歴史家の網野善彦氏が2月27日に亡くなった。
網野氏が『無縁・
けれども、私が網野氏の著作を直接に読んで大きな影響を受けたのは1990年代に入ってからだった。注目され始めた時期からするとずっと遅い。
しかし、私にとっては、網野氏の仕事との出会いは、アニメ『赤ずきんチャチャ』との出会いに匹敵する大きなできごとだった。私がいまアトリエそねっとの活動をやっているのは『チャチャ』との出会いがあったからで、それと同じくらいの影響を受けたと言えば、私にとっての網野氏の仕事との出会いの衝撃の大きさを理解していただくことができる……かな?
網野氏の本来の研究分野は日本中世史である。私は日本中世史については関心はあるものの基本的に素人である。だから、ここでは、「歴史好きの素人」という立場から、網野氏の仕事をめぐって考えたことなどを書いてみたいと思う。
網野氏の本を読むまで、私にとっては「中世」というのは単調でつまらない時代だった。
かつて古墳めぐりが好きというへんな高校生だった私は、日本の古代史にはずっと興味を持っていた。また、近代史は、複雑でどうにもわけがわからなかったけど、やはり興味はあった。
何がおもしろかったのかというと、古代にしても近代にしても「動きのある時代」だと感じられたからだ。古代というのは統一王朝国家ができあがっていく過程で、内乱があったり政変があったり対外戦争があったりしてドラマティックでたいへんおもしろかった。近代も同じで、西郷隆盛が反乱を起こしたり、日清・日露の対外戦争があったり、板垣退助が暴漢に襲われて「板垣死すとも自由は死せず」と言ったり、鉄道が敷かれて蒸気機関車が走り始めたりとやはり動きのある時代だった。
それに較べて、中世(ここでは近世も含む)は全体に見るとどうも動きのない停滞した時代に見えた。武士の
変化がない。しかも、そのわりには学校の試験とか入試とかで覚えなければいけないことがやたらと多い。そんなわけで、中世から近世にかけては、もの好きで見るには退屈だし、勉強するとやたらと苦痛だしで、好きになれない時代だった。好きになれないというより、どう興味を持っていいのかわからないと言ったほうがいいかも知れない。
日本の中世史がどうしておもしろくない「停滞の時代」に感じられるのか?
その一つの原因は、第二次大戦期までの天皇中心の歴史観の影響だろうと思う。
天皇を中心に見たばあい、摂関政治が成立してから江戸時代末までは、天皇が実質的な権力を握ることができなかったという点では変化のない時代ということになる。変化がない上に、天皇が中心になって政治を行っているのがよい時代だという歴史観から見れば、あまりよくない時代である。その「変化のない、あまりよくない時代」が中世(中近世)ということになる。
天皇中心の歴史観は第二次大戦の敗戦でご破算になったはずだった。しかし、その後も歴史の整理のしかたはあまり変わらず、「天皇中心」という点だけが抜けて、歴史観の構図は第二次大戦後も温存されたのではないかと思う。
古代は大和(
小学校から高校にいたるまで、私が日本史で習った歴史像をまとめると、そんな中世像が生まれてくる。
これはじつはまちがいでもなんでもないのだ。
たしかに中世とはそういう側面がある時代だった。つまり、奈良時代に完成し、平安時代初期に修正を加えられた
たとえば、江戸時代中期(18世紀前半)の政治家大岡
中近世が引き継いでいたのはべつに古代国家体制だけに限らない。中世の途中で成立した制度の一部は、社会状況が大きく変わっても後の時代まで引き継がれている。たとえば、戦国大名が地方割拠して地方を完全に支配してしまうまでは、平安時代に成立した荘園制度がいちおう存続していた。摂関政治も院政も、政治的実権はまったくなくなっていたけれども、明治維新で廃止されるまで続いている。
中世というのは、政治体制や社会情勢が変わって役に立たなくなったり社会に適合しなくなったりした制度の多くを、変形させたり名目だけのものにしたりしながら温存した時代なのである。
そういう制度面だけ見れば、古代に天皇中心の国家制度が完成し、それが中世になって変則に変則を重ねて変なふうになっていくというふうにしか見えない。その変則の上に権力を成り立たせていた――変則の上にしか権力をうち立てられなかった集団が武士なのだ。そして、その変なふうになった制度を一挙に取っ払って「ご一新」したのが明治維新ということになる。明治国家も天皇中心の国家制度だ。そう見ると、たとえ第二次大戦期以前のように正面から天皇中心という立場を打ち出さなくても、中世は古代と近代のあいだの「なんか変なふうになっていた時代」みたいな位置づけになってしまう。
しかも、荘園制が確立した時代あたりから江戸時代までを「中世(近世も含む)」と呼ぶと、さらにそこに「中世は暗黒時代だ」というヨーロッパ史の歴史観が重なり合ってしまうことになる。
「中世」というのは、西ヨーロッパでは文字どおり古代と近代とのあいだに挟まれた暗黒時代であり、「なんか変なふうになっていた時代」だった。
西ヨーロッパの近代的歴史観によれば、古代ギリシアや古代ローマの古典時代は明るい時代だった。さまざまな学問が栄え、この世の成り立ちかたがさまざまに追究され、人間どうしの共同性(平たく言うと「仲間意識」)をもとに政治が成り立っていた。ところが、そこにキリスト教が現れ、宗教の領域を超えて人間の生活全般を支配し、社会や国家までキリスト教の影響下に置かれてしまった。それで、人間の理性は神の教えの前に屈服させられ、人間どうしの共同性よりも神の支配のほうが強調されるようになって、人間は無知
もっとも、こう単純に割り切って表現できるのは、私たちが非キリスト教文化の世界から見ているからだ。西ヨーロッパ近代に生きたご当人たちにとっては問題はもっと複雑で屈折していた。西ヨーロッパの近代思想家も「神」の存在は否定していないし、キリスト教も否定していない。キリスト教の神がこの世のすみずみまで力を及ぼしているという感覚は19世紀になっても強く残っていた。19世紀ごろまでの近代思想家が否定したのは、概して言えば、神によるこの世の支配ではなく、神の名によって聖職者や教会がこの世を支配することである。
だが、ここでは、細かいことは無視して、人間の理性が十分に発揮されていた時代が古代で、それがキリスト教の影響で人間の理性が塞がれてしまった時代が中世で、人間の理性をまた十分に発揮させるようになる時代が近代だという感覚があったと説明しておこう。そして、じつは、その感覚が逆に「古代‐中世‐近代」という時代区分を作っていたのだ。
これをそのまま日本の歴史に持ってくるとどうなるか。これがきれいにあてはまる。ただし、西ヨーロッパ近代の歴史観で「人間の理性」であったところを「天皇中心の国家体制」と置き換えてしまえば、である。
天皇中心の歴史観を否定しても、中世の政治体制や社会制度自体が古代に「天皇中心の国家体制」として作られたものの上に載って運用されていたという制度面での事実と、西ヨーロッパの近代的歴史観とを重ねてみれば、けっきょくは天皇中心の歴史観の構造が残ってしまうのだ。ただ、「天皇中心だからいいと評価するわけではない。客観的にこうなっているのだ」というただし書きがくっつくだけのことである。
一方で、日本では、天皇中心の歴史観が公的な歴史観として採用されていた時代から、学界ではマルクス主義の歴史観が大きな影響力を持っていた。20世紀前半に、日本はすでに資本主義段階に入っているのか、それともまだ完全に資本主義段階に入っていないのかということをめぐって、学界を二分する大論争があったぐらいである(いわゆる講座派と労農派の論争)。
第二次大戦後、第二次大戦期までの「天皇中心の歴史観」を批判するよりどころとしてマルクス主義の歴史観が注目された。ところが、このマルクス主義の歴史観も、やっぱり「中世」には冷たい歴史観だった。
マルクス主義の歴史観は、社会の発展を人間社会の生産力から説明する歴史観である。人間社会のなかで生産力はつねに発展しつづけている。人間社会はその生産力に応じて社会の構成を変化させていくというのである。政治体制も、文化も、すべてその生産力と生産力に応じて決まる社会の構成によって決められていく。生産力と生産力に応じた社会構成とがすべての「土台」(七面倒くさい翻訳語で「下部構造」とか言った)だと見るのである。
この歴史観が西ヨーロッパ近代の歴史観と違うところは、歴史は一直線に一方向に向かって発展していると見るところである。西ヨーロッパ近代の歴史観は、古代がすばらしい時代で、中世がダメな時代で、近代はまたすばらしい時代になると見るわけだが、マルクス主義では「古代にすばらしい時代があった」というところを否定したわけだ。
マルクス主義の歴史観は、ほんらい、「いい時代」とか「悪い時代」とかいう価値判断の入った見かたをするものではないと私は思う。人間の社会は生産力に応じた社会の仕組みをとるものだと言っているだけだ。そういう意味ではマルクス主義は人間を突き放した議論である。古代は生産力が低かった時代で、中世はそれより少し生産力が上がった時代、そして近代はさらに生産力が上がった時代というだけで、どの時代がすばらしかったりダメだったりするわけではない。
しかし、このマルクス主義の歴史観が社会運動論と結びつくと、やっぱり近代的なものと中世的なもののあいだには価値の差がつけられる。近代的なものがよりよく、中世的なものはより悪いとされてしまうのだ。
生産力というのはほうっておいてもだいたい発展の方向に向かう。けれども、社会の仕組みはほうっておいても生産力に応じて発展するわけではない。なぜなら、社会の仕組みを変えるのは大ごとであるし、とりわけ、従来の社会の仕組みのなかで甘い汁を吸っている支配層がその仕組みを変えようとしない。だから、支配層以外の力で社会の仕組みを変えていくことが必要だ。そのために社会運動を起こさなければならないというわけである。
マルクス主義では、古代社会を奴隷制社会、中世社会を封建制社会、近代社会を資本主義社会と捉え、資本主義社会の先に社会主義社会がやってくると考える。それぞれ生産力の大きさに対応している。ところが、資本主義社会でも、支配層は封建的な考えかたや社会習慣にこだわっていたりもする。ばあいによっては、社会の生産力が上がって社会主義が適するような段階になっても、まだ封建的な考えかたや社会習慣にしがみつく支配層がいたりする。マルクス主義の社会運動は、そういう情勢認識に基づいて、遅れた「封建」的な考えかたや制度にしがみついている支配層を排除し打倒することを目指して展開される。ここでは、「封建的」であることは、排除され打倒されて当然の「悪」である。
マルクス主義が社会で力を持つようになると、それに対抗して近代化論という考えかたが唱えられたりもした(ただし進化論的な発展論はマルクス主義の確立以前からあった)。しかし、これも、社会が一直線に一方向に発展するという考えかたは否定していない。ただ、資本主義社会の段階の次に社会主義が来ることを否定するだけである。この近代化論の立場からも「封建的」であることは「悪」と見なされる。
で、中世は封建社会なのだから、「封建的である」とはつまり中世的であるということだ。マルクス主義や近代化論の歴史観でも中世というのはけっして「いい時代」とは位置づけられない。もちろん、この立場では古代はもっとよくない時代ということになるのだけれど、さすがに古代の奴隷制的な考えかたや社会慣習を残している支配層の人はそれほどいない。けっきょく「封建的」であることがマルクス主義的・近代化論的な社会運動の主要な敵とされてしまったのだ。
そして、この「封建」的なものが時代遅れなものであり、克服されるべきものだという発想は、日本にもすっぽりあてはまってしまった。
マルクス主義の歴史観は、どこの社会でも生産力が社会の構成を決めるのだから、どこの社会でも同じ発展のしかたをするという考えかたで成り立っている。だから、当然、日本も同じ発展のしかたをするはずだ、ということになる。
ところで、日本が「近代」に入る明治の直前の江戸時代は、日本の「封建」制度がいちばん完成していた時代である。しかも、その時代、自分たちの時代の制度が「封建」制度であるということがちゃんと認識されていた。
しかし、ここにはちょっとした意味やニュアンスのズレがある。
封建制度というのは、大ざっぱに言えば、主君と臣下の関係が土地を通してつながっている関係をいう。主君が臣下に領地の支配権を認めてやり、その恩返しのかたちで臣下が主君のために戦争に出たりして貢献する。日本でいえば御恩と奉公の関係である。この関係は、よくいわれるように日本とヨーロッパでよく似ている。ただし、べつに日本やヨーロッパに限るわけではなく、トルコにもインドにも似たような社会制度はあった。
けれども、日本で「封建」というときには、この問題をめぐる中国での長い議論が背後に入りこんでくるからややこしい。
中国にも紀元前11世紀ごろにはこの封建制度が確立しており、紀元前3世紀に秦の始皇帝が中国を統一するまではいちおうこの制度が存続した。これも主君と臣下が土地を通してつながっている制度で、社会制度といえばそうなのだが、古代中国での議論ではむしろ政治体制として捉えられた。一種の地方分権制として捉えられたのである。たしかに臣下があちこちに土地を与えられて散らばっているのだから地方分権といえばそのとおりだ。
この封建制度は、古代中国では秦の始皇帝が中国を統一したときに廃止され、皇帝を中心とした中央集権制度に切り換えられる。それ以来、中国では、「封建」ということばは、皇帝中心の中央集権制度とは別の地方分権的な政治体制を指すことばとして使われてきた。中央集権制度と「封建」の地方分権制度とでどちらが優れているというわけでもない。全体的に言うと、実現可能性が高いのは中央集権制度のほうだが、本来は「封建」のほうがいい制度なのだというニュアンスがあった。
江戸時代の日本では、その議論の流れを引き継ぎ、当時の日本の政治体制を封建制度だと考えていた。そして、明治維新というのは、中国の秦の始皇帝のときと同じように、その封建制度を中央集権制度に切り換える革命だという位置づけが当時から行われていたのである。
その「封建」から離脱してまだ百年も経っていない日本に、マルクス主義の「封建制は遅れた社会制度で、克服すべきものだ」という考えが入ってくるのである。江戸時代までの社会制度は中国的な意味で「封建」だったわけだから、江戸時代までの社会制度はダメだというニュアンスがそこに被さってくる。江戸時代の封建制は、実際にはともかく、理念的には鎌倉幕府以来続いた支配の仕組みだ。そこから、中世全体が「封建的」で遅れていてダメな社会制度の時代だという感覚が生まれてしまう。
けっきょく、どんな歴史観から見ても、中世というのは、停滞していて、変則的な制度に支配されていて、要するにダメで否定して克服すべき時代だというニュアンスになってしまうのである。
これは当然で、近代をよい時代であり輝かしい時代と見るほど、その直前の中世(近世も含む)というのは、それとの対比でダメな時代とされてしまう宿命にあったのである。しかも、日本のばあいには、天皇中心の歴史観とか、中国の政治体制論とかが、マルクス主義や近代化論も含む近代的な歴史観に抵抗なくすっぽりはまってしまった。その結果、中世は全体として否定的に見られがちな時代になってしまったのである。
だとすれば、近代が輝かしいすばらしい時代だという見かたが力を失えば、中世がダメだという見かたも見直されて当然ということになる。
最近、この欄に連続して登場している(ちなみに予定に大きな変更がなければ次回も次々回も登場予定です)東浩紀氏は、『動物化するポストモダン』で、1980年代以後の「オタク系文化」に見られる江戸時代の日本文化への回帰傾向を捉え、それを、日本文化がアメリカ文化によって征服されてしまったことの傷を覆い隠すための一種の心理的ごまかし(補償行為)だという方向で議論している。しかし、東氏のいうように「近代」の輝かしさが失われて「近代後の時代」(つまり「ポストモダン」)へと移りつつあるのだとすれば、そこで江戸時代以前の日本の再評価が起こるのはむしろ自然なことだと思う。
網野氏の著作が社会的に注目されたのは、ちょうど浅田
もし「ポストモダン」ということばを使うのであれば、網野氏ご本人の意図はどうあれ、網野氏の仕事も大きな意味で「ポストモダン」思想の一環として注目され、受け入れられていったという流れがあったのではないかと思う(う〜むこんな議論になるとは自分でも予想していなかった。書いてる本人ちょっと慌ててます〜)。
私は「ポストモダン」思想を十把ひとからげに評価することはできないと思っている。そこにはじっさいいろいろな流れの考えが流れこんでいる。マルクス主義から発展したものもあるし、構造主義もあるし、その構造主義を批判した「ポスト構造主義」というのもあるし、そうかと思えば近代主義の再評価・再確立を目指した動きもある。そういう多様な流れのうちの一つに中世の再評価というのがあり、そのなかで、1960年代からの網野氏の仕事が評価されてきたということなのではないかと思う。
とはいっても、近代の輝かしさが疑われたら何もしなくても中世が再評価されるというわけでもない。たしかに中世再評価の機運は出てくるだろう。しかし、「近代の輝かしさと中世のダメさ加減」をひっくり返して「近代のダメさ加減と中世の輝かしさ」という図式にしてみてもダメだ。
近代の輝かしさが失われたといっても、それは近代的なものが役に立たなくなったから評価が変わったわけではない。逆に、近代的なものがあたりまえになりすぎて、そんなものがありがたいとも何とも思えなくなってしまっただけのことだ。便利な生活とか自由とか平等とかいう「近代のありがたさ」があたりまえになって何のありがたみもなくなり、自然環境の破壊とか大衆社会化の弊害とかいう問題点により目が向いてきただけなのだ。だから、近代の輝かしさが失われたといっても、だれも近代的なものを全面否定したいなどとは思ってはいない。
近代の輝かしさが失われたのは、一面では、生活のなかから「近代より前」から引き継がれていると思われるものが消え去ってしまったことにもよるだろう。じっさい、網野氏が『日本の歴史をよみなおす』(1991年)の前書きに書いているように、1980年代には生活のなかで「中世的なもの」は急速に失われてきた。1970年代ごろまでは生活のなかで使っている道具のなかに中世以来の道具がいろいろとあった。私の家では、冬には火鉢を出していたし、夏には
だから、1980年代に求められたのは、「輝かしさを失ってしまった近代的なものの裏側にある輝かしい中世」という中世像ではない。近代的なものは、あたりまえになってありがたくも何ともなくなってしまっただけで、多くの人はべつに近代的なものを否定したいとは思っていなかった。それと同時に、生活のなかに中世以来受け継がれてきたようなものが消えていった。そんな時代に求められた中世像とは、中世的なものを否定的に見るのでもなく、かといって近代的なものを否定的に見るのでもない中世像だったのである。
それはどんなものだったか?
「異世界」としての中世像だったのではないかと私は思う。
1980年代は、テレビゲームのRPGの冒険物語というかたちで「異世界」が日常生活の一部分に受け入れられていった時代でもある。それと同じような「異世界」が、1980年代に求められていた中世像だったのではないか。
そして、その求められていた中世像に、網野氏の示した中世史像がちょうどあてはまったという面があるのではないかと思う。
ただし、網野氏に中世を「異世界」として描いてやろうという心づもりがあったとは私は思わない。網野氏は史料を丹念に読みこむことから独自の世界観を形づくっていった歴史家である。
史料を読みこむなかで網野氏はそれまでの歴史観では解釈しきれないと思えるようなものにいろいろと出会った。
それまでの歴史観とは、網野氏のばあい、やはりマルクス主義の歴史観である。中世は「封建」制度の時代であり、土地を介して主君と臣下が結びついていた時代であり、その土地での農業生産が社会を支えていた時代であるという見かただ。
網野氏は、中世にも農民以外の人びとが大きな役割を果たし、農民世界とは違う論理で動いていたことを史料から見出した。その発想は一般向けの歴史の本として書いた『蒙古襲来』(1974年)にも見られるが、それを正面から採り上げたのは『無縁・
私は、前回や前々回のこの欄で「昔の人びとはみんな農民ではない」ということを書いた。それはこの網野氏の仕事に依拠している。
網野氏の議論は私にはわりとすんなりと受け入れられるものだった。
現在は、どんな天候不順でも、どんな天災に襲われても、よほどの大災害でなければいちおうは安定して農業生産を続けられる状況がある(後継者不足や輸入農産物の問題は考えないことにすれば……って現在のばあいそれが大問題なんだけど)。そんな社会ならば、多くの人びとが農民として生活するという社会も成立し得ただろう。
しかし、中世の日本の農業をめぐる環境がそれほど恵まれたものであったとは思えない。それに、江戸時代を除けば、中世日本は戦乱の絶えない時代だった。働き手を連れ去られたり、兵隊に採られたり、殺されたりということもよくあったはずだ(中世の村の生活の不安定さについては藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』や『戦国の村を行く』などの研究がある)。しばらくは農業で生活していても、何かあれば流民化してしまう人が大勢いたはずだ。
しかも、現在のように農地開発が進んだのは戦国時代から江戸時代にかけてのことであって、それまでの日本列島の国土は山林と急流と荒れ地に覆われていた。農地自体がそれほど十分だったわけではない。現在に続く農村の景観には、戦国時代や江戸時代に形づくられたものが多くあるはずだ。現在の農村の景観から電線とか自動車とか鉄道とか耕耘機とかを「引き算」して得られる農村像と、中世以来の農村のあり方とのあいだには、なお大きな隔たりがあることには注意しなければならない。
中世はまだまだ農業経営を安定して成り立たせるのが難しい時代だったと私は思う。そういう状況で、社会自体が農業を基本にして整然と構成されていたと考えるのは、私にはむしろ難しく感じられる。農民も含めた多様な生きかたが中世からあったと考えるのが自然だと思う。
前にも書いたように農民を中心に社会を編成したのは政治権力の都合ではないかと私は考えている。農民を基準にすると土地とそこに住んでいる人間とをセットにして把握できるので税金を取りやすいからだ。
また中国の伝統的な職業観の影響もあるだろう。中国では、すでに紀元前の漢王朝の時代には、農民として生きるのがまともな生きかたで、商人というのは卑しい人びとだという見かたが成立していたという。モンゴル史研究者の杉山正明氏によれば、中国にも古代から牧畜で生きている人たちはたくさんいたのに、それを無視するかたちで中国の政治論は組み立てられたという(『遊牧民から見た世界史』)。近代より前の日本の政治家や知識人はその中国のものの見かたの影響を受けていた。
こんなことを書いてみても、専門的な議論を専門家から挑まれれば私は歯が立たない。ただ、「農民を基本に構成された中世日本」、したがって「近代によって克服されなければならなかった日本」という中世日本像とは違う新しい日本像を網野氏が打ち出し、それが1980年代の歴史専門家以外の人びとに広く受け入れられたのは確かだと思う。
いろんな人びとがいて、そのいろんな人びとがそれぞれの「社会」(前々回あたりから使っているように「人間のつきあいの場」)の決まりごとにしたがって動いている。そういう「活発な中世」像は、「停滞した時代」としての中世像を打ち破った。また、世界を冒険して回りながら、いろいろな「社会」に出会い、いろいろな人びとに遭遇していくというRPG的な興味の持ちかたに網野氏の中世像はよく合うものだった。
それがアニメやゲームの現実感となじみがいいことは、『もののけ姫』の劇場映画化に網野氏の仕事が大きく影響していることからもわかるだろうと思う。だから、私が、網野氏の仕事に出会ったことと『赤ずきんチャチャ』に出会ったことの両方から同じように衝撃を受けたのも当然のことである……ってどうでもいいか。
網野氏の問題意識は、中世日本についての通説的なあり方の疑問から、「日本史」とか「日本」とかいう枠組を当然視することへの批判へとつながって行く。網野氏の研究は、当時のヨーロッパ史で注目されるようになっていた「社会史」研究の一つとして位置づけられるようになっていた。
網野氏の仕事の一貫した方向性に「国家史の相対化」や「国家史ではない歴史叙述の方法の模索」、「国家史に絡め取られない民衆史の組み立て」というのがあったのは確かだ。これは、さっき書いたRPG的な世界観に合った歴史観というのとは違って、網野氏自身が自覚的に追い求めた方向性であると思う。
このあたりのことは、また書く機会もあるだろうし、ほかの追悼記事でも触れられることだろうから、今回はあまり深く触れないことにする。
ところで、ヨーロッパの社会史がもてはやされていたころ、その社会史に対して政治権力の視点が不十分だという批判があった。国家や政治権力から離れた視点で民衆世界の歴史を描こうとした結果、国家や政治権力が歴史を少しも動かしていないような描きかたになってしまったということだろう。
ところが、網野氏のばあい、じつはその仕事のなかで政治史についても詳しく触れている。たとえば、
網野氏は政治史をできるだけ社会史に結びつけて説明しようとした。鎌倉幕府後期の大事件である
霜月騒動とは、鎌倉時代後期、第二次対モンゴル(大元帝国)防衛戦争(弘安の役)から間もない1285(弘安8)年、有力御家人だった安達
網野氏は、安達泰盛が蒙古襲来で奮戦した御家人の立場に立ち、当時は名目化していた鎌倉将軍を中心とした体制の再編成を図ったのに対して、御家人以外の利害を代表する平頼綱が反撃を加えたものと解釈した。その中には農民以外の人たちの動きも含まれている。安達泰盛を単純に将軍復権を画策したと見る見かたには五味文彦氏などから批判があり、この網野氏の図式は現在では単純には成り立たないようであるが、その後の霜月騒動解釈に対する問題提起の役割は十分に果たしたのではないかと思う。
マルクス主義の歴史観は、どんな政治的事件の背後にも社会的な動きがあるという想定で成り立っている。けれども、そのマルクス主義の社会分析は一面的なものに陥りがちであった。マルクス自身の『ルイ・ボナパルトのブルュメール18日』のような生き生きした(ただし一回読んだだけではまったくわけがわからないほどややこしい)社会分析からはほど遠いものになりがちだったという印象がある。
網野氏は、マルクス主義の歴史観には批判的だけれども、どんな政治的事件の背後にも社会の動きがあるはずだという信念は抱きつづけていたのだろうと思う。むしろ、だからこそ、歴史の一局面しか説明しないでその全部を説明したような姿勢を見せるマルクス主義的歴史観に反発したのだろう。そして、自分でその社会史と政治史を結びつける歴史観をうち立てようとした。
その歴史観は「網野史学」などと呼ばれていたけれども、本人はそれには違和感を持っていたようだ(ちなみにマルクスにも「私はマルクス主義者ではない」と言ったとかいう話がある)。じっさい、網野氏の歴史観には、非農業民を重視するとか、日本という国家の枠組を最初から絶対視しないとかという特徴はあるけれども、それが一つの「体系」にまで組み上げられていたかどうかは私にはわからない。たぶんそういう段階にまではいたっていなかったと見るべきではないかと思う。
その意味では、網野氏は仕事を未完のまま残して世を去ったということになるわけだが、しかし、それは残された人たちがそれぞれ引き継いで仕上げていくべき仕事なのだろう。網野氏の着手した作業は一人の歴史家が仕上げることのできる以上の大きな仕事だったし、網野氏はそれに着手した人の一人として十分に高く評価することができると思う。
私が網野氏の仕事から感じるものが多いのは、網野氏の非専門家への姿勢によるところが大きいのではないかと思っている。
日本の歴史専門家は、歴史専門家以外が歴史について議論するのを嫌ったり軽蔑したりすることが多いように思う。小説家や歴史以外の学問分野の専門家が歴史について書いたり発言したりし、それが社会に受け入れられそうになると、それに強い反発を示して批判する。
歴史学が厳格な学問であることは承知しているつもりである。歴史学は厳密に史料に基づいて議論を組み立てていく学問で、いい加減な推測で説を組み立てたり、先に何か言いたいことがあってそれを適当に断片的な史料をつなぎ合わせて正当化する学問ではない。網野氏は、当時の日本中世史の常識から相当に離れたことを発言した人だけれども、やはりそれを裏打ちしているのは膨大な史料の読み込みだった。
しかし、歴史学の専門家以外の人には、それぞれの歴史へのアプローチのしかたがあっていいと私は思う。歴史について語ることは何も歴史学の専門家だけに許された特権ではない。歴史学の専門家だけが「正しい」歴史を語る資格と能力があるという立場から、歴史学の専門家と同じ手順を経ないで書かれた専門家以外の歴史の本はでたらめだなどと攻撃するのは、自分が「萌え」ているキャラの同人誌を他のサークルが出すのは許せないと文句をつけているオタクみたいで、筋違いを通り越して滑稽な感じがする。
べつに批判するなとは言わない。批判すべき点があればいくらでも批判すればいい。歴史学の専門家以外の人は歴史学の専門家の書いたものを自由に批判していいし、専門家も専門家でない人の書いたものを自由に批判していいはずだ。でも「専門家以外が書いた」ということ自体を攻撃対象にするのはおかしい。また、それで歴史家の発言の社会的地位が守れるのならまだいいけれども、かえって読者から「歴史学というのはつまらない学問だ」と思われてしまうのがオチのように思えて、そのことを私は危惧する。よけいなお世話といわれればそれまでだけれど。
この点で、網野氏は、歴史の専門家以外と対話するのを厭わない人であった。むしろそれを喜ぶ人だったのかも知れない。『歴史と出会う』(2000年)には、『もののけ姫』のパンフレットに書いた文章も収録されていたし、北方謙三氏との対談も収録されていた。網野氏は小説や映画をよく見て、その評価すべきところはきちんと高く評価している。こんな姿勢をとれる歴史専門家がいまどれだけいるだろうかと思う。
歴史に関心のある人間の立場から、歴史専門家の世界に「もっと専門家以外にも分け隔てなく話すことばを持った歴史家を出してください」と求めるのはお門違いな気がする。それは、コミケであんまり萌えない由乃さん本を売っているサークルに「こんどは超萌えな志摩子さん本を出してください」と無理強いしているのと同じことなんだろうと思うから。
また、網野氏の文章は、どんな専門的な議論をしていても、歴史学の素人が読んでも比較的読みやすい文章だったと思う。
網野氏の『無縁・公界・楽』を読んだあと、網野氏に対する批判的な議論も読んでみようと、その増補版に引かれていた批判文の原文を何本か読んでみた。けれども、納得するしない以前に、はっきり言ってまったく頭に入らなかった。専門家以外の立場から読むと、読みにくくないにしても、どうにも無味乾燥な文章にしか感じられない。とくにマルクス主義の歴史観に忠実な研究者の文章がそうだと感じた。網野氏の文章を読んだときには、書いてあることの全部が理解できなくても、色彩豊かなイメージが頭のなかを駆けめぐるような感じがするのに。
議論の意味も十分に伝わっていないのにイメージを先に喚起してしまうのはそれはそれで危ないことなんだろうと思う。意味がきちんと伝わったところで、伝えたいイメージを正確に呼び起こすのが学者の書くべき文章であるという考えも一理あると思う。しかし私はその考えには賛成しない。そういう姿勢で書かれた文章もあっていいが、そればかりだと専門家と非専門家のあいだの壁はますます高くなるばっかりである。魅力的な文章に接することの危なさは、本来は読者のほうでコントロールして避けるべきものだろう。
いま、理系の研究者は、自分がどんな研究をしていて、その研究の何がおもしろく、それが世のなかにどういう関係があるかをアピールすることに熱心になってきている。たぶん、この「構造改革」のなかで、そうしないと研究に十分な予算が取れない情勢になりつつあるからだ。「世のなかに受けなければ予算が取れない」という傾向は私は不健全だと思う。しかし、自分の研究を世のなかに公開していくという方向性は当然のことだと思っている。
歴史家のなかにも自分の研究を世のなかに公開していくことに熱心な研究者がいることは承知している。また、自分の研究を遺跡や歴史的景観の保存運動などの社会運動に結びつけている研究者も多い。けれども、全体的にいうと、理系研究者に較べると、歴史家には、自分の研究を多くの人びとに広く理解してもらおうという動きがまだ弱いように思う。
そういう日本の歴史学界のなかで、網野氏は、専門家にも非専門家にも直接に自分のことばで語りかけるひとであったし、非専門家にも自分の研究内容を魅力的に伝えられるひとだったと思う。
網野善彦氏のご冥福をお祈りしたい。
―― おわり ――