夢の城

清瀬 六朗


桜の里(一)

 川はさらさらと澄んだ音を立てて流れていた。

 空はまた曇りはじめていた。綾のように組み織られている波に、薄雲を通して射す日が柔らかく映っている。その映っている下は小さい丸石を敷き詰めた河床で、ときどき黒い鯉が競うように上へ向かって泳いでいるのが見えた。

 川は都堰(みやこぜき)からしばらく岩のあいだを縫うように流れ下った。岩のあいだで淀んだと思うと、堰のようになったところからあふれ出し、細い流れを短い滝のように流れ下るところもあった。(のみ)で岩を穿(うが)った跡がまだわかるところも残っている。道はその川の岸に沿って何度も曲がりくねった。

 岩がちの道を抜けたところで、両側の森もふいに終わり、川は両側の高い堤のあいだを緩やかに曲がりながら流れていく。川底よりも堤の下の荒れ地がよほど遠く低く見える。

 鍋屋の隆文(たかふみ)と藤野の美那、それに銭屋の元資の店で働くおさわの三人はその堤の上の道を牧野郷に向かって歩いている。

 最初は隆文と美那だけで行くことになっていたが、この二人は二人とも銭勘定にはまるで慣れていない。それでさわをつけてくれた。

 もちろんそれは表向きの理由だと美那はわかっている。隆文と美那は二人とももとから気が強いうえに、隆文はいまの浅梨屋敷の弟子のなかでは一番弟子、美那はただ一人の女弟子ということで何かと意地を張り合う。それでは抑え役に回る者がいなくて危なくてしようがない。でも、さわは武芸を身につけていないから、さわがいっしょならば、隆文も美那もさわの身を考えなければならないからむちゃはしないだろう。元資はそんなことを考えてわざわざさわをいっしょに行かせたのだ。

 美那は少しおもしろくない。

 ただ、このさわという娘がどんな子なのか知りたいとは思う。

 さわは、さとやみやといっしょに橋桁を落として美那を溝にはめた張本人の一人だ。でも、あざみの友だちという以上は「悪い子」ではないのだろう。それに、あのときの三人のなかでいちばん目立ちそうになかったさわという子がどんな子か知りたいとも思っていた。

 先頭を歩く隆文が振り向いてたずねた。

 「美那は玉井の生まれだったな」

 「そうだよ」

 隆文といったら、借銭の取り立てに来たというのに、物見遊山に来たような浮かれた様子で、急ぐでもなく、左右に大きくぺたぺた足を踏み出しながらのんびり歩いている。たぶん足もとの難しい道を通り過ぎたので話がしたくなったのだろう。もともとおしゃべりな男だ。

 「じゃあ、さわちゃんはどうだ? やっぱり三郡の生まれか?」

 「え、三郡のうちだけど」

 さわは、恥ずかしいのか、もともとそういう癖があるのか、眉のあたりを曇らせたまま斜め下を向いて、あまりはっきり聞き取れない声で答える。

 いや、もともとということはないはずだ。藤野屋と駒鳥屋の裏庭でさとやみやといっしょに洗い物をしていたときには、跳び上がるように笑って、跳び上がるような声でしゃべっていた。

 「でも、玉井じゃなくて、……巣山の生まれ。玉井に出てきたのは去年の冬」

 出てきてからまだ半年も経っていない。美那があんまりなじみがなくてもあたりまえだったわけだ。ただでさえ美那は市場の娘たちとはあまり顔を合わせる機会がない。

 隆文がつづける。

 「そうかそうか。じゃあ、これから行く牧野って村のこともあんまり知らないわけだな」

 「そう。名まえをきいたことがあるだけで」

 「うーん。じゃ、このおれが話してきかせよう」

 「うん」

 隆文の言うのは押しつけがましく、しかも何か芝居がかっていたが、さわは従順にうなずく。

 「この牧野と牧野の先の森沢とはもともと何も穫れない土地だった。うん、米はもちろん、麦も稗も満足には穫れなかったっていうな。どうしてかというと、牧野は土地が乾いていて水が足りない、森沢は逆に土地が低くて水が捌けないということだった」

 「はい」

 「それを先の牧野と森沢の殿様、治部大輔(じぶのたいゆう)興治(おきはる)さまが、玉井川の水を都堰でお堰き止めになり、そこからこの分水を作られたのだ。牧野と森沢の両郷の村人総出で、それに玉井の町やほかの郷からも応援が出て、鑿をふるい(もっこ)を担いでの大仕事だったそうだ。でも、そのおかげでな、牧野の村は水に恵まれて米も穫れるようになり、森沢はこの川に水を落とすことで水はけがよくなってやっぱり米がよく稔るようになった。どうだ、治部大輔さまというのは偉い殿様だろう」

 「はい」

 隆文は調子に乗っている。

 「ところが、あの定範のやつが三郡守護代の地位を奪ったときに、治部大輔さまは征伐に立ち上がられ、無念にも定範のやつに討たれて殺されてしまわれた。それ以来、定範一党はこの牧野郷を何かと目の敵にしている。な? ひどい話だろう? 悪いのは守護代の地位を奪った定範のほうだというのに、定範のやつは牧野と森沢の村を救われた大功ある治部大輔さまを殺してしまった。治部大輔さまだけではなく、年端もゆかぬ若君まで殺してしまったのだぞ」

 「やめようよその話は」

 美那が強い声で割って入った。

 「うん?」

 話の腰を強引に折られて隆文は不服そうだ。

 「どうしてだ? おれは巣山から出てきたばかりのさわにこの牧野郷の由来を話してるんだぞ?」

 「だからさ」

 美那はもういちど強く言う。

 「わたしたち、その牧野郷に借銭の取り立てに行くんだよ? その越後守さまの」

 守護代の殿さまを呼び捨てにしないように気をつける。

 「ご政道のせいで牧野郷が困っているとしたらさ、その困ってる牧野郷から借銭を取り立てようってわたしたちだって悪いやつらってことになってしまうじゃないか」

 「それはしかたあるまい」

 隆文が言い返したが、調子はさっきよりずっと低い。

 「玉井の金貸し衆の仕事にその定範の一党がけちをつけようとしてるんだ。ここは村人にも力を貸してもらわなければなるまい」

 いちおう美那の言ったことを気にしてはいるらしい。

 「それで村人が説得できればいいんだけどねぇ。金取り立てに行って味方だよって言って納得してくれるかどうかだよね」

 「なんだなんだ美那!」

 隆文は苛立つ。

 「最初からそんなに気が萎えているようじゃやり遂げられる仕事もやり遂げられんぞ。だいたいいつもの相手がだれだろうが馬だろうが猛々しく突きかかっていく意気はどうした?」

 「意気はあるよ」

 美那も気色ばんだ声で言う。

 「でも、治部大輔さまのことを言い出されるとその意気が挫けるじゃないか。だから言ってるんだよ」

 それに馬に突きかかっていった覚えはない。一方的に振り落とされているだけだ。

 「それとこれとは関係ないだろう。気にしすぎなんだよおまえは」

 「うわあっ!」

 さわが急に声を立てて立ち止まったので、二人だけで議論に熱中していた隆文と美那は驚いて振り向いた。

 「なに?」

 「どうした?」

 「あれ」

 さわは立ち止まって、すっとまっすぐに右手を伸ばして遠くを指した。

 「何?」

 「何だ? 何か出たか!」

 隆文は刀の柄を握っている。

 でも、さわが指さすほうには荒れ地がずっと広がっているだけだ。その荒れ地のところどころにぽつんとまっすぐな高い木が立っている。(まき)の木だ。

 だからこの一帯を槙野といい、村が開かれたときに牧野と名を改めていまにいたっているという。

 その荒れ地の向こうには、雪消(ゆきげ)山が、下半分を霞のなかに沈めたまま、穏やかにこちらを見下ろしていた。

 さわが指さしているのはその雪消山のほうだ。

 「ほら、きれい」

 「え?」

 美那はさわが指さしているほうを見ているが、何を「きれい」と言っているのかわからない。

 「どれ?」

 「ほら」

 さわは説明しなさそうなので、美那はさわの横に顔をくっつけて、その指の先にあるものを見定めようとした。

 しばらく黙ってそちらを見ている。そのあいだ、さわも同じほうに手を挙げつづけていた。

 「あ、ほんとだ」

 美那はほっと息をついた。

 雪消山の中腹あたりに、何かぼんやりと粉紅をまぶしたような色が散っている。たぶんこれのことを言っているのだろう。

 「早咲きの山桜だね」

 美那はもう安濃(あのう)社から見てその花が咲き始めているのを知っていた。

 「うん」

 さわは小さく頷いて小さい声で言う。

 「あれは花が一重しか咲かないし、花の色も薄いし、それにすぐに散ってしまうんだけど、どう、雲がかかってるみたいでしょ?」

 「うん、そうだね」

 美那もその早咲きの山桜のほうに目を凝らした。

 「わたしの村にはあれが何本もあったの。でも、去年の夏、じめじめしてたでしょ? そのときに毛虫がいっぱいついてみんな枯れてしまったの。木の質も弱いみたいで」

 「ふぅん」

 「さ、行きましょ」

 言うことだけ言うと、さわはさっと手を下ろしてさっさと歩き出した。美那と隆文があとを追いかける。

 気が弱いか引っ込み思案かと思っていたけれども、もしかするとそうでもなく、自分の調子をはっきりと持っている娘なのかも知れないと美那は思う。

 だから、さわは隆文の言うことなんか最初からきいていなかっただろうか?

 それだったらよかったと思う。

 美那が隆文の話に割って入った理由は別にある。ほんとうはさわが巣山の出だと聞いて牧野の乱にかかわる話は避けたほうがいいと思ったのだ。

 牧野の乱を征伐したは巣山の殿さまだ。柴山兵部少輔(ひょうぶのしょうゆう)康豊(やすとよ)である。

 春野越後守定範はといえば、牧野党と港の桧山勢に攻められたときに手も足も出なかった。おろおろするだけで手勢を動かすことなどとてもできなかったという話だ。そこに康豊が兵を出した。康豊の兵が牧野党と桧山勢を倒し、その危地を救い、逆に牧野・桧山の一党を打ち破ったのだ。康豊はその勢いで牧野郷に火をかけて村人をみな殺しにしてしまおうとしたのを、小森式部大夫(しきぶだゆう)健嘉(たけよし)がかろうじて止めたと伝えられている。ほんとうかどうか美那は知らないが、ともかく、それ以来、巣山の代官と牧野郷の村人たちとは敵どうしの間柄だ。

 しかも、その柴山康豊という年若い殿様は、巣山郡の人たちみんなに慕われているわけではない。

 康豊は定範以上に酷薄な殿様だからだ。

 もともと巣山郡の代官は康豊の兄の勝豊(かつとよ)が務めていた。温厚で仁慈に満ちた殿様だったという。しかし、この勝豊は、狩りに出たとき、家臣が放った矢に(あやま)って(あた)り、命を落としてしまった。そこで年端もいかぬ若君の康豊がその地位を継いだ。

 このとき、兄が死んだことに責任があるとして康豊は何人もの家臣を殺しているし、その後も何かと理由をつけて一郷の名主並みの家臣を何人も殺している。康豊とその取り巻きが謀って兄を殺したのではないかという噂も根強い。だから康豊を嫌っている巣山郡の人は多い。

 しかし、もちろん、そういう騒動に関係のなかった人にとっては、康豊は郡を領する殿様だから、康豊を悪く言われて気もちのいいはずがない。

 もしさわが康豊を慕っているとすれば、牧野はその敵の治めていた村ということになるし、逆に康豊を嫌っているならば牧野の乱の話はその康豊を思い起こさせることになる。

 どちらにしても、巣山から来た娘にはあまりしないほうがいい話には違いなかった。

 さわはいまの桜の話で元気づいたのか、ずっと先頭を歩いている。隆文は黙ってその後ろについて歩く。得意の話の腰を美那に折られた上、さわの叫び声に刀の柄まで押さえてみれば雪消山の桜の話で刀の持っていきどころがなくなったのかも知れない。


 川はあいかわらず荒れもせず静まりもせずさらさらと音を立てて敷石の河床を流れていく。一行の歩いている道は川の東側の岸だ。美那は雪消山とは反対の右岸のほうを振り向いた。

 荒れ地は玉井の町まで遠く平らにつづいている。そのなかに椀を伏せたようなかたちの山が黒く大きく盛り上がっているのが目にとまる。安濃の社の森だ。

 その安濃の森の陰に隠れ、寄り添うように、影薄く見えている丘がもう一つある。ここから見るとその高さは安濃の森の半分もないように見えた。そのいちばん高いところで、(かしわ)の木の茂るなかから小さく角張った瓦の屋根が突き出ている。

 城館の主楼――守護代の居館のいちばん上の層だ。

 安濃の森の陰に隠れた小さな森の上にそんなものが見えるのはどうにも場違いに見えた。

 越後守定範は、この牧野郷から城館がこんなふうに見えるのを感じているのかも知れない。町の側からは安濃の社が城館の陰に隠れるけれども、この牧野の野原からは逆に城館の森が安濃の森の下に見え、しかも城館の主楼がその上に小さく載っているだけなのがわかってしまう。城館は玉井の町を見下ろす場所にあり、その玉井の町が三郡の要の場所にあることで、城館の居人は玉井三郡のいちばん高みにあると感じることができる。ここから見るとその感じがうぬぼれに過ぎない嘘だということがあからさまになってしまう。

 定範はそれががまんならなかったのかも知れない。

 ――そう考えて美那は驚いた。自分がそう考えたことにだ。

 美那が市場に来てからというもの、越後守定範といういまの守護代の気もちなんかいちども考えたことがなかった。それをふと考えてしまったのは、安濃社で偶然とはいえ定範と直接に顔を合わせたから、そして、その定範から菫の花の話なんか聞いたからかも知れない。

 「おぅい」

 声をかけられて、美那はもの思いからわれに返った。

 「ん?」

 隆文が顔を上げて声のほうを向く。

 道の左側には、さっきまでの荒れ地と違って田圃が広がっていた。川から()を通して分水が分かれ、ずっと東のほうに弧を描いて流れ去っている。その分水を境にして山に近いほうは荒れ地のままだ。

 その反対側に扇形にずっと田が広がっている。

 男が三人、隆文と美那とさわのほうを向いていた。牛を使って田を起こしていたらしい。

 「おぅい、どこ行くんだ? こっちは町に行く道じゃないぞ」

 言ったのは牛の後ろで鋤を踏んでいる男だ。別の一人は牛の首のところにいて皺の刻まれた難しい顔でこちらを見ている。あと一人は、牛のこちら側で鍬を地面にまっすぐに立て、その上で両手を組んで、何かが抜けたような笑い顔でこちらを見上げている。土とほこりで汚れてはいるが、顔の地肌は白い。

 「牧野郷まであとどれぐらいだ?」

 隆文が声を張り上げてきく。この男はふだんは濁った声でぼそぼそしゃべるのに、こうやって大きい声で遠くに届かせようとするとなぜだか美しい声を出す。

 「あんたら牧野郷へ行くのかい?」

 相手も聞き返してきた。牛の首のところにいた男が少し目をむいてからゆっくりとうつむきながら目をそらす。白い顔の男はこちらをぽかんと口を開いたまま見上げている。

 「そうだ」

 「牧野なんかになんの用だぁ?」

 「うーん?」

 「牧野なんかになんの用だって!」

 「なーに、ちょっと用があってな、人を訪ねるところだ」

 「牧野には二つ村がある。川上と川中だが、用があるのはどっちだ?」

 「両方だ。まず川上を訪ねるつもりだ」

 「だったらそっちの森のすぐ向こうだ。関所があるけどだれもいないから通り抜けられるぞ」

 「おーぅ」

 「教えてくれてありがとうっ!」

 最後のひとことは美那がつけ加えた。相手の男は大きく手を上げて答え、それから仲間を促して田を起こす作業に戻った。

 ただ、牛の首のところにいた男は、あまり乗り気でなさそうな牛の(くびき)を押して牛を進ませながら、ずっと一行のほうに目を向けていた。皺の刻まれた顔の奥で、その小さい目は小さな光を失わず、自分たちのほうを追い続けているように美那には思えた。

 「気をつけろよ」

 隆文がうって変わって抑えた声で美那とみやに言う。

 「やつらは借銭を返さないためにはどんな手でも使ってくるはずだからな」

 「覚悟はしてるよ」

 美那は口許を弛めた。もしかすると隆文がことをかんたんに考えすぎているのではないかと思っていたが、そうでもなかったようだ。

 さわのほうはどう思っているのだろう。道は言われたとおりに森に入った。


 森というほどではないが、木立ちがつづき、木立ちの下にはまだ(わか)い色の草がそこここに芽ぶいていた。木立ちの上のほうが暗くて地面に近いほうがまぶしく見える。道は平らだったし、踏み固められたところだけ草が生えていなかったから行くのは少しも難しくなかった。

 どこが関所かは前を通るまでわからなかった。道に面していない三方を木塀で囲われた小さな場所があって、なかに小さな(ほこら)(まつ)ってある。祠の脇に土を搗き固めたところが空いている。それだけだ。木塀だってだいぶ汚れていて、回りの木立ちの幹の色と区別がつかない。先に関所だと言われていたから関だとわかったので、何も言われていなければただの祠だと思って通り過ぎていただろう。

 先頭を行くさわがそのまま通り過ぎたので、つづく美那と隆文も黙って通り過ぎようとした。

 「あ痛っ……」

 美那が声を立てた。でも顔の前を右手の甲ですばやく払ったのはさすがに浅梨(あさり)左兵衛尉(さひょうえのじょう)の弟子だ。つづいてもう一つ。でもこんどは余裕を持って跳びのいた。右手で脇差(わきざし)に手をやる。

 「どうしたの」

 前を行くさわが足を止めて振り向く。さわには美那が足を止めて何をやっているかわからなかったのだろう。

 少し離れて後ろにいた隆文は、脇差にも手をやらず、両足と両手を広げ気味にして様子をうかがっている。

 美那はさわの問いに答えずに、わざとゆっくりと頭を上げた。

 頭の上の槲の木の葉陰に何ものかが潜んでいた。

 獣でも(とり)でもない。

 藁のような色のまだらの衣が垂れているのが葉の陰に見えている。

 美那がすり足で体をずらし、枝葉のすき間を覗きこんだ。木の上の相手も身をそらして美那から見すかされないようにしたようだが、木の上のことで身動きが取りづらい。

 忍びの者かとも(うたぐ)ったけれど、動きがぎこちない。物の()のたぐいにしては生気がありすぎる。

 「あ?」

 そこで下向いている美那のほうを見ているのは女の子だった。まん丸い顔をしている。前髪もぜんぶ頭の上に結わえ、頭の真上のすぐ後ろで縛って後ろに垂らしているらしい。裾のほうは藁のような色になっている着物も、襟のすぐ下はまだ紅色が残っている。

 女の子は両足を揃えて太い枝の上に(しゃが)み、左手で枝をつかみ、右手を顔の横に挙げている。石を投げつけようとして美那に見破られ、身動きが取れないままになっているのだろう。

 女の子はその顔をまっすぐに美那に見られて、口を固く結び、逆に美那のほうを首を小さく動かしながら見ていた。美那は表情を変えない。それを見て、木の上の女の子はにっと笑った。

 小賢(こざか)しそうな、でもかわいげのある笑い顔だ。美那は脇差の柄に手を置いたまま見上げている。

 「(まり)っ! 逃げろっ!」

 関所の木塀の後ろのほうから潜めた声が聞こえた。男の子だ。

 隆文がそちらのほうに目を移すと、木塀から半身を乗り出していた男の子は隠れようとびくっと体を動かした。でもそのまま動きを止めてしまう。

 菜っぱを煮た煮汁のような色の着物を着たやせっぽちで顔の長い男の子だ。女の子が紅い頬をしているのに較べるからかも知れないが、どうにも顔色がよくない。

 木の上の女の子は小さく舌打ちをする。舌打ちをきいて美那が気を緩めた瞬間、女の子の姿はふいに消えた。枝葉が揺れている。枝を伝って逃げたらしい。すばやい。

 「あ、待てこらっ!」

 隆文が足を踏み出した。その声に答えるように、槲の木の太い幹のすぐ横の葉の群がりが揺れた。その葉の群がりがばさっと開いて、上からさっきの女の子が下りてくる。

 「あらまあ」

 一人のんきな声を立てたのはさわだ。

 さわはあごの前に小さく手を組んでとつぜん現れた女の子と美那と隆文とを見ている。

 「逃げやしないって。ほら、葛太(かつた)(まゆ)も出ておいで」

 女の子は木塀のほうを向いて声をかけた。木塀の端にはもうさっきの男の子の姿はない。けれどもそこを立ち去っていない様子はうかがえた。たぶん塀に隠れて息を潜めているつもりなのだろう。

 姿を隠せると思っているのだろうか。

 丸顔の女の子はもういちど木塀のほうに叱りつけるように言った。

 「ほら、出てくるんだよ! べつに悪いことやってるわけじゃないんだし」

 そう言って丸顔の子はすかさず背をそらし気味にして美那の顔を見上げる。美那もそれに合わせるようにその子の眉のあいだあたりを見下ろした。

 木塀の後ろからたらたらと小走りに二人の子が出てきた。一人はさっき塀から顔を覗かせていた男の子で、これは美那の前に立っている女の子とたいして変わらない年ごろだ。もう一人、その男の子に少し遅れてついてきた女の子はずっと小さい。背丈も最初の子の胸あたりまでしかない。

 で、その最初の女の子が美那の胸あたりまでの背丈だ。

 あとから出てきた二人は、最初の女の子の斜め後ろに落ち着かなさそうな感じで立っている。

 「刀から手を放して」

 女の子がせいいっぱい胸を張って美那に言った。

 「じゃその石放しなよ」

 美那が言い返す。

 女の子はすばやく自分の右手に目をやってから、美那のほうに目を戻し、息を詰めて手を開いた。

 石が踏み固められた土の上に落ちてとっと音を立てる。あの志穂が投げるような大きな石ではなく、親指の先ぐらいの小さな(こいし)だ。それでも当てられたら相当に痛いだろう。

 美那もだまって脇差から手を放した。そのまま二人はにらみ合う。

 「どういうつもり?」

 美那が息を溜めたままおもむろに言った。

 「石をぶつけておいて、悪いことはやってないなんて」

 「よそから来ておいて祠のまえ素通りしたでしょ。ここほんとは関所なんだから。だまって通っていいところじゃないんだから」

 「そんなの」

 美那はことばに詰まりかける。

 「だってだれもいないってことは通り抜けていいってことでしょ? 村の入り口のところでちゃんと大人の人に確かめたんだからね」

 「ねぇねぇ」

 女の子の後ろに立って様子を見ていたさわが潜めぎみの声で声をかけた。女の子はあいかわらず胸をそり返らせたままさわのほうを見もしない。

 「何?」

 「あの人、通り抜けられるって言っただけ。通り抜けていいって言ってない」

 「はぁ……」

 さわはこの場の張りつめた感じをまるでわかってないのか、およそ人がよさそうに笑って成り行きを見ている。

 美那は力が抜けた。

 「ほら見なさい」

 女の子が勝ち誇ったように言う。

 「うるさいっ!」

 美那が叱りつける。しかし叱ったとたんに美那は笑いそうになった。慌てて抑えなかったらそのまま笑っていたところだった。

 べつにその女の子の勝ち誇った様子が滑稽だったというわけではない。女の子が勝ち誇っているのをきいて、後ろの男の子とがはっきりした黒い眉をしかめて体を少しだけ斜に向け、逃げそうなかっこうをしたのがおかしかったのだ。

 女の子が勝手に突っ走るのが抑えきれなくて、後ろでびくびくしている男というのが、どうにも情けないし、そんな様子は……。

 そこまで思って、美那は自分の斜め後ろにも男が控えていたことを思い出した。女の子から目をそらしてその男のほうに流し目で目を向ける。

 隆文は最初に身構えたとおりのかっこうで立って、笑いもせず、少し顔をしかめ気味にして美那と女の子の向かい合いを見ていた。

 「なんだい、隆文のやつ」

 女を正面に立たせて自分は後ろから見物とは。

 だが、美那と目を合わせてしばらくして、隆文はいきなり肩を落とした。そして
「……っはっはっは、えっはっはっはっは! うぇっはっはっはっはっ!」
と、最初は低く、しかしすぐに高い声で笑い始めた。笑ったまま、大股に、しかも腕を胸のまえあたりで軽く組んだまま歩いてくる。

 女の子はその隆文を見て唇を咬んだ。この子はさっき石を捨てたけれども、(たもと)にはたぶんまだ石を隠している。自分を笑った隆文に石を投げたりするとかえって話がややこしくなりそうだと美那は思う。

 笑っていた隆文は、ふと美那のほうを向いて顎をしゃくった。

 「どうやらおまえの負けみたいだな、美那。この子の言うことのほうが筋が通ってる」

 美那は腹の底が熱くなるのを感じた。隆文だって素通りしたくせに!

 それに、素通りしたからといって、子どもが大人に石をぶつけていいということにはならない。

 いや、子どもだ大人だということに関係なく、石をぶつけていいということにはならない。

 美那は隆文に気を取られていたので、その隆文の声を聞いたときに、女の子と男の子、それに小さい女の子までが背をびくっと伸ばしたのにすこしも気づかなかった。

 「お参りしていきましょ」

 美那と隆文が動かないのには何のかかわりもないように、さわは女の子の後ろから小股で細かく腰をひねりながら歩いてきた。関所の祠に逆戻りする。

 「そうだな。そうするのがいいだろうな」

 隆文もつづく。美那は小さく舌打ちして女の子の前から身を翻し、祠まで戻った。

 女の子に見守られながら三人は頭を下げる。

 「銭もちゃんと供えていってよ」

 女の子が声をかける。だが美那はおやっと思った。

 さっきまでの勢いがない。

 「いくら供えればいいの?」

 さわが女の子のほうに顔を向けて笑顔できく。お人好し、と美那は思う。

 「好きなだけでいいよ」

 「ふん」

 隆文は鼻から勢いよくそう言うと、袂から銭を出して頭のまえにかざし、祠に差し出す。そのとき、男の子がいきなり口を挟んだ。

 「(びた)銭じゃないだろうな」

 隆文は怒るでもなく、顔を真横に向けて子ども三人(みつたり)を肩越しに見ると、自分の手に持っている銭をもういちど掲げて見せ、髭の下からへっへっと野卑な笑い声を立てた。

 女の子がびくっとしたのがわかる。あの子この隆文みたいな野人らしいしぐさが怖いんだと美那は思う。

 隆文は宣和(せんな)銭を一文供えて手を拍った。それにつづいて美那とさわも同じように手を拍つ。

 「さ、もう通ってもいいのね?」

 身構えかけた女の子に、美那が涼しい声で言って横を通り過ぎようとした。

 「ああ……通ってもいいけどさぁ」

 女の子はちょっとだけ口ごもった。

 美那が足を止める。

 「あんたたち、玉井の町から借銭取り立てに来たんだろ?」

 「えっ?」

 美那は驚いて目を見張り、それでまたにらみ合いになる。

 たしかに女の子にはさっきほどの勢いがない。

 美那は迷った。認めていいものかどうか。

 けれども、もう知られているとしたら、嘘はつかないほうがいい。

 「そうだけど、なんで知ってるの?」

 「村の大人はみんな言ってるよ、町の銭貸しが必ず取り立てに来るって」

 「そう」

 なんでもないことのように美那は受け答えした。

 「で?」

 「で、って何?」

 「返してくれるつもりなの、それとも返さないって相談してるの?」

 後ろで隆文が渋い顔をしたのだが美那は見ていない。

 「そんなことまでわかるもんか、わたしたち子どもだし、それに」

 「そぅ」

 美那は女の子の口ごもったのは相手にしないで歩き出そうとした。ところが隆文が
「あっ」
と声を立てて後ろを向いた。

 「どうしたの、隆文?」

 「いや、一人分しか関銭払ってなかったもんでな。三人で通るのに一人分ってわけには行くまい?」

 隆文はくるんと後ろを向いてもういちど祠に戻り、祠に銭を載せた。

 同じく宣和銭を四枚、合わせて五枚。

 一人一文だとしてもこれじゃ五人ぶんだ。勘定は合わない。

 「ちょっと何……」

 美那が文句をつけようとするのに隆文は取り合わず、美那の横をすり抜け、とろんとろんと歩いていく。その後ろにさわが続き、さわは女の子たちに愛嬌を見せて笑って通り過ぎる。

 ああおさわちゃんって笑うとえくぼができるんだと美那はふと思う。

 「それじゃね」

 美那は何か心を残したような感じのまま隆文について行こうとした。

 「おい」

 女の子がその美那を呼び止めた。

 「なに?」

 「……」

 女の子はもういちど迷っているように見える。美那は待つことにした。

 隆文とさわも足を止めて美那と女の子のほうを振り返っている。

 「……気ぃ、つけなさいよね。大人たち、払わないつもりだから。そういう相談、してるから」

 美那はそっと女の子から目を離す。

 「うん。ありがとう、教えてくれて」

 「それから!」

 女の子は美那を押し止めるようにことばを継いだ。

 「何? まだ何かあるの?」

 「……姉ちゃん、名まえ、美那って言うのか?」

 美那はびくんとした。

 考えてみれば隆文が自分を美那と呼んだから、この子もそれを耳にしていたはずだ。

 けれども、どうしてそれが心に残ったのか?

 「うん、そうだけど」

 いずれにしても、嘘をつく必要はないと思う。嘘をつくとあとあとまでその嘘に縛られる。だから必要のない嘘をつけば自分が困るばかりだ。おかみさんに何度も何度も意見されてきたことだった。

 「……村であんまり言わないほうがいいと思う、その名まえ」

 「うん」

 美那はうんざりしたように言った。

 「必要がなければ言わないけど……でも、どうして?」

 「知らない。でも、美那って名まえの女のひとのこと、なんでかとっても怖がるんだ、大人の人たち」

 女の子は胸のまえに手のひらを組んで、何か必死そうだった。

 その様子に美那は笑顔を浮かべ、笑顔をその女の子に向けた。

 「だいじょうぶだよ、必要がないのに言ったりしないから。それじゃ」

 美那は、隆文とさわにつづいて、その女の子に背を向けて歩き出した。

 後ろで声がする。

 「なんで言ったんだよ? 言ったらだめじゃないか」

 男の子の声だ。相手にしゃべらせることもなくまくし立てている。

 「だいたい毬は口が軽いんだよ。これで何か都合の悪いことが起こったら毬のせいだからな」

 ああ、そうなんだ、と美那は苦笑いした。

 「あの毬って子も苦労しそうだね」

 美那は少し心が軽くなったように感じて、隆文とさわに追いついて言った。

 「何が苦労しそうだね、だ」

 隆文は疲れたような声で答える。

 「おれたちだって苦労するさ。餓鬼を相手にぺらぺらしゃべりやがって。これでうまくいかなかったらおまえのせいだからな」

 で、肩越しにおもむろに美那のほうを振り向いてにっと笑ってみせる。

 「はぁ……」

 毬ちゃんだけの苦労じゃなかったか。

 そう思って、美那は少し歩調を緩め、隆文とのあいだを空けた。

 牧野郷の川上村に抜ける道は明るい森のなかをほとんどまっすぐに通っていた。

― つづく ―