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シュレディンガーの猫
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第十六回

祝祭の時間としての近代、「ポストモダン」の憂鬱

― 2003年8月 ―

 精神病理学者の木村敏氏の『時間と自己』(中公新書)は、「祝祭の時間」という概念を鍵として、私たちの日常に潜むさまざまな時間感覚を読み解いていく試みである。

 ここで「祝祭」というのは、祭りのように日常から離れた状態をいう。何か特別に心が浮き立ったり、神秘的な厳かさを感じたりする状態を指していると考えておけばいい。平日に対する日曜日や祝祭日を考えてもいい。「祝祭の時間」という言いかたにどうしても違和感を感じるようならば、「非日常的な時間」と言い換えてもいい。

 近代社会では時間感覚は大きく二つに分かれている。木村氏の本では「もの」的時間と「こと」的時間と呼んでいるが、ごくかんたんに割り切って説明すると、社会のなかで一様に流れる時間と、一人ひとりが感じる特別な時間である。

 近代の世界では、社会のなかで流れる時間に「特別な時間」はあり得ない。ある人にとっての楽しい夕食の時間も、地球上の別の地域の人にとってはうんざりするような朝飯の時間かも知れないし、ある暦を使う人にとっては神聖な一か月もほかの暦を使う人にはふだんと変わらない一か月かも知れない。社会全体のなかでは、時間は、同じように、一様に流れていくだけである。「特別な時間」があると感じるのは、じつは時間が特別なのではなくて、その時間を特別だと感じるその人の主観の問題だというわけだ。

 しかし、それが私たち一人ひとりが生きている実感に合っているかというと、そんなことはない。嫌いな授業の時間はとても長く感じるだろうし、空き地で遊ぶ子どもたちは時間の流れをとても速く感じるだろう(丸川トモヒロ『成恵の世界』第4巻、72〜74頁を参照……したい人は参照してください)。時間の流れには濃淡がある。短くても強く印象に残る時間もあれば、長いのにその時間に何があったか思い出せないような間延びした時間もある。いつまでも宝石のきらめきのような光を帯びて思い出される時間もあれば、絶対に思い出したくない悪夢のような時間もある。すぐにでも来てほしい未来の時間もあれば、そんな時間は絶対に来てほしくない未来の時間もある。私たち一人ひとりの感覚のなかでは、時間の流れには濃淡があり、それぞれの時間が、好きとか嫌いとか、懐かしいとか速く忘れたいとか、その時間独自の意味づけを持っている。それはけっしてたんたんと一様に流れていく時間などではない。

 社会のなかでは一様に時間が流れることになっているけれども、私たちの生々しい感覚のなかでは時間の流れには濃淡があり独自の表情を持っている。その二つの時間感覚の緊張関係が極端に高まったのが近代という時代の特徴だ。

 近代より前には、自分の属している共同体の祭りの時間などを、世界全体に流れる特別の時間と考えてもかまわなかった。その時間を特別の時間として感じない人間はいないか、いたとしてもそれは野蛮人であってまともな生活のできない連中だと考えてすませられたからだ。だが、近代の世界ではそうはいかない。キリスト教のクリスマスをイスラム教徒が祝わなくても、イスラム教の断食月(ラマダン)に仏教徒が断食しなくても、それがあたりまえと考えなければならないのが近代の世界だ。そんな世界では、時間は一様に無表情に流れていて、その一様な流れのなかに、キリスト教徒はクリスマスに、イスラム教徒は断食月に特別の意味を見出していると考えるしかない。

 一方で、近代の世界では、人間の感覚は自由であり、共同体や社会からある感覚を強制されたりはしないことになっている。だから、どういう時間にどういう特別さを感じたとしても、そのことにはだれも口出ししてこない。人間一人ひとりがそれぞれ自分の「特別な時間」を持っていられるのが近代社会だ。だから、個人一人ひとりにとっての時間感覚もまた近代の世界ではいろいろな制約から解き放たれ、強まっていく。

 私たちは、無意識にであっても、その二つの時間感覚の折り合いをつけながら、日々の生活を送っているわけだ。


 その個人的な時間感覚のなかで、特別に輝かしく感じられる時間が「祝祭の時間」である。

 「祝祭の時間」の感じかたにいくつかの種類がある。そのいくつかの時間感覚は、精神分裂病(最近は「統合失調症」というのが正式名称らしいが、ここでは1982年刊の『時間と自己』にしたがって「精神分裂病」・「分裂病」で通すことにする)、鬱病、癲癇(てんかん)、躁病などにとくに強く現れる。しかし、それはけっして精神病のばあいにだけ現れるわけではなく、精神病者でない者の日常にも存在する時間感覚である。精神病者でない人は、無意識のうちにであっても、他の人の感覚と大きな食い違いを起こさないように自分の時間感覚を処理しているだけだ。

 精神分裂病では自分はいつも「祝祭の時間」の前にいるという感覚がついて回るらしい。木村氏はこの感覚を「アンテ・フェストゥム」的な感覚と呼んでいる。ラテン語で「祭りの前」という意味だ。こういう難しい用語を使うのは、これにあたる日本語の「未来志向」という表現をしてしまうと誤解が生じるからだと木村氏はいう。たんなる「未来志向」なのではない。特別な「祝祭の時間」がこれからやってくるという感覚が重要なのだ。

 「祝祭の時間」がこれからやってくる。その「祝祭の時間」をどう過ごすか考えていると落ち着かない。そして、その「祝祭の時間」が自分に巡ってくれば、すべての問題は解決するはずだと感じる。それが分裂病にとくに強く現れる時間感覚である。分裂病のばあいには、過去に過ぎたことであっていまさら取り返しのつかないことであっても、「祝祭の時間」が巡ってくればそれを変えることができると感じるような時間感覚があるという。「祝祭の時間」は万能なのである。その「祝祭の時間」を待ち遠しく思い、心騒いで落ち着かず、その「祝祭の時間」のなかで、自分が何をするか、そして自分がどうなるかということばかり考えて、「祝祭の時間」に達していないいまの自分についてきちんと把握することができない。分裂病ではその傾向が極端に達しているというのだ。

 この「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」的感覚というのを私は最近強く実感した。私にとってとてもだいじな「祭り」とは何か? いうまでもない。コミックマーケットである。しかも今回は自分が主宰するサークル(アトリエそねっと)のスペースが取れていた。コミケではこんな本を作ろう、そのためにはこういうPOPも作らなければいけないな――などと考えていたら、心は浮き立つけれども、そのぶん、何か非常な焦りの感覚も高まってくる。こんなに時間が速く流れては間に合わないじゃないかと感じる。だからといって、冷静に「これだけしか時間がないから、これはあきらめて、こっちに集中しよう」と考えるわけでもない(ま、最終的にはそう考えざるを得ないわけだが)。時間がなくなって急いで同人誌の原稿を書いたりコピー誌を綴じたりしていると、気分が異様に高揚して、「これだったらこんなこともしよう、こんなこともできるんじゃいか」といろいろと「これからやること」を思いついてしまう(いや〜オマケのハガキを作ろうとかペットボトルに貼り付けるラベルを作ろうとかいろいろ考えたんですよ〜)。そして「こんどのコミケではこれができないと意味がない」などと思いこんでしまう。「祝祭の時間」までに時間がないと感じれば感じるほど、その「祝祭の時間」に向けてやるべきことをどんどん思いつき、心が異様な焦りに囚われてしまうのだ。で、けっきょくそれを実現できるかどうかというと、まったくそういうわけでもない(というわけで、当日は満足な準備もできておらず、店番に来てくださったぺぴさんにたいへんお世話になってしまいました→ぺぴさんのホームページ)。

 あとで考えてみると、コミケット前のあの異様な緊迫感こそが「アンテ・フェストゥム」的な感覚なのだろう。

 この「アンテ・フェストゥム」的感覚に対して「ポスト・フェストゥム」(祭りの後)的な感覚もある。これは、「祝祭の時間」は過ぎ去ってしまって二度と戻ってこないという感覚だ。あの「祝祭」のときにあんなことをしておけばよかった、けれどもその時間は二度と戻ってこないからもう取り返しがつかない、または、あの「祝祭」のときに軽はずみにもこんなことをしてしまった、でもその時間が過ぎ去ってしまった以上は取り消すこともできず、取り返しがつかない――その「取り返しがつかない」という感覚が「ポスト・フェストゥム」的感覚である。

 鬱病ではこの「ポスト・フェストゥム」的な感覚が強く見られるという。まだ起こっていないことについてすら「取り返しのつかないことになる」という予感から逃れられず、この世のすべてのことが「手遅れ」に感じられて病的な憂鬱に陥るのが鬱病の特徴だというわけである。

 ちなみに、私は「買えなかった本は次のコミケで買えばいいや」と思っているし、その回のコミケにしか出ていない限定本というものにもあんまり興味がないので、コミケで「ポスト・フェストゥム」的な感覚を感じたことはない。

 そんなことはどうでもいいって? じゃ、さっさと先に進みましょう。

 この二つの感覚に対して、いつも「祝祭の時間」のなかにとどまっているという時間感覚もある。どんな時間も特別に輝かしい時間なのであり、いまがその時間でないのならその時間にしてしまおうとさえする感覚である。これを木村氏は「イントラ・フェストゥム」(祭りの最中)的時間と呼ぶ。木村氏によれば、この「イントラ・フェストゥム」的な時間感覚は、癲癇病者に強く現れ、躁鬱病(木村氏の使う用語では「両極性鬱病」)の「躁」の時期にも見られるという。

 何度も繰り返しているように、精神病者ではない人にも、この「アンテ・フェストゥム」的な時間感覚や「ポスト・フェストゥム」的な時間感覚や「イントラ・フェストゥム」的な時間感覚は現れる。精神病者でない人は、その個人的な時間感覚を、一様に無表情に流れて特別な「祝祭の時間」など認めない社会の時間になんとかすり合わせて生きているだけだ。


 さて、私は少し前から東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を読んでいる(本ホームページの「東浩紀氏のオタク論を読む」「唯物的オタク論!」などをご参照ください)。東氏は、この本のなかで、現在の社会を呼ぶことばとして「ポストモダン」(「近代の後」)ということばにこだわっている。それが私の印象に残った。

 いや、東氏としては「こだわっている」という感覚はないのかも知れない。東氏が多く参照しているような「現代思想」の方面では現在を「ポストモダン」と呼ぶのが一般的で、東氏はそれを踏襲しているだけなのかも知れない。

 だが、東氏の本を読むと、東氏がこの「ポストモダン」社会に対して苛立ちを感じているように私には感じられてきた。東氏は少なくとも「ポストモダン」を輝かしい時代としては描いていない。

 「ポストモダン」は美しく輝かしい時代として描くことができるはずだ。「近代」にはいろいろと暗いこと、やりきれないことがあった。その暗い側面を振り捨て、やりきれないできごとがたくさん起こった時代としての「近代」から別れを告げた時代として「ポストモダン」を位置づければ、それは古ぼけた暗い重苦しい近代の後にやってきた新しい輝かしい軽やかな時代ということになる。じっさい、もう20年も前に浅田彰の著書が注目されたとき、「ポストモダン」とはそういうものとして感じられていたのではなかっただろうか。

 しかし、東氏は「ポストモダン」が輝かしく描かれることを警戒しているように感じられる。東氏は、ブロッコリーのキャラクター商品や1990年代後半に世に出たゲームの新しさを強調しながら、それが「最先端」でカッコいいととられるような表現を努めて避けている(東氏の議論には、具体例として挙げている作品についての基本的な誤認があると私は考えているが、そのことはいまは論じない)。東氏がこういった商品やゲームを通して描く「ポストモダン」は、むしろ、重苦しい、出口の見えない、やりきれない時代である。

 「ポストモダン」の時代は、物語にしても、キャラクターの表現にしても、意味のある新しいものをなんら生み出すことができない。「ポストモダン」社会の人びとは、感覚を刺激するようなキャラクターの表現や、「出来のいい」物語を強く求める。しかし、それは、「近代」やそれ以前に生み出されたものの転用に過ぎない。それは「ポストモダン」の人びとの認識力が「近代」の人よりも劣っているからではない。東氏の描く「ポストモダン」社会はとてつもない広がりを持っている。その社会は地球や宇宙に空間的に広がっているだけではなく、情報の作り出す空間にも無限に広がっている。その認識の広がりと豊富な情報を活用すれば、とくに深く考えなくても、いまの社会やいまの自分が「いろいろとあり得た状態の一つ」に過ぎないことまで認識することができる。ところが、「ポストモダン」社会の人びとは、「ポストモダン」社会のとてつもない広がりを認識していても、やはりその先には「剣と魔法」のような古典的で陳腐な物語しか描けない。世界に対する認識が拡大しても、人類がその先に進む道が広く開けるわけでもなく、人間性が飛躍的に発展するわけでもない。自分の認識を否定するようなものに出会い、その対立を克服すれば、「止揚」という動きが起こって新しい段階に進むというのが近代の人間観だった。だが「ポストモダン」ではそんなことは起こらない。そんな世界では、人間は与えられた刺激にすなおに反応するだけの「動物」になるしかない。東氏の描く「ポストモダン」社会像を単純化するとそういう姿になるだろう。

 私がこの東氏の「ポストモダン」社会像から感じるのは深い憂鬱の感覚である。

 そして、私は、この憂鬱の感覚が「ポスト・フェストゥム」的感覚に通じるように思うのだ。

 かつて「近代」という時代があった。その時代には、人間の認識が広がるにつれて世界観は変わり、世界観が変われば人間性も発展してきた。その時代には、人間の生きかたはまだまだ環境に強く支配されていたが、人間たちはそのことを自覚し、その支配をはねのけ、逆に環境を支配しようと常に闘ってきた。それが人類の「歴史」を作ってきたのだ。

 だが、そのドラマティックな「近代」という時代は終わった。それが「ポストモダン」の時代だ。いまになって「近代」のドラマティックさを思い起こして懐かしんでも「近代」が戻ってくるわけではない。「近代」のあいだにもっと何か手を打っていればいま見るような厄介な問題も起こらなかったかも知れないけれども、しかし「近代」には戻れないのだ。「近代」は「祝祭の時間」である、しかしその「近代」にはどうやっても戻れないという憂鬱――それが東氏の「ポストモダン」に対する態度から私が強く感じる感覚である。

 もしかするとこれは私の身勝手な誤読なのかも知れない。けれども、いずれにしても、輝かしくて軽やかな「ポストモダン」でなく、重苦しい憂鬱の時代としての「ポストモダン」という感じかたがあり得るというのが、東氏の本を読んでいて私が得た大きな収穫だった。そして、私は、輝かしくて軽やかな「ポストモダン」には何の共感も感じないが、もし東氏がこの憂鬱な「ポストモダン」の前になすすべもなくぼうぜんと立ちつくしているのであれば、その東氏には私は強い共感を感じるのである。


 近代とは、個人一人ひとりの感覚を自由に解き放つと同時に、社会全体を一様で無表情で何のおもしろみもないものが支配した時代だ。「一様で無表情で何のおもしろみもないもの」は、具体的にいうと、近代的な時間感覚でもあるし、またたとえば官僚機構のようなものでもある。その二つの要素が、ときとして対立し、ときとして協調し、ときとして補完しあいながら、近代社会はここまで営みをつづけてきた。情報の氾濫や、それによって起こった人間の認識のとてつもない広がりは、その近代社会の営みの果てにできあがったものだと私は思う。人間はさまざまな情報を得ることで「一様で無表情で何のおもしろみもない」世界が想像の及ぶ限りの世界全体に広がっていることを知ってしまった。それに対して個人一人ひとりがその世界を「特別なもの」と感じる感覚が追いついていくことができるか。「一様で無表情で何のおもしろみもない」世界の感じさせる味気なさや空虚さを、個人一人ひとりが「特別なもの」と感じる感覚で埋め合わせることができるか。東氏が感じている危機意識は、私にはそういうものだと感じられる。

 東氏が現在を「ポストモダン」社会と捉え、その「ポストモダン」に「ポスト・フェストゥム」的な憂鬱を感じているとすれば、私はそれを近代の憂鬱として感じることからまずはじめてみたいと思っているのだ。


―― おわり ――


 《附記》 前回掲載分「唯物的オタク論!」は、修訂・加筆のうえ、WWF刊行の同人誌『WWF No.26』に「「ポストモダン」の憂鬱 ―― 東浩紀氏の「オタク」論の感覚」として掲載しました。今回の文章は、『WWF No.26』掲載に際して新たに書き足した最後の二節を独立させ、さらに大幅加筆したものです。