代以前に逆戻りし始めているのでは…?(タボン・デブール)


 うーむ。「塹壕の深さ」かー。いやいや、これは説得力がある。身体測定なんて、きっと徴兵検査の名残みたいなもんなんだろうし。それにしても、高校で座高なんか測ったかなぁ。身長さえ測った記憶がない。中学でさえ座高は測ってないような気がするんだけど。高校でもパンツ一丁だったのか? 本誌ではみなさんの「座高体験」を募集しています。

 あと、「顎をデスク表面にくっつけないと(受話器が)耳に届かない」という状況がわかりにくい、というご指摘も受けました。反省。えーと、つまりですね、電話機は仕事で使っているデスク上(左奥)に置かれているわけです。で、腕を伸ばして受話器を持ち上げると、コードが短いもんだから、耳まで届かない。そこで背中を丸めて自分の顎をデスク中央手前に置かれたキーボードのあたりまで下げる(人為的に座高を下げる)と届く。電話機(点A)と、キーボード(点B)と、背筋を伸ばして座っているときの耳の位置(点C)の3点を結ぶ直角三角形ABCを考えていただければわかると思います。デスク表面に床と平行に引かれた線分ABのほうが線分ACより短いので、届くわけです。余計わかんないですか。そうですか。ごめん。いずれにしろ、この問題は壊れた電話機のコードを転用することで解決してはいるのですが。

 タボン氏の言う「一般的人権」と「個別的人権」の相克的な関係については、ゆっくり考える頭の余裕が今はあんまりないけれど、全体的な論旨については「なるほど」と思う。ただ、「公共の福祉」(あるいは公共の利益)を「一般的人権」という言葉に置き換える必要が果たしてあるのかどうか、と思わないでもない。なるほど「公共の福祉」に「人権」という意味合いを付与することで、その価値が人権至上主義者に対しても説得力を持つ(というか、彼らにも否定しがたくなる)ようになるかもしれないが、俺はむしろ「人権」という言葉を使わなければ価値を認められない(つまり「やっぱり人権がいちばん大事だ」とする)ような言論空間に違和感があるので、公共の福祉は公共の福祉と言えばいいのではないか、と思ったりもするのであった。人権概念が発生する以前から(あるいは人権というイデオロギーがあろうがなかろうが)、人間が「みんなのハッピーのために何かを我慢する」(つまりパブリックマインドを持って生活する)ことは当然のように行われていただろうと思うからだ。むしろ「人権」という言葉はこの際脇に置いといて、「公共の利益」対「個人の利益」としたほうがわかりやすくないですか。

 ところで、俺は以前から人権に関して疑問に思っていることがある。それは、地球以外の天体に知的生命体がいたとして、彼ら「異星人」に「人権」があるのかどうか、というものである。あるいは、西暦3700年からタイムマシンでやって来て現代の地球人に危害を加えようとする未来の地球人に、人権はあるのか。とくに自らを「地球市民」と称している人々に、これを問いかけてみたい。

*

 サンダーランド×マンチェスターU(プレミア第25節)を観戦。一応、首位攻防戦とまでは言わないものの、優勝争いの直接対決である。サンダーランドに一矢報いてほしかった。しかしサンダーランドは、前半終了を待たずに頼みのクインが故障退場。かつてのインテルが「戦術はロナウド」だったとすれば、サンダーランドの戦術は「クインの頭」である。戦術なんかなくても勝てるときは勝てるのがサッカーかもしれんが、これはいかにもキツかった。前半を0-0で折り返したものの、後半のキックオフから1分も経たないうちに、センターバックがセンターバックとしてもっともやってはなからないミスを犯す。「ペナルティエリア内での空振り」である。なんでそんなに思いっ切り脚を振らなきゃいけないんだ。「進塁打でオーケー」の場面で2番打者がフルスイングしたようなものである。これをコールに決められて0-1。しかもその直後、テレビで見ているかぎりは意味不明(何があったのか皆目わからない)のレッドカードでサンダーランドは10人になってしまった。実質的に、試合はここでお終い。その後、コールとレイが口喧嘩して一発レッドを食らい、9人対10人になっていた。どんな暴言を吐いたのか知らないが、あれでレッド出すかね。主審は、かつてアーセナル×リバプール戦でカードを乱発して試合をぶっ壊した奴である。この審判、あれ以来いつも作り笑顔を浮かべて「余裕」を演出しているのだが、これがかえって不信感を増幅しているような気がする。不気味な笑顔が、逆に「感情コントロール能力の低さ」を露呈しているように見えるのである。



2月1日(木)12:20 p.m.
BGM/ PRINCESS PRINCESS "PRINCESS PRINCESS"

 誰に向かって何のために報告しているのかよくわからないが、とりあえず仕事は淡々と進んでいるのであった。きのう、四苦八苦しながらようやく最初の1章を仕上げてメールで送稿。「オーケー」の返事をもらい、ひと安心である。どうやら「代打の代打」を告げられることはなさそうだ。しかし、まだ全体の1割が終わっただけ。1枚100円だと、まだ4000円しか稼いでいないことになる。1文字100円なら160万円だけど。すごいなぁ。だって、ぜんぶ終わった暁には1600万円になるんだよ。センロッピャクマンエン。10年は遊んで暮らせるな。どんな暮らしだそれは。1600万円かー。1文字100円の世界って、まるで夢みたいだ。「みたい」じゃないですね。夢である。それも、ひどく世知辛い夢だ(せちがらいって、こう書くのか)。というより、むしろ妄想と呼ぶべきか。躁病患者が抱きそうな妄想だ。が、一度でいいから行ってみたい。大きく翼を広げて、さぁ、あなたも一緒に1文字100円の世界へ! 1枚100円の世界が地獄なら、1文字100円の世界は天国だ。だとすれば、天国と地獄を数値化した場合、そこには400倍の開きがあるという仮説が成立しそうである。天国÷地獄=400。天国=地獄×400。地獄=……もう移項しなくてよろしい。少なくとも俺にとって、天国と地獄とはそういうものだということだ。いささかダイナミズムに欠ける世界観だという気がしなくもない。つまり、人間が小さい。あなたの天国は、地獄の何倍ですか。10倍を下回ると抗うつ剤が必要という説もあります。うそです。どうして俺はこうやって意味のないことばかり書くのか。むなしい。でも、たのしい。

*

 それにしても、出版業界ではいつまで原稿の分量を「400字詰め原稿用紙」単位で勘定するつもりなんだろう。昔からの習慣で、俺も「全部で何枚ぐらい書けばいいっすか?」とか訊くし、新人賞の募集要項なんかも「400字詰め300枚以内」なんて書いてあるけど、誰も使わんだろ原稿用紙。たぶん、文筆業者の原稿用紙使用率は、東京の和式トイレ普及率(それを「普及」と呼ぶのかどうか知らないが)と同じぐらいだと思う。根拠はないけど。もっと多いのかな。わかんないや。しかし、いずれ絶滅することはほぼ間違いない。たぶん和式トイレの絶滅と同じぐらいの時期に。俺なんかはまだ原稿用紙時代の感覚を引きずってるからいいけど、そのうち原稿用紙なんか見たことも触ったこともない世代がライターや編集者になる時代が来るのである。そのとき、原稿の分量はどういう単位で数えるのか。文字数か。いきなり「1章あたり2万字見当で、全部で18万字ぐらいに押さえてください」なんて言われたって、ぜんぜんピンと来ないぞ。だが、字数ならまだいい。「470キロバイトぐらいでお願いします」なんて言われた日にゃ、たぶん俺はその若造を殴ると思う。やっぱ、仮に実物が不要になったとしても、「概念としての400字詰め原稿用紙」は永遠に残しておいたほうがいいかもしれない。

*

 ところで、俺はどうしてプリプリのCDなんか持っているんだろう。自分のことがわからない。でも『ジュリアン』は泣ける。

*

 バレンシア×レアル・マドリー(リーガ第20節)を見る。バレンシアは早くも優勝争いの正念場を迎えただけあって、序盤から全開バリバリ。これをマドリーも受けて立ち、スペインならではのテクニックにプレミアばりのスピード感を加味しためまぐるしい好ゲームであった。前半は0-0。拮抗した展開だったが、後半、GKカニサレスがキャッチできそうなボールを「安全第一」とばかりにパンチングでCKに逃げたプレイが、バレンシア衰弱の遠因になったような気がする。あそこは勢いを殺さないためにも、しっかりキャッチして速攻に転じる意欲を見せるべきであった。その後、クーペルはザホビッチとデシャンを投入するも、とくに効果は上がらず。デシャンって、こういう使われ方してたのか。一方のデルボスケ(やっと名前が覚えられた)は、終盤のムニティス、モリエンテス投入がズバリ的中した。ムニティスが左から上げたセンタリングを、ラウールと巧みにポジションチェンジしてマークを外したモリエンテスがヘッドで強烈なシュート。カニサレスが汚名挽回(?)のスーパーセーブを見せたものの、こぼれたボールをラウールが押し込んで一巻の終わり、である。あー、面白かった。やっぱり倉敷&金子コンビの中継は愉快だ。倉敷さんって、あのスピーディな試合をしっかり追いながら、その間隙に「牡蠣の殻をナイフでこじあけるような攻撃」なんて表現がどうしてパッと出てくるんだろう。誰かさんとはボキャブラリーがたぶん500倍ぐらい違うと思う。天国と地獄よりも差がでかいということだ。

*

 読者の方から要望があったので、「似てる人シリーズ」人気ランキング(1月29日現在。●は江戸川、○は愚妻、◎は読者投稿作品)を発表するのである。ランキングったって、1位タイと2位タイしかないんだけど。よく見たら、トップタイは3つあった。ちなみに、「マンUよりラツィオのほうが強い」と答えた方も、もう1名いらっしゃいましたので訂正しておきます。1人で複数の「似てる人」を挙げた方もいるので、票数の合計とアンケート回答者の数は一致しないが、これでおおよその読者数がバレてしまった。ま、20人に満たないってことである。それでも俺にとっては驚くべき(感動的と言ってもいい)数字だが、メディアの規模としては学級新聞以下ってことだな。しかし、読者ひとり当たりの平均熟読度は、学級新聞どころか杉並区報にも負けないと自負している。


1位(2票)
●ラウールと「青い体験」とか「続・青い体験」とかで兄嫁に弄ばれる少年。
○西澤明訓と新沼謙治。
●シルベストルとひょうたんつぎ。

2位(1票)
●クライファートとKONISHIKI。
○デルベッキオとともさかりえ。
●デルベッキオとジャコメッティの彫刻作品。
●アルベルティーニと自民党の田中真紀子。
●ヌーノ・ゴメスと高見知佳。
●フィーゴとサリーちゃんのパパ。
●吉原宏太と片桐はいり。
◎ファンハール監督と佐渡ヶ嶽親方。
●カシージャスの髪型と柳沢慎吾の髪型。
○コクーと寺田農。
◎中村俊輔の笑顔とヨークの笑顔。
●ジダンとエイトマン。
●レイジハーとアマゾンの半魚人。
○センシーニと不破万作。
◎ソラーノとターミネーター2で起爆装置持ったまま絶命するエンジニア。
○エルナンデスとアフリカ奥地でゴリラの生態を研究している女性動物学者。




1月31日(水)11:50 a.m.
BGM/ Bill Evans "Interplay"

 あなたは座高のことを考えたことがあるだろうか。俺は月曜日の午後から座高のことを考えている。「あなたは座高のことをお考えですか?」という電話セールスを受けたからである。それはいったい何を売りつけようとしているのか。座高計測用の椅子か。それとも、無理なく安全に座高を減らせる奇跡の飲み薬がついに開発されたのか。……ウソである。そんなセールスは受けていない。座高について考えるようになったきっかけは、電話セールスではなく電話機そのものなのであった。日曜日に買った電話機の受話器のコードが短くて使いモノにならず、「うむむ。これでは顎をデスク表面にくっつけないと耳に届かないではないか。座高の低い今時の若者にはこれでちょうどいいとでも言うのか?」と思った瞬間から、座高のことを考え始めたのである。座高。座高か。そうだ、座高だ。座高を測るのをやめてから、もう何年になるだろう。最後に座高を測ったのはいつだったか。俺は、今の自分の座高を知らない。知らなくても不都合はないが、昔はあんなにしょっちゅう測っていた座高が今はわからないというのは、何だか不安である。

 小学生のときは、身体測定のたびに座高を測っていた。しかし座高って、いったい何のために測るんだろう。身長に比して座高の高い奴を「短足」と呼んでいじめる以外、何の役にも立たないような気がする。俺自身、「背が高いんだから座高が高いのは当たり前だ」とか「ぼくの座高が高いのは胴が長いからじゃなくて、お尻のお肉が厚いからなのさ」などと弁明したことが何度もあった。そんなことはともかく、自分の座高をミリ単位で知ったからといって、何かいいことがあるだろうか。知らないからといって困ることが何かあるか。少なくとも俺は、これまで他人に「座高は何センチ何ミリですか」と訊かれたことが一度もない。一度もだ。誰もそれを訊かないのは、訊いても意味がないからだろう。相手の身長を交際や結婚の条件にする人はいるらしいが、座高を条件にする座高フェチ(もしくは短足フェチ)みたいな人は滅多にいないと思う。計測された座高の数値は、ただ粛々と身体測定記録紙の「座高欄」に記入されるだけである。ならば全国規模で集計されているだろうと思うのだが、「小学生の平均身長」や「平均体重」が報道されるのを見たことはあっても、「平均座高」が報道されるのを見たことは一度もない。一度もだ。平均座高。そんなもの計算してどうする。電車や映画館やスタジアムの座席設計に役立てているのか? もしそうだとしても、小学生のデータだけじゃ意味ないじゃん。ともあれ、座高計測は役に立っていない。それは明白だ。

 ならば、小学生時代にわれわれが座高を測るのに費やしたあの時間と労力は何だったのか。律儀にアゴなんか引いて。背筋伸ばして。お尻を後ろの柱にぴったりくっつけて。しかもパンツ一丁で。座高を測るのにどうしてパンツ一丁なのだ。いや、正確を期すならば、むしろパンツこそ脱がなきゃいけないはずなのに。なぜパンツを脱がさない。人権に配慮したのか。人権を守ることと正確な座高を計測することと、どっちが大事だと思ってるんだおまえらは。だいたい、あの座高測定器は何だ。あんな、座高を測定する以外には何の使い道もない役立たずの椅子を大量に生産してまで測らなきゃいけないものだろうか、座高って。すべての小学校に1つずつあるとして、いったい日本には何脚の座高測定器が存在するのだろう!

 今でも小学生が座高を測られているのかどうか、俺は知らない。もし測られているとして、いずれセガレが就学年齢に達したとき、「どうして座高なんか測るの?」と問われたら、親としてどう答えればいいのだろう。それはつまり、計測のための計測、でしかないのか。「モノを測る」ことに向けられる人類の純粋な情熱の表れなのか。なるほど、それはそれでよろしい。無意味にモノを測りたくなる気持ちは、無意味に毎日ウェブ日誌を書き綴っている俺にはよくわかる。無意味なものに価値を認めてこその人間だ。しかし、それならば座高だけでなく、耳の長さや鼻の下の長さや右目と左目の離れ具合や鼻の穴の直径や土踏まずの深さなどなど、いくらでも測れるものがあるではないか。「鼻の穴の平均直径」なんて、けっこう知りたいぞ。鼻穴直径計測器が開発されたら、1つぐらい買ってもいい。ところが、少なくとも俺は、小学校の身体測定で鼻の穴の直径を測られたことが一度もない。一度もだ。なぜ座高だけ測る。座高は謎だ。座高ほど謎めいた寸法が他にあるだろうか。座高測定器メーカー社員(あるいは座高測定器製造職人)の愚痴を聞いてみたい。彼らは、自分の仕事をどう意味づけ、何に喜びを見出しているのだろう。

*

 雪国(山形県)出身のタボン氏より「雪とパブリックマインド」についてメール。<雪国におけるパブリックマインドの形成のされ方というものは、実はその「雪」により規定されるところが大なのではないかと俺も常々考えるのであった><あの国(山形県)では勝手気侭な事では決して生きて行けないのである>とのコメントに、なるほどと得心。たぶん、雪とか噴火とか豪雨とか地震とか戦争とか、そういう巨大で理不尽な脅威にさらされたとき、人には公共心が否応なく芽生えるのである。だとすれば、人間のコントロール下に置かれた過剰に便利で過剰に安全で過剰に快適な都市(養老センセー風にいえば「脳化社会」か)で暮らす人々が公共心を失うのも当然なのであった。早い話、過保護に育てられたガキが自分勝手な人間になるのと同じことか。ところで、昨日の記事にちょっと補足。あらためて井の頭通りを観察して気づいたのだが、特定のマンション前だけ定規で計ったように雪が残っているケースの中には、単に「その建物が高くて歩道に陽が当たらないため雪がなかなか融けない」と思われるものもあるのであった。だって、隣は駐車場だったりするから。考えてみりゃ当たり前である。でも、明らかに隣家の人が「自分とこだけ」雪かきしたと思われるところも、たしかにある。雪かきしないのは、怠け者だからしょうがない。それより、働き者なのに自分とこしか雪かきしない人のほうがもっと問題だと思うのは俺だけだろうか。

*

 ユベントス×ビチェンツァ(セリエ第16節)を見る。ピッポ、持ち味フル回転でハットトリックである。「持ち味」は回転しないですか。そうですね。彼の2ゴール目(チームとしては3ゴール目)は、完全無欠のオフサイド・ポジションにいながら、相手DFが蹴ったために「セーフ」になったもの。彼にとって、あれ以上に強い快感を覚えるゴールはないかもしれない。もっともイタリア人らしいストライカー、かも。試合は、ダビッツのゴールもあって4-0。ダビッツのゴールって、いつ以来だろう。それにしても、ようけ点の入った16節である。上位3チームで計11得点のゴールラッシュは、リーグ戦が風雲急を告げてきたことと無縁ではあるまい。「やる気」と「危機感」の表れ。これがセリエの実質的な開幕戦なのかもしれん。お楽しみはこれからだ。盛り上がってきた。



1月30日(火)10:10 a.m.
BGM/ The Square "うち水に Rainbow"

 世の中には2種類の人間がいる。「働き者」と「怠け者」だ。雪がたくさん降ると、そのことがよくわかる。雪ダルマを作らずにいられないのが「働き者」で、雪ダルマを作らなくても平気なのが「怠け者」である。……ちがうちがう。雪かきをするのが「働き者」で、雪かきをしないのが「怠け者」だ。今朝、まだ雪の消えない井の頭通りを歩いていて、そう思った。歩道の大半はきちんと雪かきされて歩きやすくなっているのだが、ときどきツルツル、カチンカチンの氷に覆われた部分がある。それも、ちょうどマンション一軒分の幅だけ。このマンションが、怠け者の巣窟だ。雪かきをしなかった怠け者の俺に言われたかないだろうが、きっちり自分たちのマンションの前だけ氷漬けになっていることに、彼らは忸怩たる思いってやつを抱かないのだろうか。しかしまぁ、隣の人も隣の人である。そんなにきっちり、定規で測ったように自分の家の前だけ雪かきせんでもええやんか。ついでに隣の分もやってあげたらええやんか。隣のマンションの問題や言うたかて、そこの歩道、自分も歩くわけやし。もっとも、そんなことすると感謝されるどころか「余計なことしないでください」なんて言われかねない程度に、この国は病んでいるような気もするけれど。歩道の雪には、この国のパブリックマインドのあり方が反映されているのかもしれない。線路に落ちた他人を助ける人は、きっと隣の分も雪かきする人なんだろうなぁ。俺だったらどうするだろう。自分の体力や筋力と相談して、「できない」と判断しちゃうかも。情けない。

*

「ラツィオMFファン・セバスチャン・ベーロンが今季終了後、マンチェスター・ユナイテッドに移籍する可能性があるらしい」との報。いちいちこんな噂を信じてるわけじゃないし、「移籍する可能性がある」でも「移籍するらしい」でもなく「可能性があるらしい」という二重留保のついた怪しげな情報なわけだが、そういうレベルの噂が出るだけで十分に不愉快である。ネドベドに加えてベーロンまで持ってくだと? よそのクラブならならともかく、ユナイテッドの草刈り場になんかなってたまるかってんだ。でも、ギグスとスタムくれるなら、あげてもいい。ネスタとスタムの組み合わせって、センターバック業界の最強タッグかも。スタスタコンビだ。相手がザーゴ&アウダイールのブラジルペアなら、15秒でフォール勝ちできそうだ。フォールしてどうする。くれよ。スタム。ただしチャドウィックはいらないよ。ついでに言うと、ネビル兄弟もいりません。……てなことを考えていたら、FAカップ4回戦でユナイテッド敗退の報。ウエスト・ハムえらい。

*

 俺は見なかったのだが、アタランタ×ウディネーゼ(セリエ第16節)を愚妻が観戦したらしい。モルフェオが2ゴールしてアタランタが勝ったとか。出たな放送禁止顔。ルイ・コスタ絶好調のフィオじゃ出番もなかろうと心配していたのだが、いつの間に移籍していたんでしょうか。神出鬼没の選手である。ひょっとしてフリーランス、なのか。



1月29日(月)10:50 a.m.
BGM/ Maynard Ferguson "Big Bop Nouveau"

 ゆうべは、フィオレンティーナ×ラツィオ(セリエ第16節)をライブ観戦。いつもアウエーのフィオ戦は鬼門になるので、今回も「今後を左右する大一番」だといささか緊張しつつ見たのであるが、結果は拍子抜けするようなスコアであった。1-4の大勝。がはは。ご機嫌である。もっとも前半は、そんなことになるとは思いもよらない内容であった。フィオの分厚い攻めに、ラツィオは防戦一方。後藤さんも絶賛の守備能力で事なきを得ていたのだが、フィオの威勢の良さばかりが目に付いていたのである。だがラツィオは少ないチャンスを生かし、35分頃、ネドベドの惚れ惚れするようなボレーシュートで先制。「カキーン」という金属音が聞こえてきそうなクリーンヒットであった。前半は0-1。それでも「ドローに持ち込める可能性大」ぐらいの印象しか持てない前半ではあった。しかし後半のフィオは、いくら何でもDFライン押し上げすぎ。フィオのゴール前には牧場と見紛うばかりの広大なスペースが生まれ、次々と矢のようなラツィオの速攻が襲いかかる。前線へのロングパスが面白いように通るわ、フェイント一発で簡単に抜けるわで、テリム特製「狂気の2バックシステム」も、クレスポ&サラスの好調コンビの前に瓦解せざるを得ないのであった。戦術が強気なわりに、CBの個人能力低すぎ。途中、キエーザのPKで1点返されたものの、クレスポ、クレスポ、サラスの順で計4ゴールである。フィオにとっては、うなぎ登りのテリム評に水を差すのに十分な惨敗であった。攻撃サッカーが調子こいて図に乗りすぎるとこうなる、という見本のような試合。でもテリムには、(ラツィオが勝ったからこその余裕のコメントであるが)これに挫けず今までのやり方を貫いてもらいたい。セリエにも、こういうデタラメが一つぐらいないとつまらない。

*

 マラガ×バルセロナ(リーガ第20節)を観戦。解説は原さんだった。よしよし、いい子だ。しかし試合のほうはお寒い内容で、見るべきところなし。なぜかバルサは最近の迫力がまったく感じられず、スコアレスドローであった。予言者K氏、まさか予習の結果「つまんないから原さんに譲る」とか言ったんじゃないとは思うけど。

*

 某国立大学で政治学を教えてらっしゃるSさんから愛読者カードをいただきました。おお。学者も読んでる江戸川日誌。愚痴(というかボヤキ)まで書いてくださって、ありがとうございました。愚痴の楽園、江戸川日誌。最近このサイトを知り「1日に2〜3回」アクセスしてバックナンバーをお読みくださっているそうですが、ほどほどになさってください。バカが伝染ると困りますので。ちなみにSさんの投票により、「西沢と新沼謙治」が「似てる人」のトップタイに並びました。あと、読調のきっかけを作ってくださったK.Tさんから「似てる人」が届きましたので、下に掲載しておきます。K.Tさんは最近、<原さんの「おーーー」のモノマネ>に凝ってるそうです。鼻にかけるイメージ、だそうです。そういえば友人のYによれば、奥さんのY夫人は「プレミア・ハイライトショーでインタビューを受ける選手の真似」が得意だそうです。まだ聞かせてもらってないけど。みんなマニアックだなぁ。それにしても人はどうして、「似てる人」を探したくなったりモノマネをしたくなったりするのだろうか。


K.Tさんの似てる人シリーズ

●アイマールとダビデ像。



1月28日(日)

 電話が切れてしまうのはパソコンの設定とは無関係で単に電話機が壊れているのだという結論に達したので、吉祥寺ラオックスに新しい電話機を買いに行く。この国の工業デザインはどうしてこんなに貧困なのか、と愚妻と2人で文句たらたら。店頭に並んでいる間抜けなデザインの中から、比較的マシな(というかフツーの)ものを選ぶと、どうしてもソニー製品になってしまう。壊れたのもソニー製だったので迷ったのであるが、毎日目にするものだから不愉快なデザインのものは使いたくない。工業デザイナーたちは、あんな仕事に満足しているのだろうか。愚痴を聞いてみたい。

*

 西澤保彦『依存』(幻冬舎)を読む。西澤保彦を読むのは久しぶりである。『幻惑密室』の頃から少女趣味が前面に出てきたので敬遠していたのだが、これは初期の頃から連綿と続いているシリーズもの。おもしろかった。かつてのミステリ日誌風に書けば、★★★★というところか。ストーカーを依存症の一種として見る着想が新鮮。和田秀樹『痛快!心理学』と併せて読むことをお勧めする(苦笑)。



1月27日(土)10:00 a.m.
BGM/ Miles Davis "Kind of Blue"

 雪である。大雪である。雪景色にはマイルス・デイビスがけっこう似合う。仕事場正面の生産緑地が真っ白できれいだ。関東一円を真っ白に塗り替える場合、業者に頼むといくらぐらいかかるんだろう。その前に、ナニ業者に頼めばいいのかわからんが。よく降る冬である。今夜、スカパーが映るかどうか不安だ。日曜日のラツィオ戦までには止んで欲しい。

*

 W杯の大会名表記、日韓か韓日かでまだモメている。国内表記を「日韓」の順にすることで、どんないいことがあるのか、よくわからない。よその国内表記を「韓日」にさせることで、どんないいことがあるのかも、よくわからない。むしろ日本では韓日、韓国では日韓にしたほうが、われわれ東アジア人の倫理観に適っているような気もする。交通安全のためにもいい。お先へどうぞ、ありがとう。べつに、ノーベル平和賞が欲しくて言ってるんじゃない。サッカー界は、たとえ選ばれても断るべきだ。ノーベル賞よりサッカーのほうがえらいからである。俺様を表彰するとは何様のつもりだ、と言って追い返せばよろしい。話が逸れた。いずれにしても、大会名表記の件は印刷時のQ数(字の大きさ)さえ同じならどっちだっていいじゃないか、と思うけど。漢字でもアルファベットでも字数は同じだから、使うスペースも同じだし。あれは86年だったか、三原山が噴火して住民の避難方法を緊急に考えなければいけないときに、霞ヶ関の役人たちは災害の「名称」について会議を開き、そこで西暦を使うか元号を使うかでさんざんモメていたという。阪神大震災でも、「淡路」を入れるとか入れないとかでモメていた記憶がある。そういうことに費やす時間と労力を「無駄」だと感じない人のことが理解できない。少なくとも、いっしょに仕事はしたくない。



1月26日(金)12:20 p.m.
BGM/ Marcus Miller "Perfect Guy"

 M.Hさんより、アンケートと共に「似てる人」をいただきましたので、下に掲載しておきます。M.Hさんは、「ユナイテッドよりラツィオのほうが強い」と回答した初めての方です。えらい人だと思います。読調をやる前は、読者の7〜8割は友人知人だと思っていたのですが、やってみたらほとんど五分五分だということがわかりました。「こっそり読んでる友人知人」や「アンケート未回答の未知の読者」については把握する術がないけれど。こっそり読まないでくれ。


M.Hさんの似てる人シリーズ

●エクトル・クーペルとピーター・テイラー。
●ロベカルとのスキンヘッド時のエルナン・クレスポ。
●ボリエッロ主審とポール・オースター。
●ローマのトンマーシとティム・バートン。
●セルジオ・コンセイソンとココリコの遠藤。
●金田さんとマモー。
●アリエル・オルテガとリトル・マーメイドの主人公アリエル。


*

 自分がここに仕事の愚痴や弱音を書いていることを正当化したくて言うわけではないのだが、俺はもっといろんな職業人の愚痴や弱音が聞きたい。コピーライターの愚痴、一級建築士の愚痴、編集者の愚痴(これはまあ普段から慣れ親しんでいるが)、マーケティング工学研究者の愚痴、銀行員の愚痴、役人の愚痴、憲法学者の愚痴、ウルトラマンのデザイン担当者の愚痴、『笑点』大喜利の問題作成者の愚痴、金魚鉢メーカーの営業マンの愚痴、などなど。電話セールスしてる奴の愚痴だって、俺は聞きたい。それが日常的にウェブで読めたら、けっこう楽しいだろうと思う。一般に愚痴をこぼすのは悪いことだと思われているが、愚痴はすぐれた自己確認の手段だし、他人の職業を理解するには愚痴を聞くのがいちばんだ。愚痴は、その人の職業観やプロ意識やプライドや野望と表裏一体のものだからである。だから就職活動中の学生さんも、「どの仕事が自分に向いているか」を考えるとき、さまざまな仕事の美点ばかり見るのではなく、その仕事をしている人々の愚痴に目を向けたほうがいいかもしれない。「どの愚痴が自分にとっては比較的マシか」と考えたほうが、現実的な選択ができるんじゃなかろうか。

 どこの古本屋でも見かける『仕事!』(晶文社)という有名な分厚い本があるが、あれも(数ページしか読んだことないけど)要は愚痴の集大成みたいなもんだろう。俺もいつか『愚痴!』というタイトルの本を作ってみたいぐらいだ。たとえば家電メーカー社員の愚痴と重電メーカー社員の愚痴とでは、どんな差異があるのか。八百屋と魚屋ではどうか。ローソンのバイトとファミリーマートのバイトでは、こぼす愚痴に何か質的な違いがあるのか。そして、俺が今いちばん聞いてみたいのは、何といっても「八塚浩の愚痴」なのであった。そりゃ、あんだけ働いてりゃ愚痴もこぼしたかろう。弱音も吐きたかろう。「そうそう。こんなに咳してるのに、誰もアタシに休めって言ってくれないんですよねぇ〜、まさに。」とか言いそうだ。しかも野太い声で。切れ味鋭く。愛くるしい微笑さえ浮かべて。愚痴なのに。

 ……なんだか、『八塚の愚痴』(四六ソフト・本体1400円)というタイトルの本を作りたくなってきた。装幀は平野甲賀先生にお願いしたい。サブタイトルは、『CSサッカー風雲録』か、『マイクが俺を呼んでいる』かな。『サッカー実況者の眠らない週末』ってのもアリかも。ちと気取りすぎでキャラに合わんか。オビの文句は、<東京にいながら欧州時間で寝起きする鉄人アナの、魂の叫びを聞け!>なんてどうでしょう。あるいはデカい字で一発、<ドカンと来たぁ!>とやる作戦もある。この一言で、全国3万人の八塚ファンのハートをワシ掴みだ。いや、むしろ、<あのう……それも私がやるんですか?>とか、<すんません、北中米カリブ予選だけは勘弁してください。>とか、<つまり、寝るなってことですね?>とか弱音を吐いてファンの意表を突くのが本筋かもしれない。あと、推薦文を粕谷さんにお願いして、<……ここだけの話ですが、私は八塚さんが2人いると信じています。>と書かせるという手もあるぞ。そんでもってシリーズ第2弾は、よりマニアックに『東本の愚痴』でどうだ。悪ノリもたいがいにしときなさい。はい。

*

 ナポリ×ウディネーゼ(セリエ第15節)を観戦。エヂムンドだ。背番号は97だ。トレンドに敏感だ。でも、なんで97なんだ。解説は当然、ニッポン随一のエヂムンディスタこと金田さんだ。でも相変わらずバーリ贔屓(試合と関係ないのに最下位の現状を憂えていた)だ。エヂムンドは冴えたパスやシュートで何度も見せ場を作ってさすがの存在感を見せていたが、足を痛めて前半終了を待たずにセサと交代だ。ガッカリだ。ソサのゴールで0-1だ。アモルーゾが不調だったのは、たぶんマイナスのエヂ効果だ。意識過剰だ。こんどのローマ戦はエヂ×バティ対決だ。楽しみだ。解説が金田さんじゃないのが残念だ。



1月25日(木)10:45 p.m.
BGM/ Wayne Shorter "Joy Ryder"

 愚妻から聞いた話。きのうの夕刻、セガレがテレビを指さして、「これ、ぼくちーにゃ? ぼくちーにゃ?」と盛んに言うので何かと思って画面を見ると、そこではボローニャの試合が放送されていたという。あんまり早くからいろんな文字を覚えるのも考えものだ。ま、たぶん「わかりボケ」だと思うが。「おいおい、それはカタカナだって」と母親が突っ込んだかどうかは、定かではない。

*

「ラツィオがヴェレス・サルスフィエルドMFカストロマンを獲得した模様」との報。どうやらアルゼンチン人のようだが、誰だそれ。カストロマン。強そうだ。軍服が似合いそうだ。カとスが逆じゃなくてよかった。引き続きカストロマンエースとかカストロマンレオとかカストロマンガイアとかの兄弟選手も続々と登場してきそうだ。がんばれカストロマン。負けるなカストロマン。……まさかピッチでは3分しか戦えないんじゃあるまいな。

*

 某G舎S嬢から仕事の依頼。S嬢は見知らぬ編集者だが、G舎とは編集者S氏を通じてもう5年以上のつきあいになる。だが今回、S嬢に俺を紹介したのはS氏ではなく著者W氏。なので、同僚のS氏と俺が偶然にも知り合いであることを知らないS嬢は、「実は御社ではこれまで8冊ほど書かせてもらってます」と俺に言われて驚いていた。俺としても、「G舎=S氏」という固定観念があるから、別ルートで仕事が舞い込むと何だか違和感がある。どんな商売も同じだと思うが、その会社から仕事を貰うというより編集者個人に雇われているという感覚のほうが強いから、編集者が初めての相手だと、どうも知らない会社から依頼されたような錯覚を起こすのであった。

 それにしても、人と人はどこでどうつながるかわからないものであるなぁ。今やっている仕事を頼まれたときも、「実はこの著者のY先生にはこれまで2冊ほど書かせてもらってます」と言って、社長に驚かれたっけ。世の中は狭いのである。というか、専業ゴーストライターって意外に少ないのかもしれない。同業者組合作ったら、サッカーやるにも足りないぐらいだったりして。ま、幽霊があんまり沢山いる世の中ってのも健全とは言えないから、それでよろしい。だいたい、きのうも書いたように孤独で憂鬱な(しかも儲からない)商売だから、ふつうは誰もやりたがらないと思う。「それでもライターになりたい人」は大勢いるが、ゴーストライターになりたい人はあんまりいない。人の厭がる仕事をしてる俺はえらい。

*

 このところ、また電話セールスが増えている。コンスタントに、1日1〜2件。多いのは墓地のご案内だ。「お墓のことは考えてらっしゃいますか?」と訊かれて、「考えてません」と答えるのだが、思えばこれも凄まじい質問ではある。墓のことを考える。じっと、目をつぶって、墓のことを考える。じっくり、じっくり、考える。古代エジプトのファラオたちも、こうして墓のことを考えたのだろうか、などと考える。墓を作る生き物は人間だけだよなぁ、なんてことも考える。いずれ墓の数と地球上の人口は逆転するのかなぁ、ということも考える。いや、ふつうに考えたらとっくに逆転してるはずだよなぁ、とも考える。いま地球上に墓はいくつあるのか。人類はそんなに墓ばかり作っている場合なのか。地球全体を墓地にしてしまっていいのか。そんなことになったらサッカーはどこでやればいいんだ。墓のことを考えるのは大変だ。そんなに軽はずみに、「考えてるか」なんて訊かないでほしい。いきなり知らない人に「あなた、墓のこと考えたことある?」って訊かれるのって、けっこう不気味だ(親友に訊かれても別の意味で不気味だと思うが)。それはもしかしたら、「死のことを考えてますか」とか「人生のことを考えてますか」とか「神様のことを考えてますか」とか訊いているのと同じではないのか。なんか、ハカのことを「考えてませーん」と答える自分がバカのように思えてきた。でも、そんなこと、たとえ考えてたっておまえなんかに教えてやらないよん。しかしまあ、墓地のセールスは総じて見切りが早いからいい。こっちの声を聞いた途端に、「あら、まだお早いですよね、おほほほ」とか言って自分から切ってくれるおばさんも多いのであった。勝手に決めるな。

 きのうは、東京電話なんたらかんたらサービスの何とかという男から電話。いきなり、「いつもお電話をご利用いただき、ありがとうございます」と来た。電話は利用しているが、東京電話なんか利用してないぞ。そうやって、すでにこっちが東京電話の「顧客」であるかのように錯覚させる手口が気に入らない。「私はあなたを騙そうとしてます」と言ってるのと同じじゃんか。でも「消防署の方から来ました」と同じで、年寄りとかコロっと騙されちゃうんだろうなぁ。「マイラインがどうのこうの」と言っていたが、「電話を利用していることに関して、あなたからありがとうと言われる筋合いはないです」と言って切った。

*

 マンチェスターU×アストン・ヴィラ(プレミア第24節)を観戦。このカード、暮れの19節でやったばかりなのに、またやってる。プレミアの日程はわかりにくい。スタムが復活していた。彼の場合、「故障明け」というより「修理済み」のほうが似合う。ベッカム休養、スコールズ故障でメンバー落ちのユナイテッドだが、ヴィラは前半、「とにかく点をやらない」の一点張りで専守防衛。0-0で折り返したものの、あまりにも怯懦。こういう戦い方がますますあの連中をつけ上がらせるんだから、もっとちゃんと戦いなさい。……と思っていたら、後半は開始早々からヴィラが乾坤一擲の猛ラッシュを敢行した。最初は油断させておいて突如として牙をむくという、子供でも考えそうな作戦である。しかし子供でも考えそうな作戦というのはあんがい効果的なのであって、事実ヴィラは幾度となくユナイテッドのゴールを脅かした。あれが一つでも決まってりゃあなぁ。「行け」「それ!」「ふぎゃ」「ういっ」などと呻きながら愚妻と共に七転八倒していたのだが、どうしても入らない。そうこうしているうちにセットプレイからG・ネビルごときにあっさり先制ゴールを決められ、さらにはシェリンガムにもやられて2-0。シェリンガムめ。なにがインスティンクト・ストライカーだ。ただのごっつぁん野郎じゃねーか。ふん。どうでもいいが、日誌が長いぞ。仕事をしろ仕事を。



前のページはこちら!



Back to "BIG INNING PROJECT"