根拠は何だ!


ササキバラ・ゴウ

〈美少女〉の現代史

― 「萌え」とキャラクター ―

講談社現代新書、2004年



 注意!! この文章は「ネタバレ」についての配慮は基本的にせずに書かれています。『ルパン三世 カリオストロの城』や『機動戦士ガンダム』、『うる星やつら』などをまだご覧になっていない方で、ネタバレは避けたいと考えておられる方は、この文章は(この文章が批評対象にしている本も)お読みにならず、まず作品をご覧になるほうがよいと思います。


 この本は、まんが・アニメ・ゲームなどの「美少女」キャラクターに「萌え」るという現象を、「萌え」の主体である男性の問題を中心に据えて解き明かそうとした本である。

 たとえば、東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書。この本については、「唯物的オタク論!」「祝祭の時間としての近代、「ポストモダン」の憂鬱」「東浩紀氏のオタク論を読む」などで論じた)では、「萌え」の問題を「動物化」というキーワードで捉え、「オタク」というキーワードを通して現代社会全体の変化と結びつけて把握していた。このササキバラ氏の本は、その「オタク」のかわりに「男性」を置き、「萌え」論→「現代社会のなかの男性」論→現代社会論と議論をつなげていくものだといちおう理解すればいいだろう。

 なお、ここでいう「男性」は「美少女」キャラに「萌え」を感じるような男性のことである。男性であってもまんがやアニメやゲームの美少女キャラに何の興味も感じないような男性は議論の主たる対象ではない。また、それに対応して、この本で「美少女」と呼んでいるのは、たんなる「美しい少女」ではなく、男性の「萌え」の対象としての美少女キャラクターのことである。

 タイトルはなぜか〈美少女〉となっているが、〈〉つきの「美少女」ということばは本文には出てこない。カギカッコつきの「美少女」か、カッコなしの美少女かである。ついでにいうと、この本にはたしかに「萌え」や「キャラクター」という概念が出てくるけれども、それが中心テーマというわけではない。「キャラクターに萌える男性」論である。なぜこの本がこんなタイトルになっているのか、私にはよくわからない。

 ところで、ここまで書いた内容は、「萌え」という現象、あるいは「萌え」という感情について、なんらかの理解や関心を持っていなければ理解できないだろう。ササキバラ氏は、この「萌え」について、次のような説明をしている(20頁)

  1. 人物やキャラクターに対して強い愛着を感じることを「萌え」という。
  2. 子どもの行動ではなく、思春期以上の人間の行動である。
  3. 対象は、アイドル歌手や芸能人などのほか、まんが・アニメ・ゲームのキャラクターにも広がっている。
  4. ただし、このことばは使う人によってニュアンスが違う。

 ここでの定義によると、アイドル歌手や芸能人・タレントについても「萌え」は存在するわけだが、この本ではほぼまんが・アニメ・ゲームのキャラクターに対する「萌え」だけが対象になっている。したがって、この本で分析される「萌え」とは、まんが・アニメ・ゲームなどのキャラクターに対して「強い愛着」を感じることだと言いきってよい。また、この本での語られかたを見ると、「強い愛着」ということばは、たんなる愛着ではなく、多かれ少なかれ性的な意味での愛着を意味するようだ。こういう書きかたをすると、こんどは何を「性的な」というかがまた問題になるだろう。この本の「萌え」ということばのニュアンスから考えると、必ずしもその相手とセックスしたいという自覚的な願望だけではなく、「そのキャラクターのことをかわいいと感じる」程度までを含む広い意味と捉えていいようだ。なお、この本では、幼児に対する性愛感情や同性愛、両性具有願望などの「変態」的な性愛については触れていない。

 「萌え」ということばのこの使いかたは、まんが・アニメ・ゲームの熱烈なファン(キャラクターグッズを買いまくったり、同人誌を作ったり、コミックマーケットに同人誌を買いに行ったり、関連するサイトをいくつもチェックしていたりするようなファン)のあいだでだけ通用する一種の業界用語・専門用語のたぐいである。若芽や若葉が勢いよく成長していくようすを表現することばではない。もともとは同じ趣味を持つ者のあいだでだけ通用する隠語のようなものだった。東氏やササキバラ氏の活動で一般社会に知られつつあるが、アニメやゲームに関心のないひとがこのことばを使っている例には私はまだ接したことがない。

 ところで、「萌え」ということばがもともと持っている「植物の若芽や若葉が勢いよく成長する」というイメージが、まんが・アニメ・ゲームの熱烈なファンのあいだで使われる「萌え」とまったく無関係とも思わない。植物の新芽や若葉について「萌える」と表現するとき、私たちはその新芽や若葉の幼さや若さ、みずみずしさ、けなげに勢いよく成長していくエネルギー、一途さ、それと同時に持っている脆さや弱々しさ、未成熟さ、さわったときのくすぐったさなどの特徴を連想する。その特徴、まんが・アニメ・ゲームなどの熱烈なファンの自分の好きなキャラクターのイメージに重なったときに「萌え」という表現が受け入れられたのではないかと思う。植物との連想についてはたんなる私の思いつきに過ぎない(それでも、「オタク」とは「お宅」を意味し、自分の家を持っている中産家庭を根源として成立したことばだという説よりは無理のない説ではないだろうか?)。しかし、幼さ、若さ、みずみずしさ、成長していくエネルギー、一途さ、脆弱さ、弱々しさ、未成熟さ、くすぐったさなどという感覚は、私は「萌え」感情にとって本質的なものではないかと思っている。

 なお、この本では「萌え」は1980年代に生まれたことばだとしているが、私は1990年代後半までこのことばに接したことがなかった。いずれにしても、まんが・アニメ・ゲームのキャラクターに対する性的な意味を帯びた「愛着」は、その時代に「萌え」ということばが使われていたかどうかは別として、この本では「萌え」として説明している。


 それでは、まず、ササキバラ氏が「萌え」史・「美少女」史をどう整理しているかを見てみよう。

 「萌え」感情を持ち、それを行動で表現したのは、この本では、1972年、『海のトリトン』のファンになった女性たちがファンクラブ活動を始めたのが最初だとしている。つまり「萌え」行動という面では女性の動きが先行したというのがこの本の主張である。この「萌え」行動は、1979年の吾妻ひでおの『不条理日記』、同年の宮崎駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』、1978年に始まった高橋留美子の『うる星やつら』を契機に、男性のものになり、独特の展開を遂げ始める。その対象として、この本でいう「美少女」像が成立してくる。

 1980年代前半には、ここで成立した「美少女」像を前提として、あだち充の『みゆき』・『タッチ』に代表される「ラブコメ」のブームが到来し、同時に島本和彦らのパロディ的作風が隆盛を迎える。アニメでは、メカもの(ロボットアニメや戦争もののアニメなど)に美少女が何の違和感もなく登場するようになる。その典型としてササキバラ氏が挙げているのは1982〜83年『超時空要塞マクロス』(劇場版『愛・おぼえていますか』は1984年)である。このような流れの上に、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』と富野由悠季の『機動戦士ガンダム』のブームが到来する(『ガンダム』は『マクロス』より前の作品なので、ここでの叙述の順番にはやや違和感を感じる)。松田聖子やおニャン子クラブのブーム、村上春樹の小説のヒットも、この「美少女」像を根源としたブームとしてササキバラ氏は位置づける。

 この1980年代前半の「美少女」像は、男性にとってセックスの相手となりうる「女性」性を排除した、男性によって傷つけられやすい弱さだけを持ったキャラクターだったとササキバラ氏は言う。しかし、1980年代後半になると、その「美少女」像のなかに、セックスの相手となりうる成熟した「女性」像が入りこんでくる。「美少女」は、男性によって一方的に傷つけられる脆弱な存在ではなく、内面を持った、男性によって理解しなれけばならない存在に成長する。いってみれば「自立した少女」像が「美少女」の典型となったのである。それはたとえば美少女フィギュアの登場などにも見られる(たしかにフィギュアはたいてい「自立」はしてますなぁ……)。それが決定的な方向となったのは『美少女戦士セーラームーン』以降である。『セーラームーン』は、女性の作者が少女たちを想定読者として描いた作品であり(ただし、アニメとして見るなら、監督を務めた佐藤順一も幾原邦彦も男性である)、男性から一方的に傷つけられるだけの少女たちではないのに、男性ファンから熱狂的に支持された。また、1990年代になると、パソコンの美少女ゲーム(ギャルゲー)が隆盛を迎える。この美少女ゲームに登場する美少女たちは、プレイする男性に対して選択を迫り、その選択に応じて自分の言動や生きかたを変える「内面」を持った存在である。その動きが行き着いた時点が現在の状況だというのが、ササキバラ氏の「美少女」史像だ。

 なお、男性が端役としてしか登場せず、それぞれの性格が明瞭に描き分けられた「美少女」だけが活躍する世界を舞台にした『マリア様がみてる』や『ギャラクシーエンジェル』を採り入れれば、ササキバラ氏の主張はより補強されそうに思うけれども、これらの作品についての言及はない。この本で言及されるのは1990年代までの状況である。

 ところで、こういう表現をして『マリア様がみてる』を『ギャラクシーエンジェル』とセットにすると、まじめなマリみてファンから抗議が来そうな気がするなぁ。自分でも違和感あるもんね(この文章を執筆した週はどちらも「レイニーブルー」だったけど……)。これは、あくまでササキバラ氏の枠組に当てはめればそうなるだろう、と推定に基づく議論ですので、ここはひとつよろしくご理解くださいませ……。

 なお、女性による「萌え」行動については、男性の「萌え」行動の契機として描かれた後はまったく触れられていない。だから、「やおい」ブームも出て来ないし、たとえばギャルゲーの同人誌を女性が作るという動きについても触れていない。

 ササキバラ氏の議論をここでひとまず整理しよう。

 1970年代後半に女性の「萌え」行動に追随するかたちで始まった男性の「萌え」行動は、個々の作品やまんがかアニメかという垣根を超えた「美少女」という共通の対象を見出すことで独自の展開を始め、1980年代前半には「男性によって一方的に傷つけられる弱さを持つだけの存在」として「萌え」の対象になってきたが、1980年代後半以来、徐々に「女性」としての自立性を持つ美少女が登場してきた。現在、男性はそのような「美少女」に対しても「萌え」行動を起こすようになっている。

 以上がササキバラ氏による「美少女」史の素描である。

 ここからわかるように、ササキバラ氏はまんが・アニメの流れをいちおうきちんと押さえて議論を展開している。もちろん別の整理のしかたはいくらでもあるし、異論もたくさん出るだろう。たとえば、この本では『新世紀エヴァンゲリオン』に出てきた美少女はほとんど分析の対象になっていない。『アルプスの少女ハイジ』・『フランダースの犬』・『ペリーヌ物語』などから『ロミオの青い空』・『家なき子レミ』までの名作劇場の話も出てこない。それでいいのかという議論もあると思う。だが、たとえば、枠組を先に作っておいて、まんが・アニメ・ゲーム史の流れとの関係を満足に説明しないまま、自分の議論に都合のいい作品を強引に引用して例証にするというやり方で書かれたような安易な評論とはこの本は一線を画している。そのことはまず評価すべきだと思う。


 次に、この本のテーマである「男性」論を、ササキバラ氏がこの「萌え」論・「美少女」論とどう関連づけながら展開しているかを整理してみたい。

 「萌え」の対象としての「美少女」というあり方が成立し、女性主体の「萌え」行動から自立した男性は、まず「美少女」を、セックスの対象にするのが不可能で、非常に傷つきやすい脆いキャラクターとして意識した。それは、逆に、自分自身を美少女を傷つけてしまう暴力的な存在であることを意識させてしまう。そのため、男性は、自分が触れることで美少女が傷つくことを恐れるあまり、美少女に触れることすらできなくなってしまう。

 著者が象徴的だとして挙げているのは『ルパン三世 カリオストロの城』の終幕の場面である。この物語は、「泥棒さん」で「おじさま」のルパンが、カリオストロ公国のお姫様クラリスを救うために奮闘するという物語だ。ところが、ルパンは最後にせっかく救出したクラリスを抱きしめることなく去ってしまう。この場面を、ササキバラ氏は、ルパンは「美少女」クラリスの傷つきやすさと自分の暴力性を自覚していたから、抱きしめずに去ってしまったのだと解釈する。

 しかし、「美少女」は、一方では男性にとってなくてはならない存在なのだともササキバラ氏は言う。

 1970年代までは、男性には「戦う根拠」がいくらでも存在した。学生運動の主義主張とか、あるいは豊かな生活を手に入れるための出世とか、そういうものである。学生運動はそれぞれの主張を実現するために機動隊と体を張って戦ったのだし、モーレツ社員たちは自分の出世を夢見て会社にすべてを賭けて戦った。ところが、この「萌え」の対象としての「美少女」の発見の時代には、男性にとって「そのために戦わなければならないもの」は失われてしまった。男性にとって「戦う根拠」はいまや「女性」だけになってしまった。

 「美少女」に「萌え」る男性にとって、「美少女」とはそういう「女性」の代表でもある。男性は「美少女」のために戦わなければならない――というより、(「萌え」感情を抱くような)男性が何かのために戦うとしたら、それは「美少女」のためでしかなくなってしまった。美少女は男性が「戦う」ための唯一の根拠になったのだ。

 ササキバラ氏はこれも『カリオストロの城』で説明する。『カリオストロの城』のルパンは「泥棒」として財宝を手に入れるために戦っているのではない(「クラリスの心」は財宝ではないとして)。クラリスのために戦っているのである。

 しかし、戦いが終わって、その戦いの目的が手に入りそうになったとたん、ルパンはクラリスの前から姿を消す。ルパンは自分がクラリスを傷つけてしまう存在だと気づいたからだ。

 これまでルパンはクラリスに暴力をふるう者たちからクラリスを守るために生命の危険を何度も冒して戦ってきた。ルパンが戦うための根拠はクラリスにあった。だが、その「敵」がいなくなったとたん、自分自身がまさにクラリスを暴力によって傷つけうる存在だということに気づいた。自分がクラリスを暴力によって傷つける存在なのなら、自分も消えなければならない。だからルパンは去ることを選ぶ(正確には、クラリスがついて行きたいというのを拒んでクラリスを置いて行ってしまうのである)。そういう説明になるのだろう。

 「美少女」のために戦わなければならないのに、その「美少女」が自分の手の届く存在になったても、「美少女」には手を触れることすらできない。男性が自分の暴力性を認識してしまうためだ。それが1980年代前半の男性が抱いていた「困難」であり、そこで行き詰まった男性の「後退」が始まるとササキバラ氏は言う。

 この「困難」を象徴しているのが宮崎駿と富野由悠季の一連の作品だというのがササキバラ氏の位置づけである。

 宮崎駿は、「美少女」を至上の存在と位置づけたために、たんに「男性に傷つけられる脆弱な存在」と描くのに耐えられなくなり、そうではない「美少女」を描き始めた。ところが、その結果、『風の谷のナウシカ』(ササキバラ氏が言及しているのはアニメ版のほうだけである)以降の作品では、男性キャラクターにはせいぜい「美少女」を支える補助役としての役割しか与えられなくなり、どんどん影が薄くなっていってしまう。他方の富野由悠季は、逆に「戦う根拠」としての「美少女」を描かないことにしたために、男性の「戦う根拠」を描けなくなってしまった。そのためアムロは戦場から逃亡しなければならなくなる。富野由悠季は、そこで、その「戦う根拠」としてニュータイプという概念を創造しなければならなかったが、そのために『ガンダム』シリーズの物語は自縄自縛に陥っていく。

 私はどちらもむちゃな作品解釈だと思う。あたっている点がないとは言わないけれど、少なくともこう言い切るために検討しなければならない多くの点をすっ飛ばしすぎている。たとえば『ガンダム』シリーズの話は『Ζガンダム』からいきなり『Vガンダム』に飛ぶ。「戦う根拠」としてアムロとシャアがいささか唐突に女性の存在に言及した『逆襲のシャア』についてはササキバラ氏は一言も触れていない。だがその議論は後回しにしよう。なお、ササキバラ氏がここで「1970年代の転換」を重視している点は、東浩紀氏の「ポストモダン」的「オタク」論とも共通するものがあって興味深い。どうやら、「現代思想」や現代社会論の方面から「萌え」に接近したい論者にとって、「萌え」は学生運動のつづきとして意識されているようだ。まぁ、これもまったくあたってないとは言わないけど……。

 さて、このような男性の困難は、「美少女」も内面を持っており、男性とセックスすることが可能だという1980年代後半の展開によって突破される。「美少女」はもはや傷つきやすいだけの存在ではない。「美少女」の内面を理解して接するならば、「美少女」は傷つかず、かえって「美少女」の側から男性に深く接してくれるようになるかも知れない。

 1980年代前半までの「美少女」は、一方的に男性を愛することはあったけれども、それは神の恩寵やきまぐれみたいなものであり、男性側の働きかけによるものではなかった。1980年代までの「美少女」は男性が働きかければ傷つき壊れてしまうだけの存在だったのだ。しかし、1980年代後半以降の「美少女」は、男性の働きかけによって男性を愛してくれるかも知れない存在になった。それを象徴するのがギャルゲーである。ギャルゲーでは、プレイする男性が、提示される選択肢のうち一つを選択しないと先へ進めない。ほうっておいても勝手に男性を愛してくれたりはしない。男性の選択の結果として、「美少女」は男性を好きになったり嫌いになったりするわけだ。

 ところがここに新たな「後退」の芽がある。男性は「美少女」によって提示される選択肢を選ぶだけの存在になってしまい、男性自身が無個性になってしまう。男性は、「美少女」が何を望んでいるかを推測し、その推測の結果にしたがって行動を選択するだけの存在になってしまう。男性と「美少女」との関係のなかで、男性は「美少女」の「内面」のままに行動するキャラクターに成り下がり、自分の存在を希薄なものとしてしか感じられなくなってしまうのだ。

 だが、男性は言うまでもなく無力な存在ではない。やはり「美少女」を傷つけうる存在なのだ。1980年代前半の段階では、男性は「美少女」を傷つけうるということが、男性は「美少女」に触れれば絶対に傷つけてしまうものだと意識されたために、男性の「後退」が起こった。だから、男性は「美少女」に触れることのできないまま、ラブコメやパロディに逃げなければならなかった(そういえば『ギャラクシーエンジェル』で「ラブ米」ってタイトルでラブコメのパロディをやってたな。「好きにしろよ」とノーマッドが言ってたぞ)。だが、1990年代以後に起こっているのは逆の現象だ。男性は自分が「美少女」に従属する希薄な存在だと認識してしまうばっかりに、今度は自分が「美少女」を傷つけるという可能性に気がつけなくなってしまっている。この危険な「後退」が起こっているのが現在の状況だとササキバラ氏は言う。

 「戦う根拠」を失ったときに男性は「萌え」という行動に走り、その対象として「美少女」を発見した。そして男性にとって「美少女」は唯一の「戦う根拠」になった。その男性たちの前にまず「美少女」は「傷つきやすい存在」として現れ、男性は「美少女を傷つけてしまう自分」を自覚するために、その「美少女」に触れることができなかった。これが第一の「後退」であり、宮崎駿と富野由悠季はみごとにその罠に引っかかってしまった。その後、「美少女」の「内面」を持ち出すことでこの「後退」は克服された。だが、今度は、男性たちが「美少女」に対してあまりに自分を無力だと認識しすぎたために、男性自身の「暴力」に気づくことができず、「責任」を取ることのできない存在になってしまった。ササキバラ氏の男性論をまとめるとこんなふうになるだろう。


 ササキバラ氏の男性論は、一つの男性論としてはあり得るだろうなとは思う。

 ただし、残念ながら、私自身は、自分のこととしても、自分の周囲の男性のこととしても、この議論を正しいと実感することはできない。私自身は、1980年代には自分の暴力性を意識しすぎて優柔不断になり、1990年代には自分の無力さを感じすぎるために暴力的になっているような男性ではないと思うし、私の周囲にもそんな男性はいない。

 もしかすると、1980年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われて気恥ずかしがっていた日本人が、1990年代以降には『プロジェクトX』的な日本のすごさを信じたがっているという日本社会の気分の変化がササキバラ氏の意識にはあるのかも知れない。あるいは、まだ日本が再び少しでも戦争に関わることに強烈な拒否感を持っていた1980年代前半の日本人から、テロや近隣の核武装国家の脅威におびえて「対テロ戦争」体制への参加を認める21世紀初頭の日本人という転換を説明したかったのかも知れない。そして、その説明としてこの「萌え」から見た男性像の変化という考えかたを提示している知れない。

 けれども、おそらく「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持ち上げられるのをいやがり、アメリカの攻撃型潜水艦へのトマホークの配備に反対していた日本人の多数は、「美少女」に「萌え」を感じたりはしていなかっただろう。現在、『プロジェクトX』的な日本のすごさを信じようとし、対テロ戦争への参加を正当化しようとする日本人の多くが「美少女」に「萌え」を感じてもいないだろう。たしかに重なる部分は存在する。その重なる部分に本質がよく表れているという議論もあり得るだろう(東浩紀氏はそういう方向で考えているようだ)。だが、そのためにはその論証が――少なくとも立場表明が必要である。


 また、ササキバラ氏がまんが・アニメ・ゲームの歴史についてはきちんと目配りして議論を進めていることはよく理解できる。ササキバラ氏の男性論が、私の実感に一致するかどうかは別として、一つの流れとして描かれていることも理解できる。

 だが、「萌え」・「美少女」論と男性論のつながりはと問うと、やっぱり牽強附会な議論運びがあちこちに見られると私は評価したい。

 たとえば、1980年代の「美少女」像の典型として持ち出されている『カリオストロの城』である。

 ササキバラ氏は、ここでルパンがクラリスを救う根拠は、クラリスが「美少女」だからという以外にないという。また、クラリスがルパンを愛しているのにも何かの理由があるわけではなく、神の恩寵のようにクラリスはルパンという卑小な存在を一方的に愛してくれる存在だという。それが、「美少女」戦う根拠でありながら、「美少女」に手を触れることができないという1980年代の男性論へとつながっていく。

 『カリオストロの城』が『ルパン三世』のなかでは異端的な作品だということは昔から言われている。それは、不二子を追いかけるはずのルパンが、不二子とは協力者の関係になって、いっしょにクラリスを救う側に回るとか、それどころかルパンを追うはずの銭形が途中で味方になってしまうとかいう点にいちばんよく表れている。もちろんこのような見かたを否定する議論はあり得る――たとえば『カリオストロの城』は最も『ルパン三世』らしい映画なのだという議論をすることもできるだろう。だが、ササキバラ氏は、『カリオストロの城』が『ルパン三世』シリーズのなかで異端的な存在だと認めて議論を進めている。

 それならば、『カリオストロの城』のルパン像も不二子像もこの二人の関係も(美少女論とはあまり関係がないが、五右ヱ門との関係も、銭形との関係も)、シリーズとはいちおう切り離して議論しなければならない。『カリオストロの城』でルパンが「泥棒」であるとはどういう意味なのか、『カリオストロの城』での不二子とルパンの関係はどういうものなのかという点を先に押さえておく必要がある。

 少なくとも、宮崎駿は、『ルパン三世』の最初のシリーズには関わっていても、『カリオストロの城』の時期の『ルパン三世』(第二シリーズ)にはこの段階までまったくタッチしていない(ササキバラ氏も触れているとおり、この後で変名で2本作る)。だから、この時期の宮崎駿が、テレビシリーズ本編のキャラクターからずれたキャラクター像を描いても、それほどふしぎではなかったのだ。

 ところが、ササキバラ氏は、派手な大財宝を狙うルパンと、そのルパンを妖艶な容姿で誘惑しつづける不二子という図式を『カリオストロの城』にもあてはめてこの議論を展開している。そして、女性的な特徴を隠そうとしない不二子ではなく、「地味な外見」のクラリスばかりを追うルパンと観客の男性たちのあり方を、1980年代男性の特徴として指摘しているのだ。

 しかし、いかにササキバラ氏にとって「意味不明な展開の連続」であっても、この映画の物語上は、なぜルパンがクラリスを救おうとするか、またクラリスがどうしてルパンを愛するのかということはいちおう説明されている(私にとってはここのササキバラ氏の文章のほうがよほど「意味不明な展開の連続」である)。クラリスは最初はルパンから逃げようとするし、そのすぐ後でもルパンに指輪を託して逃げたりする。このときのクラリスはたぶんルパンが指輪を持って公国外に逃げてくれるだろうというぐらいにしか考えていない。そのあと、渡ることが不可能なようにできている塔の上までルパンが救いに来たから、クラリスにとってルパンは体を張ってまで救いたい相手になるのだ。ルパンにとっても、クラリスはずっと昔に瀕死の自分を救ってくれた優しいお姫様である。女ならばだれでもいいわけではないとルパンは映画のなかではっきり言っている。

 それを「説明にならない」という立場もあり得るだろう。だが、そのためにはそう言うための根拠を明示することが必要だ。ササキバラ氏はそれをやっていない。

 ついでにいうと、『カリオストロの城』だけを見るかぎり、不二子はほとんど女性としてのセックスアピールを強調する服装をしていない。だから、この作品についてだけ見るかぎり、クラリスが一方的に「地味な外見」をしているとも思えないのだが。


 富野由悠季と宮崎駿という対比も、それ自体はわからないではない。

 だが、『ガンダム』シリーズに「美少女」は登場しないんですか? ララァもセイラさんもエルピー・プルもクエス・パラヤも出てこないんですかね? 『ガンダム』の少女キャラクターは、『ガンダム』の登場人物の男性に何の「戦う根拠」も与えなかった? そして、さきに触れたとおり、『逆襲のシャア』で、刺し違えて死ぬことを覚悟した(死んだかどうかはわからない)アムロとシャアのやりとりもなかったことになるんですかね?

 さらに、ササキバラ氏は『ファースト・ガンダム』(最初のテレビシリーズ『機動戦士ガンダム』)でアムロが軍を脱走する場面を大きく取り上げている。しかし、アムロは、この脱走のエピソードからさらにシリーズが進んだ後で、自ら戦うことを選択するのではなかったか? そして、それはこのシリーズのなかではアムロの成長として描かれているのではなかっただろうか?

 『ガンダム』の女性キャラやその女性キャラに「萌え」た男性たちの存在を無視するならいい。『逆襲のシャア』でのアムロとシャアのやりとりを無視するのもかまわない。『ファースト・ガンダム』でアムロが脱走することだけを大きく取り上げ、けっきょく軍に自分の選択で戻っていくことを無視するならそれでもいい。けれども、この作品をそういうふうに観るならば、そう観ることの根拠が必要だ。


 さらに興味深かったのが『うる星やつら』論である。

 ササキバラ氏は、『うる星やつら』の「美少女」たちは、ラムもしのぶもみんな傷つきやすい存在で、主人公の諸星あたるは、その「美少女」たちに欲情を抱えて走り回るだけで、けっしてその欲情を充足させることのできないだけの男性として描かれているという。

 私はじつは原作の『うる星やつら』を読んでいないから、こういう見かたが正しいかどうかは判断のしようがない。ただ、この部分が興味深かったのは、『うる星やつら 2 ビューティフル・ドリーマー』のDVDに収録されているオーディオコメンタリーでの押井守(『うる星やつら』アニメ版の前半のシリーズディレクター、つまりシリーズ監督)の発言とここでのササキバラ氏の議論がみごとに食い違っているからだ。

 ちなみに私は押井守原理主義者だが、ここで押井守の言うことが絶対に正しくて、それに反しているだけでササキバラ氏の考えはマチガイであるなどと言うつもりはない。

 ササキバラ氏があたるを欲情だけで行動してしかもそれを満たされることのない人物として描いたのに対して、押井はあたるはさまざまなことを考えて行動しているキャラクターだとしている。だから、他のキャラクターはほうっておいても演出が成り立ったが、あたるに関してだけはきちんと考えないと演出できなかったと述べている。私は高橋留美子作品は『めぞん一刻』と『らんま1/2』しか読んでいないけれども、この二作品に登場する男性像を見ても、高橋留美子の描く男性がただ欲情だけに突き動かされ、しかもその欲情を永遠に満たされないキャラにすぎないとは思えない。ササキバラ氏は、吾妻ひでおの『ふたりと5人』と高橋留美子作品を同じ性格の作品だと言いたいために、高橋留美子作品の男性の性格の一面だけをあまりに誇張しているように私は思う。

 また、ササキバラ氏は、ラムがいつもビキニ姿でもそれがエッチだとは少しも感じず、むしろあれは「傷つきやすさ」の象徴なのだとしている(そういえばありましたなぁ、あのラムの「鬼娘」姿はじつは恥ずかしい上に傷つきやすいって話――『ケロロ軍曹』(原作)に……)。けれども、押井守は、ラムがビキニで畳の上に座っている絵を見たときのエッチさのインパクトは大きかったと語っている。ただし、これは、基本的に鮮やかな彩色なしに描かれているまんがと、彩色されたセルで表現する(当時はそうだった)アニメの違いなのかも知れない。

 もっとも、一方の押井守はといえば、その高橋留美子の原作のよさをぶっ壊してアニメ化した監督として原作ファンには評判が悪かった。だから、押井の発言は、じつは原作の読みかたとしてはかなり異端的なものだと考えることもできるのかも知れない。だが、押井との対照はともかく、家や学校がラムの電撃とかその他の事件や事故でぶっ壊れても平気な世界で、ビキニ姿のラムだけがことさらに傷つきやすさを象徴しているという議論には私は納得できない。もしそうだとしても、ラムは見境なく電撃を放って周囲を破壊しまくる乱暴なキャラクターという一面も持っているのであって、その「傷つきやすさ」だけをとくに取り上げる根拠が私にはわからない。

 「情欲だけで行動してけっして満たされない男性」という男性像だって、べつに1980年代に「美少女」と対で成り立ったものではない。18世紀末に書かれたモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』(イタリア語でドン・ファンのこと)についても、リヒャルト・シュトラウスが20世紀に書いた交響詩『ドン・ファン』についても、そこに出てくるドン・ファン像は同じような男性の宿命を描いていると解釈されることがある。もちろん、抜群の風采を持ち、女性を実際に誘惑してしまうドン・ファンと、自分の容姿に自信を持てないのが普通のラブコメの主人公は対照的な行動をとる。そこは違うけれども、それでも「情欲だけで行動してけっして満たされることのない男性」というのは「好色な男」に対する近代の典型的な位置づけかたの一つなのだ。

 また、ラムがじつは脆弱な「美少女」で、ビキニ姿だの電撃だのという仕掛けはその脆弱さを覆い隠して男性どもを誘惑するための偽装だったのではないか――そういう妄想をじつは押井守自身が抱いていたことはここでつけ加えておきたいと思う。その妄想を出発点にして後に押井守が作ったのがOVA作品『御先祖様万々歳!』だ。この作品は「家族論」アニメという体裁をとっているけれど、「美少女をヒロインとすること」の意味を問うた作品として観ることもできると思う。ササキバラ氏のこの本を読んでから『御先祖様万々歳!』を観ると、ササキバラ氏の議論をより発展させて考えるための糸口が見つかるのではないかと思う。


 もういちど繰り返す。この本は、1970年代〜90年代のまんが・アニメ・ゲームの流れをまとめた本としても一つの整理のしかたをわかりやすく示している。また、それと同じ時代の男性論としても、私自身は実感できないにしても、一つの仮説をきちんと提示しているとは思う。ただその結びつけかたには多少の難があるのではないだろうか――というのが現時点での私の評価である。

 で、さらにもう少しだけ議論を進めてみたい。

 それはほかでもない――根拠の話だ。

 ササキバラ氏の男性像は一つの仮定に基づいて成り立っている。男とは戦うものであり、そして戦うためには根拠が必要だという仮定だ。そして、1970年代が終わると、男性には「女性」以外の根拠がなくなってしまった。この本の「美少女」論は、「美少女」のあり方と、その「美少女」に根拠を求めざるを得ない男性のあり方が相互に影響しあって変遷していくありさまを描いたものなのである。

 だが、男に根拠が必要だと、いったいだれが決めたのだ?

 人間は行動するのにいちいち根拠が必要なものなのだろうか? 少なくとも私にはそんなものは実感できない(ちなみに私は男性です)。もちろん自分の行動を決めるときにいろんな根拠を見つけ出すことはできる。でも、人間が生活のなかでそれぞれの行動に「根拠」を見出すとすれば、そのほとんどは自分の生存を維持するためであり、せいぜい自分のいまの生活を続けるために必要だからであろう。少しぐらいは「この仕事は自分の天職だと思うから」とか「興味があるから」とかいう根拠も出てくるかも知れない。あとはたんに「それが習慣になってしまったから」というのがけっこう多くの部分を占めている。

 「愛する女性のため」というのもあるだろう。だが、それが、1970年代が終わったあとの日本社会で特権的に「男が戦う唯一の根拠」になっているとは私はとうてい思えない。

 たしかに、人間が生きていく上で「根拠」が必要になることもある。これから遊ぶか勉強するか、寝るかアニメの録画を観るか、職場の仲間との約束と昔のクラスメートとの約束が重なったとき、どっちを断るか――そういう選択を迫られたとき、いま「遊ぶ」ことを選ぶ「根拠」と勉強することを選ぶ「根拠」を対比させて自分の行動を決める。そういうときには「根拠」を考えて行動することが必要になる。だが、それは相対的で一時的なものだ。昨日は「健康のために早寝しよう」と思って寝るほうを選択しても、今日は「録画を消化しておかないと次週の話がわからなくなるから」とアニメの録画を見るほうを選択するかも知れない。前回は職場の仲間との約束を断ったけれど、次回は昔のクラスメートとの約束を断るかも知れない。

 ここでササキバラ氏が言っている根拠というのはそういう相対的で一時的なものではない。絶対的なものであり、よほど大きな挫折がないかぎり、男性が一生抱きつづけるものである。

 そんなものがあるのか?

 それは、じつは、キリスト教的な「神」に対してヨーロッパ人が古くから抱きつづけた感情を置き換えただけの仮想的な存在なのではあるまいか?

 ヨーロッパ現代思想を語るうえではそういう意味での根拠は重要なのだろう。ヨーロッパ思想は、キリスト教的な「神」の存在が絶対のものだという前提が疑われもしなかった時代に作られた体系を基礎にして成り立っているのだから。ヨーロッパ現代思想は、そこからさまざまな概念やことばを借用し、またキリスト教的な「神」とは無縁のはずのさまざまな概念やことばを作り出して、それによって「神」の必要のない体系を作り上げようと苦闘している。しかし、「神」の存在を否定しようとも、また「神」とは関係のないところから議論を始めようとも、どこかに「神」が絶対的な中心として存在したころの名残りが出てきてしまう。なにせ、「神」が入りこんでくるのを避けるために、人間の知的な活動の基本である「ことば」をぎりぎりのところまで解体して――たとえば「音の連なりとしてのことば」(パロール)と「意味を伝えるものとしてのことば」(ラング)を別ものとして分けて考えるところまで――考察しようとしたところで、けっきょく「神」との縁が切れない。キリスト教では「ことば」自体が神と分かちがたいものと教えている(「ヨハネによる福音書」第一章)からだ。それを考えるとヨーロッパで「神」を排除して思想体系を組み立てる困難が理解できるだろう。キリスト教原理主義者やキリスト教信仰を政治的に利用しようとする政治家は別として、20世紀以後の現代思想家は、「神」を中心として議論を組み立てることはもうできない。だからこそ、「神」ではなく、しかも「神」に対抗できる絶対的な根拠が必要なのだ。ヨーロッパの一般民衆の人びとがそこまで律儀に「神」の存在を気にしているかどうかは知らないが、少なくとも思想家にとっては「神」は避けて通れない仕組みなのである。

 しかし日本社会にはそういう心性はもともと存在していない。民衆のなかにだけではなく、思想家の伝統のなかにも存在していない。もちろん日本にも神や仏への信仰は存在した。ある種の教えは神や仏への絶対的帰依を求めさえした。だが、それでも、神を否定すればただちに自分自身もこの世界に居場所がなくなってしまうという厳しさを持つ宗教は日本には少なかった。日本の神や仏は唯一絶対の宇宙の主宰者という西ヨーロッパのキリスト教圏の「神」とは本質から違ったものだったのだ。

 そういう社会の男性が、絶対的な根拠を必要としており、それが「女性」でしかなくなってしまったという仮定の下に展開される「男性論」というのは、やっぱり日本社会の現実の説明としては成り立たないのではないかと私は思っている。

 むしろ、日本社会では、「女性を唯一の絶対的な根拠として生きる」などという立場の表明はマチズム(マッチョ気取り)やダンディズムの一つとして受け取られるのではないだろうか? 好きな女の子のために戦う、リングに上がる、甲子園へ行く――などと言ったり行動で示したりすれば、本人がいくらまじめにそう思っていても、ほかに根拠はいくらでも見つけられそうなのにあえて「女」を挙げる心理的余裕、カッコよさの表現だと解釈されるのではないだろうか? そうでなければたんなる冗談として笑い飛ばされるかも知れない。いずれにしても、それが「他に絶対的な根拠を見つけられない男性の宿命」などと解釈されることなどめったにないと思う。

 少なくとも、「好きな女の子のために戦う」というのは「情けなさ(カッコわるさ)」と「カッコよさ」の両極のあいだで揺れ動くあり方であって、その一筋が断たれたらすべてが終わってしまうというような「絶対的な根拠」ではないのである(ずっと昔、早川義夫に『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』というアルバムがあった。『とんでぶ〜りん』のテーマが「愛はカッコわるい」だったことは記憶に新し……くもないか、もう……)

 私から見ればササキバラ氏はあまりに根拠なく「根拠」というキーワードを使いすぎているように見える。だから私はササキバラ氏に問いたい――男が戦うには根拠が必要だと言うその根拠は何なのだ、と。


 この本についての感想はここで終わりだが、この文章の最初のほうで振っておいたネタが不発に終わっているので、最後にそのネタの落とし前をつけておきたい。

 私は、「萌え」ということばの感覚は植物の「萌え」についての感覚と共通しているのではないかと書いた。つまり、幼さ、若さ、みずみずしさ、成長していくエネルギー、一途さ、脆弱さ、弱々しさ、未成熟さ、くすぐったさなどである。しかも、もうひとつつけ加えると、それは抽象的な幼さとか若さとかではなく、さわって実感できるような――身体的に直接触れる感覚で実感できるような感覚だ。

 もっとも、現代の都会で育った人たちが実際に植物が「萌え」るところをさわって確かめたことがあるとは思わない。ただ、見た感じとして、いかにも幼く、若く、みずみずしく……という感じである。見た感じからすぐに身体を触れ合ったときの感じが思い起こされてしまうという感じの上に「萌え」は成り立っている。キャラクターに対する「萌え」のばあいには、もうひとつ、耳で聞いた感じが重要になる。つまり声優が当てる声である。

 しかし、「萌え」キャラのすべてが、ここに挙げたような新芽や若葉の「萌え」の特徴を併せ持っているとは思えない。成熟したキャラへの「萌え」というのもあるし、ぜんぜんエネルギーを感じることのできない病弱「萌え」キャラも多く存在するし、また逆に弱さをまったく感じさせないような「萌え」キャラもいる。一途にならない無気力な少女キャラに「萌え」ることもあるだろう。

 私の仮説は、そういうさまざまなキャラクターに接したとき、そのキャラクターの「原型」として「幼く、若く、みずみずしく、成長していくエネルギーをいっぱい持ち、一途で、脆弱で、弱々しくて、未成熟で、さわってみるとくすぐったい」ようなキャラクターを探り出してしまうような心の動きが「萌え」の基本なのではないかということだ。

 私は「萌え」というのは「変奏曲を聴く」のようなものではないかといま考えている。

 クラシックの変奏曲というのは、最初に原型となるメロディー――これを「主題」という――が提示されて、そのあとに、そのメロディーを改変したものがいくつもつづく(短いもので数個、多い曲では30個近くつづくこともある)。改変のしかたはさまざまで、少し聴けば最初の原型のメロディー(主題)をすぐに思い起こせるものから、よほど聴き慣れていないと主題を改変したものであることに気がつかないような複雑でひねったものもある。なお、ここでメロディーを改変することを変奏するという。

 変奏曲を聴くというのは、つまり、その後ろのほうにいろいろ出てくるいろんなメロディーを聴きつつ、そこから最初に提示された「主題」を探り出すことなのだ。

 「変奏」という技法は、タイトルに「変奏曲」とついた曲だけではなく、ピアノソナタや弦楽四重奏曲、さらに協奏曲や交響曲といった大曲でも、その曲を成り立たせる基本として使われている。クラシックだけではない。ジャズの曲も基本的にはこの変奏という仕組みで成り立っている。最初に出てきた「主題」を、そのあと、サックスやトランペットやピアノやベースやドラムスなどが変奏しながら展開していくのがジャズの基本的な組み立てである。

 いま聴いているメロディーから最初の「主題」を聴き取れなければ、変奏曲はただのぐちゃぐちゃにしか聞こえない。クラシックでもジャズでもそうだ。じっさい、慣れないと、名曲とされている変奏曲でも、ただなんとなくメロディーが流れていって派手になったり落ち着いたりしてなんとなく盛り上がって終わってしまうようにしか聞こえない。

 しかし、変奏曲を聴き慣れてくると、途中の改変されたメロディーを聴いて「最初のメロディー(主題)をこんなふうに変えて演奏してるのか!」というのがわかって、その曲を聴くことが楽しくなってしまう。「主題」の美しさ、その「主題」をぜんぜん違ったメロディーに変奏していく鮮やかさ、変奏されてできたメロディーの美しさのどれもが心に残る。そして、「主題」そのものも、その「主題」から「変奏」されてできたメロディーも頭から離れないほど好きでたまらなくなってしまう。

 私がブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」や交響曲第四番(最終楽章がシャコンヌという形式の長大な変奏曲)が好きなのは、最初はわけのわからなかった変奏曲が聴きこんでいるうちにどんどん「主題」と「変奏」の関係がわかってくるという体験をしたからだ。私の「萌え」やすいということとブラームスが好きだということとはじつは密接に関係しているのかも知れない(もひとつ言うと、ブラームスは「女性のために献身的になるくせに、好きな女性に告白できない」という経験を生涯に何度も繰り返した言われている。1980年代の日本でなくてもそんな男はいくらでもいたのである)

 ブラームスの話はこれぐらいにしておこう(むかし書いたブラームスの曲の演奏会評を→こちらに載せています)

 「萌え」るひとは、「幼く、若く、みずみずしく……」というキャラクターの「主題」を心のなかに持っているのではないだろうか。そして、自分の接したキャラクターがその「主題」の「変奏」である感じると、その「主題」がどう「変奏」されているかを無意識に解き明かし、「主題」にも「変奏」にもますます愛着を感じて、頭から離れなくなってしまう。この「変奏」では、ほんらい「弱々しい」とあるところが「やたらと健康そうな」になっているけど、これは「弱々しい」を変奏した結果に違いない。この「変奏」では、ほんらい「一途な」はずのところが何かみょうにいじけているけれど、それも変奏した結果に違いない。それが「萌え」なのではないかと思う。

 しかも、その感覚が身体を触れたときの感覚つきで思い起こされてしまう。それも努力してそうするのではなく、キャラに触れたとたんにそういう心の動きが勝手に起こってしまう。それが「萌え」なんじゃないかと思う。

 こういうことを書くと、私がササキバラ氏に与えた評が自分に返ってきてしまいかねないということは私は自覚している。つまり、ササキバラ氏の「絶対的な根拠」がヨーロッパ的な考えかただというなら、「変奏曲」形式だってヨーロッパのクラシック音楽のものではないかという批評が私自身に向けられかねない。

 でも、私は変奏を楽しむというのは、ヨーロッパのクラシック音楽に限られたものではないと考えている。何かの「原型」があり、その「原型」がいろいろとかたちを変えて出現するのを探りあて、その「原型」との違いを楽しむというのは、ヨーロッパのクラシック音楽に限らず、さまざまな地域のさまざまな文化に顔を出している。中国の漢詩だってそうだ。最初に漢字5文字や7文字で原型を作り、その調子と内容を少しずつ変容させてつないでいくのが漢詩の基本的な構造である。日本の連歌(何人かで五七五→七七→五七五→七七→五七五と歌を連続させて作っていく遊び。その最初の部分=発句の「五七五」だけが独立して俳句になった)だって、前のイメージを残しつつ、どれだけ斬新に新しい展開をつづけられるかをやってみる歌の形式だ。「原型」を探りあてようとしながら、同時に、いま聴いたり読んだりしているものが「原型」からどうずれているかを探りあて、その「原型」といま聴いたり読んだりしているものとの両方を愉しむという楽しみかたは、ヨーロッパのクラシック音楽やジャズの枠を超えた普遍性を持っていると考えている。

 そういう心性の上に「萌え」は成り立っているのではないかというのが私の現在の仮説である。


―― おわり ――