夢の城

清瀬 六朗


桜の里(七)

― 3. ―

 安総(あんそう)は隣の間をのぞいてから、そっと引き戸を閉めた。

 狭い板の間に木の引き戸がついていて、そこはふだんは押し入れに使っている。

 いま、そこには、綿(まわた)(ふすま)にくるまれて女の子が眠っている。

 さっき、落ちてきたところを中橋渉江(しょうこう)が拾った少女だ。

 「どうだ?」

 「よく寝ています」

 安総は渉江の机をぐるっと回って戻ってきて、いろりの横の藁座(わらざ)に腰を下ろした。

 「そうか」

 さっきまで火の入っていなかったいろりにはいまは火が入っていて、鉄瓶が湯気を立てている。

 渉江もそのいろりの脇に座っている。安総が腰を下ろして自分のほうに顔を上げたのを見て、その安総に声をかけた。

 「安総、怪異(かいい)についてどう思うか?」

 「はい」

 安総はいつもどおり行儀よく答えた。だが、すぐにつづけて、
「それは今夜のことについてのお尋ねでしょうか?」

 「うん?」

 渉江はしばらく考えた。

 「まあ、そうだな。それを考えたいと思ってたずねたのだが、今夜のことについて答える必要はない。いつもどおりの問答だと考えてくれていい」

 「はい」

 安総は頬と口許を(ゆる)めた。

 「あらためて問う。この世に怪異というものはあるものだろうか」

 「はい」

 安総は行儀よく答える。

 「怪異はあると存じます」

 「ほう」

 渉江は腕を組んで(うなず)いた。

 「しかし、この世に道理があるものならば、道理からはずれた怪異のようなものは起ころうはずがない。それとも、この世のすべてに道理が存するわけではないと考えているわけか?」

 「はい」

 安総は目を伏せずに、渉江の顔を見たまま、何度かまばたきした。

 「はい。この世には道理があり、この世の何ごとにもまた何ものにも道理は備わっていると考えます」

 「しかし、それでは怪異の生じようがないであろう? 道理ではわからぬものだからわれらはそれを怪異と呼ぶのだからな」

 「いいえ」

 安総はこんどは即座に答えた。

 「怪異も道理に(したが)ったものごとでございます。ただ、人はすべての道理を解することはできません。解することのできない道理に出会ったとき、人は怪異に出会ったと感じるのです」

 「なるほど」

 渉江は唇を硬く()んだ。

 「しかし、道理を解することのできないものに出会ったのであれば、その理を解しようとすればよいだけではないであろうか? 怪異とは恐れをもたらすもの、もし道理を解することができないだけであれば、恐れを持つことはないのではないか?」

 「はい」

 安総は眉を曇らせることもしない。

 「……はい。どうして怪異が道理を解しにくいかというと、それはこの世にたまにしか起こらないことだからです。日々、どこででも起こっている怪異などというのはないと思います」

 「うん」

 渉江は眉を少しひそめて考えた。

 「うん、まあ、そういうことにしよう。で?」

 「はい。たまにしか起こらないことですから、そこにどんな道理が存しているか、考えようにも考えることができません。ものの道理を考えるためには、その道理が存しているものを、何度も見、そのものに何度も触れることが必要です。それができないとなると、そこに存している道理が自分の見知らぬ道理かも知れぬと考えてしまうものです。自分の知らぬ道理がこの世に存するということは、恐ろしいことではないでしょうか?」

 「自分の知らぬ道理は恐ろしい……か」

 渉江は安総から目を離して、梁のあたりをじっと見る。

 その上の屋根も、外の軒も、盛んに雨の滴が打ちつけ、音を立てていた。

 「うむ。そういうことにしよう。では、その怪異が、自分の知らぬ道理の存するようなものではなく、自分の知っている道理によって解することができると知ったとしたら、人はどうするであろうな?」

 「はい」

 安総は上を見たりもせずにじっと考える。

 「それは嬉しく思うことでしょう。見知らぬ道理などというものはこの世にないことが人に伝わるわけですから」

 「うむ」

 渉江は軽く頷いただけで、つづけて問う。

 「では、どうであろう、その見知らぬ道理が天地の理によって隠されているのではなく、人がわざと隠していたと知ったとき、人は、その隠していた者に、どのような気もちを抱くであろうな?」

 「その者に対してですか?」

 「そうだ」

 「それは怒ります」

 「ほう、それはなぜだ?」

 「わからない道理が天地の道理だと思うから恐ろしく思ったのです。人がわざとわからなくしていたものだとわかれば、その恐ろしく思ったことの意味がなくなります。自分のしたことの意味をなくされれば人は怒ります。また、人は、自分自身を天地のように大きく(あらが)いがたい者に見せようとするほかの人を許そうとは思わないと思います」

 「それは、なぜだ?」

 「はい」

 安総はまた何度かまばたきした。

 もっとも、それは、そろそろいろりから上がる煙が部屋に溜まり、安総の目のあたりにも漂うようになったからかも知れない。

 その煙にも負けず、安総はけなげに答えた。

 「人は天地のように抗いがたい者ではないからです」

 「うむ……」

 渉江は眉をしかめて考えこんだ。しかし煙に耐えられなくなって咳をする。

 「どうも煙いな」

 「消しましょうか?」

 安総がいう。渉江は首を振った。

 「消すともっと煙が出る」

 「では窓を開けましょうか?」

 「いや……」

 渉江は思案した。

 「問答が終わるまで待っておこう。もしかすると窓の外で何か聞いているものがいるかも知れない」

 ――この問答を聞いたところで何かがわかる者がどれだけいるのだろう?

 しかし安総はすなおに順った。

 「はい」

 「では、偽りについて問う」

 「はい」

 「偽りはこの世に必要なものか、必要のないものか」

 「はい」

 両目をしばたたかせながら、安総は答えた。

 「必要なものです」

 「それはなぜか。この世に道理があるのであれば偽りは必要ないばかりでなく、この世の道理を曲げる悪しきものになるのではないか」

 渉江は早口で言って最後に咳きこむ。安総は答えた。

 「はい。この世には道理は存しますが、ものごとそれぞれに道理が切れ切れに存しているために、それをひとつの道理として感じることが人にはなかなかできません」

 安総も早口になっている。

 「しかもこの世のものごとはつぎつぎに移り変わります。あるひとつのものごとに存する道理といまひとつのものに存する道理をつなげば天地の道理を解することができると見とおしをつけても、一つめのものごとを解するに時間がかかれば、いまひとつのものごとに目をやったときにはそれはすでに移り変わっていて、天地の道理をつかみ損ねるかも知れません。そこで、一つめのものごとを、(まこと)とは違う姿であってもそれに似た姿と捉えておいて、すぐに次のものごとを見て道理を知ろうとすることが必要になります。その真の似姿が偽りであり、それこそが偽りの必要な理由です」

 安総もそろそろ息が苦しそうである。それでも煙を立てているいろりのそばから離れないのは、修練を積んでいるためなのか、どうなのか。

 「うん、少し問いへの答えように偏りがあるような気はするが、それはよいとしよう」

 渉江はますます早口で話した。

 「手短に行くぞ。しかし、なぜ人は偽られると怒るのであろう? もちろん真でないからだが、では、どうして真でなければ怒るのであろう?」

 「はい。真であるとは、天地の道理に順っていること、少なくともその人の考える天地の道理に順っていることです。けれども、そこに偽りが入っていれば、その天地の道理と思っていたもののどこかが狂うことになります。そのどこが狂ったのか、どのように狂ったのかを突き止めねば、その人の思う天地の道理というものをもとに戻すことができなくなります。しかし突き止めるには時間がかかります。そのあいだ、その人は自分の考える天地の道理がはっきりさせられなくなります。自分で天地の道理を信じていない人は、心に支え柱をなくしたのと同じで、弱くなります。そのような姿にされることを恐れるため、人は偽りに怒るのです」

 「天地の道理かどうかはわからぬが」

 早口で言い終えた安総に、渉江はさらに早口で言うのだが、早口で言ったすぐあとに煙を深く吸いこんでしまい、大きく咳きこんだ。

 「そう考えるならば、偽られ、そのことを知ったばかりの人は、それだけ弱いということになるな」

 「はい。おそらくその者の信じてきた天地の道理のありようを守るために、何でもしようとすると思います」

 「よい答えだ」

 渉江は斜めに目を下ろして安総の顔を見た。

 「やっぱりいちど窓を開けぬか? 問答も終わったことであるし」

 「はい」

 言われて、安総は座ったまま膝で滑るように廊下の側の戸口に行き、障子を開けた。渉江は窓にとりついて窓を大きく開いている。

 荒れた風が吹き抜け、雨粒が部屋の床までたたきつける。しかし、たしかに部屋に()もっていた煙は吹き去られた。かわりにいろりから灰が舞い上がるが、渉江のいるのは灰の飛ぶ反対側だし、灰を浴びる側にいる安総はやはり目をしばたたかせただけで黙っている。

 渉江は窓から身を乗り出し、何度も何度も深く息をし、最後に大きく息をして、戸をばたんと閉めた。

 安総も障子を閉める。いろりは吹き抜けた風で巻き上がった灰に埋もれて半分ほど消えかけている。安総と渉江は急いで火箸(ひばし)で灰を掻き、木と炭の上に灰をかぶせた。

 下から煙が(くすぶ)り出すが、すぐにその勢いは弱まる。安総と渉江は同時に自分の使っていた火箸をもとの場所に戻し、二人の顔が近づいた。

 渉江がすばやく小声で伝える。

 「偽りを用いて怪異を撃ち退けるぞ。いいな」

 「はい」

 安総はいつもと同じ、何を考えているかわからない声で答えた。

 それでも何か嬉しそうではある。


 雨は夜半にいたってますます強くなってきた。

 中原村の名主屋敷の広間では、郷名主の中原造酒(みき)克富(かつとみ)が寝息を立てている。

 「わしは……先の民部大輔(みんぶのたいゆう)……正勝(まさかつ)公から勝の一字を頂戴した……中原造酒……勝富である……かーつーとみ……である。わが息子は……越後守(えちごのかみ)……定範(さだのり)様から……範の……一字を……頂戴した……安芸守(あきのかみ)……範大(のりひろ)……である。……われらは……越後守さまの……一の臣下……である……いや……のりー……ひろー……が、あきー……のかみで……わしがただのみき……では……釣り合いが……とれぬ……そうであろう……みきとは短すぎる……あきーの……かみとくらべて……みじかすぎるでは……ないか……あきーのかみの……父が……そう短くては……あきーのかみの威厳に……かかわる……わしは……わしは……そう……やはり民部大輔と……名のるべき……であろうか……ど……どう……思うな……ははっ……ははっ」

 そのことばを聞いて、長野雅一郎(まさいちろう)の妻たみは、開けっ放しになっている明かり取りにまで頭を起こし、そこから外を眺めた。

 心細げな(かお)だ。

 それは、この女がめったに見せないものでもあった。

 そのころ、その夫の雅一郎は庫裡(くり)の部屋のなかで肌脱ぎになって手ぬぐいで身体と着物を()いていた。

 「雅一郎!」

 急に呼びかけられて雅一郎は驚いた。

 その声を立てたのは、背の後ろで酒を飲んで半分だけ衾にくるまって寝ていた安芸守範大である。

 「しっ。大きな声を立てられますな」

 雅一郎は振り返って叱咤(しった)する。

 「そ、そうは言うが」

 範大は半身を起こして目を丸くして雅一郎を見ている。

 「全身()れているではないか。何をしたのだ」

 「大きな声を立てられますな!」

 もういちど雅一郎はきつく言ってから、
「雨が降っております。外に出ればこれぐらいは濡れます」

 「外に出たのか!」

 範大は声はひそめたが、大きく驚いて(たた)みかける。雅一郎は拭き終わった着物に袖を通し、その範大のほうに向きなおった。

 「範大様をお守りするためでございます。範大様は何もご存じなくていいのです」

 「しかし……」

 雅一郎はその範大の前に座ると、範大の顔を見上げ、両手をついた。

 「お忘れなさいますな」

 「うん?」

 「範大様を人殺しの張本人として訴えようとしている者がおることを忘れぬようにしてください」

 「いっ……」

 範大はのどを詰まらせた。

 「そっ……そのようなこと……そのようなこと……」

 「だから、私の行うことをお信じくださいませ。私は命に替えましても範大様をお守りして見せます」

 「あ……ああ、そうしてくれ」

 範大はもう「大きい声」を出そうにも出せない。がたがたと震え、衾にくるまって、横になってしまい、さらにその首を衾のなかに収めて身をかがめている。

 雅一郎はほっと息をついた。

 「雨が降ってくるのが早かっただけが」

 ひとりごとを言う。そのとき、雅一郎の耳は、廊下を歩く足音と、その足音の主が交わしていることばを捉えた。

 廊下にも雨がたたきつけている。二人の者はその廊下をこちらに歩いてきているようだ。

 「ふむ」

 男は雨にもかまわず暢気(のんき)な声を立てていた。

 「で、ご使者はもうお休みになったのか?」

 「いえ、それが」

 答えているのは女の声だ。

 「ご寝所を見ましても姿が見あたりませぬ。どこかに出かけられたご様子」

 「なに?」

 男が驚いている。

 「しかし、あの者たちにこの村で行くところはあるまい。それに、村を出るといっても、道を知らぬだろうし」

 「道は知っておられます。わたしがお墓までお連れして、道を往復しておられます。それぐらい往復すれば、村の外に出てまた入ってくるぐらいはできるかも知れません」

 雅一郎は頷いた。さらに聞き耳を立てる。そのころ、その二人は、まさに雅一郎の部屋の外を通っているところのようだった。

 「そうか。それにしても、なぜお墓になどお連れしたのだ?」

 「あのお美那様がほんとうにこちらのお美那様であれば、あそこには勝吉様木美様のお墓がございます。お参りしていただこうと思いまして」

 「そんなことをしたのか!」

 「はい」

 「で、どうだった?」

 男は早口で問うた。

 「はい。あの方は、勝吉様ご夫妻のお墓に頭を下げ、長いあいだ、涙を流しておられました」

 「そうか。では、あのお美那と考えてよいと思うのか?」

 「……はい」

 女は平坦に答えている。どうも声の高さからして若い女のようだ。

 「あのお美那か! もし、あのお美那がわれらに恨みを抱いていると、もしそう考えるとすれば、そして、もし、墓所を訪れたことでその恨みが深まったとすれば、だ、そうすれば、今夜あたり何を考えてもおかしくない。何かことを起こしてもおかしくない。そうは……」

 そこから先は雨の音で聞き取れない。男女はそのまま歩き去っていき、足音も雨音にまぎれて、どこに向かったのかはわからない。

 雅一郎は聞き耳を立てるのをやめて、立ち上がり、湿り気の拭い切れていない着物の上から衾を引きかぶって、横になった。

 「これは好都合な!」

 雅一郎ははっきり声に出してつぶやいて目をつぶった。

 このとき雅一郎が考えに入れていなかったことがあった。

 「こ……こう……こうつっごうっ……?」

 それは、衾にくるまったまま震えている範大が、その声を耳にして、目を大きく見開き、歯をかみ合わせ、衾を握ることで震えから懸命に身を守ろうとしたことだった。


 外が明るくなっていた。

 美那は目を覚ましたまま衾のなかから外を見ている。

 今日は水を汲みに行かなくていいんだ、なんて考える。だったら昨日もそれを考えてもよかったはずだけれど? そうだ。昨日はあの地下の米倉で寝たのだ。だから夜が明ける時間にはもう外に出たんだ。そういえば、あの毬、どうしているだろう? 毬のことだからこれぐらいのことには負けることもない。そうわたしにだってがんばれたんだから……。それより水は今日はだれが汲みに行くのだろう? そういえばあの地侍、あんなことを持ち出してこちらを陥れようとするなんて。

 そこまで考えたとき、ばたばたと荒い足音がした。

 「なんだ?」

 隆文が起きあがる。

 「朝っぱらからうるさいな」

 隆文のその間延びした声が消えないうちに、部屋の障子が乱暴に引き開けられた。

 「ご使者の方がたっ!」

 大声で呼ばわったのは尼の姿をした若い娘だ。

 「あ……」

 美那はその名を思い出そうとする。

 「あ……あんそう……さん?」

 しかし安総の名で思い出す尼の姿とはずいぶん違うように思う。

 「すぐに身支度(みじたく)をして表に出てください!」

 「身支度ぅ……?」

 隆文が眠そうな声で言い返す。

 「いったい何があったんだ?」

 「村の衆が殺気立って押し寄せています。中橋様がすぐに寄合を開き、そこで糺明(きゅうめい)するとして押しとどめているところです。早くしていただかないとわたしたちでは止めきれなくなります!」

 「糺明?」

 隆文が眠そうな声を出す。

 「いったい何の糺明だ?」

 「はい」

 安総は早口で言った。

 「村の衆はご使者が義倉の米を焼き、義倉を壊したと言い立てています」

 「ぎっ」と美那は口の端まで上ったのを押しとどめる。美那が知っていてはいけないことばだ。

 しかし、義倉を焼き、義倉を壊した?

 ならばそこで寝ていたはずの毬は?

 「義倉というのはいったい何だ?」

 隆文が眠そうな間だるい口ぶりで問いかける。安総はていねいに答えたものだ。

 「村の隠し米の置き場です。さあ、早く!」

 「おっ……おう」

 隆文が言った。

 「お早く願います。それに」

 安総は障子を閉めかけ、閉めかけたところで小さい声で言った。

 「くれぐれも短慮(たんりょ)をなさいませんよう」

 そうだ。この声が昨日に会ったあの安総の声だ。

 とすると、そこまでの高い声で喚いていたのは?

 安総はばたんと障子を閉めると、もと来たほうに駆け戻った。

 「やれやれ」

 起き上がって帯を絞めながら隆文が言った。

 「派手に図られたもんだ」

 「村西一党のしわざだねぇ」

 いつの間に起きていたのかさわが言う。しかも眠そうでもないし慌ててもいない。

 「それより毬は?」

 美那が言う。

 「あそこには毬がいたはずでしょう?」

 「ひとの心配よりもまず自分の心配をしろ」

 隆文が言い返した。

 「こんな疑いかけられちゃ、いつこちらが殺されてもおかしくないんだぞほんとの話が」

 「さわちゃんは出ないほうがいいかも知れないね」

 「無理だよ」

 というより、さわの身支度がいちばん早いのだが、いつの間に……?

 「一人足りない、隠してる、陰で何かやってるんだろうって言われる。それだったら最初から隠れないほうがいい」

 「うん」

 美那はうなずくといっしょに、(のど)の底から息を漏らした。喉もしまっていれば口のなかも大きく開かなくて、ほうっと長い息の音が残る。

 「ありがと」

 震えていた。いまも震えている。でも、さわが自分が出ると言ったことで、気もちの何かが落ち着いた。

 ここで死ぬわけにはいかない、と思っていた。

 怖いわけではない。でもいま死ぬわけにはいかない。

 この世でやらなければならないことがある。いや、美那自身がどう思うかにかかわりなく、この世でやらなければならないことがあって、そのためには美那が必要だと思っている人たちがいる。そのことに美那はずっと以前から気づいていた。そして、その人たちの思いに応えなくてはという気もちが美那にはずっとあった。

 しかし、いまのさわのことばでもう考えるのをよそうと思った。

 殺気立った村人と斬り合いになる。もしそうなったらたぶん助からない。

 だがしかたがない。そうなったら、武芸を身につけた市場の娘として死のう。このさわを最後まで守り抜いて討ち死にしよう。

 「うん」

 脇差(わきざし)を帯に通したとき、美那は思いを吹っ切った。

 「おい」

 後ろから隆文が声をかける。

 「なに?」

 「短慮は避けろってあの尼さん言ってただろ?」

 言って隆文はにやっと笑う。

 「だからなに?」

 「いや」

 隆文は一人で笑ってうなずいていた。

 「おまえがいちばん短慮しそうだったから言っただけだ」

 「さあ、行くよ」

 これ以上は固くはならないというぐらい固いさわちゃんの声がして、「ご使者」三人(みつたり)は裏の間を出た。

― つづく ―