夢の城

清瀬 六朗


桜の里(二)

― 上 ―

 牧野への川へ水を分けている都堰(みやこぜき)のほとりに中原の村が広がっている。

 この村が玉井の町の北西に広がる中原郷の中心だ。しかし、玉井から巣山へつづく街道はこの中原郷のなかをほんの少ししか通っておらず、宿場は一つもない。田畑が開けているのは中原村だけで、ほかの村は山のなかだ。いや、いちばん開けている中原村にしたって村の領分の半分以上が山だ。町のすぐ近くなのに山がちの貧しいところなのだ。

 その中原村の山を少し入ったところで村の者たちがせっせと働いている。冬に植えた麦の畑の草取りに励んでいるのだ。

 長野雅一郎(まさいちろう)(なら)の木の根本にどんと腰を下ろし、竹筒をとり上げて勢いよく(あお)った。で、同じように勢いよく咳きこみ、いま口に含んだばかりのものを撒き散らす。

 「ぶぐはっ! かぁっ! ぷっ! ちっ! くそっ、たみのやつ水を入れやがったな」

 大声を出したつもりはないのに、畑を(こしらえ)えている小者のうち何人かがぱっと雅一郎のほうに目をやる。で、口を歪めている雅一郎を見てあわてて目をそらし、何ごともなかったように地面に目をやる。

 それがまた雅一郎の気に入らない。

 「何をやってやがるっ!」

 雅一郎は腰を下ろして足を投げ出したままどなった。

 「よそ見してる暇があったら、仕事に気ぃ入れろ! 年貢の前借り分と利息とぉ、しっかり働いて取り返さにゃならんのだからなっ!」

 小者どもは口答えしない。口答えしないで、畑の草取りをけんめいにやっている。いや、やっているふりをする。

 それがまた雅一郎にはおもしろくない。

 「おまえらっ……」

 言いかけて雅一郎は声をのんだ。また何か言っても聞こえぬ振りをされるだけだ。

 かわりに雅一郎は竹筒を土にぶつけた。勢いをつけたので土にめりこむと思っていたのだろう。ところが、ぶつけたところがちょうど太い木の根にあたっていて、竹筒は跳ね返ってきた。竹筒が手からこぼれ、水がとっとっと流れ出る。手には(しび)れが残った。

 「くそっ」

 雅一郎はわざわざ竹筒を拾うと、こんどは離れたところめがけて投げつけた。こんどは竹筒は跳ね返りもせずに転がり、笹の中に姿を隠す。そのいちいちが雅一郎に嫌がらせをしているように感じた。

 雅一郎は足を大きく開いたまま背を伸ばして後ろに寝そべる。そして
「はあっ」
とのどを鳴らした。

 今年は春から何か(うん)の運びがよくない。いら立ち腹が立っていて、眠れそうにはなかったけれども、雅一郎は強いて目を閉じた。

 だが、その眠りはほんの少しのあいだしかつづかなかった。

 頬を何かざらざらするものでさすられたと思うと、急に乱暴に頬を押しつけられ、首を(ねじ)られた。おかげで頬ばかりでなく首の後ろまで痛い。何か目が回ったような感じだ。

 「いてっ……何者だっ!」

 雅一郎はひと転がりしてから上半身を起こし、脇差(わきざし)に手をやろうとした。だがあいにく脇差をつけていない。何日かまえに(しち)に出してしまったのを思い出した。しかたがないので相手をにらみつける。

 「たっ……たみ……」

 ところがそこにいたのが自分の妻だったもので、雅一郎は急に意気を失った。

 「なんだい、みんな働いてくれてるのに、あんただけこんなところで……」

 妻のたみはべつに怒るでもなくたんたんと言う。

 「なんだ。順番だよ順番。順番に休んでんだ。文句言うんじゃない」

 声がひっくんひっくんときどき弱くなる。小者どもに聞こえるが怖いのだ。そんなのだから嘘が見抜かれる。

 「それよりおまえ……」

 言ったところで勢いが止まる。たみは笑った。

 「ああ、筒に水を入れたって怒るんだろ。酒なんか飲まれてたまるものか」

 「そんなこと言ってんじゃない、入ってた酒はどうした?」

 「捨てたよ。あたりまえじゃないか」

 「捨てただとお?」

 雅一郎は勢いよくむくっと立ち上がった。妻に頭突きでもしそうに頭をまえに(かし)げている。

 「あれは正月に安濃(あのう)様の本宮(ほんみや)様からもらってきたありがたい御神酒(おみき)だぞ。それを捨てるなんてなんて罰当たりなことをしやがるんだ!」

 「そんなありがたいお酒はとっくの昔になくなってるよ」

 たみも言い返す。

 「それに、春早々にその安濃様に仕える榎谷(えのきだに)の娘に手を出して名主(なぬし)様を困らせたのはどこのどいつだ。おかげで今年はうちがここのご公田(こうでん)の番を任された。罰当たりってあんたのことを言うんだよ」

 「またその話か」

 雅一郎は妻のそのひとことでずいぶんことばが暗くなる。

 「あれは……」

 「どっちでもいいんだ」

 たみはきくつもりが最初からないようだ。それはそうだ。何度もこのことでは言い争ったんだから。

 「それより、その名主様がお呼びだよ」

 「いっ?」

 「急いでくれっていわれてるんだからさっさとしな!」

 雅一郎は跳ね上がった。そして着物の裾をたくし上げたまま走り出した。畑から伸びる細い山道を弛んだ(もも)の肉を揺さぶりながら思いきりの大股でかけ下っていく。

 「草の刈り株踏んづけるんじゃないよっ」

 「ばかっ! そういうことは早く言わないかっ! 痛っ!」

 最後の「痛っ!」というのが、転んだのか、それともたみの注意したとおりに草の刈り株を踏みつけたのかはもうわからない。ついでに、「そういうこと」というのも、名主が急いでくれと言っていることなのか、それとも草の刈り株を踏むなということなのかもわからない。

 たみは大きく息をつくと、持ってきた(たらい)を下ろした。ぱちぱちぱちと手をたたく。

 「みんなっ! 手を休めてこっちおいで!」

 小者たちは、さっきまで雅一郎を見ていたのとはまったく違った目でたみのほうを振り向く。

 「疲れただろ? ほんのちょっとだけど、餅を作ってきたから、腹の虫押さえに食ってくれや」

 それまで草取りに懸命になっていた――少なくとも懸命なふりをしていた小者たちは、勢いよく立ち上がってそのたみのところに集まってきた。


 名主のところまではしばらくかかった。道は村に近づくにつれて狭くなり、曲がりくねり、そのうちになくなってしまう。

 「くそっ! なんでこんな通りにくい道をつけやがる」

 雅一郎はぼやいた。けれども理由はわかっている。いま雅一郎が働いていた――または小者を働かせていた畑は検注(けんちゅう)逃れの隠し田だからだ。かんたんに見つかるようでは困る。

 いや、城館の役人に見つかるのはべつにかまわない。城館のほうでも村が隠し田を持っていることぐらい見当をつけていて黙って見逃しているのだし、役人なんか酒を出して(さかな)を惜しまず食わせてやれば隠していない田圃(たんぼ)まで見逃して帰ってくれる。酒は最初だけ上等の酒を出しておいて、あとは水で薄めた濁り酒でいい。酔ってくれば酒の味なんかわからなくなるのだから。

 それに、あまり熱心に隠し田捜しなんかすると身が危ういことぐらいまともな役人ならば知っている。何しろ村の森に入ってしまえば村人の領分だ。うるさい役人は首を絞めてから谷底に突き落としておけばいい。あとで城館から調べられても「ああかわいそうに、道に迷われて谷にお落ちになったんですなぁ」としらばっくれておけばいいのだ。

 困るのが銭貸しである。とくにこの村に銭を貸している柿原党の連中はしつこく、隠し田をすぐに見つけてしまう。この中原村でも何度も隠し田が見つかり、苦労して作った稲をもう何度も巻き上げられている。しかも、柿原党の背後には守護代の殿様の岳父の柿原大和守入道がいるから始末に負えない。柿原党の手の者を手にかけたら命がない。いや逆だ。たとえ柿原党の手の者に殺されても、「気の毒なことで」ですまされてしまうのは村の者のほうなのだ。

 「ちぇっ!」

 だから雅一郎は思いきり舌打ちをした。道のない道を通り抜け、森から村の溜め池脇に出る。名主の館までまだ少しある。雅一郎は切れた息をいちど整えると、また全力で走り始めた。

 名主の家への道を走り下りてくると、門から男の子が出てきてわざと手を広げて通せんぼうする。いや、もう男の「子」ではないのだ。このあいだ元服をすませている。頭に載せた烏帽子が真新しくしゃんと立っているのがまた憎々しい。

 雅一郎は名主の(せがれ)の前でたったっと足踏みすると、背をかがめてその腕の下をくぐり抜けた。

 「あっ、無礼者っ!」

 まだ高い声が後ろから飛んでくる。雅一郎はかまわず名主の家の門をくぐった。入れ違いに「無礼者」の声を聞いて名主の家の小者が飛び出してくる。雅一郎は別の小者に案内を頼む。小者にまで
「遅うございましたな」
と文句を言われながらやっと名主のいる書院(しょいん)までたどり着いた。

 「遅いぞ(まさ)

 「はあっ」

 雅一郎は黙って頭を下げた。

 書院と言っても、ただ壁を背に名主が座っているだけの場所で、ほかに何もありはしない。その名主は下ぶくれの顔に小ぶとりの(からだ)をもてあますように肘掛けに寄りかかっていた。烏帽子も曲がっていれば、その肘掛けもだいぶずれて藁座(わらざ)からだいぶ離れたところに行っている。

 とても急いでいるようには見えなかった。しかし、今日は、その名主の脇に、一人見慣れぬ男が座っている。

 この男は名主よりずっと行儀がよく、背筋をしゃんと伸ばして座っていた。そして、たしかにこの男は名主よりもずっとあせっているようで、落ち着きなく雅一郎を見たり名主の顔を見たりしている。

 「中原様」

 男は頭を下げて言い、名主を促した。名主は言われてすぐに返事せず、手に持った扇を広げてせわしくぱたぱたと自分の顔を煽って、わざと客と反対側を向く。中原造酒(みき)克富(かつとみ)というのがこの名主の名まえだから、呼ばれているのは名主なのだが。

 寒かろうに、と雅一郎は思う。

 「中原様」

 男はもっと声を下げて言った。それで名主はやっと気づいたふうを装う。

 「あ? 何か言ったか?」

 「はい、ご用の件を」

 「あ、そうだそうだ。この男の来るのが遅いのですっかり忘れておった」

 名主は背を反らせて天井に顔をやった。雅一郎は頭を下げて、ひそかに苦い顔をする。

 「お、雅、いますぐこの男といっしょに行ってやれ」

 そんな言われかたをしてもわかるわけがない。

 「は? 行く、と言われますと?」

 「この男が困っておるそうな。助けに行ってやれ」

 名主の高い声が狭い書院に響くような気がする。客の男が前に身を乗り出した。雅一郎のほうを向いて軽くお辞儀をする。

 「そのとおりでございます。私ども、牧野郷の川上村から参りまして」

 「牧野?」

 雅一郎の声の不穏さに男はすぐに気づいた。

 「はい」

 で、雅一郎の顔を(のぞ)きこむと、顔を(うつむ)かせて小さく笑い、ほんの小さく会釈(えしゃく)をする。

 雅一郎はどう応対していいかわからなかった。

 「ご不審はごもっともです。しかし、我らは中原様にお(すが)りするしかないので」

 「手短に申せ」

 雅一郎は言った。男は笑い顔でまた軽く会釈する。

 「は。じつは私どもは玉井の町の金貸しから借銭借米をしております。この借銭借米は返す期限が来ておるのですが、この不作、銭の工面がつかないことはどこの村も同じでございましょう?」

 「わしの村は違うな」

 言わなくてもいいところに名主が声を(はさ)む。

 「わしの村はきちんきちんと返しておる。返せる返せないは心がけ次第である」

 「はあ」

 こうまで言われてまだ笑って見せているこの牧野の使者が、雅一郎にはかえって不気味に思えた。

 たしかに中原村では借銭を滞らせたことはない。しかしそれは借銭を返すのを滞らせるのを貸し主の柿原党が許さないからだ。もしどうしても返せないとひとの妻でも子どもでも平気で引っぱっていく。

 「ちぇっ! そう言えばあのときたみのやつを引っぱって行かせておけばよかったんだ」

 雅一郎は、二年前の暮れのこととさっきのことを同時に思い出して、半分口に出してつぶやいた。二年前の暮れには妻のたみが人質に取られそうになったのを、この名主に涙ながらに懇願して請け戻してもらったのだ。

 ところがたみときたらその恩を忘れて……!

 「ま、さようなわけで、私どもの村では心がけが悪かったのか借銭を滞らせてしまったのです。そして、町の金貸しどもは、たしかに返すのはいつでもよいと請け合ってくれました」

 「はあ」

 こんどは雅一郎が感心する段である。よくまあそんな人のよい金貸しがいたものだ。

 いや――。

 玉井の町と牧野ならあるかも知れない。

 あの牧野の乱のとき、玉井の町の者たちは牧野に味方したという。あの折りの残党が市場や港に逃げこんでいまも潜んでいるともいう。町ではあの乱を「牧野様の義挙」などとあからさまに讃える手合いも多いという。

 そんな町の金貸しだから、牧野の者たちには甘いのだと雅一郎は思う。

 その思いにかかわりなく、牧野郷の使者は話を続けた。

 「ところがです。このたび、急に手のひらを返して返せと言いだし、その使者を送ってよこしたのです。最初から返せと言っておられれば用意もしていたでしょう。しかし、最初は返すのはいつでもよいと言われていたのですから、用意などしているはずがありません。それをいまさら返せとはあまりに酷な言い分、われらを(もてあそ)んでいるとしか思えません。こちらの殿様には、前から、何か困ったことがあればとお声を頂戴(ちょうだい)しておりました。このたびは殿様にお縋りするしかないのであります」

 そして、使者は雅一郎に深々と頭を下げ、もとの座に引っこんで、こんどは主人の名主に大きく頭を下げた。名主は機嫌をよくしたらしく、うん、うんと頷く。そして、雅一郎にひとこと
「行け」

 「はっ」

 雅一郎はかしこまった。

 さっき考えたのはまちがいだった。いや、半分だけあたっていて、半分はまちがいだった。

 市場の連中は牧野との情誼(じょうぎ)など信じてはいない。自分の儲けのことしか考えていない。ところが、牧野の連中は単純で人がいいから、あの乱のときの情誼を信じている。市場の者たちはその牧野の村人らの気もちを弄んでいるのだ。

 これはほんとうに助けてやらねばなるまいと雅一郎は思った。

 「ではすぐに支度します」

 雅一郎はひとしきり深く頭を下げ、それから腰を浮かして立ちかかった。

 「うんっ……いや待て」

 その雅一郎を名主が止める。

 「まさかおまえ一人で行く気ではあるまいな?」

 「いえ、そうですが?」

 「愚かもの! 一人で行って手管に長けた町の借銭取りとやり合えるか。おまえは町の小娘一人にもかなわなかったではないか」

 「はっ!」

 いや小娘は取り押さえたのです、ただそこに榎谷の娘が……。

 ――雅一郎はそう言いたかったのをこらえた。そのことは名主は知っているはずなのだ。

 町の小娘一人ならば名主がわざわざ談判(だんぱん)に出て頭を下げ、今後は町の者が堰のすぐ上で水を汲むのも勝手だと認めることはなかった。

 榎谷の娘が絡んできたのでそうなってしまったのだ。

 それがおそらく名主の憤懣(ふんまん)のタネだ。だからいつまで経っても同じことを言いつのる。

 「小者どもを連れて行け」

 そんな雅一郎の思いにはかかわりなく、名主は話を勝手につづける。

 「それでは小者を二、三」

 「ぜんぶ連れて行くのだ。いや、おまえは小者ぜんぶでもまだ足りぬ。小者のぜんぶをつれていて町の娘一人に勝てなかったのだからな」

 いいかげん、しつこい。

 いや、それどころではない。雅一郎は深々と頭を下げた。

 「いえ、申しわけございませんが、ぜんぶを連れて行きますと、そのご公田でのお働きが叶わなくなります」

 「公田だ?」

 公田というのはさっきの隠し田のことだ。「隠し田」と言うのははばかられるので、村人みんなの田圃だという意味で「公田」と呼んでいる。

 「ふん、ならば」

 「はっ」

 もしかして、長野雅一郎の家はあの公田を耕す仕事から解き放たれるのか?

 ちがった。それはわかっていたことだ。

 けれどもそれにつづくことばは雅一郎がまったく考えもしなかったことばだった。

 「十郎丸(じゅうろうまる)、いや、範大(のりひろ)とともに行くがよい」

 名主はその名がよほど気に入りだったらしく、「範大」という名をわざと長く「のりーひろー」と言った。

 「範大には小者を幾人かつけてやる。そのかわりおまえのほうの小者は二、三だけでよい」

 「はっ、はっ!」

 雅一郎は首を低くしたままとどまっていた。だが、こんどは名主は無慈悲に言った。

 「早くしろ! お客人がお待ちである!」

 しかも、名主は、雅一郎が小走りに屋敷を出て行くのに、ふと立ち上がってばたばたとあとを追い、大きな声で雅一郎に呼ばわったものだ。

 「範大にとっては今回が初陣(ういじん)であるぞ! 心してあたるがよい」

 その声が雅一郎にきっちり届いていただけに、雅一郎はほんとうにやりきれない思いだった。


 退屈で退屈で、美那は眠りそうになっていた。

 昨日の夜が遅かった上に、今日の朝が早かったのだ。眠くなるのもあたりまえだ。

 しかし眠るわけにはいかない。植山平五郎のつきそいであざみといっしょに安濃社に行った折りのような気の楽な立場ではない。貸し銭を取り立てに来た立場なのだ。

 眠らないぎりぎりのところで目を細めてうとうとしてみると少ししのげる気がした。頭が触れた拍子に、横を見ると、隆文が腕を中途半端に組んで(あご)を何度も(うなず)かせている。ようするに居眠りしている。

 「ちぇっ」

 美那は舌打ちしてその向こうを覗きこむと、さわちゃんはみごとに目をぱっちり開いて行儀よく座ったままお堂の中を見ている。ときどきまばたきするのが、何というのか、ひどくかわいく見える。

 眉の先の反り返っているのまできれいに見えて。

 さわちゃんのそのかわいい様子を見て、美那は、頭の上のほうに渦巻いていたもやもやした感じを少しだけ追い払うことができた。

 あのあと、森を抜けるとすぐに村の入り口だった。

 村は四角いかたちをしており、周囲に川から取った分水がめぐっている。しかも、村の周囲は、その分水にかかった一か所の橋を除いて、木塀に囲われていたり、土造りの倉が壁を向けていたりで、きっちり囲われている。村のなかにはあちこちに竹薮があり、竹が葉を重ね合わせて生えていた。

 「戦うための村だな、こりゃ」

 隆文が言った。

 たぶんそのとおりなのだろう。分水と木塀は敵を遮る役目を果たし、竹薮の竹は弓矢になる。

 そのただ一つの入り口の橋を抜けて村に入り、寄ってきた村の老婆に用向きを話した。とくに包みかくしはしなかった。さっきの(まり)という女の子の話では、村の者たちは玉井の借銭取りが来ることはもう知っているのだから、よけいな細工はむだだった。

 どこからそういう話が伝わったか――が知りたいことと言えば知りたいことではあったけど。

 老婆から話をきいた村の者たちは、すぐに連絡を取り合って、男どもを村のまん中の寺のお堂に集めてくれた。

 若い寺男が出てきて案内役を務めてくれた。寺男は気さくな男で、和生(かしょう)と名のった。軽く会釈したあと、
「あ、いつもの方と違いますね」
と言い、美那たちが何も言わないうちに
「和生でも(かず)とでもお呼びください」
と話しかけて笑顔を作る。

 「迷惑かけてすまないな」

 隆文が上機嫌そうな声を作って言うと、その和生だか和だかは平気な笑顔で
「いえ、へんな頃合いに徳政(とくせい)の話が出たもんだからしかたないことでしょう。町の方がたもたいへんだと思います。村の連中もそのへんのことはわかってますよ」

 にこにこと言って三人の前に立って歩く。村の女の人は遠目には三人連れを疑わしそうな目で見たが、行き違うたびに寺男の和生が笑ってあいさつするものだから、和生にあいさつを返したあと、三人の借銭取りにもにっこり笑って頭を下げる。

 またそれにいちいち応えて頭下げたりするんだ、さわちゃんは。

 「じゃ、あんがいうまく行きそうだな」

 隆文が上機嫌なようすで言う。和生は笑って首を振った。

 「そうは行きませんよ。目の前に徳政がぶら下がってるんです。そうかんたんに借銭を返したりするもんですか」

 笑顔できついことを平気で言う。

 「しかも、村人のなかには徳政のことを知らない者もいれば、噂を聞いても信じない者もいる。あの越後守(えちごのかみ)のことだから徳政なんかするはずもない、いや、徳政はやるけれども牧野郷だけは除外するんじゃないか、なんて勘ぐるひともいる」

 言いつつ和生は石造りの橋を渡って山門をくぐった。

 「だから徳政どうこうって話はしないほうがいいですよ」

 和生が言った。

 この寺も、まわりを土塀に囲われ、境内にも竹が生い茂っていた。土塀の外側には水がめぐっている。小さな村には珍しく三重の塔が建っていた。粗末な普請(ふしん)らしく少し傾いていたけれども、たぶんここが敵を見るための(やぐら)になるのだろう。

 「こりゃたいへんなもんだな」

 「そうだね」

 隆文と美那は山門を抜けたときに小声でささやきあったものだ。小声にしたのは、さわちゃんに無用の心配をさせまいという気もちでもあったが、それよりもどうしてもささやき声にしなくてはいけないような雰囲気があったからだ。

 にもかかわらず、である。

 隆文は、集まった村の大人たちを前に用向きを説明したあと、居眠りを始めてしまったのだ。

 とはいえ、隆文が居眠ってしまったのもわからないではない。さっきから同じような話の繰り返しなのだ。

 村人の考えは二手に分かれていた。

 借銭の繰り延べは前に借銭を取りに玉井の町の衆が村を訪れたときに約束している。したがって、いまさら少しでも返せと言われても、それは信義に(もと)るし、だいいち返す余裕がない。だから一文たりとも返せないというのが一方の考えだ。

 それに対して、この不作では玉井の金貸し衆も困っていよう、玉井の金貸し衆とは長いつきあいであるし、たしかに全部を返すのは無理だが、ご使者――隆文と美那とさわ――も全部とは言っていない。それに何よりほんとうはとっくに返していなければならない約束の銭だ。だからいくらかでも返して気もちよくご使者に帰ってもらおう――というのが他方の考えだった。

 一人が何か言うたびに全体の流れの傾きが変わる。話が返さないほうに傾いたり返すほうに傾いたりする。なかなか決まらない。しかも、同じ男が先に言ったのとは正反対のことを言ったりする。

 しかも、ずっとその話をしていてくれればまだいいのだが、途中で春祭りの舞姫をどこの家が出すかとか、男が何人か遅参しているがどういう理由かとかそんな話が入る。

 ちなみに、春祭りの舞姫はあの毬を推す声がけっこうあるが、理由は言わないもののどうも乗り気でない気分がある。村西兵庫助(ひょうごのすけ)という男ら三人が遅参しているのは、田仕事で急に腰に痛みが走ったから仲間で介抱しているのだという話だった。

 とにかく、そんなよけいな話が入って、しばらく議論すると「まあその件はまたそのうち」という話になり、そのうちと言いつつまた「そう言えば舞姫だが」とまたよけいな話に戻ったりで、ぜんぜん議論の先が見えない。

 村長(むらおさ)という男は、「ご使者」たちのななめ前、お堂の本尊の前に座っていたけれど、その議論にひとことも口を挟まなかった。この村長は川上木工(もく)国盛(くにもり)といい、それほど齢をとっているようには見えないのに皺の深い男だった。背を丸めたどことなく頼りなげな男だが、隆文のように居眠りすることもなく、ときどきまばたきをしながらずっと村人の議論をきいている。

 ところが、そんな議論の中で、若い一人が急に声を立てた。

 「そう言えば川中の借銭借米はどうするんだ? おい、ご使者!」

 「えっ、はっ、はいっ?」

 隆文が眠っているようなので美那が答える。というより、答えてしまう。

 浅梨屋敷でついてしまった癖だ。だれも答える者がいないとき、「女弟子だから尻込みした」と思われないようにだ。

 「だから川中村の借銭借米はどうする?」

 「そうだ。ついでに森沢のは? あとで取り立てに行くのか?」

 「あ、それはですね……」

 「どこの村にも行くさ」

 美那が答える前に隆文が顔を上げて言った。居眠りしているように見えて、話をきいてはいたらしい。

 美那は渋い顔をする。

 「どこの村、どこの郷を特別に扱うようなことはしないよ、おれたちは」

 けれども目が開いていないので、居眠りしていなかったかというと、いなかったわけでもないようだ。

 「じゃあおれたちだけで話し合っても、また川中で、それから森沢でも話さないといけない」

 「そうだそうだ」

 「中橋様、そうだ、中の村の中橋様に来てもらおう。あの人なら……」

 「でもよその村だぞ?」

 「中の村だってどうせおんなじことで寄合やるんだろう? だったら……」

 「でも中橋様だけに来ていただくわけには行くまいし」

 「じゃあ川上川中を合わせて合議ってことにしようじゃないか」

 「川中の連中にこっちへ来させるのか? 来ないだろうって」

 「じゃこっちから行くか?」

 「いやだよ。いやおれはいいけど、村ごと行くとなったら大ごとだろう?」

 議論は一気に活気づいた。

 「じゃ中橋様に一人で来てもらうっていうのか?」

 「だから来てはくれないだろうって」

 「だから川上と川中で合わせて合議にすればいい。なんなら森沢のやつらも呼べばいいじゃないか」

 「森沢? あれは郷が違うじゃないか」

 「祭りまでいっしょにやってるのにそんなことにこだわるなって」

 「そうそう、祭りといえば舞姫のことだがな、森沢から出してもらうっていうのはどうだ? それだったらこっちの村で悩むことは何もなくなる」

 「ばかいえ。順番から行って川上が出す番じゃないか」

 「でも順番を変えてどうこうってことはないだろう? ほら、何年か前にもあったじゃないか」

 「あのときは水乞(みずご)いの祭りが入ったから、すぐにつづけて川中に出させるわけにはいかなかったんだよ」

 「いいじゃないか、例はあるんだから」

 何か議論がまた違う話に行っているような気はするが。

 「勝手に話してればいいよ」

 隆文はそれまでになくにぎやかになったお堂の中で小さくひとりごとを言った。

 「べつにこの村から取るのが目当てで来たんじゃないからさ」

 「聞こえるよ」

 美那が小声でたしなめた。

 お堂の中がうるさくなって、そのうるさい声がかえって眠りに入るのをさそうように暗いお堂を響き回る。

― つづく ―