夢の城

清瀬 六朗


桜の里(三)

― 3. ―

 川上村の村西屋敷では、美千(みち)とふくとで男たちが使った皿と椀と杯と(かめ)を洗っている。

 「ふく、おまえは少しも気後れしたりすまながったりすることはないのよ」

 井戸端で土器(かわらけ)の皿に水をかけて洗いながら、美千はふくに言う。

 「はい」

 ふくはまだ稚気(ちき)の抜けない顔で頷いた。

 「おまえは言われたとおりのことをちゃんとやっているのだからね」

 「はい」

 ふくはその美千の洗った土器をていねいに拭いていく。

 「それと、屋敷の中をあんまり急いで走り回らなくていいの。狭い屋敷地なんだから」

 「はい……でも奥方様、急がないと旦那様がお叱りになるので」

 「いいの」

 美千は少し強く言った。ふくは照れたように笑い、
「はい」
とまた頷く。美千が手渡した椀を受け取って拭きにかかる。

 「さて、これで終わり?」

 「いえ」

 ふくは首を小さく振った。

 「あと瓶と杯が残っています」

 「じゃ取ってきて」

 「はい」

 言ってまたしゃこしゃこと砂を蹴散らしながら中屋敷のほうに小走りで行く。その足音を聞いて美千は目を細めた。

 「あの子にあんまり下女みたいになってほしくないんだけど……いいのかな」

 そう言って立ち上がる。ひとしきり腰を伸ばしてから、(たらい)の水を換えようと桶を井戸に投げこんだ。

 で、ため息をつく。

 「わたしもやってることがすっかり地侍(じざむらい)の妻だしね」

 美千は空を見上げた。月が薮の竹の葉を越しに井戸端まで照らしている。

 「あの子も商人の妻になったって喜んでたのに」

 「あの子」というのはいまのふくのことではない。むかし知っていただれかのことだろう。

 美千は空を見ながら目を細める。

 「そういえば」

 美千はその目をその井戸のほうに向けた。それで次の何かを思い出すはずだった。

 だが、美千が次のことを思い出す前に、せかせかした砂を蹴る音が近づいてきた。

 ふくに違いなかった。だが、いつもせかせかしているその足音が、いまはいつもの倍以上急いで――いや慌てているように聞こえた。

 「どうしたの?」

 「奥方様……」

 ふくはことばを切った。というより、息が切れてことばが途切れたようだった。

 中屋敷からこの台所脇の井戸のところまで、走って息が切れるような遠さではない。

 「何、ふく?」

 「はい、奥方様」

 ふくは何か取り乱しているようだった。

 「落ち着いて、ふく」

 「は、はい。落ち着いています、落ち着いています、はい」
と、まったく落ち着いていない声で答える。美千はふくのほうに向き直った。

 「何かあったの?」

 「はい」

 ふくは美千の胸のすぐ前まで来て、美千の顔を見上げる。

 「旦那様か、奥方様か、(まり)をお呼びになったのですか?」

 「毬?」

 言われてとっさに思い出せない。だが、ふくが説明する前に、美千は
「ああ、上の家の!」

 「そうです」

 ふくは間をおかずに答える。美千が尋ねた。

 「その毬がどうしたの?」

 「いえ、さっき、庭でちらっと見かけたものですから……あちらは気づかなかったようですが、あれはたしかに毬でした。たしか大木戸様といっしょで……毬もこの屋敷にご奉公することにでもなったんでしょうか?」

 「いえ、そんな話はないけど……」

 美千は眉をひそめた。

 この屋敷は構えは村のなかでは立派なほうだけれど、それだけ借銭も多い。とても下女をもう一人雇うような余裕はない。

 いや、美千は、町の銭屋がことばどおりに期限の過ぎた貸し金を取ろうとしたならば、屋敷地の少なくとも半分はだれかに譲らなければならなくなることを覚悟していた。夫が柿原党と連絡を取ったり、中原村の地侍を呼んできたりという危ないことをやるのも、そのことを恐れてなのだということは、美千にはよくわかっていたのだが……。

 「柿原党……?」

 そこまで考えて、美千ははっと気づく。勢いこんで尋ねようとしたが、勢いを止め、唾を一つ呑みこんだ。

 あらためて顔を上げ、軽く笑って、ふくに聞く。

 「ところで、さっき、中原村の若いお侍さんが何か言ったって言ってたね?」

 「あ、さっきって……?」

 「ほら、旦那さんが早くわたしのところに帰りなさいっておっしゃる前」

 「ああ。たしかわたしのほうを向いてその女を連れてこいとか」

 美千の胸に冷たい感じが走る。でもそれを(かお)には出さなかった。

 「ふく、しばらくここにいて、拭いた土器を乾きやすいように並べておいてちょうだい。しばらくここ離れないようにね」

 「いいですけど?」

 「番をしているのよ、ずっとここで」

 ふくはとつぜん言われ、しかも念を押されて少し首を傾げた。

 美千はせっかく洗った瓶の一つを手に取ると、台所に駆けこみ、奥の大きい酒甕(さかがめ)の蓋を開く。

 が、思い直して、それとは違う、小さい壺に手をかけた。なかにはお祭りで御神酒(おみき)に捧げるためにとっておいた濁りのないいい酒が入っている。美千は柏手(かしわで)を打って頭を下げ、その壺の貼り紙を取る。

 「間に合ってくれるといいんだけど」

 美千は早口でそうつぶやきながら壺を持ち上げ、なかの酒を瓶に注ぎこんだ。

 同じころ、同じ川上村の寺の裏にある粗末な家で、男の子が妹を寝かしつけるのに苦労していた。

 「おい、泣くな泣くな。おい(まゆ)! いい加減で早く寝ろよ」

 男の子が何を言っても、妹は泣くばかりだ。

 「ああ、きつい言いかたをしてごめんな。兄ちゃん謝るからさ。頼むから泣きやんでくれ? な? 泣くのはやめろ、な? な?」

 妹はぐっすんと大きく(はな)を吸いこみ、ひくっひくっとしゃくり上げ、それから何か言おうと口を動かした?

 「うん? なんだ、繭? どうした?」

 男の子が身を乗り出す。妹はもういちど泣き声をぐっと飲みこみ、くんっと小さい声を立ててから、やっと声を立てて言った。

 「毬姉ちゃん、いつ帰ってくるの?」

 「えっ?」

 「こんなに夜遅いのに……ねえ、毬姉ちゃん、いつ帰ってくるの?」

 「そっ……それは」

 兄が答えられないでいると、また妹はきゅーんと声を立てて泣き始めた。

 「待て待て繭、母ちゃんに聞いてやるからな。おい母ちゃん」

 男の子は大きな声で家の裏にいるはずの母親に声をかける。返事はない。男の子はつづけた。

 「母ちゃん! 繭が聞きたがってるぞ。毬のやつ、いつ帰ってくるんだ?」

 裏の木戸ががたんと揺れる。男の子は眉をしかめた。

 「母ちゃん! 聞こえてるんだろ? 毬、いつ帰ってくるんだよ。もう夜更けだぞ?」

 裏の木戸は少しも音を立てない。男の子は胸を反らし、息を吸いこんだ。

 灯火を焚く油があるはずもなく、家を照らす明かりといえば、外から障子越しに漏れてくる月明かりだけだ。

 「繭!」

 男の子は優しく語りかける。

 「なに?」

 妹は弱々しい声で答えた。

 「きこえたか? 母ちゃんの声」

 「ううん」

 妹は小さく首を振る。男の子はつとめて優しく言った。

 「明日の朝になったら毬は帰ってくるってよ。明日の朝、目が覚めたときには毬もいっしょだ」

 「ほんとう?」

 「ああ。母ちゃんがそう言うんだから」

 「母ちゃんの言うこと信じられない」

 兄はふっと息を吐いて肩を落とし、眉をひそめた。でも妹には優しい声をつづける。

 「じゃ、だれの言うことなら信じるんだ?」

 「毬姉ちゃん!」

 「うん」

 その毬がいないことがいま問題なんだ――ということを、いま妹はわかっているのだろうか。

 「じゃ、毬姉ちゃんの次はだれだ?」

 「兄ちゃんだよ」

 「じゃ、その兄ちゃんが約束するって言ったら信じるか?」

 「ほんとう?」

 「ああ、ほんとうだ」

 「約束だよ」

 「ああ、約束だ」

 「約束……だよ」

 妹は「約束だよ」をその小さな唇で繰り返していた。兄はしばらくその近くにいてやった。

 まもなく妹は寝息を立て始めた。兄は詰めていた息を吐き、妹を起こさないように立ち上がる。

 裏の木戸のほうに行き、母親を問いつめようかと思った。だが母親は何も答えてくれまい。答えてくれないだけならまだいいが、また甲高い大声を出してひっぱたいて回ったりされてはたまったものじゃない。母親に打たれるぐらい慣れているが、そんな大騒ぎをしていたら眠った妹が起きてしまう。

 「さあて、おれも寝るか」

 兄は声を上げて言った。

 「まったくもう……」

 言って衝立(ついたて)で自分と妹の寝床を裏から覗きこめないように隠す。裏木戸のほうからは何の動きもない。

 兄は音を立てないように歩くと、母親がいるのとは反対の表の木戸をやはり音を立てないように引き、表から家を抜け出した。

 外にはだれもいない。雲を通して月の明かりが照っているのと、寺で焚いている(かがり)が遠く映えているだけだ。

 「さあ」

 少年は――広沢葛太郎(かつたろう)は大きく息をついて両方の拳を握った。

 「毬を迎えに行かないと」

 その同じころ、中原安芸守(あきのかみ)範大(のりひろ)は畳の上に(ふすま)を羽織って半身を起こしていた。目の前に何か大きなことが迫っているように思い詰めた顔をして、小さく震えている。そこへ廊下のほうから何か足音が近づいてきた。

 「(まさ)! 来ることは無用と……」

 言いかけて、さすがに足音があのがさつな長野雅一郎ではないことには気づいたらしい。範大は声をのみ、同時に口にたまった唾まで呑みこんでぐっと喉を閉じた。

 「ごめんくださいまし」

 女の声だ! 範大は声を上げそうになったが、声そのものが喉に詰まって出てこない感じだ。

 障子を引いて現れたのは、しかし、たぶん範大が考えていたいた女からすると少し年上の女だった。

 「なっ……なにもの」

 「何もの」の「に」と「も」の声がひっくり返っていて、何を言ったのかわからない。しかし相手にはきちんと伝わったようで、
「私は村西兵庫助(ひょうごのすけ)の妻でございます。お休みのところ、失礼いたします」

 「な……なん……?」

 「喉がお渇きになったり、体がお冷えになったりしてはいませんか?」

 村西兵庫助の妻は範大のいる畳の脇に腰を下ろした。土器の椀と瓶を床に置く。

 「べっ……べつにっ」

 「あらあら、お震えになってますよ」

 「あ、ああ」

 村西兵庫助の妻は、椀を取り上げると、なめらかな手つきで瓶から酒を椀に注ぐ。

 「まだ春とは言っても冷えますものね。温かいお酒をお上がりになれば気もちよくなりますよ」

 範大はいきなり両手で衾をはねのけた。その両手で自分のすぐ横にいる村西の妻の肩の後ろからがっと抱きつこうとする。

 だが、村西の妻がふっとその範大の顔を振り向いたので、その動きは止まった。

 「どうぞ」

 えくぼを作ってにっこりと笑ってから、瓶を置いて、両手で椀を差し出す。

 「い、いえ」

 範大は震える手でその椀を受け取る。そして、手が震えてこぼれてしまいそうなのに気づかれないようになのか、それともふだんからそうしているのか、椀の酒を味わうまもなくぐっと飲み干してしまう。

 範大はだまって椀を返した。村西の妻はもういちどえくぼを作って笑ってから立ち上がり、瓶を抱えて滑るような動きで体を動かして障子を引いて外に出た。

 美千が部屋を出ると、表の庭に、小さな女の子が一人で立っていた。

 何か思い詰めた貌で屋敷のほうを見ている。美千が小さく手招きした。

 女の子はしばらく動こうとしなかった。けれども、美千がもういちど手招きしたので、女の子は敏捷にちょろちょろと走って美千のところまで来た。

 美千は黙って頷き、上に上がるように合図した。女の子は履いてきた(わらじ)をきれいに揃えて脱ぎ、でも音をさせないように廊下に上がってくる。

 「そこの部屋よ」

 美千は低い声で言い、部屋のほうに顔を向ける。指ささなかったのは、両手に瓶と椀を持っていたからだ。

 「ありがとうございます」

 少女も声をひそめて言う。美千は黙って少女の横を通り過ぎようとした。少女が歩き出そうとしたとき、美千がいっそう低い声で伝えた。

 「いっしょに横になろうって言われたら、はっきり答えずに答えを引き伸ばすのよ。いいわね。とにかくことばもわからないようなくらいのふりをしなさい。そのうちに相手が眠ってしまうから」

 「はい」

 少女はしっかりした声で答え、しかし美千のほうを振り向かないでそのまま確かな足取りで言われた部屋へと歩いていく。美千は振り向いてつぶやいた。

 「そこらの男どもよりしっかりしてる。あれだったらだいじょうぶね」

― つづく ―