東浩紀氏のオタク論を読む

清瀬 六朗



 批評家 東浩紀 氏の「オタク」論を、どうやら「オタク」であるらしい私が読んでみるという企画である。

 東浩紀さんという人は、私は最近まで名まえさえろくに知らなかった。「オタク」について発言している人のなかになんかそんな名まえの人がいるというぐらいのぼんやりした認識があっただけだ。

 私は、自分が「オタク」と呼ばれることについては、これはしようがないと思ってはいる。けれども、自分で自分が「オタク」だと宣伝したいとは思ってはいない。さらには、その「オタク」というのが現代の世界やら社会やらのなかでどんな存在なのかという議論になど何の関心もなかった。「ほっといてくれ」というのが正直な気もちだった。

 ところが、私の属しているサークル WWF で「萌え」について考察することになって、その考察のためのテキストとして東氏の『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』を読むことになった。

 正直に言おう。最初、流し読み、飛ばし読み気味に読んでみたときには、この本がさしておもしろいとは思わなかった。「どうもピンと来ない」というのが第一印象だった。たしかに、「オタク」をただ外部から見て一方的な論理で切り捨てた議論でないことはわかった。それどころか、私はこの著者 東氏のオタク的な知識の深さに感服した。太刀打ちできないと思った。この本は、「オタク」の実態になるだけ即して書こうという姿勢で書かれた、こう言ってよければ「オタク」内在的に書かれた「オタク」論と言ってもいいように思う。

 でも、それでも最初は「だから何なの?」という気がしたのだ。「オタク」を論じるのに「ポストモダン」だの「動物化」だのいう「現代思想」用語を持ちこまれても、ただ面倒くさくなるだけじゃないか。そんなことを感じたし、じつはそれはいまも感じている。

 けれども、東氏がどんなふうに論理を展開させようとしているかということを、少し詳しく読んで追いかけてみると、それはそれなりに私の興味を惹くところをいくつも見つけることができた。

 だったら、ちょっとていねいめに読んでみようじゃないかと思った。そして、そのちょっとていねいめに読んでみたときのノートがここに載せた文である。

 最初はとりあえず『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)から入ってみようと思う。手許には、もう一冊、笠井潔氏とのネット上での対論集『動物化する世界の中で』もあるが、そこまで手が回るかどうかは疑問である。

 では、とりあえず、幕を開けるとしよう。


つづき




はじめに 1. 2. 3. 4. 5.