夢の城

清瀬 六朗


桜の里(三)

― 2. ―

 川中村にも川上村と同じように村に入る手前に森があり、そこに関所が置かれていた。

 川中村の関所はきちんと開いていて、ちゃんと関所番がいた。黙って素通りすることはできない。そこで、隆文が、関所番に、自分たちの用向きを伝えて村に入れてくれるように求めた。

 関所番は小太りな男だった。朗らかそうな顔をしている。しかし、その男は、やはり朗らかな声で、銭屋の使者三人が村に入るのを許そうとしなかった。
 「じつはご一行の中に水を盗んだ娘が入っているという知らせが届いているのです。罪人を村に入れるわけにはいかないということで、いま調べているところです。したがって、村にお入れするわけにはいきません」

 「それは言いがかりですよ」

 隆文が言い返した。

 「中原村から川上村に来た(さむらい)がそんな言いがかりをつけただけです」

 美那もかしこまって
「それは以前にあった紛議(ふんぎ)で、わたしはたしかにそれにかかわっていました。でも、もうその紛議は中原郷の名主様と市場の長者とのあいだで話し合いがついております。柿原党の地侍がそれを蒸し返しただけです」
と説明する。だが関所番の男はきかなかった。

 「あなた方の言い分はお聞きしました。しかし、どちらが正しいか、私たちの村ではいますぐ確かめる方法がありません。明日の昼にもういちどお出でください」

 「いまから町へ帰れというのか? 女二人連れて?」

 隆文はいかにもいやそうに抗弁してみた。しかし関所番は眉一つ動かさず、にこやかな笑いを半分ぐらい浮かべ、残り半分は澄まして答えた。

 「町へ帰られようと、どこかほかの村に泊まられようと、私たちがとやかく申すべき筋合いのことではありません。いま、この村にお入れするわけにはいかないということだけです」

 「しかしな」

 隆文は思案顔をした。

 「日暮れも近い。このままではわれら三人、行くところがない。どうだ、村人とはいっさい顔をあわせもしないし口もきかないから、村のどこかに泊めるだけ泊めてくれるわけにはいかないか?」

 関所番は朗らかに笑いながら、朗らかな声で言った。

 「日暮れが近いと言っても、まだ次の村まで行けないほどでもありません。だからそういうわけにはいきませんよ」

 「こちらは町から来たばかりで不案内なんだ、な、頼む」

 「先ほども申しましたとおり、あなた方を村に入れるかどうかは調べて詮議(せんぎ)しているところなので、それが決まるまではお入れするわけにはいかないのです」

 「では、この関所の庭先でもいい」

 「だめです」

 「どうしてもか?」

 「どうしてもです」

 関所番は朗らかな顔をやめて目を細くしてつり上げ、行儀よく座ったまま隆文をにらみつけていた。

 ついに隆文は根負けした。

 「じゃ、明日の昼のいつ来ればいいんだ?」

 「はい」

 関所番はもとの朗らかさに戻った。

 「昼に明徳教寺(めいとくきょうじ)の鐘が鳴ります。その鐘が鳴った後にお出でください。ただし、寄合での詮議(せんぎ)の結果、そちらの方がまことに罪人だということになったばあいには、村に入りしだい捕縛ということになるかもしれません。そのことはご了承いただきたく存じます」

 関所番はていねいに頭を下げた。

 「そんなことを言われても、われらはそのなんとか寺の鐘をきいたことがない」

 「夕暮れに鐘は鳴ります。川上村や森沢郷までも聞こえる鐘ですから、それを聞いていただければどんな音かはわかるはずです」

 関所番のなめらかな答えに、隆文とさわと美那は顔を見合わせた。

 顔を見合わせたところで、腕づくで関所を破るという決心もつかない。とりあえず村に入るのをあきらめるほかにやりようはない。


 中原安芸守(あきのかみ)範大(のりひろ)と長野雅一郎(まさいちろう)の主従と、村西兵庫助(ひょうごのすけ)・大木戸九兵衛・井田小多右衛門の三人は、村西の奥方の美千(みち)が煮てくれた(ふな)と菜の漬け物を(さかな)に酒を飲んでいた。

 日暮れが近づき、ようやく門の外で村人が騒ぐ声もやんでいた。

 「しかし、これからはなんですな」

 村西兵庫助が大きな明るい声で言った。酒が入るまえは今日の不首尾を気にしているようで声も沈みがちだったが、酒が入ってから人が変わったように陽気になっている。

 「これからは三郡は柿原様の世ですよ」

 「ほう」

 雅一郎が答える。

 範大はほとんど何も話さない。出てきた鮒の身をほぐし散らしながら早々に食い、菜を麦飯にまぶしてさっさと食ってしまってからは、座の者のほうにときどき目をやりながら酒を一人で注いでは飲んでいるだけだ。

 雅一郎はその範大のほうをときどきうかがいながら兵庫助に応対している。九兵衛と小多右衛門は何もかも兵庫助に任せているのかほとんど口を挟まない。

 「春野家も初代正興(まさおき)公はすぐれた武人であられた。しかし、次の正勝(まさかつ)公の世になると、世の気風は文弱に流れた。そしてその正勝公も亡くなると、巣山の柴山ごときに侮りを受けるようになった。その世を立て直されるのが、柿原大和入道様だ」

 「ほう」

 「柿原大和守(やまとのかみ)様は文武両道にひいでておられる。柿原様のおかげで玉井春野家も安泰となった。それに、なんだ、柿原様のお世継ぎであられる主計頭(かずえのかみ)範忠(のりただ)様さまがまた英明で文武両道にひいでたお方だ。将来の玉井三郡を支えるのは必ずやこの柿原主計頭様であろう」

 「なるほど」

 「しかし、村人どもはそのことがわかっておらぬ。困ったもんだな」

 兵庫助は自分の濁り酒の杯を揺らしながら言う。その酒を通してその村人どもを見下ろして、憐れみ、勝ち誇っているようだ。

 「あの者たちは昔の乱のときのことをまだ根に持っている。あの者たちこそ越後守(えちごのかみ)様と大和入道様に命を救われたというのに、心違いもはなはだしい。うん、心違いもはなはだしいな、そうは思われぬか、長野殿」

 「はあ」

 雅一郎は範大のほうをうかがうが、やっぱり目は天井のほうをさまよっている。

 「そうですな。もっとも、よその村のこととて、詳しいことはわかりかねますが」

 「なに、わかりかねるようなことは何もない。前の名主様が乱心なされて、越後守様に(たて)つかれた。その名主様とともにわれら村人も滅ぼされてしかたないところを、命をお救いいただいたのだ。なのに、村の者たちはそのことが少しもわかっておらぬ」

 そう言って杯を干し、(かめ)から酒を新たに注ぐ。

 「まあそれはよい。しかし、村の者のほうから越後守様や大和入道様をまるで仇敵(あだがたき)のように見て何とする? そうであろう? そうして頼る相手といえば町の金貸しのような素姓の知れぬ者ばかりだ。このようなことで村がよくなると思ったら大間違いであろう? な? 長野殿」

 「はあ、そうかも知れませぬ」

 「そうに決まっているではありませんか、なあ長野殿」

 言ってまた酒を飲み干す。注ごうと思ったら瓶に酒が残っていない。兵庫助は庭のほうを向いて声を上げた。

 「おい! ふく! ふく!」

 「はい」
と小さな声がして、(わらじ)の先で砂を蹴る音が大きくなってくる。ほどなく下女のふくが姿を見せた。

 「お呼びですか、旦那様」

 天井のあたりに目をやっていた範大がふと顔を下ろし、驚いたような顔を声の主のほうに向ける。

 「おう、酒を持って来い」

 「えっ? まだお飲みになるんですか?」

 ふくが言う。兵庫助は大声で叱りつけた。

 「何を言っている? お客人が見えられているのだぞ、あるじのおれに恥をかかす気か?」

 ふくは叱りつけられて目を閉じた。しかし、目を開くと、また顔を上げてつづける。

 「しかし、奥方様が先ほどの瓶で最後だと念を押しておられました。もう酒も残り少ないからと」

 兵庫助ははっと横を向くと九兵衛と小多右衛門を見る。九兵衛と小多右衛門は素知らぬふりをする。

 「お客様がお酒をご所望なのだ。何でもいいから持ってこい」

 「はあ」

 ふくがとまどっているのも無理はない。

 「奥方様には左様申して参ります」

 ふくは、とってつけたようにぽんと頭を下げると、また来たときと同じように(わらじ)の先で砂を蹴散らす音を立てながら消えていく。

 「はは、ははは」

 兵庫助はわざと笑い声を立てた。

 「まったく困ったものです。あれは妻が連れてきた下女でしてな、何をするにも妻の顔色ばかりうかがっておるのです」

 「はあ」

 「しかも妻が酒の出し惜しみをしましてなぁ」

 「それは私のところでも同じですよ」

 雅一郎が言う。

 「私の妻など、今朝など私の酒を水にすり替えよりましてな、しかもその酒をどこかに取っておいたならともかく、捨ててしまったなどと抜かす。困ったもんです」

 言いながら雅一郎はあれはまだ今朝のことだったと思い返した。いまではもうずっと昔のことのように思える。


 春の日は長い。その長い春の日も暮れようとしていた。空の薄雲は海の波のように柔らかい紅色の光を繰り返し重ねていた。

 けれども地上はもう闇につつまれ始めている。

 美那と隆文とさわは途方に暮れていた。

 「まったく」

 隆文はさっきのやりとりのことで腹を立てている。

 「日が暮れるまでに次の宿にたどり着けない旅人を泊めないのは天下の法に反するというのに、なんということだ、しかも女二人も連れてるっていうのに」

 「もうやめなよ」

 美那が言う。

 「だいたい、わたしのことなんか女だとも思ってないくせに、こういうときだけ!」

 隆文もいきり立った。

 「それとこれとは違うだろう? 武芸を習っているときと、旅のときとでは」

 「自分の都合で使い分けして!」

 「おれの都合じゃない! おれはただ、だなぁ……」

 「それより、今晩どこに泊まるかですねぇ」

 隆文がことばのつぎ方に困ったところに、さわが巧くことばを挟む。

 ああ、さわちゃん、隆文や自分とつき合うのに慣れてきたんだと美那は思う。

 ことばの勢いを殺がれた隆文は、息をひとつついて調子を整え直し、
「そうだな」
と言う。

 「野宿するしかあるまいな。川上村は入れてはくれないだろうし、この調子じゃ、あの連中、森沢にまで話を回していやがるだろうから森沢でも泊まれまい。だからといって、町まで帰るのもなぁ」

 「野宿するならさ」

 美那が言った。

 「牧野様の館の跡はどう?」

 「館跡ぉ?」

 さわちゃんが言う。疑っているというより、何かおもしろがっているような声だ。

 「そう。周りは干上がってるけど濠で囲まれてるから外からだれも入ってこないだろうし、もしかすると何か建物が残ってるかも知れない」

 「しかし、火なんか焚いたら村から丸見えだぞ。連中、ただでさえおれたちを疑ってるのに、昔の殿様の館跡で野宿なんかしてるところが見つかったら」

 「だったら火を焚くのはやめたらいいじゃない」

 「やめるって……」

 隆文がことばに詰まる。

 「食うものはどうするんだ?」

 「おかみさんが団子作って持たせてくれたからさ、とりあえず一晩はそれで凌ごう」

 「うわっ。団子って甘いの?」

 「うん。蜜ももらってきたから」

 「いいの、いただいちゃって」

 「いいよ。みんなのものだもの」

 「わあ。わたしって甘い団子なんか食べるの初めてだから!」

 さわは目を輝かせ、美那は人なつこそうに笑う。

 隆文はこんどは長めに息をつき、美那とさわと、二人の娘に言った。

 「おまえら、なんか楽しそうだな」


 そうだ、今日の朝まで、自分はただのわがままな郷名主の手下の地侍だったのだ――と長野雅一郎は考えている。

 自分の借銭を返すことしか考えていない、いや、借銭をどう返していいかまったく算段がつかず、ただ酒を食らってふて寝して小者どもに疎まれ妻に叱られるだけの男に過ぎなかった。

 名主に呼び出されてこの仕事を任されたときには情けなくて涙があふれた。妻に叱られ、こともあろうに妻の脇差を借りて家を出た。村へ向かう道では馬に乗ってはしゃぐ範大のわがままに振り回された。しかし、その範大が馬を乗りつぶして馬から投げ出されたところで雅一郎の運は大きく変わった。

 村西兵庫助から今回のことに柿原大和守入道忠佑(ただすけ)の一党がかかわっていることを知らされた。こんどの仕事は、町から来た銭屋の手先を追い返すだけではなく、町の銭屋に一文も銭を握らせないことで銭屋どもを窮地に追いこむ策の一つなのだった。

 これまで雅一郎にとって柿原党は借銭を取り立てに来る恐ろしい金貸しだった。しかし、このときから、柿原忠佑こそが自分の仕えるべき主君に変わった。

 馬から投げ出されて範大がすっかりおとなしくなってしまったのも雅一郎には幸いした。

 いや、おとなしくなったわけではない。何かと主人面をしようとはするのだが、けっきょく雅一郎に頼らなくては何もできないのだ。そのことが呑みこめただけでも雅一郎はよかったと思う。

 雅一郎は一人にっこりと笑った。

 その雅一郎は、範大が、もぞもぞと足を動かしたり、落ち着きなく部屋を見回したりしているのに気がつかなかった。

 ただ、見ていたとしても、範大はもともと落ち着きがないので、そのようすが変だとは思わなかったかも知れないが。

 「(まさ)!」

 いきなり甲高い声で呼びかけられて、雅一郎は驚き、自分の杯にはまだ残っていた酒をぜんぶこぼしてしまった。

 「はっ!」

 見上げると、範大が主人の座で立ち上がり、雅一郎を見下ろしている。雅一郎はかしこまって頭を下げた。

 向かいに座っている兵庫助がしまったという(かお)で範大主従を見ている。大木戸九兵衛と井田小多右衛門も怯えたような貌で同じほうを見ていた。

 座がしずまりかえる。

 「雅!」

 範大はもういちど呼ばわる。そのとき、また鞋で砂を蹴飛ばす音がして、ふくが酒の入った瓶を持ってきた。兵庫助が立ち上がり、廊下に出て
「こらっ」
と小声で叱る。

 何を叱られたかわからないふくが顔を上げると、いちばん上座に座っていた中原安芸守範大がまっすぐにそのふくの顔を指さしていた。

 「えっ? 何か?」

 「雅、寝所へ案内しろ。その女を連れてこい!」

 雅一郎はあっと短く声を立てた。

 ここまで父親譲りだとは考えてもみなかった。

 範大の父克富(かつとみ)は村の女に片端から手をつけて行った。そのときの振る舞いにそっくりなのだ。

 「はっ? わたし?」

 ふくは事情がぜんぜん呑みこめていない。兵庫助がそのふくに小声で
「美千のところへ行け! ぐずぐずするな!」
と言う。ふくはますます事情がわからない。

 「はっ、はい、いますぐっ」

 ふくは先刻に倍する音を立てて砂を蹴立てながら台所へ戻っていった。

 「おい、何を……」

 そう言って叱りつけようとした範大に兵庫助はにっこりと笑いかけた。

 「お休みでいらっしゃいますか。それでは案内いたします」

 「待て、いまの女を……」

 「はい、その方の支度(したく)もできております。ひとまずご寝所のほうへ」

 兵庫助は卑屈に笑いながら、自ら身をかがめて範大の先導役を務め、廊下を屋敷の奥へと進んで行った。範大は酔っぱらっているらしく、ふらふらと右へ左へと体を揺らしながら、その後ろについていく。

 雅一郎もつづこうとした。しかし、兵庫助が目配せしながら小さく首を振って合図したので、部屋に残ることにした。

 その雅一郎が、末席で目立たないように座って酒を()めていた井田小多右衛門にきく。

 「いいのですか、あの小間使いの娘」

 「いや」

 小多右衛門は首を振った。屋敷の奥に行った兵庫助に聞こえないようにか、小声でつづける。

 「あの子は無理だ。あの子は奥方が連れてきた娘御だし、あの兵庫助は奥方に頭が上がらぬ」

 「しかし」

 「身分が違うのだ、奥方と兵庫助とでは」

 小多右衛門は調子を強めて言った。それ以上は尋ねるなとでも言いたげだ。

 そのようすからすると、たぶん奥方のほうが身分が上なのだろう。だから、その奥方が連れてきた小間使いも自在にできないということのようだ。

 「しかし……しかし兵庫殿は確約しておられましたぞ」

 「だいじょうぶです」

 もう一人の大木戸九兵衛が笑みを浮かべて言った。

 「いや、しかし、恥ずかしながらわが殿様は言い出したら聞かぬたちで」

 「だいじょうぶですよ」

 九兵衛は笑って見せた。

 「あれの縁者の小娘が村におります。それを連れてきてかわりにしましょう」

 「なるほど」

 範大のことだから、あの小間使いの顔まではよく覚えていまい。いや、あの父親の例から考えても、全くの別人が来ても気がつかないだろう。

 「それではそうお願いいたします」

 雅一郎は頭を下げた。

 「ご苦労をおかけしますな」

 九兵衛は、なぜか口の端をわざと大きく引き上げ、目を細めて笑い、立ち上がって頷いた。


 夜空はさすがに暗さが勝つようになり、明るい星が輝くのが薄雲を通して見えるようになってきた。その暗い空の明かりを頼りに、美那と隆文とさわは、牧野治部大輔興治の屋敷跡を見回した。

 「これは考えたよりひどいありさまだね」

 気が遠くなりかけたような声で美那が言う。

 「ああ」

 隆文も言った。

 一足踏み出す。蔓草の枯れ草の下で何かを踏んだらしい。隆文は身をかがめてその踏みつけたものを拾い上げてみた。

 それは曲がった木のかたまりのようだった。隆文の掌でやっと支えられるぐらいの大きさがある。大きさとかたちからして屋根を下から支える垂木(たるき)らしい。

 だが、隆文がそれを握る手に力を入れると、ぽっ、と小さい音を立てて割れ、いくつかの破片になって地面に落ちてしまう。隆文が首を振ってその手を美那とさわに見せた。

 手は黒く汚れていた。さっき、日の光の残っているうちにといって団子を三人でほおばったときに手は拭っているから、それはその木のかたまりが砕けたときについた汚れに違いない。

 「話のとおり、ぜんぶ焼いちまったんだな」

 「ひどいことするね」

 そう先に言ったのがさわだったので、美那は少し驚いた。でも、そのことばに頷くだけですんだので、美那はそのさわのことばをありがたいと思う。

 「でも、ここまで軍勢は攻めてこなかったんでしょう?」

 さわがきいた。隆文が答える。

 「ああ。攻めないかわりに館を焼けって越後守だか柿原だか柴山兵部(ひょうぶ)だかが命じたんだそうだ」

 「つまり、自分で火をつけないと攻めていくっていうこと?」

 「ものわかりがいいな、さわは」

 隆文がさわのほうを感心したように見るが、さわはもう隆文のほうは見ていなかった。美那がそっと隆文に近づいて小声で言う。

 「どうせ、美那とは大違いだって言うつもりだったんでしょう?」

 「まあな。まあ、過ぎたことは気にするな」

 「なんだよそれ?」

 兄妹弟子で何かくだらない言い争いをしている。そのときふいに鐘が鳴った。

 耳もとで大鐘が打ち鳴らされているようだった。腹の底からうち震わされるようにさえ感じる。鐘の音はざわめきを打ち消すように遠くへと広がっていく。

 美那は頭を垂れた。隆文も同じようにしている。さわは小さく手を合わせていた。

 この屋敷跡に立つと、屋敷のまわり、山の端までこの寺の鐘の低い音だけが響いているように感じる。その感じが消えようとすると、また次の鐘の音が響いてくる。美那も隆文もさわもそれで頭を上げることができなかった。

 町では世親寺の鐘の音がいつも聞こえたし、ほかの寺の鐘の音も聞こえていた。もしかするといま聞いているこの鐘も聞こえているのかも知れない。けれども、町では、寺の鐘の音で身動きが取れなくなるようなこんな感じは感じたことはなかった。

 この郷はいまも牧野一党の喪に服しているのかも知れない。

 「……これがそのなんとか教寺の鐘の音か」

 「これじゃ忘れること、ないね」

 さわも小さく頷いた。

 しばらく待ったが、もう次の鐘は鳴らないらしい。鐘の音に圧されるように息を詰めていた三人はようやく息をついた。

 「それにしても、ここはぜんぶ燃えてしまって何も残ってないな」

 鐘の余韻が最後に消えてしばらく経ってから隆文が言った。

 「でも、どこか寝られる場所、探さないと」

 美那が言う。

 「春だからって、夜は冷えるよ」

 「うん……」

 隆文も、美那と二人だけだったら「瓦礫(がれき)の上ででも寝るさ。いやなら夜通し起きてるまでよ」とでも言うのだろう。でもさわがいっしょではそうも言えない。

 幸い、日は暮れても、薄雲の上から月が照らし始めていた。だが、夕日の光がいよいよ弱まると、その月の明かりが明るくなったり暗くなったりを繰り返しているのがわかるようになった。このまま雲が厚くなってしまったらほんとうに一寸先も見えない闇になってしまう。

 ただ、月の光が(かげ)ったときに目を慣らしておけば、雲が薄くなったり切れたりしたときに明るく見える。三人は屋敷地を歩き回った。

 「気をつけろよ」

 隆文が何でもないことのように言う。

 「こんだけの屋敷だ。井戸がいくつもあるはずだからな、しかも焼け落ちて井戸とはわからなくなってる。落ちたら助けられないぞ」

 「うん」

 美那はさわに寄り添い、手を引っぱって、自分が踏んだあとをさわに歩かせるようにした。隆文は隆文で一人で歩いている。

 道から見上げたときにはたいして大きな敷地でもないように見えたが、屋敷の敷地は思いのほか広かった。

 それはそうだと思う。

 この牧野治部大輔興治といっしょに兵を挙げた桧山織部正(おりべのしょう(かみ))興孝(おきたか)の屋敷――つまりいまの桃丸の屋敷は港の奥の山の斜面ぜんぶに広がっているのだ。それと同じ格の名主なのだから、それと同じくらいの屋敷を持っていても不思議ではない。

 だが、それが炭と瓦礫の山になっていては、泊まれるところもあるはずがない。しかも、乱から何年も経ったために、あたりは草に覆われ、木さえ生えてきている。

 けっきょく三人は屋敷地のいちばん奥まで来てしまった。奥にあったらしい石垣は崩されている。その向こうには、あの広い濠を挟んで田圃が広がっていた。

 あるいは、牧野の殿様は、この屋敷から自分が先頭に立って開いた田地を見るのを楽しみにしていたのだろうか。美那は、その崩された石垣にはんぶん足を載せて、月と雲の影を映している田圃を見渡した。水の流れる小さな堀がその田圃の隅々までめぐっているのが見える。

 「この向こうはどうなってるのかな」

 「あ、さわちゃん!」

 そんな思いに浸っていたので、うっかりさわのことを忘れていた。さわは崩された石垣の先まで行き、下を覗いていた。そして、美那が「さわちゃん」と声をかけたので振り向いたとき、さわの姿がすっと消えた。

 「あ、ばか!」

 隆文はわざわざ美那のほうに首をひねって言うと、さわが消えたところに駆けつけ、下を覗きこんだ。美那もつづいた。そして、美那は、隆文が覗くだけにしていたところに、何も言わず、ひょっと跳んで跳び下りた。

 「あ!」

 隆文には止める間もなかった。

 「あーあ……」

 隆文は、仏の名を唱えるでもなく、それだけ言って(ひげ)をしごく。

 「ん?」

 ほどなく、その隆文の顔の下に、薄汚れた娘どもの顔が現れた。さわのほうはなぜか知らないけれども笑っており、美那は怖い顔をして隆文をにらんでいる。

 「何がばかだ?」

 「ばかのことをばかと言ったんだ。特別なことを言ったわけじゃないよ」

 隆文は、そうつぶやきながら、美那のように無謀に跳んだりせず、崩れた石を上手に伝って二人のところまで下りた。

 隆文と美那がにらみ合う。そのあいだで、さわは、二人の雰囲気には気づかないように装い、ぱっと足もとを指さした。

 「何かなぁ?」

 「ぬおおっ!」

 隆文が声を挙げた。

 そこは枯れ草を並べて覆い隠してあったらしい。その覆いをさわが落ちたときに踏み抜いてしまった。

 そして、その下には扉が見えていた。

 まぎれもない木の扉だ。

 「隠し部屋だね」

 美那が言う。隆文が頷いた。

 「しかも隠した細工が新しい。いまも使ってるんだ」

 そしてさわも含めて三人で頷きあう。

 美那が最初に跳び下りる。こんどはばかとも言わず隆文がつづいた。扉は斜めについており、錠はかかっていない。二人で扉を引いてみた。なかなか開かない。美那が柄でたたこうと脇差をとりあげたのを、隆文が首を振って制し、自分の肘で扉をとんとたたいてみた。すると扉は一段下に落ちこんだ。美那が隆文のほうに顔を上げ、つづいて自分のほうにその扉を引っぱってみる。扉は引き戸になっていて、ときどき引っかかりながらも開いた。

 ちょうど穴の上から月の光が届き、美那と隆文が開いた扉を通して、なかに収められているものを照らし出す。

 「なんだこれは!」

 隆文が抑えた声で言った。

 そこに並べて積んであるのは藁造りの細長いものだった。

 それは米俵に違いなかった。

― つづく ―