夢の城

清瀬 六朗


桜の里(七)

― 5. ―

 漏れかけたため息が急に「おおっ」という驚きの嘆息に変わる。

 「安総(あんそう)さん」

 美那がその陰で声をかけていた。

 「はい?」

 「安総さん、寄合衆じゃないから、許しを求めないと」

 「ふんっ!」

 なんと安総は満面を(ほころ)ばせて笑い出した。というより吹き出した。

 しかも身を二つに折って腹に手をやって笑いを抑える。

 ――そんな笑うようなことかな、と美那は思う。

 雨は降りつづいている。

 身を起こしたときには、安総はもとの何も考えていないような顔に戻っていた。

 「中橋様」

 「何だ?」

 「それならば申したいことがあります」

 澄まして言う。渉江は(うなず)いた。

 「それなら申すがよい」

 「火をつけた者を見ていた者がおります」

 めったなことでは声も立てなくなっていた満座がどよめいた。

 「えーっ!」

 「何と?」

 「最初に言えよっ!」

 美那が見ると、村西兵庫(ひょうご)、大木戸九兵衛(くへえ)、井田小多右衛門(こだえもん)に中原の地侍(じざむらい)は首をつき合わせて首を縦に振ったり横に振ったりしている。

 「ほう、それはだれか?」

 村の衆の声を抑えて渉江が問う。安総は平らな声で答えた。

 「ここに呼んであります。連れてきてよろしいですか?」

 「ああ、もちろん」

 「早く会わせろ!」

 「早くしてくれっ!」

 庭の村の衆からも声が上がる。安総は立ち上がった。本堂の前を横切って、美那がいるのと反対側の角の手前で本堂の引き戸に手をかけた。

 だれが出てくるのか? 満座の者が首を伸ばしてそちらを見た。

 「その前に」

 安総が手を止めて声を上げる。

 「何だ?」

 中橋渉江(しょうこう)も苛立っているように声を立てた。

 「子どもですがかまいませんか?」

 「うむ」

 渉江は短めに(うな)る。

 「子どもと言っても、知っている者の顔ぐらい見分けがつくだろう。連れてくるがよい」

 村の衆も、そうだ、連れてこいなどと声を立てる。安総はその声ぜんぶを聞いてから頷き、
「はい」
とかわいい声を立てて引き戸を開けた。

 出てきたのは、赤の鮮やかな着物を(まと)った女の子だった。すこし歩きにくそうにしている。

 頬には赤黒いすり傷のあとがあって痛々しい。

 しかし、女の子は、だれの手も借りずに廊下の端まで自分の足で歩いた。

 しばらくはそれがだれかだれも気がつかない。そんな鮮やかな着物の女の子など久しく見たことがないのだ。

 だが、すぐに――。

 「(まり)!」

 だれかが声を立てた。

 「まちがいない。あれは広沢の毬だ!」

 「でも毬は行き方知れずじゃ……」

 「いや、毬だ、毬に違いない」

 「毬だって?」

 「毬だよ!」

 「ほんとだぁ、毬ちゃんだ」

 張りつめた感じを一人で壊したこんな声を挟んだのはもちろんさわちゃんだ。

 「こぉれは驚いた」

 隆文も声をかすれさせて言う。

 「無事だったんだ」

 美那は小さい声で言った。

 揃って目を見開き、口のなかで歯を咬むことができずにいるのが、村西ら一党と柿原党の地侍だった。まわりにいる萎烏帽子(なええぼし)の者たちも同じように毬のほうを見上げている。これはその柿原の小者たちだろう。よく見覚えていないが、あの春の朝、美那を捕まえようと襲いかかった連中に違いない。

 「毬」

 安総が毬の後ろで言った。

 いつもどおりの声だが、いつもより優しいようにも聞こえる。

 「はい」

 「昨日の夜まで、何があったか、何を見て何を聞いたか、正直に話してごらんなさい」

 「はい」

 毬、声がうわずってるな、と美那は思う。

 これだけたくさんの人を前にするのははじめてかも知れない。

 うまく話せるだろうか?

 「はい」

 毬が口ごもる。村西兵庫が、その毬を見て笑いを作ったのが見えた。

 「はい、えっと」

 笑ったときに何かにせ笑いのような感じが出てしまうのは、この男の顔の造りなのかも知れないが、それで損をしているにちがいないと美那は思った。

 「えっと、一昨日の夜、大木戸九兵衛様が、えっと、参られまして」

 「がんばれ毬っ!」

 村人のだれかが叫びを入れる。毬は「はっ」と小さく息を吸って、もじもじする。

 「えっと、……村西兵庫様のお屋敷に、連れて行かれました。そこで、お座敷に通されますと、若いお侍がおられて、わたしは、畏れ多くも、春野越後守(えちごのかみ)定範(さだのり)様から範の一字をいただいた、えっと、なんだっけな、えっと……えっと……お……あ? えっと……あ、中原、安芸守(あきのかみ)、のりい、ひろお、であると仰せられ」

 村西ら一党が気まずそうに顔を見合わせる。中原村の地侍もだ。

 しかし、名指しされた若侍――つまり「のりいひろお」と呼ばれた侍は、何の話かわからないように体をふわふわ揺すっているだけだった。

 「つづけられよ、毬殿」

 中橋渉江が抑えた声で言った。

 「はい」

 毬は短く返事した。

 「えっと……えっと……その、のりい様は、わたしのこのあたりを」

 と、胸の前に横向きに右手をあてる。

 「お抱きになったり、その、こちらの頬をお押さえになって」

 左の頬に左手を持ってくる。で、つづいて、胸に当てていた右手を右頬に載せる。

 「こちらの頬にご自分の頬をおすりつけになったり、えっと、えっと、それから、このあたりを」

 こんどは、左手を下げて、右手で左胸の前から左肩あたりをさすって見せた。

 「お()でになり、ゆっくりお撫でになったり、くすぐるように早くお撫でになったり、最初は着物の上からお撫でだったのが、そのうち、わたしの着物をお脱がせになり、じかにお撫でになり、それでともに寝ようとおっしゃって……それで……それで……」

 毬は唾を呑みこんだ。村の者のなかにもいっしょに唾を呑んだものがいる。

 こんどは促されるまえに毬はつづけた。

 「……ご自分が先に眠られてしまいました」

 で、村の衆からため息が漏れる。

 ――なんでここでため息を漏らす?

 毬はつづけた。

 「わたしは……怖くなって……逃げ出しました。竹薮(たけやぶ)から――いえ、村西様のお屋敷の裏に、竹薮があります。その竹に上って、竹をしならせて、それで村の外に()び下りました。どこへ行こうかと迷いました。家に戻っても、また九兵衛さんに連れ戻されるだけだから……それで、義倉(ぎそう)に隠れました。義倉ならば人も来ないし、治部様の、ご加護(かご)がいただけると、そう思いました」

 毬が言ったことはぜんぶほんとうだろう。言っていないことがあるだけだ。毬を助け出したのが葛太郎(かつたろう)だということ、町の銭貸しに会ったことはきちんと話から抜いている。

 こういう「嘘をつかないで不都合を隠す方法」というのを身につけておくと、あとでおかみさんに意見されたときに役に立つかも知れない――などと美那は考えている。

 「美那ちゃん、顔が笑ってる」

 横でさわがうつむいて小声で言った。美那は急いで顔を上げて唇に力をこめ、笑っているように見えないようにした。

 それにしてもうつむいているさわがどうして美那が笑っていると気づいたのだろう?

 毬の声はだんだん落ち着いてきていた。

 「昨日の夜です。うとうとしていますと、外からだれかが近づいてくるのがわかりました。その人たちは、義倉の入り口を開けて、まず油を()きました。油は石の床にすばやく広がりました。わたしは懸命に逃げ出しました。その人たちは松明(たいまつ)を投げてその油に火をつけました」

 「ちょっと待て!」

 村人のなかから声が上がる。

 「逃げるって言ったって、どこへ逃げるんだ? 入り口にはその火をつけたやつらがいるんだろう?」

 「そうだ。見とがめられずに逃げるわけがない」

 村の衆にどよめきが起こる。

 「なんだ」

 「広沢の娘のほら物語かよ」

 「だれに頼まれてそんなうそ話をしてる?」

 「まったく本気にして聴いていたらけっきょくこれだ」

 ――ほんとうに村の衆というのは気の変わりやすい者たちだ!

 「逃げられるのです!」

 毬は声を高くして言い返した。

 「あの義倉の奥は古い狭い井戸につながっていて、そこから上に出られるのです!」

 「そんな……」

 「嘘っぱちを」

 「見苦しいぞ広沢の娘!」

 「何を言うかっ!」

 その「広沢の娘」をきいてすぐに背筋を伸ばし、その「見苦しいぞ」とわめいた村人を指さして一喝したのは、川上村の村長木工(もく)国盛(くにもり)だ。

 「毬は嘘は言っておらぬよ!」

 その(わめ)きぶりに安総が口の端を引いて恥ずかしそうに顔を伏せる。

 「川上殿」

 中橋渉江が本堂の廊下から声をかけた。

 「そこのところを少し、詳しくお願いします」

 「おおっ」

 国盛は渉江のほうに向きなおって、わざわざ背を反り返らせてから勢いよく頭を下げた。渉江が礼を返す。国盛は村の衆のほうを向いて声を張り上げた。

 「いいか。あの義倉に使っていた倉の穴は、お館のいちばん奥の書院の床の下に隠し井戸があってな、その井戸に通じていたのだ。()もりいくさになったときの用心にな。そしてあの穴蔵にはもともとお館の最後の蓄えの米が置いてあったのだよ。だから、あの義倉の奥にはその古井戸に通じる穴が開いておったんだ。だから毬の言っているのが正しい。だいいち広沢の家の者たちを別儀(べつぎ)に扱ってはならぬというのが治部様の残された掟だ。広沢の娘がどうこう言うのはやめろ! 毬があの井戸から抜け出したというなら、それはほんとうのことだよ」

 「見てください」

 毬がすかさず言った。すばやく左手で右手の袖をたくし上げ、その右手の腕を突き出して、そのありさまを村の衆に見せた。

 村の衆が驚きの声を上げる。女の悲鳴も聞こえる。

 毬の腕の肌は、赤く焼けただれ、赤黒く醜く(ふく)れ、ところどころ肌がちぎれたようになっていた。

 「これがそのときの火傷です」

 村の者が声を失う。毬は袖を戻して火傷のあとを隠した。

 けっ、と吐き出すような声を柿原党の地侍が立てた。

 「うん」

 中橋渉江が声を上げた。

 「で、逃げ出したあと、どうした?」

 「はい。わたしが逃げ出してすぐに、義倉が壊れました。火の粉が舞い上がり、天を支える柱が崩れるような音がして、地が揺れました」

 「地揺れはしたぞ」

 「おれも感じた」

 「昨日の夜、うちの小者が空に炎の魔物が暴れているなんてばかなことを言ったが」

 「そう、それだよ!」

 「そうだ。うちの娘もな、北から夜が明けてきたとか寝ぼけたことを言って泣いていたが、それだったんだな」

 村の衆の声がつづく。中橋渉江は、村の衆には話させておいて、
「それで?」
と毬に促した。

 「はい」

 毬は頷いて、
「義倉が壊れてからも火は入り口のほうに少し残っていました。それで入り口のあたりにおられた男の方をわたしは見ることができました。そこに村西兵庫助(ひょうごのすけ)様がおられ、これでぜんぶ燃えてしまいました、とおっしゃいました。それに、名は知りませんが、いま、村西様の横におられるお侍様がおられて、長居は無用だ、急いで村に戻らなければ、とおっしゃいました。すると、井田小多右衛門様が、南の道に回りましょう、もしこちらの道を行けば、気がついてこちらを見ている村人がいたら見とがめられてしまうとおっしゃいました。それに大木戸九兵衛様が、思ったより派手なことになったからな、とお答えになりました」

 言い終わって、毬は、唇を結び、だれをはっきり見るというわけではなく、村西の一党と柿原党のいるあたりに目をやっている。

 「……でたらめだ!」

 しばらくして村西兵庫が喚いた。

 「恩を仇で返すとはこのことだ! わたしはこの毬の一家が食い物がないときにも村の者に頭を下げて食い物を集めてやったのだ。村のなかでおまえの一家を守ってきたのはこの、この村西兵庫なのだぞっ! この村西兵庫がいなければ、おまえたちはとっくに飢え死にしていたのだぞ! そっ、それをっ、このっ――恩知らずの広沢の小娘がっ……」

 「そのことはいまの話には関わりがなかろう!」

 中橋渉江が村西兵庫の声を上回る大声で叱りつけた。

 「そうだ、このさい、村西兵庫様にお訊きしたいことがあります」

 声を上げたのはさっきの関所番の男だ。

 「村西様は、昨日の夜、市場のご使者がどこに行っていたかということを厳しく(ただ)そうとされました」

 「それがどうした?」

 それは村西一党や柿原党ではなく、ほかの村人の声だった。関所番は答えた。

 「はい。では、村西様ご自身はそのころにたしかにお部屋におられましたか? どなたか、川上村の村西様、大木戸様、井田様、それに柿原党のお侍が、そのころにたしかにお部屋におられたと確かめられた方はいらっしゃいますか?」

 「何を無礼な!」

 村西兵庫が言い返す。

 「同じ村人を疑うのかっ!」

 「もちろん、どなたか確かめておられればそれでいいのです。疑いなど生じますまい?」

 関所番の男はそれほど高くもない声で答える。

 「それに、街のご使者は村にとっては仮にもお客、そのご使者に同じことを問われたのだから、まずご自身より証を立てられるが道理でしょう。そうだ、その時間に部屋にいなかった町のご使者があやしいというのならば、村西様たちとて同じことです」

 「しかしあの三人は三人だけで一部屋だったからな」

 「しかも端の部屋であったし……」

 「あんなのに会いたくないから端に離したんだ」

 村人らは口々に言う。中橋渉江が苛立ち気味に声を高くした。

 「で、どうなのだ? あのころにそちらの村西殿、大木戸殿、井田殿がお部屋におられた、または別のどこかにおられたと証を立てられる方はおられぬのか?」

 「では同じことを町の使者にも」

 村西兵庫が言いかけて、
「うるさいぞ!」
「おまえらが先だ!」
と声を浴びせらる。

 証を立てられると名のり出る者はいない。渉江が重ねて問う。

 「証を立てられる方は大きく声を上げられよ! それで村西殿、大木戸殿、井田殿の疑いはなくなるのだ。村の大人衆でなくても遠慮なくお声をお上げになられるがよい」

 だが、村の衆はかえって声を鎮まらせてしまった。

 「ふむ」

 渉江は唸り、難しい顔をし、毬のほうを(かえり)みた。

 村の衆は声を立てず、雨は打ちつけ、雨はずっと村の衆を打ちつけつづけていた。

 「うむ」

 渉江は小さく頷いた。

 「そういえば、毬はその場に中原村の長野雅継(まさつぐ)様もおられたと言っている。長野様についての証でもよい。どなたか確かめてはおられぬのか?」

 雅一郎(まさいちろう)はその一言に救われたように顔を上げた。

 「範大(のりひろ)様」

 後ろを振り向いて小声で言う。範大は気がつかないようにしている。いつものことだ。

 父親ゆずりだ。この範大の父親は呼びかけてもいちどでは答えないことが多い。もちろんわざとだ。

 そうすれば自分が偉く見えると思っているらしい。

 雅一郎は重ねて強く呼びかける。

 「範大様」

 「何だ」

 範大はうるさそうに答える。

 うるさそうと言うより、半ば以上、うわの空だ。

 「私たちの無実をお証しくだされ」

 雅一郎は懸命に懇願した。

 「あ?」

 だが範大の答えはうわの空のさらに上を行っている。

 「私どもの無実をお証しくだされ!」

 「な、何を言っている?」

 範大は首の上で倒れそうな独楽(こま)のように頭をくるんとひと回しすると、懇願する雅一郎の顔を覗く。

 こんなところまで父親に似たのか?

 「われらはあの市場の者たちが捕えられ、引き回されて打ち首になるのを見物に来たのではないのか?」

 範大は、この暢気(のんき)なことばを言いながら、顔を土気色にし、体をぶるぶると震わせていた。雅一郎は気がついていない。自分の願いを訴えるだけで懸命だ。

 「それが、いま私たちに疑いをかけようとしている者がいるのです。範大様にならばその疑いを晴らしていただくことができるのです。どうか」

 「で、それはだれだ?」

 「はい?」

 「われらに疑いをかけようとしているのはだれなのだ?」

 「それはそこの娘ですが」

 雅一郎はそのあと「そういうことではないのです、一刻も早く私どもの疑いを……」とつづけるつもりだった。

 だが、そのまえに。

 「はあああっ!」

 範大が大きく口を開いて息を吸いこんだ。

 毬のほうを見て目もいっぱいに見開いている。息を吸いこんで、吸いこみきって、それ以上に息が入らなくなって、それでも口を開いている。

 毬はわけがわからなそうに落ちつきなさそうにその範大のほうに目をやったりはずしたり。

 「こぉの娘だ……こぉの娘だ……」

 範大は血の気の失せた顔でか細い声を漏らした。

 「だからこの娘でございます」

 雅一郎がいらいらして、太い声で言う。

 「だから、範大様!」

 「こぉの娘だ……っ……」

 範大の声は消え入りそうになった。消え入りそうになって、首から上は大きく震え、そしてその半開きの口から「ん」という声が最後に漏れる。

 「範大様」

 雅一郎は声はかけたものの、つづけて何を言っていいかわからない。

 範大は身を後ろに引いた。雅一郎も範大が何をしようとしているのかわからない。

 すうっと音をさせて息を吸いこみ――。

 範大は()えた。

 「おおおおおおおおおおおおおっ!」

 毬はびくんと身を引きつらせる。でも、その範大のほうを見るのをやめない。

 「おおおお、おおおおおおおおおおおっ!」

 その叫び声に、まわりの村の衆はさっと身を引いた。

 ふっと手で頭を覆った女衆もいる。

 村西ら一党も、また、当の範大や雅一郎が連れてきた小者衆も、後ずさりしたほどだ。

 「範大様!」

 雅一郎だけが踏みとどまっているが声をかけるのでせいいっぱいだ。

 「おうっ、いかにもっ!」

 範大は大声を上げて答えた。

 「わたしはっ、(おそ)れ多くもっ、守護代っ、春野っ、越後守っ、定範っ、様よりっ、範っ、のっ、一字をっ、(たまわ)りっ、またっ、柿原っ、大和守(やまとのかみ)っ、忠大(ただひろ)っ、様よりっ、(ひろ)のっ、一字をっ、頂戴したっ、中原っ、中原っ、中原っ、中原っ、中原っ、あっ、あっ、あっ、安芸のっ、安芸守っ、のっ、のっ、のっ、のっ、範大であるっ! 範大であるっ! 範大であるーっ!」

 で、言い終わって、胸から上を大きく上下させて大きく息をしている。

 まわりの村の衆からため息と、それから笑い声が漏れる。

 柿原大和守の名まえは「忠大」ではなく「忠佑(ただすけ)」だ。父の克富は最初は忠佑の「忠」の字を求めたが、「範忠」にすると柿原大和守の子息の名と重なるので、「大和守」の「大」をもらったのだ。ところが、範大は、大和守が「忠大」なので自分は「範大」だと思っているらしい。

 主君の名まえをまちがえるとは、という驚きと(さげす)みが交じっていた。

 「範大様、落ち着かれませ! じ」

 雅一郎はこのときはずみで「十郎丸(じゅうろうまる)様」と言いかけ、慌てて口を閉じた。

 子ども扱いされたらもっと怒り猛り狂うかも知れないと思ったからだ。

 範大は口をぱくぱくさせている。

 その範大を毬がわけのわからなそうな顔で見下ろしている。その毬に範大は目を留めた。

 「つうっ!」

 範大は何かを言おうとしたのだろうか。でも口からはぶうっと派手に泡が吹き出ただけだ。

 その泡を右手の袖で拭う。その手を戻したときに、範大の手は太刀(たち)の束に当たった。

 「おのれぇ」

 範大は荒い息のままわめいた。

 「よってたかってわたしを罪人にしようとしている! よってたかってわたしを罪人にしようとしている! よってたかってわたしを罪人にしようとしている!」

 「落ち着かれませ、範大様」

 雅一郎は大声で押さえつけるように言った。一昨夜来、範大が大きい声を上げたときには、それより大きい声で言えば範大を黙らせられると雅一郎は学んできた。

 「うるさいぞ雅!」

 ――だが、こんどばかりはそうではなかった。

 「うるさいぞ雅! そうだ。おまえと、その村西なんとかと、そこの小娘と、その村人どもといっしょになってわしを罪人にしている。わしを罪人にして城館から褒美をもらおうとしているのだ。そのために父上の目の届かぬこんなところにわたしをおびき出したな! 許さぬ、わたしは許さぬ!」

 「そのようなことがありましょうか? まずは落ち着かれませ!」

 雅一郎はさらにその範大の声を上回る大声で叱りつけ、範大の手をつかもうとした。

 「何をする?」

 範大は逃げた。逃げざまに太刀を引き抜く。引き抜くときに太刀が(さや)に何度かつっかえた。そこを押さえればまだ間に合った。けれども雅一郎は範大が剣に手をかけたのを見ていちど怯んで飛びのいていた。村西兵庫に
「長野様」
と声をかけられてもういちど範大を止めに向かうが、そのとき範大は刀を抜いてしまっていた。

 「刀を収められよ!」

 中橋渉江が叱責(しっせき)する。しかし範大が聞くはずがない。

 範大は、口から
「い……い……」
とことばにならない声を立てて、全身を震わせ、目を大きく見開いていた。その目のなかで瞳が大きく震えている。すぐ横の雅一郎を見、その向こうの村西兵庫を見、大木戸九兵衛と井田小多右衛門は雅一郎の陰なので見えないので飛ばして、本堂の角に立っている毬を見、毬の斜め後ろにいる安総を見、それからまた雅一郎に目を向ける。

 「刀を収められよ、まず刀を! 長野様!」

 渉江は、範大に刀を収めるよう言うよう、雅一郎に求めているのだ。だが、雅一郎は小声で
「範大様!」
と呼びかけるのがせいいっぱいだ。

 それが範大にはきちんと聞こえたらしい。

 「わたしを罪人に! そうであろう? 市場の銭貸しを引き回して打ち首などというのはわたしをさそい出すための嘘であろう! わたしが気がつかぬとでも思っているのか? おまえたちはいっしょになってわたしを罪人にしようとしているのだ!」

 「この雅がどうしてそのようなことをしましょう?」

 雅一郎は脂汗を浮かべて、懸命に作り笑いをしながら言った。範大はさらに体を大きく震わせた。

 「いま……いまあっちの男が、刀を、長野様と言ったではないか! おまえが刀を抜いてこのわたしに斬りかかるようにという合図ではないかっ! だまして首尾よくここまで連れてきたつもりだろうが、わたしは見抜いている! 見抜いているぞ雅! ……許さぬ! そのようなことが許されると思っているのか? わたしは守護代春野越後守、定範様より範の一字を頂戴し、柿原大和守様より大の一字を頂戴した、範大であるっ! 雅っ! わたしは許さぬぞっ!」

 雅一郎は後ずさりした。ここで雅一郎が剣を抜くと、自分の主に向かって剣を抜いたことになり、不都合だ。

 それに、範大は雅一郎と村人とが謀議して、雅一郎が範大に向かって刀を抜くのだと邪推している。いま雅一郎が刀を抜くとその邪推を裏づけてしまうことになる。

 だから刀は抜けない。

 せめて最初の一撃をかわせる間合いをとろうと、後ろに下がる。村西ら一党も小者たちもいっしょに後ろに下がる。村西兵庫は前に大木戸九兵衛と井田小多右衛門を立ててそのさらに後ろに下がり、ほかの村の衆と背中がぶつかって前に押し戻された。

 それを見て、範大は、ふっ、ふっと息を漏らしながら雅一郎に向かって剣先を上げたり下げたりする。そのたびに雅一郎は後ろに逃げていた。しかし、背中が九兵衛と小多右衛門に当たり、その二人はまた背中が兵庫に当たり、兵庫は後ろを村の衆に押されているので、これ以上後ろに退()がれない。

 これを範大のほうから見ると、これまで自分が剣先を振ると後ろに逃げていた雅一郎が、もう逃げるのをやめたように見える。

 「おっ……おっ……おっ……」

 声を立てても雅一郎は逃げない。範大の顔を見ているだけだ。

 しかも、刀を向けられた最初は怖そうな(かお)をしていたのに、いまはその怖そうな感じすらもない。

 「範大様」

 「おおおおおおおおおおおおおおっ!」

 雄叫びとともに、範大は土と雨だまりを蹴って走り出した。

 雅一郎のほうとは見当違いの向きに向かってだ。

 その切っ先の先には毬がいた。

 「毬っ!」

 安総が手を広げた。毬を抱き取ろうというのだ。

 毬は逃げた。安総とは逆のほうにだ。足をもつれさせて転ぶ。

 「うおおっ!」

 範大は軽々と廊下の端に跳び載った。大上段に剣を構える。

 そのまま振り下ろせば――いやただ下にたたきつけただけで、どんな下手な剣でも毬に当たる。

 毬は子どもだ。

 毬は本堂の柱の隅に身を小さくして、起きあがれずにいる。首を震わせてその範大を見上げている。

 「毬っ!」

 美那は声を上げて脇差に手をやったが、あいにく届く間合いではない。お堂の反対側の端だ。

 「毬!」

 いちばん近くにいた安総が膝を立てる。それを斜めに見て、
「ぎぃよえぇいっ!」

 大げさな気合いの声とともに範大が剣を振り下ろした。

 悲鳴が上がる。

 鋭い弦音(つるおと)がした。

 「うぐぇっ!」

 それは声だったのか、骨か何かが砕かれた音だったのか?

 剣をまるで見当ちがいのほうに投げ出して、その(からだ)はずいぶん長いあいだ空中を飛んでいたように思える。

 この男の父がその名を呼ぶときのように、間延びして、それから――。

 ぱちゃっ。

 範大の躯は本堂の廊下から二(けん)も離れた地上の水を派手に跳ねとばして落ちた。

 「毬っ!」

 その隙に安総がすかさず毬を抱いた。毬の姿が外から少しも見えないように尼の衣で覆い被さった。

 それに較べて、
「あっ、範大様!」

 そう叫んで雅一郎が駆け寄ったのはずっと遅かった。

 「あぁっ」

 後ろのほうで女の悲鳴がした。

 範大の躯からは、溜まった雨をすばやく鮮やかな色に染めながら、赤い血が広がる。

 「ああっ、範大様っ!」

 抱き起こそうとした雅一郎の目の前で範大の顔色は赤みが失せて土気色になっていく。

 流れ出す血に手も胸も浸されるのにもかまわず、その躯を抱きかかえた雅一郎の腕に何か場違いな長いものが引っかかった。

 矢だった。

 「はっ!」

 雅一郎はその矢のあたりの着物を裂いてみる。

 矢は、範大の左の脇の下から入り、肌と肉を切り裂き、斜めから胸の急所につき立っていた。(やじり)が掠ったのか、横に長く肌が割れて傷口になっている。

 血が勢いよく流れ出ているのはそこからだ。

 矢は深く突き刺さっていた。

 「ああっ……あっ……」

 範大は息絶えていた。

 村の衆はどよめく。でも、だれもそこに近づいてこない。

 廊下の上では、中橋渉江が見下ろし、その渉江にひっつくようにして、隆文、さわ、美那も近くにかたまっていた。

 「あぁれまあ」

 隆文が声を立てた。

 美那はその(むくろ)から目を離すことができなかった。

 浅梨(あさり)屋敷のただ一人の女弟子で、たいていのできごとには驚かない覚悟はできていた。

 いまだってべつに驚いたわけではない。でも、やっぱり目を離すことはできなかった。

 人ってこんなふうに死ぬんだ。

 美那は自分がいまそんなふうに思っているんだと思う。

 さわちゃんがどんな子かはしばらくいっしょにいてわかった。さわは自分と同じくらいの胆力はあるだろうと心配しなかった。それで横を見てみると、さわも自分と同じように食い入るようにその骸に見入っていた。

 こんなに近くで人が殺されたのを見たのは初めてだ。

 うん?

 殺された?

 ――だれに?

 「だれだっ?」

 範大の骸を地上に置くと、胸から下がぜんぶ鮮やかな赤い血で染まっているのもかまわず、雅一郎はその場に立ち上がった。

 「だれだっ? わが主 範大様を殺したのは!」

 その着物の血もみるみるうちに空からの雨で流されて色が抜けていく。

 「だれだ!」

 雨は降りつづけているのだ。

 「わたしだ」

 答える声がした。落ち着いた声だ。

 美那の知っている声だった。

 村の者たちが小さく悲鳴を上げる。

 顔も体も肌のまっ白な男が、少しふらつきながら、本堂の外廊下を歩いてきたのだ。

 毬のいる柱の反対側まで来て、柱に手をつきながら、範大の骸を見下ろし、その横の雅一郎をも見下ろしている。

 美那は声を上げようとした。しかし、先に渉江が
荒之助(あらのすけ)様!」

 その声を聞いた村人たちのなかに、どおっというどよめきが起こった。

 「帰ってこられたのですか?」

 「そのお姿は?」

 「おいたわしい! 大病をされたのですか?」

 「いつお戻りになりました?」

 「荒之助様!」

 森沢荒之助は、たまたま現れた自分に向けられた村の衆の目を浴びて、驚いた顔をしている。

 渉江はうつむいて、笑顔も見せず、かといってつまらなそうな顔もしない。

 「それはまた後ほど……」

 村の者たちに荒之助は冷たげな声をかけた。そうでもしなければ村の者たちの熱した気分を抑えることはできなかったのかも知れない。それから荒之助は目の下の雅一郎を見た。

 「そこの侍を殺したのはわたしだ。抗うことの(かな)わぬ小娘を剣で斬ろうとしていた。ほかに止めようがなかったので射殺した」

 荒之助は弓の弦を上に向けて手に持つと、その弦を(はじ)いてぶんと音をさせて見せた。

 「なっ……何をっ……」

 「ついでに言おう」

 荒之助が高い声で畳みかける。

 「昨日の夜、町からのご使者が会っていた相手というのはわたしだ。たぶん、わたしがここにいることを村の者に言っていなかったので、そのことに気を配ってご使者はわたしの名を秘されたのであろう。昨夜はずいぶん話しこんだ。そのあいだに町の衆が抜け出して義倉を焼くのは」

 言ってから、いったん目を離し、流し目で雅一郎を見る。

 「無理だな」

 雅一郎は自分の脇差に手をかけた。だが、荒之助がその脇差しの倍はある刀を()しているのを見ると、手を止めた。

 くそっ! せめて妻の脇差ではなく自分のをしていたならば!

 ……あの脇差は、いや、あの父祖伝来という太刀はだれが持ち去ったのだ?

 柿原党――のほかに答えのあるはずもない。借銭の質に取られてそのまま流れてしまったのだ。

 村の衆の声はしばらく鎮まった。

 それから、おーっという声とともに、後ろのほうから拍手が始まり、それはたちまち寺の庭じゅうに広がった。拍手は高くなったり低くなったりしながらついには高くなり、
「おうっ!……おうっ!……おうっ!」
という声が村ぜんぶを揺るがすように響きわたる。

 「森沢の若君が帰ってこられた!」

 若い衆の――たぶん寄合に加わることのできない若い者が威勢のよい声を上げた。

 「もう心配することは何もないぞ!」

 別の声が応じる。

 「治部様は去られた。だが判官(はんがん)様の若君が帰ってこられたのだ!」

 治部様ときいてまた声が集まってきた。

 「おおおっ!」
というどよめきが湧いて上がる。

 その声のかたまりが雨を震わせながら雨に逆らって天に昇っていくのが見えるように美那は感じた。

 美那はその「判官様の若君」を(ぬす)み見た。若君は、上気したような、困ったような顔で、やはりその雄叫びの上がって行くのを仰いでいるらしい。

 そして、村の衆の中から声が起こった。

 「義倉を焼いたのは村西一党と柿原党だ! 柿原党の頭は(ちゅう)に伏した! あとの者どもも成敗(せいばい)しようではないか!」

 「ちょっと待てっ!」

 「おい待てっ!」

 中橋渉江や村長どもが叫ぶが、もう大蛇(おろち)でもない、ただの激しい滝の流れのようなものにまたたくうちに姿を変えた村の者たちはいっせいになだれかかった。

 「逃げろっ!」

 雅一郎がわめき、主君の身体から飛びのくと、まっ先に走り出す。

 「ああっ」

 「長野様っ」

 井田小多右衛門と大木戸九兵衛、それに村西兵庫と柿原党の小者どもも走り出した。

 門のほうには逃げられない。村の衆が道を(ふさ)いでいる。雅一郎が向かったのは、昨日、義倉を焼くときに行きに使った抜け道のほうだ。

 小肥りなわりには足が速いらしい小多右衛門が先を走り、大木戸九兵衛と長野雅一郎、柿原党の小者どもが姿を消す。

 村西兵庫だけが逃げ切れなかった。村の衆に近いところにいたからだ。

 兵庫は着物をつかまれ、引き倒され、逃げようとするのを引きずり戻され、太刀を取り上げられ、あとは何をされているかわからない。

 「やめろ!」

 中橋渉江が命じ、それぞれの村長たちがそちらに向かっているのだけれど、人の群れに阻まれて進めずにいる。

 「わたしが行きます」

 言ったのは森沢荒之助だった。だが、荒之助は柱についていた手を離すと、立ちくらみでも起こしたように、ふらふらと斜めに漂い、しゃがみこんでしまった。

 そのとき、何も言わずに廊下から跳び下りたのは藤野の美那だった。

 「あい……つ」

 「美那ちゃんっ!」

 美那は村の者らの群れをかき分けて進む。体が小さいからか、人をかき分けるのが巧いのか、娘だと思って村の者たちが道をあけるのか、美那は(たけ)り狂った村の者たちのなかを泳ぐように進んでいく。

 「おい美那!」

 隆文が見て自分も跳び下りようとする。

 「もう遅い」

 それをさわがひとこと言って引っぱり止めた。

 「だけどっ……おいっ、おい、美那っ!」

 しかたがないので、そんなことをわめいているけれども、村の者たちの荒波のような叫びや足音に消されてしまっている。

 美那は村西兵庫のところまでたどり着いた。美那が見ると、兵庫は地面に引き倒されていて、村の者が胸ぐらをつかんでは殴り、足で踏み、蹴飛ばしていた。着物は脱げ、口からは声も出ず、はあっ、はあっと息が漏れるだけだ。

 美那は何も言わずにその兵庫の躯に飛んで入って抱きついた。

 「いっ!」

 村人が兵庫を蹴るために振り下ろした足だったのだろうが、そこに美那が飛んで入った。美那は太腿の後ろをみごとに蹴られてしまった。

 痛みが走るが、そんなことは言っておれない。自分はすばやく起きて(しゃが)み、兵庫の躯を抱き起こした。

 村西兵庫は、口のなかを切ったのか、口から血まじりの唾を流しながら
「ぼうっ……ぼうっ」
とわけのわからない声を出すだけだ。

 「おいっ?」

 「何をする?」

 しかし、飛びこんだのが娘で、しかも、さっきからこの兵庫助に因縁をつけられていた町の使者とわかったので、村の者たちは少し身を引いた。

 遠巻きに兵庫と美那を取り囲む。

 「だいじょうぶ?」

 「ぼぁ……ぼぁ……」

 兵庫は声を漏らした。

 何度もうなずいている。

 美那は、その兵庫の躯を膝の上に置きながら、顔を上げて、村の衆を見回した。

 「こういうの、()りてるでしょ?」

 美那は最初は小さめの声で言う。小さめだったが、娘の声は高い。

 よく通る。

 その声で、後ろのほうでまだ騒ぎ声を立てていた村の者たちも声をすっと収めた。

 美那はことばを継いだ。

 「こういうの、前の勝吉(かつよし)さんとか木美(きみ)さんとかで懲りてるでしょ!」

 美那は顔を上げ、声をさらに大きくした。

 「ひとときの思いに任せて、みんなでよってたかって殺して、それがずっと心に引っかかってるから、そのお美那さんって娘のことをそんなに気にするのよ! 生きてて仕返しに帰ってくるんじゃないかってびくびくしてないといけないのよ! そうでしょ、そうなんでしょ?」

 村の者たちはすうっと鎮まった。

 雨は地上もその村の者たちも打ちつづけている。

 「もうやめようよ、こういうのさ!」

 美那は口を開いて荒く息をしながら村の者たちを見回した。

 村の者らはもうだらんと手を垂らし、顔を伏せて美那の顔にためらいげに目をやっていた。

 美那はそのときどうしようかと思った。このままこの男を村の者に委ねて、この輪から抜けようとは思うのだが。

 「あいたっ!」

 美那はふと体が横に流れるのを感じた。ふと手を胸につけ、肩と肘で地面にたたきつけられる力を受けとめ、そのまま転がる。乾いていたらもう少し派手に転がったのかもしれないが、水が溜まっていたので一回転しただけで止まった。すぐに身を起こし、膝をついて脇差を抜く体勢をとる。

 その目の先に、背中を丸め、ふらふらし、左手を押さえ、着物も肌脱ぎのままに懸命に走り去る村西兵庫の姿があった。

 というより、そんな惨めな男の姿があって、それは村西兵庫としか考えられなかった。

 「だいじょうぶか?」

 村の者たちが駆け寄る。が、すぐに脇差を抜ける体勢をとっている美那からはやはり殺気を感じるらしくて、すぐ近くには近寄ってこない。

 「ちっ」

 美那は舌打ちして相手の後ろを見送った。

 「へんなやつだねぇ」

 「へんなやつ」という表現が適当なのか、どうなのか?

 そこに、ようやく、中橋渉江や村長たち、それに隆文とさわが集まってきた。

 雨は降りつづいていた。

 空は明るくなったようには思う。でも雲は厚い。雨はしばらくはやみそうにもなかった。

― つづく ―