長野
小者もその場を去ると、それぞれ腰を伸ばして顔を見合わせあう。
ことばを交わすことはしなかった。土間に手をつき、いつでももとの平伏の姿勢に戻れるようにしている。
冷たい土間の上で待つ。
四人の村人・地侍衆の荒い息の音だけが、交互にその空虚な部屋のなかに響いている。
手をついたまま腰を少し曲げているだけの座りかたも苦しくなってきた。大木戸九兵衛と井田小多右衛門が顔を見合わせ、しばらく顔を見合ってから、こんどは大木戸九兵衛が村西兵庫と顔を合わせる。兵庫は雅一郎のほうに目をやったが、雅一郎は目をまっすぐ前に向けたまま腰をかがめたかっこうをやめない。そこで兵庫は口を結んだまま小さく九兵衛と小多右衛門に首を振って見せた。そこで、二人も土間の床についた手を離さず、首を屈めつづけた。
そこへやっと柿原範忠が戻ってくる。四人はさっそく平伏する。範忠は板敷きの端にでんと腰を下ろした。いや、いったん下ろしたが、またそのまま立ち上がった。
喚く。
「おい、おまえらぁっ!」
「はぁっ」
四人が同時に溜めた息を吐くように返事する。
「なんだその
「はいっ!」
「顔を上げろ!」
「はいっ!」
顔を上げ、手をついた四人の男を、範忠は見下ろして、板敷きの上を歩き回った。
一人ひとりの顔を確かめてから、顔を上げ、四人のだれとも顔を合わさないようにして言う。
「おまえらの言ったことは正しかった」
「は?」
「正しかったと言っているのだ、聞こえぬのかッ!」
範忠は首を横に向けて一喝すると、またうろうろと歩き始める。
「
範忠はそこで喚いて、ことばを切った。
四人衆はそこでしばらく待つ。
範忠の声の調子はそれまでよりずっと低くなっていた。
「先ごろまでの城館の評定で、中原
範忠は、またひと息置き、その息を置いているあいだに四人衆の顔を一人ずつ確かめ、また顔を上げてつづきを言う。
「評定によると! ひとぉつ! 中原造酒は、父に巧みに取り入り、その信を得たのを幸い、父の名をみだりに使い、その許しも得ぬまま、牧野郷の紛議に介入し、利得を得んとした、
長野雅一郎と村西兵庫が顔を上げ、それを範忠が見下した。雅一郎と兵庫は顔をそらしてしまう。範忠はそれを見てうんと頷き、つづけた。
「つぎに! その一子中原
「そうでございます」
長野雅一郎が声を立てる。範忠は鼻の穴を広げて顔をしかめた。
「そのような腑抜けた返事は許さぬ!」
「そのとおりでございます!」
雅一郎は腹の底からの声で応えた。範忠が驚いた馬のように頭をびくっとのけぞらせる。雅一郎は両方の眼をむいて範忠を見上げた。
「あ……」
範忠は何か言いかけ、四人衆を見下ろそうとした。でも、少し迷ってから、けっきょく、四人衆の顔を確かめないでつづけた。
「そして、またひとぉつ。その中原一党の残党、牧野郷を抜け出し、中原村に至ってなおわが父の名を冒して娘を
「それは違います!」
長野雅一郎が、抑えた声でしっかりと言った。範忠が何か言おうと息をする。雅一郎はそれより早く息をすませ、その隙にことばを投げ入れた。
「娘を犯そうとしたのは中原克富であります!」
「何ぃ?」
ことばをせき止められた範忠が、眉間に皺を寄せて少ないことばで問う。雅一郎が、抑えた声で、切り目を短く、それでも少しずつことばを切りながら言い募る。
「われらは牧野郷を追われ、とりあえずわが中原村に身を寄せようと、中原村に向かいました。村に入りましたところ、中原造酒克富が女を追い回しておりました。街道に近い家に住むはるという若い娘でございます。止めに入りましたところ、中原造酒と口論となりました。そこでわれらが柿原様もこのようなぼうきょはお許しにならないと申しました。ところが、そのことばを聞くや克富が逆上して襲いかかり、やむなく斬り殺しました。それがことの次第でございます」
「しかしぃぃ」
範忠はとまどい、ことばが出て来ない。
「しかし、中原村の村人から訴えが出ていると……言うではないか」
「その者たちこそ、中原村でむどうの名主 造酒克富のぼうぎゃくをじょちょうしたあくぎゃくの者ども。ぜひそのようなかんねいの者の言うことをお信じなさいますな。われらをお信じくだされ!」
「お信じください!」
がまんしきれず、といった声で高い声を立てたのは井田小多右衛門だった。
「それがしんじつでございます」
「その通りでございます!」
山犬がほえるようないちばん太く強い声を立てたのは大木戸九兵衛だ。
「この長野雅継殿、中原村のために義をなし、われらも共にかんねいの村人どもに追い立てられたのでございます」
「さらに申しますれば」
雅一郎が声をつづけた。
「牧野郷からの申し立てにもたくらみごとがございます!」
「……」
範忠は口を開きかけるのだが、何も言えないで、「あ」とか「い」とか短い声を出すばかりだ。雅一郎がその短い声をいくつか聞き過ごしてからつづけた。
「たしかにわれら、むどうの中原安芸範大のことばを聞き、村の米倉に火を放ちました。これはわれらの過ちでございます! しかし、牧野の村人どもは、むどうの町の銭屋衆とけったくし、われらに踏む蹴る殴るの乱暴を加え、追い出したのでございます」
「これが証拠でございます!」
兵庫助がにわかに喚いて肌脱ぎになる。叩かれたり打たれたりした痕を範忠のほうに突き出す。
暗い部屋では傷がどれぐらい深いかなどよく見えない。ただ、兵庫助が肌脱ぎになり、その身を自分のほうに突き出しているのが、範忠からは見えるだけだ。
「牧野郷・森沢郷の村人がこのようなことをした理由はただ一つ」
兵庫助は、もとのとおり肌を隠し、むりに喚こうとせず、ふだんどおりの声でつづけた。
「柿原様のお力が村に伸びるのを防ぐためです。そして」
「……もうよい……」
範忠も、その兵庫助の声が落ちたのにさそわれたのか、それともただ疲れただけなのか、声の大きさを落として言った。
兵庫助はつづける。
「牧野・森沢の村人どもの考えているのはただ一つ――それは乱でございます! 亡き逆賊牧野
「もうよいと言っているのだ!」
「いいえつづけます」
範忠のことばに村西兵庫は敢然と逆らった。
「お考えくださいませ、なぜ牧野・森沢二郷の村人が、われらの焼いたあの隠し倉に米を蓄えていたか! それはいつか乱を起こすときの軍資金! それが証拠にその隠し倉はあの牧野治部の屋敷跡に据えられていたのですぞ!」
「もうやめよォッ!」
喚いた範忠も、村西兵庫も、息を切らして、肩で息をしている。
板敷きの上と下とでたがいに息を整え合っている。
「これが評定で認められたものごとである!」
範忠が息の落ち着いたところで大きな声で言ったけれど、最初ほどの勢いはない。
「評定で認められたものごとを変えるには、その……時間がかかる」
範忠はそこで気まずく黙った。
黙って、うつむいたまま、四人衆とも目を合わせず、あちらを見たり、こちらを見たりだ。
「おまえたちにはわが手下として働いてもらう、ただし」
四人は手をついたまま範忠のことばを待った。
「おまえたちは城館から中原村で娘を拐かそうとしたという疑いをかけられておる。いずれは疑いは晴れようが――それまでは目立たぬよう働け。よいな」
「はい!」
「もういちど! 返事ははっきり強く短く言え!」
「はいッ!」
「もういちど!」
「はい!」
「よし」
範忠はもう膝を立てて座敷のほうに戻り始めている。さっきのように怒りにまかせて床を踏むことはなかった。かわりに、途中で、小者に言い捨てるように
「その者どもに下長屋のどこか空いている部屋をあてがっておけ」
と言い残す。
四人衆の
柿原党はこのたびのできごとに何の関わり合いもなく、悪はすべて中原造酒父子がなしたものだ――そういう理屈が評定を通り、それが四人の男たちの命を救った。それは、たぶん、弦三郎が小森
その弦三郎は、小森式部大夫の屋敷に戻ることも、
横の
大きないびきをかいて――。
弦三郎もいっしょになって寝てしまおうかと思った。
眠くないわけでもないのだ。だが、市場の宿屋で、越後守定範の家臣が二人も横になって眠っているのは様にならない。ことに今日は市場の者たちの気が立っているという。それで何かが起こったとして、その場で越後守の直臣二人が何も知らずに寝ていたのでは城館に大きな恥をかかせることにもなる。そう思って耐えて起きている。
弦三郎は苦い顔を作って頷いて早く行けと見送った。
範利は目覚める気配がない。ときどきわけのわからぬ寝言を言って寝返りを打つだけだ。
そして弦三郎の思いはずっとあの娘に向かって行く。
白粉をつけてもいないのに白い頬、口を開くと目立つ糸切り歯、細い目、背の高さ、世親寺に何度も来ているということ、そして、あのさびしい寺から見下ろす玉井の町が好きな理由。
あの娘が手を組んだときに弦三郎の肌に残した感じ、あの娘の手――それだけしか感じが残っていないことの悔しさ。
自分の気もちでもっとあの腕をきつく抱いておけばよかったという思い。
ここがあの娘のいる宿ではないかと思って、だれかが宿の中を通りかかるたびに振り返ってみる――その自分の気もち。
弦三郎はぶるぶると首を振ってみた。
でも、そんなことで、いちど気になりだした女の影が振り払えるなら、何の苦労もいらないのだ。
そして、その娘――
銭屋の若者に美那とさわが帰ってきたときいて訪ねてきたのだが、さわは隆文と元資といっしょに銭屋に帰ってしまっていた。それで奥の間で退屈していた人質の三人の子どもたちの遊び相手になってやった。
さっきまでさととお手玉で遊んでいた
美那が隣の部屋から襖を開けてようすを見、音を立てないようにして小さく手招きする。さとは唇の端から糸切り歯を見せて笑って頷いた。
美那はさとを中庭の縁に連れ出した。このまえ、さわとあざみとみやといっしょに溝に落ちて濡れた着物を洗った庭だ。
「持ってきたんだけど、どっち食べる?」
美那は体の上半分だけねじって、部屋のなかに置いてあった皿を取り、さとと自分のまんなかに置いた。
「何これ?」
「こっちはおかみさんが作ってくれたこの店の葛餅で」
「うん、それはわかる」
「こっちはね」
黒ずんでかたちのゆがんだ餅を指して、美那は言った。
「いま隣で寝てる子たちの村の村長さんの子が、今日のお昼に、って持たせてくれた
「出家してるんだ」
さとは言うとそのいびつなかたちの餅を首を右左に振ってのぞきこんだ。
「うん」
「歳は?」
「わたしとおんなじくらい。でもしっかりしてるひとでね、牧野郷で難しい文章が書けるのって、安総さんと、安総さんのお師匠さんだけなんだよ」
「そうなんだ」
「で、どっち食べる?」
「お美那ちゃんは蕎餅をわたしに食べさせたいんでしょ?」
「まぁね」
美那は笑った。
「家を離れてると、うちの葛餅のぷるんぷるんした感じがね、なぁんか懐かしくて……おかみさんには二人で食べなさいってもらってきたんだけど。あ、そのかわり蜜はいっぱいあるから」
「うん」
さとは目を細くして笑って頷き、蜜の壺から匙で蜜をすくって自分の蕎餅にかけた。
「そういえば、お美那ちゃん、お松ちゃんって会った?」
「いいや」
美那はさっそく葛餅を口の前まで持って行っている。
「だれそれ?」
で、言い終わるとその葛餅を遠慮なく口のなかに押し入れた。
「みやちゃんの友だちだって。屋敷町の子らしいんだけど。美那ちゃんが牧野郷に出かけた日に町に来て、知り合ったのかな? わたしはおととい会ったんだけど」
市場の娘なんて、来るのも突然だし、いなくなるのも突然なのがあたりまえだ。だから、美那がいなかった数日のあいだに「友だち」が増えていてもふしぎはない。
「で、その子が何か……?」
美那は葛餅の大きい塊の冷たいのどごしを味わってから、さとのほうに顔を上げる。
「おみやちゃんにね」
さとはようやく自分の蕎餅を口もとまで持っていったところだった。匙の下に左手を添えていて、何か食べかたがきれいだ。
「葛餅に蜜をいっぱいかけて食べるのを教えてもらったらしくて、わたしと会ったときもみんなのぶんの蜜をかけちゃってね。ちょっとたいへんだったんで思い出したの」
言って、さとは蕎餅を口に入れる。
「……うん、巧いじゃない」
もぐもぐしてからさとは美那に顔を上げた。
「わたしやおさわじゃこんなに巧くは作れない。どうしても
「へ?」
美那も顔を上げた。
「さとちゃんとかおさわちゃんとか、作ったことあるの?」
「うん」
さとはあたりまえのことのように軽く頷く。
「わたしの村では何かお祝いごとがあると蕎餅作ってたの」
「そうなんだ」
美那は口をすぼめて、首を傾げた。
「だってわたしが安総さんと蕎餅作ってたときに黙って見てたよ、さわちゃん?」
「さわってそのとき興味がないことには首つっこまないからなぁ。それにその安総さんってひとのほうが巧かったからじゃない?」
さとは美那の目を見返してからまばたきする。
「ふぅん」
美那は何かききたそうだったが、葛餅を匙ですくっていて、食うのを先にしようかきくのを先にしようかと迷った。けっきょく葛餅を食うのを先にすることにしたらしく、思い切って口に入れて、急ぎ気味にもごもご噛んで、食べてしまった。それからさとのほうに目をやった。
「おさとちゃんって、おさわちゃんのこと、ずっと前から知ってるみたいね」
「あれ? 知らなかった?」
さとは驚いて言う。
「おさとちゃんとわたしって、従姉妹どうしよ。歳は違わないけど」
「あぁ」
美那ははんぶん頷き、しばらく待ってぜんぶ頷いてしまってから
「ああ、そうなんだ」
と言う。
さとは、すぐにつづけて何か言いそうになったけれど、それより前に、安総尼が朝に作って渡してくれた蕎餅を口に運んだ。
美那はさととさわのことについてもう少しききたいと思った。でも、さとが餅を食っているあいだに、さわが巣山の出だということを思い出した。ということは、さともやっぱり巣山の出なのだろう。
巣山の話はやっぱりやめたほうがいいと思う。それに、さとは怒るとさわの何倍も怖いというさわのことばも思い出した。
そこで、美那も葛餅を口に入れることにした。最後の一かけだ。
二人は餅を口に入れたまま、足を縁の下に投げ出して、日に照らされた庭を見ている。美那はときどき軽く足をぶらぶらさせ、さとはきれいに足を揃えている。
こんなに足が細くて白くてきれいなさとが、ほんとうにさわより乱暴で怖いのだろうか?
この子は「宿屋のさと」とか「水鶏屋のさと」とか呼ばれているけれど、宿屋で何をやっているのだろう?
水鶏屋というと、市場でも古くて由緒のある宿屋だから、とんでもないことをやらされているとは思えないけれど。
「ねえ」
美那は、体を庭のほうに向けて、それで体をひねってさとにきいた。
「何?」
それでさとが何か構えを作るようだったらきくのはやめようと思ったけれど、さとがふつうに答えたのでつづきをきくことにした。
でも、何も構えていないところにきいていいことなのかどうか?
「……弦三郎さん、どうだった?」
美那はそうきいてから、さとの目を見ないでつけ足す。
「……会いに来た?」
「うん」
さとは小さくまばたきしてやっぱりふつうに頷いた。
「でもね、会いには来たけど、あんたの
「なんだって? 会っていきなりそんなこと言うなんて!」
美那が気色ばむ。さとは急いで首を振った。
「ううん。でも、次の日、
「世親寺?」
美那はわからないことがつづいて、惑っている。
「……なんでそんなところに? だって世親寺っていまはただの荒れ寺だよ?」
「ふふん」
さとは陽気そうな軽い笑い声を立てた。そして、笑った口もとはそのまま、目尻を下げて目を細め、美那の顔を見る。
「お美那ちゃんもそんなこと言うのね」
「は?」
美那は言われたことがわからない。
「そんなことって?」
さとは美那から目を放して、向かいの駒鳥屋の屋根と空との境目あたりに目をやった。
「世親寺って三郡の守り寺でしょ? それに、玉井春野家の大
さとのそうやって中空を見ている姿はさびしそうだ。
「あ、ああ」
美那は言って、同じように駒鳥屋の屋根と空のあたりを見る。
「そう。わたしが子どものころはあんなんじゃなかったんだ。
でも、どうしてさとがそんなことで寂しがるのかがよくわからない。
巣山に住んでいた娘なら、その栄えていたころの世親寺にお参りしたことなどほとんどないはずだと美那は思う。
それに、いまの美那にとって世親寺はできるだけそっとしておいてほしい場所だ。
「でも」
美那はちらっとさとを見て、ようすをうかがいながらつづける。
「やっぱり、いま、世親寺に自分の会いたいひとを呼ぶって、あんまりいないんじゃないかな?」
「うん……」
さとは少し笑った。さとが笑うと唇から
さとは美那のほうは見ないでつづけた。
「たしかにそういう気もちはあったんだ。弦三郎さんを世親寺に呼んで、来てくださらなかったらそれでいいって」
「で?」
「来てくださったよ」
さとは満面で笑って、美那のほうを見て笑った。
「それも走って。下屋敷町を出たあたりから走って、世親寺様の前の石段も走って登って、駆けつけてくださったよ」
さとはうれしそうだ。
「弦三郎さんね、ずいぶん待たされたんだって、その、小森式部大夫ってひとに会いに行って。それで、その小森様のお屋敷を出たときには間に合わなくなったって思って、そんなにたくさん走ってくださったんだって。たしかにわたしが先に着いてたけど、そんなに待ってもいないのに、ほんと律儀な人なんだね」
さとがあの艶のある豊かな声で言う。さとの肌はどちらかというと艶がなくてきめが粗いのに、どうして声はこんなに艶があるんだろうと美那は思う。
「あ、それはまあ」
あいつならそういうところはあるかも知れない。
「でも、そのとき、やっぱり言われたの」
さとは笑った顔のままだったけど、やっぱりさびしそうに言った。
「おれはあんたに懸想したわけじゃないし、あんたがおれに懸想してるとしても、その相手にはならないって」
「そう、か」
美那は言って、手を後ろにつき、さっき見たより高い空に顔を向ける。
中庭は西向きなので、日の光はまっすぐは照りつけない。ただ、裏庭の外の梅の若芽が日の光に映えて、ときどき輝いて見える。
「でもね、そう言われてみるとね、わたしのほうもただ懸想してるだけじゃないって気がついた」
さとはやっぱりさびしそうに言った。美那は横目でさとを見る。さとは美那のように背を反らせることもなく、少し身を前屈み気味にし、両手を膝の少し後ろについて、おんなじように空を見上げていた。
「たしかに最初はそうだった。まださわやみやが弦三郎さんの噂を始めるまえにね、辻に立って宿にお客さんを呼びこんでたときに、一目ぼれして弦三郎さんの袖引っぱったこともある。気、ついてもらえなかったけどね」
で、大きく笑って、自分をうかがっている美那のほうを見る。
「そんなころにね、藤野の美那って乱暴者がその弦三郎様に危ないところを助けてもらいながらその頬を殴ったって話をきいて、思ったんだ、ぜったい、仕返ししてやらないと、って」
「それでわたしを溝に落としたわけだ」
美那がさとを横目でうかがったまま無愛想に言う。
「そう」
「あざみちゃんがお美那ちゃんの友だちだってわかって、あざみちゃんに黙って話を進めるの、たいへんだったけどね」
「苦労したんだ」
美那が他人ごとのように言う。
「まあ、ね。それはそうでしょ?」
さとは顔を崩して笑顔を作り、それからもとのように空を見上げた。
「で、それから美那ちゃんと知り合って、こんな身近に弦三郎さんの知り合いがいるのに、そのひとに頼めば会えるんだって思うと、ほんとたまらなくなって――美那ちゃんに頼んだわけ」
「……うん」
さとは何が言いたいのだろう? 美那は少しいらいらする。さとはその隙にすっと声を滑りこませてくる。
「でも、お会いしてみてわかった」
艶のある豊かな声は変わらないけど、優しい声だった。
「わたしが弦三郎さんに会って、いい仲になりたいと思ったのって、強くて心のまっすぐなお侍さんにずっと身近にいてほしかったからだって。わたし、町に出てくる前に村でちょっといやなことがあってね、そのとき、強くて心のまっすぐなお侍さんが近くにいてくれたらって思ったの。弦三郎さんはそういうひとだった、だから会いたかったんだ。世親寺でお話ししているうちに、それがわかってきたっていうのかな、自分がそうだったってことがだんだん確かになっていって」
「うん……」
美那はさとのほうに首を向けた。でも、だから懸想して悪いってことにはならない、そう言うつもりだった。
でも、それより前にさとが言った。
「だったら懸想してるとか言わずに、最初からそう言って話をすればよかったんだよね。それに、思った。弦三郎さんにそう言うんだったら、自分がまず強くて心のまっすぐな女にならないといけないなって」
そう言って、こんどは首を肩越しに捩って美那のほうを見る。
美那はつづけて考えていた。
――その理屈っておかしいよ――。
けれどもことばにしようとするとどうもその考えが口にまで上らない。そのあいだに、さとが、肩越しに美那を見たまま言った。
「お美那ちゃん、弦三郎さん好きなんでしょ?」
さとは両方の目でじっと美那の顔を見つめている。
美那は背を起こし、さとより身をかがめて膝の上に両手を組んで、やっぱり首をひねってさとの顔を見上げた。
「わたしのはね」
自分の声が少し怒りを含んでいるのには気づいている。
「最初に助けてもらって、それで殴っちゃって、それが悪かったってそれが気にかかってるだけ。好きとかそういうのとは違う」
でも、そこで勢いが尽きた。
「たぶんね」
さとは笑った。
「お美那ちゃんは弦三郎さんが身近にいすぎるんだよ。だから自分の気もちなんか考えてるひまがないだけ」
なぜそう言える?――と美那は思う。
それに、今日まで弦三郎は美那の身近にはいなかった。けれども弦三郎のことなんか、ほとんど思い出さなかった。
「とにかくわたしはだめだって言われたんだから」
考えているあいだにさとが話を進めてしまう。
「もう弦三郎さんに会うのはやめようって――そう決めたんだ」
「まあ」
美那はわざと興味なさそうな声を立てた。
「それでおさとちゃんがいいんだったら、いいけど」
「うん」
さとはまた皓い歯を見せて笑った。
こういうときにこんなまぶしいような笑顔を見せられるって、やっぱりおさとはいいな、と美那は思って、その顔を見上げている。