夢の城

清瀬 六朗


桜の里(七)

― 4. ―

 本堂の表に出るまではなんとかなるだろうと美那は思っていた。だが甘いとわかった。

 安総(あんそう)に先導されて本堂の表に出てみると、村の者たちの群れは考えた以上だった。

 女や子どももいるし、粗末な萎烏帽子(なええぼし)をしている者や烏帽子をつけていない男もいる。つまり、寄合に出てくる村人衆だけではなく、寄合に入っていない村の者たちまで押し寄せてきているのだ。

 それが口々に罵る。

 「嘘つき!」

 「人でなし!」

 「さっさと死んでしまえ!」

 「村の者にとって米がどんなたいせつなものかわかってるの!」

 「(はりつけ)にして、串刺しにしてやる!」

 「われらの米を返せ!」

 「米を返せ」って……。

 米を返してもらいに来たのはこっちじゃないか。

 美那は笑いを浮かべそうになって、そんなばあいじゃないと思って気を引き締めた。

 おかげで少しは気が落ち着いた。考えてみれば、安総や隆文(たかふみ)の言う「短慮」に囚われていたかもしれないと思う。

 「?」

 そのとき、美那は、何者か後ろをつけられているような感じに捉われた。

 確かめている暇はない。

 雨は降りつづいている。冷たい雨だ。村の者たちは雨に打たれつづけて殺気立っている。

 その前に、本堂の前に三人だけ並べられる。

 これではさらし者にされているようなものだ。

 いや、ようなものではなく、たぶんさらし者そのものだ。

 後ろは本堂だが、引き戸も窓も閉まっている。前には殺気立った村の者たちだ。逃げ場はない。

 だが、だれかが後ろからつけてきていたとしても、この場所では後ろからいきなり斬りかかられる心配はない。美那は後ろをつけている者のことは忘れることにした。

 安総が三人に藁座を進めたが、隆文が断った。

 三人の左側には安総が座った。右側には中橋渉江(しょうこう)が立つ。

 三人の下には槍を構えた二人の村人が三人に背を向けて立っている。その下に、やはり村人たちのほうを向いて並んでいるのは村長たちだろう。背中しか見えないから確かめられないが。

 その向こうは村人たちが並んでいる。美那はそれが玉井川の流れの広いところよりもさらに果てないように感じた。

 「返せ」、「死ね」、「殺せ」……。

 ことばはあいかわらず荒れ狂って押し寄せてきていた。その一言ひとことに手があってそれが続けざまに頬を強く打ちつけているように感じる。

 でも、美那は目を閉じずにいた。

 何があっても目は閉じるなと浅梨左兵衛(さひょうえ)に教えられている。

 「(しず)まりたまえ、鎮まれ、鎮まりたまえ!」

 中橋渉江が諸手をあげて人びとに呼びかける。

 「この寄合はだいじな寄合である。鎮まりたまえ!」

 渉江が大きい声で(わめ)くのははじめて聞くな、と美那は思う。

 そうして、はじめて会ったのは昨日のことだったと気づいた。

 美那は横目でさわと隆文のようすをうかがった。

 村の者たちは少しずつ鎮まっていく。声高な罵り声は消えていた。

 「今朝(こんちょう)、急な、そして大きな件が持ち上がり、両郷七村の寄合を急ぎ開くことになった。両郷七村の寄合とすることについては村長衆にまず話していただいて、認めていただいている」

 「形式ばったことはあとにしろ!」

 声が後ろのほうから飛ぶ。渉江は厳しい目をその声のほうに向けた。

 「道理は衆議(しゅうぎ)にあり!」

 渉江は声を励ました。

 「その衆議を成り立たせるには、正しく評定を進めることが必要なのだ」

 「また道理かよ? 道理で飯が食えるか!」

 声が上がった。しかし、それに対して、すぐに
「だまって聴け!」
とまた罵声が飛ぶ。

 「そのとおりだ。道理について話しているゆとりはない」

 中橋渉江が話を進めた。

 「村長衆の話し合いで、この中橋渉江が寄合を(つかさど)ることと決まった」

 「勝手に決めるなっ!」

 これは女の声だ。

 「うるさいぞ!」

 男が太い声で言い返す。

 「話が進まないだろうが!」

 「雨降ってるんだぞほんとの話が!」

 「だから鎮まれってるだろうがっ!」

 どなったのは川上村の村長の木工(もく)国盛(くにもり)だ。もっとも国盛自身が相当に殺気立っている。

 「村長の話し合いで決まったことに何か言いたいやつがいれば堂々と出てこいよっ!」

 そのわめき声に安総が笑ったのに美那は気がついた。どうしてなのかはわからない。

 「なお」

 鎮まりきっていない村の衆に向かって中橋渉江が声を上げる。

 「成り行き上、ここには、寄合に加わることのできる村人の大人衆のほかの村の衆も集まっているようだが、衆議に加われるのは大人衆だけということは断っておきたい」

 「そんな決めごと、意味あるかっ!」

 たぶんその大人衆に入っていないのだろう。若い男がわめき立てる。

 「うるさいぞ!」

 「子どものお遊びじゃないんだ!」

 雨は激しく降りつづいている。

 寒い。

 美那もいいかげんで本題に入ってくれないかなと苛立っていた。

 「このままじゃ斬り合いになったとき寒くて体が動かないじゃないか」

 だれにも聞かれないようにそうつぶやく。

 「子どものお遊びとはなんだ!」

 「今度のは村ぜんぶに関わる話だぞ! 大人衆だけで決められてたまるかっ!」

 「だいたいそこの町の銭屋に銭を返すなんてばかなことを決めたのは大人衆だろうが!」

 「先の寄合の決めごとに口をはさむことは許さぬ!」

 中橋渉江が一喝する。これで村の衆がまた少し鎮まる。

 「たしかに今度の件、大人衆のほかの言うことも聴くことが必要になるかも知れぬ!」

 と思ったらまた騒ぎ出す。

 「そうだそうだ!」

 「ほら見ろやっぱりそうじゃないかっ!」

 「うるさい少しは鎮まれってってるだろうがっ!」

 渉江はまたしばらく待った。ほんとうに村の衆からは熱気で湯気が立ちそうに美那には見える。

 「大人衆のほかの者が何かものを言うときにはまず許しを得よ! 村のなかの者でも村の外の者でも許すこともあろう!」

 「よし!」

 「いいぞっ!」

 村の衆のあちこちから拍手が起こりかけるが、それはぜんぶには広がらなかった。

 美那は、そこで満足そうに(うなず)いた顔を見つけ、そちらに目をやった。

 それは、昨日、美那の水盗人の件を持ち出して逆に失笑を買ったあのなんとかいう中原村の地侍(じざむらい)だった。その後ろに立派な直垂(ひたたれ)をつけているのは、その主人筋にあたるなんとかいう侍だ。昨日、その地侍を蹴って蹴って、でも蹴り転ばすことのついにできなかった若侍である。

 村西兵庫(ひょうご)、大木戸九兵衛(くへえ)、井田小多右衛門(こだえもん)もそのあたりにかたまっている。

 地侍は、美那が自分を見ているのに気づいて、意地悪くにっと笑って見せた。

 「やっぱりあいつがやったんだ」

 美那は思う。でもいまそう言い立てたって殺気立った村の連中は信じはしない。

 それより――。

 その地侍の後ろの若侍の落ち着かないようすがどうにも気になる。若侍は目の前で行われていることがまったく目に入らないようだ。いや、どちらかというと、体はしかたなく寄合のほうを向けながら、顔はぜんぜん違ったほうをゆらゆらと見回している。見回しているぐらいならいいのだけれども、急ににっこり笑ったり、その笑いを消したりで、それが目の前の評議と何の関係もなく移り変わるから、美那まで落ち着かない気分になりそうだ。

 昨日、水盗人の件でしくじって気が晴れないのか、それとも地侍を蹴り転ばすことができなかったのがこたえているのか。

 それとも?

 「よいな? では、詮議(せんぎ)に入ることとする」

 中橋渉江の声にまたひとしきり村の衆はわいた。声が鎮まるまで待つ。

 「うるさいな! 早く始められないだろう」
という声も少しだけ聞こえた。

 「まず、昨夜のうちに牧野・森沢両郷の義倉(ぎそう)が何者かによって燃やされた」

 わーっと声が押し寄せる。悲鳴も交じる。

 「わかってるから先進めろ!」
とか
「だれがやったかはわかっているだろうがっ!」
とかいう声も交じっている。

 渉江はそういう声の盛り上がりがあったあと、しばらく待つことにしているらしかった。

 「訴えを受けて今早朝に検分してみたが、ひどいものだった」

 渉江が言う。

 「ひどいものってよ!」

 「どんなだ? 少しは焼け残ってるんだよな?」

 「米は無事なんだよな?」

 「ああもううるさいっ!」

 また待つ。その繰り返しだ。

 「残念ながら米は一粒も残っていない!」

 うぐごわあっ!

 喚き、うめき、叫びが村人たちの群れから四方八方に広がっていった。それはすべて合わさって巨大な醜い獣のほえ声のようにすら聞こえた。美那にはそれに黒かったり赤黒かったりする色がついてそれが散っていくようにさえ見えた。

 でも、その勢いにも負けず、雨は降りつづいている。

 「それ以前に、だ、いいか、それ以前に、だ。支え柱を焼かれて、また火であぶられたせいもあろう、倉の石組みが崩れて、あの義倉に使っていた倉そのものが崩れ、(つぶ)れた。倉そのものがもうないのだ、これは確かなことだ!」

 あげぎやあっ!

 こんどはさっきより声が高い。獣の鮮血が吹き上げたような声だ。

 村の衆というひとつの生き物が、傷つけられ、身もだえして苦しんでいる。目には見えない。でも、その大蛇(おろち)のような姿を美那は見通すことができるように感じる。

 その村の衆の大蛇が本堂の前でのたうつ。そこにも無情に雨は降りつづく。それがまたその大蛇の身の傷を穿(うが)ち、むざんに傷つけていくようだった。

 そして、美那は唇を咬んだ。

 あの地侍が醜く唇をゆがめ、その声を楽しんでいるような(ゆる)んだ顔を見せたからだ。地侍は、しかも、美那に見られていることなどもう気にも留めていないらしい。

 「あっ……あの倉は治部(じぶ)様の(やかた)の焼け残りだぞっ!」

 「治部様の館に手を出して!」

 「前のいくさのときにも燃えなかったのにっ!」

 「人でなしーっ!」

 これは女の金切り声だ。

 「無間(むげん)地獄に落ちればいいっ!」

 村の衆が鎮まるまでたっぷり時間はかかった。

 雨は少しも弱まらないで降りつづく。

 「あの義倉にはまったく火の気がない」

 中橋渉江がそのたっぷりの時間のあとにまたつづけた。

 「だれかが火をつけねば燃えはせぬ」

 「そのとおりだっ」

 「それをやったのがその者どもだっ!」

 渉江は頷いてつづけた。

 「さて、今朝、川中村に噂が広がった」

 「そこの銭屋が火をつけたって言うんだろう?」

 「いい加減で中橋様の話に口つっこむのやめろっ!」

 「いつでも声出せる大人に言われる義理はないっ!」

 「出せないおまえらに言われる義理がないんだ!」

 「鎮まらないかっ!」

 渉江はまた大声を上げる。すぐには鎮まらない。待つ。

 だが、そのとき美那はふしぎなことを感じていた。

 さっき荒れ狂った大蛇がずいぶんおとなしくなって、動きが鈍くなっている。

 いや――。

 美那は自分でその気もちを打ち消す。

 疲れたのは村の者たちではない。

 さっきからその罵りを浴びせられつづけてきた自分が疲れたのだ。

 村の衆の怒りを(あなど)ってはいけない。美那は自分を(いまし)める。

 「昨夜」

 渉江は、それでも、寄合のまとめ役を下りることなく、村の衆相手の話をつづけた。

 「この町の銭屋のご使者衆が寝所におられなかったという話だ」

 それに村の衆がどう応えたかは美那は聞いていない。

 そんな話が出てくるとは思わなかったからだ。

 隆文と話さなければと思うのだが、あいだにはさわが立っているし、だいいち、話し合えば村の衆みんなから見えてしまう。

 いや、目配せ一つであっても、必ず見とがめられる。

 ああ、しかたないと思った。

 「そのあいだに町の銭屋のご使者が村を抜け出して義倉を焼いて戻ってきたという話だ」

 「うわーっ!」

 「決まった!」

 「そのとおりだ!」

 「白状させろ!」

 「磔にしろーっ!」

 「待てよっ!」

 大声を喚き上げたのはふたたび川上木工国盛だった。

 「なんだ、川上の村長!」

 「……」

 ほかにも何か声があったようだが、前まで何を言っているかが届く声にはけっきょくならない。

 「この寄合は詮議のための寄合だろう?」

 国盛の喚きの前に、全体がすうっと鎮まる。

 後ろで中橋渉江が目を細め、大きく息をついた。

 「噂で決めつけては詮議にならぬよ」

 国盛はいっぱいに上げ下げをつけて大声で説く。

 「ほんとうのところがどうだったかをいちいち挙げていくのがこの席でやることだろう?」

 「……そうだ」

 「そのとおりじゃないか!」

 「年寄りが何を言うか」
という声が一つ聞こえたが、すぐに
「年寄りの言うことはきくものだ!」
と言い返されている。それで、少しのざわめきは残しながら、全体は鎮まった。

 しばらく声を張り上げずにすんだ中橋渉江が進み出る。

 「では、まず、ご使者が、夜、寝所におられたかおられなかったか、それをまず確かめよう。どうかな?」

 渉江はいちばん近くにいた隆文に尋ねる。正直に言ったほうがいいよ――そう伝えたかったけれども、美那は隆文を振り向くこともしなかった。

 「寝所にいなかったのは確かです」

 隆文はそう言い切った。

 あ?

 美那は拍子抜けするように感じた。村の衆が湧くかと思ったが、何の声も立てない。

 鎮まったままなのだ。というより、さっきより鎮まっている。

 雨は降りつづいている。しばらく忘れていたけれども、雨は降っている。

 そして、前のほうで立っている村の衆の一人が、寒くてやりきれないというように、(わらじ)の上の足の指をしきりに動かしているのに美那は気がついた。

 「では、どこに行っておられた?」

 ああ、そう来たか。

 それはそう来るな。

 だが、美那はどう答えていいかわからなかった。

 僧坊のあの部屋に森沢荒之助(あらのすけ)がいることを村の衆が知っているのか、知っているとしたらどう思っているのか――それがまったくわからないからだ。

 「それは言えませぬな」

 隆文はきっぱりと言い切った。やはり、村の衆からの声はあまり上がらない。

 「やっぱりな!」
という声が一つ、際立って、すぐ消えただけだ。

 美那は「隆文えらい!」と声を上げて()めてやりたいと思った。

 「なぜ言えぬ?」

 渉江が隆文に迫っている。

 「お相手の方の名に関わります」

 隆文は張りのある声で(よど)まずに答えていた。

 「お相手の方の許しを得ずに、名を漏らすことはできません」

 村の衆は何も言わない。

 ――こんなあやしい答えなのに?

 雨は降り、村の衆のざわめきよりも、雨の落ちるさあっという音のほうが大きく聞こえている。

 「うむ」

 渉江は唸った。しだいに、高い声を張り上げなくてもよくなり、ふだんどおりの声に戻っている。

 「では、いまひとつの噂に移りたい」

 そう渉江が言ってから、しばらく経ってようやく村の衆から声が上がった。

 「それはいったいどういうものだ?」

 それにつづいて、もう一声が上がる。

 「早くしてくれよ、もうどうでもいいから」

 「うむ」

 渉江は頷いてつづけた。

 「それは、そこの娘さん……そう、いちばん向こうの、昨日、水盗人を疑われた娘さんだが」

 「娘さんなどと言わなくていい!」

 その声も、
「うるさいんだよ! 長くなるから黙れって」
という別の声に抑えられてしまった。

 少し気もちがいい。

 「その娘さんがじつは前の義挙のあとに殺された広沢家の勝吉(かつよし)木美(きみ)様の娘御で、行き方知れずになっていた美那様で、美那様は最初に村に仕返しをするためにわざと銭屋の使者に立ち、そして村に仕返しをするために義倉を焼かれたと、そういう噂です」

 「噂ですからね」

 だれが言ったのかと思う。さわかと思ったが、さわは何も考えずにというようにすまして立っているだけだ。

 かわりに、横で座っている安総が美那を(ぬす)み見した。

 そうか。「短慮」を心配したのか、と美那は思う。

 でもこれについては言いわけはいくらでもきく。

 「これについてはいかがかな?」

 「はい」

 美那は喉を伸ばして声に張りを持たせた。

 村の衆がさっと美那に目を集める。

 負けはしないと美那は思う。剣を交えるよりことばで言うほうが楽かも知れないと。

 「まず、わたしは名を美那と申します」

 村の衆のあいだに波のようにどよめきが広がっていく。

 「たしかにな」

 「いや、似てないぞ」

 「おまえあの美那って身近で見たのかよ?」

 「それ言うならおまえだって!」

 久しぶりに村の者から口々に声が上がった。

 美那はさっきまでの中橋渉江の流儀に倣った。相手が黙るまで待つのだ。

 「それに、わたしは、昨日、その勝吉様木美様のお墓に案内され、その前でひざまずいて泣き、お祈りいたしました」

 「そうだ!」

 「実の子でなければそんなことはしないだろう?」

 「待てよ! 実の子だったらなんでそんなことを人前で平気で言うんだよ?」

 「だいたい似てないって言ってるじゃないか?」

 「いや、似てる! ぜったい似てる! 死んでいなければこの年ごろのはずだ!」

 「年ごろだけで似てるなんて言えるか!」

 「でも名まえがおんなじだ!」

 「おまえなっ! どこにでもいる名まえだろうが。村にだってほかに一人や二人はいるだろうし、だいたいそれ言ったら、あの春野家の姫、あの春野家の妹姫も美那姫っていっただろうが!」

 「そうです」

 美那は村の衆が鎮まらないうちにつづけた。

 「わたしはこの村の美那様といわれる娘さんではありません! わたしはたしかに玉井の生まれで育ちです。しかしわたしは市場の娘です。牧野郷には、おとといになってはじめて訪れました」

 「ほら見ろ」

 「うるさいな、本人が言ってるだけだろうが!」

 「だったらなんで勝吉さんの墓で泣いたんだ?」

 「はい」

 そう声を上げた者のほうをきっちり向いて、美那は答えた。

 「わたしは父は(うしな)いましたが、母はいまも健在です。育ての親の店のおかみさんにも親切にしていただいています。その私にとって、同じ名で、年ごろも同じで、それで両親を失い自分も行き方知れずになった娘さんがいたということは信じられないほど痛ましかったのです。それで、お墓の前で座ったときに涙が流れて止まらなくなったのです」

 「嘘をつくな!」

 「信じられるか!」

 その二つの声だけだった。あとは鼻をすする声がいくつか聞こえた。

 あと、足もとで首をひねっているのは安総だ。この子がこんなふうに大きく動くのは、今朝、自分たちを呼びに来たときを別にしたら珍しいと思う。

 美那は中橋渉江のほうをのぞきこんだ。

 「中橋様、お(ただ)しのことについては、いま申したとおりですが」

 「うむ」

 渉江は頷く。そのとき、美那がずっと気にしていたあたりから声が上がった。

 「中橋様!」

 村西兵庫だった。何か明るい朗らかな顔をしている。

 つまらないやつ――なぜか美那はそんな(ののし)りことばを思い浮かべ、あわててそれを打ち消した。人を罵るものではありません、という、薫の(おし)えが効いたのだろう。

 「何かな?」

 「はい。市場の者たちは先ほどから話をそらせることばかりしています。ご詮議を! ご詮議を進めてくださいませ!」

 そうだそうだという声が上がる。中橋渉江はなぜか首をひねってすぐに答えようとしなかった。

 「中橋様!」

 前のほうで声を上げた者がある。見ると、一昨日から昨日に出会った関所番の男だった。

 「何か?」

 「聞いておりますと、まず、その噂の出どころを探るのがよいかと存じます。昨夜、町のご使者が寝所におられなかったこと、また、その美那様ですか、その娘さんが墓で泣いておられたこと、どちらも限られた者しか見ることができなかったことのはず。その方に名のり出ていただいて、事情を聞くのがよいのではありますまいか」

 関所番の声はよく通った。村の衆は「おおっ」とどよめきの声を上げる。拍手をしたものもいる。

 中橋渉江も深く頷いた。

 「では、そうしよう。よいな」

 異論は上がらなかった。

 「早くしてくれ」
という声が出ただけだ。

 「ではまず」
と渉江はつづける。

 「ご使者が寝所におられない。それを確かめたものがあれば、手を挙げるなり、声を上げるなりして知らせてくれぬか?」

 村の衆はしずまりかえった。

 ところどころで声がする。

 「おまえ、見たって言ってたじゃないか」

 「おれが自分で見たなんて言ってないよ」

 「だって、昨日、本堂の裏に回ってって……」

 「回ったのは回ったけど見てないの! よけいなことを言うなよぉ」

 美那が聞き取れたのはそういう声だったが、たいがいそんなやりとりなのだろう。

 「わたしです」

 平らな声で言ったのは、ただ一人、安総だけだった。

 「ほかにはおられぬか?」

 中橋渉江が声を上げたにもかかわらず、だれも応えない。渉江はつづけた。

 「では、その町の美那様が墓所で泣いておられるところを見た者は?」

 やはり、だれもいない。またも平らな声で安総が、
「わたしです」
と言う。木工国盛が慌てて
「おいお総っ!」
と声をかけ、当の安総に同じ平らな声で
「安総です」
と言い返される。

 そういうことではないと思うのだけれど……。

 「どちらの件も安総のほかに見た者はいないというわけだな?」

 渉江が呼びかけた。

 ざわめきは起こるが、名のりを上げる者はいない。

 「それでよいな。異論のある者はすぐに声を上げるがよい」

 村西兵庫が何か動こうとした。しかし、隣の井田小多右衛門が止めにかかったし、中橋渉江がそちらに顔を向けたとたんに、兵庫は気弱に首を振ってあいまい笑いを浮かべてしまった。

 「うむ」

 渉江は頷いて見せた。

 「じつは安総からはわたしはそのどちらの話もきいて知っている。安総が見たのは確かだと思うが、安総、ほかにだれかにこの二つの件、話したか?」

 「いいえ」

 安総は直截(ちょくせつ)に答える。木工国盛が慌てて何か言おうと口をもぐもぐさせたが、すぐに細かく首を振ってやめてしまった。

 「中橋様!」

 また村西兵庫が声を上げた。

 「そんなことより、昨日の晩、あの雨のなか、その使者衆がどこに行っていたか、それを解き明かすのが先でしょう!」

 「いや違うでしょう」

 すかさず言ったのは関所番の男だった。声の通りは、村西兵庫も通るほうだが、この関所番のほうが上だ。そのうえ、関所番の男は正面のまん中にいる。

 「安総さんしか知らず、それを聞いた者は中橋様しかいない、そんな話をいったいだれが村人に広めたのでしょう?」

 関所番はことばを切る。だれも答えない。

 「だれかがそれを耳にしてわざと広めたのです。さらにおかしなことがあります」

 「それは何だ?」

 一つだけ声が出た。関所番はそれをきいてつづけた。

 「中橋様、中橋様が義倉が焼けたことを検分されたのはいつですか? この寄合が始まるどれくらい前なのでしょうか?」

 「そんなことは見て知っておろう?」

 中橋渉江はなぜそんなことを聞かれるか心外だというように答える。

 「検分から帰ってきてからわたしはずっとここにいた。ここに戻り、安総にご使者衆を呼びにやらせたのだ。見ておっただろう? 検分に行ったのはそのすぐ前だ」

 「では、中橋様より先に、義倉を検分に行った方はおられるか? それをご詮議ください!」

 関所番が言うとまた場はざわめいた。

 そう言えば雨はまだ降りつづいている。そしてざわめきはその雨が広い寺の庭に降り注ぐ雨音で消されてしまうぐらいだった。

 だれも、名のり出ない。

 「中橋様!」

 また村西兵庫が声を立てる。

 「それが何か関係のあることなのでしょうか? そんなくだらない詮議など……」

 「関係はあるのです!」

 関所番は即座に言い返した。

 「村では、中橋様が検分に行かれる前から義倉が燃えたという噂がありました。だれも確かめていないのにです! それはどういうことでしょう?」

 「手短に言え!」

 ほかのだれかが叫んだ。関所番は答えた。

 「つまり、ご使者がおられないという安総さんと中橋様の話を耳にしただれかが、自ら義倉を焼き、わざと噂を流したのです。中橋様が検分に行かれる前に義倉が燃えたと知っているのは、火をかけた当人だけですから」

 「怪しい者はいる!」

 村西兵庫が言い返した。

 「すなわち、町の使者が、昨晩、会っていたというだれかです。それがだれかを話していただく必要があります。それをだれか言えないとしたら、その会いに行っていたということが嘘なのです。それが嘘とわかれば、ことはかんたん、町の使者が自ら夜に抜け出して義倉に火をかけたのです!」

 「いやかんたんではないのだ、兵庫殿」

 こんどは関所番が言うまえに中橋渉江が自ら声を上げた。

 渉江は雨の降りしきる寺の庭をひとしきり見回した。

 「考えてもみられよ。村の外から来られたご使者が、どうして義倉の場所を知っていたのかな?」

 ああっ、という声が満座に広がる。

 「あの義倉の場所は村の外の者にはけっして知られぬように細心の注意を払っておったはずだ」

 美那は村西兵庫ら柿原党一党のいる場所を見た。村西兵庫一人が赤くなっており、後ろの地侍はうつむいていた。そして、そのさらに後ろで、若侍が、寄合にはまったくかかわりなく、うろうろうろうろ、前に行ったり後ろに戻ったりを繰り返し、口で何かつぶやいている。

 「そっそれは」

 兵庫が言う。

 「その町の使者が会っていたという相手が教えたのです。そして、その者の手引きで抜け道を抜け、義倉に火をつけ、帰ってくれば間に合うではないですか!」

 「ほう」

 渉江は唸り声を上げた。

 「何に間に合うと言うのだ?」

 「だから、雨が降り出すのにです!」

 「では、義倉が焼けたのは雨が降り出す前ということかな?」

 「そうに決まっているではありませんか!」

 「だれかが見ていたのかな?」

 中橋渉江が言う。

 「村西殿は見ておられたのか?」

 「いっ……」

 兵庫はことばを詰まらせた。

 「そんなことはない……ただ、雨が降っていては火がつけにくかろうという、それだけのことです」

 「義倉は地の下だ」

 渉江は平然と言い返した。

 「油でも撒けば、外が雨が降っていてもたやすく燃えるだろう」

 「あ……ああ」

 兵庫は照れたように笑う。

 「あぶ……」

 「うん?」

 渉江がききかえす。

 「油が何かあるのか? 何か心当たりでもあるのか?」

 「いえ、油ではなく」

 兵庫はさらに照れ笑いを重ねた。

 「あぶ……ない話だと言おうとしただけで……」

 「あう……」

 「もう!」

 村の衆が苛立った声を立てた。

 「中橋様」

 声を上げたのは安総だった。

 「何かな、安総?」

 「はい」

 例によって平坦な声だ。

 「わたしは、庫裡(くり)の廊下を歩きながら、ご使者の姿が見えない件、それと、昼間の美那様の件をお話ししました。もしだれかが聞きとがめるとしたらその機会を()いてほかにありません」

 「では、言いふらしたのは庫裡にいた者と?」

 村西一党に満座の顔が向く。

 だれも声には出さない。だいいち、庫裡には川上村の村人衆がほかにもいたので、村西一党に疑いを集める理由もない。

 「中橋様!」

 村西兵庫が懸命(けんめい)に言う。

 「そんなことよりも、市場の使者が夜に会っていたのがだれか、そのことの、そのことのご糺明を!」

 「いえ」

 関所番の男がすぐに言い返した。

 「市場の使者が義倉に火をつけたのが確かならば、たしかに市場の使者が夜にだれと会っていたかが大きく関わります。しかし、市場の使者が義倉に火をつけたのでなければ、まったく関わりはない。しかし、中橋様のご検分の前に義倉が燃えたと知っている者がいたとすれば、それは、疑いもなくその者が火つけに関わっているのです。その疑いもない者の糺明を先にしたほうがよくはありませんか?」

 「そうだそうだ」

 「少しは黙れ、柿原の手先!」

 「これ」

 渉江が罵りことばを抑える。

 「このことには柿原党の方がたは何の関わりはないはずだ。柿原党の方がたのお名を出すのは控えよ」

 「そんなことわからないじゃないか。市場のほうには疑いをかけてるのに」

 声を上げたのは、昨日の寄合でも前のほうにいた、口のまわりに髭を蓄えた男だ。

 「そういうことではなく、何の関わりもないのならば柿原党の方がたのお名を出すなと言っている」

 渉江が繰り返して戒めて、つづけた。

 「ともかく、この件、市場のご使者が火をつけたとするよりどころは乏しいようにしか思えぬのだが、どうだ?」

 「あ、しかし」

 村西兵庫が声を漏らす。だが
「……しかし……」
とあとがつづかない。

 「ふむ」

 中橋渉江は長く息をついた。

 「するとこれはご神火(じんか)焼滅(しょうめつ)したとでも見なければならぬのだろうか? だれかが火をつけたところでも見ているのならば別だがな」

 満座の者が同じように長いため息を漏らそうとした。しかし、
「では見た者がいればよろしいのですか」
と鋭い声を挟んだ者がある。

 安総尼だった。

― つづく ―