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シュレディンガーの猫
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第十四回

クローン人間はなぜいけないか?

― 2003年6月 ―

 2月にDNAの「二重螺旋」発見50周年特集をやったばかりの雑誌『科学』が、4月号ではヒトゲノム解読完了で大特集を組んでいる。

 その最後に、DNAチップ研究所の松原謙一さんと岡崎国立共同研究機構の勝木元也さんの対談が載っている。

 この対談の最後のほうでクローン人間のことが話題に出ている。このページでは、前にクローン動物のことをとりあげたこともあるし(→こちら)、『科学』が二重螺旋特集を出したときにもそれに関連した文章を書いた(→こちら)。今回は、その流れを受けて、このヒトのクローンについて考えてみたいと思う。

 勝木さんは、この対談の最後で、クローン人間の研究は全面的に禁止すべきだと言っている。クローン人間の研究は不妊治療に役立つから全面禁止すべきでないという意見に対しては、クローン人間を作ることは「治療」ではなく、不妊の夫婦が「子どもが欲しいという際限のない欲望を満足させるため」のものにすぎないとしている。それを受けて、松原さんも、治療とは「ネガティブなものをキュアする」ものであって、クローン人間は「改造人間を造る」ということだからまったく違うという。

 私にはこの論理がよくわからない。

 「不妊」とは「ネガティブなもの」ではないのだろうか?

 もしかすると、不妊の夫婦でも、それを「ネガティブ」とは考えない人たちもいるだろう。けれども、何とかして不妊を解決したい、何としてでも自分たちの子どもが欲しいと考えている夫婦もいるに違いないと思う。その人たちにとって、不妊とはやはり「ネガティブ」な問題ではないのだろうか。

 勝木さんは、また「病気なら病気の原因がある。苦痛を排除するのが医療の基本」とも言っている。病気に病気の原因があるのなら、不妊にも不妊の原因があるだろう。不妊を苦痛に感じている人もたくさんいるに違いない。

 不妊でない夫婦が「子どもが欲しい」と思っても、それは「際限のない欲望」ではないだろう。夫婦ならば持っていなければならないとは言わないけど、持っていて普通の願望だと思う。たまたまその人が不妊だからといって、「子どもが欲しい」と思うことが普通の願望でなくなるのだろうか? 「子どもが欲しい」と思うのが、不妊でない夫婦にとってはあたりまえの願望であり、不妊の夫婦にとっては「際限のない欲望」とされる、その根拠は何なのだろうか?

 私自身は、じつは、不妊の夫婦にクローン技術で子どもを与えることが無条件でよいことだとは思わない。現時点でという限定をつければ私も反対である。その根拠は、かんたんに言うと、現時点では体細胞クローン技術は危険すぎるからだ。このことはあとのほうでまた書く。クローン技術をヒトに応用することに反対だというこの二人の先生の立場には、私は全面的に反対というわけでもない。

 私がここで問題にしたいのは、「クローン人間はよくない」とすることの根拠である。その根拠が専門家の先生二人によるこの対談では何も示されていない。

 クローン技術で人間を造ることの「グロテスクさを日本人は理解していない」と勝木さんは言う。しかし、この『科学』という雑誌は、日本語で書かれ、日本で編集され、日本で発行されている。ということは、この雑誌は読者として日本人を想定しているのではないのか? それで、クローン人間を造ることのグロテスクさを日本人が理解していないというのならば、それがどうグロテスクなのかを理解させるのが専門家の役割ではないのだろうか?

 対談者二人のためにつけ加えておくと、この対談は「ヒトゲノムプロジェクトの評価とそれをとりまく環境」というタイトルで行われている長大なもので、このヒトのクローンの話はその最後に出てくる話題の一つにすぎない。対談者二人にとっては「ついでの議論」としての重要さしかないのかも知れない。また、この二人は「ヒトのクローンについての研究は禁止すべきだ」という点では意見が一致しているのだから、対談のなかでわざわざその根拠を深く問う必要はなかったのかも知れない。

 しかし、それにしても、ほんとうに不妊に悩んでいる人たちにとって、クローンというかたちで自分たちの願望を解決する選択肢が残されるかどうかというのは非常に切実な問題のはずである。そんな願望は「際限のない欲望」だからだめだと言ってもその人たちは納得しないだろう。それどころか、クローンでいいからともかく子どもが欲しいという願望を「グロテスク」のひとことで切り捨てられたら、傷つくだろうし、怒るかも知れない。

 「際限のない欲望」と決めつけたり、「グロテスクだ」とひとことで切り捨てたりするのは、専門的知識の裏付けのない人が「感じ」でものを言うときに使う議論のしかただ。専門家ならばこういう「放言」的なもの言いで善悪を判断すべきではないと思う。

 では、クローンで人間を造ることの何が悪いのだろうか?

 「クローン技術で人間を造るのはよいことではない」という考えをいちおう採ることにしよう。その考えはどのように正当化できるだろうか?

 この問題を考えるばあい、クローンで人間を造ることでどんな問題が生まれるかということを考えるのが一つの道筋だろう。

 なお、ここでは、クローンとは、「親」と完全に同じ染色体を持っている子のことを指し、子が生まれる段階で「親」の遺伝子を操作することは想定していない。また、クローンは、「代理母」と呼ばれる人間の女性の体内で胎児になり、代理母から出産されるという、現在の動物の体細胞クローンと同じやり方で生まれるものとする。さらに、人の人権感覚も現在とは大きく変わらないことを前提としている。人を平気で使い捨てにするような人権感覚を前提にすれば話はまた変わってくるだろうが、そういうことは基本的に考えないことにする。

 まず、極端な例として、クローンで人間を無制限に造れると仮定しよう。そのばあいにはやはりさまざまな問題点が出てくることが考えられる。

 まずは、地球上の人間の数のコントロールがきかなくなるという問題点である。

 地球上には自分の子どもや孫をたくさんほしいと思っている人がたくさんいるに違いない。マルサスが論じたように、ただでさえ、人間の数の増えかたは食糧生産の増えかたよりもずっと速いという問題がある。現状でも、食糧、水、石油といった地球資源が全人類に十分に行き渡ってるとは言えない。そんな状態なのに、だれでも自由にクローン技術で大量に人間を作れるとしたら、人間の数が急速に増加して、かえって人一人ひとりが地球資源を十分に使うことができなくなる可能性がある。

 ただし、このばあいにも、人間が増える速度に制約がまったくないかというと、そうでもない。まず、代理母の妊娠期間があるから、そんなに急速にたくさんの子どもを産めるわけではない。代理母の体力の問題もあるから、一人のクローンを産んだらすぐにつぎの子を宿すなどということもできないだろう。一人の女性が一生にどれだけ子を産めるか、子を産みたいと思うかということが一つの制約要因になる。

 また、産業先進国の社会ではただでさえ少子化が進んでいるのだから、そんな社会でクローンが解禁されたからといって、急にクローンで子どもをたくさん産むという動きが始まるとも思えない。また、重要な問題としては生まれてからの子どもを育てる負担の問題がある。子どもを産むことで、子どもの教育費とか、子どもに食わせるメシの費用とか、かなりの費用をどうしても使わなければならなくなる。だから、クローン技術があったとしても、子どもを次から次へと産むことになってしまうとも考えにくい。

 ただ、そういう制約要因があるにしても、だれでも自由にクローンを作れるとしたら、人間の数が自然のコントロールを離れて急速に増加してしまう可能性は残る。だから、これは確かに一つの問題点だ。

 つぎに、クローン技術で大量に人間を産むことができるようになるとすれば、人間の価値が軽くなってしまう。入手しにくいものは価値が上がるし、入手しやすいものは価値が下がる。それが経済の法則だ。クローン技術で人間が入手しやすくなれば、その価値は下がるだろう。つまりは現在よりも人命が軽視されることになるかも知れない。「子どもはたくさん産んで、その中で強い者だけが生き残ればいい」という考えかたが息を吹き返すかも知れない。

 ただ、それでも相手は人間であるから、物を大量生産したばあいのように価値が下がってしまうかどうかはわからない。また、かつて、「子だくさんで、そのうち一人か二人が成功すればいい」というような考えかたが通用したのは、一つは子どもの個性がそれぞれ異なるからだ。クローンだと少なくとも生物的な素質に多様性がないのだから、「たくさん産んで選抜する」というやり方とはあまり相性がよくない。

 また、クローン技術で子どもを産むことができるのであれば、たとえば病気を起こしやすい遺伝子を一つも持たない人間を大量に産むこともできる。人間の遺伝的特質について、わかりやすい基準で判断できるようになってしまうのだ。病気を起こしやすい遺伝子を大量に持っている人間と、病気を起こしやすい遺伝子を一つも持たない人間とのあいだに価値の格差ができてしまうことも考えられる。

 クローン技術を使えば、特定の素質を持った子どもを大量に産むことができる。これも一つの問題点になりうる。

 ただ、これは、動物についてはともかく、人間にとってどれだけ意味があるかは疑問だ。人間の性格や行動のパターンなどは、遺伝的な特質で決まる面もあるだろうが、育つ環境で決まる面も大きいからだ。

 新聞で「ヒトラーと同じ遺伝子の子どもがたくさん生み出されたら」という懸念を読んだことがある。しかし、ヒトラーがあのような独裁者になったのは、挫折した芸術家として第一次大戦後の時代を生きたことが大きく影響している。だから、少なくとも現時点では、ヒトラーのような独裁者を産みたくないのならば、ヒトラーの遺伝子を警戒するよりも、困難な時代に政治が無策ぶりをさらけ出して青少年によけいな挫折感を与えないほうがよほど重要である。

 けれども、クローン技術によって、特定の目的のために、特定の素質を持った人間を大量に造ることが大々的に行われたら、やはり問題を引き起こすだろう。たとえば、従順な性格で体力だけはある人間を、奴隷や兵士として使うために大量に産むとかいう例である。ただ、これは、たとえば、ある環境で「従順な性格」をつくっている遺伝的素質が、環境が変わればぜんぜん別の性格を造ってしまうこともあり得るわけで、あまり有効とは思わない。けれどもあえてそういうことをやろうとする権力者や科学者が現れないとも限らない。あるいは、実験動物のように、ある種の遺伝的特徴を持った人間群を大量に造って医学研究者が観察するとかいう使われかたをする可能性もある。

 別の問題として、クローンは、全員が基本的に同じ遺伝子を持っているので、同じ病原体に弱いとか、同じ病気にかかりやすいとかいう傾向がある。クローン人間が無制限に産まれたとしたら、人間社会のなかでの病気のかかりやすさの比率が変わってしまうかも知れない。もしかすると、非常に治療しにくい病気を発症する人が大量に産まれてしまうかも知れない。

 ここまで考えてきたように、無制限にクローンを生み出せるような状況になれば、それが人間社会に与える影響は大きそうだ。

 では、クローンを産むのに厳しい条件をつければどうだろう。たとえば不妊対策に限るなどという条件である。

 制限をつけているので、地球全体の人口バランスに影響を与えることもないし、人類全体の「特定の病気にかかりやすい体質」の割合を変えてしまうこともない。大量に産むことが可能なわけでもないので、経済的な法則で「人間の価値」が下がってしまうこともない。不妊対策だけに限って認められるのなら、親がその子の「価値」を低く見るいわれはない。また、不妊対策ならば、どちらかの親のクローンということになるだろうから、特定の特質を持った人間が増えてしまうということにもならない。

 このばあいに問題があり得るとすれば、「不妊対策」として技術を開発したとしても、その技術がいつの間にかほかの目的に使われてしまうかも知れないという問題だろう。規制というのは完璧ではないし、規制に携わる人間はまして完璧ではない。最初は不妊対策目的に厳しく制限されていたのが、その制限がいつのまにか名目化し、気がついてみたらいくらでもクローン人間が造られていたということにならないとも限らない。

 ただ、クローン人間を造る技術が、制限をかいくぐってでも手に入れたいような性格のものかは疑問だ。核技術を手に入れて大量破壊兵器を造るのとはわけが違う。生まれてくるのは人間で、人間は育てるのに手間も時間もカネもかかるし、必ずしも期待した方向に役に立ってくれるとは限らない。最初から制限をつけていないならばともかく、厳しい制限が設けられているのにそれを突破してクローン人間が欲しいという人は、そんなに多くは現れないだろうと、現時点では私は考えている。

 もう少し本質的な問題は別にあると思う。

 人はクローンで生まれてきたわが子をかわいがることができるだろうか、という問題である。

 親が子どもをなぜかわいいとかいとおしいとか思うのか。血がつながっている、あるいは、染色体の半分で自分とつながっているということが重要なのか。それとも、自分を頼りにしてくれる子どもだからということが重要なのか。親が子どもに感じる愛情は、ヒトという生物だったらだれでも基本的に同じなのか、それとも時代や文化によって本質的な部分まで影響を受けるのか。個人差はどれぐらいあるのか。

 人間が人間に対して持っている感情には、現在の論理ではなかなか割り切りがたいものがある。不妊の夫婦がクローン技術で子どもを授かったけれども、育ててみたらやっぱり愛情が湧かなかったというのでは困る。また、クローンのもとにならなかったほうの親が疎外感を感じて夫婦仲が悪くなったりしても困し、逆に、同じ遺伝子を持つ者どうしが生理的な嫌悪感を感じていがみ合っても困る。夫婦であり、親子であるから、仲が悪くなることもあろうし、うまくいかないこともあろう。けれども、「クローン技術で子を産んだ」ということが心理的に大きな影響を与えてそうなるとしたら、やっぱりそれはクローン技術の問題として考えるべきことだと思う。

 だから、そういう子どもへの感情の問題に何かのかたちで解決をつけないかぎり、クローン技術を不妊対策に使うことには慎重であるべきだと私は思う。それがいちおうの結論である。

 ただし、クローン技術を不妊対策に使うことを禁止するというのであっても、解決しなければならない問題はある。

 クローン技術以外に不妊を解決する方法がない夫婦に、それでもクローンで自分の子どもを持ってはいけないとなぜ言えるか。その根拠を見つけることだ。それを見つけずに「際限のない欲望」だからだめなどと言ってはいけない。

 現在の日本では、人は基本的に平等であり、差別されないことになっている。とくに身体的な特徴や遺伝的な特徴で差別されてはならないことになっている。

 であれば、不妊の夫婦も、不妊でない夫婦と同じように、自分の血を受け継いだ子どもを得る自由があるはずだ。そういう人権感覚のない時代なら「分を知れ」とか「運命なのだから黙って受け入れろ」とかいうこともできただろう。しかし、現在の人権感覚では、その言いかたは通用しない。どんな技術を用いてもできないことならしかたがない。しかし、クローン技術で不妊の問題が解決できるとして、その解決方法を選択するのを社会なり国家なりが禁止するとしたら、それは何を根拠にするのか。その根拠を見つけなければならないだろう。

 ここまでいろいろと論じてきた。しかし、ここで論じたことは最終結論でもなんでもない。基本的には「こういうことも考えなければならない」ということを並べただけだ。

 最後に現時点での私の考えをまとめておこう。

 まず、現時点での体細胞クローン技術の人間への応用には私は反対だ。

 理由は先に書いたとおりだ。危険すぎるからである。

 羊のドリーなど動物の例でみると、まず、体細胞を、胎児へと成長する「胚」に育てるまでにかなりの率で細胞が死ぬ。つぎに、「胚」が胎児へと成長しても、流産したり死産したりで、やはり生存率が低い。生まれても臓器の異常などで死ぬ確率が高い。さらに、ドリーの例で注目されたように、クローン動物は寿命が短いのではないかという疑問も出されている。クローン動物の胎児によく見られる異常には、胎児が大きくなりすぎるなど、母体に危険を及ぼす可能性のあるものがある(以上、「クローン動物にはなぜ異常が多発するのか?」『ニュートン』2003年6月号を参照した)。

 これは人間に応用するのはあまりに危険である。

 では、人間への応用を念頭に置いたクローン技術の改良を目指すべきだろうか。

 それも早すぎると思う。もしクローン技術の確立をこれからも進めるとしたら、まず動物一般のクローン技術の改良を進めるべきで、それがまず完璧といえるものになってから、あらためて人間に応用するかどうかを考えるべきであろう。

 もちろん、動物についてのクローン技術の研究を推進すべきかどうかについても、ある程度の社会的合意を作っておく必要がある。それを作らないで、いきなり「動物クローン技術ができたから人間に応用するかどうかみんなで考えよう」などという課題が湧いてきても、社会はうまく対応できないだろう。

 そういう社会的合意の積み重ねの上で、人間に応用しても問題のないようなクローン技術ができたら、そのときにそれをどう扱うか社会的な合意を作ればいいと思う。そのときに、たとえば人間へのクローン技術の応用を無制限に認めようという合意ができれば、それはそれでいいのではないかと思う。そういう社会の人間は、食糧問題も解決しているかも知れないし、遺伝子で人間の「優劣」が容易に計られてしまうかもしれないという状況に対する対処のしかたを身につけているかも知れない。だいたい、クローン技術が人間に応用できるような段階の社会では、現在の人間観とはまったく違う人間観が支配しているかも知れない。それはもしかすると「グロテスク」な逆ユートピアかも知れない。けれども、たとえそうだとしても、それは現在の人間が口をつっこむべき問題ではない。現在の社会だって、中世ヨーロッパの敬虔なキリスト教徒が見れば、おそらく神を忘れた言語道断な「グロテスク」な社会のはずだから。

 私たちにできることは、クローン技術がいまどういうことができる段階にあるかに関心を持ちつづけ、それをどう考えたらいいかと考えつづけることだ。

 そのためには、技術が社会に公開されていなければならない。技術を社会に公開させるためには、密室での研究では研究が不利になり、技術を公開したばあいに研究上も得をするような仕組みを作ることだろう。そのうえで、もちろん、社会のなかで問題を考えつづけていくことが重要だ。センセーショナルなトピックばかり追いかけているようでは、社会は技術の進歩をコントロールできなくなってしまうだろう。特許制度のあり方、国の研究費の配分のしかたから、高等教育のあり方、義務教育での教育のあり方、マスコミの報道のしかたまで、いろんなものに関係してくる問題だ。

 これはべつにクローンに限らない。何の技術についても言えることだ。

 技術を開発する専門家の世界と、その技術の影響を受けることになる専門の外の世界とがいい関係を保たなければ、人類は技術のもたらす幸福を十分に享受することはできない。情報通信技術の例を見るまでもなく、技術が社会を変える力はますます大きくなっているのだから。

 そういうことを考えて社会に発言していけるのが、すくなくともこれからの専門家にとっては重要な資質なのではないだろうか。


―― おわり ――