夢の城

清瀬 六朗


桜の里(二)

― 下 ―

 早駆けする馬の後ろについて走りながら、雅一郎(まさいちろう)は汗だけではなく涙が(ほとばし)るのをどうにもできなかった。せめて拭わないでいた。拭わないでいれば、汗にまぎれて、ほかの連中から見すかされずにすむと思った。

 村から来たという男――村西兵庫助(ひょうごのすけ)というらしい――は、息を切らしながらだが、その馬の後ろに遅れずにくっついていく。自分の村のことで急いでいるのだろうし、助力を仰いでおきながら遅れるわけにもいかないという意地でもあっただろうか。

 だが、長野雅一郎はついて行くことができない。たしかに休み休みではあったけど朝から「ご公田(こうでん)」で働いて疲れているし、もともと馬と競えるような脚は持っていないのだ。しかし雅一郎より哀れなのが長野家の小者どもで、その雅一郎よりはるかに遅れて息も絶え絶えに走ってくる。名主の中原家の小者も苦しそうで、遅れているが、名主の家の小者どもはそれでも長野家の小者どもよりずっと血色もよく、元気そうだ。

 そして、この一行を率いる「範大」――中原安芸守(あきのかみ)範大(のりひろ)――というのは、あの門のまえで雅一郎を通せんぼうしたあの元服したての子どもである。一人馬に乗り、岩のあいだの道のあいだは歩きにくいと行ってぐずり通し、平坦なところに出たとたんに馬を駆けさせ始めたのだ。

 いまではまっすぐの川の堤の先のほうまで行ってしまった。

 「範大様……」
と声をかけても聞こえはしない。それに、雅一郎のとぎれとぎれの声ではとても届くものではない。

 と思ったら、その声が聞こえたのか、範大は馬の首を返して、こんどは引き返してきた。やっぱり早駆けさせているのか、急に近づいてくる。このまま走りつづけたらぶつかると思ったのと、前を駆けていた村西兵庫助が立ち止まったのにつられたのとで、雅一郎は立ち止まる。

 「範大様、いったい……?」

 見上げた雅一郎の頬を範大は鞭でひと払いした。その一撃で雅一郎はごろんと背中から地べたに転がる。

 名主屋敷の小者どもはそれを見て立ち止まり、肩で息をしながらもいい息抜きができたと笑って見ている。自分の小者どもが群がってきて立ち上がらせるのを雅一郎はうるさそうに振り払った。

 「こらあっ! 主君を一人先に行かせる家臣がどこにおるかっ! 敵が待ち伏せしていたりしたら何とする?」

 きんきん響く甲高(かんだか)い子ども声で範大は喚き、雅一郎に向かって鞭を振り回す。雅一郎はまだ倒れているのでその鞭が届かない。それが腹立たしいのかさらに勢いをつけて振り回す。

 しかし、借銭を取りに来た町の衆を追い払うのに何が「待ち伏せ」するというのだろう?

 範大は合戦に出るようなつもりであるらしい。そういえば、父がこの息子を送り出すときに「範大の初陣」とか言っていた。

 いまだに郡中で語りぐさになっている村井峠の一戦は、玉井方の将が春野民部少輔(みんぶのしょうゆう)正稔(まさとし)、巣山方の将が柴山兵部(ひょうぶ)少輔康豊で、二人とも元服したばかりの少年だった。それからというもの、年端もいかぬ餓鬼どもかいばりだしたと雅一郎は思う。

 先に行っていた村西兵庫助が戻ってきて、何ごとかと見守っている。

 「村西どのもいらいらしておられる。早く来い!」

 言い終わって雅一郎の返事などきかずにまた馬を走らせて先に行ってしまう。範大の小者が慌てて()いて走り出す。

 だが、範大にとっては残念なことに思い通りには行かなかった。馬は、勢いよく駆けだしたけれども、いきなりよろよろと横にそれると、背中の範大をどんと投げ出して倒れてしまったのだ。

 「くっ……」

 雅一郎の胸から笑いが湧いてきた。

 それほど無様な落馬だった。範大は何の備えもないまま投げ出されていて、もう少しで堤から転がり落ちるところだった。

 雅一郎が笑うわけにはいかない。ところが、雅一郎が笑いをこらえていると、なんと範大の小者どもが先に笑い始めた。

 「こらっ、何を笑っておるかっ!」

 雅一郎は小者を叱咤することで、自分の笑いを抑える。その声でわれに返ったのか、範大の小者たちがぱっと範大に駆け寄り、介抱を始める。ほどなく、
「ひぃーん!」
という細い高い泣き声が聞こえてきた。

 馬が鳴いたのではない。

 泣いたのは範大である。馬のほうは倒れたままびくともしない。

 そういえば、あの男の父親、名主の中原造酒(みき)克富(かつとみ)というのもよく泣く男だ。酒が入れば極端に上機嫌になるか極端に悲しがって泣く。酒が入らなくても、何か不都合があって自分で解決できないと泣くのだ。

 範大は中原家の小者たちが慰めを言ったり体をさすったりしてけんめいに介抱している。自分も行かなければいけないかと思ったとき、雅一郎の横にすっと村西兵庫助が寄ってきた。

 「たいへんな若君ですな。苦労が多うございましょう」

 「はあ、しかしそれがくんしんのぎですから」

 雅一郎はこの「くんしんのぎ」というのが何を意味するかまったく知らない。漢字で書けば「君臣の儀」になるのだが、雅一郎にわかろうはずがない。ただ、こういうときにそのことばを使えばいいということは、これまで生きてきてなんとなくわかっていた。

 「しかしおかげで貴殿と話をする機会ができました」

 「は?」

 村西兵庫助は意味ありげな笑みを浮かべて雅一郎を見返した。


 話はあっちへ転んだりこっちへ転んだりしながらしだいにまとまりつつあった。

 牧野郷の川上・川中と森沢郷とで話をまとめて、ひとまとまりになって玉井の金貸しの「ご使者」に応対しようということのようだ。そのために三村まとめての寄合を開かなければならない。その場所は「中橋様」というひとのいる川中村になりそうだった。その「中橋様」というのがどういうひとなのかはわからないが、村人たちがその人をたいそう頼りにしていることはよくわかる。

 あと、べつにどちらでもよさそうなことでわかったことが二つある。

 一つは、いまこの座にいない男は三人で、それぞれ「兵庫助」、「九兵衛(くへえ)」、「小多右衛門(こだえもん)」というらしく、どうも村の衆全体からは嫌われているらしいことだ。だから腰を痛めて休んでいるという言い分も嘘だろうという声が出た。そしてその嘘つき呼ばわりをたしなめる声はなかった。ただ、寄合に出ていない以上、この三人があとで何を言っても気にする必要はないというのがこの寄合全体の議論になっているように美那は感じた。

 もう一つは(まり)という女の子のことだ。あの関所の森にいた毬のことだろう。

 この毬という子は「広沢三家」と呼ぶ一族の娘のようで、その広沢三家というのが何か特別な一族であるらしい。ただ、村人の一人が
「あの子は広沢三家の出だから、舞姫は務まらんだろう」
と言ったとき、それまでずっと黙っていた村長(むらおさ)
「黙りなさい」
と一喝した。

 「広沢三家を別儀(べつぎ)に扱ってはならんというのが治部さまのご遺訓である。それを忘れてはならんと思う」

 意外に太い、低い、しっかりした声だった。

 その村長の声に驚いたのか、さわがはっと口を開き、座を見渡している。座はいちどしずまりかえった。

 「治部様」とは牧野治部大輔(じぶのたいゆう)興治(おきはる)のことだろう。反逆人として殺された牧野興治の遺訓だが、この村の人たちはそれを守りつづけているのだ。

 だがその広沢三家がどんな意味で特別なのかはわからなかった。

 その議論があって、話はまたもとの借銭の話に戻った。その「中橋様」を川上村に呼ぶか、川上村の全員が川中村に行くかという話がつづいた。その議論も、あまり収まりがつかないままにとぎれがちになった。しばらくみんな黙ってしまう。

 そのときになって、村長の川上木工(もく)国盛(くにもり)が、丸めていた背を少し伸ばし気味にし、まず「ご使者」三人のほうをちらと振り向いてから村人たちに言った。

 「どうであろう? 借銭借米のことについて、川上、川中、それに森沢で応対が違うというのはよろしくないし、今後の二郷のかかわりにも差し支えになるかも知れない。しかも、一人ひとりの暮らし向きにかかわる借銭借米のことだから、村長だけで集って決めるよりも、二郷の村人のみなを集めて寄合を開いたほうがよいように思う。異存のある者はいるか?」

 村人たちは黙っているか、「いや」、「それでいい」などと小声でつぶやくかしている。村長は話を進めた。

 「それで、その寄合の場所だが、牧野郷だけの寄合であればこの川上でもかまわない。けれど森沢も含めるとなると、川上は少し端に寄りすぎていて、人が集まるのに時間がかかろう。急ぎの用でないならそれでもかまわなかろうが、今回はそれほどのんびりしていられる用でもない。ご使者もいつまでも牧野郷にいられるほどの暇もあるまい。しかも、このことは知恵者の中橋様にお出でいただかなくては話が(かな)うまいが、中橋様は川中におられる。どうであろう、みんなご足労ではあるが、ともに川中村に参り、川中・森沢にも声をかけて」

 そこで村長は声を止めた。

 寺の庭を駆けてくる足音がしたからだ。それも一人ではない。乱暴にお堂の板敷きの廊下を乱暴に踏み荒らす音が聞こえ、締め切ってあった障子がいくつも同時に乱暴に打ち開かれた。

 美那の眠気がすっかり覚めてしまったのは、その乱入に驚いたからというより、お堂の中より少しだけぬるい外の風が入ってきて、その風を胸に吸いこんだからだ。

 やっぱりお堂が閉め切られていて風が入ってこなかったので眠かったのだと思う。

 自分の背中の後ろの障子を引き開けられた村人たちはさっと体を翻して避けたが、ほかの村人たちは頭を上げただけだ。

 村人たちのまん中に残っているお堂の板敷きの床が艶々と光っている。

 入ってきたのは何人かの地侍ふうの男だ。どんな貌なのかは、明るい外を背にしているので見分けられない。ただ、そのうち、いちばん上手の障子から入ってきたのは、折烏帽子(おりえぼし)をかぶり直垂(ひたたれ)を身につけ太刀まで()びた、この場にも駆け入ってきたほかの連中にもおよそ不似合いなかっこうをした痩せた男だった。

 その男が何かを言おうとして、のどを詰まらせるようなしぐさをし、両手を所在なげに垂れて立ちつくしてしまう。

 かわって、次の障子を開けて入ってきた男が呼ばわった。

 「おい、玉井から来た借銭取りはどこだ?」

 美那は、その貧相そうな男の底意地の悪そうな威張り声をどこかで聞いた気がする。

 隆文が立ち上がろうとした。だが、村長の川上木工が右手をちょっと挙げてそれを止め、入ってきたその男を下からしっかりと見据えて言った。

 「そういうおまえは何ものだ?」

 べつに荒い声を張り上げたわけではない。これまでとほとんど変わらない落ち着いた低い声だ。

 「ここは寺だ。しかもここは寄合の場だ。許しを得ない者が入ってくることはまかりならぬ」

 「許しは得た。われは守護代春野越後守(えちごのかみ)定範(さだのり)さまの家臣、長野一郎雅継(まさつぐ)である」

 「黙りなさい!」

 村長が大きな声で叱りつけた。

 村人たちのようすが一変している。それまで何が起こったのかわからないというようすだったのが、みんな口を結び眉を寄せてこの闖入(ちんにゅう)者を見上げている。

 「たとえそうであったとしても、このような乱暴な入りかたをしてよいという許しは出ていない。それにだれがおまえが入ることを許した? そんな者はここには一人もいない」

 「そうだ」

 「出て行け!」

 「おまえなんかが来るところじゃないぞ!」

 村人が罵り始める。それを抑えるように、その長野一郎雅継の後ろから一人の男がぬっと姿を現した。

 「わたしが許した。何か文句でも?」

 その男のほうは見分けがついた。村に入るまえに美那たち一行に田圃(たんぼ)から声をかけた男たちの一人だ。

 「兵庫助か……」

 してみると、この村西兵庫助という男が腰を痛めたというのはやはり嘘だったのだ。町の金貸しの使者が村に来たのを確かめて、城館の定範の家臣と連絡をとっていたのであろう。

 「裏切り者!」

 「亡き殿様のご遺恨を忘れたか!」

 「黙りなさい!」

 村西兵庫助が一喝した。

 「このたびの町方の申し入れはいかにも非道、それで城館の方がたに助けをいただいた」

 「まあそう大声を出すな。申し入れというがな」

 村長の国盛が落ち着いた声で言い返す。

 「おまえそれをどこで聞いた? ん? 町方のご使者はこの寄合の席で始めてご用の儀をお話になった。そこにいなかったおまえがどうしてその申し入れとやらを知っている?」

 ほんとうのところをいうと、寄合が始まるまえに、最初に案内してくれた老婆や寺男の和生(かしょう)にはその用向きを話しているから、寄合が始まるまえから村人が知っていてもおかしくはないのだが。

 「へんっ」

 村西兵庫助がせせら笑う。

 「近々三郡で徳政が行われるっていうんで、町方が慌てて借銭集めに三郡じゅうをかけずり回っているっていうのは知らぬ者はいない」

 「徳政?」

 村長が小さな声で言い返した。

 「そんな話は知らん。一度も出なかったぞ」

 村人らがそうだそうだ出なかったと(はや)す。村西兵庫助はいきり立った。

 「それがそこにいる町方の者どもの(ずる)いところではないか!」

 「狡い?」

 村長はなおも落ち着いて答えた。

 「狡いも何も、徳政のことを隠したからといって町のご使者の得になることはないと思うがな。だいいち三郡で徳政があるとかないとかいうのは城館の政事にかかわることで、われわれ下々がどうこう言うべき問題でもない。そんなわけなので、城館から来られた方、ご足労であったが、お引き取りくださらんか」

 村長は声を長野一郎雅継のほうに転じた。

 だが、かんじんの雅継――つまりあの中原村の地侍の雅一郎である――は、何かほかのことに気を取られているようで、何も言わない。自分に声をかけられたことも気づいていないようだ。村長は重ねていった。

 「な、城館のお方?」

 雅継はあいかわらず気づかない。村人たちはその雅継の返答を待っているのか口を開かない。お堂のなかがしばらくしずまりかえる。

 しばらくして、雅継は低く
「おい」
と言った。

 「おい、そこの娘……いや、その町方の使者の娘に言っているのだ」

 低い声でつづける。町方の娘と言われて、美那とさわが顔を上げた。

 「そう、こっち側の色の白いほうだ」

 さわと美那とどっちの色が白いかは知らない。たぶん似たようなものだろうと思う。だが、相手はどうも美那のほうを指して言っているようだ。

 「はい?」

 「その声だまちがいない!」

 雅継は、村人が止める隙も与えず、お堂の中に乗り込み、いきなり美那の襟首をつかんだ。

 「おい」

 隆文が振り向いて言う。ただし雅継にではなく、美那にだ。

 まさか浅梨(あさり)左兵衛尉(さひょうえのじょう)治繁(はるしげ)の弟子がそうかんたんに襟首をつかまれて引き立たされるとは思っていなかったのだろう。

 「何するんだ!」

 美那はその手をふりほどいて、相手と向かい合い、その拍子に
「あっ」
と声を立てた。

 その「長野一郎雅継」というのは、あの春の朝、水を汲みに行ったところに文句をつけて美那に襲いかかった地侍だったのだ。

 「あんたって……」

 寄合の席に同席している客分の身としてはあまり品のない言いかただが、このさいしかたがない。

 「どうやら忘れてはいなかったようだな」

 雅継は口もとに笑いを浮かべた。そして、やにわに村人のほうを向いて声を挙げた。

 「おい、村の衆、きいてくれ。この小娘は罪人だ。しばらく前におれがこの小娘の悪事を暴いた。ところがこの小娘と来たら榎谷(えのきだに)の娘を抱きこみ、市場の長者をたぶらかして罪を逃れてしまったんだ」

 村人がざわめく。美那も言い返した。

 「そのことならとっくに話し合いでかたがついてるだろう? なんでいまさら蒸し返すんだ?」

 隆文が後ろでため息をついて肩を落とす。雅継は美那は相手にしないで村人衆に向かってさらに言った。

 「この小娘が何をしていると思う? 都堰(みやこぜき)の上から水を盗んでるんだぞ!」

 「水?」

 「水だって?」

 村人らはざわついた。雅継はそれを聞いてさらに勢いづく。

 「そうだ。水だ。この牧野郷の田圃を潤しているだいじな水だ!」

 「桶二つ分じゃないか! それに昔から川はだれの領分でもないって……」

 「桶二つ分でも村で田畑を作っているものにとってはだいじな水だ。それにおまえだけじゃないぞ。おまえの仲間がいくらもいて好き勝手に水を汲んで市場に持ち帰ってるのは見て知ってるんだ」

 最初に入ってきた折烏帽子に直垂の若者がびくっとする。雅継はつづけた。

 「この小娘はその罪人一味の手先だ。盗賊だ。町の市場の金貸し衆がどんな人間を手先に使っているかよくわかったろう。村のことは村で決めなさるがいい。だが、この小娘の身柄はわれらで預かっていく」

 「預かってどうするんだよ?」

 「こんどこそ城館に突き出してやる」

 「そんなこと……」

 美那はことばに詰まった。(からだ)が震えているのが自分でもわかる。だが。

 「黙りなさい!」

 立ち上がって大声で叱咤したのは村長の川上木工国盛だった。

 「外から入ってきた者に勝手な振る舞いは許さぬ。罪人の捕縛(ほばく)ならばまずしかるべき筋から申し入れがあるべきだろう。村で犯した罪ならばともかく、よそで犯した罪について片方だけの申し立てで捉えたり放したりすることはできぬ。控えられよ、城館の方」

 ほんとうはその男は城館から来たのでもなんでもなくただの地侍だ――と言ってやろうかとも思った。でも、その美那が村長の勢いに気圧されて口を挟めない。

 「帰れ、水盗人!」

 村人の一人が言った。だが、すぐにほかの村人が答えた。

 「それはそこの侍が言ってることだろう? そっちの侍の素姓のほうがよっぽど疑わしいぞ」

 するとほかの村人が
「いや、町にはそういうよからぬ者がたくさんいるときくぞ。いや、その子の素姓はともかくとしてだ、この金貸し衆からの申し出、もういちどよく考えてみたほうがいいんじゃないのか?」

 「いやいや、その徳政ってやつがほんとうにあるかどうか、それが問題だろう?」

 「それよりご使者にどう応対するかが先だ」

 「だから、それはもっとよく考えなければならんって言ってるんだ」

 「そうだよ、だから祭りの舞姫の相談なんかしてるときじゃないだろ?」

 「先にその話を持ち出したのはそっちだろう? それに春祭りは桜が咲いたらすぐだぞ? これはこれでそんなに余裕のある話じゃないんだ」

 「それより腰を痛めたって嘘ついてたやつの言うこと、認めてしまうのか?」

 「そうだ。よその侍が腰に太刀(たち)くっつけたまま寄合に乗りこむなんて。例のないできごとだ!」

 「そんなことを言っても城館に訴えるわけにもいかないし、しかたないだろう」

 「だから話そらすなって!」

 「こら、村の衆」

 村長が手を挙げて言った。それほど大きい声ではないが、村の連中はすぐに口々にものを言うのを止めた。

 「しばらく鎮まりなされ」

 村長は座の者がしずまるのを待ち、「ご使者」三人のほうに向き直った。

 隆文とさわも立ち上がる。

 「このような仕儀になり、どうも早々には収まりそうもありません。ご使者のかたにはいちどお帰り願えませぬか。話して決まったことは必ずお知らせ申し上げる。けっしてうやむやにしてすますなどということはいたしませぬ」

 村長は頭を下げた。

 隆文が答えた。上機嫌の声だった。

 「まあ村方には村方の事情がおありでしょうから、われら、それにとやかく申すつもりはありません。われらはいったん退くといたしましょう」

 そして声を急に低くした。

 「治部さまのご無念をお思いください。港の若君はわれらの味方でいてくれますぞ。では」

 先頭には隆文が立ち、つづいてさわ、最後に美那という順番で三人はお堂を出た。雅継のところではなく、最初に入ってきた直垂の若者を押しのけるようにしていちばん上の出口から出る。出たところにさっきの村西兵庫助がいて、美那をみかけてへんっと鼻を上げ、嘲って見せた。


 美那は寺を出るまで押し黙ったまま何も言わなかった。隆文はわざと何ごともなかったように胸を反り返して歩いていたし、さわはまた端から見て何を考えているかわからない貌をして歩いていた。

 美那は自分を責める気もちでいっぱいだった。どうして自分を責めなければいけないかということまでまだ考えていられなかった。ただ涙をこぼしそうに目頭だけではなく両目の全体が熱い。だが、泣き出すと弱味を見られると思い、山門を出るまで泣くのを抑えていた。

 そして、山門を出たとたん、
「うまくいかなかったの?」
という鋭い声がすぐ横から飛んできた。

 美那が脚を止め、ふと顔を上げると、毬が美那の(たもと)をつかんでいる。当の美那の二倍か三倍はせっぱ詰まった(かお)だ。すぐ後ろにはさっきいっしょにいた男の子と小さい女の子もいて、やっぱり同じように美那の返事を待っている。

 「うん?」

 美那はつとめて平気な顔で答えようとした。

 「うまくいくも何も、話し合いは始まったばっかりだよ」

 毬に、男の子と小さい女の子も諭すように話す。

 「それにそうかんたんに話がつくような話でもないんだよ」

 それは嘘ではなかった。だが、そのときとつぜん後ろの男の子が
「嘘だ!」
と声を張り上げた。

 「どうして嘘だっていうの?」

 美那は平気な声でつづけた。ふだんなら、自分の言ったことを「嘘だ」と決めつけられていればその場で怒り出していたかも知れない。でもいまは怒る気にはならない。

 「だって、村西兵庫助と大木戸九兵衛が村の外から来た侍を連れて駆けこんでいったじゃないか」

 「ああ、あの人たちね」

 美那は「あの人たち」をどう説明しようかと迷った。

 迷って顔を上げて、驚く。

 門の外に集まっていたのは毬たちだけではなかった。毬たちから数歩下がった後ろから、村の女たちや子どもら、それに寄合に加わることのできない小者や下男たちが門のまえを取り囲んでいたのだ。

 後ろでけんめいに毬と男の子と小さい女の子のほうに手招きしているのは、たぶんこの子たちの母親か何かなのだろう。ただ、毬たちはみんな美那たちのほうを向いているので、どんなに力を入れて何度も手招きしてみても意味がなかったけれども。

 美那は困って隆文の顔を見た。隆文は軽く頷く。

 「われらはいちど立ち退かせていただきます」

 隆文は他人ごとのように平らな声を伸ばして言った。

 「どうも議論百出で、なかなか衆議(しゅうぎ)がまとまりそうにありません。ただ、村長様は、衆議がまとまればわれらに知らせてくれると約束してくださいました。それを信じて待とうと思います」

 「戦になるんですか?」

 下男らしい痩せた男がしわがれた声できく。

 「借銭はどうなるんです?」

 これはやたらと肥えた女の声だ。

 隆文は美那とさわに合図して歩き出そうとした。だが、
「どうなんです?」
「教えてください」
と正面は村の女たちや小者衆に遮られる。

 美那のほうは毬が袂をぎゅっと握って放さない。

 隆文は短くため息をついた。美那はそれを見て「隆文のやつったらまたわざとらしく……」と思う。

 「われらは客分です。寄合のなかみをお話しするわけにはいきません」

 それでいったん切り上げて出ようとする。だが、集まった者は道を開けようとしなかった。それに、美那の袂を握っているのは毬だけだったのが、ほかの子たちも出てきて美那やさわの行く手を遮り、着物のあちこちを手で引っぱった。

 隆文はもういちど短くため息をついたあと、やはり短く咳払いした。

 で、自分で言うのかと思ったら、腕で美那をつっつく。

 「え、わたし?」

 「そうだ」

 小さな声でやりとりがある。でも、言われた以上、引き受けないと話がややこしくなりそうだ。

 美那は、不安そうにしている毬に笑いを作って見せてから、その手を右手で押さえて袂から手を放させ、隆文の少し後ろに歩み出た。

 「どうかきいてください。わたしたちは期限の過ぎている借銭借米のいくらかでもお返しいただけるならお返しいただきたいと、そう申しに来ただけです。期限前の借銭や借米までお返しいただこうなどとは露ほども思っていません。また、かりに期限を過ぎた借銭借米も、べつに事情があってお返しになれないということなら、わたしたちは強いて求めはしません」

 村の者たちは黙ったままだ。美那はつづけた。

 「わたしたち玉井の町の者は、民部大輔(みんぶのたいゆう)正興(まさおき)公のころからこの牧野のことをいちども忘れたことはありません。それに、町の者たちは、先の義挙の折りに、牧野の方がたにばかり犠牲を強いてしまったことをいまも恥としております。ただ、このたびは、連年の不作で借銭借米が返してもらえなく例が相次ぎ、このままでは金貸しの仕事も続けられなくなるやも知れず、本来ならお待ちするはずの借銭借米の取り立てにと、恥を忍んで出てきたのです。どうか私たちの立場もわかってください」

 「三郡かぎりの徳政があるという噂があるが、知っているかな?」

 少し美那のほうに体を斜め向けて話をきいていた赤ら顔の女が言う。美那は頷いた。

 「噂は聞いたことがあります」

 女たちのあいだに張りつめた感じが広がる。そのようすを見てから、美那はつづけた。

 「しかし、それは城館のご政事にかかわることで、どちらにしても私たちにはわからないことです」

 「だが、徳政があると、お困りになるであろ? 金貸し衆としては」

 「たしかに」

 美那は認めた。

 「けれども、このご時世、徳政があっても何もおかしなことはありません」

 声を張る。村の者たちが何か言うまえにつづける。

 「何しろ三郡の村方は連年の不作なのです。村の衆はもう十分に困っているはずです。徳政があればわたしたちは困るが村の方がたはいくらかは助かるでしょう。徳政がなければ村方ばかりが困ることになります。だれかばっかりが困るような世のなかがいいはずがありません」

 きいていた女たちは黙った。説得されたのかも知れないが、美那の声が元気なのに気圧されているだけかも知れない。

 「それはいいが」
と一人の背の低い皺の深い老婆が低い声で言った。

 「戦にはなるのか? 先に駆けこんできたのは城館の侍だろう?」

 「ご心配には及びません」

 この問いには隆文が答えようとしたのを制して美那がつづける。

 「あの者たちは、城館の侍を名のっておりますが、守護代」
でいったん切る。

 「守護代、越後守定範様の直臣ではありません。越後守様は風流で知られたお方で、村侍のような風体をして野を駆けるような直臣を抱えてはおられないはず」

 「なるほど」

 「そうに違いない」

 女たちのあいだで声が上がる。小者衆の一人が
「そんなことにカネを使うからいつまでもわたしらが貧乏なんだ!」
というと、
「これっ! めったなことを言うんじゃありません」
と叱る女の声がする。主人の家の妻か何かだろう。

 笑いが起こった。

 美那は小さく頷いた。

 「村長様にはわたしたちの真意は伝えてあります。かならずみなさんのためになるよう、ことを裁いてくださるとわたしは思っています」

 「いいぞ」

 「村西や大木戸の腰抜けどもに何がわかる?」

 その声が聞こえたのかも知れない。寺の本堂の廊下にいた一人の男が廊下から跳び下り、小者を連れて山門のほうに向かってきた。

 村の田圃で最初に出会ったときに、一人鍬を立てて一行を見上げていた男だ。

 「大木戸が来たっ!」

 そんな声が起こると、女や小者たちはいっせいに山門の前から散ってしまった。子どもがいる者は子どもの手を引っぱって小走りに走り去る。毬と男の子と小さい女の子はそれでも最後まで美那たちにくっついていたが、母親らしい女の人が無理に手を引っぱったのと、美那が毬の背中を推したので、けっきょく母親について行ってしまう。

 毬が走り去るときに美那のほうをもういちどちらっと振り返った。

 「?」

 何かをけんめいに訴えるようだった。だが呼び止めている間はないし、呼び止めるわけにも行かない。

 「大木戸」と呼ばれた男が山門に出てきたときにはもう村の女も子どももいなかった。その地侍らしい男と隆文・美那・さわの三人は山門と山門前の橋をはさんでにらみ合う。大木戸九兵衛は何か言おうとしたようだが、三人が三人ともくるんと後ろを向いてその大木戸のほうに目を向けたので、勢いを失ってしまったらしい。

 「おい。山門を閉めろ」

 大城戸九兵衛は小者たちに命じた。三人のご使者の前で山門の扉は閉じられた。扉が閉じる少しまえに、大木戸九兵衛もへんと(そし)るように鼻を突き出した。

 やっていることがさっきの村西兵庫助とまったく同じだ。

 「お、とりあえず村を出るぞ」

 隆文が言った。そのぶっきらぼうの声の立てかたが浅梨左兵衛尉そっくりだ。

 さわは何も感じなかったかも知れない。だが、美那は、自分の剣術の師匠が乗り移ったような隆文の言いかたをきいて、これはたいへんなことになったといまさらながらに感じた。

― つづく ―