夢の城

清瀬 六朗


桜の里(三)

― 1. ―

 日の光はまだ薄雲を通して漏れてきていた。ただ、その日が照らしている場所が、この村に来たときからだいぶ変わっている。

 村に入ったときには、村の入り口が暗い影になっていてよそよそしく見えたのが、出てみると日を浴びていて明るく堂々とその姿を街道にさらしているようだった。

 それだけに逆に気分が晴れない。

 「だからさ、おまえ、最初に絡まれたときにそんな話知りませんって突っぱねとけばよかったんだよ」

 隆文が美那に説教している。

 「そうしておけば、傍から聞いてればやつのほうが根も葉もないことを言ってるように聞こえるからな」

 「わかったよもう」

 美那は不機嫌だ。

 「あんなやつに出会うと思ってなかったからさぁ」

 「人間、どこでだれに出会うかわからないものだからな」

 「でも、美那ちゃん、立派だった」

 さわが言う。なぐさめるように、ではない。嬉しそうだ。

 「わたしなら上がってしまってあんなに言えないよ」

 山門の前で女や子どもや小者・下男衆に向かって話をしたときのことを言ってるらしい。

 そりゃ、まあ、場数を踏んでますから――。

 剣の腕もそうだが、理屈でも負けていては浅梨(あさり)屋敷では生き延びることができない。

 「たしかに」

 隆文が頷く。

 「あれで功過(こうか)を帳消しにしてもいいな。あれでもし男どもがくだらんことを決めても、家で待ってる女房子どもが言うことをきくまい。たいした娘だよ。さすがおれの妹弟子だな」

 この男に「妹弟子」と言われると何か腹が立つ。たしかにそのとおりではあるのだけれど。

 それをきいてさわが無邪気な声で
「お姫様みたいだった!」
と言った。美那は(つまず)いて転びかける。それを見た隆文が、半ば得意そうに、半ばいらいらして
「何やってるんだおまえはもう」
と叱りつけた。

 美那は口を結んだままその隆文を横目で見た。

 三人は川中村に向かっている。

 もともと、この三人が来たのは、町の者たちからの取り立てをやりやすくするために、牧野郷や森沢郷からも取り立てているというかたちを整えるためだった。いちおう用向きは伝えたのだから、さっさと町に帰ってもいいはずだ。

 けれども隆文と美那とさわはそうはしなかった。

 川上村からは追い出されたが、まだ川中村の衆や森沢郷の衆の意向は聞いていない。川上村の寄合では川中村と森沢郷を合わせた寄合を開くような話になっていたが、あの長野一党の乱入でそのあとの議論がどうなるかわからない。いちおう自ら出向いて自分が来た用を自ら説明しておくべきだ。三人で相談してそう決めた。

 けれども、実は理由はほかにある。少なくとも美那はそう思う。

 一つの理由は、その川中村の「中橋様」というひとがどんなひとかを知りたかったということだ。それがどんなひとなのか、村人たちは町から来た三人の前でははっきり語らなかった。村長の木工(もく)国盛(くにもり)が「知恵者」と言っただけだ。しかし、もしほんとうに知恵者だとすれば、この中橋という男が何かうまい解決を導き出してくれるかも知れない。もしそうでなくても、隣村からそんなに頼りにされる男というのがいちど見てみたいという気もあった。

 しかし、もっと大きい理由がある。

 あの村西とか大木戸とかいう連中が定範の家臣を引っぱりこんだことで、何か事態がこじれそうな気がしたのだ。そのとき力になれるなら村人の力になろう。浅梨治繁(はるしげ)の弟子ともあろう者が、柿原党の強引なやり方にそうかんたんに負けを認めて引き下がってたまるものか。

 それに、美那には、あの毬が最後に見せた(すが)るような(かお)がどうにも気になった。もしかすると思い過ごしかも知れないが、何か救いを求めているように見えたのだ。それを置いて帰る気にはなれない。

 川上村は道の後ろのほうに遠ざかった。かわって行く手に小さな丘が見えてきた。それは安濃の社のお山や城館の丘ほどもないが、ずっと平らな土地がつづいているこのあたりではやはり目立つ。

 「牧野家の城館の跡だ」

 その小さな丘が十分に近づいてから隆文が言った。

 「牧野家?」

 「治部大輔(じぶのたいゆう)様だよ」

 「ああ」

 美那はその丘を横目で見てそう言っただけだった。

 乱に敗れた牧野家への仕置きは酷かった。乱を率いた治部大輔興治(おきはる)はもちろん、正式に元服していなかった息子の芹丸(せりまる)もいっしょに首を斬られ、家は断絶させられてしまった。そのときにこの館も無惨に焼き払われてしまった。

 牧野家とともに立ち上がった桧山家では、織部正(おりべのしょう(かみ))興孝(おきたか)は斬首されたが、息子の桃丸は助けられ、館もそのまま残された。

 桧山家は港を握っており、港の人たちは桧山家の差配(さはい)にしか従わない。だから桧山家を断絶させることはできなかった。しかし牧野家はただ新しく開いた村の名主にすぎない。その違いだった。

 館の周りは、さっきの川上村と同じように(ほり)が囲んでいたのだろう。しかももっと大きな幅の広い濠だったらしい。でもいまは深い窪地が小高い丘を取り囲んでいるだけで、その堤は両側から崩れてきていた。芦がいっぱい茂ってそのまま枯れている。道から館に渡る橋もかかっていたのだろうけれど、いまでは跡形もない。ただ、向こう岸だったところに石積みが残っている。そこに左右に対に大きい石が残っているのは門の礎石だろう。

 その館跡を見上げていた美那は、ふと、その館跡の丘の中腹あたりに生えている木に気づいた。

 「ねえ、さわちゃん」

 先を歩くさわに声をかける。

 「何?」

 「さっきさわちゃんが言ってた木って、あの木?」

 「うん?」

 さわはそれではじめて館のほうを振り向いた。

 「あ、そうだね!」

 館跡の中腹をめぐるように生えている木は桜のようだった。だが桜にしては色が浅い。だからさっきさわが遠くの雪消山に見つけた桜の色に似ていると思った。

 「まだ大部分は(つぼみ)だね」

 さわが歩きながらその桜を見て言う。

 「あれで大部分が蕾なの?」

 それにしては木の枝のほうが淡い桜色に染まっていて、花がもう咲いたように見える。

 「そう」

 さわはあたりまえのことのように答えた。

 「ほんとうに咲いたら山ぜんぶが桜になったように見えるよ。山ぜんぶが桜の花だらけになって、下を歩くと上も下も桜の別世界を歩くように感じるの」

 さわの答えは何かうきうきしているようだ。

 「そうなの……」

 美那は町育ちで桜を間近で見たことがない。市場のところどころでいま咲いている海棠(かいどう)の花に似ているというのだけれど、ほんとうだろうか。

 美那には、その花が咲くのがたのしみなような、でもほんとうに咲くとどうなるんだろうという得体の知れない感じのような、奇妙な感じが残った。

 「さあ、館を過ぎると次の村だぞ」

 いつの間にかいちばん後ろを歩く順番になっていた隆文が声をかけた。

 「心構えしとけよ」

 「なんだよ、一人でえらそうなんだから」

 美那は試しにそう言って、さわを振り向いてみた。

 さわはその美那に答えるように少し声を立てて笑った。ふふっという、軽い、明るい笑い声だった。


 村西兵庫助の屋敷は、ことばどおり、川上村の西側にある。村の入り口の橋を渡ってずっと右手に行き、突き当たったところがこの兵庫助の屋敷だ。

 この村の者たちはそうやって家を区別していた。村の西なら村西、家のそばに大木戸があって、戦になったときにはその大木戸の番をすることになっている家は大木戸、そして村長は村の名をとって川上である。

 そうなっていないのは広沢三家ぐらいなものだ。

 この村西兵庫助は大きな屋敷地を持っているほうだった。屋敷内には、主人夫妻と下女の住む大屋敷と、別棟の中屋敷、それに離れの三棟があり、離れの裏に小者や下男が暮らす長屋と馬小屋がしつらえてある。屋敷地の一番奥には土蔵もある。もっとも、大屋敷・中屋敷とはいうけれども、ほかの村人衆の家とたいしてかわりのない小さな家に廊下がめぐらせてある程度にすぎない。

 小者のための長屋もいまは空いており、小者は一人もいない。馬小屋には牛が一頭いるだけである。ついでにいえば、土蔵の中もいまはほとんど空で、(ねずみ)(いたち)のすみかになっている。

 「どうしてそんな軽はずみなことをしたんです!」

 「そうは言ってもおまえ」

 その大屋敷の奥の間で村西兵庫助は妻を相手に陳弁(ちんべん)に努めている。

 「おれたちのやりくりが苦しいのはぜんぶ市場の金貸しから借りた利息のせいじゃないか。どんな手を使っても徳政があるまでもちこたえるしかないだろう? それを、村長(むらおさ)の旦那と来たら!」

 「徳政とかそういう難しいことはわかりません」

 村西兵庫助の妻美千(みち)はきつく言い返した。

 「わたしたち、外に一歩も出られないじゃありませんか。いや、出られないどころじゃ……」

 美千がそこまで言ったと同時に外でどんっと音がし、娘が小さな声を立てるのが聞こえた。

 「ふく! ふく、どうしたの?」

 「はい」

 ほどなく障子を開けて入ってきたのは下女のふくだ。二重まぶたで丸顔の娘で、子どものころの面影をまだ半分くらい残している。

 「こんなものが」

 「まあ」

 ふくが差し出したのはくしゃくしゃになった紙と子どもの拳ぐらいの石だ。その石に紙を巻いて投げてきたのだろう。紙には下手な字で不揃いに何か書いてある。兵庫助はそれが読めない。

 「うん? 何だ?」

 あせって読もうとして、ふと気がついてみると上下が逆だ。ふくの手からひったくって読んでみると、
「ムラヲサレ」
と書いてある。兵庫助が下女を叱りつけた。

 「何度言ったらわかるんだ! 字面は主人が読めるように差し出せ! それじゃ上下が逆だろう!」

 「はい?」

 ふくは何を言われているかわからないというように笑って見せる。美千がすぐに夫を叱り返した。

 「そんなことはどうでもいいじゃありませんか。ふくは字が読めないことぐらい知っているでしょう? それより学もあり分別もあるはずのあなた様が、よりによって柿原の手先を引き入れるなんて! 柿原も金貸しですよ、それも柿原は市場の金貸しよりずっと非道だというじゃありませんか」

 「だれが確かめたね?」

 美千が勢いこんで言ったのを、兵庫助は落ち着いて受けとめる。

 「柿原は非道だなんて、市場の連中が言ってるだけだ。それに、村には柿原一党を実際以上に悪く言いたがる手合いが多い。それに、市場だって柿原党だって、徳政になればどこから借りた銭米でも帳消しになるんだ! それまでの方便だよ。村の連中の根も葉もない噂しか聞いてないくせに、わかったような口をきくな」

 言い返されて、美千は桃色の血色のよい唇を合わせ、何も言わなかった。

 「あの、旦那様?」

 ふくがとりなすように声をかける。

 「何だ? さ……」

 兵庫助は「酒でも持ってきてくれるのか」と言おうとしたのだが、横から恨めしそうな目で見ている美千を見ると、とてもそんなことは言えない。

 「さっきから大木戸様がお呼びですけど。ついでにお客様もるじにわたってご催促ですが」

 このふくという娘は字が読めないくせに主人の知らない難しいことばをときどき使うので困る。この「るじにわたって」ということばが「何度も」という意味だというのはごく最近になって知った。

 「そう言うことは早く言わないか」

 兵庫助は言って膝を立てる。そこに追い打ちをかけるように美千が
「ふくは先ほどから何度も言っていますよ」

 「なに?」

 兵庫助は立ち上がりながら美千のほうを振り向き、見下ろす。

 「だったらおまえはどうして引き留めた?」

 「どうしてあなたが柿原なんかの手先に会いに行くようわたしが催促しなければならないんです?」

 美千は大きな黒い目でまっすぐに兵庫助を見上げ返す。兵庫助は「ちっ」と舌打ちし、何も言わないまま廊下に出た。


 その兵庫助が向かった中屋敷のほうでも
「どうしてわたしが柿原のために働いたりしなければならん?」

 中原安芸守(あきのかみ)範大(のりひろ)が同じように不機嫌顔でいた。

 「はっ!」

 「はっ、ではない、(まさ)! わたしは(おそ)れ多くも春野越後守(えちごのかみ)定範(さだのり)さまを烏帽子親(えぼしおや)に元服をいたし、もったいなくも「範」の一字をいただいた安芸守範大であるぞ」

 雅一郎は頭を下げた。

 さっき寄合に乗りこんだときにはもっともらしく「一郎雅継」などと名のっていたが、それはあの場でとっさに思いついた名のり名にすぎない。中原村の前の名主の名が吉継(よしつぐ)と言ったので、その名からとっさに一字を借りただけだ。

 「はっ! 承知しております」

 その雅一郎が言う。

 「しかし、であればなおさらのこと、柿原大和守(やまとのかみ)さまは、その越後守さまのご岳父にあたられるわけですから、いっそうお勤めに励まれませねば」

 「知ったようなことを言うな!」

 「はっ!」

 雅一郎はまた頭を下げる。

 「市場の金貸しを追い払うだけの仕事ではなかったのか? わたしは父上からそうとしか聞かされておらぬぞ」

 「私も同じであります」

 「なにっ? ではおまえ……」

 雅一郎の落ち着き払った答えに、範大はうろたえている。

 「そのような小細工を! わたしを愚弄するつもりか! 父上に訴えてやる! 春先の失態につづき、また父の顔に泥を塗る気か? おおそうだ。さきほど、あの小娘に、ほかにも水盗人はいると言っていたな? 父上は盗人を見かければすぐに捕縛(ほばく)するようにと命じておられたはず! 見て見ぬふりをしていたということかっ! ますます許すことならぬ! 訴えてやる、父に訴えてやる!」

 「まあお気をおしずめください、範大様」

 雅一郎は、腰をかがめもしないで落ち着いて言い返した。

 「ここから父上に訴えようとしても声は届きますまい。よろしいですか? 村西殿が父上を頼って見えられたことそれ自体が柿原大和守さまのお仕組みになったことだったのです。それを父上はご存じなかった。それだけのことです。私とて村西殿から先ほど明かされ、驚いていたところです」

 「なに?」

 範大は慌てていた。雅一郎は驚いているどころか落ち着き払って、大きく頷いている。

 「柿原様と玉井の金貸し衆は仇敵(あだがたき)の間柄です。玉井の金貸し衆は、玉井郡の町人衆村人衆はもとより、玉井に住まいを持っている越後守様の家臣衆にすら柿原党から金を貸すことを許そうとしていません。玉井郡、とくに玉井の町はいちばん儲けの上がるところなのに、そこを独り占めしようとしている。それを越後守様も大和守入道もよくないことだと思っておられる」

 範大が何も言い返さないので、雅一郎は落ち着いてつづけた。

 「このたび、町の金貸しどもがあせっているのは、貸し銭をかき集めなければ、越後守さまから請け負っている年貢の本家への払いが滞るからです。しかし、本来、そのような非道な金貸しが本家への年貢の払いを請け負っていることがおかしい。そこで、このたびは是非にも町の金貸しが銭を集められないようにして、町の金貸しどもが大きな顔をすることができないようにしなければならないのです」

 「難しいことはわからぬ!」

 範大は雅一郎の言い分に最初の猛り立ったときの勢いを失っていた。とまどっているようだ。

 「だが、だとしたら、どうして村の者たちはわれらの肩を持たぬ? 先ほどから仇敵のように罵られている一方ではないか! いまも門のまえで騒いでいる声が聞こえるぞ」

 「それは、村人が愚かで、自分の利害得失というものがまるでわかっていないからでございます」

 雅一郎が言った。

 「牧野の者たちは、愚かにも、先の牧野の乱のことを恨みに思い、乱臣から村人を救われたのが越後守様だということを忘れております。それで、越後守様のご岳父であらせられる大和入道様にもわけもなく敵愾心(てきがいしん)を抱いているありさまです」

 「ほう、そうなのか?」

 「しかも、それは、あの玉井の金貸しどもが、この村の暮らし向きがよくならないのは、自分たちのせいではなく、越後守様の政道がまちがっているからだと吹聴(ふいちょう)しているからなのです。このたび、われらが玉井の金貸しを放逐し、そのあくらつなありようをばくろすれば、村人は掌を返したようにわれらに感謝することでしょう」

 「うん」

 範大は雅一郎の論に納得していないようだ。

 というより、途中で雅一郎の言っていることがわからなくなったらしい。

 「で、水盗人の件はどうなのだ? おまえは父上を欺いていたのか?」

 しかたがないので、先の話を蒸し返す。しかし雅一郎は少しも悪びれることなく答えた。

 「なに、そのようなことをするものですか。口から出まかせですよ」

 「なに?」

 「しかし、娘が水盗人であることは確かですし、ああ言うことで、村人たちの幾人かはあの小娘が悪者の一味だと信じた。それを狙って出まかせを言っただけのことです」

 「そう……そうか」

 範大は何か落ち着かない。何か言いたげにもぞもぞしている。

 そこへ、ようやく、屋敷の主の村西兵庫助と、兵庫助と同心している大木戸九兵衛(くへえ)、井田小多右衛門(こだえもん)の三人がやってきた。

 玉井の金貸しの使者が寄合を追い出すところまではこの三人はうまくやったつもりだった。しかし、そのあと、嘘をついて遅参したことをとがめられ、兵庫助ら三人も追い出された。しかも、この三人が寄合から追い出されたことが伝わると、村の者たちが女や子どもや小者衆・下男衆まで含めてそれぞれの家に押し寄せてきた。大木戸九兵衛や井田小多右衛門は一人暮らしで家も小さい。そこではもちこたえられないので、中原安芸守範大と長野一郎雅継とその配下の小者たちもまとまって村西兵庫助の屋敷に逃れてきたというわけである。

 「遅れまして申しわけございません」

 まず村西兵庫助が謝った。

 範大は知らぬふりだ。というより、客を迎える作法を知らないのだろう。この範大の父克富がそうだ。

 雅一郎が黙って頭を下げる。兵庫助ら三人が藁座(わらざ)に腰を下ろした。腰を下ろすのを待って、雅一郎がおもむろに言う。

 「このたびは不調法でしたな」

 「はっ」

 九兵衛や小多右衛門はちらっと兵庫助を見たままなにも言わない。今度の件では何もかもこの兵庫助に頼り切っているようだ。

 「しかし、ご安心ください。あの使者は川中からも森沢からも相手にされず、すごすごと引き返すしかありません。そうなれば、わたしたちの村が何をどう決めても、あの使者どもが借銭を取り立てて帰ることは叶わぬはずです」

 「しかし、川中や森沢はほんとうに支払わぬであろうか?」

 雅一郎が言う。兵庫助がちらっと小多右衛門をうかがう。

 「抜かりはありません。川中にも森沢にもこの井田小多右衛門を通じて玉井の使者と称する娘の一人が盗人であると伝えてあります。それを村に入れるようなことは、川中の衆も森沢の衆もしますまい」

 「それは巧く運んだ」

 雅一郎は満足そうに頷く。すかさず兵庫助が
「それも長野様があの小娘の正体をお見抜きになったからですよ。それがなければ私たちの策は行き詰まっていたかも知れません」

 「なに、われらの殿はご検注破りを(こと)のほか厳しく取り締まっておられる。それが幸いしたのです」

 雅一郎は言って範大に小さく黙礼するが、範大はあらぬ方の天井を眺めている。こういうところも父譲りだと雅一郎は思う。

― つづく ―