夢の城

清瀬 六朗


桜の里(四)

― 下 ―

 隆文(たかふみ)は川中村の関所のすぐ上で川に釣り糸を垂れている。さわはその横で餌に使うみみずをほじくって集めている。美那はさわの反対側に腰を下ろしてただぼうっと隆文が釣りをしているのを見ていた。

 三人は朝早々に関所に行ってみたがまだ関所は閉ざされていた。次の鐘が鳴ってようやく昨日の実直そうで朗らかだが融通のきかない関所番が出てきた。案の定、関所までは入っていいが、昼の鐘が鳴るまで関所から村のなかに入ってはいけないと言う。

 ずっと関所で待っているのも息苦しい。見られているし、話も聞かれているので、好きな話ができない。銭米の取り立ての話はじつはどうでもいいのだが、毬の話をきかれるとやっかいだ。それで隆文が関所番に表の川で釣りをしていいかと聞いた。

 表の川は村の領分ではないので、水を勝手なほうに流したり網を仕掛けたりされては困るが、そうでなければ知ったことではないというのが関所番の答えだった。竹は関所の外に突き出している竹を伐って使っていいということだったので、青竹の葉を落として釣り竿にしている。

 そんなわけで、隆文が持ってきた釣り針と、さわが持っていた糸を使って、隆文は魚釣りを試みていた。

 さわは土のなかのみみずを見つけ出してはつまみ上げ、自分の膝のあたりまで持ってきてそこに放している。みみずはけんめいに暴れ回る。それでどこかに行ってしまうみみずもいるし、まだ稚い草のあいだから土に潜ってしまうのもいる。でもさわもつぎつぎにみみずをつかまえているので、みみずが足りなくなることはなかった。

 このさわという子もへんな技を持っているものだと美那は思う。

 もともと何を釣ることを目指していたわけでもない。しかし、もともと魚が多いのか、春先で食うものが足りないのか、それともまだ目が覚めてないのか、何も考えずに糸を垂れているわりに中ぐらいのが二尾と小さいのが四尾かかった。ただしどれも黒っぽい小さい鮒ばかりだ。

 小さい鮒を釣り上げた隆文は、さわからみみずを受け取って針に挿し、糸を流れに落とす。落として、傍らの美那のほうを振り向いた。

 「どうした? 元気ないけど寝不足か?」

 「寝不足だよ」

 美那は答えて柔和に笑う。

 「毬ちゃんのこと考えてるんでしょ」

 さわが言った。

 「まあ、そうなんだけどね」

 美那は言って目を細め、そのさわのほうを見る。

 「それにしても草分けてみみずほじくりながらよく話できるね」

 「ああ、慣れてるからね」

 なぜそんなことに慣れている? 美那はふしぎに思ったが訊かなかった。

 「まあいい子だよな、あの毬は。正直で、気が丈夫で」

 隆文が言う。隆文の垂らしている餌には小さい鮒が二匹食いつきそうになっているのが上から見えているが、隆文は餌を逃がし、隣の大きめの鮒に食いつかせようとしている。しかし、大きいほうの鮒は、腹がふくれているのか、罠だと気づいているのか、少しも寄ってきてくれない。

 「でもそういうことじゃないんでしょ? 美那ちゃんが考えてるのって」

 さわが横から言う。美那は頷いた。

 「そうだよ」

 「じゃ、いったい何だ? おっと……」

 小さい鮒に餌を横取りされそうになって隆文が大きく竿を動かす。それを追って小さい鮒が水面を跳ねた。

 ぽとんと音がして、波紋が川といっしょに流れていく。

 「一つは広沢三家って何かってこと」

 さわがその美那の顔をしばらく見る。唇は軽く結んだままだ。でも、美那がさわのほうを見返すと、さわはまた土をほじくり始めた。

 「何か特別の家らしいな。それもあんまり村の連中の覚えがめでたいわけではなさそうだ」

 隆文が言う。

 「でも、それがどうしてなのかとか、何か由来があるのかとか、そんなことはいまおれたちが考えて何かわかるものでもあるまい」

 「それはそうなんだけどね」

 美那は首を傾げ気味にして言った。

 「ねえ、隆文でもさわでも気がついてた?」

 「何に?」

 「うん」

 美那は短く言ってから、
「あの寄合のとき、たぶんその広沢三家の人は来てなかった。もし来てたとしたらずっと黙ってた。どうしてだろう? 何か出ちゃいけないって決まりがあるんならまだわかるんだけど、村長さんが別扱いしてはいけないって言ったでしょ?」

 「それが治部様の(おきて)だって」

 さわがつけ足す。隆文が頭を左上から右上へと向けてぐるんと一回りさせる。

 「ということは、治部様の掟がなければのけ者扱いされてもおかしくない家ってことか」

 「そうなんだよね」

 美那が言う。

 「じっさい、村のなかに味方になってくれる人がいたら、こんなとこまで毬を隠しに来ないって思うんだ。だって、あの柿原党の連中は村のやつらに嫌われてるんだよ?」

 「おれたちも好かれちゃいないけどな。おっとしまった……あーやれやれ」

 隆文が悔いたのは小さいほうの鮒がついに食いついてしまったからで、隆文はその鮒を引き上げた。五尾めの小さい鮒だ。元気な鮒らしく、草の上に上げても跳ね回っている。けんめいに逃げ回っているというよりは、楽しくて楽しくて水から引き上げられたことにも気づかないほどといった感じだ。

 美那はその鮒が躍るのをじっと見つめた。隆文はさわから新しくみみずをもらって針に通している。こちらも元気にはね回るので隆文は針に通すのに苦労している。

 隆文の餌が水に入ったのを確かめてから美那は話をつづける。

 「その好かれてないわたしたちに事情をぜんぶ話すなんて、村で味方になってくれる人がいないからじゃないかな。実際あの葛太なんかはおまえら信用してないって言ってたし」

 鮒はまだはね回っている。

 「あれって強がりだと思う」

 さわが言ったので、美那は少し驚いた。さわの言ったことが意外だったわけではない。美那もたぶんそんなことだろうと思っている。ただ、さわがそう考えて、それを口に出したのが、なぜか意外なことに思えたのだ。

 「強がりだとは思うけどさ」

 美那が言って目を遠くに向ける。

 ここではほんとうに遠くが見える。目の前には手つかずの荒れ地が広がっている。その荒れ地の向こうはというと、昨日自分たちが出てきたあの玉井の町だ。曇り空だったが城館の丘ははっきりと見えた。地面に近いほうは(もや)が濃いので見えなかったけれど、その靄がなければ町を歩く人たちの一人ひとりまで見えたかも知れず、自分の知っている相手を見分けられたかも知れないと思うほどだ。

 美那はさっきの話をつづけようとしたが、つづけても何も話が進まないと思って、話を変えた。

 「それとさ、べつにわたしが考えてもしようがないことだけど、あの毬のお母さんのこと、ずっと考えてる」

 「ああ。葛ちゃんに乱暴するっていう?」

 「そう」

 隆文はその美那のほうをちょっと見たが、何も言わなかった。

 大きい鮒を狙うのもやめたようで、魚のいないあたりをわざと狙って針を投げているようだ。

 「わたしもいろんな目に遭ってきたけど、わたしを生んでくれたお母さんも親切な人だし、いまのおかみさんも親切な人だしね。いっしょに住んでるお母さんに乱暴されながら育つってどんな感じなのか、考えても考えつかないよ。きっと辛いだろうなとは思うけど、どんな辛いか考えてみてもわからない」

 「考えたってしようがあるまい、そういうことは」

 隆文が言う。ところがさわがすぐに
「えぇっ? ちがうよ」
と口を挟んだ。

 「考えても考えつかないから考えるんじゃない? 考えて考えつくことだったら最初から考えてもしようがないと思わない?」

 「さあ、どうだかな」

 隆文は言ってため息をつく。美那が横目でその隆文を見た。

 「あんたさわちゃんが言ったことわかって答えてないでしょ?」

 とは言うけれど、美那だってよくわかっているわけではない。

 「うーん?」

 隆文は得意そうな声を立てる。だが、すぐにため息をついて、
「ま、そうだな」
と言う。で、美那に何か言い返す隙を与えず、立ち上がった。

 「さ、これぐらいでいいだろう。早いことこいつら焼いて食っちまおう」

 「ぜんぶいちどに食べるわけ?」

 美那が顔を上げてきく。隆文は頷いて、
「漬けるか干すかしていられればいいけど、そんな時間もないし、道具も持ってないしな。それに、今日の昼からどんなことになるかわからん。もしかすると水泥棒の件でややこしい言いがかりをつけられるかも知れないし――食えるときに食っておいたほうがよかろう」

 「うん」

 美那は頷いた。

 「でも、みんなで魚焼いて食べたりするとさ」

 「毬に悪いような気がするって言うんだろう?」

 隆文が先回りして言った。

 「でもな、考えてもみろ。あの毬が辛い立場にいるとしたらだ、おれたちの立場だって甘くはない。まずおれたちが切り抜ける道を探らにゃ。それにな、やつは三日間何も食わないであそこで潜んでいるって気もちを決めてるんだ。よけいなことを考えてやってもやつは喜ばん。だってそうだろう? 立場を逆さにしてみろ? おまえがいま毬の立場だったとしたら」

 「わかったよもう!」

 美那はうるさそうに言い、立ち上がった。

 「早いこと薪拾わないと遅れちゃうよ」

 言い捨てて振り向いてみると、隆文は目を細めて笑い、そして……。

 さわは拾ったみみずを一匹ずつ拾った場所に返してやっているところだった。

 さわはみみず一匹ずつの区別がついているのだろうか? 普通はそんな区別はつかない。けれども、もしかするとさわならばそれがつくのかも知れないと美那は思っている。


 川上木工(もく)国盛(くにもり)は、川上寺(かわかみでら)庫裡(くり)の縁に腰掛けて、若い寺男の和生(かしょう)と話していた。朝飯に来て、そのまま話しこんでいたのである。

 川上寺はほんとうは川中の明徳教寺と同じような立派な名まえがあったのだろうが、いまではその名もわからなくなっている。何しろ住持(じゅうじ)をはじめとして僧が一人もいないのだ。ただ寺男の和生がいるだけだが、この和生だって村の男の子を剃髪(ていはつ)させて寺に住まわせているに過ぎない。

 「この寺にもちゃんとした坊さんを招かないとな」

 国盛がおもむろに言う。和生は庫裡の上に行儀よく座って
「この寺が住持のいない寺になったのはやはり治部様の乱以来のことなのでしょうか」
と尋ねた。国盛は左側のまぶたをつり上げ、大きい目で和生のほうを見て
「いいや」
と短く答える。

 「寺ができたときから坊主なんか一人もいなかった。ここは、おまえ、さ、ほれそこの塔で見張りをして、ばあいによっちゃいくさを指揮する、ここの庭は村のほかのところが敵に押さえられても村人が逃げこんで籠城(ろうじょう)する、そんな城館のかわりに作った寺よ。ただ、一人の郷名主があちこちに城や館を持つわけにもいかないっていうんで、ここは寺にした」

 そして、すこし黙り、庫裡から周囲をぐるっと見回す。何かを探しているふうでもない。

 「治部様のことを町から来た連中は聖人君子のように言うし、村のなかでもそんなふうに言う者が多いがな」

 「違うんですか?」

 和生はもとから円い目をさらにまん丸くしてきいた。

 「違うんですかっておまえ」

 国盛は和生をいまさらながらというように見返す。

 「おまえはあの乱のときもう物心はとっくについておったろう?」

 「それはまあ、たしかに」

 和生は不服そうに言った。

 「でも悪い人とは思えませんでしたよ。芹丸(せりまる)さんにはよく遊んでもらいましたし」

 「だれも悪い人だなんて言ってないよ」

 国盛がたしなめるように言う。

 「ただ、あの人は根っからの武人でな」

 和生のほうではなく、両膝の上に両腕を置いてまっすぐ前を見て言う。

 「何でもいくさに役立てばよいというように考えておられた。ま、それは治部様のご主人の民部様――正興(まさおき)公のほうもおんなじだったがな」

 「正興公が?」

 「そうよ。ま、そうでもなければ、乱れた三郡を平定することなど叶わなかっただろうからな」

 で、国盛はなぜかほほっと笑い声を漏らした。

 「正興公とか、治部様とか、近づいて迂闊(うかつ)なことを言おうものなら叩き斬られるんじゃないかと思うほど怖いお方だったぞ。そういう恐ろしさのないお方は、山向こうの大兵部(ひょうぶ)様――ほれ、いまの柴山の小せがれの爺さんだよ、その大兵部様と、港の織部(おりべ)様ぐらいなものだった」

 「織部様のほうはわかりますが」

 和生は何度かまばたきする。

 「大兵部様がそうだったとは意外ですね。正興公を城館に追いつめて、もう少しで落城させるところだったんでしょう?」

 「あの人は気性は穏やかな人だったし、道理もわきまえた方だった。大兵部の息子の、いまの小せがれの親父もそうだな。やれやれ、いまはあの小せがれめが兵部ということになるのか。まったく」

 国盛は一人で愚痴をこぼす。

 「治部様は、たしかによいお人ではあったし、世話好きでもあった。しかしひとの意見をきかれぬというのが、まあ、よいところでもあり、困ったところでもあったな」

 「人の意見をきかれぬといいますと?」

 和生が問うた。国盛は応えて、
「村に川を引かれたことからしてそうだなぁ」

 「しかし、川は……」

 「川を引くことにこのあたりの村の者たちは反対だったな」

 国盛は和生を顧みてにこっと笑う。

 「できたから感謝しておるがなぁ。引くと決まったときには新しい夫役(ぶやく)が降ってきたというんでみんないやがったものだ。しかも、川を引くには町の者を連れてくる」

 「しかし町の衆が来てくれなければ川なんかとても引けなかったでしょう。とくに都堰(みやこぜき)からしばらくは岩地を切り開くのがたいへんだったといいます」

 和生が教えられたとおりのことを懸命に答える。国盛はまた笑った。

 「それはそうよ。しかし町の者らの食うものは村で用意しなければならぬではないか。それから、おまえ、水が引けたら引けたで、こんどは田を開く人手がよけいにいるだろうということで、ほれ、村の者には何の相談もなしに山向こうから人を呼び寄せられた」

 「それが広沢三家ですね」

 和生が言う。国盛は斜めに和生を見返した。

 「もともと広沢三家のほかにもいろいろいたのだぞ。でもけっきょくみんないつかなかったんだ。広沢三家にしたところで、治部様がとくに目をかけておられたのでやっと村に残ったんだ」

 国盛は話をつづけた。

 「村の衆の言うことをいちいちきいておられたら村はこんなに大きくはならなかった。いまでも粟や稗を食うか食わないか、そんな暮らししかできていなかったはずだ」

 疲れたような顔でため息をつく。

 「越後守様の一件があったとき、あの挙をなさらなければな」

 「しかしそれはそうはいかなかったでしょう!」

 和生が気色ばむ。

 「あれはどう考えても越後守様のやり方がご非道なのです。それに、あのとき戦っていなければ、三郡は柴山の天下になっていたかも知れないのですよ。だいいち、村長様だってあのとき治部様の旗挙(はたあ)げに加わられたのではないですか!」

 国盛は鼻から小さく笑い声を漏らした。

 「若い者は元気がいいのう」

 そしてにんまり笑って和生に言った。

 「そうだよ、たしかに。しかし、おかげで村はこのありさまだ。まあ、それでも、治部様が川をお引きになる前よりはよほどましだがな。借銭に追い回される暮らしでも、粟の粥ばかりすすっている暮らしよりはずっとましだ。米が食えるんだから」

 国盛はそこまで言って黙り、首を何回か振って見せた。

 「しかし」

 で、貌をあらためて唇を左右に引き、うんざりしたようにふうんと息をつく。

 「困ったもんだな、村西兵庫にも。悪いやつではないのだが、大木戸九兵衛も井田小多右衛門も合わせて、短慮(たんりょ)、そう短慮の(そし)りは免れんなあ」

 「もっと厳しくなさればいいのに」

 和生も不満げだ。

 「村西って、あれでしょ、奥方が」

 「しっ!」

 国盛は強く叱った。しかも声をひそめてだ。

 「それは口に出してはならん」

 「はいっ」

 それで、和生は神妙に頭を一つ下げた。

 国盛が肩を落とす。

 「ああいう手合いは適当に折り合いをつけて早く帰ってもらうに限るんだよ。それを柿原の手先など呼びこんで……柿原はしつこいぞ。さっそく広沢三家の娘っ子に手を出して、しかもそれが行方不明になったとかで騒いでおるようだが」

 「しかしわたしは心配です」

 和生が声を張って言う。

 「何がだ? 何が心配だ?」

 「だから、毬さんのことですよ! まさか殺されたんじゃないんでしょうね?」

 「知らぬよ」

 国盛は吐き捨てるように言って顔をそむける。和生が咬みつくように
「村長様!」

 「だっておれたちに何ができるって言う?」

 (なじ)られて拗ねたように国盛は言い返した。

 「でも、……広沢の出だってだけで。昨日の舞姫の話だってそうですよ、順番からいえばとうぜん毬さんが舞姫になるはずなのに。いや、それはともかく、行方不明になってもしかたないとは酷すぎます!」

 「じゃ、どうすればいいんだ?」

 責めるように言った和生に、国盛も機嫌を損ねたように言い返す。

 「それは……」

 和生はことばにつまった。国盛は軽く唇をとがらせて見せた。

 「だから、行方不明と言っても、言っているのは柿原党……おおかたどこかに隠しているんだろう。連中は何でも種にして居すわろうとするだろうし、何でも巻き上げようとする。注意する必要があるぞぉ」

 「それはともかく、広沢の人たちにばっかり損な役回りが回るっていうのは、変えないといけないですよ」

 「広沢の出はともかくな」

 国盛は身をまっすぐ起こしてまた息をつく。

 「ほれ、あの上の家の件を村の衆は忘れてはおらぬよぉ。村の衆があれを覚えているかぎり、どぉうにもなぁ」

 「あれは……」

 和生は途中でことばを止めた。

 また叱られては困ると思ったのだろう。和生はことばを変えて言う。

 「だからといって、毬ちゃんたちまでがあのことの咎めを受けるなんておかしいです」

 「まあ、治部様のご遺訓ということでしばらくは守ってやるしかなかろうなぁ」

 国盛は顔をそむけた。

 そのそむけたところへたったっと庭の飛び石を伝ってきた者がいる。

 頬かむりをした尼僧だった。

 尼僧は国盛のところまで来ると、あどけないようにも見える丸顔を向けた。

 「おや、お(ふさ)じゃないか。どうした、こんなとこへ」

 「安総(あんそう)です」

 乾いた声で尼僧は言う。声そのものは艶があってかわいく、それをむりに抑えているようだ。いやそうに唇を閉じて苦笑いする国盛にかわって、和生がきいた。

 「お総……じゃなくて安総姉さん、何かご用で」

 お総だか安総だかは小さく頷いた。

 「中橋様のご用で参りました」

 「中橋様!」

 国盛と和生は二人とも背筋を伸ばして顔を上げた。

 「とすると、何か?」

 「はい」

 「何か?」としかきかれていないのに、安総尼はまた頷いた。

 「牧野郷・森沢郷合わせての寄合を開くので、村には警固(けいご)番の者だけ残して寄合衆はみな集まってほしいとのことです。ことに、中原郷からのお客人と村西様、大木戸様、井田様には是非ともお出でいただくようにと」

 安総尼はその「是非とも」をすこしゆっくりめに言い、力をこめた。

 「森沢の衆からは承知の返事が来ています。川上村のほうもぜひご承知くださるように、と」

 言って、安総尼は眉の長い両目を二度すばやくまばたきさせた。被りものの下の頬が白い。

 「それはいいけどよ、おい」

 国盛がその安総尼に言う。

 「町の銭屋の使者はどうする? 川中にいるのか?」

 「いまはどちらにおられるか存じません」

 安総尼は平らな声で答えた。

 「しかし、昼の鐘が鳴るときにはおいでくださるように申し渡してあります」

 「それはまた……」

 国盛はそこでことばを切る。安総尼が顔を上げ、その国盛を叱咤するように言った。

 「父上! 早く村の衆を集めてください。それと、村西様にはわたしからこのことを申し伝えましょうか?」

 「ちょっとまてお総!」

 出家した自分の娘のことばに父親の国盛は慌てる。

 「あんな家に行ったら命がいくつあっても足りんぞ。いやいや、行かせるわけにいかん! おまえは、おまえはなっ」
と唾を喉に詰まらせかけてから、
「おまえは川中に戻れ。一瞬も早く中橋様に承知したと伝えろ」

 「承知しました」

 安総は頭を下げると、またすばやく庭の飛び石を伝って去って行く。国盛が声をかけた。

 「だめだぞ! まっすぐ帰るんだぞ! 村西の屋敷なんかに行くんじゃないぞ!」

 安総尼は少し振り返ったようだったが、被りものに隠れてどんな貌をしたかはわからない。

 国盛を和生が横目で見る。

 「自分の娘御のことならそこまで懸命になるのに……もうちょっと毬ちゃんのことも考えてやっていいんじゃないですか?」

 「うるさいんだよ、おまえはっ!」

 国盛は和生にあたった。

 「そんなことより、早く村に知らせを回せ。いや、村西にはおれが行く。おまえもやつらなんかに取って食われちゃかなわんからな」

 「だいじょうぶですよ」

 「だいじょうぶじゃなさそうだから言ってるんだっ」

 国盛は慌てて鞋をきちんと履きもせずに出て行く。眉をひそめて後ろから和生が見送った。

 「けっきょくわたしの仕事になるんですね……」

 ため息をつくと、村の名簿を取り出し、だれが寄合に加われる大人衆でだれが警固番にあたっているかを確かめて、知らせて回る順番をあれこれ考え始めた。


 市場の空は曇っていた。

 駒鳥屋のおよしは隣の藤野屋が昼になって表戸を閉め始めたので驚いた。

 「じゃ、わたしはこれで」

 あいさつしているのは、昨日の話に出ていた藤野屋の使用人の頭の橿助(かしすけ)だ。腰は曲がっていたし、顔の皺も深いが、その曲がった腰をばねのように動かして勢いよく頭を下げている。

 「ええ」

 店のなかで答えているのは薫だろう。若い使用人何人かが店から出てきた。

 「ほんとうにいいんですか、あとお手伝いしなくて?」

 「ええ。お疲れさま」

 「それじゃ……おい、行くぞ」

 橿助は自分の子分にあたるらしい使用人を連れて花御門(はなみかど)小路のほうへ歩いていく。その歩くのも早足で、若い者が後ろから小走りについていくぐらいだ。

 店の者たちを見送ったあと、後ろから薫が出てきた。

 その薫の姿を見ておよしはまた驚いた。

 よごれ一つない淡色の絹の小袖に(うちぎ)を羽織っている。薫はいつも品のよい着物を着てはいたが、この着物を着ているところはいままでほとんど見たことがない。

 市場の葛餅屋のおかみさんには見えない気高い姿に見えた。およしはその姿に打たれたのか声をかけるのをすこしためらった。

 「薫さん?」

 「あ、およしさん」

 薫はふだんどおり落ち着いて穏やかに笑って振り向いた。

 「どうしたの、急に店を閉めたりして。まさか、店じまいする仕度を始めたりしてるんじゃないでしょうね?」

 薫は驚いたように眉を上げた。だがすぐにもとの落ち着いた笑顔に戻る。

 「そうじゃありませんよ」

 薫はしばらく目を閉じる。

 「今日は月は違うけれど(とし)さんの命日なのよ」

 「ああ」

 およしは少し目を伏せる。

 「若旦那ね。でも薫さんは知らないでしょう?」

 「ええ、でも、いまこの家を継いでいるのはわたしだからね」

 薫は顔を上げて笑って見せた。

 「それで世親寺様にお参りするの」

 「ああ。なんだ」

 およしは無遠慮に笑顔で言った。

 「昨日あんな話をしたんで、びっくりしちゃった」

 薫はすぐには応えず、あいまいに穏やかに笑う。

 「ああ、そういえば」

 その薫がふとそのおよしのほうに顔を上げて、少し心配そうに、言いにくそうに言った。

 「昨日の夜の牧野郷のご使者の用向きは何だったのかしら?」

 「ああ」

 およしはふふっと大きく息をついた。

 「あれは兄のところに回したから詳しいことはわからないけど、何か市場の文書を確かめたいことがあるって」

 「夜中に?」

 「うん……。何か寄合で決めなければいけないことがあるんだけど、それに必要な文書が村にはないから急いで見せてほしいって」

 「あの子の不調法で何か起こったんじゃないでしょうね?」

 「そんなことないと思う」

 およしは笑った。

 「ほら、あそこはあの乱のときに館に火をつけられて、だいじな文書はぜんぶ灰になってしまったから。これまでもあったことよ。もう少しお美那ちゃんを信用しないと」

 「あの子がどういう子かわかってるから心配しているのよ」

 薫はそう言い返し、およしに合わせるように笑った。

 「でもほんとうはね、あの子がいるとなかなかお寺にお参りに行けないから、今日、こうして行ってくるのよ」

 「あ、そうなんだ」

 およしはそう言われて安心したようだった。

 「それでは行ってきます。日暮れまでには戻ると思うけれど、留守をお願いするわよ」

 「まかせて」

 およしが勢いよくそう行ったのをきいて、薫は、小さく会釈し、西へ向かって歩きだした。

 薫がこれから訪れる世親寺の鐘の音が明るく聞こえてきた。

 空は曇っている。薫さんが帰るまでに雨が降らなければいいなとおよしはふと思った。

― つづく ―