夢の城

清瀬 六朗


桜の里(三)

― 4. ―

 「これは百石あるぞ。いやもしかするとそれ以上あるかも知れないな」

 隆文が俵の山を見上げて言う。

 穴蔵のなかではさすがに外の月の光だけでは動くことができない。そのかわり、あまり明るくなければ外に明かりが漏れることを心配しなくてもいいので、美那が提灯に火を入れた。

 穴蔵はしっかりと切石を組んで作られており、それを木組みの柱が支えていた。広さは美那の家の店の部分より少し大きいぐらいにも思えた。もっとも美那の店藤野屋は市場でも大きいほうとは言えなかったから、こうやって較べるのに使うのがいいかどうかはわからないが。

 その石の床から一尺ほどの高さの台がこれも木で組んである。俵はその上に積んであった。

 「わたしたちが来ることを知ってて、隠したのかな?」

 美那が言う。さわが首を振った。

 「もともと隠してたんだよ」

 「そうだな」

 隆文も頷く。

 「入り口の広さから見て、これだけの米を隠すのは大仕事だ。おれたちが来てから急いで隠したんじゃ間に合わないよ」

 「でも、何のために?」

 「さあ、ね。でも、おおかた、借銭の取り立てで村の米麦が洗いざらい持って行かれたときに食いつないだりするためのものじゃないか」

 「たぶんそうだよ」

 さわが言った。

 美那は、そうか、と思う。

 さわちゃんは巣山の貧しい村育ちなのだ。さわちゃんが育った村でも、同じように米を隠しているのかも知れない。

 美那は、いろいろとたいへんな目にはあったけれど、幸い食うものに困るという目には()わずにいままで来た。

 だがさわはそうではなかったのだろう。ここの村人たちのように、年々、銭を借り米を借りて、いつまで経ってもそれを返し終わらないという暮らしをしてきたのかも知れない。

 それがいま借銭の取り立てに来ている。どんな気もちなんだろうと美那は思う。

 いや、餓えることとは無縁で生きてきた自分は、どんな気もちでこの取り立ての仕事をすればいいのだろう?

 「理ばかりを通すのではなく、情に流されるのでもなく、自分の分をいつも忘れずに、何をどうすればいいか考えるのです」というおかみさんのことばがふとよみがえった。それはたしかにそんなにたやすいことではなさそうだった。

 「ここで寝る?」

 そんな美那の思いとはかかわりなく、さわはすっかり考えることを変えていた。

 美那と隆文は顔を見合わせる。

 隆文はしばらく考えてから頷いた。

 「ああ」

 だが何かまだ言いたそうだ。美那が
「何かあるの、気になること?」
と聞いてみる。隆文は答えるのを少しためらった。

 「今日のところはここで寝よう。俵が崩れても俵につぶされないようなところを選んでな」

 「奥のほうに空きがあるからそれはだいじょうぶだと思う」

 さわが言う。だが隆文はまだ迷っているようだ。美那が少しいらいらして、
「もう。何か気になることがあるんだったら、言いなよ」

 「ああ」

 隆文はその妹弟子のいらいらした声にべつに反発はしなかった。

 「いや、いまおれたちが来たことで、村の連中、この米のようすを確かめに来たり、ばあいによっちゃ引っ張り出しに来るかも知れないだろう? それを心配しただけだよ」

 「そういえばそうだね」

 美那も認めた。

 「でも今晩来るとはちょっと思えないけど」

 「まあ多分そうだけど……でももし見つかったりしたら、命がないぞほんとの話が。やつらとしてはいちばん見られて困る相手なんだからな、おれたちは」

 「うん……」

 美那は「そんなこと心配しないで寝ようよ」とは言えなかった。隆文は浅梨治繁がいまの屋敷に住むようになってからの一番弟子だし、美那なんかより師の感じかたをよく受け継いでいるところがあるはずだ。

 美那も少し考えた。

 「あ、そう言えば」

 「こんどは何?」

 さわが少し大きな声を立て、石造りの穴蔵に声が響いた。美那が声を抑えるように合図する。

 「こんどは何?」

 さわがこんどはほんとうに小さなささやき声で尋ねた。

 「いや、この穴蔵ね……出口が外でしょ? 城の穴蔵としてはそれはおかしいよ。だって、敵に囲まれたときに、外からしか入れないんじゃ、ここに隠してあるものが取りに来られなくなっちゃう」

 「なるほどな」

 隆文が得心したような声を立てた。

 「つまり、いまの出口とは別に、城の側に出られる出口があるはずだってことだな」

 「うん……ただ、上があんな焼けかたをしてるんじゃ、埋もれてるかも知れないけどね」

 「まあ、なんだ」

 隆文が言った。

 「市場の者としちゃ、まだ寝るには早いよな。寝るまえにもう一つの出口を探し当てることにするっての、どうだ?」

 「さんせい!」

 さわが大きい声を立てて、また美那がしずまるように合図する。

 このさわちゃんってほんとうに楽しいことが好きなんだとこのとき美那は思った。


 葛太郎はここに見当をつけるまでしばらく迷った。それで時間を損したと思う。そのかわり、全力でここまで駆けてきた。

 「ああ、もう何やってんだ」

 そう自分を罵りながらだ。

 毬が連れ出される前に訪ねてきたのは大木戸九兵衛だった。だから葛太郎は大木戸の家にまず行ってみた。庭の木に登って家のなかを覗きこんだり、床下からようすをうかがったりしてわかったのは、大城戸九兵衛はここにはいないということだった。だとするとどこにいるのか?

 あの三人のなかで、いちばん大きな屋敷を持っているのは――というより「屋敷」と呼べるものを持っているのは村西兵庫助だけだ。ということは、大城戸九兵衛はいまそこにいて、毬もそこに連れて行かれたに違いない。

 「大木戸のやつ……」

 毬を連れて行って何をするつもりだ?

 売り飛ばすつもりか? 借銭のかたに差し出すつもりか? だとしたら、だれに? 町の金貸しにか? それとも?

 何にしても、繭に言ったのとは逆で、毬は戻ってこないと葛太郎は信じていた。

 ――自分が奪い返さなければ……。

 正面から入るのは危なすぎる。何しろよその侍を連れてきていきなり寄合に乗りこんだような連中だ。何か備えはしているに違いない。

 ゆっくり考えている暇はない。村人に見つかったら、毬を助けるどころか、自分のほうが怪しまれてしまう。ただでさえ葛太郎は「広沢三家」の子どもなのだ。

 葛太郎は考えるより前に屋敷の前の堀割に跳びこんでいた。

 村のなかの堀割は、ごく浅いもので、水は葛太郎のくるぶしぐらいまでしかない。葛太郎は堀割のなかを歩いた。堀割から水を取っている口があるはずだが、そこも見張られているかも知れない。葛太郎はとりあえず水の流れに沿って歩いていった。

 屋敷に入る方法を思いつかないまま葛太郎は歩きつづけた。ふと身を潜める。だれかの足音がした。夜回りらしい。

 「ちぇっ! こんなときに……」

 葛太郎はいらいらする。この堀割は別に身を隠すものがあるわけではない。葛太郎は壁ぎりぎりに身を寄せていたが、それでも上から覗きこまれればすぐに見つかってしまう。

 「ああもう、村西のやつも手間かけやがるよなぁ」

 夜回りの村人の一人が言っている。ということは相方がいるのか。

 「そのとおりだ。そりゃ玉井の連中のやり方もよくはないが、何も柿原を引き入れることはないよな」

 「寄合に出てきてちゃんと話すればいいんだよ。それをやらないで、大木戸と井田とつながって陰でこそこそするから」

 しかも、夜回りの連中は、屋敷の門のまえで立ち止まったらしい。提灯の火が揺れている。

 「大木戸と井田はともかく、村西のやつは自分が陰でこそこそしてるって考えちゃいないんじゃないかって思うぞ」

 「どうして?」

 「何しろ村西のところは名家だからな」

 「村西が?」

 「いや、お美千さんがさ」

 「しっ! それは口に出しちゃいけないことになってるだろうが」

 「いいじゃないか、こんな立ち話、聞いてるやつがいるはずもないんだから」

 「ああもう、何やってるんだ」
と心のなかで葛太郎は罵った。でも、二人の村人がやりたいことはわかっていた。

 聞いているやつがいるはずもない、どころではない。わざと聞かせているのだ。

 中で聞いているはずの柿原方の小者どもにだ。

 「しかし、お美千さんも苦労するよな」

 「まあ、旦那があれじゃなぁ。しかも、あの旦那、自分がお美千さんより偉いってすぐに虚勢張りたがるからな」

 「それはよくないや」

 「だからさ、おれは柿原の連中に同情するよ」

 「なんで?」

 「だぁってさぁ、あんな頼りないやつなんだぜ? もっと確かなやつに手引きさせりゃさ」

 「そんなことされてたらおれたちの村は柿原の(とりこ)さ。やつらが目をつけたのが村西でよかったって考えないとな」

 「そうだそうだ、さあ行こうぜ」

 二人の村人は、葛太郎がへばりついている壁のすぐ上を通り過ぎた。

 そのとき、月に分厚いめの雲がかかったらしい。月が(かげ)った。急に村人たちの提灯が明るくなったように感じる。

 「明日あたり雨かな?」

 「いや、うちのばあさんによると、明日はもちこたえて、あさってあたりから降るんじゃないかって」

 「そういやぁばあさんの言うのはあたるよな」

 「そりゃまあさぁ……」

 提灯は角を曲がっていった。それを待っていたかのように月が雲から顔を出す。

 「これは運がいいぞ」

 葛太郎はそれでもしばらく用心して待ち、提灯が引き返してこないことを確かめてから、こんどは足早に堀割を歩く。村西の屋敷を通り過ぎる。村西の屋敷のとなりの屋敷地の前まで来てしまったが、どうやってなかに入っていいか、いい考えが浮かばない。

 村西の隣の屋敷地の水の採り入れ口まで来た。行きすぎようとしたとき、採り入れ口に挿してあるはずの竹が何本も抜け、何本かは折れたままになっているのが目に入った。

 「あ……」

 葛太郎は思いつく。

 この屋敷の持ち主は、去年の夏過ぎ、村をこっそり抜け出してしまったのだ。

 新しい田を開こうとして無理して稲の世話が行き届かず、けっきょく長雨で稲をぜんぶ腐らせてしまったという。それで借銭が返せなくなったのだ。

 「だからさ、町の銭屋に味方するつもりはないんだ。それをあの毬のやつ」

 葛太郎はそこまで言って、いまはその毬を救うのが先決でそんな愚痴を言っているばあいじゃないことに気づく。

 「そうだった」

 ともかく、屋敷の主人がいないなら、だれも見張ってはいないだろう。葛太郎は水の中から村西屋敷の隣の空き屋敷に潜りこみ、すぐに岸に上がった。

 水の中を進みつづけると、どんな罠があるかわからない。竹串ぐらいならともかく、水底に長い鉄釘が上向きに並べてあったりする。

 ともかくこの村はそういう物騒なしかけだらけなのだ。

 うち捨てられた屋敷の塀沿いをぐるっと回る。乗り越えられない高さではない。木登りの得意な毬だったら何の苦もなく上ってしまうだろう。葛太郎でも超えられないわけではない。

 けれども、村西屋敷の側から見張っていたら、その見張っているなかに転がりこむことになる。身をかがめて空き屋敷のなかを歩きながら葛太郎は考えをめぐらせた。

 では、どこから入れば見つかりにくい? 葛太郎は空き屋敷を見回した。

 月がまた翳った。風が止まる。

 あたりはもの音一つしない。

 「あれ?」

 では、なぜいままで「もの音一つしない」と思わなかったのだろう?

 さっきまでは川に身を潜めていたから波の音がしていた。けれども、空き屋敷に入ってからは波の音ではなかった。

 「そうか」

 葛太郎は手を打ちそうになった。

 「竹薮だ」

 竹薮を抜けていけばわからないだろう。竹薮は風が吹いているかぎり竹の葉が擦れ合う音を鳴らしている。見通しもききにくい。村西屋敷には大きな竹薮があったはずだ。

 問題はその竹薮にどう入るかだ。葛太郎は屋敷の裏へと駆けた。そこの土塀を越える。葛太郎はいったん村の外に出た。

 「いっ?」

 葛太郎の足の下には何もない。はるか下に堀割(ほりわり)が流れているだけだ。高さは二(じょう)はあるかも知れない。

 こちらは村の南側で、土地が急に低くなっている。

 土塀の上から村西屋敷の土塀の上には飛び移れないように柵がしてある。空き屋敷のほうの土塀の下のわずかな足がかりをたどっていくしかない。爪先立ちになり、塀に身を凭せかけながら横歩きに進む。

 「こういうことは毬が得意なのに!」

 考えた拍子につかんでいた土塀の脆くなった土が飛び散り、足の下に落ちていった。

 外側のほうには柵のしきりもしていなかった。葛太郎はその外側のわずかな足がかりをたどって村西屋敷の竹薮の裏まで行く。

 だが、村西屋敷の土塀はきちんと手入れされていて、()じ上るための手がかりがない。爪で土塀の塗り土に穴を開けていたりしたら夜が明けてしまう。

 上には薮の竹が少しだけせり出している。その竹の枝にでも何か紐でも結べたならば……。

 葛太郎はすぐに自分の締めている帯紐を思いついた。帯紐を解けばみっともない恰好にはなるが、そんなことは言っておれない。

 だが、帯紐を投げるには重石がいる。ここではそんな重石は手に入らない。

 「ちぇっ!」

 葛太郎は舌打ちした。そして壁にくっついたままもとの空き屋敷のほうに少しずつ戻っていく。

 空き屋敷の塀にもういちど登り、そこで割れた瓦のかけらを剥がした。少し思案したが、そこで葛太郎は帯紐をはずし、その割れた瓦を一端に結びつける。その紐を口にくわえて、また村西屋敷の竹薮に向かう。

 口の中の唾が帯紐に滲みて気もちがわるいが、そんなことを言っていられるばあいではない。咳払い一つしても失敗なのだと思うと、葛太郎の気もちに焦りが生まれた。

 その焦りを抑えながら葛太郎は機会を待つ。風のないときに竹を揺らせばわかってしまう。風が少し吹き、ついでに月が雲に隠れたときが――だが待ちすぎてもよくない。

 月はあいにくしばらく雲に隠れそうもなかった。そこで、風が吹き、隣の空き屋敷の薮が葉擦れの音を立てたのを聞いて、葛太郎は紐を投げた。

 紐は巧いぐあいに竹の枝の生えている本のところに絡まりついた。葛太郎は緩まないかどうかを確かめてから、ささっと紐を伝って上り、塀を乗り越えて薮に下りる。

 そこから先の屋敷内のようすはだいたいわかっている。広沢の下の家のおふくがここに奉公しているので、なんどか訪ねたことがあるからだ。

 だが毬はどこにいる?

 だいじにされて主人夫婦の住む大屋敷にいるか、それとも売り物扱いで小者たちといっしょに長屋にいるか。逃げないように長屋の柱に縛りつけられているかも知れない。

 葛太郎は迷った。だがすぐに決めた。

 探しやすいほうから探そう。

 長屋にはいまは柿原の小者がいる。小者は夜の見回りや見張りの仕事があるので起きているだろう。それに、忍びこんだところで馬や牛が目を覚まして暴れても困る。

 長屋はあとだ。大屋敷を先に捜そう。

 薮を抜けると大屋敷と中屋敷のあいだに出る。屋敷内の見張りや見回りのようすを確かめるために、葛太郎は用心しながら薮から中屋敷の裏に近づき、大屋敷と中屋敷のあいだの庭を見回した。

 「あ」

 声を上げかけた。

 中屋敷のいちばん奥の離れ――つまりいま葛太郎がいるところにいちばん近い部屋に上がるあたりに脱いであるのは毬の草鞋に違いない。

 葛太郎はすばやく屋敷の廊下にはい上がる。障子に影が映らないように廊下に身を伏せる。

 中のようすをうかがう。

 聞こえてきたのは、一つは大いびきで……。

 「毬!」

 もう一つは女の子のすすり泣き声だった。

 葛太郎は自分の体じゅうの血が沸き立って体が破れてしまうように感じた。

 「毬を泣かせやがって!」

 木から落ちても葛太郎の母親に狂ったように殴られても泣かなかった毬だ。

 その毬が泣くなんて!

 だが、葛太郎はすぐにでも跳ね上がりたいのを抑え、しばらく動かなかった。

 いびきが嘘寝入りだとは思わなかった。だが、寝ている者以外にだれかが起きているかも知れない。

 しばらく待ってみた。しかし、どうやら、ほかにだれかがいるようすはなさそうだ。

 月の明かりが翳った。葛太郎は寝そべった体勢から跳ね起きた。

 「毬っ!」

 「葛太……?」

 「何ってかっこうしてるんだ! 早く着物着て!」

 「でもわたしが逃げたら、葛太や繭や母ちゃんや、それに三家のみんなに……それにふく姉さんにだって」

 「そんなこと気にしてるばあいか! ほら早く!」

 「うん……」

 「繭とおれは何とでもなるし、ふく姉さんには奥方がついてる。手出しはできないよ。だいいちおまえがいまおとなしくしてたからって三家の何がよくなるってわけでもないだろう? 何にしてもこんなのについてっちゃだめだ」

 横で肌脱ぎになったまま中途半端に衾を被り、へんなふうに躯を斜めにしていびきをかいている男を見下ろして葛太はいう。

 「でも逃げてもつかまっちゃう。村の人はだれも、いや家でだってわたしをかくまってはくれない」

 「だからさ」

 たしかに葛太郎はそのことを考えていなかった。家に連れて帰るつもりだった。繭にもそう約束した。

 けれども、家に連れて帰れば、母ちゃんがまた毬を村西に差し出してしまう。

 だが、葛太郎はすぐに答えを見つけた。

 「村の外に逃げるんだ。ここの裏はもう村の外だ。屋敷から直接に外に跳び出したらだったらだれも気づかない。塀は高いけど、あれぐらい毬ならなんでもないだろう?」

 「うん」

 「う〜ん……」

 男が唸ったので毬と葛太郎はびくっとした。しかし男が目を覚ますようすはない。

 毬は着物を直すと、そっと部屋を抜け出した。

 きちんと障子も閉めておく。

 毬の草鞋は取らなかった。取りに行って見つかっては元も子もない。それに、毬は裸足で薮を歩くことぐらい、平気だとはいわないけれども、慣れてはいる。

 「ほらっ、何やってるの、葛太!」

 それに、ほら、すぐに元気になってこのようすだ。さっきまで心細そうに泣いていたのに、葛太郎が滑ってなかなか上れない竹をすすっと上ってしまい、葛太郎が巻きつけた帯紐をはずしている。

 葛太郎はさっき自分が助けた女の子に手を引っぱってもらってやっと竹に上り、塀の上に出た。

 「葛太、でも村から出てからどこ行くの?」

 葛太郎はこれも考えていなかった。でも、こんどもまたすぐに答えは見つけられた。

 「とりあえず義倉(ぎそう)に隠れよう。あそこならだれからも見つからないし」

 葛太郎はここまで来て心細そうにしている毬の顔を見ていっぱいに笑った。

 「それに、治部の殿様が守ってくださるよ」


 市場の藤野屋では、店の(かまち)のところで、女主人の薫と老人とが話している。

 日が暮れれば早いうちに店を閉めてしまい、使用人も帰すことにしている店で、夜遅くにまでだれかがいるというのはめったにないことだった。

 「それでは、あと何年かしたら村に帰るつもりなのですね、橿助(かしすけ)さん?」

 「ええ」

 相手は橿助といって、この店の使用人を取り仕切っている頭だ。

 框に斜めに腰掛けて後ろ向き、家のなかの薫に向かって話しかけている。灯は家のなかのほうに灯されているので、橿助の顔は半分が陰になって見えない。

 「村ではどんなに働いても粟粥(あわがゆ)で食いつなぐのがせいいっぱいで、それだったらって町に出てきたんですが、そろそろ町での働きもきつくなってきましたし、やっぱりこの年になると村が懐かしい」

 「橿助さんはたしか巣山の出でしたね?」

 「ええ」

 橿助は「あ」とも「え」ともつかない声で相槌(あいづち)を打つ。

 「山の多い巣山の中でもいちばん山のなかの奥津(おくつ)ってところで。でもいい里です。春になると村のいろんな木が少しずつ順番に花をつけていくんです。それは木によっても違いますし、同じ木でも、谷の口のほうと、山の上のほうでは少し違うんですよ」

 言って、老人は皺深い目に涙を浮かべている。

 「おっと、いけない。男の年寄りの涙なんか見せてきれいなもんじゃないですからね」

 薫は黙って笑って見せる。橿助がつづけた。

 「それに、若いときと違って、ずっと粟粥を食って暮らすのも、それはそれでいいんじゃないかって思えるようにもなりましたしね。市場はわたしらのような者にはにぎやかすぎる。たしかにものはたくさんあって、夜まで賑わってますがね。でも、ここで死ぬのは寂しい。おかみさんみたいに昔から市場にいたお方はいい。でも、よそから来た年寄りが心穏やかに死ねる場所じゃない」

 薫はやっぱり黙っていた。

 店の外からは、夜になってもにぎわっている花御門(はなみかど)小路の音が聞こえてくる。

 少ししてから薫が穏やかな笑顔を変えずに言う。

 「しかし、店の(あるじ)としては困りますよ。使用人を集めてくれるのも橿助さんに頼りきっていたし、なんといっても、店の葛餅の味をわかっていらっしゃるのは橿助さんをおいてほかにはいないわけですからね」

 「それがだめなんですよ」

 橿助は目を細め、店のほうを向いて薫から目を放した。

 「どうしてです?」

 しばらく間をおいて薫が聞く。

 「かんじんのわたしがあてにならなくなった。自分で仕事の指図をしていてわかるんです。あとで味や舌触り、歯ごたえなんかを見て、ぜんぜんよくないものを作ってることがある。しかも、それは自分がたしかに指図して作ったはずのことなんです」

 「わたしにはそんなことは感じられないけれど?」

 「それは」

 橿助は、少し嬉しそうに得意そうに、薫を振り向いた。

 「おかみさんには悪いですけど、おかみさんにわかってしまうようでは大ごとです。もちろんおかみさんもこの商売をずっとやってこられて、味はよくわかっていらっしゃる。でも、おかみさんが気づくような味の違いは、ほとんどの客は気づかなくても、客の一人や二人は気づくはずなんです。そうなっちゃ遅い。まだ一‐二年はなんとかできるでしょう。でもその先はもうなんとも言えない」

 「その味をだれかに伝えてくれないとね」

 「若旦那にはお教えしたんだが」

 薫はそのことばを聞いて目を閉じた。

 「過ぎたことを言っても始まりませんよ」

 穏やかに言う。橿助はいちどきゅっと口を閉じてから、ふいに顔を上げて、つづけた。

 「お美那ちゃんがもうちょっと大きくて、お美那ちゃんに旦那でもいればね。いやお美那ちゃん自身でもいいんだけど、いまはまだ細かい味の違いとか歯ごたえの違いとか、そういうことをよく感じる年ごろではないでしょう」

 「美那――ですか?」

 薫はそんな名まえが出てくるとは思わなかったようだ。

 「ええ。あの子も昔は困ったものだったけど、いまは頼りにしてますよ。いやァ、店の水のために中原村の地侍と争ってくれるなんて、きっと怖かったろうに」

 「あれはべつにお水のために争ったってわけじゃなくて」

 薫は笑顔をすっかり消して平らな声で言った。

 「ただ言いがかりをつけられたから見境なく喧嘩(けんか)を売っただけですよ。それにいまのあの子がただの地侍を怖がったりするもんですか――一人と一人で腕くらべをしたらあの子のほうが強いんだから。だから美那の前でああいうのを()めないでくださいね、お願いしますよ」

 「ふっ」

 橿助は笑って、薫を見返した。

 「おかみさんはほんとうにお美那ちゃんをだいじにしていらっしゃるね」

 「それはそうですよ」

 薫も笑った。

 「血はつながっていませんが、わたしにはだいじな娘です」

 橿助は何度かうなずいた。

 「橿助さんのお気もちはよくわかりました」

 薫は顔を上げ、背筋を伸ばして言った。

 「わたしのほうでも何か考えておきましょう」

 「ええ」

 橿助は立ち上がると、薫のほうに顔を向けた。皺の深く刻まれた顔で人なつこそうに笑ってみせる。

 薫も頬を盛り上がらせて笑って、小さく会釈した。

 「それでは、遅くまですみませんでした」

 「いえ」

 橿助が店の戸口の扉を引く。薫はその橿助を追うように店に下りた。

 内側から鍵を閉めるためだ。

 「では、お気をつけて」

 「はい」

 「はい」と「あい」のあいだのような声で答えると、橿助は、身をかがめて、小走りに花御門小路に去って行った。

 戸口を閉め、鍵を下ろしても、町のざわめきは遠ざからない。いつもは気にならないのに――。

 どうしてなのかは薫にはよくわかっていた。

 しかたがないので、薫は、その市場町の夜のにぎわいをしばらく店から上がらずに聞きつづけていた。


 出口はわりとかんたんに見つかった。

 いちばん奥の壁は、ほかの壁が大きな切石を積んで作ってあるのに、ここだけ細かい切石を積んであり、漆喰で固めてあった。その石を美那が脇差の先でたたいていくと、音が違う部分があったのだ。

 漆喰を剥がして石をはずす。石一つをはずすと、あとの石は上から順番にはずしていけばすなおにはずれていった。

 ひとがやっと通れるぐらいの穴が開いた。

 「美那、おまえ覗いてみろ」

 「もう、なんで偉そうに指図する?」

 そんなやりとりがあり、美那はその穴から身を乗り出してみた。

 下には床がなかった。上には……。

 上のほうに円い口が開いていて、その脇からは草が乗り出しているが。

 そのさらに上には明るい曇り空が見える。

 「井戸だ……」

 美那は胸を打たれる思いに襲われた。でも、美那はすぐに、穴蔵のほうを振り向いて
「井戸だよ」
と平気に声を返す。

 「なるほど」

 隆文が言う。

 「考えたもんだな」

 「でもさ」

 美那がその井戸を背にして言う。

 「これじゃ逃げ出し口としては役に立たないよ。上から下りてくることはできてもさ」

 「今夜襲われたら別の手を考えよう。相手に用意がないとすれば、おれが先手(さきて)、美那が後詰めでなんとか切り抜けられる。まだここで泊まらなきゃいけないことになったら、またそのときに算段するさ」

 そこで、三人は穴蔵の奥の、俵が崩れても転がってこないあたりに寝ころんだ。井戸の穴は開けたままだと寒いので、石を積んで塞ぐ。漆喰をはずしたのでもとどおりには積めなかったが、それでも半分以上の穴を塞ぐことはできた。

 横になってからさわが言った。

 「ねえ、あの子、毬ちゃんって言ったっけ?」

 「ああ、うん」

 「あの子、美那って名まえは出さないほうがいいって言ったけど、どうしてなのかなぁ?」

 「さあ」

 美那はそっけなく言った。

 隆文がしばらくしてからおもむろに
「美那っていうのはな、あの春野家の正稔(まさとし)公の妹姫の名前でな、牧野様の義挙のあと、井戸に落ちて死んだっていう。おおかた、その関係だろうよ」

 隆文はいったんそこでことばを切り、大げさにため息をついて聞かせる。

 「まあな、美那なんて名まえ、どこにでもある名まえだからな」

 「うん、その姫君の名まえは知ってる」

 さわが言う。

 「でも、それだったらこの村の人が気にすることはないよね?」

 「だからさ」

 隆文が応えた。

 「何か変なふうに話が伝わってるのかも知れないさ。へたに名まえを出すとたたりがあるとかな」

 隆文は大げさにため息をつく。石の穴蔵のなかではそれが大きく響く。

 「悲運で死んだひとにはありがちな話だよ。もし牧野様の義挙が成功していればその姫君だってあの越後守の手から助け出されただろうし、よりにもよって、玉井春野家ゆかりの井戸に落ちて死ぬなんてことはなくてすんだんだ」

 「黙って!」

 美那が声を潜ませて強く言った。

 自分の名まえの話が自分以外の二人のあいだでずっと交わされていることに苛立ったのではない。

 隆文もその異変に気づいた。

 いや、さわも。

 だれかが扉を動かそうとしている。しかも動かしかたを知っている!

 美那たちのようにへんなふうに引いたりせず、いちど押しこんで引き開けるという方法を知っている相手だ。

 向こうが入ってくるところを斬りつけるという方法をとるにはもう遅い。隆文と美那は、さわをあいだにはさんで身を寄せた。

 隆文は太刀を体の前に押し立てている。美那も脇差をいつでも抜ける体勢だ。

 「さっ、毬、入って!」

 「うん……でも葛太は?」

 「おれはうちに戻る。繭がいるから」

 「でも」

 「おれならだいじょうぶ。じゃ、食い物とかまた持ってくるから、くれぐれも村の米に手ぇつけるんじゃないぞ」

 「わかってるって! ……葛太、気をつけて」

 「うん……ひやっ!」

 「どうした毬っ!」

 叫んで葛太郎も穴蔵に跳びこんだ……のか?

 いや、いっしょにいた毬のため息から考えて、どうやら叫んだはずみに足を踏みはずして落ちてしまったらしい。

 「話は聞いたよ。驚かせて悪かったな」

 言ったのは隆文だった。隆文の後ろで美那が火口(ほくち)から提灯に火を移した。

 三人の銭屋の使者と二人の村の子どもが向かい合って立つ。

 葛太郎はせいいっぱいに強がって毬の前に立つ。

 「こっ……ここをどこだと思ってるんだ?」

 「治部さまのお城の下だよ」

 提灯をかざしながら美那が答えた。

 「それと、あなたたちの郷のたいせつな米倉――とってもだいじな場所」

 「だれに聞いた、いや、だれの許しをもらって……」

 「あら、それ言うんだったら、あなたたちだってだれの許しをもらってきたの? 子どもだけで、しかも夜に村を抜けて来ていい場所じゃないでしょう?」

 にっこり笑って、しかも葛太郎に顔をすり合わせるように近づけて言ったのは、さわだった。

 「こっ……これには、事情が……」

 「じゃあ、わたしたちにも事情があるの」

 強がる葛太郎にさわが答える。それで葛太郎がさらに強がって、
「ふん、どうせ川中村からも追い出されたんだろう? いい気味だ」

 「うん、そうだよ」

 さわは少しも気を悪くせず言う。ほんとうに気を悪くなんかしていないのだろうと美那は思う。

 「よくわかったね〜」

 「そりゃわかるさ」

 「じゃあ、どう、聞かせてくれない、あんたたちの事情って」

 「いっ……いやだっ。町の借銭取りになんか話すものかっ!」

 「葛太っ!」

 しかし毬が一喝した。

 「いま村でだれもわたしたちの味方についてくれるひとはいない。美那さんたちに話してみようよ。味方になってもらえるかも知れない」

 「でも、この人たち、金貸しだよ? 金貸しなんか信用できるものか!」

 葛太郎はまだ毬は金貸しに売り飛ばされるために連れて行かれたと信じているから強気だ。しかし、毬が
「じゃあ、金貸しじゃないひとだったらそのほうが信用できる?」

 「いや」

 葛太郎はことばに詰まる。

 「そういうわけじゃ……ないけどさ」

 けっきょく毬の理屈と――たぶん毬の勢いに押し切られてしまった。

 「繭を寝かせたままだから、あんまり長くはいられないぞ」

 そう言うのがせいいっぱいの抵抗のようだった。

― つづく ―