夢の城

清瀬 六朗


桜の里(六)

― 1. ―

 夜になっても雨は降らなかった。しかし、風は湿っぽくなっていたし、その風もときおり吹き狂うように激しく吹き、雨が近いことはわかった。

 明徳教寺(めいとくきょうじ)庫裡(くり)普請(ふしん)がよいのか、これぐらいの風では(かし)(きし)む音も立てなかった。ただ、部屋の中に灯した明かりも、風が入ってくることで揺れ、揺らめき、明るく燃え立ったり消えそうになったりを繰り返していた。

 その庫裡の奥に近い一間――。

 そのちらちらした灯火の二本に照らされながら、中原安芸守(あきのかみ)範大(のりひろ)(ひじ)をついて枕にして寝そべっている。

 この安芸守の父造酒(みき)克富(かつとみ)は、主君春野越後守(えちごのかみ)定範(さだのり)から「範」の字を、その岳父(がくふ)である柿原大和守(やまとのかみ)入道忠佑(ただすけ)から「大和守」の「大」の字をもらって名づけたこの範大の名をたいそう自慢にしていた。だから、いつもこの範大の名を口にするときにはわざと力を入れてゆっくりと言った。それが「のりーひろー」といくぶん間延びして聞こえることにはこの範大の父は気づいていない。

 範大はこうやって寝そべって何を考えているのだろう?

 昼間の長野雅一郎(まさいちろう)の失態のことか? それとも、昨日、短い時間だけ出会って、すぐに姿を消した、名まえも覚えていない小さい小娘のことか?

 それとも何も考えていないのか?

 何も口に出さない。だから、この範大が何を考えているかはわからない。

 ただ、ここに範大が寝そべっていることで、柿原党の使者は庫裡でおとなしくしているというように見える。それがもしかすると取り柄だったかも知れない。

 しかし、小者たちは庫裡の別棟で休んでいるので別として、範大といっしょに来た長野雅一郎の姿は部屋のなかには見えない。

 では、雅一郎がどこにいるかというと――。

 その範大の寝そべっている部屋の窓の後ろ、どこの窓から漏れる明かりからも影になるところに(しゃが)んでいる。

 「遅うございましたな」

 そして、できるだけ跫音(あしおと)をさせないように身を屈ませてやってきたのは、川上村の村人 村西兵庫助(ひょうごのすけ)である。残念ながら跫音を消すのは巧くなく、枯れ葉を踏むざくざくいう音は聞こえていたが、さいわい風が荒れているので跫音は目立たずにすんだ。

 「しかたがなかろう」

 村西兵庫は気が立っていた。

 「村の者に見とがめられたら何をどういわれるかわかりませぬから」

 「では手短に」

 雅一郎は早口で言った。

 「どういう議になりました?」

 「どうもこうも」

 兵庫は毒づくように言う。

 「森沢の衆のことはわからぬが、川上、川中両村では、二年前まで期限の借銭はぜんぶ、一年前までのものはおおよそ半分、返すということに決まりました。ここまでの評定(ひょうじょう)から考えて、たぶん森沢はもっと返すと言うでしょう」

 「それは困ったことですな。村としてはともかく……」

 「もちろん、困ったことです」

 「ともかく」のあとに続くことばを村西兵庫は感じ取って答えたにちがいない。

 「これでは忠義が(かな)わなくなる」

 「しかし、妙ですな」

 雅一郎は村西兵庫の忠義がどうこうという話にはつき合わなかった。

 「明日食うものに困るというのは大げさに言っているにしてもです、どうしてこの困窮しきった村にそんな気前のよい借銭の返しかたができるのですか?」

 「それは」

 兵庫はぶっきらぼうに言ってから、あたりのようすをうかがう。

 庫裡の裏は薮になっていた。しかし、薮まで二(けん)ほど間があいている。そこが窓々の明かりで照らされていて、そこにはだれのいる気配もない。

 兵庫はいっそう声をひそめた。

 「蓄えがあるのです、村の者しか知らぬ蓄えが!」

 「何と!」

 雅一郎もつき合って、潜め声のまま驚く。

 「百(こく)ほど蓄えてある、義倉(ぎそう)といいましてな、そもそもは」

 「いや、いわれの説明はいい」

 雅一郎は兵庫の声を封じた。

 薮が二人の頭の上で風を受けて渦巻く。それがうるさい。

 雅一郎はしばらく考えてから、兵庫に確かめる。

 「その義倉とやらいう蓄えのなかから借米を返すというのですな?」

 「それ以外には考えられませぬ」

 「そうなっては忠義が叶わぬと?」

 「もちろんですよ」

 「では」

 雅一郎は声を止めた。

 蹲んだまま、暗闇のなかで兵庫の両の目を見上げる。

 重々しく言う。

 「焼くしかあるまい」

 「焼く?」

 兵庫は声をひっくり返して大声を立てかけ、自分で慌てて身を縮こまらせた。

 「焼くと申されたか?」

 「申しました」

 雅一郎の声は重々しく、揺るがない。

 「焼くと申されたか?」

 「申しました」

 「で、何を?」

 「蓄えの米を」

 「蓄えの米?」

 「そう?」

 「どこの?」

 「村の……義倉といいましたか?」

 「そっ……」

 辛うじて声は小さく抑えているが、その声がときどき裏返りかけている。

 「そんなことをしたらっ」

 兵庫は言って唾をひとつ呑みこんだ。

 「そんなことをしたら」

 「(ばち)が当たるか?」

 雅一郎が隙を与えずに畳みかける。

 「いえ、それより前に、見つかったら極刑です」

 「見つからなければよいのです」

 「村の外から来たからそんなふうに言えるのです。あれが焼けたとなると大事です。詮議(せんぎ)がある。調べられればいずれはわかってしまう、いや、わからなくても、いまわれらが村のなかで置かれた立場を考えてもみられよ」

 借銭取りの娘が水盗人だと呼ばわったのを覆されたばかりか、あの範大が見苦しい行いに及んで、柿原党の醜態(しゅうたい)が牧野森沢両郷の寄合の前にさらされ、その柿原党を呼び入れた村西ら一党が村のなかで疑われ軽んじられる立場になっている――ということだ。

 だが雅一郎は黙ったままだ。兵庫は重ねて早口で言う。

 「証拠が残っていればもちろん、残っていなければこの村の者がどういうことをするか、ご存じないからそういうことが言えるのです。あの義挙、いや、あの乱のあと……」

 「そんな話はやめましょう」

 雅一郎が兵庫のことばを封じた。

 「つまりその蓄え米を焼くのは一大事であり、疑いはどちらにしても村西殿一党に降りかかると、こういうわけですな?」

 「わかっているではないか」

 「では、疑いを()らせばいい」

 「逸らす? しかし、だれに?」

 「決まったことではありませんか」

 雅一郎はそこまで力をこめて言うと、急に力を抜き、兵庫にすら半分ぐらいしか聞き取れぬように声を弱めた。

 「町の銭貸しにです」

 「なんと?」

 「村西殿一党はわれらとつながりがあるとして村人に疑われているかも知れない。けれども、村人の疑いということから言えば、あの町の銭貸しどものほうが上です。あの者たちは水盗人の疑いは晴らした。しかしそれで素姓が明らかになったわけではない。村人の村西殿一党が疑われる以上にあの者たちは疑われるはずです」

 「しかし」

 村西兵庫は声を詰まらせ、もういちど、いや、二度ほど、唾のかたまりを呑みこんだ。

 「村の者というのは、町の者を信じてはいないものです。けいちょうふはくで信用できない、何をやるかわからない人間だと思っている。違いますか? わたしの村ではそうです」

 雅一郎は言って兵庫の顔をじっと見つめた――逃げることを許さないというように。

 兵庫は思い切るように首を振った。

 「なるほど」

 そして目を細めた。それがいかにも陰険そうに見える。それに兵庫は気づいていない。

 「それはある。たしかにある」

 村西兵庫は二度、また三度と頷いた。

 「村の者たちはあの者たち、いや、あの娘を疑うに違いない」

 「あの娘というのは、水盗人の娘のことですか?」

 「そうだ」

 兵庫は短く鋭く答える。

 「あの娘にはそれをやるだけの理由があります。しかもあの娘ならばあの場所を知っていておかしくない」

 「それは好都合です」

 雅一郎は頷いた。兵庫が訊く。

 「しかし、いつそれができます?」

 「雨が降ったらやっかいだ。今夜の早いうちにやってしまいましょう」

 「今夜?」

 兵庫はまた少し驚いた。雅一郎はちらっとその兵庫の顔を見上げただけで早口でつづける。

 「場所だけ教えてくださらぬか? わたしと小者どもだけで片をつけますから。それならば露顕(ろけん)したばあいでも兵庫様には迷惑がかかりませぬ」

 「あ、い」

 兵庫は、いちどはそれがいいと思ったのだろうか? でも、すぐに返答をあらためた。

 「い、いえ。あの場所は村の外の者にはまずわかりませぬ。それにこの村から抜けるのも抜け道をご存じないみなさまには難しかろう。私がお供します」

 「それはありがたい」

 「油も入り用でしょう。仕度は整えた上、なるだけ早くお声をかけに参ります」

 覚悟が定まったのか、村西兵庫の言うことは豹変(ひょうへん)している。

 あるいは、いやなことは早くすませてしまいたかっただけかも知れないが。

 「くれぐれも気取られませぬよう」

 雅一郎が腰を浮かした兵庫に潜め声で言う。兵庫は半分後ろに振り向いて頷き、そしてまたがさがさと跫音を消せないまま早足で遠ざかって行った。


 風が渦巻いている音が聞こえる。

 牧野郷の義倉――米の隠し倉――では、いま(まり)が頭の下の手のひらを枕にしながら寝そべって天井を見ている。

 おなかもすいていた。のども渇いていた。じっとしていると、朝食べた団子と、団子にかけた蜜の味が互い違いに現れた。それも、蜜の味、団子に濃い蜜のついたところの味、焦げかけて硬くなっていたところの味、柔らかいところの歯ざわり、蜜のぜんぜんついてなかったところの粉っぽい味、そういうのがもうばらばらにいちどにやってきては浮かび、口に生唾がわく。

 その生唾を呑みこんで、また天井を見る。

 毬は知っていた。ひと晩眠れば、もう腹が減ったことは気にならなくなる。何か鈍く痛いような何か熱っぽいような感じが残るだけで、何か食べたいという気は起こらなくなる。

 七日七晩、何も食わずに過ごしたことはあるんだ。水は飲んでいたが、水を飲んでかえって腹をこわした。毬はそのときのことを思い出していた。

 あれは(ひでり)の年の次の年だった。しかも、冬から春に変わるときに大雨が降って、麦がぜんぶ流されてしまって、残った麦も腐って食べられなくなっていたという。

 村そのものに食べものがなかったのはたしかだ。けれども村の者たちは残っている食べものを譲り合ったり、この義倉の米を少しずつ取り出したりして食べつないでいた。

 ――ただし、広沢三家は別にしてだ。

 そのころ、毬はまだ小さかった。毬によく声をかけてくれていた隣の家のお(こま)姉さんが大事そうに米を持ち帰るのに出会って、
「そのお米、どこでもらえるの?」
ときいたとき、お駒姉さんは、毬をにらみつけ、ふだんとはうって変わった激しいことばで
「これはうちのだよ、おまえの家にやる米なんかないんだよ」
と毬を追い払った。でも、毬はまだ小さかったから、少しふしぎに思いながらもそういうものかと思っていた。

 大木戸の九兵衛(くへえ)さんや井田の小多右衛門(こだえもん)さんが家のために麦や(ひえ)を集めてくれるようになったのは、あの年からだろうか? それともほんとうは前からそうだったのだろうか?

 しかも、家に食べものが来ても、最初に食べるのは母ちゃんと葛太(かつた)で、次が(まゆ)、最後が毬だった。食べるものが少ないときには毬に回ってくるまえになくなってしまう。

 いちど、心を決めて、「母ちゃん」にどうして自分が最後なのかきいてみたことがある。考えていたとおり、「母ちゃん」は怒った。

 「おまえが最後って、そういう決まりなんだよ」

 「母ちゃん」は冷たく言った。

 「だから、どうして?」

 「うるさいね!」

 「母ちゃん」ののどの奥を絞るような声はいまもはっきり思い出すことができる。

 「恨みたかったら勝吉(かつよし)さんとお木美(きみ)さんを恨め!」

 自分がその「母ちゃん」にどんな間の抜けた問いかけをしたかもちゃんと覚えている。

 「だれ、それ?」

 「母ちゃん」は不意をつかれたように少し黙った。それから、いちど身を退かせてから、もっと不機嫌に、そしてもっと小さく、言ったものだ。

 「お美那の父ちゃんと母ちゃんだよ」

 そのときは、たしかまだ知らなかったはずだ。

 その苦しい餓えの日が終わってから、どうやら自分の家は「広沢の中の家」で、ただし自分だけは「上の家」の子であるらしいことをきいた。つまり「母ちゃん」は葛太と繭の母ちゃんではあっても、毬の生みの母ではないということだ。あれはお駒姉さんにきいたのだろうか、それとも別のだれかだったか、よく思い出せない。

 去年、「母ちゃん」に連れられて、一等のいい着物を着せられてあの村西兵庫の屋敷を訪ねた。毬が一人になったときに、おふく姉さんにきいてみた。

 おふく姉さんはちゃんと答えてくれた。

 お美那ちゃんのお父さんとお母さんが毬のほんとうの両親だということ、したがって毬はほんとうはお美那ちゃんの妹だということ、そして――。

 お美那ちゃんのお父さんとお母さん、つまり、毬の「ほんとうの」お父さんとお母さんは、あの「義挙」のあと殺されたこと。

 「義挙で殺されたんじゃないの?」

 「ちがう、義挙のあとよ」

 おふく姉さんは沈んだ声で言ったものだ。いつもにこにこ笑っていて、明るくてすっと抜けてしまうような声のおふく姉さんが、このときは低く通らない声で言った。

 「義挙のあとね、巣山(すやま)の兵が攻めてくるって話があって、勝吉さんとお木美さんが巣山の兵の手引きをするんじゃないかって噂を立てられたの」

 「手引きって?」

 「巣山の兵たちに村への入りかたを教えること」

 「でも、巣山は攻めてこなかったんでしょう?」

 「それが、攻めてこなかったらこんどは、なぜだか知らないけど、治部様が戦いに負けて殺されたのは勝吉さんが巣山に内情を教えたからだっていう話になってね。それで、お木美さんもいっしょに殺されたの」

 「そうだったんだ……」

 「そう」

 「そうだったんだ」

 あのとき、毬は、自分が何を思っていたか、よく覚えていない。

 というより、何も思っていなかったように覚えている。

 村西屋敷の竹薮を通して見る南の空が、夕方になって、下のほうは穏やかで気貴そうなすきとおった黄金色の霞になり、上の空が少しだけ青く白く濁って残っていた。それはあの村西屋敷の台所のまえの井戸のところだった。

 それはよく覚えている。

 村西屋敷のなかの屋敷の並びなんかを覚えていたことが昨日になって役に立つとは思っていなかったけれど。

 ところで、その勝吉さんとか木美さんとかにはほとんど会ったことがない。二人は上の姉のお美那といっしょにお館にいたからだ。会ったことはあるのだろうけれど、覚えていない。もちろん顔かたちは知らない。だから、その勝吉さんと木美さんがほんとうのお父さんとお母さんだと言われても、どうしてもそういう感じがしない。

 ただ、お美那という姉には何度か会ったことがあるし、はっきりではないけれど覚えている。おでこが広く、目がぱっちりしていて、鼻筋の通った、細い顔の子だ。手を握り合ったことがある。すべすべしているけれど硬い手だった。

 「だから、違うよね?」

 あの「義挙」以来、お美那の姿も村から消えた。どこへ行ったかはよくわからない。毬も自分の姉だとは思っていなかったから、あまり気にとめていなかった。「母ちゃん」にきくと
「知るものか」
の一言だった。お駒姉さんに、お美那が自分の姉だとはいわないできいてみると、なんだかそのたびに話を逸らす。それでも何度か繰り返してきいてみると、とても言いにくそうに
「死んだんでしょう、どこかで」
と答えてくれた。そして、
「だめよ、気になるのはわかるけど、村の人たち、みんな気にしてるんだから」
という。でも、お寺の和生(かしょう)さんは、
「いや、生きてるよ、きっと。村を出て行っただけだよ」
と言ってくれた。

 「村の人たちは気にしてるの、お美那姉ちゃんのこと?」

 「うん」

 和生はすこしあいだをおいてからそう答えた。でも、そのとき「母ちゃん」が毬を呼んだので、毬はそれがなぜかをきくことができなかった。

 昨日、森で会い、この義倉でひと晩いっしょに過ごしたお美那という年上の娘が、あのお美那ちゃんでないことはすぐにわかった。

 どことなく似ていなくはないと思う。でも、何か顔の感じが違う。昨日のお美那のほうがずっと穏やかな感じがする。あのお美那はもっと怖いというか鋭い感じがあった。

 それに、手の感じがぜんぜん違っていた。昨日のお美那は、手のひらの表のほうは硬くなっていたけれど、全体に柔らかくて、あたたかくて、なにかふわっとつつむような感じがあった。

 もっとも、自分の姉だというお美那に会ったのはずっと昔だから、感じたことのほうが違っているのかも知れない。だから、昨日のお美那があのお美那のお姉ちゃんではないと言い切ることはできない。

 言い切ることはできないけれど、たぶん違う。

 その昨日のお美那が壁を崩したところから漏れていた明かりがいつか消え、義倉のなかはまっ暗になっていた。毬はゆっくりと手を上げて目のすぐまえにかざしてみた。鼻に触れるぎりぎりまで近づけてみた。目のところにその手のぬくもりが伝わってくるぐらい近くに近づけてみた。

 でも、手がそこにあることは見てもぜんぜんわからない。

 ほんの少しの明かりもない、闇だった。

 「くくっ」

 毬は笑いを漏らした。

 硬い床とのあいだで背中がぽわんと弾んだ。ちょっと痛いけれども、何か心地よい。

 「くくっ……ふふふっ……くふっ」

 そうなんだ。ほんとうに、ほんとうにほんとうの目の前まで見えない闇なんだ。

 それがなぜか毬はおもしろくて、笑った。しかも、そんな闇なのに、毬の笑い声は壁から回って戻ってくる。

 それは毬の笑い声でなく、笑い声でもなく、何か自分をやわらかくつつんでいるものの声、気もちの引っかかりがすっとなくなって心の落ち着けてくれる声のように感じた。

 その自分の笑い声に覆われて、考え疲れした毬はゆっくりと眠りに落ちて行く。

― つづく ―