「戦前昭和」の民主主義的伝統を考える


坂野(ばんの)潤治

昭和史の決定的瞬間

ちくま新書(筑摩書房)、2004年


1.


 「昭和史の決定的瞬間」とはなんかキワモノっぽいタイトルだなぁ。しかも、内容は、1935(昭和10)年ごろから1937(昭和12)年までの政治の「流れ」を政党と軍部を中心に追いかけたものなので、決定的「瞬間」というタイトルともちょっとずれがある。

 でも、内容はキワモノでもなんでもなくて、緻密に仕上げられた歴史の本である。

 あらかじめ白状しよう。私の日本近代政治史についての見かたはこの本の著者 坂野潤治氏の影響を強く受けている。日露戦争の時期から日本は相当に民主化されていたとか、五・一五事件(1932年)で政党政治が終わったというのは皮相な見方だとか、私はあちこちで言い散らしている。これはじつは坂野氏の説の受け売りである。もちろん私の書いたものについての責任が私にあるのは言うまでもない。


 この著者の本はどれもある程度は日本近代政治史を学んだ読者を前提にして書かれているようだ。まったく予備知識のない読者は相当に難しいと感じるのではないだろうか? 放送大学の教科書『日本政治史――明治・大正・戦前昭和』(1993年、1997年改訂版)は、放送大学での講義内容に合わせて書き下ろすという性格上、わりと基礎的なところから述べてあったが、それでもけっこう難しかった。

 けれども、その内容の専門性のハードルを越えれば、この著者の本からは無類のおもしろさが感じられる。従来の通説を踏まえた上で、史料と自分の考えをつき合わせて疑問点を出し、自分の歴史観を作り上げていく。その作業の場面に立ち会っている臨場感をこの著者の本は感じさせてくれる。


 それに私は著者の姿勢に心を引かれた。この本の「プロローグ」に著者は書いている強調は評者)

 あの悲惨な戦争を二度と起こさせないために、あるいはアジア諸国への侵略を二度と繰り返さないために、または平和と民主主義の大切さをほんとうに知るためになど、「戦前昭和」に関心を持つ理由はいろいろ上げることができる。しかし、最大の理由は、自分がそこに身を置かないのならば、平穏無事よりは波瀾万丈のほうがおもしろいからである。

 ……こんなことを歴史の本に堂々と書く大学の歴史の先生を私はほかに知らない。

 歴史に関心を持つのは、それを知るのがおもしろいからだ。しかも、どうせなら、「平穏無事」の歴史よりも「波瀾万丈」の歴史のほうがおもしろい。天下太平の時代より、源平合戦とか戦国時代とかの歴史のほうがおもしろい。

 ――あたりまえのことである。私たちが、本屋さんで歴史の本を手に取り、テレビで歴史番組を見たり歴史に題材を取ったドラマを観たりするのは、歴史を知るのがおもしろいからではないだろうか。

 ところが、日本の歴史学の先生方にとっては、おもしろさ本位で歴史を知るのはよろしいことではないらしい。歴史にとって必要なことは、厳密な歴史学的方法によって研究されたという意味での正しさだという。そして、その意味の正しさに絶大な自信を誇ってきたのが日本の歴史学の学壇の全体的な傾向だったと思う。

 もちろん厳密な歴史学的方法は必要だ。史料に残っていないようなことを何の根拠もなく言ったり、信頼できない史料から何かを言ったり、史料を不当に拡大解釈したりするのは、少なくとも学問としての歴史学に許されることではない。また、その持ち前の厳密性によって、日本の実証的歴史学のレベルは世界的に見ても高いレベルにまで達していると思う。日本が世界的レベルを誇っている学問は何もナノテクノロジーや環境科学だけではないのだ。

 けれども、その厳密さを重視するあまり、日本の歴史学は奔放な想像力や歴史を読み解くための感性を軽視し、ばあいによっては敵視さえしてきた。

 厳密さを守ることは重要だろう。しかし、それを守ることにばかり気を取られていると、歴史観は固定化し、風化していく。歴史観の枠組を守り、その細かい事実を実証的に確かめていくために日本の歴史学界は全力を傾注してきた。しかし、歴史の考えかた自体を自らつねに疑い、よりよいものやより時代の考えかたに合ったものに変えていくことにはあまり熱心でなかったように思う。

 もしかすると、歴史学はひたすら「事実」や「真実」を追究すべきもので、時代の情勢などに流されてはならないという頑迷な純潔主義が日本の歴史学研究を支配してきたのかも知れない。もちろん時代に迎合するのはよくない。けれども、歴史観そのものだって歴史の流れのなかで形成されてきたものなのだ。当然、形成された時代の状況や社会情勢から来る限界がある。それをたえず時代に適したものにしていく(アップデートする)ことに、日本の歴史学壇は不熱心でありすぎたのではないか?

 歴史は歴史学が決めた方法と基準で語らなければならない。奔放な想像力や感性で歴史をおもしろがってもかまわないが、それはその方法と基準を厳格に守ったばあいだけである。そうやって研究を蓄積するうちに「歴史学が語る歴史」はおもしろくない歴史になってしまった。日本の専門歴史学のレベルが高いわりに、そのレベルの高さがほかならぬ日本社会から十分に認知されていないのはそのためではないかと思う。もちろん読んでおもしろいばかりが歴史の役割ではない。だが、歴史学をおもしろがってはいけないという自主規制が、歴史観の生命力を失わせていったのも確かではないかと思う(同じような批判は「網野善彦氏の仕事について」にも書いた)

 そういうことをいつも考えているので、「おもしろいから戦前昭和の歴史に関心を持つ」と堂々と書いたこの本に私は心を引かれたのだ。


 坂野氏のこの本は、自分自身で史料を読み、解釈し、それをもとに「戦前昭和」史を描こうとした試みの「現場報告」である。また、現在の自民党中心政権の政策に違和感を持ちつつ現在を生きている歴史研究者の「過去との対話」のいきいきとした報告である。

 坂野氏は、「1932(昭和7)年の五・一五事件で日本の政党政治は終わり、軍部の弾圧下に国民は正しい情報も知らされず、自由な考えも口にできず、軍部の思うままに戦争へと引きずられていったのだ」という歴史観に強く異を唱える。

 このような歴史観に異を唱えるのはべつに目新しいことではない。戦後民主主義を相対化し、否定しようとする人たちは、戦前を否定的にとらえるこのような歴史観を批判してきた。また、歴史学研究者のあいだでも軍部だけが日本を戦争に無理やり引っぱっていったと信じている人はもうそう多くないだろう。

 しかし、日本の民主化を支持し、いまではめっきり支持者が減ってしまった社会主義にも理想を見出す立場から「戦前昭和」の歴史を見直す著者の姿勢は、やはり独特のものだと思う。


 著者がこの本で示している歴史観は、日中戦争が全面化する(1937年7〜8月)までの1930年代には、日本の政治は着実に民主化の方向に向かい、社会主義的な理念・理想も徐々に力を持ちつつあったのだというものだ。民主主義が圧殺されて日中戦争が勃発したのではない。民主化が頂点に達し、さらに勢いよく進もうとしているところで全面的日中戦争が勃発し、その結果、民主化が一挙に後退したというのである。


 まず著者の1930年代認識を素描しておこう。

 著者は、1930年代には二つの大きな危機があったという。第一の危機は、1931(昭和6)年9月の満洲事変から1932(昭和7)年の五・一五事件までの危機である(→年表)。第二の危機は、1936(昭和11)年2月の二・二六事件から1937(昭和12)年7〜8月の日中全面戦争勃発までの危機だ(→年表)。この本はその第二の危機のほうに焦点を絞った本である。

 そこに絡んでくるのが当時の政党政治の情勢である。

1932〜1937年の衆議院総選挙と内閣の関係
総選挙実施の
年月
政友会 民政党 社会
大衆党
首相 期間 政党と内閣の関係 その他
1932年 2月
(18回)
301 146 5 犬養 毅 1931/5/13
〜1932/5/16
首相を政友会が出し、政友会を単独与党とする。
斎藤 実 1932/5/26
〜1934/7/3
海軍軍人を首相とする挙国一致内閣。政友、民政とも入閣。
岡田啓介 1934/7/8
〜1936/2/29
海軍軍人を首相とする。民政党入閣。政友会は協力せず。
解散時 242 127 5 1936/2/20 政友会・民政党の議席数が選挙時より減っている一つの理由は、昭和会・国民同盟など右翼政派が両党から分立したため。
1936年 2月
(19回)
171 205 18 広田弘毅 1936/3/9
〜1937/1/23
二・二六事件後、外務官僚を首相とする。政友会、民政党からの入閣者に軍部から厳しい条件がつけられた。
(宇垣一成) (1937/1/25
〜29)
陸軍軍人・朝鮮総督を首相とする。陸軍の協力を得られず組閣失敗。
林銑十郎 1937/2/2
〜5/31
陸軍軍人を首相とする。政友会、民政党からの入閣者をいっさい含まない。
解散時 171 204 20 1937/4/30 いわゆる「食い逃げ解散」による選挙。
1937年 4月
(20回)
175 179 36 近衛文麿 1937/6/4
〜1939/1/4

 1920年代半ば以来、日本の政治は政友会と民政党(1927年までは憲政会)の二大政党によって運営されてきた。1932(昭和7)年の五・一五事件で日本の政党政治は終わったと言われている。しかしそれはまちがいだというのが著者の説である(同じようなことを私は統帥(とうすい)をめぐる危機」に書いた。当時はまだこの本は読んでいなかったけれど、やはりネタは坂野氏の説だった)

 犬養(いぬかい)内閣が倒れたあとに成立した斎藤内閣(1932(昭和7)年5月〜1934(昭和9)年7月)・岡田内閣(1934(昭和9)年7月〜1936(昭和11)年2月)には、この二大政党は首相は出していない。しかし、斎藤内閣には政友会・民政党が、岡田内閣には民政党が閣僚を送りこんでいる。また、岡田内閣の政治運営を中心となって支えたのは、政友会の財政専門家として1920年代後半〜30年代前半の日本の財政金融政策を主導した高橋是清(これきよ)だった(岡田内閣の時期には政友会を離党していた)。二大政党はこの1930年代半ばの時期にも健在だった。

 そして、その二大政党を脅かす存在に成長しつつあったのが、1932(昭和7)年に非共産党系の社会主義政党が合同して結成された社会大衆党だった。この時代、共産党はたび重なる弾圧で無力化していたが、社会主義政党全体が無力になっていたわけではないのだ。軍部は確かに勢力を増しつつあったが、この諸政党の勢力とは無関係に軍部の力が突出したわけではなく、軍部も政友会・民政党・社会大衆党などの政党とさまざまな関係を持ちつつ、相対的に勢力を増大させてきていたのである。

政党 政友会 農山漁村を基盤とする保守政党。
民政党 主として都市を基盤とする自由主義政党。
社会大衆党 労働者や都市の下層大衆を基盤とする非共産党系社会主義政党。
陸軍 皇道派 クーデターによる国家改造を辞さない。
統制派 合法的に軍部の権限拡張を狙う。

 なお、著者は政友会と民政党の二大政党の性格を対照的なものとして描き分けている。1930年代についていえば、政友会は非民主的な保守政党(著者はとくに触れていないが、基盤は農山漁村)、民政党は都市を基盤とする意外と勇敢な民主主義的自由主義政党とはっきり描き分けている。


 1936(昭和11)年の二・二六事件を政治史の動きとは無関係な一部青年将校の暴走の結果と考えるべきではない。五・一五事件も同じだ。どちらの内乱事件にも、背後には民政党を与党とする政権に対する野党政友会の動きがあったというのが著者の見かただ。

 五・一五事件について政友会の関与を考えるのは奇妙に見える。五・一五事件の犠牲者はほかならぬ政友会総裁の犬養(つよし)首相であり、この事件で政友会は政権を失っているからだ。つづく斎藤(まこと)内閣は挙国一致内閣なので政友会も参加はしているが、首相の地位は明け渡しているし、単独政権でもない。だから政友会は五・一五事件で大きな打撃を受けたのであり、被害者だ。

 その被害者が、主犯とはいえないにせよ犯人の一角を占めていたとは?

 しかし、著者によると、五・一五事件が海軍軍人とごく一部の陸軍軍人だけの決起で終わり、陸軍軍人の大部分が決起から脱落したのは、まさに政友会内閣が成立したからだった。民政党政権がつづいていればもっと大規模なクーデターが発生していた可能性がある。げんにその計画は進行していた。

 陸軍内部で軍部の勢力拡大を狙う勢力には、クーデターなどの実力行使による政権掌握も辞さない「皇道(こうどう)派」と、合法的な軍部の権限拡張を進める「統制派」の二つの流れがあったとされる。政友会はこの「皇道派」と関係が深かった。ところが、1931(昭和6)年12月に民政党内閣が倒れ、親「皇道派」の政友会が政権を握り、「皇道派」指導者の一人である荒木貞夫が陸相(りくしょう)(陸軍大臣)として入閣したため、「皇道派」指導部は政府打倒の必要性を感じなくなってしまった。そのため一部の過激勢力だけの決起で終わったというのが著者の五・一五事件についての解釈である。

 政友会と「皇道派」の関係はその後も続く。衆議院の多数党でありながら(当時、政党が活動していたのは衆議院だけである)政権から離れていた政友会は「皇道派」との連携を図りつつ政権への復帰を図る。


 美濃部達吉の天皇機関説への攻撃(→年表参照)も政友会の政権復帰への野心と関係があると著者はいう。

 美濃部達吉は、19世紀末の政府指導者が民主主義から明治政府を守るために作った明治憲法を民主主義的に解釈した憲法学者であった。この美濃部の憲法解釈があったからこそ1920年代以降の政党中心の政治の展開が可能になった。その美濃部の明治憲法解釈を支えた一つの柱が天皇機関説だった。

 天皇機関説は、日本国家の主権は国家全体にあり、天皇はその国家の最高機関であるとする憲法解釈である。つまり、天皇は絶対的な主権者ではなく、さまざまな国家機関が設置されているなかで最高の国家機関に過ぎないということになる。この学説が1935(昭和10)年に議会で問題にされた。「神」である天皇をたんなる国家機関とし、しかも主権者の権限を認めないのは天皇を敬わない許されない学説だというわけだ。美濃部の著書は発禁になり、美濃部は貴族院議員辞任に追いこまれた。政府は公式に天皇機関説否定を声明した。

 この天皇機関説への攻撃を主導したのが政友会と「皇道派」だった。そして、それには理由があったというのが著者の解釈だ。

 「皇道派」にとっては、1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約での「統帥権干犯(かんぱん)」論を民政党政府が退ける根拠になったのがこの天皇機関説だった。軍部に対する内閣の優位を保障した天皇機関説の抹殺を、軍部の政権掌握を狙う「皇道派」が狙うのは当然のことだろう。

 天皇機関説問題をめぐる「顕教/密教」論 天皇機関説問題については「顕教/密教」論という解釈が有名だ。明治憲法下の政府の指導層は、政治の運営は実際には天皇機関説的に行いつつ、国民に対しては教育や国家神道を通じて「神としての天皇」像を押しつけてきた。つまり、「神としての天皇」が公式の教えとしての「顕教」であり、天皇機関説は政府指導層のあいだでひそかに信奉される「密教」だった(「密教」を「一部の限られた人だけに許される秘密宗教」と解釈するのは、密教の立場からするとおかしいかも知れないが、そのことにはここでは触れない)。だから、国民に対して、「じつは政府のエリートたちは自分たちのうちわではこんなとんでもないことを信じているんだ」と暴露されたとき、政府指導層は自分たちの「密教」を守りきることができなかったというものである。著者はこの本でこの図式について触れていない。著者は、この説のように「エリート(指導層、知識人)/民衆」をはっきりと区別する考えかたには賛成していないのだろう。「天皇機関説」的な考えかたはたとえば総合雑誌の記事を読めば「民衆」にも容易に知ることができるはずであり、それを知らなかった「民衆」は書店で売っている雑誌を読まなかった人びとなのだというのが著者の批判なのだろうと思う。著者は、このような「エリート/民衆」の区別よりはエリート間の分裂のほうをずっと重視している。

 統帥権干犯論 軍隊を動かす国家権限を統帥権という。明治憲法では統帥権は天皇に属する。その統帥権の行使を陸軍参謀総長・海軍軍令部長(のち軍令部総長)がたすけるというかたちで軍隊を動かすことが決まっていた。つまり統帥権の行使には内閣は関係することができない。主力艦以外の巡洋艦・航空母艦その他の軍備を制限するロンドン海軍軍縮条約を民政党の浜口内閣が締結しようとしたのに対して、この条約締結は内閣がこの統帥権を侵害するものだという批判が起こった。これが統帥権干犯論である。浜口内閣はこの統帥権干犯論によって激しい政府攻撃にさらされた。浜口内閣は、天皇機関説を含む美濃部学説にそった憲法解釈で対抗し、ロンドン条約調印にこぎ着けた。

 一方で、政友会にも、天皇機関説論者の美濃部を敵視する理由があった。

 この時期の美濃部は政友会が多数を制する議会による議会政治を信頼していなかった。各党の指導者、経済界の指導者、労働運動の指導者などを集めた会議を中心に政権を運営するほうが立憲政治にとってずっとましだというのがこの時期の美濃部の主張だった。政友会はよほどその非「立憲」的な体質を警戒されていたのだ。

 この美濃部構想が実現したのが1935(昭和10)年5月に設置された内閣調査会である。議会外に設置された政策立案機関だ。陸軍の統制派や「新官僚」といわれる社会政策に関心の高い官僚の一派もこの内閣調査会設置を積極的に支持した。

 ただでさえ衆議院第一党(しかも単独過半数、第二党民政党の倍近い議席を保持する第一党)なのに野党という変則的な地位にいる政友会にとっては、内閣調査会設置は許しがたい暴挙だった。政友会は、「皇道派」との提携を深め、美濃部の主張した天皇機関説批判を強めて岡田内閣打倒の機会を狙っていく。

 天皇機関説問題が重大化したのは、それが政友会と「皇道派」を結びつける要点だったからだ。

 政友会は「皇道派」と連携しつつ岡田内閣を追いつめようとし、1936(昭和11)年1月には内閣不信任案を提出する。政友会強硬派は、これを利用し、政界や軍部長老の工作とも連動して岡田内閣を退陣に追いこむつもりだった。

 1932(昭和7)年2月の前回の選挙からこの年の2月で4年、衆議院議員の任期は4年だから、わざわざ岡田内閣を総辞職させなくてもまもなく任期満了を迎える。だったら不信任案など出す必要はないと思われるかも知れない。だが、現在と違って、内務省(いちおう現在の総務省の一部にあたる)が強大な権限を持つ当時の政治体制下では、野党で総選挙を迎えるのは圧倒的に不利なことだったのだ。だから、たとえ総選挙寸前にであっても、政友会に有利な政府ができていることが、総選挙での政友会の勝利には必要だった。少なくともライバルの民政党を与党とする岡田内閣の下での選挙は絶対に回避したかったのだ。

 ところが、1930年代の政治史に流れつづける潮流がこの政友会強硬派の工作を無効にしてしまう。政友会と民政党の二大政党による「協力内閣」構想である。政友会と民政党が連合し、陸軍の長老で当時は朝鮮総督だった宇垣一成を首相にする内閣を結成しようという構想だ。

 宇垣は陸軍の長老で、有力な首相候補でありつづけた。1931(昭和6)年には宇垣政権を樹立しようというクーデター計画が発覚したこともある(三月事件)。しかしこの時期には陸軍の抑え役として政党内閣擁護者の側から期待され、「協力内閣」構想では必ず名が挙がる人物となっていた。

 協力内閣構想は、1931(昭和6)年12月に唱えられ、宇垣もこの構想に関係している。先にも書いたようにこのときには犬養首相の政友会内閣が成立し、協力内閣構想は実現しなかった。斎藤内閣の倒壊(1934年7月)のときにも宇垣は出馬に意欲を見せた。そして、この岡田内閣不信任案提出の際にも、高橋是清(元政友会幹部だが当時は離党していた)とその影響を受けた政友会穏健派がこの協力内閣実現の方向で動き始めた。しかし、民政党側が乗り気でなかったこともあり、この穏健派の主張する方向にまとまることもできなかった。

 政友会は、岡田内閣退陣から政友会強硬派主導の親「皇道派」内閣を樹立するという方向にも、政友‐民政連立による宇垣協力内閣の方向にも進むこともできず、内閣不信任とともに岡田内閣を解散なしの総辞職に追いこむことができなかった。その結果、岡田内閣が不信任案採決前に衆議院を解散し、総選挙に向かうことになったのである。

 著者によれば、「皇道派」がクーデターに向かって動き出したのはこの衆議院解散直後からであった。そして、1936(昭和11)年2月20日の総選挙の直後にクーデター事件が起こったのである。

 総選挙で示された「民意」は政友会の敗北に終わった。政友会は71議席減で大敗北し、単独過半数を失った(大敗北したのは、「昭和恐慌」への対処に失敗して不人気だった民政党に対して戦った前回の選挙で勝ちすぎていたせいでもあるが)。民政党は78議席増で205議席を獲得したが、当時の単独過半数(234議席以上)を制するにはいたらなかった。また、社会主義政党の社会大衆党は5議席から18議席へと躍進した。

 その「民意」に逆らうかたちで、政友会と関係の深かった「皇道派」のクーデター事件が発生したのである。これが二・二六事件だ。

 以上のように、政友会との関係を中心に見ていくと、二・二六事件の姿がずいぶん違って見える。軍内部の理想主義的過激集団が、雪の降る夜に悲壮な決起を果たし、何もなすところなく軍内部の官僚主義的勢力に利用されて消えて行ったという事件像では、二・二六事件のすべては語りきれないのだ。


 二・二六事件の決起将校はたしかにけっきょく何の理想も実現できないまま表舞台を去る。しかし、この本によれば、二・二六事件は大きな影響をその後の政治史に残している。それは、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、鈴木貫太郎侍従長などを殺傷された天皇側近勢力の弱体化だと著者はいう。

 このとき殺傷された天皇側近勢力は、1920年代の政党政治を支え、軍部・政友会強硬派の「統帥権干犯」攻撃に対して天皇機関説を盾に防戦した勢力である。皮肉なことに、天皇機関説を主張する勢力が打撃を受けた結果、逆に天皇とその側近のイニシアチブが発揮できなくなってしまったというのだ。なお、著者は、昭和天皇は戦争を肯定する意思を明確に持った君主だったとするピックスの『昭和天皇』(講談社)の議論には基本的に反対である。ピックスの議論には大きな偏りがあり、また初歩的なミスも見られると厳しい批判を浴びせている。

 昭和天皇側近勢力は、限界はあったにせよ、基本的に戦争を回避し対外的緊張を緩和する方向で働いたというのが著者の見かたである。そして、二・二六事件の意義は、天皇側近からその能力を奪ってしまったことだと位置づけるのだ。


 政友会‐「皇道派」連合は力を失った。政友会は依然として大政党でありつづけるが、しばらくは政治の主導権を握れない。その後の政治過程は、都市を基盤とする自由主義政党の民政党と、同じく都市の労働者階級を基盤に急速に成長してきた社会大衆党との関係を軸に語られる(→「選挙と内閣」の表、→関連年表「第二の危機」

 民政党は自由主義政党であり、軍部の政治への介入を阻止して、当時の日本政治の自由民主主義的伝統を守ろうとして非常に熱心に活動した。その現れが1936(昭和11)年5月の斎藤隆夫代議士による「粛軍演説」である。だが、その民政党は、労働者など都市の貧しい層の生活を改善することについては驚くほど冷たかった。つまり徹底した都市資本家・経営者の自由主義政党だったというのが著者の評価だ。

 これに対して、社会大衆党は、労働者など貧しい人びとの生活を改善するために、陸軍内の「統制派」に接近を図る。陸軍は、1934(昭和9)年10月発表のパンフレット「国防の本義とその強化の提唱」で「広義国防」論を唱えた。これは、国防力を強化するためには国民生活を改善して基礎的な国力を増強する必要があるという議論だ。社会大衆党はこの「広義国防」論に賛意を表した。そこには、国防力の強化という目的が掲げられていたとしても、ともかくも貧しい人びとの生活を改善するという方向性が示されていたからだ。

 社会大衆党は、日中戦争全面化後には戦争への総動員態勢構築に協力していき、いわゆる日本の「ファシズム」体制樹立に積極的に動くことになるので、この「広義国防」論への賛同も社会大衆党の「ファシズム」化の流れとつなげて解釈されることがある。だが著者はそうは考えない。社会大衆党にとっては、社会改革の必要を認める軍のほうが、社会改革の必要性を最初から認めようとしない民政党よりも好ましい提携相手だっただけのことだ。軍部の側が主導権を握っていたわけではない。社会主義政党の側にも十分な主体性があったというのだ。

 このような状況では軍部独裁(ひとまず「ファシズム」=「軍部独裁」と解釈するとして)を阻止するための連合戦線を組むことはできない。

「人民戦線」の構図
理想的な「人民戦線」
共産党
社会主義左翼
非共産党系
社会主義勢力
自由主義勢力 伝統的な
保守勢力
独裁的
保守勢力
(ファシズム)
×
日本のばあい
左派
社会主義者
社会大衆党 民政党 政友会 ファシズム的
勢力
× ×
マークのだいたいの意味 ◎…中心になって動こうとする ○…協力的 △…わりと好意的または中立 ×…非協力的または敵対

 当時、反ファシズム人民戦線運動が世界的に高まりつつあった。これは、左翼の共産党から、非共産党系の社会主義勢力、さらに自由主義勢力までを糾合して、イタリアやドイツのような「ファシズム」の抬頭と闘おうというものである。当時、各国共産党はソ連のモスクワにある中央組織コミンテルン(共産主義インターナショナル、第三インターナショナル)の下に統括されていた。このコミンテルンは、1935年7〜8月に第七回大会を開き、各国共産党・共産主義者の運動方針として人民戦線戦術を採用している。

 ところが、日本のように、社会主義政党が社会改革の一点で軍部の「統制派」との協力に期待を寄せ、自由主義政党が徹底した反軍部の立場で社会改革にも冷淡という状況では、「人民戦線」は組みようがない。

 社会大衆党よりも左翼的な社会主義者は、なんとか社会主義者と政友会・民政党を合わせた人民戦線の成立に期待を寄せたが、それは実現しなかった。左翼社会主義者と自由主義政党・保守主義政党を結び合わせるべき立場にいる社会大衆党が人民戦線に反対では、「戦線」の組みようがなかったのである。なお、著者は、同じような状況があった同時代のフランスの例と日本の例を比較している。


 著者は、たとえばこの「人民戦線」などという左翼っぽい議論――何せ各国共産党の国際中央組織(コミンテルン)が基本方針として掲げているのだ!――が、検閲による伏せ字はあるにしても、堂々と当時の一般向けの新聞や雑誌に掲載されていたことにも大いに注目している。しかも時代は二・二六事件後なのだ。普通は大言論弾圧の時代と思われている時期である。そんな時代のマスコミに「人民戦線」論が大テーマとして採り上げられている。「軍部による言論弾圧で一般国民は多様な意見に触れることができなかった」という通念が虚構に過ぎない。そのことを著者は強調している。

 いわゆる「十五年戦争」期(1931年9月〜1945年8月)の言論状況については、私もこの本の著者と同じような驚きを感じたことがある(このことは「イラク戦争について思うこと 7.」にも書いた)

 1940〜41(昭和15〜16)年といった時期の雑誌を調べていたとき、そこに出てくる議論の多彩さと、そのあまりに理想主義的でおおらかな論調に私は感動さえした。対米英戦争を始めようという時期なのに、「これからの歴史教育は自国中心であってはいけない。世界的視野で歴史を見るような教育に変えていかなければ」などという議論が雑誌に出ているのだ。

 たしかに、日中戦争全面化の後は反戦論を展開することはできなかったし、天皇制批判はもっと難しかっただろう。また、検閲があったから、伏せ字はあちこちにある。それでも言論はあんがい自由で多彩でもあったのだ。


 1937(昭和12)年1月、政友会の代議士浜田国松が議会でわざと陸相寺内寿一を挑発するような演説を行うという事件があった。「割腹問答」事件である。寺内の反論に対して浜田代議士はさらに執拗に食い下がり、とうとう寺内を激怒させて広田弘毅(こうき)内閣を閣内不一致に追いこんだ。広田内閣は総辞職した(→「選挙と内閣」の表、→関連年表「第二の危機」

 このとき、政友会・民政党には、今度こそ宇垣一成を首相に担いで「協力内閣」を樹立しようというもくろみがあった。その上で広田内閣を総辞職に追いこむためにわざと挑発したというのが著者の見かたである。

 かつて民政党にも社会大衆党‐陸軍内「統制派」連合にも敵対して陸軍内「皇道派」と組んでいた政友会の面影はここにはない。同じ「既成政党」として民政党と組むことを重視している。この変化の原因は、二・二六事件後に広田内閣が成立する際に、軍部(「皇道派」は二・二六事件で敗北・壊滅しているので、当然ながら「統制派」主導)が政党からの入閣者にいろいろとクレームをつけ、政友会・民政党ともに軍部の政治介入に反発を強めていたことがあるだろう。

 これまで政友会と民政党の両方かどちらか一方が乗らなかったためにつねに実現できなかった「宇垣協力内閣」構想がこのときは実現の一歩手前まで行ったのには、この政友会の行動パターンの変化の影響が大きいのかも知れない。

 このときこそ「人民戦線」的な政府が組織できる好機だった。この宇垣協力内閣構想では政友会と民政党が手を組み、さらに左派社会主義者がそれを支持していたからだ。

 だが、「反軍」的性格を持つ宇垣協力内閣には、当然ながら軍が反発した。1936(昭和11)年、二・二六事件後の制度改革で、明治時代にあってその後廃止されていた「軍部大臣現役武官制」を再導入していた。陸軍大臣・海軍大臣は現役の軍幹部でなければならないという制度である。陸軍はさっそくこの制度を利用した。宇垣協力内閣に陸軍大臣を出すことを拒否し、宇垣内閣を「流産」させたのである。陸軍の長老が組閣しようとしているのに、その後輩にあたる現役の陸軍幹部が妨害し阻止したのだ。いや〜先輩‐後輩関係ってのはつくづく難しいものですよね〜。

 いやそういう話ではなく。

 この過程で問題になるのが社会大衆党の動きである。社会大衆党は、ここでも宇垣協力内閣を支持せず、軍による組閣阻止を認めた。宇垣協力内閣は、資本家層と地主層に支持され、社会改革には何の熱意も持たない最悪の内閣になると予想したからだ。といっても必ずしも軍部独裁や戦争を支持したわけではない。宇垣内閣が「流産」して解散・総選挙になれば議席数を大幅に伸ばせるという期待があったのだ。


 結果的に、宇垣内閣にかわって成立した林銑十郎(せんじゅうろう)内閣は政友会・民政党の政党員をまったく含まない内閣となった(→「選挙と内閣」の表、→関連年表「第二の危機」

 この林内閣に対して政友会・民政党は妥協的姿勢を採った。林内閣は、国防の基礎作りのための社会改革を含む「広義国防」ではなく、たんなる軍事力増強を意味する「狭義国防」で政友会・民政党との妥協を図った。社会改革を含まない「狭義国防」論では社会大衆党は軍部を支持する理由がない。社会大衆党は林内閣の下で反軍部・反林政権の立場を明確にすることができた。それに対して、政友・民政両党は、林内閣に協力して予算成立を図ったのに、その直後に議会を解散されるという割に合わない結果しか手にすることができなかった。

 林内閣の狙いは、政友会・民政党の勢力弱体化と、林内閣を支持する昭和会・国民同盟・東方会の右翼三会派の増強にあった。しかし、民政党が24議席を失って後退したものの政友会はほぼ現状維持、右翼三会派は微減で、その所期の目的を果たすことはできなかった。さらに、社会大衆党が36議席と従来の議席をほぼ倍増させる躍進を示した(ただしそれでも右翼三会派の合計議席数よりはやや少ない)。民政党の後退は、主として都市部でこの社会大衆党に議席を奪われたことによる。

 しかも、4月の総選挙につづく5〜6月の地方都市の議会選挙でも社会大衆党の躍進はつづいた。

 社会大衆党の躍進は、社会の貧しい層の生活改善を求める都市部の選挙民の意向を反映したものであり、また、社会大衆党が軍部独裁への批判票を集めることができたからであると著者は分析する。しかし、これまで軍部を支持してきた社会大衆党が、どうして軍部独裁を恐れる人たちの票を集められたのか? それは、林内閣の下で、軍部と政友会・民政党がたんなる軍事力増強を意味する「狭義国防」論で妥協を図ったからであった。社会大衆党が支持してきたのは、あくまで社会改革を含む「広義国防」論であり、その「広義国防」論を掲げて政友会・民政党と闘う軍部だった。「広義国防」論を切り捨てた軍部に対して、社会大衆党はその「広義国防」論を反軍部の論理として掲げて選挙戦を戦うことができたのである。

 著者は、このときまでの社会大衆党の軍部への接近は社会大衆党が無力だったためであり、このときの選挙での社会大衆党の成長ぶりを見れば今後は軍部に接近する必要はなくなるだろうという、当時の社会民主主義者 河合栄治郎(経済学者、東大教授、1939(昭和14)年の「平賀粛学」で休職に追いこまれる。ちなみにこの「粛学」を行った東大の「平賀」総長とは、あの妙高型や夕張の設計者として有名な平賀譲である)の発言を紹介している。著者はたぶんこの見かたに賛意を表しているのだろう。


 著者は、このあと、日本の政治は保守政党と自由主義政党の二大政党の支配の時代から、社会主義政党が成長し、官僚機構も社会改革を重視する社会民主主義時代へと動いていったはずだと考えているようだ。政友会‐民政党からも社会大衆党からも見放された軍部は孤立し、政治的影響力を後退させたに違いない。そうなれば、保守・自由主義政党と順調に成長した社会民主主義政党が二大勢力として政権を争う、当時のイギリスや第二次大戦後ヨーロッパのような政党政治ができていたに違いない。

 ――1937(昭和12)年7月に戦争さえ起こらなければ……。

 著者は、1937(昭和12)年7月7日深夜の日中全面戦争の勃発を、国内での「ファシズム」や「軍国主義」が勝利した結果ではないということを強調している。逆に、国内では「社会民主主義化」をすら意味するような民主化が破竹の勢いで進んでいたのに、戦争が起こってしまったために、後から民主化が抑圧されていったのだというのが著者の仮説だ。


―― つづく ――


つづき







関連年表

第一の危機
昭和 6(1931)年 9月 満洲事変、勃発(昭和7年3月、満洲国成立。昭和8年5月、停戦)。
12月 安達内相の「協力内閣」運動により閣内不一致。
民政党の若槻内閣(第二次)倒壊。
政友会の犬養内閣、成立。
昭和 7(1932)年 5月 五・一五事件。犬養首相殺害される。
危機の間の時期
昭和 7(1932)年 5月 斎藤実(海軍)内閣成立。
7月 既存の社会主義政党(非共産党系)が合同し社会大衆党成立。
昭和 9(1934)年 7月 斉藤内閣、帝人事件により総辞職。
岡田啓介(海軍)内閣成立。衆議院第一党の政友会、入閣を拒否し、野党となる。
10月 陸軍省、パンフレット「国防の本義とその強化の提唱」を作成し、「広義国防」論を主張する。
11月 士官学校事件。のちの二・二六事件に類似した陸軍青年将校の決起計画が発覚する。
昭和10(1935)年 2月 貴族院で美濃部達吉の「天皇機関説」が攻撃され、天皇機関説問題始まる。
5月 内閣調査局設置。民政党参加、政友会不参加。
6月 選挙粛正中央連盟成立。「新官僚」が中心となった「選挙粛正」運動を社会大衆党・民政党が支持。
第二の危機
昭和10(1935)年 8月 政府、天皇機関説を公式に否定(「国体明徴」宣言)。
永田軍務局長、斬殺される(相沢事件)。
昭和11(1936)年 1月 政友会、衆議院に内閣不信任案を提出。岡田内閣、衆議院を解散。
2月 総選挙。政友会惨敗、民政党は議席を回復するが過半数に届かず。社会大衆党その他社会主義者が20議席を超え、躍進。
二・二六事件勃発。陸軍将兵が決起。斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監を殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、陸軍省などを占拠。
3月 広田弘毅(外務官僚)内閣成立。
5月 特別議会開会。斎藤隆夫(民政党)、「粛軍演説」で軍部を厳しく批判。
昭和12(1937)年 1月 衆議院議員(政友会)浜田国松、寺内陸相を追及。「割腹問答」。広田内閣、閣内不一致に追いこまれて総辞職。
宇垣一成に大命降下(天皇より首相就任・組閣命令が下る)。宇垣、陸軍の反対で組閣に失敗、宇垣「協力内閣」構想挫折。
2月 林銑十郎(陸軍)内閣成立。
3月 予算成立後に衆議院解散(食い逃げ解散)。
4月 総選挙。民政党議席減、政友会微増、社会大衆党36議席へ躍進。
5月 京都市議会議員選挙。社会大衆党、躍進。つづく大阪市、神戸市、八幡市(福岡県)などでも社会大衆党が躍進。
6月 第一次近衛文麿内閣成立。
7月 蘆溝橋(盧溝橋)事件。中国北部で日中両軍が戦闘状態に入る。
12月 人民戦線事件。「人民戦線」派に対する弾圧事件。