夢の城

清瀬 六朗


町に集う人びと(一)

― 中 ―

 「さあ……」

 さとに美那の名を出されてみやは困った。

 不意打ちを受けたみたいだ。それで、まずさとを見、それからいろりの向こうのあざみのほうに目をやる。

 あざみは意地悪をするようにつんと口をとがらせて見せてから笑った。

 「ふん」

 みやはおもしろくなさそうに鼻を鳴らす。

 「あの子のことをいちばん知ってるのはあざみちゃんでしょ? もったいつけてないで教えなさいよ」

 「だってさ」

 あざみはやっぱりからかうような声でつづける。

 「美那ちゃんが浅梨(あさり)さまのお屋敷であの弦三郎(げんざぶろう)さんとどんなふうなのか、わたし知らないもの」

 「じゃ、お美那ちゃんを呼んできてよ。ちょくせつ確かめるから」

 「いま、いないの。さわちゃんと、浅梨さまのお屋敷のお弟子さんといっしょにお出かけ。さわちゃんの店のご用で牧野郷に行くんだって」

 あざみが何かつまらなそうに言った。さとは何も言わない。

 「でもどうしておさわちゃんの?」

 みやが訊く。

 「おさわちゃんの店の若旦那が浅梨さまのお弟子だから」

 「ふーん、そうなんだ」

 みやはそう言ってから、
「それにしてもお美那ちゃんの身のまわりって男の人多いのね」
とつけ加える。

 あざみはふと笑い声を漏らした。あざみに、得意そうにされたり、つまらなそうにされたり、笑われたりしたからか、みやは不機嫌だ。

 「なに? 何かおかしいわけ、わたしの言ったこと?」

 「いいえっ」

 あざみは笑ってみせたままだ。

 「それで美那ちゃんは気性が男みたいなのか、それとも美那ちゃんの気性が男みたいだからそんなのなのか。でもああじゃないと浅梨さまのお屋敷でやっていけないのは確かだね」

 「そういうこと言ってもおさとちゃんの慰めには何もならないよ」

 どうしてさとを慰めなければいけないのだろう? あざみは黙っている。みやは一人でつづけた。

 「ねえ、お美那ちゃんってどんな子なの? わたしたちと違って、あざみは生まれたときから知ってるんでしょう? 話してよ」

 「うーん」

 あざみは得意そうに笑うのをやめて、口を(つぐ)んだ。

 「知らないんだよね、じつは」

 「そんなことないでしょ?」

 みやは決めつけた。

 「だって昔から知り合いだって……」

 「そりゃおさとちゃんやおみやちゃんの来る前から知ってはいるけど……でも美那ちゃんが藤野屋に来たのってそんなに前じゃないよ」

 「そんなに前じゃないって?」

 「うん……たしかね、牧野の乱があって、巣山の柴山勢が町に押しかけてきてね、そのあとだったと思う」

 さとが顔を上げてあざみを見る。あざみはちらっとそのさとの顔を見返して、つづける。

 「まだ子どもだったから何が起こったかは知らないけど、なんかもう町中がずっとごちゃごちゃしてて、どっかで家が燃える煙が見えたり、だれかが殺されて河原でさらしものにされてるとかそんな話を聞いたり、そんながずっとつづいてうんざりしてた、そんなころに、藤野屋さんに貰われてきたんだったと思うな」

 「貰われてきたの?」

 みやが驚く。あざみはあたりまえのことのように頷いた。

 「貰われたのか、預けられたのかは知らないけど」

 「じゃ、あのおかみさんのほんとの子じゃないんだ」

 「そう」

 「じゃ、ほんとはどこの子なの?」

 「うーん」

 あざみは少し首を傾げて見せた。

 「それは聞かないことになってるらしくて、だれも知らないんだぁ。三郡の、それも玉井の町の生まれで、ずっと玉井で育ったとは言ってたけどね」

 「どこかのお屋敷の子なのかな?」

 さとが身を乗り出した。

 「その、巣山の柴山勢……っていうのが出てきて、家を焼かれてしまったとか」

 「そうかも知れないね」

 あざみはたんたんと流すように言う。

 「とにかく貰われてきてすぐってすごい乱暴だった。こんな乱暴な女の子がいるのかって思ったぐらい」

 「それはいまもいっしょでしょ?」

 みやがすかさず言う。あざみは口もとで笑って首を振った。

 「たしかにいまも乱暴だけど……いまはべつに怖くないじゃない? ま、ときに怖いこともあるけど、すぐ友だちになっちゃったりするし」

 「そのころはもっと怖かったんだ?」
とこんどはさとが端々から息が漏れるように勢いをつけてきく。あざみは頷いた。

 「ただ乱暴だってだけじゃなくて、なんていうのかな、なんかこう、人としての光の量が違うっていうのかな?」

 「光の量って?」

 みやがわからないかおをして何か訊こうとしたが、そのまえにさとが口を開いた。でも、言ったあざみも、
「よくわからないんだけどねぇ。なんかそこにいるだけで近寄れなくなるっていうのかな。ほんと顔を合わすのが怖くて逃げてたし、それでも会っちゃってわたしが先に泣き出したこともある。あ、そう、そのときはじめて口きいてくれたんだ、どうして泣いてるの、って」

 「あんたが怖いからって言ったの?」

 さとが流れるような声できく。

 「そんなこと言えるわけないじゃない? うちに飛びこんで、そう、いまのこの部屋――戸を閉めちゃったんだけど……そしたらこんどは美那ちゃんが大っきい声で庭で泣き出してね」

 「あのお美那ちゃんが泣いたの?」

 「うん」

 あざみはさとに向いて頷き、みやにも頷いて見せた。

 「おかみさんにあざみちゃんに仲よくしてもらいなさいって言われたから出てきたのに、どうして逃げるんだって大泣きするの、そこの庭で」

 あざみは(ふすま)の向こう側を顔で示した。いまは何の物音もなく、外の薄曇りの空の明かりを映してしずまりかえっている。

 「ほんとにねぇ、表まで聞こえるような声だった。しょうがないから出て行ってさぁ、肩抱いて、泣くのやめて、とか言ったら、ほっぺたはたかれてしかも膝で蹴飛ばされたりして。で、こんどはわたしが、何言ったかなぁ、それで二人で庭で大泣きしてて、そんなのでだんだん仲よくなっていったのかな」

 「お美那ちゃん、泣いたんだ」

 さとが言う。

 「いまじゃ信じられないみたいだけど」

 あざみはにっこり笑った。

 「あのころはよく泣いたし、よく怒った。そうそう、あのころの美那ちゃんね、何か気に入らないことがあったら、わたしにそんなことしたら、そのうちひどい目に遭わせてやるから、って言う(くせ)っていうか、そんなのがあったね。で、いちどね、そうは言うけどどうやってどんなひどい目に遭わすっていうのって言い返したら、しばらくわたしをにらみつけて、口をぎゅっとむすんで、それで急に泣き出すんだぁ。それで言わなくなったね」

 「あざみもけっこう意地悪」

 みやが言う。さとのほうは、
「たしかにいまのお美那ちゃんの乱暴なのとは違うね」
と落ち着いている。

 「ここに来るまえに何かよっぽどいやなことがあったんだろう、ってお母さんは言ってた」

 「どこかのお屋敷で育って、柴山勢にめちゃくちゃにされたんだね、何もかも」

 さとが言った。あざみは目を細めて、小さく首を振る。

 「そうかも知れない。とにかく何も言わないんだ、昔のことは」

 みやは何も言わず、腰を下ろしなおした。さとがふと思いついたようにあざみにきく。

 「さわって、その話、知ってるかな?」

 「さあ」

 あざみはふしぎそうにさとを見た。

 「ともかくわたしは話してないから……でも、いっしょに牧野郷に行ってるんだから、何か聞くかも知れないよね」

 「そうね」

 さとはそっけなく言った。口を閉じ、顔を伏せて上目づかいでどこかをにらむようにしている。

 「いやだ、おさとちゃん」

 みやが声を立てた。

 「これから弦三郎さんに会いに行くっていうのに、そんな怖い顔して。ね、だめだよ、弦三郎さんの前でそんな怖い顔したら」

 「えっ……うんっ」

 言ってさとはまた急に笑顔に戻ったものだ。

 「だいじょうぶ。まだ弦三郎さんに会うまでに時間はあるから。それにいまからたのしそうな顔してたら、ほんとに会ったときに疲れちゃうでしょ? だから、これでいいの」

 で、わけのわからなそうな顔をしたあとの二人に、さとは追い打ちをかけるように笑って見せた。


 弦三郎は自分が不機嫌そうなのには気づいていた。それに弦三郎はあせっていた。

 この小森式部の屋敷から世親寺まで、上屋敷町を抜け、下屋敷町の橋を通り、そこから長い参道を通って、最後に石段を上らなければならない。浅梨屋敷から裏に出てすぐというのとはずいぶん違う。日が長くなっているから日が暮れてしまいはしないだろうが、昨日もあのおさとという娘はずいぶん待っていたらしい。

 今日も待たせるのか?

 そう思うと、やはり弦三郎はいたたまれないのだ。

 「みんなと会ったのはしばらくぶりだろう」

 小森式部大夫(しきぶだゆう)は弦三郎の不機嫌顔にも気づかないようだ。

 「はい」

 しかたなく弦三郎も答える。

 「きみはもっと同じ年代の仲間と話をしたほうがいい。だいたい、きみはあの連中の名まえを何人言える?」

 「木村様だけです。あと十四郎と」

 「ほら見なさい!」

 式部大夫はそんな説教をしながらなぜか機嫌がいいのだ。

 「あそこにいるのはいずれはいっしょに越後守(えちごのかみ)様に仕える仲間なんだから、もっとたがいに親しくしてないと、あとできみも損をするし、評定衆(ひょうじょうしゅう)どうしがうまくいっていないと三郡全体のためにもならない。いいね」

 「はい」

 弦三郎はおとなしく答えるしかない。小森式部大夫健嘉(たけよし)は、弦三郎の返事をきいて目を細めて笑った。

 「ところで、あのほうはどうなってるんだい?」

 「あのほうって?」

 わからないので、弦三郎は健嘉の顔を正面から見上げる。健嘉は嬉しそうに笑って見せた。

 「ほら、きみが助けて、そのきみを殴りつけた、例の小物屋の娘だよ」

 「あ、ああ」

 あれは葛餅屋の娘であって小物屋の娘ではない。

 「あれからうまくいってるのか?」

 健嘉はいっぱいに目を細めて笑って言った。

 「だから」

 弦三郎はこんどははっきり不機嫌に迷惑そうに言った。

 「あの娘とは何もありませんよ」

 あの娘のことをいまでもしつこく弦三郎との話に出すのは、いまでは健嘉だけだ。あの控え部屋にたまっていた連中にも何度も訊ねられ、からかわれたものだけれども、いまではそんな話をする者はいない。

 「ほんとに?」

 式部大夫はしつこい。

 「ほんとです」

 弦三郎も無愛想に突っぱねた。

 「はっは」

 健嘉はなぜかそうやって喉の奥で笑って見せた。

 「で?」

 弦三郎はかしこまって頭を下げた。

 そうだ。あの娘とは――美那とは何もないのだ。

 だから、いまからあのおさとという娘に会いに行ってもまったくかまわない。いや、だいたいこの話はあの美那が……。

 「で、だ」

 健嘉は、さっきの笑いが収まらないまま、弦三郎を小さい両の眼で見つめていた。

 「今日、きみを呼んで、聞きたいことは一つだ」

 「はい」

 「例の話」

 「葛餅屋の娘ですか?」
と弦三郎が言ったのはわざとだ。こんどは健嘉が急に不機嫌になる番だ。

 「ちがうよ! あの話だ。だから」

 いらいらして、しかも口ごもりながら、健嘉は声をつづける。

 「柿原大和守(やまとのかみ)様が徳政を使って、その……」

 「町の銭貸したちをどうにかするという話ですか?」

 「そうだ」

 健嘉はいかにも重々しく相槌(あいづち)を打つ。

 「あの話、町には漏れてはいまいな」

 弦三郎の胸を冷たい感じが流れ下った。

 「は? 町と……いいますと?」

 「わかっているだろう。市場とか……浅梨殿の屋敷とかだ。市場や浅梨殿の屋敷の仲間から、柿原様が徳政を利用して儲けようとしているとかいう噂は聞かなかったか?」

 「はい」

 「ほんとうに聞いていないな?」

 「はい」

 「そのとおりでなくてもいい。何かそれに似たような噂だ」

 「はい、聞いていません。でも」

 弦三郎は顔を上げて小森式部の目を見返す。

 「そのお話が出たのが昨日なら、昨日今日で噂になるというのは少し早すぎる気がしますが」

 「早すぎはしない」

 健嘉はいらいらして弦三郎に言い返した。「小物屋の娘」の話をしていたときの愉しそうなようすはいまはない。

 「市場ではそういう噂はすぐに広まるものだ」

 たしかにそのとおりだ。

 弦三郎は首を小刻みに振り、忘れようとした。

 ――何を?

 弦三郎の思いにかかわりなく、健嘉はつづけた。

 「じつは今朝から屋敷町の武士衆から市場の銭貸し衆の動きが慌ただしくなったという報せがいくつも寄せられておるのよ。しかも、奇妙な話があってな」

 健嘉は弦三郎を手で差し招いた。顔を近づけろということらしい。

 この屋敷の奥の間で外に話が漏れる気づかいもなかろうし、もしそんな気づかいがあるのなら、少しばかり首を近づけたからといって話が漏れるのを防げるはずもない。

 だが、それに応じなければ話が進まなさそうだ。弦三郎にはおさととの約束がある。弦三郎は健嘉が求めたとおりに顔を近づけた。

 「市場の銭貸し連中が牧野郷に取り立ての使者を送ったというのだ」

 「はい」

 弦三郎は普通に頷いた。じっさい、だからそれが何か変わったことなのか、弦三郎にはわからない。

 「しかし……」

 「市場の連中というのはな」

 健嘉は声に力をこめた。

 「牧野郷には甘いものなのだ。市場の者たちはいまでも牧野の乱のことを義挙などと言ってたたえているぐらいなんだ。われらの苦労も知らずに。いや、あのとき柴山の横暴を抑えるのにわれらはほんとうに苦労したのだよ! きみの父君だって……いや、まあいい」

 健嘉は話を進める。

 「そんなこともあって、市場の者たちは牧野郷には甘いんだ。いままで牧野郷の者たちから借銭を無理やり取り立てたりはしなかった。相手が返すと言い出すのを何年でも待つ。ところがだ、その市場の銭貸しが牧野郷にまで取り立ての使いを送った」

 「はい」

 弦三郎は話がよくわからない。だいいち、銭を貸して取り立てにも行かない銭貸しがいるというのがわからない。柿原党ならば一日を待たせるだけでも人質を取って行く。

 「だから」

 健嘉は苛立(いらだ)った。

 「その牧野に取り立ての使者を送るぐらいだからこれはただごとじゃない。町の屋敷の連中もこんどばかりは厳しい取り立てを免れられんだろうって、慌ててるんだ。で、だ」

 「はい」

 弦三郎は健嘉の鋭い目を見上げた。

 「いま町の銭貸し連中がいきなりそんな動きを始めるということは、どこかから話が漏れたのではないかとそれを心配しているわけだ。いや、きみが漏らしたなんて疑っているわけではない、そんな怖い顔をするな」

 「はい」

 弦三郎が「怖い顔」だとしたら、それは当の健嘉に合わせようとしているからで。

 ――自分が漏らしたと疑われようとは、弦三郎は最初から考えてもいなかった。

 だが、と弦三郎は思う。

 ではどこから漏れたのだろう?

 当四郎と話しているときには思いもしなかった疑いが頭に浮かぶ。

 「この動きはいずれ大和守様に伝わる。そのとき、評定衆が町の者たちに漏らしたと疑われると、いろいろとやりにくくて困るのよ」

 小森式部大夫健嘉は苦い顔で言った。

 「はい」

 弦三郎は平気な声で答える。

 「しかし、大和守様にまつわるそんな話は町でも浅梨さまのお屋敷でも聞きませんが――あの大和守様を嫌っているお弟子たちのあいだでも」

 「うん」

 健嘉は満足そうに頷いた。

 「よし。また何かあったら知らせてくれ」

 「はい」

 弦三郎はそう言って深々と頭を下げ、
「では失礼いたします」
と立ち上がる。

 「ははぁん」

 式部大夫がうれしそうな声を立てた。目を細め、立ち上がった弦三郎を、下から疑り深そうに見上げる。

 「きみはやっぱりうそをついているね、わたしに」

 弦三郎が強く胸を打たれたように感じたのは言うまでもない。

 「はい?」

 「そうだ」

 弦三郎のうわずった返事に小森式部は、うれしそうに、そして粘っこい声で迫る。

 「やっぱりうそをついている。その態度を見ればわかるよ」

 「いったい何のことでしょう?」

 当四郎から徳政の話が伝わっているのは聞いている。そのとき、当四郎から、その徳政に乗じて柿原大和守が一儲けをたくらんでいるという話も聞いた。小森式部から話を伝えられるよりも早く市場には噂が出回る。

 でもそこまで説明する義理はないと思った。

 「女だよ」

 弦三郎の思いをよそに式部大夫はうれしそうに言った。

 「きみはその小物屋の娘といまもつき合っている。そして、いまその小物屋の娘を待たせてるんだ」

 「はい?」

 弦三郎は何の話をされているのかまだわかっていない。

 「いや、いいことだよ。きみぐらいの歳の男なら女のことが気になってしかたなくてもあたりまえだ。それに、市場の娘といい仲になれば、それだけ市場の事情もよく(つか)めるだろう。だからがんばりなさいと言っておくよ。はっはっは」

 「はい……失礼いたします」

 そう言い捨てるようにして、弦三郎は健嘉の部屋の庭を後にした。

 日はまだ高い。でも急がなければおさとを待たせることになってしまう。

 弦三郎は控え部屋のほうに曲がりそうになって、慌てて引き返し、控え部屋の裏を回って門へと抜ける。それで回り道になってしまった。

 「ちぇっ!」

 弦三郎は舌を打つと、世親寺の山のほうへと早足で歩き出した。

 「何もわかってないのに、何を言ってるんだ」


 「世親寺行くなら、早瀬川(はやせがわ)まで行かずにこのまま西に行ったほうが近いよ。連珠川(れんじゅがわ)沿いにずっと行くと市場町のはずれで早瀬川に合わさるから」

 駒鳥屋の前であざみがさとに教えている。

 「連珠川って?」

 「橋を落として美那ちゃんをはめた川」

 「あっ、そうか」

 さとは言って笑った。あざみが心配そうに
「わかる? いっしょに行こうか?」

 「ううん、だいじょうぶだよ」

 さとはえくぼを作って首を振った。

 「まだ夕方までだいぶあるから、そんなに急がなくていいし」

 「そうだね」

 「それじゃ行ってくる」

 さとは口を開いて皓い歯を見せ、軽く頷いた。

 「うん」

 「お美那ちゃんに遠慮することないんだからね!」

 みやは美那がさとの恋敵だと思いこんでいるらしい。

 「うん」

 さとはうれしそうに言うと、折り目のついた小袖の袖を翻し、手を胸の前に組むようにして小走りに出て行った。

 市場にそんなに人出はなかったけれど、鮮やかな色の柳の枝とまばらに歩く人たちのあいだに、あまり背が高くないさとの姿は見えなくなった。

 「さ、わたしも帰ろ」

 さとを見送って顔を合わせたあざみにみやが言う。

 「おじいさんの昼寝のあいだに抜け出して来たんだけど、そろそろ目覚ますころだから」

 「へえ」

 あざみがふしぎそうに声を立てる。

 「あんたのとこのおじいさん、こんな頃まで寝てるんだ?」

 「仕事するのたいてい夜だからね」

 みやは平気で言った。

 「昼に鉄を溶かすと昼の気がこもって鉄が落ち着かないから嫌いなんだって」

 「そういうもの?」

 「うん。それじゃ」

 みやはぽっちゃりと肥えた(からだ)を揺すって花御門(はなみかど)小路へと小走りに去って行った。

 「おんなじ歩きかたなのに、さととみやでずいぶん違うな」

 あざみは一人で言うと、首を振って左右を見て、自分の店の戸口をくぐって戻って行った。

 花御門小路を何か愉しそうに飛び跳ねて小走りに来たみやは、あざみの店から離れると跳ねるのをやめて普通の歩きに戻り、ふっと息をついた。

 そのまま顔を上げて、早足で小路を歩いていく。

 小路の左側が空き地になっている。昼間にここに(むしろ)や板囲いを広げてものを売っていた商売人たちが店をしまおうとしていた。夜は芸人が来て芸を見せたり、博奕(ばくち)打ちが博奕を打ったり、その連中に酒や食い物を売る連中が出てくる。その者どもの入れ替わりの時間だ。

 その空き地の隅に笹が茂り、ひょろっと高い(かや)の木が立っている。その笹のなかに花御門の小社がある。

 この小社の横の小道を入ると、あの池原弦三郎が住んでいる小屋がある。

 女の姿が目を引いた。

 その娘は上等の着物を着ていた。さっきのおさとの着ていたのとは違う。着古した麻の小袖を洗って、皺にならないように干したというのとは違って、真綿(まわた)の着物を着ている。しかも少しもよごれたところがない。

 それも目を引くのだけれど、なおさら目を引くのは、その娘がどうにもそういう姿をし馴れていないようだからだ。

 しかも市場町を歩き慣れているようにも見えない。きょろきょろと榧の木を見上げたと思うと、広場のほうに顔を上げ、広場のなかにふらふらと入って行く。

 広場にはそろそろ得体の知れない者どもが入って来はじめている。娘はそのなかで猿を連れている芸人に近づき、何か話しかける。でも、猿芸人は何かの仕掛けを用意しているところだったらしく、娘に猿の鼻の頭をつつかせ、二言三言交わしただけで娘を追い返してしまった。娘はおもしろくなさそうにふらふらして、こんどは店をしまいかけている飾り物屋に近づく。金物の(かんざし)を売っている店だ。

 娘は紅色の小さい珠のついた簪にふいっと手を伸ばした。

 「きれいですね」

 店の親父は、迷惑そうな顔をしたけれど、寄ってきた娘の顔と身なりを見て、機嫌を直した。

 「ああこれかぃ?」

 「ええ」

 「きれいだろう?」

 「はい」

 娘は目を輝かせている。

 あんないい身なりをしていて、こんな簪が珍しいのかとみやは思って見ている。

 「これはな」

 親父はにっこり笑ってつづけた。

 「琉球(りゅうきゅう)渡りの品でな、琉球の王がお妃のために作ってやったんだが、お妃が亡くなったっていうんで流れてきた品だ。五十両……ってとこでどうだ?」

 「五十両……は持ってないんだけど」

 ふつう五十両も持ち歩いている娘っ子が市場を歩いてはいない。娘はそれでも愛おしそうにその「琉球渡り」の簪をじろじろ眺めている。親父は笑った。

 「冗談だよ。まあそんな品だから、ちょっと高いが五十文、でも嬢ちゃんはその簪をほんとうにたいせつにしてくれるんだったら四十五(しじゅうご)文でどうだ」

 「え? そんなに安くていいの?」

 「もちろんだよ」

 「でも琉球渡りなんでしょう?」

 「そんな由来のものだから、もうだいぶ古くなってしまったからな」

 「でも古いほうがお値打ちが出るんでしょう?」

 「ものによるんでね。それは四十五文でいいよ。なんだったら四十(しじゅう)文でもいい」

 「ほんとにっ!」

 親父は笑っている。娘は懐に手を入れた。巾着(きんちゃく)を取り出そうとしているのだろう。

 出て行く頃合いだとみやは思う。

 「ちょっと木玉(きだま)造りの四助(しすけ)の旦那、四十文は高いんじゃないの?」

 店の親父は(まゆ)をひそめ、少し時間をおいて声をかけた相手を見上げた。

 だが、そのいかめしい顔がそのまま止まり、そしてぽっと唇が開く。

 「あんた爺さんとこのじゃないか。こんな時間まで外をほっつき歩いてていいのか?」

 「今日は友だちのだいじな日なの」

 みやはことばを強めて言う。

 「友だちっていうのは、あの宿の娘や金貸しの店の娘のことか」

 「そう」

 「あいつらにあんまり近づかんほうがいいぞ」

 親父は目を伏せたりみやのほうを見たりを半々に繰り返しながら言った。

 「やつらには何か得体の知れないところがある」

 「あ、わたしってそういうの気にしないから」

 みやはさばさばと言った。

 「それよりさぁ、そういういいかげんな商売してるとうちの品卸してもらえなくなるよ。うちのおじいさん、そういうのすごくいやがるんだからさ。松の珠にいいかげんに紅塗って鉄の針金に糊でくっつけただけの品が、なんで四十文もするの?」

 みやの声は大きいのでそのあたりに聞こえる。まわりの商売人は気にしていないふりをしているが、聞こえているには違いがない。

 親父――木玉造りの四助――は苦い顔で答えない。

 「え、でも、これって琉球の品だから」

 話からのけ者にされていた娘が割って入る。みやは笑って首を振った。

 「こんな粗末なもの、琉球の王さまが使ったりするものですか」

 「粗末なって?」

 「だってほらぁ……(ひび)入ってるじゃない? 罅に木屑(きくず)詰めて糊で固めてごまかしたつもりだろうけど、ほら見て」

 みやは四助に品物を差し出した。

 「紅が乗ってないからさ、はっきり見えちゃうんだよ」

 「そこまで言うことはなかろう?」

 木玉造りの四助は拗ねた声を出す。みやは声を励ました。

 「五文で売れりゃいいと思ってるものに四十五文もつけようとするからでしょ?」

 「あの」

 簪を買おうとしていた娘がもういちど割って入った。

 「つまりどういうことなんです?」

 「あ、かんたんに言うとね」

 みやが背を伸ばし、簪を四助に返して言った。

 「その簪は琉球渡りでもなんでもなくて、この木玉造りの四助が自分で作ったものなの。それもたいして手間もかけないで。昨日あたり寝るまえに自分のうちでちゃちゃっと作ったんでしょ?」

 「おとといだ」

 四助は苦い声で言う。

 「だからこんなの五文も払う値打ちないよ」

 「うそだったんですね」

 娘のことばにみやは頷いた。

 「ま、そういうこと」

 「にせものだったんですね」

 娘が胸の深いところから出した声になったので、みやと四助は驚く。

 「せっかく、この簪を貰った琉球のお妃様ってきれいなひとなんだろうな、って思ってたのに。そんなきれいなお妃様が亡くなって、どんなふうにお亡くなりになったんだろうとか、それからお妃様の手を離れた簪をどんなひとがどんなふうにこの国まで運んできたんだろうとか、そんなことを考えて、ほんとにきれいだなぁって思ってたのに……うそだったんですね?」

 言って目に涙を溜め、こわい顔で口を結んでいる。

 みやもとまどった。

 「ははっ……じゃあこれ、わたしが二文で買っとくわ。そんなとこでいいでしょ?」

 「おいいくらなんでも二文ってなぁ」

 「いいじゃないのよ。二文あれば晩ご飯に蕎麦ふかして掻きこむぐらいの足しにはなるでしょ」

 「五文は出せよ」

 「早くしないと、この子、泣いちゃうよ? そしたら木玉造りの四助が若い娘を泣かしたって評判になるよ? いいの?」

 「ええいっ、三文でいいからさっさと行け!」

 「はいどうも」

 みやは三文の(びた)銭を四助に手渡すと、真綿の着物を着た娘の肩を抱いて歩き出した。

 「おい」

 後ろから四助が声をかけた。

 「市場で長く暮らしたいんだったら、得体の知れない宿の娘なんかとつき合うんじゃないぞ。あと爺さんにはにせ銭づくりもほどほどにしとけって言っとけ」

 みやは振り返りもせず、右手を斜め上に上げて振って四助爺さんに答えた。

 左手で抱いている娘の肩が震えているのが気になる。そのときになって、みやは花御門小路をもとのほうに戻っているのに気づいた。

 「ま、いいか」

 みやはもういちど駒鳥屋へ向かった。

― つづく ―