夢の城

清瀬 六朗


町に集う人びと(一)

― 上 ―

 池原弦三郎(げんざぶろう)は、一間しかない家の上がり(がまち)に腰を下ろして、ぼんやりと戸口のほうに目を向けている。

 ここは従弟の野嶋(のじま)当四郎(とうしろう)の家だ。いつ崩れるかわからない粗末な家だ。柱も壁も黒ずみ、壁ははがれ落ち、屋根の板ははがれていて空が見える。昼がさわがしいのは市場のなかだからしかたがないが、夜も酒を飲んだり博奕を打ったり男と女で抱き合ったりする者たちが家のすぐ近くにいてうるさい。眠りについてから夜が明けるまでに三度や四度は必ず起こされる。

 そのうちの一度は家の主であるはずの当四郎が帰ってくる音だ。当四郎は一人で帰ってくることもあるが、仲間を連れて帰ってくることもある。仲間といっしょに来たときには、弦三郎の寝ている横で灯をつけていっしょに酒を飲んだり、何か小さい箱を使った博奕(ばくち)をやったりする。

 弦三郎は知らぬふりで寝ているしかない。ここでは弦三郎のほうが客なのだし、当四郎も、いっしょに来た仲間が大声を出したりすると、
「兄貴が寝てるから静かにしてくれ」
などとまともな声で注意してくれる。小声だから気にならないと言うことはないけれど、それでがまんする。それに、ここしばらく、帰ってくる時間が遅くなったかわりに、仲間を連れてくることもなくなった。ほかの仲間の家で飲んだり遊んだりしているのだろうか。

 それで、朝は弦三郎が起き出すまえにいなくなるのだから、この当四郎という男はいつ寝ているのかよくわからない。

 「それにしても」

 一人取り残された昼間の家で、弦三郎はつぶやいた。

 「いったい何なんだ、あの娘は」

 丸い顔で眼は細い。唇を開くと糸切り歯が目立つ。顔色が白いので白粉でも塗っているのかと思ったら、それで素顔なんだそうだ。

 向こうから勝手に腕を組んできたときの上腕の柔らかい感じが胸の横あたりにいまも残る。肉づきがよい体ではないと思ったのに、どうしてこんなに柔らかく感じたのだろう?

 それがわからない。だから何か居心地がよくない。

 弦三郎が女の(からだ)に触れたのはもちろん最初ではない。最近でも、あの馬の上から落ちてきた藤野の美那を抱きとめている。けれども、こんな肌の触れたときの感じがいつまでも残るのはこんどの娘が初めてだった。

 もっとも、藤野の美那のときには、そんな感じを感じる間もなく横面を殴られたのだけれど。

 「こんどのことだって」

 弦三郎は()ねたようにつぶやいた。

 「あいつが言うから……」

 だが、「あいつ」が言えばどうしてきかなければいけなかったのだろう?

 弦三郎はひとつため息をつくと、脇に置いていた木刀を手にとった。

 「あの娘」とは、今日の夕刻、世親寺(せいしんじ)で会う約束をしていた。これから浅梨(あさり)左兵衛尉(さひょうえのじょう)の屋敷に行って、そのあと、世親寺に行くつもりだ。

 「おい、野嶋の兄さん」

 立ち上がろうと顔を上げたところに声をかけてきたのは、勘六(かんろく)という名まえの男だ。

 勘六は定まった家がなく、社の裏にだれもいないときにはそこで寝泊まりしているらしい。そこにだれか寝ていると、このあたりのどこか空いているところで寝るという。人を押しのけて寝場所を作ることがどうしてもできないらしいのだ。この家の床下に泊めてやったことも何度もある。

 「野嶋の兄さん、いないの?」

 背が低く肌の色も錆びたような色で、色気とは無縁の男だけれど、声が高く、しゃべり方も少し女のようなところがある。

 「何だ?」

 弦三郎は立ち上がるのをやめて返事した。

 「何だ、いるんじゃないの」

 「ああ」

 勘六が不服そうに言ったので、弦三郎は立ち上がった。

 「いや、悪い。ちょっと考えごとをしていた」

 返事が遅れたのは、ほんとうは「野嶋の兄さん」という呼び名がまだ慣れないからだ。当四郎が弦三郎を「兄貴」と呼ぶものだから、このあたりの者たちは弦三郎を「野嶋の兄さん」と呼べばいいと思っているらしい。それに慣れない。

 「考えごとって、懸想(けそう)している女のこと?」

 「ばか言うなよ」

 池原弦三郎は勘六にそう答えてから、女のことには違いなかったと気づいてふと苦い顔になった。それを隠すように
「で、何だ?」
と慌てて聞きかえす。

 「大松(おおまつ)十四郎(じゅうしろう)ってお侍が訪ねてきてるよ」

 「大松?」

 「うん」
と勘六は軽く頷いてから、
「外の(やしろ)のところで待ってる。ここまで入ってくるのはいやだって」

 言って、勘六はにっと笑って見せた。

 何の用かなんて勘六に聞いてもわかっていないだろう。弦三郎も気弱そうに勘六に笑いかえすと、木刀を置き、かわりに太刀を挿して外に出た。

 大松十四郎は小森式部大夫(しきぶだゆう)の家に寄食している若侍だ。小森式部の遣いで来たのだろう。今日は式部の屋敷には行かないつもりでいた。でも、呼ばれたとなるとしかたがない。

 それに、浅梨左兵衛尉の屋敷に行ったって、今日は……。

 弦三郎は目だけで空を見上げて息をついた。

 昨日の夜から今朝あたりまで晴れていた空はまた薄曇りになり始めている。


 駒鳥屋のあざみは自分の店の入り口に腰を下ろしていた。

 店は今日はひっそりしている。藍染めの仕事は終わり、町の人たちが日に何度か布を買いに来るのを待つだけだからだ。

 いつもと何か変わっているわけではない。けれども、やっぱり、退屈で何かぼんやりと心配な感じがする。

 その理由だってわかっている。

 「美那ちゃん、だいじょうぶかな……」

 だいじょうぶかな、といっても、美那は武芸は人並み以上だし、土地や水が少し変わったからって病気になるような娘とも思えない。もう一人、浅梨左兵衛様の一番弟子もいっしょだというし、銭勘定のことについてはおさわちゃんがついている。

 では何が危ないのだろう?

 あざみは小さく首を振り、目を伏せてふっと息をついた。

 あの美那ちゃんのことをどれだけわかっているのだろう? 何年か前に隣の家に貰われてきて、それからずっといっしょにいる。いつも隣の家にいて、いっしょに話したりいっしょに遊びに出かけたりしている。

 でも、それだけだ。

 「あんがい、美那ちゃんのことって知らないな」

 そう思っているのに、口に出すのが怖い。

 そんな居心地の悪さを感じたことはあざみはこれまでなかったと思う。

 ふと人の気配がして、あざみは目を上げた。

 「あっ!」

 顔を綻ばせる。

 「ねぇ、きいてよあざみ! 」

 訪ねてきたのは怒り顔のみやと何か恥ずかしそうに小さくなっているさとだった。さとは、とくにめかしこんでいるわけではないが、いつもより小ぎれいな着物を着ている。みやはそのさとの着物の背中をぎゅっと握って逃げられないようにしている。でもさとも逃げるつもりはないらしい。

 「おさとったらわたしたちを裏切ってたのよ……」

 店の軒の下でみやが無遠慮に大きな声を立てる。

 「裏切ったなんてまたぁ大げさなことを」

 あざみがなだめるように言う。

 「そんなこと言ってもね!」

 「まあ上がって」

 あざみはわめきつづけるみやの袖を無理やり引っぱって店の奥に引っぱり入れた。店のまえで大声を立てられたら、どこからともなく人が集まってきて大騒ぎになる。市場というのはそういうところだ。

 あざみは店を抜け、二人の娘を奥の自分の部屋に連れて行った。あざみは、家の主人らしくみやとさとに座る場所を指し示し、二人がそこに腰を下ろしたのを見届けてから、切り出した。

 「で、おさとちゃんが裏切ったってどういうこと?」

 「それはおさとからきいて」

 みやは、斜め上を向いて、ふん、ふんと体を振って見せ、無愛想な声で言った。

 「いや、あの、それは……」

 さとはうつむいて、ちらっとあざみとみやのほうを順番に見ながら小さい声で言う。

 「ふんっ」

 みやは威勢よく鼻を鳴らして、
「おさと、今日、弦三郎さんに会いに行くんだって」

 「あれ?」

 あざみが目をまたたかせる。

 「昨日会ったんじゃなかったっけ?」

 「ええっ?」

 みやが大げさに驚いた。さとはさらに小さい声で
「うん。昨日も会ったの。でも昨日は時間がなかったから……二言三言交わしただけ」

 で、
「今日、世親寺で会うの」
とあざみのほうにうかがうように顔を上げて言う。あざみはにっこり頷いた。

 「それはよかったね」

 「なに?」

 みやがあざみとさとを順番に見た。

 「あざみって知ってたの?」

 「うん」

 あざみは少しも悪びれない。

 「だって、わたしと美那ちゃんが話を取り次いだんだもん。いや、わたしは聞いてただけで、話を通してくれたのは美那ちゃんかな」

 「だって、ほら……」

 さとが首をすくめて話をつづけた。

 「おみやちゃん、昨日、お店にいなかったじゃない?」

 「じゃ、おさとちゃん、昨日、言いに来てくれたんだ?」

 「うん」

 「おさわは? おさわは知ってるの?」

 「さわちゃんはお美那ちゃんから聞いて知ってると思う」

 あやしいものだとあざみは思う。

 「なぁんだ」

 みやはしらけた声で言った。

 「知らなかったのってわたしだけなんだ」

 「ごめんね」

 さとが首をすくめたまま小さい声で言った。この子のばあい、小さくしても曇らせても声がよく通る。

 「ううん」

 みやは肩を落とし、伸ばしていた背を少し丸め、ここまでわめいてきたのを償うように優しくさとに声をかけた。

 「昨日はうちのおじいさんといっしょに屋敷町に出てたからね」

 「うちのおじいさん」というのは鋳物屋の逸斎(いっさい)という変わり者の老人のことだ。みやはこの家で逸斎じいさんの身のまわりの世話をしている。

 「で、今日、会ったら、なんか小ぎれいなかっこうしてるからさ、聞いてみたら世親寺に行くって言うから、何しに行くのって聞いたら弦三郎さんに会いに行くって。これはあざみにもおさわちゃんにも黙って行くんだって思って。いや、あんまり急だったもんだからね」

 「でもさ」

 あざみが少し首を傾げた。

 「どうして世親寺なんて辺鄙(へんぴ)なところで会うわけ?」

 「え?」

 さとは口を軽く結び、あざみの顔を見上げる。

 「なんで辺鄙なの? 世親寺って春野家のお寺なんでしょ?」

 「それはそうだけど……昨日、美那ちゃんも言ってたでしょ? あの越後守(えちごのかみ)定範(さだのり)って殿様、自分の家のお寺をぜんぜんたいせつにしてないんだから。だからいまは荒れ寺とおんなじようなもんだって」

 「ふぅん」

 さとはあまり気にしているようでもなく、そう答えただけだ。

 「そんな遠いところに呼び出して弦三郎さんに嫌われても知らないよ。街中のどこかに変えなよ」

 みやが勧める。さとは小さく首を振った。なんだかしぐさがお上品だ。

 「弦三郎さんは世親寺でいいって言ってくださったし、それでお会いくださらないようだったら、まあ、それもしかたないかな、って」

 「なに言ってるの!」

 みやが叱るように強く言う。

 「遠慮することないのよ。わたしだっておさわだってあざみちゃんだって、みんなおさとちゃんが弦三郎さんがいちばん好きだってちゃんと知ってるんだから」

 みやは、どうやら、さとが弦三郎と会う場所を世親寺にしたのは、ほかに弦三郎に懸想している仲間に遠慮したからだと考えたらしい。

 「じゃ、お美那ちゃんは?」

 さとが言って笑い声を漏らす。


 弦三郎の姿を見ると、部屋にいた十人ほどの若い侍たちは一様に顔を上げた。それで軽く会釈する者もおり、最初から目をそらしてしまう者もいる。声を立ててあいさつする者は一人もいない。

 そのなかで弦三郎の顔も見なかったのが木村大炊助(おおいのすけ)範利(のりとし)という男だった。いちばん上に座を占めていて、長身の背をぴんと伸ばし、右にも左にも崩れないきれいな姿勢で座って何かの冊子を読んでいる。着ているものも絹で、部屋の他の者たちよりは二段も三段も格が上のように見えた。一人で他の三人分くらいの場所をとっている。

 弦三郎は、大松十四郎が座った斜め後ろに、太刀を外して藁座を敷かずに腰を下ろした。それを待っていたように
「今日は珍しいひとが来たな」
と言ったのは木村範利だった。大松十四郎を含めてまわりの者たちは顔を上げ、慌てて何もなかったようなふりをする。

 弦三郎は黙っていた。

 「評定衆のご子息でも名高い池原宗高(むねたか)殿のご子息ともなると、われらのような身分の低い家の子弟とは顔も合わせたくないと見えるな」

 範利はそう言ってはじめて弦三郎をにらみつける。弦三郎は、斜めに顔を向けてその範利をにらみ返した。

 「……」

 範利はつづけて言おうとしていたことばを呑みこみ、二、三の咳払いをするとうつむいてまた書見に戻ってしまった。

 「式部大夫様のご都合を伺ってきましょうか」

 大松十四郎が小声で弦三郎に言い、腰を浮かした。弦三郎は首を振った。

 「いま行って待てと言われたところだ。もう少しここで待とう」

 「はぃ」

 十四郎の返事に、部屋の者たちの何人かがため息を漏らす。弦三郎はそれを聞いて自分も機嫌悪そうにため息を漏らすと、体を向け直し、庭のほうに目をやった。

 その斜め後ろで大松十四郎が同じように座りなおした気配がする。十四郎はそして
「へへっ」
と小さい笑い声を漏らした。

 弦三郎の背後で、部屋にいた者たちがその十四郎のほうに顔を上げた。ただし範利は何もなかったように冊子を読みつづけている。

 「こんな話、知ってるか?」

 十四郎は、さっき弦三郎に伺いを立てたときとはぜんぜん違う、低い、どことなく艶のある声で切り出した。

 「なんだよ」

 その場にいた若い武士の一人がうるさそうな声で応える。十四郎はもういちど「へへっ」と低い声で笑ってから、つづけた。

 「大和入道が自分の寺を持ちたいって、殿様に話を持っていったそうな」

 「自分の寺?」

 べつの若い武士が言い返した。

 「それはいったい何だ?」

 「だからさ、やつ自身の寺だよ」

 「だって、あの大和入道って、入道って言ってもほんものの坊主じゃないんだろう? その、頭が坊主みたいだっていうだけで」

 ひそめた笑い声がいくつも起こる。

 「知るものかって」

 十四郎の声は低いままだったが、少しずつ張りが出てきた。

 「ともかく、自分の寺をこしらえて、自分が寺のいちばん偉いさんに収まって、で、そこを殿様のお家の菩提(ぼだい)寺にしたいんだ」

 「だって殿様のお寺は世親寺だろう?」

 奥のほうにいた者が言う。十四郎はまた「へっ」と短く笑う。

 「殿様は世親寺がお嫌いなんだ。遠いし、山を登らなければいけない。いつ行っても人気はないし、寺のくせに化け物でも出そうな場所なんだろう、おれは行ったことがないから知らないけど」

 いつ行っても人気もなく、化け物でも出そうな寺……か。

 しかも、子どものころからこの玉井の町にいた十四郎という若い侍が一度も行ったことのない場所なんだ。

 弦三郎は話をきいてぼんやりそんなことを思う。

 「それにあの寺の智誠(ちせい)って和尚がいろいろうるさいらしい。大和入道はそんな殿様の気もちを知ってるもんだから、もっと近いところに寺を造らせて、そこを自分の寺にして、殿様に拝ませるつもりらしい」

 「近いところってどこだ?」

 「うん」

 十四郎は少しもったいをつけて返事を遅らせた。

 「中原村だ」

 「中原村?」

 「中原村っていえば……そうか。城館から巣山への街道筋に出て、すぐのところだな」

 「そうだ」

 十四郎は同輩のその返事に満足したらしい。

 「ほら、このまえ、殿様に働きかけて、あそこの名主とかいうぼんくらな子どもの元服(げんぷく)に殿様をつき合わせただろう? それで恩を売って中原村の土地をあとで召し上げるつもりだ」

 「だって……村人が住んでるんだろう? 追い出すのか? それとも寺男か何かにして召し抱えるつもりか?」

 「村人の都合なんか考えるもんか、あの大和入道が」

 十四郎がうんざりしたような声を装ってつづける。

 「名主は町にちっぽけな屋敷でもあてがっておけばそれで大喜びだろうし、それに、村人連中だってあんな半分以上が山みたいな村にこだわる気もなかろうって」

 「それもそうか」

 小森屋敷の控え部屋にたむろしている若い武士どうしの話はつづく。

 「あの中原の名主の元服っていうのにつき合ったけどな、おれ」

 少し離れたところに座っていた武士が嬉しそうに言う。

 「ほんとに子どもっぽい子どもだったな。言われたとおりの所作ができないぐらいはまだいいとして、じっと待ってることができなくて歩き回る、烏帽子(えぼし)をかぶせてもらうのに、大あくびをして、殿様が烏帽子を載せるのに困ってたんだぞ。しかも親が見ていて叱りもせず、親本人がはんぶん横になって寝そべりかけてる」

 「そんなやつの子どもに殿様の範の一字を下げ渡したんだ?」

 「そうさ。殿様の名まえも安くなったもんだ」

 言った侍がふと息を飲んで口を噤む。まわりの者も息を飲んでそのまま息を止める。

 その座にいるいちばん気ぐらいの高そうな若者が同じように殿様から「範」の一字を許されていることに、やっと気づいたからだ。

 だが、当の大炊助範利は何の声も立てなかった。顔を上げてすらいないだろう。

 「だが世親寺はあれで本家の末寺だよ」

 向こうのほうから少し大人びた感じの声の者が言った。

 「世親寺のほかに玉井春野家の菩提寺を作ったりしたら、本家が許さないだろう」

 「だからって本家に殿様から玉井三郡を召し上げる力はないよ。それに、あの入道のことだ、本家に銭米をさし上げて本家の許しを取るなんてことをやるかも知れない」

 「あんなにせ坊主の言うことを本家が聞くかぁ? だって南都でも一、二を争う大きい寺なんだろう?」

 「銭さえ出せば言うことぐらいきくさ」

 ほかの侍が言った。

 「だいたい本家だ本所だっていうのがもう古いんだ。じっさい、本家に年貢を上げない土地なんかいくらでも出てきてる。あちこちで年貢を地元で差し押さえされて困ってるって話じゃないか。そんなところでただで銭を出してくれるところがあれば、それは言うこときくだろうって」

 「まあこの玉井三郡そのものが昔は年貢を上げなかった土地だったんだからな。それで春野家に年貢が入らなくなって、本家に年貢をきちんと送るって条件で殿様のじいさんが京から下ってきたわけだろう」

 ふふふんという笑い声だか感心した声だかが広がった。

 弦三郎はわざと息を詰めてからしずかに吐き、軽く目を閉じた。

 しばらくだれもことばをつづけない。

 「ところでだれか菅平(すがだいら)丸のことは知っているか?」

 よく通る美しい声で言ったのは木村大炊助範利だ。「知っているか?」というのを、もの問いたげに上げるのでも、決めつけるように下げるのでもなく、最後まで平坦に言うのがこの男の癖だ。

 弦三郎はその声を聞いてほっとした。なぜそう感じたかはわからない。

 答えられる者はいない。範利は平坦な声のままつづける。

 「あの柿原忠佑(ただすけ)がわざわざ伊予(いよ)から借り受けたんだそうだ。大きい船だ。ここらで見かける普通の船の倍はある。しかも、港に入れないで、港代官の屋敷に繋いでいる」

 みんな感心して聞いているだけで、何も言わない。

 弦三郎も聞かないふりをしていた。というより、あまりまともに聞いてはいなかった。でも、だれも何も言わないので、弦三郎は何気ないように装って言った。

 「港の名主の桧山(ひやま)様に知られたくないことが何かあると、そういうわけだ」

 殺風景な庭を見るのはやめて部屋のなかのほうに顔を向けるが、範利のほうまでは見ない。

 「そうだ」

 範利が頷いたのを目の端と声で感じる。

 「それに、町の銭貸しが慌てて貸し銭の取り立てを始めたって話もある。しかも、銭貸し連中は牧野にまで取り立ての使者を送ったという」

 そういえば銭貸しの店の若い者が浅梨屋敷にいたな、と弦三郎は思い起こしている。

 「牧野は市場の連中にとっていちばん思い入れのある土地だ。あの乱のとき、市場の連中は牧野勢が勝つのを祈ってたっていうぐらいだ。しかも牧野は借り銭を払えるような土地ではない。どうして市場の連中はそんなに慌てるのか」

 部屋はしずまっている。みんな感心して範利のことばを聞いているのだ。

 範利がはっきりと弦三郎に目をやったのに気づいて、弦三郎も範利にはっきりと顔を向けた。

 「おれにもわからないな」

 ただし、座りなおしたわけではないから、後ろ向きに見返すようなかっこうで話すことになる。長くしゃべると喉が苦しい。

 「それがその柿原大和守が船を借り受けたのと何か関係がある。そういうことだな」

 「そうだ」

 範利は軽くばかにしたように応えた。だが、やっぱり、これまでの平坦なしゃべりとは調子が違っている。

 「町の銭貸しが慌てているのは徳政を恐れているからだ。だが、徳政があれば、町の銭貸しだけではなく、柿原も損をする」

 「……だから大和入道は徳政に反対していると、式部様から聞いたぞ」

 若い侍の一人が気後れがちに言った。

 「そうだ」

 範利がさっきより平らに言う。

 「だがそれは表向きのことだ。柿原は、この徳政で町の銭屋を干上がらせて屋敷町の仕事から追い出して、かわりに自分が町でも銭の貸し主に収まるつもりだ。いまは屋敷町では町の銭屋が幅をきかせていて、柿原には入りこむ隙がないからな」

 「でも、徳政で干上がるのは大和入道も同じだろう?」

 だれかがきく。範利は何か言おうとして、弦三郎に目を留めた。

 弦三郎は、範利の顔を見返して小さく首を振る。範利の顔にはじめて見てそれとわかる笑いが浮かんだ。

 「そこでその菅平丸だ。柿原忠佑は、集められるだけ銭を返させて、その銭を船に積む。そして、その銭米を、三郡の外の、たぶん兵庫の港あたりに預けてしまう。それでほとぼりがさめたころに取り返す。いや、あの柿原のことだ。その銭米をぜんぶ本家にさし上げて本家からその新寺を開く許しを取りつけるつもりかも知れぬ」

 ほう、とその場にいた者たちがため息を漏らして感心する。

 弦三郎も感心して見せねばなるまいと思った。それに、じっさい、感心してはいた。

 「あのひとの考えそうな、強引で(ずる)いやり口だな」

 弦三郎が言うと、範利は「そうだ」とも言わないで、満足げに大きく頷いた。

― つづく ―