60年の年月を超えて


河合栄治郎 自由主義の擁護 白日書院、1946年

藤原保信(やすのぶ) 自由主義の再検討 岩波新書、1993年


1.

 1934(昭和9)年、東京帝国大学教授だった河合栄治郎は次のように書いた。

 自由主義はすべての思想と同じく、動いて()まざる発展過程の中にあり、決して固定し化石した思想ではない。過去に於いて自由主義は幾度か危機に遭遇して、その度に新しき方向にそれ自身を発展せしめた。…(中略)…(かつ)てそれが逢着(ほうちゃく)した(ごと)き危機に、今も(また)それは逢着してゐる。自由主義は曽て危機を克服した如くに、今も(なほ(なお))それを克服せねばならない。

 それからほぼ60年後、早稲田大学教授だった藤原保信氏は書いている。

 …(前略)…今日人類がかかえるさまざまの問題は、自由主義によって解決されるどころか、むしろ自由主義の所産であるようにさえ思われるのである。逆にいうならば、自由主義を通じてそれらの問題を解決しうるためには、自由主義そのものが自己修正し、自己克服を遂げていかなければならないのである。自由主義はそのような自己克服を遂げていくことができるであろうか。

 河合栄治郎については歴史上の人物として敬称を略する。藤原保信氏は、すでに亡くなっている方であるが、藤原氏と親しかった方や、学生のときに藤原氏の授業を聴いた方も大勢いらっしゃるだろうし、「敬称略」とするには早いと思って「藤原氏」と呼ぶことにした。「河合」と「藤原氏」では釣り合いが取れないような気もするが、時代の違いということでご了承願いたい。

 河合栄治郎は、この文章を書いたあと、1938年に著書が発禁となり、翌年の「平賀粛学」で大学を追われた坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』の評にも書いたとおり、この「平賀」は巡洋艦妙高型・夕張の設計者としてその筋で有名な平賀譲である。当時、東大総長。「粛学」は大学の粛正というような意味)。その直後、「安寧(あんねい)秩序紊乱(びんらん)」の罪で起訴され、1943年に大審院(だいしんいん)(現在の最高裁判所)で有罪が確定、1944年2月、53歳の誕生日を迎えた直後に亡くなっている。

 ここでとり上げる『自由主義の擁護』は、河合が亡くなった後、戦後になってからその発禁著書から論文を選んで編まれた本だ。敗戦から1年あまり後という出版時の出版事情の悪さからか、装幀ミスがあり、ところどころ見開きのページの文字が裏返しに写っているという粗末な本だ。ページはいまでは日焼けしてオレンジ色に変色している。

 この文章は1930年代に書かれたものである。1930年代といえば、一般には、1931(昭和6)年に満洲(まんしゅう)事変、1932(昭和7)年に五・一五事件が発生して、軍国主義ムードに覆われつつあった時代だとイメージされている。しかし、昨年、評を上げた坂野潤治氏の『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)(→)によれば、1937(昭和12)年前半までの言論界の雰囲気は比較的自由だったという。

 ただ、そうは言っても、世界的に見れば1933年にドイツでヒトラー政権が成立していて、「ファシズム」の勢力は拡大の勢いを見せていた。また、日本でも、満洲事変とその後の情勢を背景に、軍部の抬頭は目立っていた。「非常時」意識も高められていた。そのような時期に、ファシズムや軍部の抬頭の流れに抗して河合が書いたのがこの本に収められている論文である。


 他方の藤原保信氏は早稲田大学政治経済学部で政治哲学を教えていた先生である。この本を出版してから数年後に他界されたときいた。

 藤原氏が『自由主義の再検討』を書いたのは1993年である。はてなダイアリーにも書いたとおり、1993年といえば、自民党が結党以来守っていた与党の座をついに明け渡し、非自民・非共産八党派連立政権が成立した「九三年政変」の年であった(そういえば「九三年政変とは何だったのか?」のつづきはどうなったのだ……ってごめんなさいっ!!。しかし自民党は翌年に旧敵社会党の助けを借りて与党に復帰した。いまから見れば「非自民・非共産政権」はほんの一時の小さなエピソードだったようにも思える。

 しかし、その当時の日本は「これで日本もようやく変わる」というお祭り騒ぎ的な期待につつまれていた。もう少し詳しく言うと、「世界は冷戦が終結して変わったのに日本は変わらなかった。しかし日本もようやくその世界に合わせて変わるのだ」という期待だ。『自由主義の再検討』はそのお祭り騒ぎの真っ最中に出版されたのである。


 河合の自由主義論と藤原氏の自由主義論は、第二次世界大戦と冷戦をあいだにはさんでいる。河合がここに挙げた自由主義論を書いたときに生まれた子どもが大人になってから藤原氏の自由主義論を読んだとして、そのときにはもう還暦間近だったわけだ。

 にもかかわらず、この二篇の自由主義論には似ているところが多い。

 冒頭に引用したのは、河合の本の5〜6ページと藤原氏の本の6ページにそれぞれ書いてある文章である。どちらの文章も、自由主義とは固定した思想内容を持つものではなく、時代によってその内容が変化してきたこと、そのなかで自由主義自身が幾多の問題を生み出してきたこと、そしてこれからの自由主義は自らが生み出した問題を克服しなければならないことを、示し合わせたようにほぼ同じページで強調している。

 しかも、引用では省いたけれど、どちらの文章でも、自由主義が生み出した主な問題として指摘されているのは自由市場経済が生み出した諸問題である。違いといえば、藤原氏の書きかたのほうがやや懐疑的なニュアンスであることと、藤原氏の論旨には地球環境の破壊という問題が触れられていることぐらいだろうか。

 この問いに対して河合と藤原氏が示している結論もよく似ている。河合は、自由主義は古典的自由主義ではなく、社会主義へと進んでいかなければならないと論じる。「自由主義が発展すると社会主義になる」という表現には違和感があるかも知れないが、そのことの検討は先送りする。ここでは、とりあえず「これからの自由主義は、自由市場万能主義や帝国主義と結びついた自由主義ではいけない」という論旨に注目しておこう。藤原氏も、自由主義がリバタリアニズム(「自由尊重主義」とか「自由至上主義」とか訳される。「自由至上主義」は「自由市場主義」と紛らわしい――というよりワープロを打つときにまちがえそうでめんどうである)的な方向に発展することを問題視し、リバタリアニズムを批判するコミュニタリアニズム(共同体主義)への賛意を表している。

 どちらも古典的自由主義や自由市場万能主義ではいけないという結論に到達し、自由主義は古典的自由主義以外のものに発展するべきだという点でも共通しているのだ。それを象徴するように、藤原氏の本の『自由主義の再検討』というタイトルは、河合の本の第二論文のタイトルそのものである。

 なお、河合も藤原氏も、古典的な自由主義に批判的であるのと同じくらい、マルクス‐レーニン主義(ソ連型社会主義)にも強い批判を向けている。たしかに、河合のばあい、治安維持法下という時代の制約があった。たとえマルクス‐レーニン主義を信じていても、大っぴらにマルクス‐レーニン主義を主張するわけにはいかなかった時代だ。しかし、河合のマルクス‐レーニン主義批判の主張は、河合の「社会主義的自由主義」の主張と整合していて、けっしてたんなるポーズとは見られない。また、藤原氏のばあいは、冷戦構造の終焉とソ連圏の崩壊の後にこの文章を書いている。河合の時代にはマルクス‐レーニン主義は力のある危険思想だとされていたのだが、藤原氏の時代にはもはや脅威でもなんでもない失敗思想になっていた。だが、藤原氏のマルクス‐レーニン主義批判も、古典時代のギリシア以来の政治思想を踏まえて展開されていて、けっしてたんなる後知恵ではない。

 60年の時間と、第二次世界大戦・冷戦という二つの全世界的な事件を超えた二人の知識人が、同じような問題意識で自由主義を論じ、そしてよく似た結論に到達している。これはどういうことだろうか? もちろん藤原氏は河合の本を参照できる立場にいたわけだが、河合の本のアイデアをそのまま頂戴したわけではない。実際に、問題意識と結論は似ているが、展開している議論の中味はまったく異なる。二人の知識人の専門も異なる。河合栄治郎は、この本では哲学的・思想的な議論に意欲を見せているが、やはり本領は経済や社会制度の方面である。それに対して藤原氏は政治思想史の専門家だ。

 それなのに、どうして同じ問題意識と同じような結論が繰り返されているのだろう?


 ここで両方の本の内容をかんたんに紹介しておこう。

 河合の『自由主義の擁護』は論文集である。「現代に於ける自由主義」、「自由主義の再検討」、「改革原理としての自由主義」、「国家主義の批判」、「自由主義の弁明」の5本から成り立っている。「国家主義の批判」までの4本は、先に書いたとおり、1938(昭和13)年に発禁処分にされた論文集から集められたものである。最後の「自由主義の弁明」は、起訴された際に、弁護人の参考のために書いた文章で、戦後になってから発表されたという。

 河合の主張は、先にも触れたとおり、自由主義は私有財産と競争原理を柱とする経済的自由主義から離れて社会主義へと進まなければならず、また、社会主義に進むことによってこそ自由主義のほんらいのあり方が守られるのだというものである。しかも、その社会主義は、資本主義制度の枠内での社会主義的要素による弊害の是正ではだめで、資本主義の廃止まで行かなければならないという。今日の「社会民主主義」よりもラジカルな主張だ。

 ただし暴力革命による社会主義の実現には絶対反対である。河合がマルクス‐レーニン主義に反対するのはそのためだ。あくまで議会主義によって漸進的に社会主義に進まなければならない。だからその社会主義の実現は長期目標である。

 一方で河合は「国家主義」や「ファッシズム」にも正面から反対した。

 河合がここで「国家主義」と呼んでいるのは「国家に至上絶対の地位を与へるもの」(「国家主義の批判」177ページ)である。河合は、同胞愛によって結ばれた人びとの集団を「国民」・「祖国」と呼び、「国家」と区別する。河合は、人類全体の同胞愛はいまだに成立していないと考えており、現実の「全体社会」はこの「国民」の集団だとしている。だから、その「国民」への同胞愛から発するナショナリズムは河合は否定していない。他方で「国家」はその「国民」の「全体社会」の上に立つ強制・命令のための機構のことである。河合は、国家の存在も、国家が強制・命令の権限を持つこともこれまた否定していない。河合が批判したのは、その国家機構が、国家機構自体の利益のためにその強制・命令の権限を発動することである。

 なお、河合は、マルクス主義が国家主義を「資本主義を擁護するもの」と位置づけ、それによって国家主義への批判を資本主義批判にすり替えてしまうことに対して、強い苛立ちを示している。国家主義は国家主義で別に批判されなければならないのに、最も急進的なはずの思想がその批判を素通りしてしまうことへの苛立ちである。

 また、河合は、自由主義で擁護される自由として、思想・言論の自由と政治的自由と人身の自由その他の「実質的自由」を区別し、思想・言論の自由と政治的自由の擁護を自由主義の本質として擁護した。思想・言論の自由や政治的自由を認めない政治体制が、その政権の一方的な恩恵や政治体制の都合で自由を擁護しても、それは自由主義とは呼ばないということである。だから、河合は、マルクス主義に反対しながら、マルクス主義者にも思想・言論の自由と政治的自由を認めるべきだと主張した。論争して自由主義が勝てばよく、また論争すれば自由主義が勝つはずだという信念があったのである。河合は、経済的には「自由市場」の考えに反対しながら、言論の「自由市場」的性格は断乎として擁護しているのだ。

 河合の議論にはモデルがあった。イギリス労働党である。いま(2005年4月現在)イギリスの政権を握っていて、ここのところブッシュの協力者として評判の悪いブレア首相が率いるあの労働党だ。

 河合の認識によれば、20世紀初期に、イギリス自由党は古い型の自由主義に固執して衰退した。かわって、それまで小政党だったイギリス労働党が、「新しい自由主義」の党として力を得て、1924年には政権を握った(「新しい自由主義」とはもちろん1970年代「新自由主義」のことではなく、福祉国家型の自由主義、つまりいまでいう「リベラル」から、さらに河合の構想する社会主義的自由主義の方向を含めて言っている)。じつはこの第一次労働党内閣は短命だったのだが、1931年には再び労働党のマクドナルドを首相とする挙国一致内閣が成立している。がんこな議会主義も、マルクス主義批判も国家主義批判も、さらには「自由主義は社会主義に成長しなければならない」という主張も、このイギリスの経験をモデルにした主張だった。

 先に触れた坂野潤治氏の『昭和史の決定的瞬間』によれば、1930年代前半に資本主義に反対するのは特別に危険な主張ではなかった。軍内部にも反資本主義の傾向があったからである。共産党やその支持者は厳しく弾圧されたが、それ以外の社会主義者はかなり自由に発言できた。1937年に日中戦争が全面化するまでの1930年代(昭和ひと桁後半〜昭和10年代初期)は、非共産党系の社会主義政党である社会大衆党が選挙で躍進した時代でもあった(『昭和史の決定的瞬間』の評)。なお、河合と同じ時代のドイツの政治学者カール・シュミットは、議会制を「自由主義」の制度とし、民主主義と区別した。河合が議会制民主主義を「自由主義」の範囲に含めて論じたのは、議会制を自由主義の制度として位置づける考えがこの当時にあったからかも知れない。


 これに対して、藤原氏の『自由主義の再検討』は、岩波新書のために書き下ろされたものである。第一章「自由主義はどのようにして正当化されたか」、第二章「社会主義の挑戦は何であったか」、第三章「自由主義のどこに問題があるか」の三章構成で、この三章のあとに「コミュニタリアニズムに向けて」と題する終章がつづく。

 第一章は、私有財産・資本主義、議会制民主主義、功利主義という、自由主義を支える思想がどのように正当化されてきたかという歴史的な説明である。古典古代ギリシアのプラトンとアリストテレスから、中世の教父アウグスティヌスとトマス・アクィナスを経て、ホッブズ、ロック、ヒューム、ルソー、アダム・スミス、ベンサムにいたる思想の展開を、その三本柱に沿って説明していく。この議論は、近代西ヨーロッパの政治思想は古典古代ギリシアと中世ヨーロッパの思想を受け継いだという理解に基づいて進められている。

 藤原氏は、ヨーロッパ政治思想の伝統のなかで、私有財産も民主主義も、容認されたことはあっても、けっして肯定されては来なかったという。それがホッブズやロックの時代になってようやく肯定されることになった。その流れをこの章ではていねいに跡づけている。

 第二章は、マルクスによる社会主義の創成を、初期マルクスからの思想の発展過程として述べる。ここでの論点はマルクスに絞りこまれている。マルクス以外の社会主義者については、マルクスの協力者だったエンゲルスを含めてほとんど触れていない。

 第三章が20世紀の展開で、最初にレーニンに少し触れたあと、社会主義体制崩壊の原因をマルクス主義の理論に遡って考察する。その後に、こんどは、ロールズ、ドゥオーキン、ノージック(本文では「ノズィック」と表記)による20世紀自由主義理論の新たな展開に触れる。そしてその三者――とくにノージックのリバタリアニズム――を批判し、それを克服する思想としてコミュニタリアニズムを紹介している。

 終章はそのコミュニタリアニズムへこそ進むべきだという主張である。第三章までは客観的に叙述を進めてきた著者が自分の主張を明確に述べるのがこの終章だ。

 賛成できるかどうかは別として、河合も藤原氏も、客観的に叙述を進めながら、自分の主張も明確に述べている。バランスの取れた知識人であると思う。


 河合と藤原氏の両方に共通しているのは、自由主義には道徳的基礎が必要だという主張である。

 河合は、かつては自然法思想が、つづいて功利主義が自由主義を基礎づけていたが、現代(1930年代のことである)の自由主義はそれではだめだと言う。功利主義に基づいた自由主義は資本主義の下での資本家と労働者への階級分化を極限まで進めて社会を停滞させてしまい、また、一面では帝国主義と結びついて帝国主義戦争を引き起こすからである。

 この批判は、社会主義に対抗しつつ発展した福祉国家型自由主義――河合はこれを「社会改良主義」の範囲に含めるだろう――が行き詰まった後に、ロールズやノージックがもういちど自然状態から自由主義を組み直そうとした姿勢と好対照をなしている。河合は「功利主義的自由主義」の弊害を強く感じ、「自由主義の社会主義化」を強く主張したのに対して、ロールズやノージックは「自由主義の社会主義化」が自由主義の主流の考えかたになり得なくなった状況でもういちど自然状態まで戻って議論を組み立て直そうとしたのだ。考えの方向はまったく違うが、「ある型の自由主義が行き詰まったら、自由主義の根拠から再考してみる」という発想はよく似ている。

 河合は、現代の自由主義の基礎になるべきものは理想主義だという。理想主義というのは、カントやフィヒテ、ヘーゲルなどの合理論哲学を指しているようだ。ただし、ヘーゲルの国家論に対しては、国家主義を肯定するものとして河合は批判的だ。

 河合の理想主義は、具体的には人格の完成を社会の最高の価値として目指すというものである。一人ひとりの人間には、その人格を完成する可能性が与えられているが、完成した人格というのはだれもまだ持っていない。人間はその人格の完成を人生の目的としており、それを完成させるためには自由主義が必要だというのだ。

 自由主義が社会主義へと進む必要があると河合が論じるのも、資本主義を廃絶しなければ人格の完成という自由主義の目的が果たされないというのが理由だ。資本主義と併存する自由主義では、資本家は自分で働いて儲けていないので怠惰になって人格の完成が進まないし、労働者は忙しすぎてひまがないので人格の完成が進まないからだ。

 では「人格」とは何かというと、河合自身は、その「人格」が完成したのが「理想の人間」であるというような位置づけを与えている。具体的にはややはっきりしない部分があが、河合の書いていることを読むと、「人格」とは、人間の組織する共同社会で尊敬されて生きていけるような素養や判断力、行動力を身につけた人間性だということができるだろう。なお、「人間にはだれにでも人格を完成する可能性が与えられている」という考えかたは、「良識は人間のあいだに最も公平に分配されている」というデカルトの考えかたを受け継いでいるようで、これはこれで興味深い。


 藤原氏は、「人格の完成」というような表現は使わない。また藤原氏の議論にはカントやヘーゲルはほとんど登場しない。しかし、藤原氏は、一方で、ロールズ、ドゥオーキン、ノージックらの自由主義が、「善悪」の判断を放棄し、もっぱら「正(just)、不正」の判断にのみ焦点を合わせていることを批判する。藤原氏の整理によれば、古典時代のギリシアで重要視されていた「善」についての議論は、ロックやアダム・スミス(現在のリバタリアンがリバタリアニズムの先駆者と考える思想家たちだ)にいたって功利主義的な「快楽/苦痛」に吸収されてしまい、現代の自由主義者はその判断を放棄してしまった。藤原氏はそれではもう不十分だというのである。ロールズ、ドゥオーキン、ノージックのあいだには、自由を優先するか平等を優先するかという対立があるのだが、藤原氏の批判は「自由優先か平等優先か」という問題意識のあり方そのものに向けられる。

 このような自由論の状況に対して、藤原氏はコミュニタリアンの主張を支持して、現在の社会には「共通善」の考えが必要であるとする。「正‐不正」で考えを止めてはダメで、その先に「善‐悪」の判断に進まなければならないというわけだ。それでは、現在の社会でその「共通善」の形成は可能だろうか? それが可能でなければ、いくら「理想として共通善の考えがあったほうがいい」と主張しても意味がない。この点について、藤原氏は、現在の社会でその「共通善」を形成するのは可能だという。コミュニタリアニズムによれば、人間は自らを過去・現在・未来を通じて存在するものとして語りたがるものであり、また、他者との会話を通じてその物語的解釈を常に修正し更新していく存在である。そういう会話を通じて社会全体で価値観を共有することは可能であり、またそうして行く必要があるというわけだ。

 なお、だれにとっても「善」と感じられるものとしては、経済的利益や社会的名声のようなものもあるわけだが、藤原氏はコミュニタリアンのマッキンタイアの議論にしたがって、そういうものはほんらいの「共通善」にはならないと主張する。より詳しく言うと、経済的利益や社会的名声は「外的善」であり、社会のために他者と協調して働くこと自体によって得られる「内的善」のための手段にすぎないと位置づけるのである。では「内的善」とは具体的にいうと何かというと、それは明確にはもう一つよくわからない。社会のみんなのために自分は働いたのだという内心の満足感のようなものかも知れないし、それによって得られる道徳的な価値のようなものかも知れない。ここまで来ると、藤原氏の言う「内的善」は河合の「人格」によく似てくる。

 もちろん、会話を通じて共有される物語的解釈と、それによって確立される「内的善」は、特定の集団だけのものになってしまう可能性がある。しかし、藤原氏は、その範囲を拡大して地球全体に拡大していかなければならないという。たんに人類共同体にとどまらず、自然環境や生命の連環まで含む共通善の概念を形成していかなければならないというわけだ。


 ここで興味深いのは、河合も藤原氏も「理想主義」と「徳」ということばを使っていることである。

 河合は理想主義こそ新しい自由主義の基礎だと何度も強調しているし、藤原氏も、

 仮に人間が自己解釈的で物語的でありうることを認めたとしても、それ自身が自己の利益や権力目的を中心にして行われることもありうる。にもかかわらず、近代の自由主義は、人間の悪の側面、その回避に眼を向け、その理想主義的な可能性に眼を向けることが少なかったように思われる。

と書いている。コミュニタリアニズムこそその人間の理想主義を正当に評価した思想だということだろう。

 また、河合は、人格を完成させるために必要な行動原理を「徳」と呼んでおり、藤原氏もマッキンタイアの「善を達成することを可能にする人間の資質」というような「徳」の定義に賛意を表している。「人格」・「共通善」というものを実現するために人間は行動しなければならず、その行動の原理となるのが「徳」だというのだ。


 ここまで考えると、これから進むべき目標を「社会主義」と考えるか「コミュニタリアニズム」と考えるかは違うが、二人の知識人の考えの基本的な骨組みは一致している。

 人間は他者といっしょに社会を構成して生きている。その社会を維持し、社会のなかで問題を解決し、さらに社会をよりよいものにしていくためには、人間どうしが利益を基準にしてモノやサービスを交換し合うだけでは不十分である。しかし、人間には、利益を得ることを喜ぶとか、快楽を求めて苦痛を避けるとかいう以上の共同意識がもともと備わっている。つまり、みんなのためにがんばることを自分の価値だと感じるような価値観が人間にはもともとある。河合が「人間には人格を成長させる可能性がある」というようなことを言うとき、そういう人間観を基礎にしていると考えていいだろう。藤原氏は、他者と会話し、自分の人生を物語的に解釈していくなかで、そういう価値観に気づいていくと考えているのだろう。そのようにして、社会でともに生きる人びとのために生きるという理想を追求するのが人生の目的である。そういういう人間観を基礎にして、人間がその理想を追求する可能性を十分に引き出す方向に社会は変わっていくべきだ。その方向へ導くのが、河合にとっては社会主義であり、藤原氏にはコミュニタリアニズムだった。

 河合が『自由主義の擁護』に収録された論文を書いた時代は、日本の工業化が飛躍的に進んで、労働者が社会の有力集団として登場してきた時代だった。「資本家階級と労働者階級の対立」という社会構造が日本にとって現実味を帯びていた。少なくとも河合はそう感じた。だから社会主義へ進むことによる問題解決の必要性を主張したのである。

 他方、藤原氏が『自由主義の再検討』を書いたのは、冷戦構造が崩壊して社会主義が自由主義の代案にならなくなった時代だった。しかし、資本主義に基礎を置く自由主義経済は、地球環境の破壊を含む問題を引き起こしていた。世界規模で環境破壊に取り組む動きが始まった時期でもあった。ロールズ、ドゥオーキン、ノージックらの自由論はそのような問題の解決に必ずしも有効な考えを提示していないと藤原氏は考えた。そこでその自由論を批判するコミュニタリアニズムの立場を選んだ。

 だから、この結論の差は時代の差だということができる。


 もうひとつ違うのが、河合と藤原氏では考える共同社会の範囲が違うということだ。河合は、人類全体の共同社会はまだ理想にすぎないとして、現実の最高の共同社会の範囲を日本国民の共同体(「国民」、「祖国」)に限る。それに対して、藤原氏は、人類全体の共同体を考え、さらに地球の生態系全体にまでその共同性を拡大していく。

 藤原氏の地球の生態系が出てくるのは1970年代以後の問題意識によるのだろう。河合の議論については、やはりイギリス労働党の議会主義戦略との関連で捉える必要がある。議会主義が有効に機能するのは国民の単位でである。河合は、そういう国民が国際連盟のような機構を通じて連帯していけばよいと考えていたようだ。だから、人類全体の共同性が視野に入っていないわけではないが、それを最高の「共同社会」と位置づけてはいない。河合自身は人類全体の共同性も考えていたのだが、それを河合の議論にあてはめると「世界全体の社会主義化」という議論になってしまい、それではソ連が中心になって進めていた国際共産主義運動の革命理論に似すぎるので自主規制したという解釈もできる。しかしやはりそうではないだろうと思う。

 いずれにしても、この違いは、法制度的に議会制民主主義が確立されていない明治憲法下で、議会制民主主義の確立とその擁護を目標にした河合と、議会制民主主義がすでに自明のものになった時期の藤原氏との違いである。二人の知識人の関心の違いであるが、やはり時代の違いの表れとも言えるだろう。



―― つづく ――


つづき