夢の城

清瀬 六朗


桜の里(四)

― 上 ―

 次の朝、葛太郎(かつたろう)は横腹を蹴られて目を覚ました。

 「痛いなぁ……」

 外はもう明るくなっている。しかし寝過ごしたわけではなさそうだ。

 「なんだよ母ちゃん」

 言って身を起こしながら、葛太郎は(まゆ)をかばう。その葛太郎の首のあたりを母親は足で横向きに薙ぎ払う。そう来るとは思っていなかったので葛太郎は横向きに倒れ、板の床で肩と頭を打った。その葛太郎に母親はのしかかってきた。首と襟とを同時に掴む。

 その手が冷たく、大きく震えている。

 「毬を……毬をどこへやった! まっ毬をっ! 毬をぉっ!」

 後ろで目を覚ました繭がうえーんと大声を出して泣き出す。母親は目をいっぱいに剥いていて、その目が上下左右に細かく震えている。それはもう獣のようだ。

 葛太郎は驚いた。母親は気づくまいと思っていた。だが、葛太郎は落ち着いて
「知らないよ。だって昨日の晩に出て行ったきりじゃないか」
と答える。母親はさらに何か言おうとしたが、ぶるぶる震えて唾を泡にして吹き出すだけで何も言わない。

 それにしてもどうしてわかったのだろう?

 「おい、そっち見せてもらうぞ」

 あの大木戸九兵衛の横柄で荒々しい声がして、どかんどかんと床を踏みならす音がした。母親の後ろの衝立を引っぱって倒し、子どもたちが寝ている場所にどんと足を踏みこむ。

 これまで葛太郎を締め上げていた母親がくるんとその大木戸九兵衛のほうに向き直り、膝を折ったまま葛太郎の前に両手を広げる。(くび)を細かく振っている。後ろで繭がますます大きく()き声を放つ。

 大木戸九兵衛は少しためらいを見せたが、背をかがめるとその母親の体を引っぱり上げ、部屋の反対側に投げ出した。

 「ぶわん」
とへんな声を立てて母親がくずおれる。

 「母ちゃんに何をするんだ!」

 九兵衛はそう叫んだ葛太郎をにらみ返した。

 少しためらう。葛太郎と、葛太郎の隣の繭を見て、目を迷わせる。

 あれ?――と思う。

 もし昨日の夜のことを知っているのなら、まず葛太郎を絞め上げにかかるはずだ。

 だが九兵衛は迷っている。

 「いないじゃないか」

 「何がいないんだよ、まったく」

 葛太郎は立ち上がって言い返した。

 「えーい……どこに隠した?」

 「隠したって、何をだよ?」

 「ふざけるなっ! 毬に決まってるじゃないかッ!」

 大木戸九兵衛は絶叫した。葛太郎は立つ場所を少しずらせ、繭をかばう。それからいかにもいきなり起こされて迷惑しているように言い返す。

 「毬って昨日おまえが連れ出して行ったろ? 忘れたのかぁ?」

 「それが逃げ出したんだ! ほかに行くところもないのに、ここ以外のどこに隠れるって言うんだ?」

 「ここ以外のどこにって……」

 葛太郎はどう言っていいか迷っているような言いかたをする。

 「じゃあ、ここのどこに隠すんだよ? このうちに隠せる場所なんてないぞぉ?」

 九兵衛はことばに詰まった。

 そのとおりだったからだ。

 台所と裏の間は先に調べたのだろう。そこには母親が寝ていたはずだ。そこに毬ははいない。それでこの部屋に入ってきたのだろうが、この部屋には毬を隠せるような調度品一つあるわけではない。

 九兵衛は部屋の隅々から屋根の裏まで見回した。「このうちに隠せる場所なんてない」という葛太郎のことばを認めなければならなかった。この家は天井板も張っていないから、天井裏に隠すこともできない。

 母親は何も言えないで(ふる)えて九兵衛と葛太郎のやりとりを見ているだけだ。その後ろの障子を開いて男が顔を出す。

 「大木戸の旦那様」

 萎烏帽子(なええぼし)をかぶった男は、母親と葛太郎とを見つけて遠慮がちに頭を下げると、九兵衛に向かって言った。

 「敷地のなかは探しましたが、いません」

 ほどなくもう一人の同じようななりの男が顔を見せ、九兵衛の顔をうかがう。村で見知った顔ではない。たぶん柿原党についてきた小者の一人だろう。

 「ええい……」

 大木戸九兵衛は苛立った。

 「隣へでも潜りこんだか」

 「伯父さんさぁ」

 葛太郎が呼びかけた。

 「なんだ?」

 「隣とかが広沢の娘をかくまってくれると思うのか? 気づいたらうちに突き出しに来るさ。ちょっとはもの考えろよ」

 「むぅ」

 葛太郎の生意気を叱る余裕もないらしい。が、九兵衛はすぐに思いついて、
「じゃ、下の家か!」

 「下の家はふくさんの家だろう?」

 葛太郎がうるさそうに答えた。

 「婆さんが見つけたらふくさんに知らせるだろうし、ふくさんが知ったらお美千さんに言うだろうし、だったらさぁ」
とここまで言って、毬が村西屋敷に行ったことを自分は知らないことになっているのを思い出す。

 「だったら村西の旦那さんに伝わってるだろう? 村西の旦那に聞けよ」

 「ふざけるな!」

 九兵衛はまた大声で叫ぶ。

 「おれはその村西殿の屋敷から来たんだ! 毬はその村西屋敷からいなくなったんだぞ」

 「そんなこと知るかよ」

 葛太郎はうるさそうに言い返した。

 「屋敷は広いんだろう? 村西様のお屋敷っていったら村長のところより広いって話もあるしな。それに毬ってあいつちょろちょろしてるからな、屋敷のどこかにいるかも知れないじゃないか。そっち先に探せよ。だいたいわけも言わずに毬連れてったくせして」

 「わけは加恵(かえ)さんに話してある」

 九兵衛は怯み、とまどった。

 小者二人がその顔を見上げる。九兵衛は、母親――加恵というのはこの母親の名まえだ――の震えが移ったようにうち震えた。顔色が土気色になっていく。

 加恵を見、葛太郎を見、葛太郎にしがみついている繭を見、もういちど小者を見返す。小者はこの場には不似合いなほど平気な顔をして同じように家のなかを見回している。

 「ゆっ……床下だ」

 九兵衛が震える唇で唾を飛ばしながらようやく言った。

 「床板の下に子ども一人なら隠れられる。床を剥がせ! 剥がして調べるんだ」

 だが、葛太郎や加恵が動かなかったのはもちろんとして、小者二人も動かない。それを見て葛太郎が言う。

 「むちゃ言うなよ」

 「何がむちゃだっ!」

 九兵衛は叫んだが、叫んだすぐあとに喉が詰まったように声をとめた。

 「あの……旦那?」

 小者の一人がぽかんと口を開けて九兵衛を仰ぎ見る。

 「何だ?」

 「床下はさっき調べましたが、(いたち)一匹いませんでしたが?」

 「ほら」

 葛太郎も一つことばに詰まる。

 「見ろよぉ」

 ことばに詰まったのは床下なんか調べられていないのがわかっていたからだ。小者が床下に潜りこんだのなら、その床にじかに寝ている葛太郎が気づかないわけがない。家の横から屈んですかして見ることはできるが、周囲にはすきま風を少しでも減らすために床下に戸が立ててある。すき間から見通すことはできるが、ぜんぶは見通せないはずだ。

 葛太郎のぎこちない答えかたに九兵衛は気づかない。

 「だったら……だったらやっぱり屋敷にいるのかも知れぬ。ともかくやつが逃げたのは確かだからな。もし逃げ帰ってきたら知らせるんだぞ。このっ……恩を仇で返すようなまねしやがって」

 「だから知らないって言ってるだろ? そういうことは毬を見つけてから毬に言えよ」

 「黙りなさいっ!」

 母親が言ってその葛太郎の頬を殴った。葛太郎はまた飛ばされ、先に倒れていた衝立の上に重なるように倒れる。

 加恵は九兵衛を恐る恐る見上げ、ゆっくりと頭を下げた。

 「ちっ!」

 大木戸九兵衛は舌を打つと、
「行くぞ」
と二人の小者に下知して大股に引き上げていった。

 「やぁい、大木戸のまぬけ!」

 「広沢の娘カドワカシて逃げられたぁ!」

 葛太郎と同じくらいの子どもたちの声が表から聞こえてくる。

 狭い家のなかで喚いていたのが外にまる聞こえだったのか――。

 それとも、あの小者どもがしゃべったのかも知れないと葛太郎はぼんやり考えた。

 葛太郎は頬を押さえ、起きあがった。繭はもう泣いていなくて、その葛太郎の斜め後ろの背中に縋りつく。

 その二人の子どもに母親が向かい合った。

 震えをなんともできないようだ。さっきの九兵衛より顔色が悪い。

 「毬はどこへ行ったのかなあ、ねえ葛太郎?」

 母親は絞り出すようにしてやっと言った。

 「みんなでわたしを困らせるようなことをするねえ! ほんとに、みんなでわたしを困らせるようなことばっかりするねえ!」

 小さい子どもが甘えているような声だ。毬でさえこんな声は立てない。葛太郎はその母親の顔を見返した。

 黙っている。

 何か言ったら、それをきっかけに葛太郎を追い回して殴りかかる。そうなると母親は繭のことを少しも考えない。いちど葛太郎を追い回しながら繭の胸のへんを力いっぱい踏みつけたことがある。繭の胸の脇に(あざ)ができただけですんだが、もう少し踏みかたが違っていれば繭は胸の骨を折っていたかも知れない。しかも、あとでその繭のけがは葛太郎のせいだとまた大喚きしたのだ。

 母親は二人の子を見下ろして震えていた。目の縁から涙の粒がぽろっぽろっとこぼれだした。母親はくるんと横を向き、裏の間に跳びこんだ。

 葛太郎が後ろから覗いて見ると、薄い(ふすま)をかぶってぶるぶる顫えながら、押し殺した声で泣いていた。顔をそむけているのでわからないが、きっと涙をこぼしつづけているのだろう。

 「なんだよ」

 葛太郎は、後ろにくっついていた繭の体を、左腕を回して前に回すと、その左腕で、足からお尻、背中と順繰りに撫でていってやった。

 「そういうことなんだよ、繭」

 そして繭のほうは見ないで中空を見上げるように顔を上げた。


 「わたしのことは心配しないでいいよ」

 牧野治部大輔(じぶのたいゆう)興治(おきはる)の屋敷跡の穴蔵にも外から明かりが漏れてきている。毬は美那たち三人に言った。

 「三日ぐらい何も食べなくても慣れてるから」

 「そうは言うけど、水ぐらい飲まないとやってられないだろう?」

 隆文が心配する。毬は笑いを浮かべて首を振った。

 「だいじょうぶ。慣れてるから」

 町から来た三人は、明徳教寺(めいとくきょうじ)の朝の鐘が鳴る前に穴蔵を出ることにした。とりあえずはあの川中村の関所に行くつもりだ。

 穴蔵の下には田圃が広がっているから、昼間にこの穴蔵に出入りすると田圃から見られてしまう。町の者がこの穴蔵に出入りしていることがわかるだけでもやっかいなのに、いまはその穴蔵に毬をかくまっているのだ。

 「ほんとうにだいじょうぶ?」

 美那も心配する。毬はうんと頷いた。

 「だれがいつここの見回りに来るかもちゃんと知ってる。見つからないようにするから」

 言ってから毬は一つまばたきをした。

 「それより葛太のことが心配。あの子、がんばれるかな?」

 「繭ちゃんのこと?」

 答えたのはさわだ。毬はぎこちなく頷く。

 「ほかの人にはだいじょうぶだと思うんだよ。村西とか大木戸とかさ。でもお母さんがねえ」

 「お母さん?」

 こんどは美那がきいた。毬はまた頷く。

 「お母さんが最近乱暴でさ、何かあると葛太を叩くんだよ」

 「そうなの?」

 美那がふしぎそうに毬を見る。毬はもう一つことんと頷いた。

 「寝てるか、怒ってるかで、家のこと何もしないんだもん、お母さん」

 「じゃ家のことってだれがやってんだ?」

 隆文がきく。

 「葛太がやってる。葛太、ご飯つくったりするのとっても巧いし。わたしも手伝うけどね」

 「毬がやってるんじゃないんだ?」

 さわがきいた。毬は小さく首を振った。

 「わたし、よその子だから。いろいろあるらしくって」

 「よその子?」

 また隆文がきく。

 「うん」

 毬は思いのほかさばけて答えた。

 「わたしって上の家の子だし、葛太と繭のお母さんは中の家。上の家と中の家がどういうかかわりなのかはわたしはよく知らないんだけど」

 「でも上の家のお父さんとお母さんはどうしてるの?」

 さわが尋ねた。毬はもういちど小さく首を振る。

 「あの乱のあと、死んだって……二人とも」

 「そうなんだ」

 「うん」

 「……そうなんだ」

 毬は何か言いそうになって美那の顔を見上げた。しかし、そのまま口を(つぐ)んでしまって、何も言わなかった。

 美那は、そのことと、毬が「乱で」と言わないで「乱のあと」と言ったのが少し気になった。それに、いまの歳からすると、あの乱のときには毬は物心ついていたはずだ。それなのに、両親が死んだとはっきり言わず、どうしてことばを濁したのだろう?

 それに毬は何か美那にまだ何か言いたいことがあるように見える。

 けれども、毬が口を噤んでしまった以上、いまそれをきかないほうがいいように思った。

 美那にだってきかれたら困ることはある。

 「さ、行くよ」

 美那は隆文とさわに言った。

 「もっと明るくなって、ここからはい出すところ見られたらめんどうだから」

 「そうだな」

 隆文が言ったとき、体の底にまでしみわたるような鐘が響いた。耳より先に体の底が震える。鐘がまず地に響き、その響きが体に上がってくるようだ。

 明徳教寺の朝の鐘だ。

 「さ、行くぞ……しっかりな」

 隆文が毬を振り向いて言い、戸口から外に出た。戸口の上に足をついて左右を見渡し、俯いて美那に合図する。美那は、さわを先に行かせ、さわの(からだ)を押して上がらせる。さわは美那に尻を押してもらいながら毬を振り向いて手を振る。毬がどう応えていいかわからないのか、ぽぉっとそのさわのほうを見ていた。

 最後に美那が上がり、美那が扉に手をかける。最後に毬が下からあいまいに笑って見せた。それは(はじ)を含んでいたのか、それとも美那を励ますつもりだったのか。美那は扉を閉じた。

 次の鐘が響いてきた。

 朝の空から下ってくる光があたりをいっぱいに照らしている。

 美那は三人のいちばん後ろから何か思いに沈んで歩いている。

 その目の前を明るい紅色が横切った。ふと振り返る。

 あの花が咲いているのだ。

 それは木の下のほうだったが、その花びらだけがほんの少しだけ明るく照らされているように見えた。

 木はどの幹もまだまだ細い。若木らしい。

 美那は立ち止まって振り向いた。

 たしかに、さわが言ったとおり、開いている花の周りには、先だけ白く染めた花芽がたくさんついている。先に咲いた花がようすを探り、それでだいじょうぶなら残りの花が開く。その用意をしているようだった。

 「何してる? 行くぞ」

 隆文が促したので、美那はまた歩き出した。

 三つめの鐘の音が、館跡から見える土地を震わせて広がって行く。


 「屋敷から出てはいませんよ。たしかなことじゃないですか」

 美千に強く言われて大木戸九兵衛は首をすくめた。

 美千の後ろには下女のふくが立っていて、美千といっしょに険しい顔で九兵衛のほうを見ている。

 村西屋敷の前庭だった。(きざはし)の上に村西兵庫助があぐらをかいているのか腰掛けているのかわからない中途半端な座りかたで座り、その下で九兵衛が首尾を伝えている。そこに台所のほうから美千とふくが出てきたのだ。

 それからというもの、兵庫助にかわって美千が九兵衛を問いつめている。

 九兵衛は弁解を試みた。

 「奥方様、しかしですね……」

 「しかしですねも何もありません」

 美千は怒ったように早口ではねつけた。

 「履き物がまだそこに残っているじゃありませんか。女の子が冷える夜のうちに履き物も履かずに逃げたと?」

 「しかし」

 毬は冷える夜のうちに履き物も履かずに逃げたのだ。けれども九兵衛はそれを知らないので口ごもるしかない。

 「しかし、あの毬はすばしこい娘っ子です。木だって平気に()じ上ります」

 「では木を攀じ上ってどこへ行ったんです? 庭は柿原党の方がたが固めてらしたのでしょう?」

 「はあ……」

 「裏は崖ですよ。あんな子が跳び下りて無事なものですか」

 いやたしかに毬と葛太郎は跳び下りて無事だった。けれども試してみた者はいない。美千にこう言われれば「跳び下りても無事なはず」とは言えない。

 二丈もの高さがあれば大人でも怯むものだ。

 「しかし」

 「しかしも何もないと言ったでしょう! だいたいあの子はふくの従妹だというじゃありませんか。その子をどうしてわたしにも相談なく」

 「従妹だろうと何だろうと関係ない!」

 兵庫助がはじめて口を挟んだ。九兵衛の肩を持ったつもりなのか。

 「だいたいふくは下女ではないか。そんなものの縁者の心配を、一家の(あるじ)がするべきようなことではない」

 言う。聞いたとたんに、ふくがくへぇんと喉に引っかかるような泣き声を立てて泣きはじめた。

 「ふん!」

 兵庫助はますます不機嫌になる。

 「泣けばなんでも収まるというものじゃないんだぞ、ほんとの話が!」

 ところが、それを聞いた美千が、すかさず
「大きな声を出せばなんでも収まるわけでもありません!」
と、それも兵庫助より大きな声で言い返したので、兵庫助は勢いを押し返される。

 「だいたい夫婦二人だけに下女が一人の家ですよ? 大きな殿様の家だったら小者や下女の心配まで主人がいちいちすることもないでしょうが、わたしたちにとってはふくは娘も同じようなものじゃありませんか。それにあの子はふくにとって数少ない縁者なのに……もう少しお考えあそばせ」

 「くへぇん」

 やりとりを聞いてふくが泣きつづける。

 「くへぇん……毬は殺されたんだ……あの子気が強いから言うこときかないでそれで殺されたんだ……ひっ……ひっ……それをみんなで隠してるんだぁ……ひぃーっ! こんなんだったらわたしも死んじゃえばよかったんだあ……くへぇーん!」

 ふくが泣きつづける。美千がそのふくを左腕で抱き寄せ、肩を叩いてやる。

 何も声はかけない。そのかわり、夫の兵庫助と大木戸九兵衛を厳しく見据え、そしてふくの肩を抱いたまま台所のほうへ戻って行った。

 兵庫助と九兵衛は気まずそうに顔を見合わす。目を細めてたがいの細めた目を見ると、ぶるぶるっと両方で首を振ってみせる。


 「見つからぬとはどういうことだぁっ!」

 もともと声変わりがすんでいなくて高い声がさらにひっくり返っている。

 「村西とやらを呼んでこい! あの者、わたしが決めたのとは違う小わっぱを寄こしよって、しかも夜が明けてみたらそれがおらぬ! わたしを弄んでいるとしか思えぬ! かたいなかの小侍がっ! わたしは(おそ)れ多くも守護代春野越後守(えちごのかみ)定範(さだのり)さまを烏帽子親(えぼしおや)に元服いたし、範の一字を許された中原安芸守(あきのかみ)範大(のりひろ)であるぞ! 守護代様の直臣に逆らった者がどうなるか、思い知るがよい! 成敗してやる、成敗してやるっ!」

 屋敷から漏れているその声を聞いて長野雅一郎(まさいちろう)はため息をつき、足を弛めた。そのすぐ下に粗末だが愛らしい小さな鞋が揃えて脱いである。それが問題の小娘の残していったものらしい。

 「何をなさっておられます、長野殿」

 雅一郎を呼びに来た中原家の小者が催促する。雅一郎は重く
「おう」
と答えて、しかし別に急ぐでもなく奥の間へ向かった。

 「刀を持て! 刀を持て! ええい、いますぐ切り捨ててやる!」

 中原範大がそこまで言ったとき、部屋の障子を開けて雅一郎が入ってきた。

 「おお! 雅! いまごろのこのこ出てきて何の用だ?」

 範大は上半身肌脱ぎのまま床の上に座り、喚いているのだった。

 「いまのこのこでてきてなんのようだ! だれでもよい、刀を持て、刀を持て!」

 太刀はと見ると畳のすぐ脇に転がっている。範大はそれにも気づかず「刀を」と催促しているらしい。

 「わたしが呼んだのはあの小侍だ! 畜生! 成敗してくれる! 成敗してくれる!」

 「まずは落ち着かれませ、範大様!」

 雅一郎が叱咤した。範大がすっと声を引っこめる。雅一郎は、範大の前に立ちはだかり、範大を見下ろしてから、腰を下ろし、頭を下げた。

 「雅っ!」

 範大の声は低くなっていた。

 「わたしはぶじょくされたのだ。いなかの小侍にぶじょくされたのだ」

 低くなったのはよいが、こんどは涙ぐんでいる。こういう起伏の激しいところも父親に似ていると雅一郎は思う。

 従って、父親をなだめるときの要領が通用すると雅一郎は考えた。

 「お控えなさいませ、範大様!」

 雅一郎は「安芸守」ではなく名で直接に呼びかける。

 「ここは仮にも村西兵庫助様のお屋敷、われらは客でございます。世話になりながら主人を殺すなどとはゆめにも口走ってはならぬことです」

 「きっ……きさまっ!」

 「よろしいですか範大様」

 雅一郎は眉一つ動かさず、落ち着き払ってつづける。

 「先ほどからの範大様の大声、屋敷じゅうに聞こえております」

 「おお、それがどうした、それがどうした雅? 聞こえて都合の悪いことなどひとことも言っておらぬ」

 「言っておられます!」

 雅一郎が腹の底から野太い声を出したので、範大はまた出かけた声を引っこめた。

 「よろしいですか範大様」

 引っこめた拍子に次の声も出なくなったらしい。雅一郎はさっきまでより少し早口で声を抑えてつづけた。

 「先ほどから範大様は刀を持て刀を持てと喚いておいででしたな」

 「おおっ」

 範大は頷いた。

 「……それが何か悪いか?」

 「屋敷の者どもは、範大様がその小娘を切り捨ててそれを隠していると疑っておりますぞ!」

 「なに?」

 範大は目を剥く。

 「それだけではありません。大木戸殿があの小娘の家まで尋ねて行かれ、お探しになったために、あの小娘がこの屋敷に来、範大様にお目にかかり、それから行き方知れずとなったことは村中に知れ渡りました。小娘は村のどこにも見あたらぬとのことで、それならばわれらがあの小娘を殺し、なきがらを埋めて隠したのではないかと村中の者が噂しております」

 その声に動きを止めたのは周りにいた範大の小者たちだった。

 膝をつき、あるいは座ったまま、あるいは立ったまま、振り返り、雅一郎に目を集めている。

 範大がおそるおそる細い声で言った。

 「何を言う?」

 「疑われておいでですぞ、範大様。あの小娘をお殺し遊ばしたと」

 雅一郎は声の調子を弛めない。

 「ちがう……ちっちがう!」

 範大は慌てた。さっきとは目の色がまったく違っている。

 「ちがう。どうしてわたしがあの小娘を殺さなければいけないのだ。仲よくなりたいと思っただけのことではないか。父がいつもやっていることではないか。それをなぜ……ちがう、ちがうぞっ!」

 範大は、いままで肌脱ぎだったのを、慌てて肩に衣を被せ、衾まで肩の上からぐるんと(まと)って、首をすくめた。蝸牛のように衾の殻の中にもぐりこむような勢いだ。

 「いますぐっ……いますぐにもこの村を立ち去らねば。人殺しとして身に覚えのない罪で捉えられるなどごめんだ。いますぐ……いますぐ立ち去らねば」

 「立ち去ったりすればかえって疑いを強めかねませぬぞ。村から城館に訴えを出されたらどうなさいます?」

 「うっ……たえぇっ?」

 範大は訴えと聞いてまた声がひっくり返ってしまう。

 小者もおろおろするなか、雅一郎一人が落ち着いている。

 「よろしいですか? あの村西という輩、どうも村人にもまったく信頼されておりませぬ」

 「だったらなおのこと……」

 「堪忍(かんにん)なさいませ」

 雅一郎が範大のことばを押さえつけるようにことばをつづける。

 「お思い出しください、今度のことはすべて柿原大和守(やまとのかみ)入道様が仕組まれたことです。村西はその柿原大和様のことばを私たちに伝えただけの者にすぎません」

 雅一郎は声を低めた。

 「村人にどう噂されようと、村西らの輩に何と思われようと、われらはその大和入道様のご意向に従ってことをなせばよろしいのです。もし無事にことをなし遂げればわれらが大和入道様のお褒めにあずかる。そのとき、村西の輩が何を言っても大和入道様はお採り上げにならぬでしょう。しかし、われらがしくじれば、村西らの輩がわれらの落ち度を大和入道様に言い立て、大和入道様はそれを信じられます。大和入道様のお心に従うこと、ほかに道はありませぬ」

 「しかし、それはどうすればよいのだ?」

 「町の銭屋に一文も渡さぬこと。そのことさえ貫けばわれらの勝ちでございます」

 「勝ちとはどういうことだ? だれに勝つのだ?」

 「だれにも勝ちます」

 雅一郎は落ち着き払って答えている。。

 「町から来た浅はかな銭屋に勝ち、そして、村西や浅はかな村人どもにも対する勝ちます。よろしいですか、父上様が若様のご出馬のときにおっしゃったことをお思い出されませ」

 「父上が……?」

 「そうです。父上様は若様の初陣(ういじん)とおっしゃいました。これはいくさなのです」

 「いくさか……」

 「そうです。いくさでございます」

 そう言って、雅一郎は深々と頭を下げた。

 「いくさか」

 範大は大きく息を吸い、目を閉じる。

 躯はまだ血の気が引いたままだ。

 「そうか……いくさか」

 声を震わせ、途中でいちど唾を呑みこんで、自分を納得させるように範大はつぶやく。

 雅一郎は気づいていた。

 範大がこうやって弱いところを見せるたびに、自分がこの範大や父親の克富、それに村西兵庫助などと並ぶ程度で終わる才ではないという思いが強まっていくことにだ。

― つづく ―