みやは真綿の着物の娘を藤野屋――美那が暮らしている葛餅屋だ――に連れて来た。
美那の養親の薫に頼んで蜜のいっぱいかかった葛餅を出してもらう。そして、娘とその葛餅の皿をはさんで、右にあざみが座り、左にみやが大きく座った。
何があったかはみやがあざみに説明した。
「……というわけでさ、この子って
「それでこんななんだねぇ……」
あざみも半ばあきれたふうにしながら、ため息を深くついて答えた。
娘はみやがあざみに話をしているあいだ、ずっと泣きつづけている。
「わたしって、いつもこうなんです」
みやの話が終わったところで、娘は小さい声で言った。言ってそのまままた声を詰まらせる。
もらった葛餅にも娘は手をつけない。みやが大口を開けて蜜つきの葛餅を一口でほおばった。あざみがそのみやを見て軽くにらみつけ、娘に尋ねた。
「いつもこう、って、どういうこと?」
「いつもこうなんです」
くん、くんと鼻を鳴らして、娘は斜めに顔を上げ、あざみの顔を見上げた。
二重まぶたのはっきりした、頬の豊かな、でも面長の娘だった。白粉と紅を塗っているのだろうけれど、もとから美しい顔立ちらしい。
「あ、えっと?」
娘はあざみの顔を見て目を見開いた。あざみはわざとではなく笑顔をつくって答えた。
「わたし? わたしは駒鳥屋のあざみ。ここの隣の織物屋の娘なんだ。で、あんたをここに連れてきてくれたのはそっちの鋳物屋のみや」
娘がみやのほうにすばやく首を向けたとき、みやは口のなかで葛餅を崩して溶かして呑みこむのに懸命だったので、こもった声で
「あ、ああ」
としか言えない。あわてて呑みこんでから
「あ、ここの葛餅おいしいから一つどう? 一つでも二つでも。喉に引っかかる感じが少しもしなくて、冷たい感じですっと呑みこめて、いいよ」
「あ、ありがとうございます」
娘は言われたとおり葛餅を一つ木の
「あ、いや、そうじゃなくてね、先に皿の下のほうにたまった蜜をすくって上からかけて食べるとおいしいのよ」
言ってみやは娘の葛餅に蜜をすくってやる。二度も三度もすくっては、なるべくこぼれないように娘の葛餅に注ぎかける。
「みやちゃんのはかけすぎなんだよ」
横合いからあざみが言った。
「そんなにかけたらせっかくの葛餅の味がわからなくなっちゃうじゃないか」
「そう?」
みやが手を止めたので、娘は蜜がいっぱい載ってあちこちから滴っている葛餅を持ち上げ、自分の口のなかに押しこんだ。
「ん、おいしい!」
娘は口から蜜をこぼしながら言う。
「これ、おいしいですね!」
「だからおいしいって言ったじゃない! ぜんぶ食べていいよ」
「ほんとですか?」
「ほんと。足りなかったらいくらでも持ってきてもらえる。あざみが店のおかみさんと知り合いだから」
あざみは何も言わなかった。
そこで娘は言われたとおり葛餅をぜんぶ食べた――皿に載っていた蜜をぜんぶかけて。
「ああ、おいしい」
娘は涙の珠を目の縁に溜めていた。さっきの涙が残っているのか、いま食べた葛餅がおいしいので新たに涙を流したのかはよくわからない。
涙はみやが拭ってやる。
「これって何でできるんですか?」
娘がきく。あざみが
「葛餅っていうぐらいだから葛でできてるんでしょ?」
「くずって何ですか?」
「う〜ん、山に生えてるらしいんだけどよく知らない……」
「ええっ?」
みやが大げさに驚き声をあげる。
「あざみって知らないの? 葛が生えてるのって。だってどこの山にだって生えてるよ。ふっとい蔓でさ、こぉんな葉っぱで……」
「うん」
あざみは平気で頷いた。
「わたし、町育ちだから」
「ふぅん」
みやは頷いて、娘のほうに
「あんたってやっぱり知らない?」
「いえ。わたしはよく知ってますけど……こんなおいしいものになるとは知りませんでした」
「じゃ、山育ちなんだ」
「はい」
「町に出てきたの、はじめてなんだ」
「はい」
「だからああいうのにだまされるのよねぇ」
みやが娘から目を離して言った。
「あれはねぇ、
「四助さんって前に鍛冶屋にいたひとでしょう?」
あざみが口をはさむ。みやは首を振った。
「昔のことは知らないけど……よくうちの店に
「村回りって?」
匙で葛餅のあとに残った蜜をすくっていた娘が手を止めて顔を上げる。
「だから、自分で作った品を持ってあちこちの村で売って回るの」
「なんか自分の家の人のことで親方と揉めて、追い出されたんだよね。べつに悪い人じゃないんだけど……」
「悪いやつです」
娘が言って口をとがらす。
「だって、あれが、海のずっと向こうの琉球の王が、お妃様のために作って、そのお妃様が亡くなったから売られてきたんだって。海のずっと向こうで王様やお妃様がどんな暮らしをしてるか、いろいろあの簪を見て思ってみてたのに。ぜんぶうそだなんて、だまされたって思います」
「うーん」
あざみは首を傾げて軽くうなり声を立てた。
「でもそれで琉球って国がなくなるわけじゃないし、それに海を渡ってその琉球って国に行くことだってできるかも知れない。そしたらさ、自分でその琉球の王様とかお妃様とかに会いに行けるかも知れないよ。あの四助ってひとにだまされなければ、琉球の王様のことなんか考えもしなかったでしょ? いいじゃない、だまされたって」
娘はぽかんとしている。
「あんたったら……」
みやがあざみに言う。
「へんな慰めかたすんのねぇ」
「え?」
あざみは一つまばたきをした。
「へんかな?」
「だって琉球に行くことなんかふつう考えないでしょ」
「だって町には港があるんだし、港には琉球に行く船もあるかもしれないよ。
「だから考えることがへんって言ってるの。前はそんなことなかったのに」
「へんじゃないよ」
あざみが言い返す。
「美那ちゃんだっておんなじように言うと思う」
「じゃ、二人ともへんだ。そうじゃないかとは思ってたんだ」
「何よ、ひとをへんなひと扱いして」
あざみが
「あの――わたしは」
また話から置いていかれかけた娘が、葛餅を丸のみして慌てて言った。
「行けるなら琉球にでも行きたいと思うけど、でも」
で、うつむいて笑って見せる。
「いまはまだ行かなくていい。そう思えてきた。ありがとう。えっと……ごめんなさい、名まえ、きいたばっかりなのに」
娘は恥ずかしそうにうつむいた。
「気にすることないって」
みやはさばさばとして言った。
「名まえなんて聞いてもすぐ忘れるものさ。わたしが鋳物屋のみや。で、そっちが駒鳥屋のあざみちゃん。ほかにも、いまはいないけど、おさとちゃんとかおさわちゃんとか、あとここの店のお美那ちゃんとかから、そのうち紹介するね」
それから顔を上げて
「で、あんたは?」
「あっ、わたしっ?」
娘は顔を上げる。
「あっ、わたしってまだ名まえ言ってませんでした?」
「言ってない」
みやは即座に答えた。娘は肩をすくめて首を縮めて小さくなって、
「わたしは
娘は一人で頬を紅くして慌てている。
「そうじゃなかったんだ、そうだ、えっと、なんだっけな? そうだ、お松、松っていいます」
あざみとみやは不可思議そうに顔を見合わせる。娘は慌てて首を右左に振り、両方の娘の顔を見た。
「わたしって名まえ変えたばかりなんです」
「名まえ、変えたんだ?」
あざみがきく。娘は恥ずかしそうに頷いた。
「わたし、井澄村の出で、郷名主の
「ああ」
みやが頷いた。
「だったら巣山の西のほうね」
「そうなんです」
「それが、今の春になって、名主様が町にお出になって、で、名主様がわたしを気に入ってくださったらしくてご養女にって。それもずいぶん先の話ってお話だったのに、昨日、それも夜になってから急にお迎えが来て……今日、出てきたばっかりなんですよ」
「それはまたずいぶん慌ただしい話だねぇ」
みやが人ごとのように言う。またたぶんじっさい人ごとなのだ、みやにとっては。
「はい」
娘はさっきから縮めている首をさらにすくめた。
「でも」
みやがきく。
「だったら、こんなところ出歩いてていいの? いまごろお屋敷で探してるんじゃない?」
「はい」
娘――つくしだか松だかは嬉しそうに頷いた。
「お屋敷にごあいさつにはもう行きました。そしたら、奥様が、とっても親切なかたで、今日は一日町を見てきなさいって」
「それで町のなかできょろきょろしてたんだ」
みやは納得がいったようだ。
「よかったらまた遊びにおいで。ここの駒鳥屋に来たらだれかいるから」
「はい」
松は言って、元気に飛び上がるように立ち、二人の娘に見送られて花御門小路の人波に消えていった。
やっと空が夕方の空になってきている。
さとは、その門をくぐって右手にある塔の廊下に腰掛け、待った。
ほんとうに人気のない寺だった。さとが寺に来てからお坊さんと尼さんが一人ずつ通り過ぎただけで、さととことばを交わした相手は一人もいない。
さとはそれでも何も言わず、ときおり空を見上げたり、塔を見上げたりしながら待った。
党は三重で古びている。自分の頭の上に張り出した屋根の上をのぞいたり、屋根の下の黒ずんだ
日は西に傾いてきた。
まず寺の奥のほうが暗くなり、向かいの本堂にも日があたらなくなり、白木の山門の下のほうにも日が届かなくなった。それでもさわは同じところで顔色も変えないで待ちつづける。
白木の山門の上のほうにしか日が届かなくなって、ようやく
寺の中を探そうとするのだが、山門をくぐったところで西日が正面から照りつけ、目を細めて手の甲で顔を覆っている。
「弦三郎さん」
さとは塔の廊下からひょいと跳び下り、その弦三郎のほうに向いて声をかける。
「やっぱり来てくれたんだ」
「あ、ああ」
弦三郎は少し息が切れている。
「やっぱり待たせた? だいぶ?」
弦三郎とさとは歩み寄り、二人とも相手に向かって両方の手を体の前に挙げたので、二人は手を胸の前あたりで握り合わせることになった。
「ううん。わたしが少し早く着いただけ」
その姿だけ見れば、たがいに
ほんとうにそうなのかは、もしかすると、この二人自身にもわからなかったかも知れない。
「どこか行ってお話しする? 奥に池とかあるみたいだけど」
さとが言う。
「いや、ここでいい」
弦三郎はさとと組んだ手を放し、顔の汗を腕で拭った。
で、なぜかふっとさとに笑ってみせる。さとは、背は美那よりは高いけれどあざみほどはなく、もちろん弦三郎よりは低い。
「奥のほうに行くとここより早く暗くなってしまうから」
「うふぅん」
さとも笑った。
「じゃ、ここでこのまま話そうか」
「うん」
弦三郎は息を整え、そのあいだ、さとは待つ。
「まず言っておくけど、はぁ、いや、だめだな。これぐらい駆けたぐらいで息が切れるとは」
「駆けてきたんだ?」
「うん」
弦三郎は少し情けなさそうにさとの顔を見下ろす。
「どこから?」
「下屋敷町のはずれから。このままだと日が暮れてしまうって思って」
「そんなに走ったんだ?」
「いや、村にいたころはもっと険しい山道をもっと長く駆けても平気だった。やっぱり町に出てきて
「竹井の名主様だったよね?」
「ああ」
弦三郎はようやく居心地が悪そうな声を立てた。
「で、まず言っておくけど、って?」
「ああ」
さとに聞かれて、弦三郎は眉をひそめた。
「ああ」
もういちど言って間をおく。
「その、おれがここに来たからって、べつにあんたの……」
だが弦三郎はつづきを言わずに黙ってしまった。さとはしばらく待つ。
でも弦三郎は黙ったままだった。
さとは笑って、弦三郎の顔を見上げた。
「ね。何か話してよ」
「何かって?」
「たとえば、町に住んでどんな暮らししてるとか。だってわたしには武士のひとがどんな暮らししてるか、ぜんぜんわからないんだもん」
「わからないんだもん」という声は少し甘えを含んでいた。
「うん……」
弦三郎は少し答えを迷った。
「でも、そっちから先に言えよ」
で、しばらく待ってつけ加える。
「言い出したの、そっちが先なんだから」
「あぁ」
おさとは大きく息をついて、驚いたように言った。
「そういう考えかたもあるんだ。そう」
で、あの糸切り歯を見せて大きく笑う。
「それはそうか。わたしが言い出したんだもんね。じゃ、話すね」
さとは弦三郎の顔を見上げて目を細めて笑ってから、少し目をそらして話し始めた。
「わたしが宿屋にいるっていうのは知ってるよね」
「うん」
「何の仕事してるかは?」
「きいてない」
「お客さんの遊び相手やってるのよ。お客さんに声かけて宿に引きこむのとか」
「ああ、そうなんだ」
弦三郎がぎこちなく答えると、さとは鼻の上にくしゃっと皺を寄せて笑った。
「あと舞いを見せたりとかね。歌はうたってこのまえ下手だって怒られた。お酒の相手することとかあるけど、宿のおかみさんの話だとわたしはまだまだ下手なんだって。あと、お客さんといっしょに寝たりはまだしてない。でも、そのうちにすることになるのかな? 遊び女とか遊女とかいうのね、こういう仕事って」
言って、もういちど、人なつこそうに笑って見せる。
「だから昼はあんまり仕事がなくて、夕方からあとが仕事だから。だから昼はわりと好き勝手できるんだ」
「でも」
弦三郎が言って、笑っているおさとを見返した。
「なに?」
「疲れるんじゃない、夜の仕事って」
「まあ、それは、ね」
さとは言って、何を思ったか片足でくるんと回って見せた。たしかにそれだけ身が軽ければ舞いは巧そうだ。
「でもね、せっかく町に出てきたんだから、楽しまないとって思って」
「でも」
弦三郎は惑ったように言った。
「じゃ、どうして町に出てきたんだ? 遊び女になるために出てきたんじゃないだろう」
「うん、まあ、ね」
さとのことばがはじめて淀んだ。
「まあ、生まれた村では暮らせなくなったっていうね、近ごろではよくある理由」
言って、また笑顔に戻る。
「さ、わたしは言ったから、つぎは弦三郎さんの番」
こぼれるような豊かな声でさとは言い、弦三郎に詰め寄った。
「あ、うん」
二‐三歩後ろに退がってさとの体を避けながら、弦三郎は頷いた。
「おれは、町に出てきて……そうだな」
弦三郎はとまどう。
「おれの村の年貢や
「それはいろんなひとから聞いて知ってる」
おさとはすかさず言った。
「いろんなひとって?」
「あんたって、市場の娘とか、いや娘だけじゃなくて市場じゃいろんなひとに知られてるんだよ。若くて、それも一郷の名主ってたいしたおさむらいなのに市場なんか住んでて、まじめに自分の村のためにがんばってるりっぱなお方だって」
「住むところがないから市場に住んでるだけだよ」
弦三郎はさらにとまどった。
「それで、毎日、城館の殿様にお願いに行ってるんだ」
「いや」
弦三郎はこんどはすぐに首を振った。
「
「だって名主様なんでしょう?」
「近くに仕えている重臣や近臣のほかはめったにお会いにならないんだ、越後守様は」
「そうなんだ?」
「そうなんだよ」
「だったらわざわざ町に出てきた意味がないんじゃない?」
「そうだね」
弦三郎は口もとに笑いを浮かべた。
「ただ、小森
「小森様っていうと城館の偉い人だったね。評定衆だったかな?」
「そうなんだけどね」
弦三郎は
「何かあるの?」
「いや……」
弦三郎は顔をそむけようとした。でも、その動きは止めた。
「小森様がおれみたいな小さい郷の若い郷名主のためにがんばってくださっているのはありがたいって思うんだけど」
「役に立ってくださらない――そういうことね」
さとの言いようは驚くほど冷たかった。弦三郎も聞いて目を見開いた。それでしばらく唇をきつく閉ざす。
少し長く息を吐いた。
「今日だって小森様に呼び出されてなければあんたをこんなに待たせずにすんだ。小森様は、お屋敷に朝から晩まで住みこんでるような町住まいの若者がお好きらしい。その連中と仲よくしろとおっしゃる。おれなんか無骨な田舎侍の若者と思ってらっしゃるんだろう」
「それでいいじゃない」
さとはわざととわかるように首を傾げて見せた。
「いまも武芸の稽古を積んでるんでしょう、浅梨
「ああ」
弦三郎ははっきりしない返事をした。
「まあ、それは……」
「とても厳しいお稽古なんでしょう?」
「ああ、そうだね。最初は驚いたよ。でも、もっと励まないとっていま思ってる」
「うん」
さとはうれしそうに頷いた。それからはっと息を吐いた。
「さ、帰りましょうか」
「え? もう?」
弦三郎は驚いた。さとは目を細めて笑った。
「弦三郎さん、最初から何度も言おうとしてるじゃない。まず言っておくけど、おれがここに会いに来たからって、あんたとつき合うつもりがあるってことじゃないからな、って。言いたかったんでしょ?」
「あ、ああ」
弦三郎はあいまいな返事をした。さとはもういちど笑って見せる。
「ほんとはね、最初にあんたの姿を見かけたときにはほんとに
「そうだっけ?」
「でもあんたって気がついてくれなかった」
「それは、ごめん。考えごとしてたんだ、たぶん」
「そうだと思ったよ」
さとは肩を張って白木のままの門のほうに歩き出している。
「そのとき思った、わたし。このひと、噂どおりに、ほんとに村のこと心配してるんだなって。村のことを心配してるって言って、ほんとは町に遊びに来てるんじゃないんだなって」
「それはそうだよ」
弦三郎は少しばかり気分を悪くしたようだ。
「あんただって遊び女になるために町に来たんじゃないんだろう? それともほんとはそうなのか?」
「ちがうよ」
さとはまた笑った。
「でもね、やっぱり違うのは、いまの暮らしも悪くないとは思ってるのよ。つまらない暮らしはしてないつもり。昼は市場の娘たちと遊んで、夜は夜で宿で仕事して。でも」
さとはことばを詰まらせるように止め、ついでに笑顔を消す。
「でも、それより、弦三郎さんのそんなところを見てね、あと何度もすれ違ってるんだよ」
「追っかけてたのか、おれを」
「いいや」
怒りを含んだような弦三郎の声に、さとは笑いもせず、まっすぐ前を見て、つづけた。
「だって、宿が花御門小路の裏筋なんだもの。辻に立つときには花御門小路の入り口のところにずっと立ってた。弦三郎さんのお家って、昨日会った小社の奥なんでしょ? だから、わたしの立ってるところを通るの――たぶん、その小森式部様のお屋敷からの帰りに」
「あ、ああ」
弦三郎は少し下を向いた。
「すまない――へんなふうに疑ったりして」
「ううん」
さとの声はほんとうに澄んでいた。
「追っかけていいんなら追っかけたい気もちがあったのはたしかだもん。それに、こんなまじめで腕の立つお侍さんといっしょになれればいいな、ってずっと思ってた。そんなひとがほんとにいたって思った。それでどうしようもなく会ってみたいって思った」
「まじめで腕が立つって……まあ融通がきかないとはよく言われるけど」
「その小森式部って方に?」
「従弟にもな。ああ、従弟っていうのは
「わたしはそういう一途なひとのほうがいい」
さとは言って、弦三郎の顔を見上げた。
二人は白木の門をくぐっていた。あとは石段を下りるだけだ。
ふたりはそこで立ち止まった。夕日が門を抜けて二人の背中を照らしている。でも、石段の坂が急だから、その二人が並んでいる影はどこにもできなかった。
「でも言っとかないと卑怯だよね」
「何が?」
そこで、弦三郎は、足を少し開いて躯を楽にし、自分の肩越しにさとの顔を見下ろした。
「さっきも言ったでしょ、わたしって生まれた村に住んでられなくなって町に出てきたって」
「ああ、それが何か?」
「だからね、まじめで腕の立つお侍さんといっしょの家だったら、このあとずっと安心して暮らせるかな、って思ったの」
「うちは貧乏名主だぞ」
弦三郎はとまどって、ぶっきらぼうに言った。
「村はいつも借銭借米で苦しんでる。そんなところで、いっしょに住むひとを安心させてやれるわけもない」
「そういうことじゃないの」
さとの声はやっぱり豊かだった。
「ふふん」
そして何か仕組んだように笑って見せる。
「なに?」
「さっき会ってからずっと、あんたもわたしもお美那ちゃんの名まえを出すの、避けてたね。避けてたでしょ?」
「あ、ああ」
「あんたがわたしに会う決心をしてくれたの、お美那ちゃんに言われたからだって、わかってるんだ。でもそれをいちども言わなかった」
「いや」
弦三郎は舌を噛んだように言いにくそうに答えた。
「最初はな、会って最初に言うつもりだったんだ――あんたに会いに来たのは、あの美那に言われたからで、べつにあんたが懸想してるのに応えるつもりはないからな、って」
「じゃ、どうして言わなかったの?」
「遅れてしまったからさ」
弦三郎は笑った。
「遅れて来てそんなこと言えるわけないだろう?」
「だから遅れてないよ、弦三郎さんは」
「うそ言うな」
弦三郎は優しい笑顔を見せて言う。
「いくら山寺とは言っても、ここは玉井春野家代々の菩提寺だし、そんなに狭い寺じゃない。奥のほうに池があることだって早めに来て歩き回って調べないとわからないはずだ」
「そう……っか」
さとは口の端を引いて、下唇で上の歯を覆うようにして笑った。
「そう。だいぶ早く来てたのは確かだよ。でも、それはわたしが好きで早く来たんだし、それに、弦三郎さん、あざみちゃんやおみやちゃんとおんなじ思いこみしてる。あ、あざみとかおみやとかいうのは市場の娘たちで、わたしの友だち――それとお美那ちゃんのね」
「あ、ああ……」
「わたしは、ここ、何度も来たことがあるんだ」
さとは門のまえに広がる町のほうに顔を上げ、途中で顔をひねって弦三郎にきく。
「あんたは?」
「おれは……一度だけ。でも、きいたことがある」
「何を?」
さとは首を少し傾けた。
「あの裏の蓮池を向こう岸の世親様のお堂まで渡ると極楽往生できるとか、あと」
弦三郎は口ごもりかけ、それを破るように言った。もっとも少し声が硬かった。
「その蓮池の縁で男と女で出会うと、その二人はきっと結ばれるとか、蓮池の
「そうなんだ」
さとはべつに関わりのないことのように、ふしぎそうに答えた。
「この寺はいまは寂れてるけど、大民部様小民部様のころにはずっと栄えていて、町の人がよくお参りに来たんだ。だからそんな言い伝えもできたんだろう」
「そう」
さとは弦三郎の説明にも取り合わないようにしてそのまま町のほうに目を戻し、さっきもやったように目を細める。その横顔は少しも笑っていなかった。
というより、何かさびしいかいやなことがあったか、そんな貌だった。
「わたしがこんなお寺に弦三郎さんを呼んだのはね、もちろん一つは来てくれるかな、っていうのがあったんだけど――こんなところでも来てくれる人なのかなっていうのを見てみたい気はした。それは白状する」
「うん」
弦三郎は声にどういう調子をつけていいかわからなかった。だからそのまま平らに答えただけだった。
「でも、ここから玉井の町をわたしと並んで見てほしかったんだ」
「でも、どうして?」
「わたしがはじめてこの町を見たときの姿と似てるから。だから、おみややあざみや、それに美那ちゃんと知り合う前はよくここに来てたの。わたしがつき合ったりふれ合ったりしてる人たちって、みんなこの町にいるんだ、みんなここから見える町の人たちなんだって、安心できるから」
「おまえさ」
弦三郎はさとと顔を合わさずに言った。
「帰りたいんじゃないのか……その、村に、さ」
言ってからさとの顔を見下ろす。
さとは小さく首を振った。
「帰るも何も……なくなっちゃったもの、わたしが帰れるような村は」
「なくなった?」
弦三郎は驚いた。
「出水で村が埋まってしまったとか、そういうことか?」
「それはあんたの村でしょ?」
おさとが笑って言い返す。
「そうじゃなくてね……いま帰ってもまた追い出される。まあいろいろあって……でも、これ以上は、城館のお殿様にお仕えする方には言わないほうがいいかな」
「そうか」
弦三郎は声を落ち着かせて言った。
「じゃあ」
弦三郎の声はやっぱり硬い。
「言っとくけど、おれはあんたに懸想したわけじゃないし、あんたがおれに懸想してるとしても、その相手をするってことじゃないからな」
「うん」
と言って、さとはふいに息を飲んだ。
弦三郎が自分の右手でさとの左手を握りつけたからだ。
「ありがとう」
さとは、弦三郎と顔を合わさないようにして、やっぱりあの豊かな声で言った。
玉井の町の日暮れが弦三郎とさととの前に広がっていく。