小イカを丸のまま焼いて串に刺したのを、みやと松は向かい合って食べている。このあいだの
少し――というよりかなり焼けこげたイカを見て、松は目を潤ませている。
「イカってこんなんだったんだ」
「塩か
「ううん」
松はうれしそうに首を振る。
「イカって、赤い色してどろどろに湿ってて、食べても塩辛いだけでなんか気もちわるいものって思ってて、どんなに食べるものがなくなってもイカ食べるのいやだったんです」
「それは醤漬けでしょ」
みやは笑った。
「たしかに巣山だとそうね、獲れてばっかりのイカなんか食べられないものね」
「あれ」
身のいっぱいに張ったイカを噛むのを止めて、松はみやを見上げる。
「巣山のことなんか知ってるんですか? 巣山に来たことあるんですか?」
「そりゃあ」
みやは自分でもうひとつ串を拾ってぱくっと食べ、イカの身をかみつぶしながらこたえる。
「行ったことあるも何も、わたしだって出は巣山なんだから」
「えっ?」
松はイカの残りにかぶりつくのを後回しにしてきく。
「巣山のどこ? 巣山のどこなんですか?」
「村井
みやはイカを食うのをやめないであたりまえのように言う。
「村井……新郷……って村井峠の向こうのほうですか?」
さっき、醤漬けでないイカを見たときとは較べものならないほど目を潤ませ、みやに食いつきそうに松はきいた。
「そう」
それなのにみやの答えはそっけない。
「村井峠からまた山登って、その向こうよ。
「いえ」
松は首を振った。しゃべる勢いは衰えない。
「でも、町まで出てきて巣山のひとに会えるなんて」
「そんなぁさぁ」
みやは大きく息を吐いて、串に残っていたイカを歯で削いで口のなかに入れ、あらためて松のほうを見る。
「巣山から出てきた子なんか市場にはいくらでもいるんだから」
「そう……なんですか?」
松はふしぎそうだ。みやはもういちどぞんざいに頷いて、また串を一本拾う。
「そう。巣山ってあれでずいぶん広いからね。巣山で知り合いでもなんでもなかった子が市場で知り合うってふつうかもね。こないだ会ったおさとちゃんも、おさとちゃんが話してたおさわちゃんもそうだよ」
「えーっそうなんだ!」
松はすっかりイカを食うのは忘れたようだ。
「じゃあ、あざみちゃんとか、みんなが言ってたお美那ちゃんもそう?」
「あの二人は違う」
みやはイカに塩を手で揉みかけるとぱくぱくかじる。
「あざみちゃんは駒鳥屋さんってあの店で生まれて育ったんだし、お美那ちゃんはもらわれ子だけど生まれは玉井」
「ふぅん」
松は何かみょうに感心している。感心して、やっと串に残っていたイカのことを思い出したのか、残りを勢いよく食べてしまう。で、イカの皿に手を伸ばして、松は
「あ」
と声を立てた。
「なに?」
「イカがなくなっちゃった」
で、眉をつり上げて、下からみやをにらむ。
この子っておでことか眉のあたりとかきれいだな、ってみやはふと感じた。
「なに?」
「みやさん食べちゃったでしょ?」
「あ、ああ、そうかもね」
「……」
松はまじめに怒っていそうだ。みやは軽く首を振った。
「だったらまた頼めばいいから。
みやに志枝と呼びかけられた女は険しい目でみやを見て、串に刺したイカを取り、小火鉢の上に並べ始める。
「あっ、だって」
松は恨みがましい
「そんなに買ったらお金が……」
「いいのいいの」
みやは笑った。つづけて何か言おうとする松を止めて、店の女主人に
「志枝さぁん、これで三皿めだけど、ぜんぶで七文にしといて!」
女主人の志枝はこたえず、かわりに、そのみやに顔をしかめて口を突き出して見せた。松が見てびくっとする。
「……怒ってますよ?」
「だいじょうぶ」
みやは平気で答えた。
「これぐらいの値切りなんておとなしいほうだって」
「……そうですか?」
「よぉ、こないだのお嬢さんじゃないか」
後ろから陽気な声をかけられる。松は驚いて振り向き、たちまちその顔がまた怒りに戻る。
「どうだ、ちょっとは町に慣れたか?」
松はふんっと横を向いた。唇をとがらせて目を閉じ、声をかけた男の姿が目に入らないようにがんばる。みやが困ったというように笑って見せ、声のほうに振り向いた。
声をかけたのは
「この子、まだこないだの怒ってるから」
「それは悪かったな」
「悪かったなじゃないです!」
笑いながら「悪かった」なんて言われて、松はふんっと鼻を鳴らして立ち上がろうとする。みやがすかさず松の腰に手を伸ばし、帯をつかんだ。松は立てない。
「でも、その報いで、おれはその子に五文で売れるものを三文で買いたたかれたものな」
「だから、もう五文のをへんな理屈つけて
みやが歯切れよく言った。
「だったらあんたの爺さんもにせ銭に手を出すなって」
「だってあれはにせじゃないもの」
松が何か言いそうに――というより四助に食ってかかりそうになるのを、みやは帯をつかんで軽く止めている。軽く見えるけれども、松は足を強く踏んでも立ち上がれないのだから、ずいぶんな力のはずだ。
木玉造りの四助は広場を通り過ぎていこうとした。
「あれ、商売は?」
「これ以上、この近くにいると、その子怒らせそうなんでね」
四助は、みやに抑えられているぶん、自分のほうを懸命ににらんでいる松のほうを軽く見て言った。
「ふぅん」
みやがぞんざいな声を立てる。四助は笑って応えた。
「いや、今日は客が寄りそうにないからな」
「なんで?」
「朝から昼まであんな騒ぎだっただろう? みんなだれてしまってるんだよ。そんな日にこういうのって売ってもだれも買いたがらないからな」
「あんたがだれちゃったんじゃないの?」
「ふん」
四助は笑った。
「まあそれもあるけどな」
「そんなんじゃ粟も蕎麦も食えなくなるよ」
「かもな」
四助は言って、しかめ面のような笑顔を作った。
「おれもにせ銭作ってみるかな?」
「作ってみなさいって。ぜったいうまく行かないから」
みやに言われた四助は、気楽に体を振りながら花御門小路の人たちのあいだに消えていく。
「……みやさん、ほんとににせ銭作ってるんですか?」
みやにようやく帯をつかむ手を離してもらった松がみやに迫って、凄い剣幕で言う。
みやはすこしたじろいだ。
で、小さく首を振る。
「いいや」
「だったらもっと怒ればいいじゃないですか! あんな人聞きの悪い……」
「だって市場のひとはみんな知ってるもの」
みやは笑い顔のまま、松をじっと見て言う。
「うちの爺さんのにせ銭づくりのこと、あの四助がいつも言ってるって」
「でも嘘なんでしょう? だったらぜったい言い返すべきです! だってみんな信じちゃいますよ」
「みんな知ってるって」
みやは松の顔から目を離さなかった。
「それにぜんぶ嘘じゃないから」
「へっ?」
松は不意を打たれたように勢いを失った。みやはいままでより緩く笑い、体を引いて松を見る。
「磨り減った銭とかね、どこで作ったかわからないあやしい銭とかをね、
「……?」
松はしくみそのものがよくわかっていないようだ。みやはそこで身を乗り出した。
「市場でうまくやっていくやり方、教えてあげようか」
松は勢いで――たぶん勢いだけで頷く。それも勢いなくはね返るように二度三度と。
みやはその松の手を取って言った。
「気にしないことと、忘れること」
「気にしないこと……と、忘れること……?」
「そう、いやなことをね」
みやはそれで鼻から息を漏らして笑った。
「いやなことに出会っても最初から気にしない、そして、それでもいやなことに
で、みやはひとつ息をつく。
「そうやって暮らせば、けっこう楽しいよ」
「……わたしは……」
松はみやから目をそらした。
こうやって白目のほうから見ると、松って目がけっこう大きいんだって思う。
「わたしは……いやです」
「だからさ」
みやは松のほうに身を寄せ、そむけた目でもむりにでも見えるようにして語りかけた。
「市場にいるときだけでいいの。いや、市場にいるときだけにしたほうがいいよね。わたしなんか市場に住んでるからずっとそれで通してるけどさ、松ちゃんは屋敷町に住んでるんだし、屋敷町でそれじゃだめかもね」
「旦那様も奥様もわたしにはとても親切にしてくださいます」
松は目をそむけたままそんなことを言い返す。
「わたしをだますようなひとはいません」
「でも、蜜のたっぷりかかった葛餅も、サッパの酢漬けも、釣れたてのイカも食べられないでしょ? 玉並べで遊んだりもできないでしょ?」
「……うん」
松は頷いた。
「そうやって楽しみたければ、そのあいだだけでも市場の流儀でやらないと」
松は頷かない。みやは目を細くした。
「さとちゃんもあざみちゃんもさわちゃんも、お美那ちゃんもそうやって生きてるんだから。ここに来てるあいだだけぐらい、お松ちゃんにもできないわけないよ」
「おさとちゃん……や、お美那ちゃんもそう?」
「そうよ」
みやは軽く言った。
それで松は観念したようだ。
「じゃあ、そうする」
「うん」
みやは松には気づかれないようにゆっくりとため息をついた。
そこに志枝が焼きたてのイカを持ってきて、二人のあいだの台に、どん、と置いてさっさと戻っていく。
志枝はみやにせいいっぱいのしかめっ面を作り、顎で松を指してみせる。
みやは苦笑いして、目を細めてそれに応えた。
松はというと、まるまるした小イカに目を奪われて、それを食べるどころではない。
松にはそれが宝玉のように見えているのかもしれないな――とみやは少し考えてみる。
昼間に寝ると、夜の眠りは浅くなる。
物音のしない藤野屋の奥の間には、
「……
「葛太、起きてるでしょ?」
「……ああ」
「帰りたくなった?」
「まさか」
葛太郎は短く一言で言い返した。
「母ちゃんが怒り出したり泣き出したりする心配をしなくて寝られるなんて、ほんとのことじゃないみたいだ」
「じゃ」
毬は隣で寝ている葛太郎のほうを向いた。手に布を巻いたままなので、そのぶん、首も回しにくそうだ。
「何の心配してるの?」
「心配なんかしてない」
葛太郎は首を天井に向けて、毬から目をはずす。
「嘘」
毬はおとなしい声で言った。葛太郎は言い返そうとして声を抑える。毬がつづけた。
「葛太って心配ごとのないときは目が覚めてもまたすぐ寝てしまうから」
「毬、おまえな」
葛太郎は怒ったようだ。毬がすかさず、
「声立てないで! 繭が怯える」
「……ああ、そうだったな……」
葛太郎は、怒るはずだったぶんの息をため息にして吐き出す。
でも、声は少し荒れてはいた。
「働くんだろ、おれたち」
「あ」
毬は驚いたように声を立てた。
「ああ、うん」
「何させられるのかな? この家、どっかに畑、持ってるのかな」
「まわりには畑らしい畑はなかったじゃない?」
「じゃあ、ずっと遠いところに、畑、持ってるんだな。そんなところまで働きに行かされるのか?」
「働くって、畑で働くって決まってないでしょ?」
毬が葛太郎のほうを目で見て言う。
「いいや」
葛太郎は強く言い返した。
「子どもを働かせるところなんか畑に決まってる。それに、おれたちは広沢家の者だぞ?」
「町では広沢家なんか関係ないよ。それに黙ってればわからない。あの
「そんなことって……あるのか?」
「ある」
毬は頷いてもういちど言い聞かせるように言った。
「それはあるよ」
葛太郎は、何も言わないで、寝返りを打って、目を閉じた。
目を閉じても、眠りに戻れるわけではない。
その隣で、毬が、目を開いて、はっきりと見えない天井を見据えるように、ずっと
その同じ夜――。
「泣くな」
「だって……こんなの……」
「泣くなって言ってるんだ……子どもじゃあるまいし」
同じ暗い空の下、屋敷町の柿原屋敷――その隅にある下長屋の一部屋で横たわったまま気もちを殺すように言ったのは、その毬と葛太郎と繭と同じ村から来た村西
「おれや
涙声で九兵衛が言った。
「おれたちは村の家もこれと似たようなあばら屋だった。でも、兵庫、おまえは屋敷持ちだったんだぞ」
「ああ」
「奥方もいて、小者や下女もいたんだ」
「ああ、そうだったな」
だれか知らない人のことを言うように村西兵庫助が言う。九兵衛が言い募った。
「こんな広沢家の家より狭いような部屋に四人も押しこみやがって……くやしくないのか!」
「くやしいさ、それは」
村西兵庫助は相変わらず気もちを殺した声で言う。
「だったら! 柿原の手先なんかやめてさ」
「やめて、どうするんだ?」
そうききかえしたのは長野
「こんなとこになったのはあんたのせいだぞ。中原村を乗っ取るなんてあんたが大それたことを考えなければ!」
「考えなければ、おれたちは物乞いやってたか追い剥ぎになってたか、それとも白麦山に逃げこんで山賊の足洗わされてたか、なんかだ」
村西兵庫が落ち着いて言い返す。
「これぐらいの雨露
「だからって!」
「うるさい」
兵庫が、低い、勢いのこもった声で言った。
「薄板一枚の壁だ。隣まで声が漏れる……隣でだれが聴いてるかわかったもんじゃないぞ」
九兵衛は黙った。ほかの者も何も言わない。
兵庫はさらに声をひそめた。
「いいか。ここから始めるんだ。始まりとしちゃ悪くない」
「始めるって……何を?」
井田小多右衛門が声を上げ、
「声が大きい!」
と兵庫が叱る。
「この何日かでおれたちは落ちるところまで落ちた。落ちたのは落としたやつがいたからだ。どうだ、そうだろう?」
「そのとおりだ」
声をひそめて長野雅一郎が言う。
「だとしたら、おれたちをここまで落としたやつをぜんぶ見返してやろう。おれたちがやつらをおんなじように落としてやることができるようになるんだ」
「落としたやつってだれだ?」
小多右衛門が、こんどはちゃんと声をひそめてきく。兵庫助はこれまでどおり抑揚のない声でつづけた。
「まず広沢の毬」
「うん」
「それから村の連中、川上も川中も、森沢の連中もぜんぶだ」
「ああ」
「町の銭貸しども、中原村の地侍ども」
「そうだな」
「そして柿原の若造だ!」
声は抑えたままだったが、兵庫の声には力がこもり、震えていた。
「この屋敷をおれたちのものにする、いや、城館もだ」
「おいおい」
九兵衛がたしなめる。
「本気じゃなかろうな」
「本気だ」
兵庫は声から力を抜かなかった。
「むかし、
兵庫はことばを切った。兵庫がそこで両の目を細めたのは、ほかのだれも見ていない。
「それがいまのおれたちだ。この四人で新しく三郡の覇業を切り開く!」
兵庫の声の震えはさらに強くなっていた。
「賛成だ」
長野雅一郎が、遠くには聞こえない低い声で、それでも力強く、落ち着いて言った。
「春野家の気運は衰えている。気力のある人間がこれからの三郡を握るんだ。だが、打ちのめされた者が立ち上がるには杖が必要だ。そのためにこの柿原家を杖として使う。柿原家を使って立ち上がる。そしておれたちが立ち上がったらその杖を捨てる! どうだ、それでいいだろう?」
「ああ」
九兵衛が
「ああ、いい」
と答えた。
「よし、これをおれたちの誓いとしよう。三郡を取る。それまでともに戦う。いいな」
村西兵庫の声に、声を上げて返事をした者はいなかった。
大の男が四人、寄り添って寝ながら、長屋の狭い部屋の天井を見て、いっしょに頷いただけだった。
そして、その時間、ようやく
「何か、あの子にききたいことあったんだけどなぁ、前からきこうって、それできけなくて、今日もきこうと思ってて忘れたことって」
だが、その思いも長くは続かなかった。
「なんかあったんだけどなー」
という声の最後があくびに化け、そして、まもなく、みやはやすらかな寝息を立てて眠り始めていたからだ。