夢の城

清瀬 六朗


桜の里(三)

― 5. ―

 薫は裏庭に面した部屋で、藁座(わらざ)に一人で座っていた。

 ほかにはだれもいない。灯台に火があかあかと灯っているだけだ。それでも薫はきちんと姿勢を正して行儀よく座っている。ときどき少し上体を傾かせるぐらいだ。そんなとき、薫の(かお)はもの問いたげに見えた。そして、(からだ)が傾いでいるのに気がつくと、急いで体をもとに戻す。

 そんなことをずっと繰り返していた。

 裏庭の側の障子の(さん)を叩く音がした。

 薫はそのままの姿でいた。応えもしない。もういちど障子を叩く音がした。

 「薫さん」
と小さな声がする。

 薫は灯台を手に執り、畳から立ち上がって、障子のほうに近づく。障子の脇に座って、叩かれた障子に手をかけた。動きはゆっくりしているけれどもなめらかで淀みがない。

 障子の引き戸を開けると、庭には皿を持ったおよしが立っていた。

 隣家の駒鳥屋のおかみさんで、美那の友だちのあざみの母である。

 「お店のお客さんから菜の花漬けたのをもらったから持って来ちゃったけど、おじゃま?」

 およしはそう言って娘のように笑う。

 「いいえ。どうぞ上がって」

 「いえ、薫さんさえよければ、ここで失礼するわ。夜も遅いし」

 言って、およしは軒の下の短い廊下に菜の花の皿を置き、斜に腰掛けた。

 「そうね」

 薫は店からおよしと自分の箸を持ってきて、およしの横に並んで腰掛ける。このひとが足を投げ出して腰掛けるというのはあまりないことだ。

 およしは箸を受け取ると、自分でちょっと摘んで口に入れ、それでまた人なつこそうに笑った。薫は
「遠慮なくいただくわ」
と言って、菜を箸で取って口に運んだ。

 「寂しいでしょ?」

 およしが言う。薫は菜を口に含んだままふふんと笑った。これもいつも品のいいこの人には珍しいことだ。いつもは薫の品のいいのにおよしのほうが合わせるのだが、いまは逆だ。

 「そうね」

 しばらくしてから薫が答える。

 「寂しいということもないけれど、何かおかしい感じがするわね。いまもあの子にご意見しようと思って出てきたのだけど、あの子がいないんで、どうしたらいいかわからなくて、しばらくそこの畳に座ってたのよ」

 「ねえ、薫さん」

 およしが斜めに覗きこむように薫を見上げた。

 「前から聞こうと思ってたんだけど、どうしてあの子に意見するっていうの? ふつう叱るとか言わない?」

 「それでもいいんだけどね」

 薫は目を細めてそこまで言ってから、
「あの子ね、わたしからいうと、直接の主人ではないけど、主人筋にあたる家の子なのよ。それでなんとなく叱るって言いにくくて意見するって言っていたら、そのうちあの子も意見するっていうことばになじんでしまってね。で、そのまま」

 「あの子の素姓は聞かない約束だったよね」

 「ごめんなさい」

 「いいのよ」

 およしは優しい声で言った。

 「美那ちゃんが来てくれたおかげで、薫さんも元気になったように見えるし、それにうちのあざみにもいい友だちができた」

 「あざみちゃんがいてくれて助かったのはわたしのほう――というより美那のほうだわ」

 薫が答える。

 「あの子、最初はやたらとつんつんしていて、わがままで。あざみちゃんもずいぶん泣かせたでしょう?」

 「あざみはそうでなくてもよく泣く子だったわよ」

 およしはさばさばした言いかたで応える。薫はつづけた。

 「あざみちゃんが相手をしてくれたおかげで、あの子、何とかちゃんとした娘に育つことができたのよ」

 「もともと育ちがよかったんだと思うな」

 およしは、薫と目を合わせないでそう言ってから、「どう?」とでも言うように薫の顔を見た。

 「あの子が来たのは牧野様の(きょ)のある前だったかしら?」

 「いえ、そのすぐあとよ」

 「たしかに藤野屋さんに来た最初のころは荒れた感じだったけど。夜中に大声で泣いて、暴れて戸を叩いたりしてる音が聞こえたものよ」

 「聞かれていたの? 恥ずかしい」

 薫は少し俯いて言ってから、顔を上げ、裏庭の反対側のほうに目をやった。

 「なんでもここに預けられる前に相当にいやな思いしたらしいの」

 「うん。でも、あのころ荒んでたのはどこもおんなじだったしね。だからすぐにいい子に戻った」

 「いい子じゃありませんよ」

 でも、そう言うわりには薫は穏やかに小さく笑い、およしのほうを見た。

 「毎日、外に出ると何か起こして帰ってくるんだから。あの子より五歳下の男の子のようよ」

 「そんなのはあざみもおんなじ」

 「あざみちゃんはいいじゃないの。おしとやかで」

 「おしとやかじゃないわよ」

 およしは大声で言った。庭の向こうの母屋にいるあざみにも聞こえていたかも知れない。

 「たしかに店にいるときはおとなしくすましてるけど、何かおもしろいことがありそうだとそれにくっついて行ってしまうんだから。こないだだってそうでしょ。お美那ちゃんを溝に落っことしたりして」

 「あれはあの子が悪いんです」

 薫はきっぱりと言い切る。

 「もとはというと、あの子が竹井のお侍さんを殴ったのがきっかけだし、それに、剣術を習っているのに橋を落とされて溝に落ちるなんて油断がありすぎでしょう?」

 「それはお美那ちゃんには酷なご意見ね」

 「酷じゃありません。あの子はそうじゃないとどんどん乱暴になってしまうのだから」

 薫とおよしは笑顔を交わした。月が(かげ)って、でもすぐにもとの明るさを取り戻す。薫は箸で菜の花漬けを少し拾って口に運ぶ。

 「でも、どうするの、薫さん?」

 しばらくしてから、およしが言った。

 「どうするって、何を?」

 「ずっと前にきいたけど、美那ちゃん、ほんとうのお母さんがいるんでしょう?」

 「ええ」

 薫は頷いた。

 「でも、あの子のほんとうの母上があの子の生きかたに何か言ってくることはありませんよ。少なくともほんとうのお母さまはあの子が市場の娘のままでも何もおっしゃらないと思うわ。だからこれからどうするかはあの子が決めること」

 「だといいんだけどね」

 およしは顔を上げた。

 「わたしは美那ちゃんには市場の娘で――藤野屋の娘でいてほしい。それで、お美那ちゃんとあざみで藤野屋と駒鳥屋を継いでくれたらって思う」

 薫はしばらく庭のだれもいない井戸のあたりに目をやっていた。

 ここで、美那とあざみと、それにさととさわとみやという市場の娘たちが大騒ぎして洗い物をしていたのはいつのことだったか。

 薫はおよしのほうに顔を向けた。

 「わたしね……」

 「なに?」

 薫が口ごもるのはあまりないことだ。だから、およしも少し驚いてその薫のほうを見る。

 「わたし、この店、閉めようかと思ってるのよ」

 「えーっ?」

 およしは夜なのに何の遠慮もなく大声で驚き声をあげる。

 「どうして? だって、薫さん、旦那さんが亡くなってから、自分が生きてるかぎりこの店を守るって……! それをどうして」

 で、ふと思いついたように
「あ。借銭がかさんで返せなくなったとか? だいじょうぶよ、銭米ぐらい融通するから。銭屋の横暴なんかに負けてはいけないわよ」

 「あなたのお店だって人のところに融通するほどお金持ちじゃないでしょう?」

 薫は平然とおよしの触れてほしくないことを言う。

 「それに美那はいまその銭屋の仕事で牧野に行ってるんですよ。銭屋が悪いみたいな言いかたしないでほしいんだけど」

 「あ、ごめんなさい」

 およしはすなおに謝った。薫がそのおよしを見てくすっと笑う。

 「たしかに借り銭のこともあるんだけど、それより、働いてくれる人がね。わたしもそんなに働けないし、あの子にも仕事を覚えさせてはいるけど、あの子どうしてもやることががさつだし」

 「そんなのいずれ直るわよ。二十歳にもなってない娘ががさつでも、それはそれであたりまえでしょう?」

 およしが言う。薫は小さく頷いてつづけた。

 「たとえそうだとしても、わたしとあの子だけではね。いま店の仕事をやってくれてる橿助(かしすけ)もあと何年かで村に帰りたいって言い出したの」

 「そうっか」

 およしは薫よりも困ったような声を立てる。

 「あの人も(とし)だからなぁ」

 「そうなれば店の者たちも半ばは帰るだろうから――あの人たち橿助が村から連れてきたんだからね。だれかたしかな働き手がいてくれないと」

 「ってことは」

 およしは急に何かを思いついたように言った。

 「つまり、働き手がいてくれればいいんだ」

 「それはそうだけれど」

 薫は首を振って目を閉じた。

 「わたし一人でやってる店だから、そんなところに働きに来てくれる人がいるとはね。あと、あの味がわからないといけないからだれでもいいってわけにはいかないし」

 「でも店は閉めないでほしいな」

 およしは庭のほうに顔を上げて言った。

 「二人でずっと店並べてやってきたんだから、これからもそうしようよ。それにここって正和(しょうわ)二年からつづいてる店なんでしょう? わたしのところなんかよりずっと古いお店なんだから」

 「ね、およしさん」

 薫はきいていたずらっぽい笑みを浮かべる。

 「なに?」

 「正和二年っていつごろか知ってる?」

 「えっ?」

 およしはたしかに答えに詰まった。

 「それは……ずっと昔でしょう? すくなくともわたしは生まれてなかったし、わたしのお父さんお母さんも、そのまた両親も、まだ生まれてなかったころでしょう。それより前がどうだったかなんて……知らない」

 「わたしもよ」

 薫はこんどはいたずらっぽくなく柔和に笑ってみせる。

 「だから、そんなことにこだわってもしようがないと思っているのよ」

 「うん」

 およしは頷いてからしばらく考えた。

 「でも、もうしばらくはがんばろうよ、薫さん」

 それで薫の顔を見ていう。およしのほうが背が高いので、少し見下ろすようになる。

 「美那ちゃんが店を継げるぐらいになるまで待ってみようよ。あの子だって、この店がなくなったりすると悲しい思いすると思うよ。ほんとうのお母さんが何もおっしゃらないんだったら、ね?」

 「ええ」

 薫はそれでも少し迷ってはいるようだった。

 「そうね……」

 二人は、月影が明るくなったり暗くなったりを繰り返しながら照らしている裏庭を並んで眺める。

 しばらくして、薫が
「あの子、今ごろ……」
と言いかけた。何をしているのだろう、とか、どこで寝ているのだろう、と言うつもりだったのだろうか。

 だが、そのまえに、斜め向かいの駒鳥屋の窓の雨戸が開いた。

 顔を出したのはあざみだ。長い髪をすっかり解いている。寝るつもりだったのだろう。

 「お母さん!」

 で、薫のほうにちょっと頭を下げる。

 「何? 夜中にそんな大声出して!」
というおよしの声のほうがよほど大きい。

 「いまねぇ、牧野郷からの使者ってひとがお店に見えてね、坂戸(さかど)の伯父さんに会いたいって! 何か急ぎの用らしいんだけど」

 「牧野?」

 「そう!」

 「うん、すぐ行くわ」

 およしは裏庭の縁から跳び下りた。

 振り向くと薫と顔が合う。薫はふだんどおりの穏やかな貌をしていた。

 でも、およしはその薫に笑いかけた。

 「美那ちゃんは外でわたしたちの恥になるようなことなんかけっしてしないはずよ。安心して」

 言われて薫は小さく頷いた。およしは、少し心が残るというようにその薫を見ていたけれど、すぐに早足であざみが覗いている窓のほうに戻って行った。


 むにゅっ……むにむに……きゅむっ……。

 「葛太(かつた)! もうちょっと品よく食べなさいよぉ」

 「そんなこと言って、(まり)だって蜜を着物にこぼしてるじゃないか」

 というわけで、薫にそういう心配をかけているとは知らず……。

 いや、たぶん、薫が心配していることは知っていただろう。

 ともかく、その薫が美那たちに作ってやった団子の残りは、いま、川上村の毬と葛太郎がまたたくうちに食べてしまった。一つは(まゆ)――葛太郎の妹だ――に持って行ってやろうという殊勝なところも見せたのだが、また土塀を乗り越えて帰るのにそんなものを持っていてはじゃまだし、母親に見つかるとまた悶着が起こりそうなので、けっきょく食べてしまったのだ。

 というわけで、腹を満たした二人の子どもは、これまでの経緯を、美那たち一行にしゃべり始めた。

 「おれたちの家は広沢三家って言って、ほかの村の人たちの家と違うんだ。毬が上の家、おれと繭が中の家なんだけど、ほかの村の人たちの子は遊んでくれないし」

 「遊んでくれないの?」

 さわが聞く。葛太郎は頷いて、
「うん。遊んでるところに行ったら遊びに入れてはくれるんだけど、何か別扱いされるし、また明日ねって言ってそれで次の日に同じところに遊びに行ったらだれもいないんだ。そんなのを繰り返されたら、遊びたくないんだってわかるよ」

 「どうしてその広沢三家って特別なの?」

 美那が聞いてみた。でも、葛太郎は、毬と顔を見合わせて、二人とも首を振った。

 「それで、三人だけであの関所のところで遊んでたのね」

 「うん」

 何かをもてあましているように葛太が答える。そして、つづけて
「なあ、姉ちゃん、あの村西っていうのは悪いやつだぞ」

 で、ぱちん。

 いきなり毬に手の甲で頬をはたかれている。

 「何だよ毬? 痛いなぁ」

 「よそから来た人にそんな言いかたしてもわからないでしょう?」

 「わかるよ」

 葛太郎も意地を張る。

 「村西は悪いやつだ。ついでに大木戸も井田も悪いやつだ。かんたんなことじゃないか」

 「じゃ聞くけど村西とか大木戸とか井田とか、どう悪いわけ?」

 「あのなあ! そんなのわかるだろう、毬なら!」

 「わたしならわかるよ」

 相当にいらいらしている葛太郎と較べて、毬は微笑すら浮かべている。

 「でも、この人たちにはわからないじゃない?」

 「じゃあ、おまえが説明しろよ」

 葛太郎は()ねてしまった。

 かわって、毬が顔を上げ、美那のほうを見ながら話を始める。

 「村西兵庫助っていう人は村に大きい屋敷を持ってるひとで、大木戸九兵衛と井田小多右衛門は、家はぜんぜん別なんですけど、近ごろは村西兵庫助とずっといっしょにいるひとです、ね?」

 せっかく毬に話を振ってもらっているのに、葛太郎は
「その村西の屋敷からおれは毬を助け出してきたんだ。たいへんだったんだぞ!」
などと言うものだから、毬に
「いまそういうことを話してるんじゃないの!」

 また叱られてしまう。

 「村西って前から悪い人だったんじゃないんですよ。子どものころはよく遊んでくれたんだから」

 「悪いやつだよ!」

 葛太郎は食い下がった。

 「だってさ、今日だって、毬を連れて行ったの大木戸じゃないか。よく遊んでくれてたのだって、いつか毬を売り飛ばすために手なずけようとしてただけだろう?」

 「でも、うちのめんどうよく見てくれた」

 毬の声は少し弱くなった。

 「春先になって、食べるものがなくなって、粟粥の重湯を薄めて毎日食べてたとき、それじゃ繭がもたないだろうって、兵庫助さんがお米や麦を分けてくれたし、九兵衛さんや小多右衛門さんは村の人たち説得してうちのために麦とか粟とか集めてくれた」

 「だってそれは」

 葛太郎も勢いよく言いかけていったんことばを切る。

 「それはさ、村西のとこが金持ちで、米とか麦とかいっぱい持ってたからだろう?」

 「でもね!」

 「おい」

 葛太郎と毬の言い争いに隆文が割って入る。

 「おれはその村西ってやつの味方するつもりはぜんぜんないけどな」

 で、葛太郎はその隆文をにらみつける。その口をとがらせた懸命な横顔がかわいいと美那は思う。

 「やつは金持ちなんかじゃぜんぜんないぞ」

 こらこら、ありがたくも銭を借りてくださっているお客様を「やつ」なんて呼ぶもんじゃないぞ――と美那は思ったが何も言わなかった。

 まったく、こういうのといっしょにいるから、だれかれなしにひとに「やつ」をつける癖がついちゃったんじゃないか。

 「どういうことだよ? だって村で一番ぐらいの屋敷を持ってるんだぞ」

 「そのかわり借金も多いな、その村西様。ほかの村人衆よりひと桁多い」

 美那の思いが通じたのか、隆文はこんどは「のやつ」のかわりに「様」をつけた。

 しかし、お客様がどれだけ金を借りてるかなんてそうおおっぴらにしゃべっていいものなのかどうか?

 隆文はかまわずつづけた。

 「大木戸様とか井田様とかも村西様よりは少ないが、ほかの村人衆よりは多い。やつらが今日みたいなことをやったのはそのせいかも知れんなぁ」

 「なんでだよ?」

 葛太郎は何かだまされたように身を後ろに引いて言う。

 「なんで金持ちのくせに金借りるんだ?」

 「うん?」

 隆文は、もったいぶっているのか、わざと答えるのに間をおいた。

 「それがこの世のなかで難しいところでな。金持ちが金持ちでいるのにはいろいろと無理しないといけないのさ」

 「兵庫助さんの家は郷名主になろうとしてるってきいたことある」

 毬が言った。で、葛太郎が慌てて
「あ、おれもある」
と言う。毬がその葛太郎を横目でにらむ。

 「郷名主ってことは」

 隆文が少しかすれた声で言った。

 「つまり、治部(じぶ)様の跡を継ごうってわけか!」

 感心して、ひとりごとのようにつづける。

 「なるほど、無理もするし、柿原党にも近づこうとするわけだ」

 「なあ、毬は柿原に売り飛ばされちゃうのか?」

 それとは関係なく、葛太郎は切羽(せっぱ)詰まって言った。

 「それともあんたたちが連れて行くのか?」

 隆文は残りの二人と顔を合わせた。美那もさわも困って互いの顔を見る。

 少なくとも自分たちにそんなつもりはない。けれども、柿原に身売りするというなら、すくなくとも三人にそれを止める手だてはない。

 灯火の油が小さくはぜる音がする。

 「いいの、売られるのは」

 毬が言った。

 「そういうふうなめぐり合わせで生まれたんだ。いつかは売られるってずっと思ってきたから」

 「いいわけないだろう?」

 葛太郎がいきり立った。

 「毬が売り飛ばされたりしたらおれと繭とはどうするんだよ?」

 言ってから顔をそむけ、
「おれはいやだからな」
とつけ加える。その横顔がいじらしくてまたかわいい――などと考えているばあいでもなさそうだ。

 「わたしを売ったお金で何年かは暮らせるでしょう? そのあいだに繭も大きくなるだろうしさ」

 「だって、毬、さっき泣いてたろ? あれは何だったんだよ!」

 「今日、急にだったからびっくりしただけ」

 「そんなのなぁ!」

 葛太郎は大きい声でわめいた。でも、あとがつづかない。

 で、ふんっと鼻を鳴らして、横を向く。

 「助けなきゃよかった」

 言われて毬が驚いたように葛太郎のほうを向く。唇が閉じたまま波打つように動いていて、何か言いたいのだろうけど、ことばにならないようだ。

 「ばーか」

 かわりに隆文が言った。

 「男が女をいったん助けたら、死んでもそんなことばを吐いちゃならないんだ。ん?」

 隆文はその隆文からも顔をそむけようとした葛太郎のほうににじり寄る。

 「べつに男が女を助けたときに限った話でもないけどな、人間、自分が何か始めたあとで最初からやらなきゃよかったって言っても、それはだいいち無理なんだよ。始める前に戻ることはできないからな。それとも、おい、何か?」

 隆文は、いきなり、脅すような、横柄なもの言いを始める。

 「これからもういちど村西屋敷に忍び込みかえして、毬ちゃんを送り返して、村西なり柿原党の連中なりに、この子を買うならできるだけ高く買ってください、おれたちの生活がかかってますから、とか掛け合うか?」

 「そんな……」

 「やめなよ隆文」

 美那が叱りつける。美那は毬の横に寄り、毬の背中に手を回していた。

 その毬の目からは涙がこぼれている。その涙の際が提灯の油灯の光に白く光るのが見えるようだ。

 毬はすすり泣きまで漏らし始めた。

 男二人は、毬には泣かれ、美那にはにらみつけられて、気まずく所在なげに顔を合わせて、互いに顔をそむけ合った。

 「毬ちゃん」

 ぴょんと跳ねるようにその毬の前に進み出たのはさわだった。

 「めぐり合わせってたしかにあると思う。自分の生まれって自分の力じゃどうしても変えられない」

 「おい」

 隆文が声をかけると、さわはその隆文のほうをにこっと笑って振り返る。

 さわは笑って見せただけで隆文の勢いを止められるからいいな、と美那は思う。

 「でもね、何でも最初から決まったとおりになるわけじゃないよ、この世のなかって。ほら、貸し金の勘定だってさ、最初に掛ける利息の歩合を一つまちがえると、最後にはとんでもなく勘定が狂ってくるんだからさ。それで一晩中大騒ぎしたこともあるんだよ」

 「……?」

 残りの四人が、何を言われたかさっぱりわからなくて顔を見合わせる。さわが慌てて、
「だからさっ、その、ちょっと何かが違っただけで、そう、最初でちょっと何かが違っただけでさ、そう、最後のほうは最初に考えてなかったほど大きく変わっちゃうものなんだよ。だから、つまりさ、つまり、こんどのことで言うと、いまそうなりそうだからって、たぶんそれはそうなりそうなようになるんだろうけど、何かちょっと違っただけで、最初にそうなりそうだったのとはちょっと違ってね、いや、だいぶ違ったりして、そう、えっと、うまく言えないけど、そういうことなんだから! だから、その、うまく言えないんだけどさ」

 いや、うまく言えないというのとはちょっと違う気がするのだが。

 そんなので残りの四人がなんだか笑いはじめた。毬も涙をためたまま笑っている。さわだけがこんどは口をとがらせていた。

 そういえばこの子の怒ったところも見たことなかったって美那は思う。

 「で、おまえたち、どうする?」

 笑いが鎮まりかけたときに隆文が葛太郎と毬にきいた。

 「おれたちが村にいるあいだは毬のめんどうはおれたちで見られるがな。おれたちはいつ町に帰るかわからないしな、それに、この穴蔵にいつまでもってわけにはいかないだろうぜ。村の人たちは、ここのこと知ってるんだろう? なんせおまえたちが知ってるくらいだからな」

 葛太郎は言われて下を向き、毬はまた着物の膝のあたりを握って泣くのをこらえるような顔になる。

 「先のこと言われたってわからないよ。わたしたちだってわからないでしょ?」

 美那が口を挟んだ。

 「とりあえず、明日どうするか、考えようよ。そこから考えないとさ、せっかく先のこと考えてもさ、さっきさわちゃんが言ったみたいに最初で少し何か違うとあとでぜんぜん違ったことになっちゃうよ」

 さわが嬉しそうにしたのは、自分の言ったことがちゃんと伝わったと思ったからなのだろうか。

 「まず、繭に毬が帰ってこないわけを言って聞かせないと。明日には帰ってくるって言っちゃったからなぁ」

 「用事で村西の屋敷にいるって言うしかあるまい」

 隆文が知恵をつける。葛太郎が首を振った。

 「会いに行きたいって言い出したらどうするんだよ? へたすると毬の身がわりに繭を取られちゃうぞ」

 「母ちゃんが言うことと葛太が言うことが違ってたらいくら繭でも気がつくよ、何かごまかしてるってさ」

 毬が言う。

 「それに、あんたが何か知ってそうなこと言ったら、あんたが疑われるよ、葛太」

 「じゃ、どうすればいいんだよ」

 「だから最初から知らないことにしちゃえばいいじゃない?」

 「そんなことしたら繭が泣くぞ。一日中泣くぞ。お兄ちゃんなんか信じられないってあばれるぞ」

 葛太郎にとってはそれはすさまじく恐ろしいことのようだった。

 「ねえがんばってよ葛太」

 毬が拗ねるような甘えるような声で言った。

 「お兄ちゃんでしょ?」

 「おまえなぁ」

 「そんなこと言われるのなら助けるんじゃなかった」とさっき言って隆文に議論をふっかけられたからか、葛太郎は先がつづけられない。

 「とにかくな、おまえに疑いがかからないようにはしないとな」

 隆文がなぜかとても偉そうに言う。毬が声をひそめて、
「出てきたこと、母ちゃんには気づかれてない?」

 「それはだいじょうぶ」

 「もしだれにも気づかれないままなら、毬をどこかに隠したのは柿原党ってことになるな。それだけで柿原党は村人に疑われるぞ」

 隆文が言う。美那が感心して、
「ふぅん。隆文って悪知恵が働くんだね」

 「知恵が働くって言え! 悪知恵じゃないんだほんとの話が」

 隆文がいきなりむきになった。美那はかまわずつづける。

 「でも、柿原党がそうかんたんに引き下がるとは思えないよ。とくに、その村西ってひと、自分の借銭がかかってるんだろう?」

 隆文は頷いてから顔を子どもたちのほうに向けた。

 「とにかくな、おまえらはおれたち玉井の町の金貸しと柿原党との争いに巻きこまれてしまったんだ。いまさら引っこみはつかない」

 「おまえらが来たからこんなことになったんだからな」

 葛太郎が不機嫌そうに言う。毬が止めようとする。その毬を隆文が首を振って止めた。

 「それにおまえらも金貸しなんだからおれは許したわけじゃないから」

 「金貸しだから許せないって理屈はともかく、おまえの言いたいことはよくわかった」

 隆文が答える。

 「でも、人間、ときには許せない相手と味方どうしにならなきゃいけないときもあるさ」

 「わかってるよ……毬をかくまってくれることには感謝してる。いろいろ話聞いてくれたことも、それから、団子をくれたこととか……」

 葛太郎は弱く笑って隆文を見上げた。

 「今日、晩飯食ってないんだ」

 美那がやさしく
「葛太郎、毬」
と声をかけたので、二人は美那のほうを振り向いた。

 美那が提灯のいちばん近くにいるので、ここにいるなかではその顔がいちばん明るく見える。美那は振り向いた二人に交互に目をやった。

 「二人とも、治部様のことをどう思ってるの?」

 「どう思ってるって……?」

 葛太郎と毬は顔を見合わす。二人だけではなく、隆文も「何を言い出すのやら」という顔をして美那を見る。それにはかまわず美那はつづけた。

 「二人とも、治部様が生きておられたころのことはあんまり覚えてないよね?」

 「あっ……うん」

 「ねえ……」

 「でもっ!」

 葛太郎が勢いをつけて言った。

 「治部様と芹丸様は無念な最期を遂げられたけれど! でも、治部様と芹丸様はいまでもこの牧野郷を守ってくださっているんだ! 無道なやつらの手からこの村を守ってくださっているんだ!」

 葛太郎は懸命だった。美那はしばらく唇を結んだまま、その葛太郎をじっと見つめる。

 葛太郎も訴えるような貌でその美那を見上げる。

 「葛ちゃん……それに毬もきいて」

 美那は落ち着いた声で、それまでよりゆっくりと言った。

 その声に、二人の子どもはもちろん、隆文もさわも驚いて顔を上げる。

 「治部様の(いくさ)のときに、町の衆も、港の衆も、牧野の村の人たちもいっしょになって戦った。その戦いは終わったわけじゃない。治部様と芹丸さん、それに港の織部正(おりべのしょう(かみ))様も亡くなったけど、戦いは終わってはいないんだ」

 美那は口許に微笑を浮かべる。それを見て、葛太郎が「はあ」と我を忘れたようにぽかんと自分の口を開いた。美那はつづける。

 「わたしたちはその戦いの味方どうしなんだよ」

 「じゃあ」

 少し間があってから、葛太郎が口を開いた。

 「柿原党のやつらが毬を連れて行ったのも、おれが毬を取り返したのも、そのいくさのうちの一つなのか?」

 「そう、それもその一つ」

 「じゃ、いくさだと思ってがんばればいいんだな」

 少年は自分に言い聞かせるように言った。

 「明日、繭に何を言われてもがんばり通すっていうのも、そのいくさのために必要なことなんだな?」

 「そう」

 「それだったら、辛くてもたいへんでもしかたないよな?」

 「そうだと思う」

 「よし、おれはがんばるよ」

 少年は真顔で言った。

 「あんたたちとも一味だ、いくさが終わるまでは。いくさが終わるまでは、あんたたちは金貸しだから信用しないなんて言わない」

 「うん」

 美那はうなずき、目を細めた。

 「わたしたちもあんたたちのためにできるかぎりの力でがんばるよ」

 美那は穏やかな微笑で葛太郎と毬とに目を配ってから、遠くを見るように目を上げた。

 「やれやれ」

 隆文がつぶやいた。

 「これはたいしたことになるぞ」

 風が起こったのだろう。灯火が大きく上がって閃き、寿ぐように揺らいだ。

 その灯火は、葛太郎と毬と隆文とさわと美那とを明るく照らし出し、壁に映ったその影を同じように揺らめかせた。

― つづく ―