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シュレディンガーの猫
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第二十一回

総選挙結果の速報的批評

― 2003年11月 ―

 いまさらながら衆議院総選挙(第43回)の話である。今回の総選挙では、総選挙が終わった時点で、自民党(自由民主党)が解散前議席から10議席減らした237議席、公明党が3議席増やして34議席、保守新党が5議席減らして4議席で、与党合計で12議席減、民主党が40議席増やして177議席、共産党が11議席減らして9議席、社民党(社会民主党)が12議席減らして6議席という結果になった。自民党は選挙直後に追加公認で2議席増やし、さらに保守新党が合流したので、なんとか単独過半数を維持したかたちとなる。さらに公明党を加えると与党全体で「絶対(安定)多数」(衆議院の全委員会で議長をすべて与党が出した上でなお与党が過半数を取れる議席数)を確保した。一方で、民主党は、自民党、共産党、社民党から10〜12議席ずつ切り取ったようなかたちで躍進した。

 最初からわかっていたような結果だが、評価にはとまどう。一方では小泉政権が絶対多数を制して国民からの安定した信任を得たように解釈できる。しかし反対党の民主党も大きく躍進した。「与党は信任されたが、批判も根強いことが立証されたかたちとなった」ということか?


「マニフェスト」選挙

 今回の総選挙について、報道では「政権選択」が最大の争点だと言われていた。けれども、いかに自由党を併合したと言っても、民主党が勝つと予想したり期待したりした人はそんなに多くなかったはずだ。自民‐公明‐保守の枠組が壊れると予測した人もやっぱり多くなかったと思う。どんなに楽観的に見ても、民主党が200議席、社民党が改選前議席数を維持するとして20議席として、両党合計で220議席である。民主党は社民党と連立しても過半数には届かない。公明党が自民党から離れて民主党と組むことも考えられない。民主党政権や民主‐社民連立政権が成立するなどという期待はほとんど持てなかった。もし「政権選択」が政権を担う党の選択を意味するのなら、結論は最初から出ていた。

 今回の選挙が「政権選択」の選挙だと言われていたのは、政権を獲得したばあいに実現する具体的な数値目標を掲げた「マニフェスト」を各党が公表して選挙に臨んだからかも知れない。報道機関の調査に対して、今回の選挙では「マニフェスト」を重視して投票したと回答した選挙民が多かったという。しかしほんとに「マニフェスト」をじっくり読んで投票した人がそんなに多かったのかな?

 ちなみに私はどこの党の「マニフェスト」も手に入れられなかった。手に入れていても丹念に読んでいる時間はなかっただろう。新聞や雑誌で「マニフェスト」をまとめた記事を読んで、ふむふむこんなことを書いてるんだ、たいして目新しくもないなと思っただけだ。

 ただ、さすがに民主党は「マニフェスト」選挙の言い出しっぺだけあって、民主党のは力入れてまとめたんだろうなとは感じた。実行できるのかどうかは知らないけど、要約記事にもともかく何年までに何パーセントとかいう数値がずらずら並んでいる。年金改革とか高速道路無料化とかの論点では具体的だと感じられるような手順を並べて書いていたようだ。でも、それは、裏を返せば、自由党を併合した民主党が何を言うか予期できない要素が多かったから「民主党はこんなこと言うんだ」と清新さを感じさせたということでもある。次回の選挙でもこれと同じ新しさを感じさせられるとは限らない。

 また、新聞に載っていた「マニフェスト」のまとめを読んだかぎりでは、保守新党の主張する政策は自民党とあまり変わらなかった。「自民党の一部」になってもおかしくはない主張だと思っていたら、選挙後早々に自民党への流入を決めてしまった。もしかすると選挙前から保守新党の自民党との合併は選択肢の一つとして考えられていて、その上でこの「マニフェスト」を決めたのかも知れない。そうでなければ、いかに勢力が後退し党首が落選したと言っても(それも自民党の新人候補に議席を取られて!)、小泉自民党総裁からの提案に即座に応じるなんてことはなかっただろうと思う。

 そのわりには、両党大敗という情勢を受けても、共産党と社民党で「社会主義統一戦線」を組むという話は聞こえてこない。基礎年金の国庫負担金の2分の1への即時引き上げとか(「直ちに」または2004年度からという条件をはずせばこれは与党とも共通。対して民主党は独自の改革策を掲げる)、教育基本法見直し反対とか、日米安保体制の見直しまたは廃棄とか、憲法第9条改正反対とか、「マニフェスト」を見ただけでもいっしょにやっていけそうな主張はいろいろとあるのに。まあ報道されないだけかも知れないけど……何やってんだかなぁ。

 ただ、どれだけの人がきっちり「マニフェスト」を読んだかはわからないけど、出口調査で待ちかまえているマスコミに「マニフェストを投票の参考にした」と答えなければ心地悪いような雰囲気はきっちりできていたわけだ。だから、政権政党が「マニフェスト」に記された目標を達成できなければ、そのことについて次の選挙では具体的な説明を求められるだろう。それだけではない。自民党と公明党の「マニフェスト」には少なくともニュアンスの違いがある。両党とも「マニフェスト」を掲げて選挙を戦い、両党で連立を組む以上、政権として両党の「マニフェスト」を実現できるような政権運営方針を決めて公表する必要があるだろう。政権を取れなかった野党には「マニフェスト」を実現する義務はないわけだが、国会で「マニフェスト」実現のために少しでも努力するのを放棄すれば支持者に見放されることになるだろう。

 これまでの日本の選挙は、政策を見て投票する政党を決めるというたてまえではあったけれども、じっさいには組織選挙だった。職場とか、学校とか、同業者の組織とか、地域の組織とか、労働組合とか、地方議員を含めた政治家の後援会とかが、選挙民に投票を依頼して票を確保するというかたちで選挙が行われてきた。候補者本人や政党の公約は詳しく検討されることはあまりなかった。その候補者や政党が、その人の属する組織に有利なように働いてくれるというだけで十分だった。私が子どものころ、私の通っていた学校のPTAから「××候補は教育問題に熱心だからできれば投票してください」という電話がかかってきていたのを覚えている。子どものころはわからなかったが、自分が選挙権を持つぐらいの年齢になってみると、その候補が教育問題に熱心に取り組んできたという印象はぜんぜん持てなかった。ちなみに、私の両親は、選挙でだれに投票したかはほかの人には絶対にしゃべらないことにしているので、依頼されたとおりにその候補に投票したかどうかは私は知らない。

 都市化が進んで共同体的なしがらみからは無縁の選挙民が増え、労働組合の組織率も低下すると、そういう組織選挙の網に乗らない選挙民が多くなってきた。それが、昔は「浮動票」と言われ、いまから10年ちょっと前ぐらいからは「無党派」などと言われている集団である。今回の総選挙に参加した選挙民のうちだいたい5分の1ぐらいがこの「無党派」に属していたらしい。けれども民主党はいまでも労働組合の組織力に大きな基盤を置いている。自民党では田中派‐竹下派‐小渕派‐橋本派がとくに組織選挙に強い系統の派閥として有名だった。最近は小泉改革でこの橋本派系統の組織力も相当に「ぶっ壊」されているようだが、それでも自民党全体が組織選挙から無縁になったということはないだろう。

 ただ、いまの選挙民は組織の言うとおりに動くような人たちではなくなっている。1990年代の経済不振のせいで、経営者組織でも自営業者の組織でも労働者の組織でも、その他たいていの組織で、組織に選挙民を守り抜くだけの力が十分にないことはバレてしまった。アメリカ合衆国レーガン政権期やイギリス(連合王国)のサッチャー政権期の新保守主義が入ってきて、組織に頼り切るのは社会主義的でよくない、という考えが保守政党のなかでも強まった。だからといって保守政党が組織を手放したというわけではない。しかし、保守政党の支持者も、組織に守られているだけの者は見捨てられるかも知れないという危機感を持つようになった。だから、政党と組織の指導層の談合で選挙民に選挙で投票する先を決めてやるというかたちの選挙はもうできないだろう。たとえ組織選挙が行われるとしても、選挙民は政治に不都合を感じれば、その政党を支持するように言ってきた組織に向かって積極的に文句を言うようになるだろう。組織も政党に積極的に注文をつけるようになるかも知れない。

 そのときに、これからは「マニフェストにはこんなことが書いてあったじゃないか、だから支持したのにどういうことだ?」というもの言いができるようになる。政権党だけではなく、野党でも、「マニフェスト」に掲げたことを国会で派手にとり上げなければ同じように突っつかれる可能性がある。

 今回の選挙が「マニフェスト」選挙になったことで、組織選挙の動きかたそのものが変わる契機にはなったのではないかと思う。選挙で公約したことにろくに取り組まないとか、選挙で公約したこととはぜんぜん違うことを平気でやるとかいうやり方はもう通用しないだろう。

 一方で、「マニフェスト」選挙には危うさも感じる。

 まず、政治がそうかんたんに「数値目標」で計測されていいものだろうかという疑問がある。たしかに、いいかげんな目標しか掲げなければ、実現できなかったときにも「まあがんばったんだからいいじゃないか」という言い抜けが可能だけれど、数値目標が出ていれば説明をしなければならない。政治の「説明責任」をはっきりさせるという点では数値目標の導入はたしかに意味がある。

 しかし、選挙のときに定めた目標を何が何でも達成するのがよい政治なのだろうか? 私はそうではないと思う。そのときの情勢のなかでどういう選択が最上かを常に見定めながら柔軟に方策を選択し、実行していくのがよい政治のはずだ。そして情勢は刻々と変化する。選挙が人や人の集団を選ぶというかたちになっているのは、予測のつかない先何年かの情勢のなかでどういう人や人たちならば最上の選択をしてくれるかということも選べるようにという配慮からでもある。政治家は、選挙では、大きな方針を強く訴えて、細かい政策をいつどれぐらいまでやるかは一任してもらうというのが理想だと私は思っている。

 それなのに「数値目標」を定めた「マニフェスト」がもてはやされるのは、一つには、これまでの政治家に、「大きな方針」を訴えてその「大きな」うちのほんの一部しか実行しなかったり、ばあいによっては「大きな方針」の実行にはぜんぜん関心を持たないで自分の地元に利益を持って行くことばかりに腐心したりする者が多かったことから来る政治への不信があるのだろう。要するに政治家や政党の「大きな方針」――古めかしいことばでいえば政治家が持つべき「経綸(けいりん)」なんてものは最初からだれも信頼していないのだ。それよりは、細かくいろいろと決めた一つひとつのことをきちんとやってほしい。その程度しか国民は政治家に期待していないのだ。

 しかし、一面では、「数値目標」そのものへの信仰が日本社会全体にあって、それが「マニフェスト」の流行に反映しているのではないかと思う。数値目標を決めて、それを達成できれば合格、達成できなければ不合格とはっきりさせるのが、何を管理するにも有効な方法だという幻想が日本社会にあるのではないか。

 もちろん目標達成を厳しくチェックするというのは必要なことだと思う。厳しくチェックするには数字で目標をはっきりさせたほうがいい。しかし、目標を掲げて、その達成のための道筋を十分に考えたとしても、それを実際にやってみると途中で解決の難しい問題がいろいろと湧いて出るのが普通だろう。ばあいによっては、その難問を解決することに予期せぬ時間を取られることもあろうし、別の目標に進むほうが有効だと気づくこともあるだろう。しかし、最初に掲げた数値目標に縛られていると、そこで柔軟な選択ができなくなる。会社の業務だったら、そんなばあいには会議を開いて方針変更について議論すればいい。けれども衆議院の総選挙は解散がないかぎり4年に一度だ。何かの困難にぶつかって方針変更が必要になっても、また目標を変えたほうがいいような情勢が生まれても、それを選挙民に問い直す機会はない。

 それでもきちんと説明した上で目標を変えるのが政治家としてやるべきことだと思うが、それができる政治家がどれだけいるだろうか。反対の立場に立つ政党から「公約違反だ」と非難されるのを恐れて問題点を隠し、数値上の目標を達成したように装うという行動を取るほうが普通だと私は思う。

 企業の数値目標至上型の成果主義の限界は見えてきている。従業員みんなが目立つ仕事しかしなくなるとか、短期の目標に関心が集中して長期の事業にはかえってマイナスになっているとかいう問題だ。もちろん、従業員個々人の成果を計る数値目標と、政党全体の数値目標とはあり方が違うから、単純に企業の数値目標至上型成果主義の欠点が政党の「数値目標」にも現れるとは限らない。けれども、その共通の根底に、「数値目標」さえ導入されれば日本の社会は変わるという幻想があるのだとすれば、それはけっこう危ないことじゃないかと私は思う。

 政治の全体が曖昧模糊(あいまいもこ)としてぜんぜんワケがわからないとしたら、それはよくないことだ。しかし、政治にしても会社の事業にしても、やってみなくてはわからない、結果が出るまではわからないという不確定で不安な部分というのは絶対にある。その「わからなさ」まで許さないとすれば、政治も事業も大きな仕事は何もできなくなってしまう。

 経済には「合成の誤謬(ごびゅう)」という現象がある。細かい部分でみんなが合理的な選択をしているのに、それがかえって全体としては不都合な結果を呼び起こすという過程だ。たとえば、経済が沈滞して明日の生活がどうなるかも不安ならば、多くの人がおカネをなるだけ使わないで明日以降のために取っておくという合理的な選択をするだろう。ところが、それはさらに経済を沈滞させるという、その人たち一人ひとりにとっても望ましくない結果を招く。それが合成の誤謬の例だ。

 同じように、政治でも、個々の目標では目立つ成果を挙げているのに、それが長い目で全体を通してみると見るとかえって不都合な政策になっているということもあるかも知れない。個別の争点の数値目標をチェックするだけでは、全体の政策の善し悪しを判断することができなくなってしまうこともある。ところが、選挙というのは、全体の政策の善し悪しで政治家を選択しなければならないものなのだ。

 それに、何より、「あいまいさが少しでも存在することに耐えられない」とか、「何をやっているかを常にチェックしていなければ落ち着かない」とかいう心理状態は、けっして健全な社会心理ではないと私は思う。あいまいなものをあいまいなままに放置するのはよくないし、政治家が公約を無視するのを見過ごすのもよくない。けれども、ある程度の「あいまいさ」や「わからなさ」とのつきあいかたを身につけているのが健全な社会だと私は思う。


二大政党制?

 今回の選挙結果を二大政党制への方向が定着したと評価する意見が多いように感じる。

 しかし、ほんとうにそうなのだろうか?

 日本政治は「二大政党制」の幻影に振り回されてきた。「二大政党制」の実現が待望されながら、結果的に幻滅に終わった経験を重ねてきた。ある程度の年季を積んだ政治ジャーナリストならばそのことをよく知っているはずである。それなのに、どうして今回はそんなにかんたんに「二大政党制」などと言えるのか。少なくとも、過去の幻滅の経験に照らし合わせた検討はしないといけないのではないか。私はそう感じている。

 「二大政党制」の幻影のひとつめは五五年体制である。

 1955(昭和30)年、それまで急進派(左派)と漸進派(右派)に分かれていた社会党が一つに合同し、それに対抗するかたちで、それまで自由党系と民主党系(党名は細かな離合集散に合わせて頻繁に変わっている)に大きく分かれていた保守政党が合併して自由民主党ができた。

 それまでは、社会党と民主党系保守党が連立政権を組んだこともあったし、その後は自由党系の吉田茂長期政権に民主党系と社会党がともに反対してきた。それが、保守は保守で、社会党は社会党で一つにまとまったのである。合同保守政党の自由民主党と社会党とのあいだで二大政党制が成立したように見える。

 しかし実際にはそうはならなかった。保守合同は「社会党に政権を渡さない」ための方策だった。保守党が分裂していれば、そのどちらかが社会党と組んで政権に就く可能性があったから、その可能性を合同によって封じたのである。そしてその策はみごとに的中した。社会党は、常に野党第一党になりながら、けっして自民党の得票に及ぶことができず、自民党の単独政権(一度だけ自民党と保守系小政党の新自由クラブとの連立政権)の存続を許した。

 1993(平成5)年には、その保守党が自民党・新生党・新党さきがけ・日本新党に分裂することで社会党に政権獲得を許してしまうことになる。しかし、1955年から93年までの約40年はともかく社会党の政権参加を阻止したのだし、1993年に社会党が政権参加を果たしたときにはすでに社会党は後戻りのできない凋落の過程に入っていた。五五年体制はたしかに社会党政権を封殺しつづけたのである。

 五五年体制下で自民党が強かったのは事実だ。しかし社会党にも弱点があり、早くからその弱点を指摘されていたのに最後まで克服できなかった。

 社会党の内部には合同前の左派と右派の対立がずっと残りつづけた。「日本社会党」ではなく、右派と左派の「二本社会党」だと悪口を叩かれた。右派は西ヨーロッパの社会民主主義政党と同じように資本主義社会の枠をいったん受け入れた上での漸進的な社会主義の実現を目指していたのに対して、左派はソ連や中国のような革命的な社会主義社会を目指し、それぞれがその目標に固執したから、和解できるはずもなかった。共産党がソ連共産党・中国共産党・朝鮮労働党と仲違いすると、社会党がこれらの社会主義国の社会主義政党と「友党」関係を結んだこともあって、日本の社会党は、全体としては、資本主義国の社会党としては例外的な急進的社会主義政党になってしまった。

 そんななかで、社会党は、選挙のたびに内部の路線対立が噴出し、指導部の指導力が揺らいで指導部交替が繰り返された。獲得議席が伸びていて、勝利と考えてよいようなばあいでも、「目標議席に届かなかった」ということで指導部が敗北の責任を取らされたこともあった。

 それでも社会党は自民党に次ぐ第二党の議席は必ず取ることができた。自民党が単独与党だから、社会党はつねに野党第一党であり、しかも野党第二党以下を大きく引き離す野党第一党だった。社会党は、目標だけは高く掲げながらも、実際には「万年野党第一党」の地位に甘んじて支持の拡大を積極的に進めようとしなかった。ほうっておいても労働組合が社会党の票を組織してくれた。それに乗っているかぎり、野党第一党ではありつづけられるのだ。

 けっきょく、社会党は、威勢のよい目標を掲げて自民党との対決を演出しながら、最後には自民党の法案に修正を加えることで妥協するというやり方を繰り返した(こういうところが阪神タイガースに似てるんだなぁ……という話は →ここ とさりげなく今回掲載の文章の宣伝をしてみる)。それは当時の社会党にとっては最善の選択だったのかも知れない。しかし、これも「合成の誤謬」の一例で、それが社会党の組織を硬直したものにしてしまい、ついでに社会党支持者の考えかたをも硬直化させてしまうことになったのである。

 そんなわけで、自民党と社会党の五五年体制は二大政党制にはならなかった。自民党が万年与党、社会党が万年野党第一党で、それを自明のものとしてそれぞれの政党が組織と行動原理を固定させてしまったのだ。

 1993年に保守政党が分裂し、自民党が政権を追われたことでこの状況は変化した。翌年、非自民(+非共産)連立政権内部で社会党・新党さきがけグループとその他の党との対立が激化したのを契機に、自民党が社会党・さきがけをさそって政権復帰を果たした。これに対して、その他の党が「新進党」として合同した。社会党が当時はまだある程度の勢力を保っていたとはいえ、自民党と新進党の二大政党制が生まれるのではないかとふたたびこのとき期待された。このときの対抗図式では、新進党に新保守主義的な傾向の政治家が集まり、自民党にはどちらかというと新保守主義に批判的な保守政治家が多いという状態だったから、保守二大政党になっても政策的な対立軸はある程度は鮮明だった。

 ところがこのときも二大政党制にはならなかった。一つは、自民党にさそわれて政権に参加した社会党(社民党)・新党さきがけの政治家の多くが民主党結成に参加して、かなりの規模の政党として民主党が出現したことがある。一方で、新進党は、選挙で議席を伸ばしながら政権をとることができず、「寄り合い所帯」の弱点を露呈してばらばらに分解してしまった。1993年に社会党・さきがけとともに政権に就いたグループから出発しているだけに、政権から離れていることに対する耐性がなかった。野党としての生きかたが身についていなかったのである。

 一方の民主党は、政権と対決色を出したり引っこめたりしながら、政権にも就かないかわりに大損害を受けないように舵取りしつつ、勢力を拡大させていった。出発時点で社民党とさきがけから多くの議員を受け入れた民主党は、新進党が分解した際にも、自由党と公明党から取り残された部分を受け入れて勢力を拡大させた。そしてついに新生党‐新進党‐自由党を引っぱってきた小沢一郎グループを吸収することで、現在の民主党に成長したのである。

 民主党指導部は、どんなグループを受け入れるときにも、あとから入ってきたグループが主導権をとらないように注意を払ってきた。鳩山由紀夫・菅直人の創立者二人を党の代表として立てる組織のあり方を固守してきたのである。今回の自由党との合併問題では、いったん鳩山氏が自由党にある程度の譲歩を示したのを撤回し、自由党に主導権を渡さないかたちで菅執行部の下での吸収合併をなし遂げた。

 今回、「二大政党」の一方として期待されている民主党というのは、勢力拡大と政権獲得を夢見るさまざまな政治家が、巧みな政党運営術を持つ菅氏の下に結集した集団だと見ることができる。党運営者としての菅氏には、勢力拡大を維持しながら、さまざまの出自を持ちさまざまなイデオロギーを持つ政治家たちをコントロールしていくことが求められている。菅氏は現在のところはその役割を忠実に果たしている。かつての新進党指導部のように「与党慣れ」しておらず、逆に小政党でがんばってきた人だけに、党の方向づけと運営は巧みである。

 だが、もし党勢の拡大が止まれば、菅氏は党運営者としての責任を問われて執行部を離れることになるかも知れない。そのとき、菅氏にかわる指導者を民主党は用意することができるだろうか。リーダーシップの持ち主ならばだれでもいいというわけではない。旧社会党出身者から新保守主義者までが集まった超寄り合い所帯を、うまく舵を取りながら引っぱっていけるリーダーが必要なのである。そんな器用なリーダーがいま民主党にいるとはちょっと思えない。そうなると、党勢拡大が止まったとたんに瓦解するという新進党の悪夢が民主党を襲うことだってありうる。

 瓦解しなかったところで、こんどは、野党第二党とは隔絶した野党第一党でありながらいつまで経っても政権を奪えない、五五年体制下の社会党の道への転落もありうる。内部対立が激しいのに、野党第一党の地位を固守したいという理由でその内部対立を封殺して組織を硬直化させてしまったばあいである。民主党には小政党の悲哀をなめた政治家がたくさんいる。自分とは出身やイデオロギーの違う連中は信用できないが、二度と小政党に戻りたくもないということで、組織防衛のために固まってしまえば、民主党が社会党と入れ替わった五五年体制の再来になってしまうだろう。

 それに、現在、自民党と民主党で二大政党制が実現したところで、その二大政党が何と何の二大政党なのかがまったくわからない。

 イギリスの二大政党制は、保守的な保守党と社会主義の労働党との対立で成り立っている。ドイツも保守のキリスト教民主/社会連合(CDU/CSU)と社会主義の社会民主党の対立が軸で、それに加えて大きめの少数政党として自由民主党があり、さらに緑の党などの小政党がある。アメリカ合衆国の二大政党は「ラベルだけ違う二本のビン」とか言われるけれど、共和党がより保守的、民主党がいわゆるリベラルの穏健保守主義と傾向は分かれている。

 ところが、自民党と民主党にはそういう対立軸がない。それぞれの内部にリベラル(穏健保守主義的)な政治家から新保守主義的な政治家までを抱えている。今回の「マニフェスト」対決でも、目前の課題である「構造改革」への取り組みかたでどちらが優位かを競うのが主要課題で、「大きな方針」の対立軸をはっきり示してはいない。もし「構造改革」がなし遂げられたならば、そのあとこの二つの「二大政党」は何を対立軸にして対決するのだろうか?

 だいたい「二大政党制」ができれば政治の問題はすべて解決というような考えかたもヘンである。「二大政党制」が望ましいとされたのは、適度に政権交替があるほうが望ましいという考えかたからだろう。しかし、政権交替で政治がリフレッシュするのは、そのたびに政治の基本方針が適度に変わるからである。「保守/社会民主主義」とか「強硬保守・新保守/リベラル(穏健保守)」とかいう違いがあるから、二大政党で政権が交替すれば政治はリフレッシュする。両方とも「改革推進政党」ではリフレッシュのしようがない。

 今回の選挙結果が「二大政党制への道」を示しているとしても、民主党がかつての新進党のように瓦解する可能性も、かつての社会党のように守りに入って硬直化してしまう可能性もまだ残っている。それにほんとうに「二大政党制」になったとしても、いまの自民党と民主党とでは国民の選択の幅が広がるとは思えない。今回の選挙結果から日本の新しい政治体制が生まれてくると即断しないほうがいいと私は思っている。

 ただ、どんな政党制であれ、最初から成功することはない。1920年代の日本では、政友会と憲政会(途中から民政党)との二大政党が政権交替をしながら政治を運営していた。このときの政党のあり方を「成功した二大政党制」と見ることには異論もあるかも知れないが、いちおう政権交替もしているので、いちおう成功したと考えるとしよう。

 この二つの政党は、政友会がより強硬な保守主義、憲政会・民政党が社会政策などにも意欲的な穏健保守主義という傾向があった。しかし、出発点では、明治の自由党の系統を引く政党が伊藤博文の官僚グループと結びついたのが政友会、明治の改進党の系統を引く政党の一部が山県有朋の官僚グループの一部と結びついたのが憲政会であって、どっちも似たようなものだった。というより、憲政会のほうが官僚党の傾向が強くて保守的と見る見かたもあったのだ。

 似たり寄ったりの政党でも、10年ぐらい、政権に就いたり政権を失ったりを繰り返していれば、それぞれの政策は固まり、国民に選択の幅を示せるような政党へと成長していくものである。早いうちに見限って可能性をつぶすようなことも、私はやめておいたほうがいいと思っている。「あんまり期待しないで楽観する」というのが、タイガースファンが阪神タイガースに接するばあいと同様、選挙民が政治に接するばあいにもいちばんいいつきあいかたなのではないだろうか。


―― おわり ――