夢の城

清瀬 六朗


何をなすべきか(二)

 日暮れどきだった。

 船頭の植山平五郎は、館のあるじの桧山桃丸と並んで、港を見下ろしている。

 「すべてを知っているわけではない、か」

 桧山屋敷は、港の西の岸から、その西にそびえる茅野(かやの)山の中腹まで広がっている。この高殿がいちばん高いところにあり、その下が桃丸の屋敷、そのまた下が広い庭で、この庭の両側に(うまや)や使用人たちの小屋が並んでいる。

 屋敷のいちばん高いところにある高殿(たかどの)からは夕暮れの港が一望できた。湿気をふくんだ遠くの空が淡く朱色に染まっている。港の東側の正面を押さえる八龍王山(はちりゅうおうさん)の若葉の色もだんだんと薄暗く沈んでいった。

 東南の方向に水路を残すだけでまわりを山で囲まれた港は水面に波もなくしずまりかえっている。

 「宮司(ぐうじ)さんはたしかにそう伝えてくれって」

 「たしかにそうなんだろうな」

 桃丸はつぶやくように言った。

 「おれはまだ子どもだったから」

 「でも、いろんなこときいたよ、あの宮司さんに」

 平五郎はそう言ってちらっと桃丸の顔を見る。

 「いろんな、って、どんな?」

 桃丸は夕暮れの照り返しに目を細めたままききかえした。

 「きみの小さいころのこと、信千代丸っていったかな、不幸せだった前の守護代のこと――死んだときまだ十いくつだったっていうじゃない。それから牧野の芹丸(せりまる)さんっていう、すこし歳上の勇敢だったお侍さんのこと。それからその前の守護代のお姉さんと妹のこと」

 「みんな友だちだったよ」

 「そう……桃丸さんってぼくとおんなじぐらいなのに、こんなにたくさんの友だちが死に別れたり、行方不明になってしまったりして、いろんな苦労してるんだね」

 「なあに、戦乱の時代だから、この歳でこれぐらい苦労しているやつはいくらでもいるさ」

 桃丸は他人ごとのように言う。

 「それに、いまの守護代」

 「ああ、あの定範さんっておじさんでしょ?」

 「そう。あいつが信千代のやつをつかまえて城館を乗っ取ったとき、おれの父親や牧野党が立ち上がってよかったと思ってる。たとえまったくの負けいくさで、その最後が犬死にだったとしてもな」

 「そんなものかねえ……ふーん」

 平五郎が不遜(ふそん)に鼻を鳴らす。

 「どうも、きみたち武士っていうのの考えることはわからないなあ」

 「わからなくていいよ」

 桃丸は微笑した。

 「そういう連中が、この国の全部を戦乱でめちゃめちゃにしまったんだから」

 夕日の残光が薄れ、二人の顔も紅色より白が優って見えるようになってきた。

 桃丸はひとつ息をついた。

 「おれだって、武士に生まれなければそのほうがよかったって気もときどきするんだ。だいたい、おれはどうして港の名主なんかやってるのか――それも城館にはにらまれ、城館の港代官にはことあるごとにけちをつけられながらな。家代々、とくにあの定範に殺された父親がそうだったからというだけのことなんだろうか。わからなくなることがあるよ」

 「なんだ、それならかんたんじゃないか」

 平五郎が自信いっぱいで言う。

 「みんなが桃丸さんに港を治めてほしいと思ってるから。うちの船の連中もみんな言ってるよ、ここはいい港だって。港の倉の連中も法外な銭をとったりしないし、船に乗ってきた連中もたいせつにしてくれる。それもみんな桃丸さんがこの港を治めてるからでしょ?」

 「さあ、どうだろうな」

 遠くから犬の吠えるのが幻のように響いてくる。港を横切っていく小舟の(かい)の音までが聞こえてきそうだ。

 人の世とは思えないほど静かで穏やかな夕暮れだった。二人はしばらく声も立てず、港を眺めていた。

 「ほら、早く!」

 下のほうから娘っ子の声がして、その静寂は破れた。

 「ちょっと待てよ。おまえは道がわかってるからいいだろうけど、おれはどっち行っていいのかわからないんだぜ」

 答えているのは男のようだ。

 「だからしゃべってないで、こっちだよ。急ぐんでしょ?」

 桃丸が手すりから半ば身を乗り出して声のしてくるあたりを見る。

 「おや、あの子が来たよ。いまごろなんだろう?」

 「え、どこに?」

 下に見える屋敷のあたりはもう暗くなっていて、ところどころに()かれた篝火(かがりび)のまわりのほかはほとんど何も見えない。

 その暗く沈んだ屋敷のほうから、まだ夕日のやわらかい照り返しの残っているあたりに浮かび上がるように、二つの人影が石段を上ってくるのが見えた。

 「……あ、ほんとだ」

 まもなく屋敷の使用人が藤野の美那さまが見えられましたと伝えてきた。桃丸が平五郎といっしょに高殿の階下に下りたところへ、美那が息をはずませ頬を紅色にし、汗も(したた)るままにしてまろびこんでくる。

 「や、また会ったね」

 平五郎が声をかけると、美那は何か答えようとしたが、息が整わないで声にならない。中途半端に頭を下げて、桃丸のほうを向いた。

 「桃丸さん、今日は心配かけちゃって」

 美那はやっとの思いでそう言った。

 「いやいや、何ごともなければそれでいいんだ」

 使用人は灯火に火をつけただけで一礼して屋敷へ退く。

 桃丸は自分で藁座(わらざ)を取るとあたりに適当に並べ、そのうちの一つにさっさと座った。平五郎がその横に、美那と美那が連れてきた若い男がその向かいに腰を下ろす。

 「で、そんなにあわててどうした?」

 桃丸がたずねると、美那はちらっと平五郎を見てから、連れてきた男の背中をぽんとたたいた。

 「この人、元資(もとすけ)っていうんだ、浅梨さまの弟子で」

 「ああ、このまえ、お屋敷で会ったね」

 平五郎が言う。元資は平五郎に会釈(えしゃく)した。

 「たしか世親寺(せいしんじ)得性(とくしょう)さまのご子息でしたね」

 「ええ。父がいつもお世話になっております」

 元資は桃丸に律儀(りちぎ)に頭を下げる。

 「で、何か、私に?」

 桃丸の問いに元資が答えるよりさきに美那が、
「船を都合してほしいんだって」

 「ふーん、どんな船?」

 桃丸はこの娘としゃべっているときにはなぜか初々しくてかわいらしい。元資が、美那にせっつかれないうちにかしこまって話をはじめた。

 「じつは、越後守(えちごのかみ)が三郡かぎりで徳政を策しているといううわさがあります」

 「ああ、あるみたいだね」

 「どうも確かなようなのです」

 「それは得性和尚としては困ったことですね。でもわたしのぶんは心配なさらなくても、和尚からお借りした米銭を帳消しにしたりはしませんよ」

 「徳政って、なあに?」

 平五郎が横合いからきく。桃丸がうるさそうに、
「だから、借りた金とか、米とかを、返さなくていいことにして、質に入れてたものをただで取り戻していいっていう命令のことだよ」

 「へえ、それはけっこう!」

 「けっこうじゃないよ、この人の家は金貸しなんだから」

 「ははあ、なるほど。話はだんだんわかってきた」

 平五郎はのんきに感心してから、
「しかし、それと船とどう関係あるわけ?」

 「はい、じつはそれなんですが」

 元資はつづけた。

 「玉井三郡の年貢は、形のうえでは守護から一括して本家に納めることになっていて、それを守護代の越後守が代行することになっていますが、じっさいは玉井郡の年貢を納めるのは正勝(まさかつ)公のころから玉井の町の金貸し衆が請負うことになっています」

 「なるほど。徳政で金貸し衆が損をすると、請け負った年貢が支払えなくなる。あるいはそれが城館の狙いってことかな。そして、そのあとに柿原党を入れて、玉井一郡を柿原党の領分として明け渡す」

 元資が驚いた。

 「ご存じだったんですか?」

 桃丸は笑って、
「いや、何も知らないけれど、あの人たちの考えるのってそういうことだから。とくに定範は最近はますます柿原入道に頭が上がらなくなっているっていうよ」

 「ねえ、その柿原とかいうのだぁれ?」

 平五郎がまた横合いからきく。桃丸はこんどはべつにうるさそうでもなく説明した。

 「おまえの会った守護代の殿さまの奥さんのお父さんにあたるじいさんだよ。もともと竹井の名主だけど、金貸しの親玉みたいな人でね。玉井の金貸し衆とは敵どうしの間柄だ。あの守護代ねえ、そのじいさんには頭が上がらないんだ」

 「なまずみたいなねずみみたいなじいさんだよ」

 美那がつけ加えた。

 「ふうん」

 「なまずみたいなねずみみたいな」が平五郎には理解できたのだろうか。

 「まあ、よくわからないけど、この元資さんたちがいい金貸しで、その柿原とか入道とかいうのが悪い金貸しなんだ」

 「まあ、そんなところだ」

 桃丸は元資に話の続きを促した。

 「それで?」

 「はい、ともかく玉井の金貸し連中としてはそれでは困る。そこで、いまの間にできるだけ満期の来ている米銭を集めて、徳政の命令の出るまえにともかく京都なり南都(なんと)なりに送ってしまおうって相談になってるんです。そうすればいかに柿原入道とて手は出せない」

 「なるほど。で、米銭のほうは集まった?」

 「それはいま勘定しています。でも、もう一つ困ったことがあって」

 「それを兵庫まで送る船の手配がつかない、というわけだ」

 「そういうことです」

 「つまり船を探してるの?」

 「だから最初から言ってるじゃない?」

 平五郎ののんきな聞きかたに美那がいらいらして答えると、
「じゃあ、ぼくの船に積めば?」

 平五郎は即座に言った。

 「え、だって……」
と美那が
「平五郎さんの船は唐国(とうこく)のそのなんとかいうところに帰るんでしょ?」

 唐国の地名を覚える気は最初からないらしい。平五郎は答えた。

 「帰ることは帰るけどね、まず兵庫に回って、それから武蔵の品川の関に回って、それから蝦夷島へ行って海のものを仕入れて、それで高麗を回って天津に戻る。そうしないと儲からないからね。兵庫から京都に送る荷はあるから、それといっしょに送る手筈(てはず)にするよ、それでいいでしょ?」

 「そうしてもらえればたいへんありがたいんですが」

 元資がほっとしたという顔で答えた。

 「で、運び賃のほうは?」

 「あ、いいよいいよそんなの」

 平五郎は軽く言った。

 「もともとこの港で重い荷物を下ろして、このままじゃ船の底が軽くなっちゃうんで困ってたんだ。米や銭ならちょうどその重石(おもし)のかわりになるよ」

 「ありがとうございます、で、いつまでにお持ちすればよろしいでしょう?」

 「あ、ぼくはいつでもいいよ。どうせしばらくはここにいるつもりだから」

 「いや、ちょっと待ってくれ」

 桃丸が口をはさむ。

 「はい、何か?」

 元資がききかえした。

 「その米銭、いつまでに集まる?」

 「さあ、なるべく急いではいるんですけど」

 「ともかくなるだけ早く。できればこの何日かのあいだに」

 「はあ」
とは返事したものの、元資はなんとなく納得がいかないようだ。

 「いったいどういうことなんです?」

 美那がきいた。

 「いや、城館の連中だって、玉井の金貸し連中がそういう動きに出ることが読めないほど間が抜けてもいないだろう、ってことさ。とくに柿原が絡んでるんだったらなおさらね。柿原にはこっちの金貸し衆が考えそうなことはだいたいわかると考えたほうがいい。必ず何か手を打ってくるよ」

 「それはわからないでもないですが」
と元資が、
「しかし、柿原入道だって竹井一郡分の年貢を請け負っています。私たちの借銭の取り立てやら年貢の積み出しやらを妨げるようなことをすれば、柿原入道も困るのではありませんか」

 「やつは困らないと思うよ。高い利息を取っているし、取り立ても厳しいからね。そのぶん手もとに蓄えがあるはずだ」

 桃丸はそう答えて、しばらく考えた。

 「でも、それだけ欲は強いから、もしかするとそこに隙が生まれるかも知れないなぁ」

 「それでは、さっそくですが」

 「うん」

 銭屋の元資は自分の座っていた藁座を引っぱって平五郎と膝をつき合わせるようにし、さっそく荷の船積みの相談にかかる。

 残された桃丸が美那に声をかけた。

 「馬には慣れた?」

 「へっ? 馬?」

 美那はいきなりきかれて何のことかわからない。

 「馬……って?」

 「あ、いや、おまえが馬に慣れたかきくより、馬がおまえに馴れたかってきくのがほんとうだったかな」

 「ああ。あの践雪(せんせつ)号の娘っ子?」

 美那がききかえしてから、
「まあ、最初からすると慣れたけどさあ。いまは油断してなければ落とされずにすむようになった」

 「油断すると落ちるってことか」

 「ま、そういうこと」

 美那は軽く答えた。桃丸が笑って見せる。

 「名まえはつけてやるの?」

 「もう少し慣れたらね。まだ名まえつけるほど仲よくなったわけじゃないし。それに、どうしてあの子って親に似ないであばれ馬になったんだろうね、それも牝馬なのに」

 「ひとのことをそんなふうに言うもんじゃない」

 桃丸は笑いを含ませて美那をたしなめるように言った。

 「あれは牧場育ちだからな。一日中好き勝手に走り回っていたのに、急に町につれてこられて、町のなかは狭すぎるとでも思ってるんだろう。そのうち慣れるさ」

 「好き勝手に走り回ってるとああなるのかなぁ?」

 美那は半ばひとりごとのように言った。

 「うん?」

 桃丸は、美那のことばにこたえず、背を伸ばし、膝を立てて立ち上がりかけた。

 「どうしたんですか?」

 美那がきく。

 「いや、屋敷内で何かあったようだ」

 美那には何の変わった気配も察せられない。桃丸を見上げると、目を細め、眉を低くし、唇を閉じて何かを探るようにしている。市場で美那の弟にまちがえられた紅顔の少年という面影はいまはどこにもない。

 桃丸はそのままの姿勢で待っていた。ほどなく小者が高殿に駆け上がって来る。

 小者は侍烏帽子をかぶって、きちんとした身なりをしていた。美那と元資と平五郎のほうに軽く会釈する。小者が話を切り出す前に、桃丸が立って
「何かあったのか?」
ときく。

 「はい。髪を振り乱した乱暴な侍が馬に乗って来まして、市場の元資さんという客人に会わせろとわめくのを、とりあえず馬ともども取り押さえているのですが」

 「元資というとわたしですが」

 元資が小者のほうを振り向いた。

 「名まえなどは名のっていませんでしたか?」

 「はい。鍋屋の隆文(たかふみ)と」

 「ああもう、隆文のやつ」

 「人騒がせだな」

 苦い顔をして美那と元資が顔を見合わせる。

 「それなら通してやってください。左兵衛(さひょうえ)さまの弟子です」

 元資が言う。桃丸が頷くと小者は高殿から下りて行こうとする。元資が呼び止めた。

 「それから、お屋敷に来たのなら行儀よくしないとおれは会わんと言っていたと伝えてください」

 「は」
とだけ返事をして小者は来たときのように敏捷に走り去った。

 「あいつだから市場町を出るときは烏帽子ぐらいつけろって言ってるのに」

 美那が隆文にかわって桃丸に謝るように言う。桃丸はもとの子どもっぽいと言われるような顔つきに戻って座り直した。

 「まあいいじゃないか。隆文さんといえば、いまいるなかではいちばん上の弟子だろう?」

 「上といえば上で、いちおう剣の腕もいちばんなんですけどね」

 元資が取りなす。

 「ともかく乱暴で困ります」

 「まあ左兵衛さまも乱暴なお方だから、そうでなくては弟子はつづかないでしょう」

 桃丸が言って笑った。ほどなく、高殿に隆文が案内されてくる。小者に導かれて、威儀(いぎ)を正しているつもりなのか、それともただふてくされているだけなのか、隆文はまじめぶった顔で上がってきた。

 桃丸が座るように勧めると、おとなしく席に着く。

 「で、ここまで馬を飛ばしてきたっていうけど、何の用だ?」

 「そういうききかたはあるまい」

 やっぱり相当にふてている。

 「あらかたの勘定がいちおう片づいたんで、できるだけ早くおまえに知らせてやろうと思って飛んできたのに」

 「あんたに非礼を働いた小者はあとで叱っておくとしよう」

 桃丸が穏やかに言う。隆文は目をあちこちに向けて、
「いや、若殿さまのところの方がたをとがめ立てするなんてとんでもない」
などと急いで言いわけした。あらためて元資に何か言おうとする。しかしその前に
 「とにかく急いで知らせに来たんだったらさっさと言いなよ」

 美那に言われて、隆文はほうっと息をついた。

 「いまのままじゃやっぱり足りないんで、町のほうは連中が何とか手を回して取り立てることにしたんだがな、取り立てるのにどうしても人手が足りないところがある」

 「それはどこだ」

 「牧野と森沢だ」

 「うーん」

 元資は考えこんだ。

 「森沢はともかく、牧野から取るのは難しかろうなぁ」

 「だが、牧野や森沢の取り立てをやらないで町からだけ取り立てたんじゃ町の連中が払わんだろうというのが連中の言い分だ。町の連中から見れば牧野や森沢の連中だけがいい目をしているって思われてるって言う。だから、かたちだけでも牧野と森沢には取り立ての使いを送らないと」

 「牧野と森沢からの取り立てがなくても勘定は足るのか?」

 「もちろん取り立てたほうが確かだ。そんなに余裕があるわけではないからな」

 「お話しはわかりました」

 桃丸が話を引き取った。

 「牧野と森沢からの取り立てがうまくいかなかったときには、わたしが港の倉方の連中に声をかけてなんとか融通しましょう」

 「え? でも殿様を巻きこむのはまずいですよ」

 「そうだよ」
と美那も口を添える。

 「何かあったときに桃丸さんにまで迷惑がかかっちゃう」

 「城館に言いがかりをつけられるってこと?」

 桃丸は瞬きをした。そして穏やかに言う。

 「何もしなくてもわたしは城館にはにらまれてますよ。けれども城館はわたしには手を出せないから。あの人たちの命令では港は動かないからね。それより、美那」

 「はいっ?」

 美那は驚いて顔を上げた。

 「そんなに心配してくれるんだったら、おまえが牧野の取り立てに行ってきたらどうだ?」

 「わたしが?」

 「そうだよ。遠出だから剣術のたしなみがあったほうがいいと思うし、それに、元資さんの商売についてよくわかってるだろう?」

 「それはそうだけど……」

 「もっとも、一人で行ったのでは慣れないからたいへんだろうし、薫さんも心配なさるだろうから、こっちの隆文さんについていってもらえばいい」

 「それはいいですけど」

 隆文はいちおうおとなしく言って、「でも」とつづけかけた。だが、それより先に桃丸が
「それじゃ頼みました」
と話を決めてしまった。

 「で、美那はどうだ?」

 「うーん」

 美那はしばらく困った顔をしていたが、
「桃丸さんがそう言うなら行ってくるよ」

 「うん」

 桃丸は美那の黒い眼をまっすぐ見ながら頷いた。

 「牧野というのがどんなところか、見てくるといいよ」


 「いやあ、いいねえ」

 美那と隆文と元資が出て行ってから、平五郎が調子のはずれた声で言った。

 「何がいいんだ?」

 桃丸がからかうようにきく。

 「だから、桃丸さん、あの子をお嫁さんにすりゃあいいじゃないか」

 「美那のことか?」

 「そうだよ。そしたらさあ……」

 「うん?」

 「いや、そしたら一人で淋しくなんかなくなるし、子どももいっぱいできて、楽しいんじゃないかと思ってね」

 「ばか言うな。いまでも淋しくなんか思ってないよ」

 桃丸が返事する。

 「うちの旦那とおんなじようなことを言うんだね」

 平五郎がふしぎそうに言って顔を見返す。

 「旦那って(かく)さまのことか?」

 「そう。うちの旦那もそんなことを言って縁談があってもお断りになってるんだけど。唐人の商売仲間がふしぎがってるよ、こんないい人なのにって」

 「ほう」

 桃丸は唇を軽く閉じてから
「まあ、いろいろあったんじゃないかな、唐国に渡る前に。おれにはよくわからないけどね」
と言う。

 「うーん」

 平五郎は軽く首を傾げた。

 「旦那は天津に来るまでのことはあまりお話しにならないからな」

 「それよりな」

 平五郎の主人の話を打ち切り、急に真顔になって桃丸が言う。

 「千歳丸はいつになったら出せる?」

 「うん? すぐにでも出せるよ。もちろん例の荷物を安濃(あのう)社まで運んでからだけど」

 「じゃあ、船乗り衆には少しばかり町でのお楽しみの時間を短くしてもらわなくてはいけないかも知れない」

 「いいよいいよ」

 「それに、たしかおまえは卯月丸(うづきまる)のやつとも仲がよかったよな?」

 「うん……でも、それが何か?」

 「こんどはやつの手も借りなきゃいけないかもしれん。そのときはたのむよ。いくら何でも港の名主が海賊と直接に連絡を取るわけにはいかないからね」

 「あ、はいはい、大船に乗った気もちでいてください」

 平五郎は気軽に請け合った。

 「あの藤野屋のおかみにはわるいが、いくさはこれからたしかに起こる」

 桃丸のことばを平五郎は目を閉じて聞いた。そして、大きく伸びをして床の上に寝ころがった。

 「ぼくは知らないよ。でも、きれいな町だもん、できればそっとしておいてやりたいなぁ。あの子たちのためにもさ」

 「そんなことを言って、おまえ荷を持ってこないつもりじゃあるまいな?」

 平五郎はちょっと頭を起こして桃丸と目を合わせてからまた目を閉じる。

 「いや、商売は商売だよ。それにほかならぬおまえの頼みで、しかもうちの旦那も乗り気だ。安濃の宮司さまも認めてくれたわけだし。すっぽかすわけはないよ」

 桃丸は黙って灯を消し、縁ごしに外を見た。

 星がやさしい光でまたたきはじめていた。

 「きれいだねえ……夜空が闇だなんて、だれが言ったんだろうね」

 「さあな」

 桃丸はそう言うと、縁まで出て、一人、その夜空を仰いだ。


 その夜、美那から、隆文といっしょに牧野の村に借銭の取り立てに行くからしばらく家を空けさせてほしいと告げられて、薫は驚いた。

 「あなたが行くのですか?」

 「はい」

 美那はしおらしく答える。

 「とにかく人手が足りないって言うから、わたしでも行かないと」

 「それはわかりますけど」

 薫は珍しく言うことの歯切れがよくない。

 「でも、あなたが取り立てに行かないといけないのですか?」

 「……うん」

 美那はしばらくためらって見せてから頷いた。

 「急ぐ話なんだ。事情をよくわかってるひとが行かないとね。元資とか仲間の金貸し衆からも何人か出すそうだけど、玉井って言っても広いわけだから。いちどにお金を集めるには、あとは浅梨さまの弟子でなんとかするしかないんだよ」

 「それはわかるけど」

 薫はため息をついて、藁座の上に座り直す。

 「そうだとしても、あなたがわざわざ牧野郷に行くのですか?」

 「しかたがないよ」

 美那は少し()ね気味のことばを作った。

 「森沢と牧野は遠いから、ある程度は武芸を身につけたのが行かないと危ないってことだから」

 「だったらあなたでなくてもいいわけでしょう?」

 「それはそうだけど……決めたことだからさぁ」

 「桧山さまが行くようにおっしゃったんですか?」

 「うん……そうたけど」

 美那は目を落として言いにくそうに言ってから、うかがうように薫の顔を見る。

 薫は胸に大きく息を吸うと、もういちど、大きくため息をついた。それから顔を上げて美那のほうを見た。

 ほの暗い部屋の中でその顔を見た美那は息をのんだ。

 薫は白い顔に紅色の唇で自分のほうを見ている。両方の細い眉をまっすぐに伸ばし、その下から黒い瞳をまっすぐに美那のほうに向けている。その(りん)とした顔立ちは十も二十歳も若返ったように見えた。

 そうか。おかみさんって若いころ、こんなきれいな女の人だったんだ。

 いや、いまだって――。

 「あなたなら、借銭の取り立てに行ったことが、将来、(きず)にならないような生きかたができるでしょう。それが何かの足しになるかも知れません」

 薫は、一言ひとことを区切って、つづけた。

 「だから、村に行っても、理ばかりを通すのではなく、情に流されるのでもなく、自分の分をいつも忘れずに、何をどうすればいいか考えるのです」

 「はい」

 美那の答えもいつになく声に張りがあってていねいなものだった。薫はつづけた。

 「だいじょうぶですよ。あなたの家の人たちは、乱暴なようなひともいたけれど、でもみんな心の底は優しい人たちですよ。あなたもそうでしょう。だから、あなたが行ってよかったと言われるように、いちばんよい答えを見つけてくるのですよ」

 「はい」

 美那は頷いて、そして、薫に向かって自分からお辞儀をした。

 薫はそれを見て同じように頷き、まぶたを閉じた。そしてしばらくそのままでいた。

 床につく前に、美那は部屋の窓を開けて空を仰いだ。

 昨日までの夜の空には薄雲が広がっていた。星が(にじ)んでいた。でも今日は違った。

 昼の空と同じように、夜の空は底まで澄み渡り、その底の底から照らしてくる星の一つひとつの光までさやかにさえ渡っていた。

― つづく ―