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シュレディンガーの猫
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第三十四回

「萌え」論の棚卸し

― 2004年12月 ―

 WWFの「萌え」論特集は、いずれも2003年刊行の『WWF No.26』『WWF No.27』につづいて、今回の『No.29』で3回めになる。

 今回は私は3本の文章を寄稿した。ただし、うち一本はこのページに発表したササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史』の書評を整理して書評部分だけにしたもので、もう一本はその省いた部分をもとに大幅増補したものである。残る一本は、以前、このページに連載した「東浩紀氏のオタク論を読む」の続編で、あいも変わらず東浩紀さんの議論にいろいろとケチをつけている。

 この本の企画が出てきたころには、「萌え」論もそろそろ終わりかなという声が企画者のなかからも出ていた。私自身も、3回、同じテーマの特集に参加してみて、同じようなことを感じてもいた。しかし、終わってみると、「萌え」論で語るべき内容はまだ残っているようにも感じる。他方で、「萌え」論で言い残したことは、「萌え」論以外のかたちで話したほうが話しやすいようにも思っている。まだ迷っているところだ。

 そこで、今回は、2003年まで「萌え」論に参加してきたときに感じたことを書いてみて、「萌え」論の棚卸しをやってみたいと思う。


いきなり突き当たった「ポストモダン」の壁

 2003年にWWFで「萌え」論の企画が立てられて、その企画についての話し合いで、松本晶(まつもとあきら)さんから東浩紀さんの『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を紹介された。私は何か「場違い」なものに出会った気がした。マンガ・アニメ・ゲームのキャラクターに強い愛着を感じるという意味の「萌え」は、私にとってもなじみ深いことばになっていたけれども、それがどうして「ポストモダン」につながるのかがまったくわからなかった。考えもしなかったところから不意打ちを食ったような気分にもなった。

 私は10年前に「チャチャその可能性の中心」などという文章を書いたぐらいだから、一時期、「ポストモダン」思想に深入りしかけたことがある。深入りしかけただけで実際に深入りしなかったのは、ある段階で「ポストモダンのバカの壁」にぶち当たったからだ。つまりわけがわからなくなったのでやめたのだ。そんなわけだから、私は「脱構築」とか「シニフィアンとシニフィエ」とかいう「ポストモダン」用語にはある程度の耐性はあるつもりだ。いきなり逃げに入ったり、逆にいきなり異様な敵意を見せたりということはしないつもりではいる。ただ理解できないので話について行けないだけだ――ってダメじゃん。

 ダメとは言うけれど、「ポストモダン」思想(東浩紀氏のいう「ポストモダニズム」)というのは、「ポストモダン」の人たち本人たちがどう考えようと、「モダン」思想を抜きには成立しなかったはずの思想だ。「モダン」思想が行き当たった壁を乗り越えるための苦闘のなかから成立したのが「ポストモダン」思想だ。すくなくともそのはずだ。近代思想がわかっているというためには、少なくともデカルトとかカントとかヘーゲルとか、日本では福澤諭吉とか丸山真男とかが理解できていないといけないだろう。ところが私はそれがよくわかっているとは言いがたい。だから私に「ポストモダン」がきちんと理解できるはずがないのだ。

 もちろん、そういう発想をしていると、こんどは「近代思想はヨーロッパの古典古代(主として古代ギリシア)や中世の思想を理解しなければ理解できない」という話になる。けっきょくヨーロッパ思想全体の見取り図程度はわかっていないと何もわからないよという話になっていく。また実際にそうなのだろうと思う。さらにその先にはそのヨーロッパ近代思想をどこまで近現代の日本社会に当てはめられるかという問題が出てくる。


東浩紀氏の『動物化するポストモダン』について

 だからといって、「萌え」を理解するためにヨーロッパ古典古代まで(さかのぼ)っていては原稿が書けないので、少しずつ『動物化するポストモダン』を読みすすめながら、WWFの「萌え」プロジェクト諸氏との議論にも参加してみた。このとき『動物化するポストモダン』を読みながら書いた記録が「東浩紀氏のオタク論を読む」である。いま読み直すととくに最初のほうの展開がもたついていて、しかも『動物化するポストモダン』は最後まで「読む」つもりだったのが第一章だけで終わっている。

 この試みと並行して、『WWF No.26』の企画参加者各位といっしょにネット上の討論(「座談 「動物化」って何?」として同誌に掲載された)に参加したり、かなり前に買ってきて読んでいなかった精神病理学者の木村敏氏の『時間と自己』(中公新書)を読んでみたりした。それを踏まえて書いたのが「唯物的オタク論!」「祝祭の時間としての近代、「ポストモダン」の憂鬱」の2篇だ。

 なお、私は『WWF No.26』にも「「ポストモダン」の憂鬱――東浩紀氏の「オタク」論の感覚」を寄稿している。これは、「唯物的オタク論!」のほうを改稿したもので、その際に書き足し部分に大幅加筆したのが「祝祭の時間としての近代、「ポストモダン」の憂鬱」である。

 東氏の「ポストモダン」論に対する私の見かたは、これらの文章でも採り上げたし、今回の『WWF No.29』に寄稿した文章でもしつこく触れているので、詳しくは繰り返さない。簡単にいうと、東氏は「近代」という時代は日本では1995年に完全に終わりを迎えて、現在は「ポストモダン」という新たな時代に入ったと見るのに私は同意できないということだ。また、東氏は、「近代」から「ポストモダン」へと時代が変わるとともに人間性そのものが変化したとする。それに対して、私は、人間性の根底的な部分は変わっておらず、社会の経済的条件や技術水準に適応して人間の社会への接しかたが変わっただけだと考える。さらに、東氏は、日本の伝統文化は第二次大戦の敗戦で断絶し、戦後の日本文化はアメリカ(合衆国)文化の「(にせ)物」(「フェイク」)だとし、伝統文化を失ったことへの傷が「ポストモダン」の「オタク」文化にまで影響を与えているとする。しかし、私は、第二次大戦敗戦で日本文化が全面的に変わってしまったという見かたには否定的だ。敗戦前から敗戦後まで日本の伝統文化の根底的な部分は引き継がれており、変化が起こったとしても、それは戦前から戦後にかけての時間をかけた変化であって、東氏の言うような全面的で突然の断絶ではないと考えている(この問題についての私の考えは、よかったら「PAX JAPONICAをめぐる冒険 3.」「イラク戦争について思うこと 7.」坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』の評などを参照してください)

 東氏は、1960〜70年代ごろに「近代」は終わり、「近代」から「ポストモダン」(「近代後の時代」)への移行期に入ったと考える。さらに、世界的には冷戦構造の崩壊とともに、日本では阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件・『新世紀エヴァンゲリオン』の放映とともに、その移行期も終わりを迎え、完全な「ポストモダン」時代に入ったとする。ここで東氏がいう「ポストモダン」は「近代後の時代」という意味であり、「ポストモダン」思想(「ポストモダニズム」)が支配する時代であることを意味しない。


「不安」と「贋物(フェイク)

 東氏の「ポストモダン」論や「オタク」論に一貫して流れている主題は「不安」と「贋物(フェイク)」であるように感じる。

 東氏の議論によれば、「ポストモダン」世界には、世界全体を方向づけするような「大きな物語」は存在せず、この世界を構成するさまざまな「要素」のすべてを登録した巨大な「データベース」が存在するだけである。人びとはその「データベース」全体を手に入れようとする。しかし、この世に存在するものを何でもかんでも登録した「データベース」の全体を手に入れることができるはずがない。だから、「ポストモダン」の人たちが「データベース」全体を手に入れようとしても、手に入るのはたまたまめぐり会った「データ」だけで構成される「データベース」の「贋物」だけだ。「ポストモダン」の人びとはもちろんそれには満足せず、さらに「データベース」を手に入れることを求めるが、やはりそこで手に入れられるのは「データベースの贋物」にすぎない。だから「ポストモダン」の人たちの欲望は満たされることがない。それなのに、「ポストモダン」の人たちは、その欲望を満たすことを望んで「データベース」の全体を求めて次から次へと同じような試みを繰り返す。

 東氏は、このような「ポストモダン」時代の人びとの感じかたや行動を代表するのが「オタク」だと論じる。「オタク」にとっての「データベース」は、猫耳とかメイド服とか制服とかいう「萌え要素」で満たされている。「オタク」はその「データベース」全体を手に入れようという欲望を抱くが、もちろん満たされることはなく、「オタク」たちは、ある作品から別の作品へ、あるキャラから別のキャラへと果てしなく「横滑り」を繰り返していくだけだ。

 「贋物」のほうは、この前段階にあたる「近代」から「ポストモダン」時代への移行期の特徴づけにも登場する。「ポストモダン」時代には、社会全体に共有され、社会や世界の全体を方向づける「大きな物語」が存在しなくなる。完全な「ポストモダン」時代に入ってしまえば、「大きな物語」が存在しないのは覆い隠しようもなくなるのだが、「近代」から「ポストモダン」への移行期には、人びとはその「大きな物語」を修復しようと懸命になる。しかしそれは「贋物」としてしか再構成されないというのだ。

 さらに、東氏の議論によると、日本では第二次大戦の敗戦によって伝統的な日本文化は完全に破壊され、その後にアメリカ文化の「贋物」が導入されたという。そのうえ、戦後の日本人は、その敗戦の傷を覆い隠すために、「伝統的な日本文化」を再構成しようとする。しかしそれは伝統的な日本文化そのものではなく、その「贋物」にすぎない。東氏の議論によれば、戦後日本は、アメリカ文化の「贋物」の上に伝統的な日本文化の「贋物」を上塗りした「贋物」文化によって構成されているということになるだろう。


いろいろと異論

 このような東氏の説にはいろいろと異論がある。「戦後日本文化贋物説」に異論があることは先に書いたとおりだ。また、私は、東氏の分類によると「オタク」の端くれぐらいには属するのだろうけど(最近、あんまりアニメ観てないし、ゲームはやってる時間がないからねぇ)、「萌え要素」が満載された「データベース」を手に入れたいなどと思ったことはない。その「データベース」というのは、猫耳が何千種類とか何万種類とか、また制服が何千種類とか何万種類とか準備してある巨大楽屋裏の巨大ロッカールームのようなもので、そんなものを手に入れて「オタク」的な欲望が満たせるとはぜんぜん思えないのだ。

 東氏には、おそらく、時代の全面「ポストモダン」化によって、表舞台と楽屋裏の区別がなくなったという意識があるのだろう。だから、「近代」には「大きな物語」(その時代の世界を方向づける思想とか)という「表舞台」からはっきり隔てられていた「楽屋裏」の「データベース」が表に出てきてしまった。人間は「表舞台」らしきもの(「データベース」のごく一部から構成された「贋物」)を愉しむときには、それが無理やりでっち上げられた「贋物」だということを知った上で、それでもその「贋物」に心から感動してみる。一方で「楽屋裏」にも遠慮なしに土足で上がりこむ。「ポストモダン」時代には、人間はそういうふうに人格をいくつも持つ「解離」的な人間になってしまったのだ。それが東氏の考えなのだと思う。

 この東氏の「ポストモダン」時代の人間についての見かたは私は卓見だと思っているのだけれど(この点については、よかったら「「現実」の現在」を参照してください)、それでも、いちおう「データ」を構成して作られた「表舞台」と、生のデータが収納されている「楽屋裏」を区別せずに並べるこの東氏の「オタク」論は私には乱暴すぎるように思える。


「不安」と「贋物」の連鎖構造

 だが、ここでは、東氏の議論が当を得ているかどうかを検討するのではなく、東氏の議論にとっての「贋物」という性格づけの重要性を確認しておくことにしよう。

 巨大な「データベース」を手に入れようとしても、手に入れられるのは「贋物」だけである。しかし、「ポストモダン」の人間はそれでも不安に駆り立てられて「データベース」全体を手に入れようとし、「贋物」をつかまされつづける。「データベース」をめぐる「不安」と「贋物」の連鎖が「ポストモダン」時代の特徴だというのだ。

 これはたとえば東氏の「セキュリティー」論にも共通する枠組かも知れない。東氏は『動物化する世界の中で』(笠井潔と共著、集英社新書)でこの「セキュリティー」の問題を笠井潔氏に提起し、議論しようとしてけっきょく未遂に終わっている。ここで東氏は現在の先進国社会を覆う「セキュリティー」論の構造に「データベース」と同じ構造を見ているのかも知れないと思う。つまり、「ポストモダン」時代の先進国の人びとは絶対的な「安全(セキュリティー)」を手に入れようとして、タリバーン、ウサーマ・ビン‐ラーディン、サッダーム・フセインとつぎつぎに「安全の敵」を倒していく。しかしそれは「安全の敵の贋物」に過ぎない。だからほんとうの「安全」はついに手にすることができずに新たな「敵」への戦いを繰り返していく。それはさらに東氏がずっと問題にしている「情報の自由」にも関係してくることだろう。おそらく、東氏は、東氏が「ポストモダン」と呼ぶ現在の世界のいたるところに「不安」と「贋物」の二つの主題の無限の繰り返しで成り立つ構造を見ているのだろう。


じつは「乳児化するポストモダン」だった?

 この「データベース」論に私が感じた根本的な疑問は、なぜ「ポストモダン」社会の「オタク」たちは「データベース」の全体を手に入れたいなどという欲望を抱くのかということだ。巨大な「データベース」など手に入れなくても、そこから「データ」を組み合わせて構成した「萌え」なものが供給されつづけるならばそれで十分ではないか。東氏の説明では、一部のデータだけを取り出して構成した「贋物」しか手にできないのでは「不安」だからということになるのだろうけど、では、どうして「不安」になるのか? そのことが私にはずっとわからなかった。

 この東氏の発想の背景がわかったのは、東氏と並ぶ「萌え」論者の斎藤環氏が重視しているラカンの精神分析の概略を知りたいと思って買ってきた新宮一成『ラカンの精神分析』(『動物化するポストモダン』やササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史』と同じ講談社現代新書)を読んでからだった。

 この「データベース」論の発想の原型は、おそらくラカンの先輩にあたる精神分析家メラニー・クラインの乳児心理論だろう。

 クラインによると、母親から何度も授乳される乳児は、母親の乳房が無限のものを持っていると感じる。どんなに子どもに乳を分け与えても乳の量が減らないと感じるからだ。そうすると、乳児は、毎回の乳を欲しがるだけではなく、母親の乳房の無限性そのものが欲しくなる。もちろん「無限に乳を蓄えている乳房」などというものは存在しないし、もし乳房が無限に乳を与えることができても乳児のほうが無限に乳を吸いつづけることはできないのだから、そんな「乳房の無限性」などというものは手に入らない。それが乳児を限りなく不安にさせるというのだ。

 つまり、「ポストモダン」時代の「オタク」はクラインの乳児と同じで、クラインの考える乳児が「無限で無尽蔵の乳房」を欲しがるように「データベース」全体を手に入れようとし、クラインの乳児が毎回の授乳では満足しなくなるように、「データベース」の一部で構成された個々のエピソードやキャラでは満足しなくなってしまう。そして「オタク」はクラインの乳児と同じような限りない「不安」を感じ、繰り返し「データベース」全体を求めつづけるというわけだ。う〜む、これでは「動物化するポストモダン」じゃなくて「乳児化するポストモダン」じゃないか。ダメじゃん。


クラインの乳児心理学との違い

 しかも、クラインの議論では、このあと、乳児がその幻想のなかでその無限で無尽蔵の乳房を破壊し、こんどは乳児が自分で破壊した乳房の残骸の報復に怯えることになる。その報復の恐怖を、乳児は「報復されようとしているのはほかのものごとなのだ」と「外界」へ押しつけることで逃れようとするが、それはこんどは「外界すべてが自分に報復しようとしている」という恐怖として乳児にはね返ってくる。そうして乳児は「罪の意識」を確立し、自分の「罪」によって自分が完全無欠の存在でなくなったことを悟って、破壊された乳房の代替物であるさまざまなものごとを愛するようになるというのだ。

 このクラインの発想は「原罪」の存在を『聖書』抜きに論証しようとしたもののように思える。だから、「原罪」を信じるカトリックや多くのプロテスタント諸派の文化(ギリシアやロシアなど東方ヨーロッパのキリスト教では「原罪」はすでにイエスの出現で償われていると考える)の下でこの議論が成立するとしても、それ以外の文化圏で成立するかどうかはきちんと検証したほうがいいように思うが――そういうのは精神分析家の人がもうやっていることだろう。

 ともかく、東氏の議論がクラインの議論の道筋をたどるならば、この「贋物」と「不安」の繰り返しは過程の一部に過ぎないことになる。やがて「ポストモダン」の人びとは巨大で無尽蔵な「データベース」の破壊へと向かい、そこから世界に対する恐怖心や罪の意識、倫理観や愛情を生み出していくということになるはずだが、東氏は「贋物」と「不安」の繰り返し過程が永遠に続くものと考えているようだ。まあ、「乳児」段階から先へ進まないから「動物」なんだろうな、おそらく。

 このクラインの議論では、自分に与えられる乳房の無限性が乳児に「貪欲」と「羨望」を呼び起こし、不安を感じさせることになっている。ただ、これを「オタク」や「ポストモダン」の人びと一般に当てはめられるかというと、やはり疑問に感じるところがある。乳児にとっては、乳房は無限でも、自分が次に授乳してもらえるという保障がないために、勝手に過大評価した母の乳房を「乳を無限に与えられるはずなのにその全部を与えてくれない」と解釈し、そこに悪い意図の可能性を見出して不安になるという説明ができる。でも、「オタク」には「次にはデータベースに接近できなくなるかも知れない」という不安があるわけではない。「データベース」に対して、「すべての萌え要素を与えてくれるはずなのに(欲しいですか?)、そのすべてを与えてくれないからには、何か悪い意図があるのかも知れない」などという身勝手な「羨望」を抱いたりも普通はしないだろう。だとしたら、その「不安」はどこから来るのだろう? その仕組みについて東氏がどう説明するかはもう少し知りたいところではある。


「マクロ萌え学」と「ミクロ萌え学」

 東氏は、『網状言論F改』(東浩紀編著、青土社)で、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)などに見られる斎藤環氏の議論を、個々の消費者としての「オタク」に注目したものとし、東氏自身の議論を集団としての「オタク」に注目したものとする。つまり、経済学の比喩で言えば、斎藤氏のが「ミクロ萌え学」、東氏のが「マクロ萌え学」ということになるのだろう。これにさらに「マルクス主義萌え学」があれば――ってそんなものないか。だいたいいまでも「マルクス主義経済学」ってあるのかな?

 ただ、『動物化するポストモダン』にも少し言及されているように、東氏の「マクロ萌え学」が前提としている「ミクロ萌え学」は、斎藤氏の「ミクロ萌え学」とはやはり少し違うもののようだ。

 WWFの「萌え」学会シリーズでの主要発言者である松本晶(まつもとあきら)氏も、東氏が「オタク」論を集団や社会の問題にいきなり拡大してしまって、「なぜ萌えるのか?」という根本的な議論を欠いていると批判している。つまり、東氏の「ミクロ萌え学」の貧弱さを衝いているわけだ。私自身は「マクロ」的な議論が好きなので、べつに東氏の議論が日本社会とか世界とかに拡大してしまうならそれにおつきあいするけれど、それとはべつに、やっぱり「萌え」を論じるならば「ミクロ萌え学」も必要かな――という気はする。


「自分」は「他者」なしでは成り立たない

 先に触れた新宮一成『ラカンの精神分析』を読んで、興味深く感じたのは、「個人」とか「自己」とかいうものの基礎の危うさだった。

 この本で紹介されているラカンの議論によれば、人間は自分だけでは自分を自分と確認することができない。「自分が人間である」と感じるためにも、いちどは「人間ではない自分」を想定し、それを否定するという過程が必要だ。この「人間ではない自分」の説明がよくわからないのだけれど、たんに「人間でない」という意味ではなく、「いまの自分ではない自分」というようなことらしい。つまり、自分が自分であることを確かめるためには、いったん「いまの自分でない自分」を想定してみなければならないということだ。それどころか、自分の身体が一つにまとまっていることもじつは自明ではなく、自分をいちど鏡に映してみてはじめて自分の一体性が確認できる。

 この「いまの自分ではない自分」がたんなる「仮定してみただけの存在」にとどまったり、「鏡に映った自分」がほんとうに鏡に映った自分だけだったら話はややこしくならないのだけれど、ラカンによれば、人間はその「いまの自分ではない自分」や「鏡に映った自分」を「他者」のなかに見出してしまう。つまり、ほかのだれかが、その人の知らないうちに、自分が自分であることを確かめるために不可欠の存在になってしまったり、自分がどんな人間かを確認するために絶対に必要な存在(鏡に映った自分)になってしまったりするのだ。だから、「自分」のなかには、じつはぜんぜん別の個体で生きぜんぜん別の意識を持っているはずの「ほかの人」が不可欠な要素として最初から入りこんでいる。それがラカンの考えかたのようだ。

 このラカンの考えかたは、近代社会の基本を構成する「自立した個人」という考えかたを根底から揺るがすものだ。人間は、「ほかの人」を「自分」のなかに取りこまなければ「自分」ではいられないというのだから。また、それは、互いに相手を必要としあうことで人間らしい生活が成り立つという単純な共同体主義でもない。「いまの自分ではない自分」は、それを否定することで「自分が自分である」と確認するためのしかけなのだから、「自分」の構成要素としての「ほかの人」は否定されるためにだけ存在していることになる。「鏡に映った自分」の代用品としての「ほかの人」も、自分の一体性を確認するための道具に過ぎない。つまり相手の人格を一人前に認めた上での共存ではなく、自分を成り立たせるための道具の一つとしての役割を勝手に一方的に与えているに過ぎないのだ。共同体主義を成立させるとすれば、むしろ、そういう「他人の一部のつまみ食い」を許容し合うことで共同体は成り立っているという説明をしなければならないだろう。


「ミクロ萌え学」の端緒

 そこに、さらに斎藤氏が重視する「ファルス」(男根)があるとかないとかいう問題が絡んできて、性愛の問題へと発展するらしいのだけれど、このあたりは新宮氏の本ではあまり深く触れられていない。だから、このラカンの精神分析論が斎藤氏の「ファリック・マザー」の議論にどうつながるのかは私にはまだわからない。ちなみに私は『戦闘美少女の精神分析』はまだ読んでいない。この本が本屋の棚に並んでいたときには、自分や自分の好きな(「萌え」を感じている)キャラが勝手に分析対象にされるのがいやで買わなかったし、「萌え」論なんかを始めて「この本読まなきゃな」と思い出したときには本屋の店頭ではあまり見かけなくなった。それからずっとものぐさをして読んでいない。

 ただ、「いまの自分ではない自分」や「鏡に映った自分」の代用品として「他者」を起用するのであれば、それはべつに人間でなくてもいいことになる。そこにたぶん「萌えキャラ」の出番があるのだろうと思う。斎藤氏が『網状言論F改』に書いていることによれば、「萌えキャラ」が「萌えキャラ」であるためには「図像」的なイメージが重要だという。私は、それだけではなく、そのキャラクターが生きてしゃべって動くような感じを与えることが「萌え」には必要ではないかと思う(「感じ」の問題なので、実際にアニメーションで表現されていなければならないということではない)。ただ、その生命感は現実の人間と同じである必要はないのだ。「萌えキャラ」と実在の少女(ここではとりあえず男性→少女の「萌え」だけを論ずるとして)との違いは、「自分」を成り立たせるのに「他者」の何を必要としているのか、「萌え」る男性が求めているのは少女の何なのかという点に大きく関係しているように感じる。こういう問題を考えるところから「ミクロ萌え学」を成り立たせる道が開けるのかも知れない。自分でこの問題をこれからも探究していくかどうかは別として、そういう問題意識があることはやはり頭に置いておきたいと思っている。


最後に二つほど

 最後に、これまで「萌え」を論じてきて感じたこと・考えたことのうち、二つのことを書いておきたいと思う。

 一つは、東氏の議論にしても斎藤氏の議論にしても、西ヨーロッパや北アメリカの学壇で評価された理論を人間全体にあてはまることとして議論している点に危うさを感じるということだ。

 日本の第二次大戦後の論壇では、第二次大戦前から戦時中までの議論であまりに日本の独自性が強調されすぎたことに対する反動もあり、また、人間の社会のあり方を基本的に経済からだけ説明するマルクス主義の影響(マルクス主義以外の方法論への影響も含めて)が強かったこともあって、「日本は欧米の議論が通用しない特殊な国だ」という議論は敬遠されてきた。だが、少なくともものの感じかたとか考えかたとかに関しては、日本は西ヨーロッパや北アメリカと違う伝統を持っているとして議論するのが正当だろう。私たちが「欧米」として一括する西ヨーロッパとアメリカ合衆国もじつはずいぶん違う社会らしい。西ヨーロッパは、教会の力も強かったかわりに、教会やキリスト教の支配への抵抗もその伝統のなかに組みこんできた社会だが、アメリカ合衆国はそういう深刻な相克を経ずに発展してきた社会だという。もちろん、日本社会だって、長いあいだ、地域的にも階層的にもそれぞれが独自性を持ってきた社会だ。それがいまのような一つの「日本社会」にまとまったのは明治維新以後だと考えたほうが安全だと思う。

 もちろん西ヨーロッパや北アメリカの学壇で評価されている理論を使ってはいけないということではない。大いに使うべきだ。最初から「そんな外国生まれの理屈で日本が説明できるはずがない」と切り捨ててしまうほうが危険だと思う。でも、同時に、西ヨーロッパや北アメリカの学壇で評価される議論をいきなり日本社会にあてはめるのも、対象によってはやっぱり適切ではない。それを日本社会にあてはめるには、対象によってはそれなりの手続が必要だろうと思うのだ。

 で、「萌え」は日本で最初に見出された感じかたや行動のしかただろう。それを説明するのに、たとえば、ヨーロッパのキリスト教文化圏の動物観・人間観を下敷きにした「動物化」というような概念をいきなり持ってくるのは、私には非常に乱暴に感じられる。  西ヨーロッパや北アメリカの学壇で評価されている理論が、相対的に見て、ある程度の普遍的な説明能力を持ったすぐれたものであることは、全体としては認めたい。学壇の歴史が長く、新たに出てきた理論を吟味して評価するしくみが成熟しているからだ。日本のばあいには、江戸時代までは儒学を柱にした学壇があり、それがいったん倒れた後に「西洋」的な学問として当時のフランス・ドイツ・イギリスの学問が入ってきて学壇が再建された。仏教や神道や儒教や道教やイスラム教を柱にした学壇は現在の世界では十分に確立されていない。キリスト教圏の発想を基礎にした理論で非キリスト教圏の社会を説明する論理がいちおう成立しているのに対して、儒教やイスラム教の発想で非儒教圏・非イスラム教圏の社会を説明できる理論を私は寡聞にして知らない。せいぜいまだ提案の段階にとどまっているように思う。

 だが、「萌え」のような、非キリスト教世界で見出されたものごとを、最初から西ヨーロッパや北アメリカの学壇で評価される理論に「丸投げ」してしまっては、何かもったいない気もする。

 そんなわけで、じつは昨年の『WWF No.27』の原稿を執筆するときには、西田幾多郎の哲学を利用して「萌え」を論じてみようというむちゃくちゃなことを考え、哲学者の岩田憲明さんにも協力していただいて西田の本を読んだりしていたのだが、……当然ながら挫折しましたです。ただ、ラカンの思想を思い返してみると、やはりその関心の焦点は「主体」にあるわけで、「萌え」を「述語」とか「場所」とかいう「主体」ではないところから照射してみたら、あるいは別の見かたができるかも知れない。でも、私のばあい、そのかんじんの「述語」論理や「場所の論理」がわかってないから……やっぱしダメですな――てゆーか勉強不足? (やっぱし西田も当時のヨーロッパ哲学を理解していないとなかなか理解できないですよ)

 で、最後に書いておきたいことのもう一つは、アニメやゲームを論じるのに――とくに「美少女」キャラの出てくるアニメやゲームを論じるのに――「萌え」論や「オタク」論だけからアプローチするのはもったいないということだ。アニメにしてもゲームにしてもマンガにしても小説にしても、「萌え」論や「オタク」論以外のアプローチで論じてみれば、ぜんぜん別の発見があるかも知れない。もしかするとそちらのほうが「萌え」論や「オタク」論よりもいまの社会を感じたり考えたりするのに重要なアプローチかも知れないのだから。


―― おわり ――