夢の城

清瀬 六朗


桜の里(五)

― 4. ―

 だれも声を立てない。

 外からの物音も一つも聞こえない。すきま風の一つも渡らない。

 連子(れんじ)障子から漏れる外の明かりは灰色の(かげ)りを濃くしているようだ。

 大木戸九兵衛(くへえ)と井田小多右衛門(こだえもん)が村西兵庫(ひょうご)の腿のあたりを拳でつっついたり耳に口を寄せて何か(ささや)いたりしている。けれども村西兵庫は固い(かお)で落ち着かないように前のほうを見ている。ときどき小さく首を左右に振るだけで唇を閉ざしている。

 しかも、前にいるだれとも顔を合わせないように避けているようだ。

 だれも何も言わない。

 しばらく待ってもだれも声を上げない。それを見て、ここまで何も言わずにいた中橋渉江(しょうこう)が口を開いた。

 「どうやら、村人衆の議論を聞いていると、借りた借銭借米の全部を返すのはもとより無理で、また、ご使者もそのようなことは求めておられぬ。しかし、この不作で町の銭屋も困っておられるし、もしこのまま徳政ということになれば町の銭屋は立ちゆかなくなり、次の秋から銭米の借りどころがなくなる。どうであろうか。村人衆の暮らしの厳しいことはよくわかっておるが、ここは切りつめるところは切りつめ、たがいに(たす)け合えるところは済けあい、なにがしかの銭米をひねり出して、返せる限度で返すということを牧野・森沢二郷の議としたいが、異存のある方はおられるか」

 村人衆のなかからは何の声も上がらなかった。

 「ご使者のほうには異存ありますまいな」

 美那もさわも黙ったままだ。隆文がそのようすを見て、中橋渉江のほうに頷いて見せた。

 中橋渉江も頷き、もういちど場を見渡す。

 「よろしいな。それでは、それぞれの村でどのくらいを返せるかということだが、それは村ごとに事情も異なっておろう。ほかの村の者に告げられぬこともあろうし、ご使者のお耳に届いては困ることもあろうと思う。とりあえずここでご使者には席から退いていただくことに」

 そこまで言ったとき、
「お待ちくだされ」
と声をかけたものがある。

 川上村の村長、木工(もく)国盛(くにもり)だった。中橋渉江は、ことばを途中で折られたにもかかわらず、すらすらと朗らかな声で応える。

 「何ですかな、木工殿」

 「はい」

 国盛はうなずき。
 「席を去られる前に、ご使者に一つお聞きしたいことがございます」

 「ということだが、よろしいか?」

 渉江が首をめぐらせて「ご使者」三人にたずねた。

 美那は不安な感じが胸に湧き上がるように思った。隆文も眉をひそめている。

 でも、断るには理由がいるし、そんな理由はない。三人で目を見合わせてから、隆文が
「どうぞ」
と短く答えた。

 中橋渉江が頷くと、川上木工国盛は後ろを向き、使者のほうに声をかけた。

 「ご使者の娘さん、いや、そちらの方ではなく、まん中の方」

 「わたし?」

 うわずった声を返したのはさわだ。もっともべつに上気して声がうわずったわけではなさそうだ。

 「そうだ」

 国盛は頭を下げた。

 美那は何かへんだと感じた。国盛は、さわのほうを見上げるのに、どうにも美那と目を合わすのを避けている。

 国盛は、少しためらった。いや、少しではない。ためらいつづけ、さわから目を離してうつむいてしまう。さわは大きい目でその国盛のほうを見つづけている。

 席のまんなかのほうの村人から
「何かな、木工殿」
と声がかかり、国盛は黙っているわけにはいかなくなったらしい。

 「娘さん、わたしの聞き違いなら許してくださいよ」

 国盛はさわの目を見上げながら、こんどはかたときも目をはずさずに話した。

 「さっき、隣の娘さんをお呼びになるとき、何とお呼びになった?」

 「えっ?」

 さわはまばたきしている。

 「この子?」

 さわの無邪気な問いかけに、国盛は重く深くうなずきかけ、途中から急に軽く二度三度頷いた。

 「この子、お美那ちゃんだけど何か? あ」

 さわが慌てて息を吸いこんでかわいらしく口を押さえたのは、昨日、毬に言われたことをやっと思い出したのだろう。

 ――遅いんだって、だから……。

 でも美那に咎める気はなかった。美那だって忘れていたのだから。

 それに、隠せば逆に疑われるだろう。

 それより前に、席の者たちはさわのようすなんかもう見ていなかった。

 「美那?」

 「美那だって?」

 「ってことはあの美那か?」

 「こぉれはたいへんなことになったもんだ!」

 「いや待て、あの美那とは限らん」

 「よくある名まえだしな」

 「しかし年格好が……」

 「しっ! 大きい声出したら聞こえるだろう?」

 ――もう聞こえてるけど?

 とまどっていたのは当の美那だった。「あの美那」と言われたってどの美那かわからない。それで「たいへんなことになった」と言われても、美那としては自分がどんなたいへんなことをしているのかまったく見当がつかない。

 いや、たしかに払いたくもない借銭の取り立てに来ているのだから、村人衆にとってはたいへんなことなんだろうけど、どうもそういうことではないらしい。

 「お鎮まりなされ!」

 中橋渉江がこれまでとはちがった大きい声を上げた。

 「こちらの娘御(むすめご)のお名まえがどうあれ、こちらは町の銭屋のご使者として参られたのだ。ご使者の申し条についてはともかく、お名まえをめぐってあれこれ申すものではなかろう」

 渉江にそういわれても、村人衆はまだあれこれことばを鎮めずにいた。渉江はつと後ろを向いて小声で尼を呼ぶ。

 「安総(あんそう)

 「はい」

 安総は、けなげというのか、場のどよめきとはまるで関係なく、きれいな姿勢で座っている。

 「ご使者を僧坊(そうぼう)のほうにご案内してくれ」

 「はい」

 安総はすっと立ち上がり、隆文とさわの後ろから「こちらへ」と声をかけた。三人は顔を見合わせ、立ち上がる。

 「重ねて申す。ご使者にはいったん座を退いていただく。よろしいな」

 渉江が声をかけた。本堂のなかの者たちはまだざわついていたが、何人かの者が渉江に向かって頷いて見せた。渉江は安総に合図する。

 安総は三人を裏の木戸のほうへ導く。さっき柿原党の者たちが出て行った木戸だ。

 中橋渉江は振り向いて、その「ご使者」たちと一人ひとり目を合わせて黙礼した。

 美那にはとくに深く頭を下げて見せたようだ。


 空はいっそう曇っていた。白木の二層の八脚門の向こうに、地上は流した薄墨を通して見るように見えた。

 「雨が降りそうですわね」

 尼が言う。薫は半ば目を閉じるように頷く。

 「あの子に伝えることは何かありますか?」

 「いいえ」

 尼は何か笑いを含むようにした。

 「ここを訪れられたことも教えないおつもりでしょう?」

 「そのつもりではありますけど」

 薫は少しことばを淀ませた。

 「でも、駒鳥屋のおよしさんには伝えてありますし、店の者にも言ってありますしね。どちらにしてもあの子には伝わりますよ」

 「では、何よりも自分の身を大切にして……いえ」

 尼はうつむいて笑みを浮かべる。

 「わたしがそう言ったと伝えたりしたら、あの子はどうするでしょう?」

 そして目をつむる。

 「浅梨さまのお屋敷に剣を習いに行くのをやめたりするでしょうか?」

 「いいえ」

 薫は少し笑って答えた。

 「やめたりすることはないと思います。それどころか、何も変わらないと思いますよ、あの子の行いは」

 顔を上げて尼のほうを見る。尼がまだうつむいて下のほうに目をやったので、薫はつづけた。

 「剣を習いに行ったり、中原村の地侍と悶着(もんちゃく)を起こしたり、竹井の名主の若君を(なぐ)り飛ばしたり――それで身を危うくしているという覚えがあの子自身にないのですから」

 「まあ」

 尼の顔からさっきの内にこもった笑みとはまったくちがう笑いがこぼれた。頬が少し紅色になったようにも思える。

 「だから、ほんとうに身が危うくなるようなことは、あの子はしないと思っています。ええ、そのことについては、あの子は十分に(つつし)んでますとも」

 「手にとるようにわかります。父上――あの子のおじいさまもそうでしたからね」

 尼は笑った。

 「でも、たぶん、ちがっているんでしょうね、わたしが考えているのとは」

 そして、薫が答えないうちに、つづける。

 「あの子も十六――こんど会ったら、あの子にわたしがわかっても、わたしにあの子がわからないかも知れませんね」

 「そんなことはないと思いますよ」

 薫が言った。

 「いくつになってもそんなことがあるものですか」

 まっすぐに自分を見ている薫のほうに、尼はゆっくりと顔を上げた。そして、その潤んだ黒い瞳を薫に向けた。

 いちど目を合わせそうになって避け、もういちどゆっくりと薫の顔に目を戻す。薫はまばたきしただけだ。尼はもう薫の目を避けなかった。

 「薫さんはたしか私よりも年上でいらっしゃいましたね」

 「ええ」

 薫は落ち着いて頷く。

 「十ほどちがうはずです」

 「あのとき、わたしはまだ幼くてあの子を守ってやることができなかった」

 尼は笑っていなかった。

 わざと顔を少し伏せて、上目遣いに薫を見る。

 そうやって見ると、この尼はたしかに細面だし、その面影はまちがいなくあの子にもある。

 「だからお願いです、薫さん。出来の悪い妹の娘だと思って、あの子のめんどうを見てやってください」

 「何をおっしゃいます」

 薫は背を伸ばしたまままっすぐに尼に言った。

 「あなた様がわたしの妹だなんてもったいない。そのようなことを……」

 「いえ」

 尼は首を振った。

 「あのとき、わたしに薫さんのお知恵と固い心もちがあればあの子を守れたのです。あの子だけではありません」

 言って、尼はしばらく目を閉じる。

 薫も目を閉じ、尼が耐えるようにしながら自分のほうに目を向けつづけているのを確かめてから一つ頷いて見せた。

 「あの子はきっと守ります」

 それは薫にしては硬い声だった。

 「わたしの力の及ぶかぎりで、わたしはあの子を守ります」

 尼は何も言わず、品よくお辞儀した。

 だから、薫も同じように品よく礼を返した。そして、尼のほうを二歩ほど振り向いて歩くと、白木の門をくぐり、急ぎもせず、寺の前の石段を下りていく。

 尼は門の下まで見送ったが、薫はもう振り向かなかった。向こうに広がる玉井郡の土地はさっきよりも墨の色を濃くして陰鬱に広がっている。

 尼の目から涙がこぼれ、頬の上をきれいに少し曲がりながら伝わって落ちていった。


 「こちらです」

 あの顔の丸い若い尼――安総に連れられてきたのは、村の入り口の墓地の片隅だった。

 空は暗く曇っていて、日暮れ時よりも暗いように感じられる。

 あのあと、寄合が川上村と川中村と森沢五村に分かれてつづけられることになったとかで、安総は僧坊をたずねてきた。そして、あの、おもしろくもなさそうだが悲しくもなさそうな顔で美那を名指しし、
「ついてきてください」
と告げたのだ。隆文が()いて行っていいかとたずねると、安総はしばらく迷ってからよいと答えたので、隆文とさわもついてきた。それであの入り組んだ町をまた抜けて、この墓地まで戻ってきた。

 「こちらって?」

 美那がきく。そこには(あんず)の根もとにあやめが()れているだけで、何も見あたらなかった。

 「はい。こちらです」

 安総は美那の前に腰を下ろしてあやめをかき分けた。尼さんがかわいい丸いお尻を突き出して草をごそごそやっているのも何か奇妙な姿だが、安総は気にするようすもない。

 しばらくかき分けると、茂みのなかから四角い石がのぞいた。粗いながら(のみ)で刻した(あと)がある。安総はあやめを手で押さえたまま、美那を振り向く。

 ここが墓地である以上、この四角い石は墓石に違いない。

 「これは?」

 「はい」

 安総は懸命にあやめを押さえているので、自在に返事ができないらしい。美那が急いでしゃがんでそのあやめの半分を押さえてやる。安総はそうやって横に美那が並ぶのを待っていたらしい。

 「美那様のご両親のお墓です」

 「はい?」

 美那はわけがわからずききかえす。安総は重ねて、
「御父君と御母君のお墓です」

 「はあ」

 「どうかお弔いをなさってください」

 「は、はい……」

 美那が答えると、安総は小さな数珠(じゅず)を美那の手に握らせた。

 珠の小さな、美しい数珠だった。そんなことはどうでもいい。

 安総は小さな口を強く結び、美那を見上げている。

 ちょっと見たところではさっきまでの(かお)と同じようだが、安総にとってはずいぶんちがうらしい。美那は、言われるままに安総の手から数珠を取り、墓の前に膝をついて両手を合わせた。

 美那も安総も押さえるのをやめたのであやめの茎と葉が元に戻りかけるが、墓石はその向こうに姿を見せていた。

 振り返ると、隆文が何か興味なさそうにその美那を見下ろしている。さわは――この子はあいかわらず何を考えているのかよくわからない。

 美那はあいかわらずわけがわからなかったけれども、数珠を両手に通し、両の(まぶた)を閉じた。

 声を立てる間もなかった。

 それほど突然なことだった。

 「あ」

 自分が声を立てるかわりに、後ろのさわちゃんが声を立てている。

 閉じた美那の目から涙が(あふ)れた。しかも、涙は、数珠が連なるように、次から次へと溢れて出たのだ。

 何がどうなったのか、美那自身にわからない。

 口の結び目からむせび声が少しずつ漏れ出した。いけない、と思って口を引き絞めようとする。

 けれども、美那の唇から漏れる泣き声は少しもやまなかった。涙がしたたって、着物の懐のあたりを濡らし、胸もとが冷たく感じてきても、涙は止まらないどころか、ますます(しき)りに流れ出た。

 うしろで、さわが小さく頭を下げて手を合わせた。

 安総は最初から美那の横に膝をついて手を合わせている。残った隆文は、きょろきょろとあたりで何かを探すようなふりをして見ないふりをしていたが、けっきょく落ち着かなくなったのか
「ええい」
と犬が(うな)るような声を立てて胸の前にしっかりと手を合わせて目を閉じ、頭を垂れた。


 「どうなさった」

 薫の後ろ姿が、門前町の廃屋のあいだを通り、放生(ほうじょう)池のほうに折れて見えなくなるまで見送った尼に、後ろから和尚が声をかけた。

 尼はふと顔を上げた。頬には涙の痕がある。まだ乾いていなかったが、尼は拭おうともしない。

 「薫さんが訪ねてきてくれました」

 尼は和尚のほうを振り向き、笑顔を作って言った。

 「薫? 藤野屋の薫さんか?」

 「そうです」

 「ふむ」

 和尚は黒い眉を寄せて目を細めた。

 「何かあったのか?」

 「何もありません。あの子が留守なのでお寺にお参りに来たと――あの子がいるとなかなかお寺にも来ることができないからと」

 「うむ」

 和尚は腹のあたりに手を上げ、左腕の上に右腕を重ね、袈裟(けさ)の上から左腕を握った。

 「で、何と?」

 「いえ、別に何も」

 尼は作った笑顔からもっとにこやかな顔色になる。

 「あの子は市場の娘になるつもりなんだそうです」

 「中原の地侍と悶着起こして、小森の子飼いの若侍をぶん殴ってか?」

 和尚は苦笑いする。尼も目を細めた。

 「でも、薫さんによると、慎むべきところは慎んでいると」

 「そういうことではないんだ」

 和尚は言った。太い声だ。

 「桃丸は薫さんと往き来しているのだろう? 薫さんは何か感得しているのかも知れぬ」

 「まさか」

 尼は小さく首を振った。

 「桃丸さんはしっかりしたお方です。それに、薫さんが心配しているのは、たぶん十六の娘を持っている町家の母親ならばだれでも思うようなことですよ」

 尼は和尚のほうを向きなおり、その和尚の顔を見上げた。

 「何かな?」

 和尚は尼の貌が先ほどとはまったく変わってしまったのを感じているらしい。眉間に皺が寄らないぎりぎりまで眉を寄せ、目を見開き、開いた瞼のすぐ下に目をつけて、両の目で和尚を見上げている。

 「私はあの薫さんに薫さんを姉と思うと告げました」

 「ほう、それは」

 和尚は中途で声を止める。尼はつづけた。

 「それは姉とでも思わなければ薫さんが憎くなるからです。憎くてしかたなくなるからです。しかし姉と思えばその気もちは変えることができます」

 「しかし、なぜ薫さんを憎く思わねばならぬ?」

 「だって」

 尼は、ひと瞬きするあいだだけ、目を細めた。しかし耐えた。もういちどもとのように努めて目を開く。

 「あの薫さんは、わが娘と十六までいっしょにいたのですよ。いまもいっしょにいるのですよ。娘がいちばん変わる時期に、あの薫さんはあの子といっしょにいるのですよ。娘が女に変わる時期に、あの薫さんはあの子といっしょにいるのですよ。目を覚ましてから床に就くまでずっといっしょにいるのですよ」

 尼はことばを切る。目を細め、喉から嗚咽(おえつ)が漏れるのを懸命に(ふせ)いでいるようだ。

 「わたしはこんな近くにいて、しかも会いに行くこともできないのに。いちどだって会いに行くことができないのに」

 「そんなことを恨むのではないよ」

 和尚が声を柔らかにして言った。

 「それがどんな難しいことか、しかも、あの勝ち気な娘を、いまでも地侍と争ったり若侍を殴ったりするような娘をあのように育てるというのが」

 「わかっています」

 尼は早口で言った。

 「だから恨まぬようにしなければとはわかっているのです」

 「恨むなとは、私からは言えぬ」

 和尚は、あいかわらず太い声でそう言うと、体躯に似合った大きなため息をついた。

 「わたし自身は恨みも何も持ってはいないが、恨むなと言うならば、()たびの企てとて」

 和尚はそこまで言って、太い首を何度か振る。

 「遠いみほとけの御代(みよ)ならばともかく、いまの世で、人が恨みをすべて捨ててしまったらどうなるか? 少し考えればわかることだ。いまの世では、ひとが恨みを抱くのも、長い長い因果の一つの()、恨みが果たされるも果たされないもその因縁の連なりしだいで、わたしたちで何かできることではない。恨みを抱くのはしかたがない。ただその恨みがどういうものか、それを忘れずにいればそれでよいのだとわたしは思う」

 尼は、聴いて、急に目を細め、口をすぼめた。

 「決めました、私……」

 尼はさっきとちがって優しい声で言った。

 「うん」

 和尚は頷いて、その尼の目を見通すように目を細める。

 「このたびの企てのことを薫さんに告げないことに決めました。それであの人が苦しもうが迷おうが、わたしの知ったことではないと」

 「うむ」

 和尚は頬の肉ではね返るように二度三度と頷いた。

 それから、晴れた空に向かうように、顔を上げて喉の奥からの声を漏らした。

 「だが、それが恨みゆえのことと言えようか?」

 尼は答えなかった。

 空は晴れるどころか、日暮れに近づいたこともあって、ますます暗く、濁り色を濃くした雲に覆われていた。

― つづく ―