夢の城

清瀬 六朗


桜の里(五)

― 3. ―

 世親寺の庫裡(くり)のいちばん奥の間は、障子と雨戸を開け放すと蓮池がいっぱいに広がっているのが見えた。

 ここは本堂の裏手にあたる。白木の新しい本堂の裏に、古い昔からの本堂があり、それに棟続きでこの庫裡が建っていた。その庫裡の後ろに蓮池が広がっている。この蓮池の反対側の岸に古い八角のお堂があり、ここに世親(せしん)菩薩がまつられている。それでこの寺を世親寺と呼ぶようになったという。

 蓮池には夏が近づくと赤と白の入り交じった美しい花を咲かせる。そんなときにお参りすると、本堂をお参りして、それから蓮の花のあいだを渡って世親様のところまで行くことになる。それだけで別世界に渡るような思いになるという。

 でも、いまは、その蓮池の上をわたって、湿り気を帯びたぬるい風が入ってくるだけだ。その風は部屋の中にいてもたえず袂を吹き返す。ときおり強い風の塊が暗い庫裡の奥まで吹き抜けていくこともあった。

 「さきほどはお参りいただきましてありがとうございました」

 薫が尼に頭を下げている。尼は薫より少し若く、背も高いように見えた。

 尼はゆっくりと首を振った。

 「いいえ」

 少し重い、湿っぽい声で尼は答えを返す。

 「いつもお礼を申し上げようと思いながら、寺から外に出ることのかなわぬ身です。そうしたら、思いがけなくもあなた様のほうから訪ねてきてくださいました」

 「そのように仰せいただくなどもったいない」

 薫は顔を上げ、背を伸ばし、平らな眉の下の二重の(まぶた)から珠玉のような美しい眼で尼の顔を見る。

 尼は同じように背を伸ばしたまま目を細めた。

 「あの子は今日は借銭の取り立てに行っているのでしょう?」

 軽く目を閉じて少しだけ胸を屈め、頷く。

 「ご存じだったのですね」

 「ええ」

 尼は微笑した。

 「得性(とくしょう)和尚からききました」

 得性というのはあの元資(もとすけ)の父親だ。この寺にいる僧で、金貸しを営んでいる。元資の店の主はこの得性和尚ということになっているのだ。

 「でも得性様はあの子があなた様のお子であることは」

 「知りませんよ」

 尼は何か得意そうに笑っている。

 「浅梨さまのいちばん上のお弟子さんが、女の弟子と、元資さんのお店の女の人を連れて行ったと言っていたので、あの子とわかりました。女のお弟子はあの子しかいないはずですから」

 「やはり止めたほうがよかったのでしょうか?」

 薫がその珠のような(ふた)つの(ひとみ)で言う。尼はこんどは短くだけれど声を立てて笑った。

 「昔の私ならばそう言ったかも知れませんね」

 「はい」

 「でもいまは言いませんよ。ご安心なさってくださいな」

 「ありがとうございます」

 薫は少しだけ頭を下げた。

 「あの子はすっかり市場の娘ですね」

 尼が小さく息をついて言う。

 薫は目を細めて目を伏せ、小さく首を振った。

 「ふだんはそうしていますし、自分ではこのまま市場の娘になりたいと言っていますが、どうでしょうね?」

 顔を上げて見返されて、尼は少し首を傾げる。

 「どうでしょうね、とおっしゃると?」

 「あの子が牧野郷に行きたがったのは、ただ市場の人のお手伝いがしたいという理由からだけではないように思うのですよ」

 「つまり」

 尼は品よく首を傾げたまままばたきした。

 「牧野郷に行って、何か大それたことでもやろうと考えているということですか?」

 「あの子にとって何が大それたことかはよくわかりませんけど」

 薫は笑った。

 「そういうことは考えていないと思います」

 「だったら、ご心配なさることはないのではありませんか」

 尼は穏やかに言った。

 「ただ牧野郷というところをその目で見てみたかったのでしょう。十六の娘としてはそんなにおかしなことではないと思いますよ。そうですよ。同じ玉井郡のなかにずっと住んできたわけでしょう?」

 「それはそうですけれど」

 薫は少しためらうように目をそらした。

 「それに牧野郷に行くように言い出したのは桃丸さんなんでしょう? いえ、知っていますよ」

 尼はすぐにつけ加えた。

 「得性和尚からその話は聞いていますから」

 薫は風を吹き寄せてくる蓮池の上に目をやった。蓮池は暗く曇った空を映し、薄墨の池のようで、鈍い色のその表には細かく皺のような波がささ立っている。

 「ええ」

 少ししてから薫は尼の顔を見て言った。

 「でもあの子が行きたがったのには違いありませんよ」

 「だとしても、だからと言って、あの子がこれからの生きかたを変えるとは限らないのではありませんか」

 尼は平らな声の運びで薫に言う。

 「それに、たとえ牧野郷に行かなくても、あの子はほかのところで生きかたを変えるきっかけに出()ってしまうかも知れません。もう十六なのですから。わたしたちにとってもっとささいなことでも、あの子にとっては生きかたを変えるきっかけになるかも知れませんよ」

 言って謎を問いかけるように薫に微笑してみせる。

 「ええ」

 薫は目を伏せてから、また顔を上げた。

 「市場というのは考えてみればふしぎなところですよ」

 そうして尼に同じように笑いかける。

 「市場には昔からつづいた家業を守りつづける人たちがいます」

 「薫さんのお店もそうでしたね」

 「ええ」

 薫は頷いた。

 「でも、明日はどこでどんな商いをしているかわからない、市場というのはそういった人たちが集う場所でもあるのですよ」

 言って目を閉じる。

 「あの子が市場の娘になるといっても、そのどちらを言っているのか。どちらもありそうにも思うのですよ」

 「薫さんはどちらになってほしいのです?」

 尼は問いかけた。

 「わたしは」

 薫はいちど言いかけたことばを止めた。

 「わたしは、ただあの子の姉上や兄上のような辛い目にこれ以上遭わないでほしいと願っているだけです。それだけです」

 尼は黙って、軽く口を結び、薫を見つめていた。

 薄墨の色の空からの風はいまも二人の女の衣の袖を吹き返している。

 「あの子たちは……」

 尼もいちど迷ったようだった。けれども、薫が自分の顔から目を離さないのに気づいたからか、そのままつづけた。

 「私はあの子たちのために菩提(ぼだい)(とむら)うことをいままだしていないのですよ」

 「それはまた、どうしてです?」

 薫は問い返した。

 話しかたは穏やかだったが、声が張りつめている。

 薫のその(かお)を見て、尼はやがて目もとと口もとを弛めた。

 「あの子たちは死んだと伝えられています。それは、あの子たちをめぐってどういうことが起こったかを伝えてくれたひとはいますし、それがほんとうだとすると、あの子たちが死んだのは確かなことのようです」

 穏やかな笑みだった。

 「でもね、死んだことを確かめたという話はだれからも伝えられていないんですよ。それが死んだとはっきり伝えられるまではわたしはあの子たちの菩提を弔うことはしないつもりです」

 尼はいったんことばを切って薫の顔を見つめ、つづけた。

 「その気もちは、薫さん、あなたにならおわかりいただけると思います」

 薫はその問いには答えないで、黙ってその尼の顔を見返していた。

 蓮池の上を渡って吹きつづける風は、心和む温かさを運んでくれるようにも、嵐の兆しを運んでくれるようにも感じられた。


 牧野郷川中村の明徳教寺では隆文が話をつづけている。

 「牧野郷、森沢郷の方がたが、連年の不作で困っておられるのは承知している。われらもその村の方がたの暮らしが苦しくならないようにできるだけのことをしたいと思う。しかし、われら玉井の町の銭屋とて困っているのですよ」

 どうしてこいつの言うことはこう芝居がかるかな?――と美那は思って聞いている。

 「しかしよ、ご使者」

 席の村人衆のなかから声が飛んだ。広いお堂で明かりも入っておらず、暗い。だれが声を上げたかもわからない。

 「牧野森沢の両郷だけではなくて、広く貸しておられるのだろう? なぜとくにこちらの村から取らねばならぬ?」

 そうだそうだと同調する声が出る。しかし声は広がらずに消えた。

 隆文は頷く。

 「それはそうだ。町の銭貸しは、牧野森沢両郷だけでなく、町の武士衆にも、市場の商人衆にも銭米を貸しております」

 牧野・森沢から取り立てなければ町の武士衆は支払ってはくれない。だから、ほんとうに牧野郷から取る必要はなくても、牧野郷にも取り立てに行ったというかたちを作ることが必要なのだ。

 だが、そんなことを口に出して言うわけには行かない。どこから町の武士衆に伝わるかわからない。だいいち、その借銭借米をめぐってこんな大がかりな寄合を開かせてしまったのだ。いまさらほんとうはべつにどちらでもいいのですなどとは言えない。

 「しかし、この不作です。町の武士衆ももとはといえば三郡の各郷の村人で、不作に苦しんでいるのは同じこと」

 「ならば市場の商人から取ればいい」

 村人から声が上がる。隆文は苦い顔をした。

 「市場の商人とて同じこと、町の武士衆が借銭も返せない状態で、市場でそんなにたくさんものを買う銭があるわけがないではありませんか。市場の衆だってこの不作で困っているのは変わりがないのですよ」

 「変わりがないことはあるまい」

 後ろのほうから少し嗄れた声が飛んだ。

 「このあいだおれは市場に行って来た。夜まで灯火(ともしび)がともり、たくさんの人が町を往き来し、夜遅くまで(にぎ)わっておったぞ。麦と(ひえ)のほかに食うもののない村とは大違いだ」

 席にはさっきとはちがってどよめきが起こった。

 「さすがは市場だ」

 「たいしたものだな、この不作のおりに」

 そんなことばが、いろんな声が響き回ってくるなかから聞き取れる。隆文はさっきよりも苦い顔になった。

 「それはだな」

 美那には隆文がいらいらしているのがわかった。

 ちっと後ろを向くと、安総(あんそう)があいも変わらぬ丸顔で、おもしろいのかおもしろくないのかわからないようにときどき目を瞬かせて顔を上げて堂内を見ている。

 「それは賑わっているように見えるかも知れぬが、手もとは苦しいのですよ。賑わいと儲けはまったく別、市場のほとんどの店は儲かっておらぬのです」

 「では夜に()をとぼすだの夜中まで騒ぐだのいうむだを切りつめればよいではないか。村には切りつめられるところももうないのだぞ。それでも、市場の店より先に村に借銭を催促されるのか?」

 「市場に催促していないわけではございませぬよ。市場にも催促に回っております。ただ、それでは足りないから、こうして村にもお願いに来ているわけではありませんか」

 「納得できぬな」

 嗄れ声の男が高く言った。

 「蓄えもあり、まだ切りつめられるむだもある市場が先、貧しい村が後というのが順番ではないか」

 そうだそうだという声が起こる。それはさっきよりもずっと人数が多かったし、口に出さない者も頷いているのが見てとれる。

 「こちらには先に備えての蓄えもなく、その日食うのがせいいっぱいなのですぞ」

 「それはっ」

 隆文はことばに詰まった。

 蓄えがあることは知っている。しかしそれを口に出すわけにいかない。村の外の者にはけっして知られてはならないことなのだろうから、村人はそれを知った者を生かしては帰さないだろう。それにいまあの場所には毬が隠れている。町の者に知られたからと言って村人があの米を運び出しに行ったりすれば、毬が見つかってしまう。

 いちどは追いつめられて顔色を失っていた村西なんとかが、話の進みぐあいをきいて、また機嫌のよさそうな笑顔に戻っているのが、見ていて腹が立つと言えば腹が立つ。

 「しかしですな、いま待っている借銭借米のなかには、三年前にとっくに返していなければならぬものも入っているのですぞ」

 隆文は詰まっていたぶんを吐き出すように高い声で早口で言った。

 「それなのに、それを返さず、年々、借銭借米を重ねられる。事情はわかっております。わかっておりますが……少しは返していただいてもかまわぬのではありませぬか?」

 「だから返そうにも返せぬと言っているではないか」

 もう少し前のほうから落ち着いて言い返す声がする。

 「こちらとて返したいのは返したい。好きこのんで返さずにいるわけではけっしてありませんよ。しかし、いま、村じゅうかき集めても集まるのは麦や粟や稗ばかり、それを売り払ってもごくわずかの銭にしかなりますまい? それで村は餓える。麦が穫れるまでまだ間がある。そのふた月ほどをそのわずかな銭を返すために餓えろと言われるのか、え? 村人は餓えてもよいと言われるのか?」

 「そんなことは言っておらない」

 「であろう」

 村人は(たた)みかける。

 「であればこそ、春先に別のご使者が見えられたおりに、もう少し待っていただきたいということで話がまとまったのだ。それを、手のひらを返したように返せとは、いったいどういうことなのです? そのあいだに何か急に不都合でも生じたとでも言うのですか?」

 「だから……」

 隆文はまた答えに詰まった。

 そのとおりなのだ。急に不都合が生じたのだ。しかしそれを漏らすことはできない。

 「近ぢか徳政があるときいたぞ」

 遠くのほうで村人が声を上げる。またおおっと言う声が堂内を覆う。

 「それで銭屋の連中、慌てているのであろう?」

 「そういう噂があるのはたしかだが」

 隆文が言い返しかける。

 「やっぱりそうじゃないか!」

 「銭屋の徳政逃れだ」

 「そんなことでこんな大仰な寄合を開かせやがって」

 悪口(あっこう)が押し寄せる。隆文が
「噂があるのはたしかだ、確かだが、だれが確かめたわけでもなく」
などと言い返そうとするのだが、村の者たちはきかずに声を浴びせてくる。

 浅梨屋敷の弟子たちのあいだでならば、こうなったときには隆文が
「お黙り!」
と一喝すれば鎮まるのだが……。

 隆文の様子を見ているといまもそれをやりかねない。

 その荒れた席を見ていても少し眠たげな潤んだ(かお)を変えないさわが、美那のほうに顔を向けて小さく
「美那ちゃん」
と声をかけた。

 その声が聞こえたのか、村長たちのなかでいちばん近くにいた川上村の木工(もく)国盛(くにもり)が「ご使者」たちのほうを振り向く。座の前のほうにいた村人何人かも顔を上げた。

 美那という名まえを軽々しく出さないほうがいいと言った毬のことばが過ぎる。けれどもそれがなぜか気にしていられるばあいではない。

 「お鎮まりください」

 美那が声を張った。

 村人らが声を引きこめる。そういえば、さっきの水盗人の争論では美那はひとことも口をはさまずじまいだったから、村の者たちが美那の声を聞くのはこれが始めてのはずだ。

 いったん声を引きこめた村人たちの席から、(ささや)きで声が漏れはじめる。

 「ほう娘か」

 「娘の借銭取りとは」

 「水盗人とか言われてたのはこっちの娘か?」

 「だからあの体つきで水は運べんだろうって」

 「じゃあもう一人か?」

 「知るかそんなこと!」

 「だからさっきどっちから見て右か確かめようって言ったんじゃないか、それをおまえが……!」

 「だから水盗人の話はもう片づいただろう?」

 「盗人かどうかは別だよ、どっちの娘がどうなんだってことだ」

 「ああうるさい! 娘が何を言うか聞いてやろうじゃないか」

 さっきは弁を(ふる)う隆文を見もしなかった中橋渉江(しょうこう)は小さく(くび)を横向けて美那のほうを見ている。後ろでは安総がやっぱり何を考えているかわからぬ目で美那のほうに目を向けている。

 隣の隣で隆文が大きくため息をついた。

 美那は初手合わせの相手と立ち会うような気分だ。短く目を閉じて息を吸いこむ。

 「まず、先ほどお話しのありました徳政のことですが、その噂は市場にも聞こえております」

 美那は、座の者たちの頭を越えるように、遠くの反対側の連子(れんじ)障子へと目をやって言った。村人衆がどよめくかと思ったらそうでもない。少し遅れて声が出かける。美那は先につづけた。

 「この時勢です。徳政はあってあたりまえだとわたしは思っています」

 「ほう……」

 美那がこう言ってから座はため息まじりにどよめいた。

 「なるほど、これは気が強そうだ」

 「これじゃあの地侍じゃ歯が立たなかろうって」

 「ましてやあの若ぼんくら侍ではなぁ」

 よけいなお世話である。というより、よくひとこと聞いただけでそこまで考えるものだ。

 なるほど、そういうことか、と美那は思う。そのまま出てきたことばをつづける。

 「守護代様とて鬼でも蛇でもありません」

 「それはそうだ」

 若い衆の一人で、前のほうに座っている、口のまわりに髭を蓄えている男が言った。

 蓄えているのか、たんに伸びた髯を剃っていないだけかはよくわからない。

 「守護代がお(じゃ)様であったなら(ひでり)になどせず、出水(でみず)なども起こされなかったろうからな」

 周りの若い衆が笑う。後ろの年寄衆のなかにも笑っている者がいる。

 「これ」

 後ろのほうで声を上げたのは最初のほうで隆文に文句をつけていた嗄れ声の男だろう。

 「お蛇様になんと罰当(ばちあ)たりなことを言う!」

 お蛇様というのは水乞(みずご)いの神様なのだろう。

 ――しかし、では、守護代には何を言っても罰は当たらぬということか?

 美那は小さく頷いてつづけた。

 「この連年の不作を見て心をお痛めにならぬはずがありません。たとえ三郡かぎりででも必ずや徳政を行ってくださるはずとわたしは思います」

 「うまいぞ」

 「ほんとうにうまいことを言う!」

 村人衆のうち何人かが手をたたく。何がうまいのかはわからない。

 どちらにしても、隆文がこんなことを言ったらけっして笑っても手をたたいてもくれなかったはずで、たかが小娘が偉そうに守護代だの徳政だのと話しているから喜んでくれるのだ。

 美那は落ち着くわけにはいかなかった。

 「徳政があれば村の方がたは助かりましょう。麦が(みの)るまではいまと同じ暮らしが続きましょうが、もう借銭借米の心配をしなくてすむのです。少なくともわたしたちのような銭屋の取り立てには悩まずにすむようになります」

 座の者がいっせいに笑った。

 さわが何か笑っているのは気にしないとして、後ろで安総尼がこっそり笑った声が耳に入った。

 美那はいっそう声を張った。

 「しかしわたしたちはどうなりましょうか?」

 村人らがまた声をのんだ。声が止まる。美那が重ねて言う。

 「町の銭屋はどうなりましょうか?」

 美那はしばらく声を抑える。

 「あちこちにお貸しして期限が過ぎてそれでもお待ちしている銭米が溜まっています。徳政になるとそのすべてが返ってこなくなります。それではこんどはわたしたちが食うに困ることになります」

 なんでさわちゃんは笑っていられると思う。美那の家は銭を借りているほうだから徳政で助かる。でもさわちゃんは銭屋なのだからほんとうに仕事をなくして困るのだろう?

 「市場なんだろう?」

 後ろのほうから声がかかる。

 「銭貸しなんかしなくてもどんな仕事だってできるじゃないか。だれも困りはしないよ」

 どんな仕事でもできるかどうか、だったら自分で市場に来てやってみなよ――などと言い返してはいけない。ではどう言い返せばいいのだろう。美那は迷った。

 ことばが遅れる。

 「おいおい」

 席の後ろの、それも美那たちから遠いほうから声が上がる。いままで声を立てる者がいなかったあたりだ。

 「娘さんが言ってるのはそういうことじゃないんだよ。考えてもみろ、町の銭屋の倉が軒並みすっからかんになったら、おれたちは次の秋からどこから銭を借りるんだ?」

 男はいちど声を収め、座がすっかり鎮まり、堂のなかをめぐる声さえも聞こえなくなってから言った。

 「柿原党か?」

 美那の背筋に寒気が走った。

 いや、何かお堂の中全部がすっと寒くなったように思えた。

― つづく ―