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シュレディンガーの猫
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第二十回

こんな景気回復でいいのか?

― 2003年10月 ―

 半年ほど前に、「創造的破壊は起こるか?」と題して、近所の立ち食いそば屋がつぶれた話を書いた。そしたら、こんどは、頻繁に食いに行っていた近所のラーメン屋の様子も何かおかしくなってきた。ちょっと見たところ、客の入りも以前とあまり変わらないし、スープの味も落ちていない。しかし何となく店に活気がなくなってきた。ときたまに、ではあるが、店に入ると全体に疲れたような雰囲気が漂っていて、ラーメンを食っていてもぜんぜん落ち着けないことがある。昔からいる店員さんにきいてみると、今年になって急に売り上げが落ちたという。しかも、近所の店が軒並みそうだという話だった。

 もう一軒、そこから少し離れたところにあるラーメン屋も、今年に入って店のスタッフと内装を大きく変えてリニューアルした。でもやっぱりリニューアル前よりよくなったとは思えない。リニューアル前は半分の店員が外国人だったのが、全員日本人店員になった。しかしサービスの面ではかたことの日本語しかしゃべれなかった外国人店員と大差がない。なんでもいいから半分が熱くて半分が冷たいシュールレアルな煮たまごなんか出すな!

 ラーメンと立ち食いそばにしか関心がないように思われるのは不本意なので、もう一つ例を挙げよう。

 そのラーメン屋とか立ち食いそば屋とかからは少し離れたところに小さい本屋があった。そこの本屋には、ベストセラーや売れ筋のビジネス書や学習参考書のほかに、みすず書房や岩波書店の学術書が並んでいる棚があった。また、新書の棚が大きくとってあり、朝日選書、新潮選書、講談社選書メチエなどの、ハードカバー専門書と新書との中間的な性格の本もたくさん置いてあった。

 専門書なんかネットで買えばいいじゃないかという人もいる。しかし私はネットで本を買うことはほとんどない。やはり手にとって内容を見て買いたいと思うからだ。だから、遠くの大きな本屋に行かなくても専門的な内容の本が買えるここの本屋はけっこう重宝していた。

 ところが、ここの本屋も、しばらく行っていないうちにつぶれて、別の本屋のチェーン店に変わっていた。棚からは、専門書や「選書」の類や版元への返品のきかない岩波文庫は消えていた。どこにでもあるような何の変哲もない小さな本屋に変わっていた。

 少なくとも私の住んでいる近所に関するかぎり、おもしろい、個性的な店は減って、どれも同じような品揃えの店ばかりが並ぶ街になってしまった。

 これが、景気が上向いてきただの、構造改革が進みつつあるだのいうことの正体であるらしい。


 今年の春ごろまで経済論は悲観論が圧倒的な優勢を占めていた。なかには、日本経済の基礎的条件(ファンダメンタルズ)は悪くなく、経済の見通しは明るいと主張しつづけている論者もいたが、かなりの少数派だった。日本経済はデフレに(おちい)っており、まずデフレから脱出しなければならないが、それは現在の政府の金融政策では望み薄だという議論も強かった。また、デフレは100年単位で見た世界史的経済変動がもたらしたものであり、デフレから離脱することは不可能で、私たちはデフレとともにこの先の何十年を生きていかなければならないのだという宿命論めいた議論もあった。それが半年も経たないうちに景気回復である。いったいどうなっとるんじゃ?

 阪神タイガースだったら、オープン戦連敗でペナントレース始まってから絶好調でも、その逆でも、いっこうに驚かない。タイガースとはそういうチームだからだ。でも経済談義がこんなのでは困るだろっ?!

 日銀総裁がいまの福井総裁になってインフレ期待が醸成され、デフレが止まったという話もあるが、そんなかんたんにインフレ期待が起こるものなのか? また現実に起こっているのか、インフレ期待なんてものが? インフレターゲット論者が提示していた政策は、もっと非伝統的で過激で、こう言ってよければ悲壮なものだったはずだ。ヘリコプターから札束をまき散らすような(そういえば『ギャラクシーエンジェル』でありましたなぁ、そんな話)政策でもとらないとデフレは止まらないんじゃなかったっけ?

 起こっていることは単純なように思う。アメリカの株価が回復した。それにつられて日本の株価も回復したのだ。日本人投資家が日本経済の先行きに不安を持っている段階で、外国人投資家が日本株をどんどん買っていた。

 りそな銀行の処理策が発表されたとき、日本の経済世論の反応はあまり肯定的なものではなかった。同じようにメガバンクの処理が行われればさらに経済は落ちこむという予測もあった(もちろんいまもある)。少なくとも、りそな銀行に対する政府の処理策が、「政府は銀行をつぶすような強硬措置はとらない」という意味で投資家に安心感を与え、それによって銀行株が劇的に買われて株価が上昇することを予測した専門家はそんなに多くなかったと思う。ところが実際にはそうなった。小泉‐竹中ラインは、口では強硬な構造改革を主張していても、実際には破滅的なまでの強硬策は採らない。その安心感で株価が上昇したというのが、株価上昇が起こってからの小泉‐竹中経済政策への評価である。

 りそな銀行処理策で外国人投資家が「構造改革」がどこまで徹底的に行われるかという「見切り」をつけたのだ。これで銀行株そのものが安心して買えるようになった。また、銀行がつぶれて、銀行にカネを借りていた企業がいっしょにつぶれるということも起こりそうもなくなったので、銀行以外の企業の株も安心して買えるようになった。それで外国人投資家が日本株を買うようになり、それに日本人投資家も追随し、その結果、東京市場の株価が上がった。

 一般の企業に対しても、リストラで業績が改善されたとか、リストラを進めて「筋肉質」の経営になったとかいうことで、肯定的な評価が目につく。

 でも、ほんとにいいのか、それで?


 不安に思う点の第一は、アメリカ本国の景気回復の確かさがどの程度のものかという点である。

 日本の株価はアメリカの株価に連動して動いている。これはべつに日本だけではない。アジアの他の市場でもヨーロッパの市場でも同じような傾向はあった。「グローバル化」の進展のおかげで投資家は国際的に株を売り買いしている投資家が多くなった。日本とかイギリスとかドイツとかの一国単位の株価はその国の経済情勢だけでは決まらなくなっている。逆に、株価を通じて、他の国の経済情勢が一国の経済情勢を左右できる状況になっているのだ。そのような相互作用のなかで優勢な立場を保持しているのがアメリカ合衆国である。

 春先のアメリカの株価の下落はイラク戦争の先行きが不透明だったことによるものだ。もっとさかのぼれば、アメリカの株価がいまのように劇的に落ちたのは九・一一テロ後のことだ。もっとも、九・一一テロ以前からアメリカの株価は下落傾向にあったから、テロばかりが株価下落を決定したわけではない。しかし、九・一一テロ以後、反米テロとアメリカの軍事行動をめぐる情勢がアメリカの株価を決める重要な要素になったのも確かだろう。

 だから、イラク戦争がアメリカの勝ちに終わりそうになってからのアメリカの株価の動きにはその軍事情勢が反映していると見るべきだ。

 ということは、イラク情勢が悪化すれば、それはアメリカの株価を再び下落に転じさせる要因になる。アメリカは、そのときにアメリカだけが費用と損害を受け持たずにすむように他の先進国にも負担を分担させようとしているが、ヨーロッパ諸国は慎重である。

 イラクの「復興」がそうかんたんに進むのか、イラクの民間に散らばった武器の回収にどれだけ時間がかかるのかは、私にはまったく予想がつかない。泥沼化するかも知れないし、じつは報道されている襲撃事件などはごく一部で起こっていることに過ぎず、まもなく混乱は収拾できるのかも知れない。だが、どちらにしても「復興」は遠そうであり、「復興」がなし遂げられないかぎり、混乱へ逆戻りする可能性はいつも残っていると考えておいたほうがいい。イラクより前にアメリカが「復興」に取り組んでいたはずのアフガニスタンでも、地方には軍事勢力が居すわっている状態で、ようやくその軍事勢力の武装解除に着手したという状況だ。フランスやドイツの反対にもかかわらず、アメリカがイラクでの軍事行動を急いだのは、アフガニスタンの「復興」が進んでいないことから世界の世論の目をそらすためだったと勘ぐりたくなるほどである。しかも、パレスチナ情勢がさらに悪化すれば、周辺諸国の情勢が一挙に流動化し、アメリカに新たな不安要因を突きつけないとも限らない。

 不安定要因はそれだけではない。いまのアメリカ経済自体にどれだけ力があるかというところに不安な点がある。アメリカ企業の業績が下方修正されたり、粉飾会計のような大スキャンダルが発覚したりすれば、それをきっかけにアメリカの株価の下落傾向が復活するかも知れない。九・一一テロ前のアメリカの株価下落傾向はそういう要因で引き起こされていたものだ。

 1990年代のアメリカ経済は情報通信(IT)産業に引っぱられるかたちで絶好調に発展した。それでも製造業などの在来型の産業の不調は解決されないままだった。情報通信産業の好調で在来型産業の不調を力で押し切ったようなものだ。今回は当時の情報通信産業ほど強力に経済復興を引っぱっている新興産業はないように見える。1990年代のアメリカ経済が持っていた力強さは期待しないほうがいい。


 第二に、それと関連する点で、日本企業の回復の力強さがどの程度のものかということだ。

 リストラで日本の企業は回復を果たしたと言えるかも知れない。けれども、アメリカと同じように、日本でも力強く産業全体を引っぱっていく新産業が生まれたわけではない。松下など「V字回復」に成功したとも言われているが、もしかすると、ハードディスクつきDVD録画機が売れているのに大幅に助けられているのではないかという気もする(すいません私も買いました。松下のじゃないけど……。これってけっこう「おたくコンシャス」な製品だと思います)

 いずれにしても、当面はアメリカと同様に情報通信産業に手を加えて少しずつ改善しながら進んでいくしかないだろう。ナノテクノロジー(超微細技術とでも訳するのか?)でもバイオテクノロジーでもなんでもいいから、次に技術的な急激な躍進が起こって産業の牽引役になるまで、それで息切れせずに耐えていくことができるかどうかだ。けっこう長期戦になるかも知れない。


 第三に、もっと本質的な問題である。

 最初に書いたことだ。こんな景気回復でいいのか、という問題である。

 今回の景気回復はあまり人を幸せにしていない。アメリカでも今回の景気回復は「雇用喪失を伴う景気回復(ジョブロス・リカバリー)」などと呼ばれているそうだ。1990年代の景気回復は、期待されたほど雇用回復に結びつかなかったので「雇用なき景気回復(ジョブレス・リカバリー)」と呼ばれた。今回はそれより悪い。

 日本も「ジョブロス・リカバリー」の様相が濃厚である。「事業構造の再編成(リストラクチュアリング)」の名目で人を減らして景気回復したのだとすればそうなってあたりまえだ。

 失業者はあいかわらず多い。仕事している人の仕事の内容も変わっている。将来まで生活の保障のある仕事は減っていて、臨時雇いや派遣などの将来の生活を計ることのできない仕事が増えている。だから、「将来まで生活の保障のある仕事」を失った人の率は発表されている失業率より高いはずだ。加えて失業率の計算では「最初から仕事を探すことをあきらめている人」は失業者に数えられない。若い人たちの就職難もつづいている。「フリーター」として働く若い人たちのなかには、ほんとうは定職に就きたかったのだけれどもどこも採用してくれなかったのでやむを得ず「フリーター」として働いているという人がかなりの数いるはずである。

 で、だ。情報通信技術の導入で仕事が効率化され、人間がやらないといけない仕事の全体量が社会全体で減っているから、失業者が増えている、というのなら、まだわかる。

 ところがそうではない。一方では、こなしきれないほどの仕事を抱え、家庭も顧みないで夜遅くまで働かなければならない人がたくさんいる。職場のリストラで人減らしが進み、しかし仕事の全体量はそれに見合うほど減っていないので、職場に残った人たちに仕事が集中しているのだ。

 この社会でこのまま景気が回復したらどうなる?

 職場に残った人たちにさらに仕事が集中するばかりである。その人たちは、否応なしに「働き過ぎ」にならざるを得なくなる。それ自体が幸福なことではない。それに、健康を害したり、家庭生活がぎすぎすしたものになったりして、ますます不幸になってしまう人も出そうだ。

 仕事をすることが必ずしも不幸につながるとは言えないが、リストラ後の職場に残った人たちであれば、自分のしたいわけではない仕事や明らかに適性にあっていない仕事を押しつけられることも多いし、だからといって将来のことを考えれば会社を辞めることもできないという苦しい立場にいるわけだ。それに「仕事があるだけ幸せだと思え」と説教したって聞いてもらえるわけがない。一方で、「リストラ」を進める会社側がそうかんたんに人を増やすとも思えないし、たとえ採用したとしても臨時雇いや派遣や期限つきの雇用だろう。失業している人や就職口を探している若い人たちが大いに幸せを実感できる状況でもない。けっきょく大多数の人に何の幸福感も与えない景気回復になってしまう。

 しかも、「人減らし」自体が目的となった「リストラ」は、長期的に見て、業績を伸ばすための足を引っぱる可能性もある。将来、その企業が伸びるために必要な人材を切り捨てている可能性があるからだ。目先の利益で人を切り捨てると、長期的な視野で見て必要な人材を放逐してしまうことにつながる。日本の多くの会社がそのリスクを十分に考えて「人減らし」を行っているようにはちょっと思えない。

 株価のような指標で見た景気回復や構造改革が最終目標なのか? そうではないだろう。多くの人が幸せを感じることのできるような国を作ることが政治の最終目標のはずだ。しかし、いまの政治は――とくに経済政策はそういうふうに組み立てられているとは思えない。


 いまの経済情勢を安定の方向に乗り切るためには、しばらくは世界の産業に劇的な発展は起こらないと観念して「持久戦」の構えをとりつつ、将来、劇的な発展が起こったときにそれに即応できる態勢を整えておくという二正面作戦が必要だと思う。

 「持久戦」の策としては情報通信技術の地道な改良を進めていくしかないだろう。一方で、「急戦」に対応できるようにするために、ナノテクノロジーとかバイオテクノロジーとかの基礎的技術を進めておく必要がある。1990年代、日本は半導体産業でアメリカに引けをとらない力を持ちながら、情報通信技術でのアメリカ合衆国の一人勝ちを許してしまった。現在のところ、ナノテクノロジーでもバイオテクノロジーでも日本の実力はアメリカに負けてはいないけれども、基礎研究をおろそかにしているとまたアメリカやほかの国に出し抜かれてしまう。

 成長著しい市場としての経済新興国とのつきあいかたをどうするかも考えなければならない。

 経済新興国は未開拓の市場としての魅力を持っている。しかし都合のいいことばかりではない。経済新興国のほうも経済先進国に売りたいものをたくさん持っている。それはあたりまえだ。経済新興国も何かを経済先進国に売るからこそ経済先進国からいろんなものを買えるだけの経済力を身につけられるのだ。一方的にこちらのものを買わせるだけでは相手はすぐにへたばってしまう。経済新興国がこれから自国の製品をたくさん買ってくれるはずだという一面ばっかり見て市場の魅力ばかり強調したり、逆に経済新興国から安い製品が押し寄せてくるという面ばかり見て脅威ばかり強調したりしては、経済新興国とのつきあいを誤ることになる。

 ところがここで問題になるのが、生産国としての経済新興国の利害と日本のなかの農業や地場産業の利害との衝突である。外国から安い農産物や工業製品が入ってくると、日本の農家や地場産業が困るじゃないかという問題だ。その問題をさらけ出したのがこのあいだのメキシコとの自由貿易協定(FTA)をめぐる交渉だった。

 日本国内でも大企業は自由貿易協定の締結を望んでいた。現状では、メキシコはアメリカ合衆国やヨーロッパ連合(EU)とは自由貿易協定を結んでいる。そのためアメリカやヨーロッパの製品はメキシコに安い価格で入っていく。日本とは自由貿易協定がないので日本製品には関税がかかり、その分、日本の工業製品の価格競争力が落ちる。このままではアメリカとヨーロッパの工業製品にメキシコ市場が押さえられてしまうという焦燥が大企業にはあった。しかし、メキシコのほうは豚肉やオレンジジュースで日本市場を狙っているわけで、それは日本の農家の利益と衝突すると考えられた。それで交渉が難航したわけである。

 この過程で問題だと思ったのは、この問題が日本とメキシコの対立というかたちでは盛んに報道されたのに、日本国内で、大企業と農民との利害対立があったということがあまり大きく報道されなかったことである。道路公団の問題では石原大臣 対 藤井総裁という図式で部内対立を大きく報道に載せた政府が、この国内の利害対立についてはあまり強調しなかった。

 日本の国益を考える上で、重工業の大企業の利益を優先するか、それとも農民の利益を優先するかは、重要な選択である。日本社会全体で議論する必要があるし、それに必要なデータは政府が積極的に提示していくべきである。議論することによって、双方の利益になるような解決ももしかすると見つかるかも知れないし、少なくとも利益を得られない方の損害を緩和する方策が見つけ出せるかも知れない。ところがそういう利害対立の存在を目立たせようという方向性を政府は持っていない。

 メキシコはいいのだ、などと言ったらメキシコの人やメキシコに商品を売ろうとしている企業の人が怒るだろう。けれどももっと重要な経済新興国との貿易関係の問題がある。中国だ。

 日本では中国が安い製品の生産国であることばかり強調される傾向がある。たしかに、現在では、少なくとも安く買える品物について言えば、中国製品は日本の国内産の同じ種類の製品と同じくらいの品質を持っている。拙宅で使っていたタオルなど、日本製と中国製を同じ時期に購入して同じように使っていたら、日本製のほうが先にダメになってしまった。「同じような製品ならば多少高くても日本製のほうが品質がいい」と即断できなくなってしまったのだ。

 しかし、その製品を作る優れた機械設備を作るだけの技術力は中国はまだ十分に持っていないから、それは経済先進国から購入するしかない。中国には市場としての一面もあるのだ。中国に技術面で追いついてしまわれないかぎり、日本の先進技術を使った製品を中国に売り、中国から安い製品を買うという関係が成り立つはずである。しかし、ここでもやはり今回のメキシコとの自由貿易協定問題と同じ問題が現れるはずだ。そして、今回の例からすると、やはり日本国内での問題調整に手間取りそうだ。議論が日中対立というかたちで整理され、重工業や先端技術産業と農業との国内での利害対立はその陰に隠れてしまうことになるだろう。そうなると国内の排外主義的な感情が煽られるだけで終わってしまう。そのあいだに中国市場をアメリカやヨーロッパの製品に押さえられてしまったら、日本経済の立場はアメリカやヨーロッパに較べて相対的に低下することになってしまうだろう。

 もちろん、日本は、メキシコとの自由貿易協定も蹴り、中国市場も無視して、国内の中小規模の農業や地方都市の地場産業を重工業や先端技術産業の海外展開よりも重視するという国づくりをしたってかまわないのである。そうすれば世界一流の経済先進国ではいられなくなるかも知れないが、べつに一流の経済先進国でいることが目標ではない。日本国内の人たちが幸せを感じて暮らせるようにすることが目的なのだから、一流の経済先進国でいることがその目的に反するようならば、べつに経済先進国でいなくったってかまわないのだ。

 ただ、日本に住む人たち自身が何もわかっていないうちに選択が行われてしまうという事態は避けたほうがいいんじゃないかと思う。


 いま書いたのは、現在の情勢を前提にしたときの小康策である。もっと大きな策として、日本が世界に対してやるべきことは、やっぱり新しい経済ルールを世界に向けて提案していくことだと思う。

 現在の世界は「アメリカ的な基準が世界標準(グローバル・スタンダード)」という原則で進んでいる。いや、じつは私たちが「アメリカ的な基準」と考えているのは、じつはアメリカ的な基準のすべてではない。自由市場経済で負けたら終わりの冷たいルールが支配する世界、権利を主張しなければ権利はないものとされて文句も言えない社会というのが、いま世界に通用しようとしているアメリカ的な基準である。しかし、一方では、アメリカ合衆国は、国民的な自発的結社の活動が盛んな国でもある。慈善活動や福祉活動、地球環境をどうしたこうしたという問題まで、市民団体が基金を集め、「市民」たちが少なからぬ時間を割いて、活発に活動している。もちろんそこの資金のもらい方に問題があったり、「市民」団体が外国系住民の人権抑圧に手を貸していたりする例もあるから、アメリカの市民運動万々歳とは言えない。けれども、ともかく、日本で政府や自治体が担っているような活動をアメリカでは市民の自発的活動が支えているわけで、冷酷な「アメリカ的な基準」はアメリカではそれに裏打ちされているのだ。

 一般の人びと(「市民」)の自発的活動の活発さを持ちこまないで、冷酷なアメリカ的基準を「世界標準」として持ちこめば、途轍もなく冷たくつまらない社会ができる。いま日本で現実に進んでいる構造改革とはそういうものである。同じことはアメリカを追いかけている世界のほかの国でも起こりそうだ。この流れはだれかが止めなければならない。その止め役を担うことができるのは、経済大先進国であるアメリカに次ぐ経済先進国である日本とEU諸国である。

 資本主義であれ、なに主義であれ、そこに住んでいる人を幸せにしなければそんな主義を後生大事に守り通す必要はないのである。いま資本主義とか自由市場とかが大事にされているのは、少なくともほかの「主義」と較べて資本主義や自由市場が人びとを幸せにするはずだと信じられているからに過ぎない。

 また、人間一人ひとりにとっても、自由であっても幸せでなければ何にもならない。自由であったほうが幸せだろう、少なくとも自由であったほうが自分で幸せを掴める可能性があるぶん、幸せだろうという推定があるから、自由はいまの世界で大きな価値のあるものと位置づけられているのだ。

 だが、経済的に見たばあい、自由であれば幸せになれる、少なくとも多くの人が幸せになれるというのは、経済全体が発展しつづけているばあいだ。発展しつづけている経済では、それぞれの人が自由に自分の幸せを求めて動いても、大多数がまあ満足できる程度ぐらいはそれを実現できる可能性が大きい。しかし、経済の発展の速度が鈍ったり止まったりした社会ではそうとも言えない。みんなが自由に動いても幸せを掴めるのはごく一部の人たちだけだ。

 自由だが幸せになれるかどうかわからない社会と、多少は不自由でも安心して暮らせる社会と、いまの日本ではどちらがより強く求められているのだろうか? 私には答えははっきりしているように思える。国際的に見てもたぶん同じだと思う。アメリカ社会の市民的伝統に裏から支えられていないアメリカ的冷酷さが世界に広がるのを傍観するのか、それともそれにかわる新しい考えを世界に提案する準備を始めるのか――日本がいまやらないといけないのはそのどちらなのだろうか?


―― おわり ――