三月の朝はもう明けはじめていた。
空からのやわらかな明かりが玉井の町のまんなかに黒くうずくまっている小高い森に注ぐ。森の頂きの三層の楼閣の屋根の瓦が鈍くその光を照り返す。町は
城館の森を背中にして、
やっといい季節になった。
冬の朝、体の芯までこおりつくようななかを、右手で
その季節がようやく終わった。もっともいつかはまたあの暗い寒い季節がやってくるのだろうが、そんなことはまたそのときに考えればいい。
「このまま店の娘になろうかな」
美那も今年で十六になって、そんなことをよく思うようになった。
美那は玉井の町の市場にある葛餅の店藤野屋に預けられていた。葛餅を作って、自分の店でも売り、また玉井の町のほかの茶店にも卸すといった商売だ。美那がこの来るまえに旦那は亡くなり、店を継ぐ子がいるわけでもなく、おかみさんの薫が一人で店を継いでいる。儲けが上がっているというわけではない。いま隣家の駒鳥屋の敷地になっているところももともとは藤野屋のものだったのを手放したのだという。使用人もみんな通いで、夜になると家はおかみさんと美那の二人だけになってしまう。
しかし古い店ではあるらしい。店にはちゃんと
上等の餅を作るにはきれいな水が必要だ。市場の井戸水では役に立たない。町と海とのあいだは東西に長く伸びる
夜明けは体の弱い薫はまだ寝ている。通いの使用人たちはもう店に来ているが、火をおこしたり葛粉を吟味したりで忙しい。そこで美那に水汲みの役が回ってきた。二年ほどまえからこれは美那の仕事と決まっていた。
屋敷町を通って城館のすぐ北に出ると、水が豊かに流れる玉井川を通して、牧野と森沢の野原が見渡せる。その向こうでは鮮やかな日の出まえの東の空を雪消山の嶺が区切っている。その手前に、城館の森と玉井川をはさんで斜めに向き合うように黒く暗く沈んでいる小高い山が
このあたりを過ぎると堤の道は細くなり、藁の鞋を通して足の裏にくいこむような石ころだらけの道になる。やがて堤が低くなり、足もとの土が湿ってやわらかになり、水がしみだして足をぬらす。道がまばらな雑木林にさしかかると、地鳴りのような執拗な低い音が行く手から響いてくる。ようやく
都堰にたどりついたときにはもうあたりはすっかり明るくなっていた。
高さ二丈ほどのこの堰が玉井の城下と上流の中原村の境になっている。この堰の上で玉井の町でいちばんきれいな水がとれる。
美那は木立ちのあいだの急な細道をのぼって堰の上に出た。そうしてふうっと息を整え、それから河原にひょいと飛び降りた。
岸の上の切り株に男が座って居眠りしていた。もう何十年も着たらしい色も褪せた小袖をぞんざいに着て、頭にかぶった
こんな時間にこんなところで何をしているのか? 美那は、その男を横目で見ながら、河原に天秤棒をむぞうさに置いた。
堰の下とはちがって、このあたりから上は、川幅も狭く、濃い森が両岸から迫ってくる。それがこの堰の上で川幅が急に広がりそこが広い河原になっている。河原に入ると波が立って水が濁るから、その河原に入るすぐ手前の水を採るのだ。
美那は鞋を脱ぎ、裾をたくし上げ桶をかついで、川下のほうから水に入ろうとした。
「あっ、こら、待て!」
「はあ?」
体を屈めて右手で裾を握ったまま美那がふりかえると、さっきの居眠り男が岸のところから大げさな身ぶりで叫んでいるのだった。男はもういちど大声で、
「おまえだ、おまえ! ちょっとこっちへ来い」
「なんだろ?」
美那はちぇっと舌打ちしてから足も拭かずに鞋をひっかけて男のほうまで行った。起き抜けの男は、目がまだ半分ぐらいも開いていないまま、背だけはふんぞりかえらせて岸から美那を見下ろしている。
「おまえ、だれの許しをもらった?」
「許し? 許しってなんだよ?」
「とぼけるんじゃない!」
男はどなりつけた。
「おまえ、町の者だろう? ここが中原村の領分だってことを知らないわけじゃあるまい。許しも得ずに村の水を汲むつもりか?」
「そんなこと言ってももうずっと前からここでこうやってここで水を汲んでるよ。わたしがここに来るようになってからでも二年も経つ。そのあいだ何も言わなかったじゃないか。そんなこと言われても困るよ」
「なにい、きさま、もう二年も黙って水を盗んでやがったのか。ふてぶてしいやつだ」
美那は頭にきた。これは言いがかりだ。それに、もうすこし凛々しい身なりでもをしていればまだしも、この男のかっこうはどう見ても人に説教を垂れる者のようには見えなかった。
「なんだよ、町の者が町の水を汲むんだ、あんたこそどういう筋合いで文句を言うんだい」
「なにをっ!」
男は叫んで河原に跳び下り、美那に詰め寄った。
が、これは男にとっては失敗だった。
美那もそんなに背の高いほうではなかったが、男はやせっぽちのうえ背丈も美那の目の高さほどもない。美那はかえっていきおいづいてまくしたてた。
「なにをってなんだよ! この水はぜんぶ城下に流れ込んでるんだ、あんたの村になんかひとしずくだって流れ込んでやしない。筋のとおらないこと言わないでほしいね!」
「な……なんだ……おまえ」
地侍らしい男は、両目をまんまるに開いて上目づかいに美那をにらみつけた。何か言いたそうに顎を突き出して見せるがことばが出ないらしい。男は美那の前からあとずさりし、十分に間合いをとったところで、いきなり岸のほうを向いて叫んだ。
「おーい、ご検注にさからう水どろぼうだ! みんな来い!」
声に答えて、さらにみすぼらしいかっこうをした小者どもがくさむらからぞろぞろと出てきた。どうやら最初に声をかけた地侍風がこの連中の主人らしい。主人も入れてぜんぶで五人だ。五人がかりで美那の前に並ぶ。主人が芝居がかったしぐさで脇差を抜くと、他の四人もそれにならって短刀を引き抜いた。
「いきなり何すんだよ!」
刀を抜かれるとは思っていなかったから、美那は面食らって声を立てた。地侍はさっきとは打って変わった落ち着きで、
「いいか、娘っ子! この川はな、こないだのご検注で中原村の領分と認められたんだ。だからおまえは黙って村のものを盗む水どろぼうってわけだ。わかったか! わかったら痛い目に会うまえに、おとなしく名主どののところまで来い!」
美那はすぐには返事せずに周りを囲んだ五人を顔を伏せて見回した。
いきなり刃物を抜かれてたまげたけれども、こうやって見ると、どいつもまともに武芸を身につけているようには見えない。だいいち刀の構えかたすら知らないらしくまるで松明をかざしているように柄を握っているだけだ。美那は気取られないように天秤棒のほうに足を伸ばし、そしてわざとなまいきに言い返す。
「わたしがいやだって言ったらどうするつもりだい?」
「そのときには痛い目に会うぜ」
「へん、だ。会わせられるものなら会わせてもらおうじゃないの!」
美那はすかさず足の指で天秤棒をつかまえると器用に引き寄せ、すばやく手に持った。
それを見て小者どもはきょろきょろして顔を見合わせる。だが地侍はかえってわざとらしく笑い声を漏らした。
「ふん、それが町の娘っ子の兵法ってやつか。天秤棒で越後守さまの臣下に勝てると考えるとはじつにふざけたやつだ。娘っ子だからって容赦するな、やってしまえ!」
四人の小者がさっと散って美那を囲む。だが美那はあわてなかった。
「自分じゃ手を下さずに小者にやらせるとはご立派なご主人じゃないか」
美那が言うと小者どもはいっせいに打ちかかってきた。美那は、小者の短刀よりずっと長い天秤棒で一人を突き返し、二人を薙ぎたおす。残りの一人の刀の柄を棒で受けて押し返し、その男の脳天を天秤棒でしたたかに打ってやった。
小者たちは何度も美那に打ちかかり、そのたびに美那の天秤棒でしたたかに打たれたり突かれたりした。逆上して顔をまっ赤にして突きかかってくるのだけれど、隙だらけなものだから、何度やっても刀の先が美那の体に届くまえにやられてしまう。そのうちに一人が動かなくなり、もう一人、さらに一人と伸びてしまった。
「へっ、何をえらそうに言うのかと思ったら、こんなものかい」
美那は地侍をあからさまに見下して言った。
「ご検注だか何だか知らないが、そういうことはもっと腕前をみがいてから言うんだね!」
そう言って天秤棒を担ごうとする。
「ばかにするな、この町娘が!」
一瞬の油断だった。美那はいきなり後ろから組みつかれて背中から引き倒された。まだ伸びていなかった小者の一人が怒りにまかせて美那を締め上げてきたのだ。
「放せよ、こら、なにすんだよ!」
刀を執ってはからきしだめだった小者も力だけは強い。天秤棒に打たれているあいだはふにゃっとなっていたほかの小者もつぎつぎに跳びかかってくる。美那はうしろから締め上げられたまま地侍のまえに突き出された。
そのときの地侍の顔と言ったら!
五人がかりでたかが娘っ子ひとり捕えただけなのに、ごろごろと喉を鳴らす猫のように満足そうに笑って美那を見下ろしていた。
美那の喉もとに脇差の切っ先を突きつける。さすがにこの形勢で刃物は怖い。でも、ばかにされるのも癪なので、美那はじっと地侍の顔をにらみ返した。
「どうだい、これで観念できたかい、往生ぎわの悪いお嬢さんよ」
美那がだまっていると地侍は勝ち誇って、
「最初は説教するだけにしようと思ったがもうそれじゃあすまないぞ。さんざん痛い目にあってもらったあとで、町の連中に突き出して、たんまり身代金をいただいてやる。さあ、どこの娘だ。どうせ市場のならずものだろう。さあ、言え!」
「だれがあんたなんかに……。わたしを殺す度胸もないくせに刀なんか振り回しやがって!」
美那は強情を張った。しかし地侍はますますにやついて、
「ばかにしてもらっては困るぜ、市場のお嬢さんよ。こっちは人殺しが仕事の武士なんだ。越後守さまからも安堵の証文をもらってる。市場の娘の一人や二人、殺したところで、何のお咎めもないだろうよ。手始めにおまえのほっぺたでも切り刻んでやろうか?」
小者どものうち、美那を絞め上げるのに加わっていない二人ほども、前に回って美那の顔をおもしろそうに見下ろしている。
「……ひきょう者!」
地侍はゆっくりと刀を引いた。あるいはほんとうに頬を切り刻むつもりだったのかもしれない。美那は相手の目を見返したけれども、それは地侍をさらににやつかせただけだった。
いきなり地侍が
「はぉっ」
とへんな声を立てた。美那に刀を使うために気合いを入れたつもりだろうか? いや違う。地侍は顔をゆがめて脇差を取り落とし、拳を押さえて美那のまえに屈みこむ。美那がわけがわからないでいると、頭のすぐうしろでもごん、という鈍い音がして、肩を押さえつけていた男の手からすうっと力が抜けた。美那はその手を振りほどき、すばやく天秤棒をつかんで岸のほうへ跳びのいた。
「いいね!」
川岸には美那と同じかすこし歳上ぐらいの娘が立って美那に目配せしていた。黄色い衣をまとい、曲物の浅い桶を右の肩から提げている。すこし縮れた黒い髪を腰のあたりまで垂らしていた。背も高く、体もがっちりしていて、見るからに手ごわそうだ。腰につけた大きめの袋に手をつっこんで何かごそごそまさぐりながら河原にいる連中を見下している。
「だっ……だれだおまえは?」
「だれだっていいじゃないか、
娘の声は女にしては低いがよく通る声だった。
「えっ……榎谷だと……」
娘は答えるかわりに袋から拳ぐらいの大きさはある石をむぞうさにつかみ出した。小者どもは力のない悲鳴を上げていっせいにあとずさりする。
「榎谷だか何だか知らないが……」
小者の一人に助け起こされながら地侍が言った。
「この川筋は越後守さまのご検注でおれたちの村のものと認められたんだ。この娘はその水を盗もうとした水盗っ人だぞ。おまえ、越後守さまにさからうつもりか」
声がふるえてはいたが地侍は必死だ。背の高い娘は、その必死の口上を最後まできいてから、ふんと鼻を鳴らし、美那のほうをちらっと見て、おうへいに答えた。
「なんだい、よく言うよ、娘一人に五人がかりで。その娘にこれ以上ちょっかいを出してみろ。一人に一つづつこれぐらいの
「何を言ってるんだ。おまえ、越後守さまの家臣を傷つけてみろ……ど……ど……どうなるか……っ、どうなるか……」
「どうなるか」より先はどうしても言えないらしい。娘はその拳ほどの石を弄び、
「どうにもなりはしないよ。なんだい、ふたことめには「越後守さま」だなんて、なさけない。それに、あいつこそ、春野家の当主が若いのをいいことに玉井三郡守護代の職を奪った強盗野郎じゃないか。川は昔からだれのものでもないんだよ。それをおまえたちの主君の強盗野郎がかってに自分のものにして、かってにおまえらにくれてやったというだけの話さ。さ、おしゃべりは終わりにしようか」
娘が石をぎゅっと握りしめた。地侍はがたがた震えて口も閉じられないでよだれまで垂らしている。ようやく頬をぴくぴくさせてから力のかぎり叫んだのが、
「おいっ、逃げろ!」
そうしてさっき飛礫に打たれて取り落とした脇差を拾い、手をかばいながらいちもくさんにくさむらへ逃げこんだ。小者どもも取り残されて飛礫に打たれては災難とばかり、ばたばたとそのあとを追いかけて逃げていく。
「へっ、侍のくせに、だらしのない!」
娘はあざけり笑いながらそれを見送って、入れかわりに河原に跳びおりた。
「けがはなかったかい……まあ、なさそうだね。けっこう腕が立つみたいだから」
「ええ、ありがとう」
美那は礼を言った。娘はちょっと巻舌ぎみの声で威勢よくつづける。
「ごめんよ。ちょっと上のほうで野宿してて、なにやらさわがしいから来てみたんだけど、事情がわからないんでしばらく手出しせずに見てたんだ。あいつらはこの近在の地侍とその手下でね、ここんとこ不作つづきで年貢がろくに払えないんだよ。それで言いがかりをつけて金をまきあげようとしたってわけさ」
ああ、そういうわけか、と美那は思う。三郡の村はここしばらく毎年不作がつづいていた。これでは今年は年貢も
榎谷の娘は顔を綻ばせて笑った。
「あたしはね、榎谷の志穂って言うんだ。あんたは?」
「美那……市場の藤野屋って店にいるんで、藤野の美那って呼ばれてますけど」
「藤野屋っていうと、
気の強さでは相当な美那もなんとなく気おされ気味だった。
「いや……、娘っていうか、事情があって面倒を見てもらってるだけなんですけど」
「ふうん、里子ってわけか」
「はい……。そんなところです」
美那は上目づかいで志穂を見た。志穂はほんとうに黒い瞳で、鼻筋の通った顔立ちの娘だった。
「じゃあ、こんどまた機会があったらあいさつに行くよ。それから今日のことはきちんと市場の長者なりあんたの里親さんなりに言ったほうがいいな。叱られるかもしれないけどね。親御さんはこわい人?」
「いいえ、ぜんぜん……」
「ぜんぜん」と言うとやはり嘘だ。おかみさんは怖いときには怖い。
「じゃあよかったじゃないか」
志穂は美那の答えの歯切れの悪さには頓着せず、まっ白な歯を見せてにこっと笑い、また岸へ跳ね上がった。
「じゃ、またな」
そう言って大股の早足で林のなかに姿を消してしまう。
美那は何が起こったのかまだよくのみこめないというように、しばらく天秤棒を担いだまま放心したようにそちらのほうをながめてつっ立っていた。
― つづく ―