重なり合う転換点で


東浩紀 責任編集

美少女ゲームの臨界点+1

波状言論、2004年



 昨年末のコミックマーケット67で、「波状言論」のブースにこっそり偵察に……いえいえ、ご挨拶にうかがうと、東浩紀さんからWWFにということで本書を頂戴した。それを私が持って帰って読んだので、そのご報告である。

 ちなみに、コミケ67当日は、私は朝から疲れきって()れきっていたのに対して、東さんはずっとこの本の看板を頭の上にかかげ持ちながら、ブースを訪れるお客さんと語らったりしておられた。

 う〜む、元気だ……。


 本書は、昨年夏のコミックマーケット66で出た『美少女ゲームの臨界点』のつづきであるらしい。ただし、昨年夏は、「波状言論」(当時は「hirokiazuma.com」だったかな?)の出た日にはコミケに参加できなかったので、最初の『臨界点』のほうは私は読んでいない。

 『臨界点+1』は三部構成である。

 第一部は、『吸血殲記ヴェドゴニア』・『鬼哭街』・『斬魔大聖デモンベイン』・『沙耶の唄』などの制作集団ニトロプラスの虚淵玄(うろぶちげん)・でじたろう・鋼屋(はがねや)ジンへのインタビューで、「前進する美少女ゲーム――エンターテインメントの正統へ」と題されている。

 第二部は、「PUREGIRLに花束を」というタイトルで、2004年10月号で休刊した美少女ゲーム専門誌『カラフルPUREGIRL』とその前身の『PUREGIRL』をめぐって、その創刊者 加野瀬未友(みとも)とライターの更科(さらしな)修一郎へのインタビューである。なお、第二部はコミケ66で「波状言論」から頒布された『はかぎくす!!』に収録されていた文章の改訂版ということだ。

 第三部は1996年から2003年までに発表された主要な――東浩紀氏が主要だと位置づける――「美少女ゲーム」の論評で、執筆陣には、『波状言論』の東浩紀・佐藤心・前島賢各氏に加えて、前出の更科修一郎氏、元長柾木氏、『〈美少女〉の現代史』(→清瀬による評の著者ササキバラ・ゴウ氏、謎の覆面作家夜ノ杜(よのもり)零司(れいじ)氏が参加している。

 「波状言論」編集部のスタッフは、評論家の東浩紀さん(東さんのホームページはhttp://www.hirokiazuma.com/、編集者・ライターの佐藤心さん、DTPデザイナー・ライターの前島(さとし)さんの三人である。冬のコミックマーケット(12月末)で発行する本は、通例、夏のコミックマーケット(8月中旬)が終わってから準備を始めるので、準備期間が短い(冬→夏は半年以上の準備期間があるので余裕がある――と思っていたらやっぱり修羅場になるんだよね〜。なんでかな?)。そのなかで、しかも、毎月2度、2000行を超える分量のメールマガジン「波状言論」を発行し、本の執筆や学界での活動も進めながらこれだけ完成度の高い本を作った「波状」編集部には頭が下がる。とくに、商業出版顔負けの凝った誌面構成は前島さんの作業ということで、脱帽するほかない。


 この本でいう「美少女ゲーム」はたんに「美少女キャラの出てくるゲーム」ではないし、たんなる「ギャルゲー」や「恋愛アドベンチャーゲーム」の別称でもないらしい。概念についてはおそらく最初の『臨界点』のほうに説明があるのだろう。とりあえず、この本の第三部に載っている元長柾木氏の『To Heart』評によれば、「美少女ゲーム」とは「エロゲー」のことなのだそうだ。美少女が出てきて、その美少女と関係を結ぶことテーマにしたゲーム(ギャルゲー)のうち、「18禁」のパートのあるもので、しかも高度なストーリー性や世界観を持ったものと考えればいいのだろう。

 また「美少女ゲーム運動」というのも耳慣れないことばだ――というより「波状言論」周辺以外では耳にしたことがない。これも最初の『臨界点』を読まないと正確なところはわからないのだろう。この本を読むかぎりでは、1990年代半ばに「美少女ゲーム」が登場してから、「美少女ゲーム」の形式や内容がいちおう完成を迎えて市場に定着する2003年までの制作者・プレイヤー・批評者・市場などの動きをひっくるめて呼んだものと考えていいようだ。


 この本を読んで私がまず痛感したのは、私がこの「美少女ゲーム運動」にまったくかかわりを持たずにここまで来てしまったということだった。さすがに『To Heart』や『Kanon』や『Air』の存在は知っていたけれども、ゲームをプレイしたことはない。この本には「美少女ゲーム」やその周辺のゲームのタイトルがつぎつぎに出てくるのだけれど、ゲームタイトルを見てもどんなゲームかを連想することもできず、「はァ?」という感じで首を傾げるだけだ。

 また、「美少女ゲーム」を語るためには、キャラクターの絵柄や声や画面構成を知っていることが重要なのだろうけれど、やはり『To Heart』や『Air』を除いてそれも思い浮かばない(ただし、絵柄・声については、この本でも直接に議論にはなっていない)

 だから、その「運動」の内側にあった者としてこの本を批評することは私にはできない。つまり、「このゲームのこんな一面を指摘しているのは鋭い」とか「このゲームについてこうなふうに論じるのはおかしい」とかいう議論は私にはできない。「美少女ゲーム運動」の外部にいた者として、「美少女ゲームや美少女ゲーム運動とはどんなものか」ということと「それはこの本の執筆陣・制作陣によってどのように語られているか」ということをひっくるめて、この本を手がかりに評することができるだけである。ただ、第三部の「美少女ゲーム」紹介・評論パートを見るかぎり、この本はそういう読者も想定しているようであるから、その立場から評を書くのも無意味ではないだろうと思う。


 「美少女ゲーム」はプレイヤーに自分自身の立場を問い返してくる可能性のあるゲームだ――「ポストモダン」社会(1970年代ごろから始まり、1990年代半ばに本格化した、それまでの近代社会とはあり方の異なる社会)での人間のあり方を問題にしてきた東浩紀さんが「美少女ゲーム」に関心を持つのはそういう考えからだ。佐藤さん・前島さんなど「波状言論」のスタッフや、同じく1970年代からの「男性」のあり方を『〈美少女〉の現代史』で追究したササキバラ・ゴウさんなどにもその問題意識は共有されているのだろう。

 東さんの『動物化するポストモダン』では「データベース消費」(アニメやゲームの「物語」を楽しむのではなく「要素」の寄せ集めとして楽しむという楽しみかた)論の一部として「美少女ゲーム」論が出てくる。ここでの議論は、「美少女ゲーム」のシステムを例に「データベース消費」を説明するというものだ。乱暴に要約してしまえば、「美少女ゲーム」はいくつか用意されたデータを組み合わせることで構成されたゲームであり、そんな要素の組み合わせだけで感動してしまう「オタク」が多く出現したことこそ「ポストモダン」という時代の特徴だというもの論旨である。

 この部分だけを読むと、東さんの論旨は違うとしても、「オタク」というのは単純な「データ」の組み合わせだけで感動してしまう単純でおめでたい人びとであり、その人たち向けに作られた単純で幼稚な仕掛けが「美少女ゲーム」なのだというふうに読めてしまう。東さんの言いたいことは、それはたんに「オタク」に特徴的に表れているだけで、「ポストモダン」の人びとすべてが基本的に同じような人間性を持っている(つまり「動物化」している)ということのはずなのだけれど、『動物化するポストモダン』ではそのことが十分に伝わらなかったように私は思う。『動物化するポストモダン』に当の「オタク」たちから強い反発があった原因の一つは、この本がおそらく作者の意図に反して「オタク特殊論」(「オタク」は現代社会のなかで特殊な人間群であるという議論)を主張した本だと受け取られたからではないだろうか?

 そうなった一つの原因は、『動物化するポストモダン』では、「オタク」が「ポストモダン」の人間性を最もよく体現しているということを最初から前提にしていて、そのことをいちいち説明していないからだろう。自分は東さんのいう「オタク」とは違うと思っている読者に対して、「オタク」や「美少女ゲーム」の特異性・特殊性を印象づけることになってしまったように思う。


 今回、この『美少女ゲームの臨界点+1』を読んで、なぜ「波状」の人びとが「美少女ゲーム」を重視するかという感覚がつかめたように思う(もちろんそれはこの人たちが「美少女ゲーム」を愛しているからだろうけど、それはさておくとする)。それは、単純なデータの組み合わせだけで感動できてしまう人間とは何だろうか、という人間性そのものに対するの驚きや疑問である(この点は夜ノ杜零司さんの『Kanon』評に最もよく表れていたと思う)。そして、プレイヤー自身がゲームのなかで恋愛を楽しみ、しかも何度もプレイを繰り返して複数の美少女との恋愛を体験しないことにはゲームそのものの最終局面に到達できないという「美少女ゲーム」の仕組みが、その驚きや疑問をプレイヤー自身の問題として切実に突きつけてくる。だから「美少女ゲーム」や「美少女ゲーム運動」は1990年代から21世紀最初頭の時代のなかで重要性を持つ。おそらくそういうことなのだと思う。

 テレビゲームやパソコンゲームで、ゲームのなかのあるキャラクターを「自分のキャラクター」(マイキャラクター)として意思のままに動かすのは、何も「美少女ゲーム」に限ったことではない。『ドラゴンクエスト』などのRPG(ロールプレイングゲーム)でもそうだ。

 こういうゲームでもプレイしている自分と自分のキャラクターとの落差を意識しなければならない場面が必ず出てくる。自分の意思のままに動かそうとしても、出てきた選択肢が自分の考えとは異なるものばかりで、自分の意思とは違った選択をしなければならないこともある。自分がゲーム内のキャラクターなら絶対にやらない選択だけれどゲームを進めるにはこちらが有利だからということで自分の意思と違う選択をすることもある。

 だが、「美少女ゲーム」のばあい、「自分が美少女を好きになり、美少女もそれに応え、美少女と人生をともに生きていく」ということを体験する。そのときには、RPGの悪役を、ゲームのなかの役柄として憎むのとは違って、プレイヤー自身がその「美少女」に「萌え」を感じ、好きになっていくこともあるかも知れない(もちろんそうならないことも多いだろう)。しかし、ゲームの構造上、その美少女とは別の美少女キャラクターを好きにならなくては先に進まないことがある。そのとき、プレイヤーによっては、現実の世界でパートナーの女性を裏切り、しかもパートナーはそれを絶対に知らないばあいのような後ろめたさを感じるかも知れない(ササキバラ・ゴウさんの『WHITE ALBUM』評はその感じをよく表現しているように思う)

 それは、現実の恋愛のばあいと同じように、いや、もしかすると、現実の恋愛を先取りしたり、純化したりして、「そんなことをやっている自分とは何なんだ?」という驚きや疑問を直截(ちょくせつ)に突きつけてくる。日常生活は、女性との恋愛をめぐる思いとか感情とか行動とかは、ほかの人間とのつきあいや日常生活のさまざまなできごとのなかに大なり小なり紛れてしまうわけだが、ゲームでは「萌え」や「人を好きになること」や「好きな相手を裏切ること」だけが純粋に取り出して描かれるからだ。

 また、この本『臨界点+1』で紹介されている「美少女ゲーム」には、恋愛が進むにつれて世界が変わっていくという構成をとっているものが多い。世界が変わっていくということもあるし、恋愛が進むにつれて主人公自身について隠されていた事実が明らかにされたり、ゲームシステム自体に隠されていた事実が明らかにされたりすることもあるようだ。現実の恋愛ではあまり起こらないであろうこのような「世界の変容」も、またプレイヤーに自分自身に対する驚きや疑問を突きつける。


 もちろん「美少女ゲーム」のプレイヤーがみんなこういう驚きや疑問を感じているとは思えない。むしろそんな驚きや疑問に自覚的なのは「波状」の人びとなどごく一部だろう。多くのプレイヤーは、たんに美少女キャラの画像を一枚でも多く見たいから、一つでも多くのシナリオをクリアしたいから、あるいはたんにせっかくおカネを出して買ったのにゲームの隅々までプレイしないともったいないからということで、ゲームをプレイし、全シナリオをコンプリートしたりしているだけだろう。「美少女ゲーム」に用意されている「美少女との交際が続くと世界そのものが変わってしまう」というような仕掛けを正面から受けとめて、その意味を探究したりするのは、「美少女ゲーム」のプレイヤーのなかでもやはり「波状」の人びとなどごく一部ではないだろうか?

 東浩紀さんが、(東さんがいう)「近代」からの過渡期から完全な「ポストモダン」期への転換点として高く評価するアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の受け入れられかたもそうだった。「オタク」も「オタク」でないひとも含めて、『エヴァンゲリオン』が好きだと言っていたひとの大多数は、綾波が好きだアスカが好きだ(当時はまだ「萌え」ということばは「オタク」のなかでも一般化していなかった)などと言い合っていたが、テレビシリーズの最後のほうや劇場版のオリジナル部分の「世界の変容」には強い拒絶の態度を見せ、「何もそこまで言わなくても……」と思うほどの痛烈な罵倒を浴びせたものである。

 もしかすると、「波状」の人びとが関心を持っているのは、『エヴァンゲリオン』にしても、『エヴァンゲリオン』以後のアニメ・ゲームにしても、また「美少女ゲーム」にしても、多くの鑑賞者・プレイヤーが拒絶するにもかかわらず、これらのメディアが「世界の変容」を描きつづけているのはなぜかということなのかも知れない。

 美少女キャラクターに対する「動物」的な「萌え」が、どうして「世界の変容」とセットにして供給しつづけられるのか? もし単純に「世界の変容」がキャラ萌え作品に対するよけいな附属物ならば、そういうよけいな附属物のついた作品は市場で淘汰されていくはずだ。そうならないのは、単純な要素の組み合わせだけを求めているだけの1990年代後半以来のアニメ・ゲームの鑑賞者やプレイヤーが、じつは、「世界の変容」をも不可欠のものとして求めているからではないか? そういう問題意識がこの「美少女ゲーム」論・「美少女ゲーム運動」論にあるのではないかと思う。


 どうして、単純な要素の組み合わせだけで「ポストモダン」の人間は「萌え」たり泣いたりすることができるのか? 「美少女ゲーム」のような単純な仕掛けで「萌え」たり泣いたりするのは「オタク」だけだという答えを最初から「禁じ手」にし、そこを入り口として「ポストモダン」の人間性を追究しようというのが東さんの戦略だろう。

 それに対する私の回答は、これまで『動物化するポストモダン』へのコメントのなかで示してきたのと同様に「東浩紀氏のオタク論を読む」「唯物的オタク論!」「祝祭の時間としての近代、「ポストモダン」の憂鬱」、あいかわらず散文的でつまらないものだ。つまり、人間はじつは「ポストモダン」の時代(東さんは、1970年代ごろから過渡期、1990年代半ばから本格的にこの時代に入るとする)に入るはるか以前から、単純な要素やその組み合わせに「萌え」たり、泣いたりしてきたのだ。たとえば、歌舞伎について考えてみると、その感動は、物語への感動もあるだろうけれど、さまざまな場面の見せかたや、どの役をどの役者が演じるかなどといった要素によってもたらされる部分も大きいのではないだろうか。人間は「近代」より前から「要素」や「要素の組み合わせ」にずっと深い感動を感じてきたのだ。それを「人間は物語にこそ感動するものである」というその時代の社会の思いこみ――社会というより批評家の思いこみ――が見えにくくしていただけなのだ。

 ただ、では、そういう単純な「要素萌え」を狙った「美少女ゲーム」でどうしてしばしば「世界の変容」が描かれるのか、しかもその「世界の変容」が「美少女ゲーム」の世界観に深く結びつき、ただの「エロゲー」でしかないはずの「美少女ゲーム」の感動をより深めることにつながっているのかは、こういう散文的な回答では解き明かせない。これは、先に少し触れた『新世紀エヴァンゲリオン』についても同じだろうと思う。

 「要素」で「萌え」たり泣いたりすることと「世界の変容」の感覚は、じつは「物語」という仕掛けを飛び越えて直接に結びついているのではないだろうか――というのが直観的に考えられる答えだけれども、それを論証することは現在の私にはできない。

 私は、ここで、『臨界点+1』で採り上げられている美少女ゲームについて「要素萌え」と「世界の変容」が「物語」で十分に仲立ちされないで結びついているものという前提で話を進めている。ただし、ほんとうにこれらのゲームで「物語」による仲立ちのないまま「世界の変容」が描かれているのか、それともゲームには「物語」による仲立ちがあるのにこの本の執筆陣が無視しているだけなのかは、私自身でゲームをプレイしていないのでわからない。

 ただ、たとえば「何がどうしてこうなったから世界が変容した」という「物語」によって「世界の変容」が説明されることに、私たちはあまり意味を見出すことができなくなっている。それは確かだろうと思う。

 たとえば、「プレート境界の大規模な破壊によって大規模な地震が発生し、それによって大規模な津波が発生した。インド洋周辺ではこれまで大規模な津波被害がなかったので対策が十分でなかった」という説明で、あの15万人を超える犠牲者を出したスマトラ島沖大地震・インド洋大津波の大被害が説明できたと感じられるだろうか? それより「なぜか知らないけれども世界がとつぜん変わってしまった」という不条理さを伴った感覚のほうが、この大被害の「説明」としてより親身に感じられるのではないかと私は思う。

 九・一一大規模テロの惨劇だって、犯人がだれで、犯行組織が何で、どんな意図で行われたか、いちおう推測は組み立てられているし、アメリカ合衆国はそれらしい証拠を示してはいるけれども、ほんとうの経緯はまだ確定できていない。あれだけの被害を出したにかかわらずである。あるいは、イラクのサッダーム・フセイン政権が大量破壊兵器を持っているとさかんに言い立て、「だったら査察を継続しよう」という有力な意見を蹴ってまで始めた戦争が、いつの間にかその目的が「イラクの民主化」とやらに移り、けっきょくイラク全土を混乱に陥れておきながら「大量破壊兵器はありませんでした、でも選挙をやってイラクが「民主化」するからいいじゃないですか」みたいな幕引きになってしまう(ブッシュ政権はそれを「落としどころ」にしたいのだろう)。あれだけの戦争をやっておきながら、「何がどうしてこうなった」という「物語」的な説明に与えられた役割はあまりに薄弱である。しかも、それが国際社会で、さまざまな批判や不満を浴びせられながらも通用しているのだ。

 このような「物語」的な説明の影響力の弱まりが何によってもたらされたかは、これまた現在の私にはよくわからない。九・一一テロやイラク戦争について言えば、たぶん冷戦構造が崩壊して国際政治の枠組の捉えかたがはっきりしなくなったことと関係しているだろう。アメリカ合衆国があまりに強大な軍事力と軍事技術力を持っているために、アメリカ自身は自分の行動を「物語」的にきちんと説明しなくてもやっていけるし、他の国は「アメリカのやることに何を言ってもむだだ」というあきらめを抱いているのかも知れない。また、人命の尊さについての意識が根づいてきたこと、情報が映像・音声つきで入るようになったことで、人命が失われる事件の悲惨さ・凄惨さがよく伝わるようになったことも、人命に関わる事件の「不条理」さの感覚をより強めているだろう(だから、たとえばアフリカで今日も続く飢餓や沙漠化による農地の消滅といった凄惨な事件については私たちはあまり注意を向けない。映像・音声を伴った情報があまり入らないからだ)

 記録的な大惨事や国際政治上の大事件を論じた後で「エロゲー」の話に戻るのもはなはだ恐縮かつ不謹慎だが、ここはもともと「エロゲー」の話をしているところなので話をつづけると、このように「物語」的な説明の与えられない「世界の変容」という感覚は、東さんのいう「ポストモダン」時代に生きる私たちにはかえって親身なものではないのだろうか? 宮崎駿監督はそういう感性に怒り、押井守監督は違和感を表明するだろうけれど(じっさい、『イノセンス』のDVDに収録されている鈴木敏夫プロデューサーとの対談でそういう話をしている)、「ひとりの女の子を愛しただけでなぜか知らないが世界ががらっと変わってしまう(世界の見えかたが、ではなく、世界そのものが変容してしまう)」という感覚は私たちにとってむしろ身近な感覚なのだと思う。

 東さんは、この「物語」的な説明の説明能力の減退を、ラカン心理学用語を用いて「現実界と想像界を繋ぐ象徴界の消滅」というふうに説明するのだろうと思う――『網状言論F改』からメールマガジン『波状言論』にいたるまで、東さんはこの問題を繰り返して採り上げているのだから。

 『臨界点+1』のニトロプラス関係者へのインタビューで興味深かったのは、虚淵さんが、ギャルゲーをプレイしているものにとっては、「好きな女の子と結ばれ、子どもが生まれて幸せに暮らしている」という結末は「死」と同じ別世界のできごとだと語っているところである(32頁)。ここでは、「美少女を好きになること」から「その美少女と結婚して家庭を持つこと」への移り変わりが「なぜかわからないけれど突然に起こった世界の変容」として感じられている(まあ昔から「結婚は墓場だ」という言いかたはあったわけだが)。「物語」的な説明がかんたんにつくことなのに、やはりそれは「不条理な世界の変容」と感じたほうが実感に合うのだ。それが「美少女ゲーム」の世界を支える感性――もしそう言いたいのなら「ポストモダン」社会の感性――なのだろう。


 ただ、この『臨界点+1』では、ここで私が長々と書いてきたこと自体はあまり正面から論じられてはいない。もしかするとその議論は最初の『臨界点』で終わっているのかも知れないし、まだなのかも知れない。どちらにしても、『臨界点+1』はその問題を考えるための手がかりを詰めこんだ本であるのは確かだ。

 最初のニトロプラス関係者へのインタビューでは、「美少女ゲーム」界のなかでも、ガンアクションとの融合など、従来とは違った方向性の作品を作り続けている(らしい)集団を通して、ニトロプラスのゲームを含む「美少女ゲーム」についてのさまざまなことが明らかにされる。ニトロプラスのゲームについての作者自身の評価や「業界裏事情」的なネタも含めて興味深いインタビューだった。

 このニトロプラス関係者へのインタビューと、第二部の『PUREGIRL』・『カラフルPUREGIRL』関係者インタビューとを合わせて読むと、『臨界点』の主張する「美少女ゲーム運動」の「黄昏時」という位置づけが理解できるように思う。

 ここでいう「美少女ゲーム運動」は、Leafの『雫』・『To Heart』からKeyの『Kanon』を経て、同じくKeyの『Air』やTYPE-MOONの『月姫』、âgeの『君が望む永遠』でいちおうの円熟を迎えて完結したということなのだろう。ただ、更科修一郎氏の『Air』評にあるように、それは、このLeaf系・Key系の「美少女ゲーム」がこれからは作られなくなるということを意味しない。むしろ、その「美少女ゲーム」の作り手たちは繰り返し『Air』のような物語(更科氏によれば「歴史の終わり」の物語)を書いて行かざるを得ないということである。

 ニトロプラス関係者へのインタビューでは、朝日ソノラマやSFのファンだった人たちが、十分に成算の立たないまま「美少女ゲーム」業界に参入し、Leaf系・Key系とは違う流れを作り出すまでが語られている。他方で、『カラフルPUREGIRL』の更科さん・鹿瀬さんはニトロプラスの登場で「美少女ゲーム」運動は何もかも変わってしまったという認識を示している。もっぱら「内面」を語っていた「美少女ゲーム」が、ニトロプラスの登場でアクションと物語主体のゲームへと変容していったというわけだ。

 ニトロプラスが、Leaf系・Key系のゲームのプレイヤーに特化しない「美少女ゲーム」を作り出しつづけていく原動力として、インタビューでは「むかしのオタク」――東さんのいう「オタク第一世代」の感性が言及されている。東さんの区分によれば、「オタク第一世代」はまだ「ポストモダン」化しきらない時代に「オタク」の感性や行動様式を身につけた人びとだ。したがって「むかしのオタク」には「物語」がないと安心できないという性向が強く残っている(世代が下ると「物語」は必要なくなるというのが東さんの説である)。その感性が、ある次元では「終焉」に到達した「美少女ゲーム運動」を別の次元へと拡げて新たにスタートさせていくのに役立つのだとすれば、東さんのいう「物語消費」(物語を楽しむこと)から「データベース消費」(物語には関係なく、物語やキャラを組み立てるさまざまな要素の組み合わせそれ自体を楽しむこと)へという移行は、もしかすると「近代」から「ポストモダン」へという一方向的な運動とは違うのかも知れない。

 広い意味での「物語」への志向は、あるところで停滞したものを別の次元へと拡張していくとき、そのエネルギーを供給する仕掛けなのかも知れない。または、そういう働きをするときだけ、「物語」はその「作られたもの」としての性格――つまりそれは「にせ者」かも知れないということ――を疑われずに信じられるのかも知れない。

 私は、東氏のいう「大きな物語(世界や社会全体を方向づける考えかたや思想体系)の喪失」という事態は、情報技術の発達とそれに伴う社会の変化で「大きな物語」に相当するものが多数出現して、それをただ一つに定めきれなくなったことで起こった現象だと解釈している(たぶん東さんはこの議論に賛成しないだろうけど)。しかし、「物語」は運動とか世界の動きとかが新しい次元に発展するときに必要とされ、その世界が成熟して安定してしまうと必要なくなるものなのだとすれば、それはまた別の考えかたを見出だす端緒になるかも知れないと思う。


 最後に、この本が同人誌として刊行されたことの意味について、かんたんに議論しておきたい。

 この『臨界点+1』の内容や完成度の高さ、執筆陣の知名度からすれば、この本は商業出版としても十分に通用する内容ではないかと思う。もちろん『動物化するポストモダン』のように刷り数を重ねて多くの人に読まれるほどメジャーにはならないかも知れないが、まさにこの本のインタビューに出てきた商業誌『カラフルPUREGIRL』の読者層がこの本に興味を示す確率は高いように思う。にもかかわらず、この『美少女ゲームの臨界点+1』は同人誌として出版され、コミックマーケットで販売された。それには何か意図があるのだろうか?

 ニトロプラスへのインタビューに出てきた「メジャーとマイナーのあいだ」ということばが一つのキーワードになるかも知れない。

 商業誌であった『PUREGIRL』・『カラフルPUREGIRL』の更科さん・加野瀬さんのインタビューでも、「ギャルゲー論壇」というのはネットのなかにしか存在せず、全体から見れば小さな集団に過ぎないということが語られている。にもかかわらず、それはけっして「同人誌が100部売れればいいほう」というような小さな集団ではない。それは商業誌である『カラフルPUREGIRL』を存続させる程度の規模は持った集団だった。

 そういう「論壇」に参加しようとして『カラフルPUREGIRL』を買っていた人は読者のなかでもごく一部だろうという留保はつく。だが、本の市場というのは、大多数が「買った本を隅から隅まで読むのではない人」によって成り立っている。本の内容を評価して本を買う人は、おそらくどんな本でも「その本を買う人」のごく一部にすぎないのだ。やはりそのごく一部を含む集団が『PUREGIRL』・『カラフルPUREGIRL』を商業誌として成り立たせていたということは、そのごく一部の集団がある程度の規模を持っていたことの証しになると思う。

 そういう状況のなかで、「メジャー」と「マイナー」の境界は崩れてきている。商業出版が出すものがメジャーな出版物で、同人誌がマイナーな人びと向けの出版物という区分が成り立たなくなっている。「壁」の大手サークルは例外としても、少なくとも、今回のコミックマーケットで『美少女ゲームの臨界点+1』が売れた部数より少ない部数しか売れていない商業出版物は、学術書などを中心にいくらでもあるに違いないと思う(学術書は公共の図書館や大学・研究機関が買うので、そのぶんを含めればそこそこは売れているはずだが)。『美少女ゲームの臨界点+1』を読むかぎりでは、それはゲームでも同じで、『月姫』などの同人ゲームが、商業媒体として出されたゲームと分け隔てなく受け入れられ、プレイされている。

 商業出版社は、出版物が売れないという事態に直面して「守り」の姿勢に入り、ある程度は売れるという要素が何かしら存在しないかぎり商品として売り出そうとしない。インターネット上では緻密に手順を重ねて論じられたものからただの思いつきやことばにもならない叫びや罵倒までが同じレベルで並び、検索をかけても自分の求める言論になかなかめぐりあうことができない。「美少女ゲーム」や「萌え」のばあいとくにそうだろう。

 「波状」の人たちは、その両方の中間に実りある大地を求めて活動しているように思える。「波状言論」は、もとはといえば東浩紀さんがこの本を作ったスタッフといっしょに発行しているメールマガジンのタイトルである(2005年1月完結予定。私も購読しています)。このメールマガジン『波状言論』も、商業出版としては成立せず、しかし確実に読みたい人の手もとに届けられる言論を成り立たせる試みとして始められたものだった。東氏は同人誌の発行も同じ試みとして捉えている。歳末の忙しい時期に、交通機関の混雑にもめげずにコミケに足を運び、壁サークルへ向かう奔流のなかで「波状言論」のブースを訪ねるだけの「読む意欲」を持ったひとをおもなターゲットに絞って、その人たちの読みたい内容に特化した本を供給する。それによって、商業出版の「言論の出し渋り」とインターネットの無秩序さの中間に豊かな「言論」の場を拓こうというのが「波状言論」の試みだ――ということになるのだろう。

 商業出版の基準からいえば採算に合わない「マイナー」なものが、ある程度の「メジャー」な集団を形成するようになっている。また、業界内でも、「マイナー」なものを発行しつづける決意を持ったニトロプラスのような集団がより大きな役割を果たすようになってきている。「ポストモダン」時代には、この「メジャーとマイナーのあいだ」の部分が時代を動かしていく決定的な役割を担うのかも知れない。それは、たぶん東さんのいう「大きな物語」の不在という事態と関係があるのだろう。

 「波状」の人たちが、この『美少女ゲームの臨界点+1』を同人誌として発行したのは――そして「波状」の人たちのコミケ参加が回を重ねるたびごとに本格的になっていくのは――、その決定的な部分にいかに効果的に情報を届けるかという試みなのだろう。「郵便的不安たち」の重さを熟知した東さんらしい関心の持ちかたであり、戦略なのだろうと思う。


―― おわり ――