『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


飛行船と飛行機(上)

 2003年末にNHKの『映像の世紀』がまとめて再放送された。見ていると、初期の映像には飛行船がよく登場する。この番組の解説によれば、100年前のパリでは飛行船による遊覧飛行が流行していたらしい。ライト兄弟が「初飛行」に成功したとき、すでに多くの人が「空を飛ぶこと」を楽しんでいたのである。

 飛行船での遊覧飛行など、ヨーロッパの国の一部の金持ちの道楽に限られてはいたのだろうけど、空はもう一部の冒険家だけのものではなくなっていた。

 ヴェルヌの作品には空を飛ぶ話がときどき出てくる。ヴェルヌの最初のヒット作は気球を使ったアフリカ大陸横断の物語だった。また、『征服者ロビュール』(『空飛ぶ戦艦』)では空気より重い航空機も描いている。それで例によってヴェルヌが「未来を予言した」とされるわけだ。

 ところで、飛行船と飛行機では空に浮かぶ原理が違う。かんたんに言ってしまえば、飛行船は全体を空気よりも軽くすることで浮かぶ。それに対して、飛行機は空気より重いまま、その重さを打ち消す空気の力を発生させて空中に浮かぶ。

 ここでは、その飛行船と飛行機を、『パタパタ飛行船の冒険』やヴェルヌの作品とも関係させながら対比してみた。


気球、飛行船、飛行機

 飛行船が空に浮く原理は気球と同じである。動力を持たない気球は風に流されることでしか移動できない。その気球にエンジンを取りつけて自由に動けるようにしたのが飛行船だ。

 気球は、その巨大な気嚢(きのう)(ガス袋)に空気より軽いガスを詰め、その浮力で浮き上がるしくみである。この原理は、水より軽いもの(比重が小さいもの)が水に浮くのと同じ浮力の原理だ。

 私たちはふだんはぜんぜん意識しないけれども、空気にも重さ(質量)がある。気球にはその空気よりも軽い水素やヘリウムのガスがである。また、熱して軽くなった空気も「空気より軽いガス」として利用される。

 空気より軽いガスは空気より高いところに上がっていく。だから、空気より軽いガスを集めてガス袋(「ガス袋」を難しく漢字で書くと「気嚢」になる)に詰め、全体として空気より軽く(比重を小さく)すると、空に浮かぶことができる。この原理を利用したのが気球である。

 しかし気球は風に流されて動くことしかできない。その気球に動力をつけて、ある程度、動く方向と速さを制御できるようにしたのが飛行船だ。

 魚はその体内の浮き袋を膨らませたり縮ませたりすることで姿勢をコントロールし、水の中を自在に泳いでいる。リリエンタールのグライダーやライト兄弟に始まる飛行機が鳥をまねた乗り物であるとすれば、飛行船は魚の原理を応用して空を飛ぶ乗り物だといえる。

 飛行船と違って飛行機は全体として空気よりも重い。その空気より重いものを、翼で浮力を発生させることで空中に浮かべるのが飛行機である。鳥やコウモリやムササビと同じ浮かびかたである。正確にいえば、ジェーンの「パタパタ飛行船」は分類としては飛行機であり、「飛行船」には入らない。

 ジョージが考えてハリー・キラーが実用化した浮遊泉動力は、空気より軽い装置によって空中に浮かび上がるという原理のようだ。飛行船と同じ原理である。そう考えると、ジョージにしてもジェーンにしても、浮遊泉を使ったり、実用化されていなかった飛行機を開発したりするまえに、どうして気球や飛行船で満足しなかったのだろうかという疑問が湧く。が、そういう疑問はひとまず措くとしよう。

 それよりも、私がかねてから疑問に思っているのは、現実の世界で、リリエンタールにしてもライト兄弟にしても、また日本の二宮忠八にしても、すでに飛行船が実用化されている時代に、なぜ飛行機の開発にこだわったのかということである。


飛行船の欠点

 飛行機が実用化されてみれば、飛行船に対する飛行機の優位ははっきりしている。飛行機に較べれば飛行船はたしかに欠点の多い航空機関だ。

 まず飛行船には巨大な気嚢が不可欠である。飛行船は空気より軽いガスの浮力で浮き上がる。しかし、空気そのものがガスとしては軽いほうなので、空気より軽いガスとして実用できるのは水素とヘリウムに限られる。熱気球では熱した空気が外の空気より軽くなることを利用して浮き上がるが、燃料を燃やし続けなければならないので、長距離を飛ぶ飛行船では実用的ではない。しかも、水素やヘリウムでも、大量に集めなければ空気のなかで浮き上がることができない。子どものころに読んだものでうろ覚えだが、たしか一キロのものを浮かび上がらせるのに一立方メートル(千リットル)の水素ガスが必要だったと思う。もしこの数値が正しいとすると、五〇キロのものを浮かび上がらせるには五〇立方メートル、一トンだと千立方メートルで、一〇メートル四方の立方体と同じ容積の気嚢が必要になる。しかも気嚢自体が重さを持っているので、実際に積める重さの余裕はもっと減る。

 また、気嚢が大きいぶん、飛行船は空気抵抗が大きい。飛行船は気嚢を紡錘形にすることで空気抵抗を減らしているが、巨大なだけに空気抵抗を減らすには限界がある。だから飛行船はあまり速度を上げられない。しかも、空気抵抗が大きいので天気が荒れると弱い。そのうえ、巨大なうえに空気抵抗が大きいので小回りがきかない。戦争の道具として使うときにはこれはとくに大きな欠点になる。

 とはいえ、見かけは悠然とゆっくり飛んでいるように見える飛行船も、実際にはけっこう速い。私は、もう10年以上も前に自転車で東京上空の飛行船を追いかけようとしたことがあるが(そのころリリースされていた押井守の『御先祖様万々歳!』の影響か?!)、そんなに行かないうちにあっさり取り残されてしまった。

 さらに、気嚢のガスで浮いているので、気嚢が破れたりしてガスが抜けると浮力を失って落ちてしまう。そのうえ、水素ガスは空気中の酸素と交じるとすぐに爆発するという大欠点がある。引火すればもちろん、酸素とのまじりぐあいによっては摩擦などの原因でちょっとでも火花が散っただけで爆発することがある。実際、交通機関としての飛行船の可能性が閉ざされたのは、ドイツの飛行船ヒンデンブルク号がアメリカ合衆国への飛行でアメリカに到達したとたんに爆発するという大惨事からであった(この事故を映したフィルムも『映像の世紀』で放映されていた)。ヘリウムならば爆発しない。だから現在の飛行船はヘリウムを使っているはずである。しかし、水を電気分解すればいくらでも作ることのできる水素に較べて、ヘリウムは地球上にはあまり存在しないので高価だ。

 飛行船は高度を変えるにも制約があった。飛行船は、最初から重りとして砂や水を積んでおり、上昇するときにはその重りを投げ落とすことで船体を軽くして高度を上げた。逆に、降下するときには気嚢のガスを捨てて浮力を減らして高度を下ろす。ということは、用意した重りを投げ捨てきってしまうともう通常の手段では上昇できなくなってしまうし、ガスを捨てすぎても上昇できなくなる。最初から気嚢を大きくして浮力を多めに与え、重りをたくさん積んでおけばよいのだが、あまり余裕を持たせすぎるとただでさえ巨大な飛行船がさらに巨大になってしまう。

 飛行船は、巨大で、速度が上がらず、小回りがきかず、水素を使うばあいには爆発の危険と隣り合わせで、上昇・降下もあまり頻繁にできないという欠点があるのだ。


なぜ人類は飛行機を発明しようとしたのか?

 飛行機にはこのような欠点はない。

 翼で浮力を得るので巨大な気嚢は必要がない。よけいな空気抵抗も減らすことができるし、小さいので小回りもきき機動力が高い。飛行船が気嚢が破れれば落ちるのと同じように、飛行機も主翼がはずれると墜落するけれども、主翼にある程度の面積があれば翼が破損しても不時着まで持っていくこともできる。また、たしかに飛行機の燃料のガソリンも水素と同じように爆発すると危ないけれども、液体であるだけ水素よりも管理がしやすい。上昇と降下も翼の操作で何度でも行える。

 しかし、こういう飛行機の優位性がはっきりするのは飛行機が普及してからであって、飛行機の草創期にはまだ十分に明らかではなかったはずだ。

 まず、飛行機には巨大な気嚢は必要がないけれども、離陸するには滑走するため場所が必要だ。直線がつづき、風の安定している長い滑走路が必要なのだ。現在ではヘリコプターが実用化されているし、押井守監督お気に入りのハリアーなど垂直上昇機もあるが、初期の飛行機の素材では垂直上昇はとても不可能だった。また、初期の飛行機は必ずしも飛行船より速いわけではなかったし、それほど高く飛べるわけでもなかった。いくら不自由といっても、飛行機の初期には飛行船のほうが飛行機より高くまで上昇できた。飛行船の水素が爆発して危険だといっても、飛行機の実験ではそれ以上に事故が頻発している。

 それに何よりも飛行機は浮き上がらせるのが難しい。飛行船は、ともかく、ガスの漏れない袋と水素かヘリウムのガスさえあれば浮くのである。ところが、飛行機を浮かすには、機体を設計して作るテクノロジーという意味でも、操縦テクニックという意味でも、相当に技術を積み重ねる必要があった。飛行船は魚の原理をまねるだけで飛び上がることができたが、飛行機は鳥の原理をまねるだけでは飛べない。鳥は羽ばたくことで飛び上がる。それをまねた羽ばたき機は何度も試みられたけれども、模型としてはともかく、人間を乗せる機構としては成功していない。羽ばたきではない飛びかたを工夫する必要があった。

 また、飛行船は動力がなくても浮くことはできるので、重すぎさえしなければどんなエンジンを積んでもよかった。出力の弱い内燃機関でも、電池動力でも、蒸気機関でもかまわなかった。しかし、飛行機は動力がなくては浮くことができない。だから「軽くて力の強いエンジン」が絶対に必要だった。その「軽くて力の強いエンジン」が存在しないかぎり、飛行機は空を飛ぶことができない。じっさい、ライト兄弟はエンジン造りでけっこう苦労している。

 そういう困難があるのに、どうして飛行機草創期の飛行家たちは挑戦しつづけたのか。飛行船の限界に早くから気づいていたのか、それとも、やっぱり、魚のようにではなく「鳥のように飛ぶ」ことへのあこがれがあったのか。人のやっていないことに挑戦したいという冒険家精神、あるいは、特許を取って儲けたいという山師精神(人類の発展にとっては重要な要素である!)からなのだろうか。


ヴェルヌと気球

 『パタパタ飛行船の冒険』の原作者ジュール・ヴェルヌがその名声を確立した作品は『気球に乗って五週間』である。

 ヴェルヌはそれまでも劇作家を目指していくつも作品を書いているし、のちのヴェルヌの冒険小説を思わせる「氷海の冬ごもり」なども書いている。しかしどれもろくに売れなかった。この『気球に乗って五週間』が大当たりして、以後、この作品を第一作とする「驚異の旅」シリーズを発表しつづけ、ヴェルヌは人気作家になったのである。『海底二万里』や『八十日間世界一周』、『十五少年漂流記』(『二年間の休暇』)など、よく知られているヴェルヌの作品は、息子ミシェルがジュールの名に託して完成させて発表した『サハラ砂漠の秘密』(『バルサック調査隊の驚くべき冒険』)にいたるまで、すべてこのシリーズの一冊として発表されている。

 この「驚異の旅」シリーズの第一作『気球に乗って五週間』は、当時はまだ未知の大陸だったアフリカ奥地の探検に気球を使うというアイデアで成功した。だから、この『気球に乗って五週間』は、SFと並んでヴェルヌの得意分野とされる紀行ものの冒険小説の要素も持っている。

 ヴェルヌは、この『気球に乗って五週間』で気球に新しいテクノロジーを導入している。気球の欠点は、飛行船の欠点と同じで、上昇のときに重りを捨て、降下するときにガスを捨てなければならないということだ。このアフリカ奥地探検では地上からのサポートが受けられないので途中でガスを補給することができない。また、気嚢が破れてガスが漏れると浮力がなくなるので、この冒険飛行では万一のガス漏れに対する対策も必要だ。

 ヴェルヌは、『気球に乗って五週間』で上昇と降下を重りを投げ捨てたりガスを捨てたりしないで行う方法を考えた。上昇するときには水素ガスを暖めて上昇させ、降下するときには水素ガスをボンベに戻して浮力を落とす。つまり水素気球に熱気球の原理を応用したのである。熱気球ならば空気を暖めたり冷ましたりで何度でも上昇降下ができる。ただし、熱気球ならば常に気嚢内の空気を周囲の気温より高くしておかないと浮力は保てないが、水素ならば暖めなくても浮力は保てる。ヴェルヌの方法は熱気球と水素気球の両方の利点を応用したものだ。

 ただし、水素を熱すると爆発の危険性が出てくるし、燃料を積まなければならないので、実際にこの方法を使うのは難しいだろう。

 また、ガス漏れ対策として、ヴェルヌは気嚢を二重にするという方法を考えた。船が沈みにくいように船底をいくつもの区画に区切るのを応用したのだろう。ヴェルヌは港町に育ったし、少年時代に船乗りになるつもりで家出して失敗したぐらいだから、この船の水防区画の原理は知っていたと思われる。ただ、気嚢はそれだけ重さを食うので、この方法も実際にどれだけ実用的か、問題はある。

 ヴェルヌが気球を使うことを思いついたのは、友人に写真家のナダールという人物がいて、そのナダールが気球を使って写真撮影をしようと考えていたことからヒントを得たという。ナダールの気球飛行は評判になり、当日にはその飛行を見ようとたくさんの人が集まったが、けっきょく失敗したらしい。

 なお、ヴェルヌは、のちに、このナダールの名まえの綴りを変えて「アルダン」という人物を作り出し(Nadar→Ardan)、ヴェルヌのお気に入りの名まえだったらしい「ミシェル」という名を与えている(「ミシェル」は先に書いたようにジュール・ヴェルヌが息子に与えた名である。ほかにも自分のヨットにもこの名まえをつけているし、長いあいだ行方不明になっていた幻の作品『二十世紀のパリ』の主人公の名まえでもある)。そして『地球から月へ』と『月世界旅行』でこのミシェル・アルダンは他の二人のアメリカ人といっしょに月にまで飛んでいくことになる。なお、この二人のアメリカ人は、のちに続編『上もなく下もなく』(『地軸変更計画』。清瀬による評はこちら)であまりよくない役回りで出てくるのだが、アルダンはこの続編のストーリーには直接にはかかわっていない。

 ヴェルヌはこのあと何度も作品のなかで気球を使っている。

 『神秘の島』は、アメリカの南北戦争の最中に、気球で都市を脱出した人たちが漂流するところから話が始まる。この戦時下での気球による都市からの脱出劇にはモデルがある。一八七〇〜七一年のプロイセン‐フランス戦争では、パリで孤立した政府が外部との連絡に気球を飛ばした(プロイセンはこの戦争の途中でパリ郊外のヴェルサイユ宮を占領し、そこで戴冠式を挙行して統一ドイツ帝国を成立させる)。この『神秘の島』は『ふしぎの海のナディア』やカレル・ゼマンの映画『盗まれた飛行船』の原作とされる作品で、『海底二万里』のネモ船長が再登場するのでも有名な物語である。

 また、『エクトール・セルヴァダック』(『彗星に乗って』。これもカレル・ゼマンが映画化している)でも、彗星から地球に帰還する際に、両方の大気がふれ合う際に気球を使って乗り移るというアイデアを使っている。ただし彗星の大気は現実には非常に薄い。それでは呼吸できないということは別としても、大気が薄いということは軽いということでもあり、そんな軽い大気のなかで気球を浮かせるのはけっこう難しいだろう。逆に、彗星が気球を浮かべられるほど濃い大気を持っていたら、地球と彗星の大気がふれ合ったところで地球の大気が攪乱され、とても気球が安全に飛べる状態ではないはずだ。

 なお、『八十日間世界一周』の映画にも気球が出てくるが、これは原作にはない。

つづき