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シュレディンガーの猫
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第三十三回

民主主義は有産者のものである

― 2004年11月 ―

議会制民主主義と財産

 民主主義は有産者のものである。つまり財産を持っている人たちのものである。しかも一部の人が大財産を持っていても、ほかの多数の人びとがほとんど財産を持たない人びとでは意味がない。一人ひとりの財産はそこそこでいい。その「そこそこの財産」を持っている人が多数を占めているような社会であってはじめて、議会制民主主義は有効に機能する。それが今回の私の主張だ。

 19世紀から20世紀初めまで、議会制をとっていた多くの国では、選挙権に財産を基準にした条件をつけていた。一定以上の財産のある人だけが議会制政治に参加できるような仕組みを採っていたのだ。しかし、私は、いまさら選挙権に再び財産上の条件をつけるべきだなどと言いたいのではない。

 いままで議会制民主主義のなかった国で議会制民主主義をやるのだったら、その国の人びとをまず「そこそこ」ぐらいには豊かにするのが先決だ。そう言いたいのである。要するにイラクやアフガニスタンの「戦後民主主義」のことだ。

 アフガニスタンでは選挙があってカルザイ大統領が再選された。一人が何度も選挙権登録をしていたり、一人が何度も投票するのを阻止するための仕組みが有効に機能しなかったりで、対立候補からは選挙の公正さへの疑念を指摘されての選挙だったけれど、ともかく選挙は成立した。

 イラクでは来年1月に選挙が行われるらしい。その選挙を無事に行うためと称して、アメリカ軍は躍起になって「テロリスト」組織つぶしを強行している。

 だが、テロ組織が妨害しなければ、民主主義は根づくのか?

 アメリカにとってはそうなのかも知れない。「テロ」組織を封じこめ、無事に選挙が行われれば、そして親米的な政府が樹立されれば、それだけでアフガニスタンやイラクの「民主化」が成功したことになるのかも知れない。

 だが、話をイラクに限るとして、イラクの人びとにとっては、選挙が「テロ」の妨害なしに――しかも特定の候補や勢力が有利になるために操作されもせずに(これはもしかすると「テロリスト」の妨害を排除するより難しいかも知れない)成功したとしても、それはとうてい「民主化の成功」を意味したりはしない。それでようやく議会制民主主義の入り口に立つだけなのだ。

 イラクに議会制民主主義が定着するにはまだ長い道のりが残っている。イラクには大きい民族だけでもアラブ人とクルド人の二つの民族がいる。アラブ人はスンニー派信徒とシーア派信徒に分かれている。サッダーム・フセイン政権時代の政策によって、アラブ人スンニー派信徒、アラブ人シーア派信徒、クルド人(宗教上はスンニー派)のあいだには根強い不信感が残っている。その人たちが集まって議会を開いたからと言って、それがうまく行くかというと、その保障はどこにもない。失敗する契機は数限りなく待ち受けていると言ってよさそうだ。

 サッダーム・フセイン政権崩壊後のイラクでは掠奪(りゃくだつ)が横行した。掠奪者たちは、真っ昼間、よく晴れた青空の下を、テレビカメラが写している前でどこかから奪ってきた家財道具を堂々と運んでいた。圧政に耐えつづけた民衆が怒りを爆発させて一時的に我を忘れたというわけでもない。生活苦から夜中にひそかに財物を盗み出すというわけでもない。1986年のフィリピン革命も、1989〜90年の東ヨーロッパの民主化革命もテレビで見ていたけれど、こんな光景は見た記憶がない。

 なぜあんなことが起こったのかは私にはいまでもわからない。また、あの掠奪に走ったのがどういう人なのかも私は知らない。あれはごく一部の無法者で、多くのイラク国民はあんな掠奪を苦々しく思いながら沈黙していたのかも知れない。テレビに大きく映ったり、何度も放映されたりしている人がほんとうにその社会を代表しているとは限らないのだ。

 ただ、あの光景を見たあとで、独裁者が去ったからこれからイラクは民主的な国になると言われても、私はぜんぜんピンと来なかった。

 民主主義というやり方は、参加者にずいぶんがまんを強いるものだ。気に入らない主張だって、みんなで決めたことならば守らなければいけない。気に入らない言いぶんだって、決まった規則に従って主張しているのだったら黙って聞いていなければいけない。ほんの少しも賛成できない意見の持ち主が意見を発表する自由を命がけで守らなければならないのが民主主義の原則だ。

 自分たちを強く抑えつけていた政治権力がなくなったからと言って悪びれもせず掠奪に走るような人びとに、そんなめんどうくさい民主主義が根づくのだろうか? 財産と民主主義の関係を考えてみようと思ったのはそれがきっかけだった。

 そしてとりあえず考えたのは、アラブ人とクルド人、スンニー派信徒とシーア派信徒というふうに国民の内部が分かれ、互いに不信感を抱き合い、いっしょに議会制民主主義を運営していく共通の基盤がないのだったら、その話し合いを成り立たせる共通の基盤を作ればいいじゃないかということだった。「みんな分け隔てなくそこそこ財産を持っている」という共通の基盤をである。これは、パシュトゥーン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人その他の多くの民族で構成され、やはり抗ソ戦争(ソ連の侵略と戦った戦争)の終結後にそれぞれの民族のあいだの不信感がかき立てられてしまったアフガニスタンでも同様である。

 そして、「みんなそこそこの財産を持っている」という共通の基盤こそがじつは19世紀以後の世界で議会制民主主義が成り立ってきた理由なのではないかと思いついたのだ。

 ここから先はイラクやアフガニスタンの具体的な状況からは離れて議論をしたい。私は、イラクの社会がどんな社会かも、イラクの人びとがどんな人びとかもほとんど何も知らないからだ。アフガニスタンについても同じだ。だから、ここでは、イラクやアフガニスタンのことは念頭に置きながらも、一般的な議論として民主主義と財産の関係について考えを整理してみたいと思う。そして、最後に、もういちどイラクやアフガニスタンの問題に戻りたいと思う。


議会制と民主主義はもともとは別ものだった

 ここまで何度も「議会制民主主義」ということばを使ってきた。現在では、民主主義といえば議会制民主主義を指すというのが常識ではないだろうか。

 しかし、もとをたどれば「議会制」と「民主主義」は別のものだった。

18世紀末〜19世紀フランスの政治的事件
1789年 三部会招集。市民身分が三部会を離脱して国民議会を樹立し、フランス大革命勃発。1793年に共和制に移行(第一共和制、〜1804年)。
1804年 ナポレオン・ボナパルト戴冠し第一帝制始まる(〜14年、15年に帝制復活失敗)。
1814年 ブルボン王朝復活し、王制復活(ブルボン復古王制、〜30年)。
1830年 七月革命でブルボン王朝が倒れ、オルレアン家のルイ・フィリップが即位。七月王制始まる(〜48年)。
1848年 二月革命。ルイ・フィリップ王政とギゾー内閣倒れる。共和制に移行(第二共和制、〜52年)。
1852年 ボナパルト家のナポレオン3世、皇帝に即位する(第二帝制、〜70年)。
1870年 プロイセンとの戦争でナポレオン3世降伏し、共和制に移行(第三共和制、〜1940年)
1871年 パリの民衆が決起し、パリに民衆国家「パリ・コミューン」を樹立。短期間で鎮圧される。

 議会制はヨーロッパ諸国の身分別議会を起源とする。身分別議会で有名なのはフランスの王制時代の「三部会」だろう。三部会は聖職者議会・貴族議会・市民議会の三つの議会から構成される審議機関だ。1789年のフランス大革命はこの三部会が招集がきっかけとなって始まった。身分別の審議に反対した市民の代表が三部会を抜け出し、「球技場の誓い」に従って新たに「国民議会」を開き、革命が始まったのだ。

 身分別議会というのは、このフランスの「三部会」と同じように、身分別に代表を集めて身分別に審議する形式の議会である。フランス以外のヨーロッパの国にもあった。イギリスの国会に上院(貴族院)と下院(庶民院)があるのもそういう身分別議会の名残りだ。

 この身分別議会は、聖職者とか貴族とかいった身分が議会に参加できる条件になっているから、議会制であっても民主主義ではない。聖職者や貴族が話し合って行う支配は、広く人びと全体を代表しているとは言えないからだ。身分別議会のなかの市民議会や庶民院が、市民の代表を集めているという意味で議会制民主主義に近いとは言える。じっさい、国王・貴族院・庶民院が並び立つイギリスの政治体制が、君主制・貴族制・民主制(民主主義)を混ぜ合わせて互いに欠点を補い合うすぐれた政体だと論じられたこともある。けれども、市民議会や庶民院に代表を送れる「市民」もじつは一定の財産の持ち主だった。村で地主から土地を借りて働く農民や町の下層民衆は議会とは無縁の存在だった。一部の財産家だけの代表だけを集めたこの時代の市民議会や庶民院も、聖職者議会や貴族議会・貴族院にくらべれば「民主」的だろうけれど、やはり人びと全体の代表を集めた議会とは言えない。

 他方の民主主義はというと、これはもともと小さい共同体社会で行われていた直接民主制を指したことばである。その共同体のメンバーの全員が寄り集まって議論し、共同体に関係するものごとを決めるのが民主主義のやり方である。メンバーのあいだに差別を持ちこむことは厳しく禁止されていた。だから、権利も義務もできるだけ平等になるよう配慮された。役職の分担も、持ち回りか、そうでなければくじ引きで決めた。選挙というやり方はこの本来の民主主義では許されなかった。なぜなら、選挙は「すぐれた人を選ぶ」ために行うものであり、それは共同体のメンバーに「すぐれた人とそうでない人」という差別を持ちこむことになるからだ。

 もっとも、ここで「民主主義」に参加することのできる人は多くのばあい家長の男性に限られていて、子どもや女性は参加できなかったから、完全に「共同体の全員」が参加したわけではない。なお、近代のヨーロッパというと、個人主義がすでに普及した世界で、家制度などなかったように思われているかも知れないが、実際には逆で、家制度が強固に存在していた。この時代の「個人主義」は実際には「家長である男性」の個人主義でしかなかったのである。「民主主義」も同じで、あくまで家長男性間の全員参加・平等の仕組みだった。

 19世紀になって産業革命が本格化して「市民」が全般的に豊かになると、貴族と「市民」の差が埋まり始め、議会のなかで「市民」を代表する部分が力を強めた。ヨーロッパの諸国で革命が繰り返され、体制が作りかえられるとともに、議会のなかで聖職者や貴族を代表する部分は姿を消し、議会は「市民」の代表が力を持つ場に変わって行った。議会制は「市民」が意見を出し合い、議論する場になって行ったのだ。

 ここでしつこく「市民」にカッコをつけたのは、やはりその「市民」がかなりの財産の持ち主だったからだ。その点では身分別議会の時代とあまり変わらなかった。町の労働者や普通の労働者や農牧民や漁民や貧しい移民は議会とは直接の関係を持っていなかった。貴族などの特別な身分以外で議会に代表を送れる人びとを「市民」と呼ぶなら、民衆はまだ「市民」扱いされていなかったのである。

 民衆はまだ議会の外で活動していた。たとえば、フランスでは、フランス大革命から1871年のパリ・コミューン事件まで、あまり多くの財産を持っていない都市の民衆や農民はそれぞれ議会とは別に独自の活発な動きを見せた。民衆の世界では、この時期にも権利も義務もできるだけ平等に分担するという昔ながらの民主主義の原則が生きていた。

 そんななかから、貧しい民衆でも議会に代表を送れるようにするための運動が力を持ってきた。また、国家と都市の近代化とともに、民衆が昔ながらの民主主義的な組織を保ちつづけるのも難しくなってきた。たとえば、フランスでは、フランス革命の時代には、民衆が町の組織を基盤に自ら武装して独自の軍事活動や治安維持活動を展開していた。しかし、1871年、パリの民衆が立ち上がって自ら都市の政治権力を握ろうとしたパリ・コミューンの敗北を最後に、そのようなことは許されなくなっていく。民主主義は、全員参加・平等という原則を捨て、選挙を受け入れることで、議会制と結びついていった。「議会制」と「民主主義」が融合するのはその時期――19世紀後半に入ってからのことなのだ。

 だから、ここでは、その展開を踏まえて、「議会制」と「民主主義」の両方と財産との関係を見ていくことにしたい。


議会制は「カネ儲けする市民」に支えられる

 現在につづく議会制支配の基礎理論をうち立てたのはイギリスのジョン・ロック(1632〜1704年。あら今年が没後300年だ。政治学界や経験主義哲学界でイベントとかないのかな?)だ。ロックは、『市民政府論』で、国の支配の主体はその国の国民(「市民」)なのだということを説明した。「市民」には、「社会契約」によって国の支配をうち立てる権利がある。また、悪い支配に抵抗する権利、悪い支配を打ち倒す権利なども持っている。アメリカ独立の理論的基礎になったのがこのロックの理論だという(政治学者の松下圭一氏による)

 ロックの『市民政府論』は『統治論』や『統治論第二篇』とも呼ばれる。もともとは『支配論』とでも呼ぶべき本の後半部分である。前半は、「王の支配権は、神がアダムに与えた父としての権力を受け継いだものである」という神がかりな支配権論を強く批判した文章……らしい(この前半部自体はじつは読んだことがないのでよく知らない。後半の最初にロック自身によるかんたんな要約がついている)。この後半部分では、それを受けて、では国の支配はどのような根拠で成り立つのかという議論が展開される。そして、国の支配権はその国の人びとから「契約」によって与えられるのだという考え――社会契約論――が述べられる。なお、題名の Civil Government は、「市民の政府」というよりは「国の支配のありかた」について論じたもので、『市民政府論』という訳がベストの訳とは思わないが、「統治論」というのも上から下への支配のみを論じているような感じがしてあまり適当でないように思うので、ここでは『市民政府論』と呼んでおく。

 ところで、このロックの理論は、「自由にカネ儲けをする市民(一般国民)」という存在を前提に組み立てられている。

 ロックは、神がかり的な理論(王権神授説)による王の支配や、広大な土地を支配の基盤とする古い型の貴族の支配を、根拠のないものとして厳しく批判した。だが、市民がカネ儲けをして「カネとしての財産」を蓄えることにはまったく反対しなかった。むしろ、カネ儲けを奨励し、「自由にカネ儲けをする市民」を基礎として政治的支配を構想したのだ。

 ロックが広大な土地を独り占めする貴族の支配を批判したのは、今日風にいえば、そのようなことをすると人間に与えられている資源がむだになるという理由からだった。

 人間はこの世の資源をすみずみまで有効に活用しなければならず、むだにしてはいけない。その理由づけは、「資源は神から人間に与えられているものだから、資源をむだにすると神の意志に逆らうことになる」という神がかり的なものだったけれど、この倫理観そのものは現在でも十分に意義があると思う。「地球環境の危機」があちこちで強調される時代に、人間全体がどうやって地球資源を配分していくかということを考えると、このロックの理論は一つの原則になりうると思うのだ。もっとも「何のむだづかいもしない世のなか」なんてすごくつまらないだろうなとは思うけどね。

 話をロックの議論に戻そう。ロックは、だから、人間はその生活のなかで消費してしまえる以上のものを所有してはいけないと論じる。土地をたくさん持つことはその原則に反する。土地をたくさん持って、その土地の収穫物を独り占めしたところで、収穫物は貯蔵しているうちに腐ったりねずみに食われたりしてダメになってしまうからだ。それはこの世の資源のむだづかいであるからけっして許されない。だから、土地をたくさん所有して収穫物を独り占めにするのは正しくないことであり、土地をたくさん持ってそれを権力の基礎にしている貴族の支配は認められないというわけだ。

 では、市民がカネを蓄え、それを基盤に政治を動かすのはいいのか?

 いいのである。なぜなら、カネは腐らないし、ねずみに食われることもないからだ。金貨や銀貨ならば錆びることもない。だから、モノがカネになってしまえば、それはいつまで経っても有効に活用できる資源になる。カネに姿を変えてしまえば、人間に与えられた資源はけっしてむだになることがない。だから、土地をたくさん持つのはダメだけれど、カネを貯めこむのはちっともかまわないのである。

 学生のときにはじめて『市民政府論』のこの部分を読んだときには、正直に言って、「わー、このひと言ってることがむちゃくちゃだよ」と思った。土地(具体的にはその土地の収穫物)を蓄えようがカネを蓄えようが、この世の富を一人の人間が大量に集めることに変わりはない。一人の人間に土地が集中しようがカネが集中しようが、不平等な社会であることに違いはないのだ。土地のまま持っているのがダメだからといって、土地持ちの貴族がその土地を売り払って土地をぜんぶカネに変え、そのカネの力で社会を支配したらどうだろう? ロックの基準ではそれはいいということになる。それでは社会の不平等さはまったく変わらないではないか! こんなトンデモな議論(当時はまだ「トンデモ本」などという概念はなかったけれど)を政治学の古典だと言って持ち上げる政治学の先生方の気が知れない。日本の政治学なんてたいしたことないな。――無知というのは恐ろしいもので、そのころはそんなふうに思っていたものだ。

 もちろん、ロックが三百年以上前のイギリスでこのような理論を主張したのにはそれなりの理由がある。これはだだっ広い農地と屋敷地を構える「大土地持ちの貴族」がイギリスのあちこちにいて、社会的に大きな影響力を持っていた時代の政治批判なのだ。その「大土地持ちの貴族」が、その土地を売り払って、その土地の価値をカネに変えてしまうことなど考えられなかった。なにしろ土地はいつも同じ場所にあり、そこでは、年によって出来不出来はあるだろうけれど、ともかく毎年農産物を収穫することができる。だがカネは「天下の回りもの」だ。手もとに来たカネがいつ出て行ってしまうかもわからない。出て行ったカネは二度と戻ってこないかも知れない。土地をそんな不確実なものに変えることなど貴族の殿様たちが考えるはずもない。それに、町人どもが扱うカネなどと先祖伝来の土地とを引き換えたりしてなるものかという殿様たちのプライドもあっただろう。

 その貴族の殿様たちに対して、あんたたちの軽蔑している町人ども――つまり市民が扱うカネのほうが、よほど神に祝福された財産なんですぜと厳しい批判を投げかけたのがこのロックの理論だったのだ。

 けれども、そういう時代の制約を超えて、ロックの「人間はこの世の資源をむだにしてはいけない。しかし、カネは腐らないから、いくら蓄えてもこの世の資源をむだにしていることにはならず、だからいくら蓄えてもかまわない」という考えは、貨幣の本質を衝いた考えかただと思う。カネは、金貨や銀貨で蓄えられていた時代から、やがて紙幣へと姿を変え、いまでは大半のカネは銀行のコンピューターのなかの数字として存在している。つまりカネはこの世にしっかりした姿を持たない「情報」になってしまったのだ。そしてその「情報」は腐らない。ねずみにかじられることもない(銀行のオンラインシステムの配線がねずみにかじられてダウンして預金や融資の情報がぜんぶ消えちゃいました――なんてことが起こらないかぎり。まさかとは思うけどだいじょうぶでしょうね?! > 銀行さん)。一方で、「情報」はたしかな姿をどこにも持っていない。貴族の殿様が先祖伝来の土地に対して持っていた「確かさ」の安心感は、「情報」に化けてしまったカネにはもうどこにもない。そういう展開を踏まえて、「腐るかどうか」を基準にしたロックの議論を今日風に言い換えると、「情報はいくら所有しても地球資源のむだにはならないが、地球資源をむだにしないで所有できるモノの量には限度がある」ということになるだろう(実際にはコンピューターのなかに情報を所有するといっても電力は消費するし、情報を記録する磁気媒体も消費するから、まったくモノを使わないわけではないが)。これは今日の世界のいろんな問題――環境問題だけでなく知的財産権の問題とかまで――を考えるうえで一つの基準になるのではないかと思う。

 話をもとに戻そう。ロックは、「大土地持ち貴族」が土地という財産をバックに支配することを否定したが、「市民」のカネ儲けは正当化した。そして、その「市民」が主体となる政治こそが正しい政治のやり方だと論じたのである。


日本のばあい

 日本でも、明治初期に議会の開設を強く主張した福澤諭吉や中江兆民は、「カネ儲けをして豊かになる」ことをけっして否定的に考えていない。

 福澤諭吉が『学問のすすめ』と並ぶ代表作『文明論()概略』を書いたとき、ネタ本にしたうちの一冊がフランスのギゾーの『ヨーロッパ文明史』だった。ギゾーは、銀行家貴族を支持基盤にしたと言われるフランスの七月王制(1830〜48年。国王ルイ・フィリップは「銀行家の王」と呼ばれた)の末期に総理大臣を務め、選挙権拡大を求める改革派に対して「選挙権がほしければカネ持ちになりたまえ」と言い放って評判を落とした人物だ。このギゾーの失政のおかげで七月王制は革命を起こされて崩壊する(→「18世紀末〜19世紀フランスの政治的事件」年表。ギゾーは、市民がカネ儲けをしてカネを蓄え、そのカネの力で政治を支配することをあたりまえだと思っていた議会政治家だった。

 ところで、このギゾーは政治家にして文明論者であり、文筆家としても有名な人物だった。七月王制時代にギゾーとともに活躍した政治家で、後に1871年のパリ・コミューン事件後の指導者になるティエールも文筆家だった。さらに、1848年にギゾーを追いこんだ革命運動の中心人物の一人ラマルティーヌは詩人である。19世紀のフランスは政治家と文筆家や詩人とが重なり合う文学的な国だったらしい。

 今回、めでたく一万円札の肖像に生き残った福澤諭吉もそのギゾーの精神を受け継いでいる(どうせなら祐巳ちゃんが肖像のほうがよかったかも。もっともそうなったら一部で一万円札のすさまじい退蔵が起こると思うけどね……ってわけのわからない人はここを見るか、気にしないで読み飛ばしてください)

 福澤諭吉は『学問のすすめ』の最初に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといえり」と書いている(では祐巳の最初のセリフはなんだったでしょう……って私にもわからないです、この答え)。人間を生まれで差別してはいけないというわけだ。けれども、この『学問のすすめ』の最初の章でいちばん言いたいことは、じつは「人間はみんな生まれつき平等だ」ということではない。それは前提に過ぎない。平等に生まれついている人間も、その後の生きかたで豊かにもなれば貧しくもなる。指導者や社会のエリートになれるかも知れないが、箸にも棒にもかからない人間として一生を送るかも知れない。どうせだったら豊かになろう、エリートになろう。そのためには学問が必要だ、いや、学問は、人より豊かになるために、エリートになるために役立つものでなければならない。それが福澤のいう「学問」の役割であり、また福澤のいう「学問」だったのだ。

 対する中江兆民はというと、議会制の支配を明確に否定したジャン・ジャック・ルソー(1712〜78年)の紹介者として有名だ。ルソー自身が貧乏だったこともあり、ルソーは「カネ持ちの支配」にあまり好感を持っていない。兆民もカネ持ちだけが権力を握ることのできるような社会のあり方を批判した。けれども人びとがカネを儲けることの自由をけっして否定はしていない。兆民自身も実業に関心を持っていたようである。また、兆民は、ルソーと違って議会制に意義を認めていたし、議会制度が健全に発展することを望んだ議会制論者でもあった。


民主主義はもともと「小金持ち」のものだった

 ここまで、議会制の支持者が同時に「市民」のカネ儲けを否定しなかった、むしろ「市民」のカネ儲けを積極的に肯定したということを見てきた。では、「民主主義」のほうはどうだっただろう?

 ヨーロッパでは、19世紀まで、「民主主義」とは財産を持たない者たちの支配であり、無秩序と混乱以外の何も意味しないという通念があったようだ。

 ヨーロッパは民主主義の本家みたいに論じられることもある。さすがに最近はあまり見なくなったが、以前は「ヨーロッパには民主主義の伝統があるのにくらべて、日本には民主主義の伝統がない。だから日本の政治はダメなんだ」というような日本政治批判もよく見かけたものだ。

 たしかに民主主義はヨーロッパの伝統だ。しかし、それは、19世紀までの長いあいだ、よくないものとして位置づけられてきた。少なくとも君主制(帝制、王制)や貴族制とバランスをとられていない「野放しの民主主義」は危険なものと見られてきたのだ。

 ところが、実際には民主主義は「財産を持たない者たちの支配」を意味しなかった。古代でもフランス革命時代でも、民主主義の担い手は、大財産の持ち主ではなかったが、そこそこの財産は持っていたのだ。

 現在のアテネ(こないだオリンピックとパラリンピックが開かれた都市)はギリシアの首都だが、古代にはアテネはアテネの都市を中心とする領域を支配する一つの国家だった。その古代アテネで紀元前5世紀に民主主義政治が成立する。その担い手はある程度の財産を持った男性に限られていた。

 自分で直接に手を動かして仕事をしなくてすむ程度に財産があることがアテネ市民(=アテネ国民)の条件だった。直接に手を動かして仕事をするのは主として奴隷の役目で、(現実はともかく、理想を言えば)直接に手を動かす仕事から解放されてものを考えたり論じたりすることに集中できることが、民主政治の担い手の条件だったのである。そうでない市民は、海外の植民地に出て行くか、奴隷になって他の市民の生活を支えるかしか方法がなかった。古代アテネの民主主義は、そこそこの財産を持った市民がたくさんいたことによって成り立っていた。だから、その市民たちが、疫病で大量に倒れたり、スパルタ(正式国名はラケダイモン)との長い戦争で倒れたりすると、民主政治は基盤を失って崩壊したのだ。

 フランス革命時代のフランスの大都市(パリを代表とする)の民主主義もそうだった。大革命でブルボン家の支配に反抗し、貴族中心の穏健な共和制にも反対し、1848年にルイ・フィリップ王とギゾー内閣に対して立ち上がった民主主義者たちは、大財産は持っていなかったけれど、ろくに財産を持っていない民衆でもなかった。自分の家や個人商店ぐらいは持っている市民たちだったのだ。

 だから、フランスの民主主義者たちは、一方で大土地持ちの貴族や大銀行家の貴族、大金持ちの市民たちの支配に反対すると同時に、何の財産も持っていないような都市の下層民衆(最近めっきり聞かなくなったことばで「プロレタリア」というのがこの層の人びとのことである。日本語では「無産者」という)にも警戒の目を向けた。「小金持ち」の民主主義者たちから見れば、小金さえ持っていない無産者こそどんな乱暴なことをするかわからないというわけだ。「小金持ち」の民主主義者たちは、自分たち自身で全員参加の話し合いや平等な役割分担で自分たちの共同体を運営していることに誇りを持っていた。その裏返しとして、「小金さえ持っていない」無産者を軽蔑し、その無産者に自分たちの共同体や運動をぶち壊されるのを恐れていたのだ。

 無産者の「乱暴」への恐怖は「大土地持ち」や「大金持ち」よりも「小金持ち」の民主主義者のほうが強かったかも知れない。「大土地持ち」や「大金持ち」ならば、暴動や掠奪で多少の財産を失っても、財産全体から見れば微々たる損害ですむかも知れない。だが「小金持ち」は暴動や掠奪で自分の財産を失ったらおしまいなのだ。無産者に転落するしか道はない。また、「小金持ち」の民主主義者は、「大土地持ち」や「大金持ち」からは自分たちが無産者と同じように「乱暴で何をするかわからない」と見られていることに勘づいていたのだろう。それだけに逆に自分たちと「小金持ちですらない無産者」とは違うことを強調したがったのかも知れない。


「小金持ち」社会の議会制民主主義

 議会制はもともと「カネ持ち」になることを肯定した上に成り立っていた。民主主義は、19世紀前半までに議会制を支えた「カネ持ち」ほど豊かではないが、そこそこの財産を持った大勢の市民に支えられていた。「大金持ち」だけのものだった議会がしだいに「小金持ち」にまで開かれるようになり、同時に、社会の変化で全員参加とか平等な役割分担とかが成り立たなくなって民主主義が変質を迫られるなかで、議会制と民主主義がくっついて議会制民主主義ができた。20世紀になると、やがてどんな人でも原則として選挙に参加できる制度が議会制民主主義に導入されていく。

 この変化には、戦争が大規模化して、ろくに財産を持っていない人たちも戦争で大きな役割を果たすようになったという殺伐とした事情も関係している。ろくに財産を持っていない人たちにも、政治に参加して、戦争するかしないかの決定に関与できるようにしておかないと戦争に勝てない。実際に戦場に出る人たちの同意なしに戦争を始めたりすると、士気が上がらずに負けてしまう可能性があるからだ(だから、逆に言うと、戦場に出ない女性の参政権は軽視されたのである)

 しかし、同時に、この時代に議会制民主主義を導入していた国ぐにでは、すべてとは言わないにしても、多くの国民が「そこそこの財産」は持つ「小金持ち」には成長していた。かつてのフランスの大都市の民主主義者たちのように自分の家や店を持つとまでは行かないにしても、さしあたって住む場所にも食うものにも仕事にも困らない生活がいちおうできるようにはなっていた。議会制民主主義はそういう「ささやかな小金持ちがいっぱいいる」社会を前提にして成り立っていたのだ。


無産者は社会の秩序を形成できるか?

 それにしても、どうして「そこそこの財産」を持つ人間が多くないと議会制民主主義は成立しないのだろうか?

 「ほとんど何の財産を持たない人たち」には社会の秩序を作る能力がないから――というのが昔ながらの答えだろう。

 しかし、ほんとうにそうなのか?

 19世紀のヨーロッパでは、「大金持ち」は「小金持ち」の市民には政治的秩序を作って維持する能力はないと考えていた。「小金持ち」たちは、自分たちには民主主義(議会制になる前の民主主義)的に政治を運営する能力があるけれども、自分たちより下の「ほとんど何の財産も持たない人たち」はその能力はないと考えていた。

 ということは、「政治的秩序を作ることができない」という非難は、財産面で見て自分たちより下の集団を政治に参加させないための口実に過ぎないのではないか。本音は自分より下の人びとが参加してくることで社会のなかの自分たちの「取り分」が減ることを避けたいだけではないのか。あるいは、異質な集団が自分たちの仲間に入ってくることへの恐れを正当化するための偏見ではないか。そんなふうにも考えられる。

 たしかにどんなに財産のない集団にも一定の秩序意識はあるものだ。たとえば、フランス革命前のフランスの大都市では、何か悪いことをやった(とその人たちが考える)カネ持ちや有力者への抗議として、あまり財産を持たない人たちが家に押し入り、家財道具を破壊することがあった。しかし、家そのものを破壊したり燃やしたりはけっしてしなかったという。社会的な抗議として許される暴力の範囲を限定し、どんな抗議行動でもそれに従わなければならないという秩序意識はあったのだ。日本でも、ほとんど財産を持たない人たちが一定の秩序意識を持ち、ばあいによっては集団行動をしていたことは、網野善彦氏やその師匠にあたる宮本常一氏の研究から読みとることができる(網野氏の研究については→「網野善彦氏の仕事について」

 だから、「ほとんど財産を持たない人たち」に秩序意識がないとは言えない。たしかに、「小金持ち」の秩序意識は「大金持ち」の秩序意識とは違うだろうし、「ほとんど財産を持たない人たち」(無産者)の秩序意識も「小金持ち」の秩序意識とは違っているだろう。あのバグダードで白昼に明るく掠奪をしていた人たちにも何かの秩序意識――もしかすると相当に強い秩序意識――はあるに違いないと思う。


社会の主要な秩序を維持する秩序意識

 けれども――と、ここから話をひっくり返す。

 議会制民主主義を運営するには、ただ「秩序意識」があるだけではダメなのだ。

 どんな社会でも、社会の秩序というのは、たった一つの秩序では成り立っていないのがふつうだと思う。どの社会の秩序もじつはいくつもの秩序で成り立っていて、そのなかには社会全体を支える主要な秩序と、社会の一部分を支えているだけの部分的な秩序がある。たとえば、国際社会には主権国家を単位とする主要な秩序があるが、ほかにも先進国のあいだだけで通用する秩序とか、同じ宗教を信じる人びとのあいだの秩序とか、国境を越える運動体(NGO)のネットワークの秩序とかいろいろな秩序などがあって、互いに影響を及ぼし合っている。日本社会にも、社会全体を成り立たせている、憲法を頂点とする法秩序があるが、法秩序とは別に人びとが持っている正義についての意識が構成する秩序もあるし、企業社会が織りなす秩序みたいなものもある。

 「ほとんど財産を持たない人たち」(無産者)の秩序意識は社会全体を支える主要な秩序を作れるだろうか?

 難しい問題である。19世紀から20世紀前半のアナーキスト(無政府主義)思想家は、社会から人間を抑圧する仕組みをなくし、人間がほんらい持っている人間どうしの思いやりや連帯感を十分に発揮させれば、無産者の連帯で社会秩序は守られると考えた。アナーキストと対立したマルクス主義者の無産者に対する見かたはもう少し複雑だ。社会主義の原則できちんと組織された無産者は強い力を発揮する。しかし、組織されないバラバラの無産者(マルクス主義では「ルンペン・プロレタリアート」と呼んでいる)は、自分で秩序を作ることができず、権力者の手先になってしまう可能性さえあると考える。

 私は、現在の社会の条件では、「ほとんど財産を持たない人たち」だけで社会全体を支える主要な秩序を作るのは無理だと判断している。それは、たとえば、1966年から76年まで展開された中国の文化大革命や、現在のイスラム「原理主義」の「国際テロリスト」組織の動きなどの「状況証拠」から判断した結果だ。

 中国の文化大革命(「無産階級文化大革命」といったはずだ)は、ほんとうの無産者の運動というよりは、エリートの学生たちがなりふり構わず無産者の振りをしようとして起こした過激な運動で、無産者自身の運動とは言えない面があるが、どちらにしてもそれは無産者の名において有産者の文化を破壊する「文化大破壊」以上のことはできなかった。「原理主義」の「国際テロリスト」にしても、本人たちは無産者とは限らないが(有名なウサーマ・ビン‐ラーディンなんか財閥の息子である)、イスラム世界の「ほとんど財産を持たない人たち」(無産者)の層の存在がこの「テロリスト」の活動に影響を与えているのは確かである。しかし、「原理主義」は、三権分立の議会制政治機構を利用したイランの例などを除くと、支配の確立に成功していない。

 ソ連のような社会主義国家はどうだろうか? ソ連型の社会主義国家(マルクス‐レーニン主義の国家)は無産者(プロレタリアート)の国家であると名のっていた。しかしその実態は共産党独裁だった。共産党は自分たちは無産者に支持されているとしてその支配を正当化していた。けれども、実際には、自分たちの支配に対する反対を軍や秘密警察を使って強引に押さえこんで、無産者に支持されているというかたちを無理やり作っていただけだ。それは共産党を心から支持した無産者もいただろう。けれども、いずれにしても、共産党支配の理論は無産者が作り出したものではない。共産党支配の理論を作ったのは、マルクスとかレーニンとか、もっと財産を持っている人びとのなかから出てきた理論家たちだ。だから、共産党支配が仮に無産者に支持された支配だったとしても、それは無産者自身の秩序意識によって作られたものとはいえない。

 そんな「状況証拠」から、無産者自身の秩序意識は、現在のところ社会全体を支える主要な秩序を作り上げることはできないと私は判断している。もしかすると将来はそうではなくなるかも知れない。また、そもそも私の判断がまちがっているのかも知れない。「状況証拠」だけからの判断は危ういものだとは私にもよくわかっている。けれども、現在のところ、無産者の秩序意識だけで社会全体を支える主要な秩序は形成できないといちおう考えたうえで、その先のことを構想するほうがよいだろうと私は思っている。


「そこそこの財産」の持ち主は安全で安定した社会を望む

 では、「そこそこの財産」を持っている人たちならばどうして社会全体を支える主要な秩序を形成できるのか? これも確かなことはわからない。しかし、やはり「財産を守らなければならないから」という答えは容易に思いつく。

 社会が混乱していて、いつ無法者が侵入して財産を掠奪していくかわからないような社会では、「そこそこの財産」を持っている人は安心して生きられない。明日になればいきなり社会の仕組みが変わっていまの財産が無一文になってしまうとか、明日出勤してみれば自分の仕事がなくなっていて会社をほうり出されるとか、そんなことが起こる社会では、財産を持っている人たちは不安で生きられない。たしかに「ほとんど財産を持たない人びと」(無産者)からすると、そんな不安を持てること自体がぜいたくで、財産が無一文になったって仕事をクビになったって生きられればいいじゃないかということになるのだろう。けれども財産を持ってしまった人はその財産に強く執着する。財産に――というより、財産があることを前提にした家族全体の生活に、だ。しかも、その執着は、先に19世紀の民主主義者について書いたように、大財産を持っている人よりも「そこそこの財産」しか持たない人のほうが強い。

 だから「そこそこの財産」を持っている人たちは安全で安定した社会を強く望む。

 その人たちは口では「変革が必要だ」などと言うかも知れない。現在、日本で小泉政権や石原都政を支持している人たちのようにだ。しかし、その人たちは、自分たちの周囲の社会の安全や安定が失われることをけっして望まない。「大金持ち」や「ほとんど財産を持たない人たち」の生活がひっくり返ることにはあまり関心を寄せないが、「小金持ち」である自分の生活がひっくり返ることは予想もしていないし、もちろん期待もしていない。いまの日本で支持されている「変革」とは、「そこそこ財産を持つ小金持ち」の人たちの生活をより安全に安定したものにしてくれる(とその人たちが思いこんでいる)「変革」だけである。

 「そこそこの財産」を持っている人たちはどうしても保守的になる。すでに議会制民主主義が成立している国では、その保守性がときとして政治を根本的に改革したり政治を活性化したりするのを阻む否定的な役割を果たすこともあるだろう。だが、これから議会制民主主義を樹立して運営していこうという国では、ある程度の保守性は必要だと思う。

 議員さんたちが「いろいろ問題はあるけれど、ともかくそこそこ財産を持っている人たちが安心して暮らせるように大激動になることだけは避けよう」という合意の上で議論し、ものごとを決め、ねばり強く対立を調整していく。そのことによって議会制は安定する。もちろん議員だけが「そこそこ財産を持っている人」であっても意味はない。その議員を支持している大勢の人びとが「そこそこ財産を持っている人」でなければいけない。社会が大激動になってもいいと思っている人たちや、むしろ大激動になることを期待している人たちが議会の外にいて、議員たちを支持している状態では、議員たちだって「大激動を避ける」ことを優先してねばり強く議論をつづける動機を持てなくなってしまう。大乱闘の末国会が混乱、そして軍が介入して軍事政権――なぁんてことになりかねない。


もういちど「中東民主化」のこと

 最後にもういちど「中東民主化」という課題に戻るとしよう。

 イラクにしたって、アフガニスタンにしたって、「民主化」を本気で達成したければ、やらなければならないことは「そこそこ財産を持っている小金持ち」が社会の多数を占めるような社会を作ることだ。そうすれば議会制民主主義は安定する。そんな社会に「テロリスト」がいたとしても、社会から孤立して支持を失い、活動しにくくなってしまうだろう。

 逆に、一部の人だけが「大金持ち」になり、社会の大多数が「ほとんど財産を持っていない無産者」になるような状態を実現しても、議会制民主主義は安定しない。議会制民主主義の政治体制は一部の「大金持ち」のものになり、社会の大多数の人たちはそんな政治体制を守ることに何の熱意も感じなくなるだろう。むしろそんな政府はなくなってほしいと願うかも知れない。そうなれば「テロリスト」はつぶしてもつぶしても国内外からつぎつぎに現れることになるだろう。

 ここで、イラク・アフガニスタンと並ぶ「中東問題」として、パレスチナ問題にも触れておきたい。

 パレスチナ問題だって、本質は「ほとんど財産を持っていない人びと」と「財産を持っている人びと」の対立である。パレスチナ人の多くは貧しく、パレスチナ自治区には儲かる産業がほとんどないので、自分たちを敵視しているユダヤ人のところで働かなければならない(かつてはパレスチナ内部の富の偏りということも指摘されていたが、あそこまで都市部を廃墟だらけにされたパレスチナ自治区にいまもその問題は残っているのだろうか?)。そのパレスチナ人たちの土地に「入植」と称してユダヤ人たちが住みつく。そしてそのユダヤ人たちはそこそこ豊かな暮らしを築き上げる。イスラエル政府やユダヤ人組織のバックアップがあるからだ。自分たちの土地に入りこんできたユダヤ人たちのそんな暮らしぶりを見てパレスチナ人に心穏やかでいろというほうが私は無理だと思う(この部分の記述は立山良司氏の著書を参考にした)。パレスチナ人のその憤りを「イスラム原理主義」組織が取りこみ、一部の人びとを「自爆テロ」に駆り立てている。その歴然とした経済格差が相次ぐ「自爆テロ」の背景にあるのだ。けっして「ユダヤ教とイスラム教の宗教対立」が本質なのではないと私は判断している。

 「自爆テロ」の連続をなくしたければ、パレスチナ自治区をイスラエルに負けないぐらい豊かな国にすればいい。それで問題がすべて解決するわけではないが、そんな状況で自爆テロを繰り返している組織はパレスチナ人たちの支持を失うだろう。

 だがイスラエルのシャロン政権はそのような選択をしていない。「テロリスト」制圧を唱えつつパレスチナの社会資本の破壊を進め、そしてそのパレスチナとのあいだに万里の長城のような長い壁を築いて貧困地区としてのパレスチナを封じこめようとしている。「ほとんど財産を持たない人たち」を「そこそこ財産を持つ人たち」に成長させるのではなく、「ほとんど財産を持たない人たち」との接触を完全に断ってしまって自分たちの安全を確保しようという考えだ。そしてアメリカのブッシュ政権はそれを支持している。

 だが、その「壁による隔離」の政策は、たとえパレスチナのような狭い土地で短い期間に限ってならば有効かも知れないが、イラクやアフガニスタンのような広い場所では行いようがない。シャロン政権は「パレスチナ自治区」を「テロリストの温床」と見なすことで、その「温床」と自分の国との間に長い壁を築き、「テロリスト」の侵入を阻止しようとしているわけだが、(その「見なし」がそもそもむちゃだということはここでは論じないとしても)それと同じ方法は「テロリストの温床」が特定できていないと使えない。イラクやアフガニスタンではそれができない。「ほとんど財産を持たない人たち」の国を完全に隔離してしまうというやり方は使えないのだ。

 そうなると、やはり「ほとんど財産を持たない人たち」を「そこそこ財産を持つ人たち」に変えていくしか根本的な解決法はない。パレスチナ問題だって、最終的には、パレスチナをパレスチナの産業だけで自立していける国にして、パレスチナ人たちを「そこそこ財産を持っている人たち」に変えるしか解決法はないだろう(もちろんイスラエル人とパレスチナ人が同じ地域で共存していくとするなら、だが)

 ほんとうに「中東民主化」と言うのならば、巨万の財産を自分の国から持ち出してでも「そこそこの財産を持った小金持ち」がいっぱいいる社会をイラクなりアフガニスタンなりに築くために最大限の援助を効果的に行わなければならない。パレスチナ問題を少しでも解決の方向に向かわせたいならば、パレスチナの人びとがパレスチナでそこそこぐらいならば豊かになれる社会を作る手助けをどんどん進めなければならない。武力で「テロリスト」に対抗することも必要かも知れない。しかしそれは一時的な「対症療法」にすぎない。「テロリスト」攻撃を理由に都市と国土を破壊してそれを民主化と名づけても、それはアメリカやその同盟国の自己満足にしかならない。


どうやって「そこそこの小金持ちの国」を作るか?

 残った問題としては、どうやって「そこそこの財産を持った小金持ち」がたくさんいる社会を作るかという難問がある。

 たんに援助をたくさん注ぎこむだけでは無理だ。一時的な援助は一種の「あぶく銭」で身につかないし、それ以上にその援助で甘い汁を吸う一部の人間だけを豊かにさせてしまい、「一握りの大金持ちとほとんど財産を持たない大部分の人たち」という社会を作ってしまう危険があるからだ。自立した産業があって、その産業によって「そこそこの財産を持った小金持ち」が生計を立てていけるような国でなければ、「そこそこの財産を持った小金持ち」がたくさん存在する国にはならない。

 では、どうやればそういう国ができるのだろう?

 議会制民主主義自体が、「一握りの大金持ちとほとんど財産を持たない大部分の人たち」という財産の偏りを是正して、「そこそこの財産を持った小金持ち」が多数という社会を作れるだろうか? 19世紀から20世紀の歴史を見ると、議会制への参加権(選挙権と被選挙権)の拡大はたしかに社会のなかでの「そこそこの財産を持った小金持ち」の増加と同時に起こっていた。しかし、議会制がその社会の変化を促したかというと、それは疑問だ。産業の発展が「そこそこの財産を持った小金持ち」の増加を促し、そうやって力をつけた「小金持ち」たちの運動の圧力で議会の側が変わっていった。そう見るべきではないだろうか?

 「一握りの大金持ちとほとんど財産を持たない大部分の人たち」という財産の偏りのある社会で議会制を導入すると、議会が「一握りの大金持ち」たちだけのものになってしまう危険がある。そして、「ほとんど財産を持たない大部分の人たち」を、目先の人気取り政策をちらつかせることで党派対立に巻きこんで、「一握りの大金持ち」たちのあいだで政争を繰り広げる。社会の構造自体は少しも変わらない。そうなる可能性のほうが高いのではないだろうか?

 「一握りの大金持ちとほとんど財産を持たない大部分の人たち」という社会を「そこそこの財産を持った小金持ち」がたくさんいる社会へと変えていくためには、まず議会という仕組みを作り、そこに財産の区別なく全国民が参加していけるしくみを作ることがだいじだけれど、それにつづいてやはり安定した産業社会を発達させることが必要だろう。イラクやアフガニスタンやパレスチナでそんな社会を作るには、やはり外国や国際機関の適切な関与が必要だと思う(どういう関与が「適切」かは現在の私には残念ながらわからないけれど)

 同時に、国内でも、財産が一部の人に偏るのを抑止し、多くの人が均等に豊かになれるような社会を作るような制度を運用する必要がある。世界には「なりふり構わず自分だけが豊かになること」よりも「みんなが平等に豊かになること」を優先する思想や宗教の体系が存在する。社会主義やイスラム教(イスラーム)だ。

 社会主義は、適用のしかたを失敗すれば、かつてのソ連型社会主義国のように「だれも豊かになれないように足を引っぱり合う」という悪平等になってしまう可能性がある。しかし、社会主義的なやり方を部分的に取りこむことで、社会の全体を豊かにし、「そこそこの財産を持った小金持ち」が社会の多数を占める社会を作ることだって可能だ。国際情勢など特殊な条件が関係しているものの、戦後の日本やニューディール政策時代のアメリカはともかくそれで成功を収めることができたのだ。イギリスのブレア首相だって、「テロとの戦争」が始まるまでは、資本主義社会に社会主義的な手法を部分的に適用して、1980年代を中心とする保守党政権時代にたまった社会的な問題を解決していく手法で国際的にも評価されていた。「テロとの戦い」ばかり言わないで、そういう制度設計で「イラク復興」とやらに貢献すれば、もうちょっと国内的にも国際的にも人気が回復するんじゃないだろうか? まあよそ様の指導者のことだから口出しする気はないけど。

 イスラム教も「みんなが平等に豊かになる」という目標により適しているかも知れない。イラクでもアフガニスタンでもパレスチナでも多くの人がイスラム教を信じているから抵抗も少ない。それに、イスラム教は、もともとアラビアの商人たちの宗教で、「豊かになる」という目標を否定しない。また、信徒の基本的義務に「喜捨(きしゃ)(貧しい人びとへの寄附)」が含まれていることからもわかるように、財産的不平等を嫌う宗教だ。いま、イスラム教は、「原理主義」者の活動のおかげで、その破壊的な部分だけが目立ってしまっているけれど、中東の社会を改良していくためには十分に役立つはずの宗教である。

 社会主義でもイスラム主義でもいいから、産業を発展させ、同時に「みんなが平等に豊かになる」政策を展開して、「そこそこの財産を持った小金持ち」社会ができるようにする。国際社会もイラクやアフガニスタンやパレスチナがそうなるように援助する。すくなくとも「イラク復興支援」などと公言している国は自分の国の財産を持ちだしてでもそういう社会づくりを支援する。それはけっこう支援国に負担を強いることになるだろうし、かなり長い期間のねばり強い取り組みが必要になるだろう。でもそれが中東を民主化するために絶対に必要なことなのだ。

 いまアメリカとその同盟国がやっている「イラク復興支援」はそういうものとは違うように思う。アメリカは「豊かになれる者はどんどん豊かになれる、そうでない者は最低限の生活だけは保障されるがそれ以上豊かになることまでは保障されない」という社会のあり方をイラクやアフガニスタンにも広めたいようだ。それだと、「一握りの大金持ちとほとんど財産を持たない大部分の人たち」という社会はできるかも知れない。たぶんその「一握りの大金持ち」がアメリカと結びついて、アメリカに利益をもたらしてくれればハッピーというぐらいに考えているのだろう。だが、それでは「そこそこの財産を持った小金持ち」が多数を占める国はできない。

 それならそれでもかまわない。ただ、それだったら「中東民主化」などという看板は潔くさっさと下ろすべきだろう。


―― おわり ――