「何が中食は抜けるだ」
弦三郎は小声で言った。もちろん相方には聞こえないようにだ。
もっとも、その「相方」は最初から弦三郎の話を聞くどころではないようだ。
「もっと食いたい。もっと持ってきてくれ」
木村
「旦那、こんなに食ったら……」
「ああ、銭のことなら心配するな。ここの飯代分ぐらいなら持っている」
「いや、そうじゃなくて」
宿の女主人が当四郎と顔を合わせて笑いを浮かべたので、当四郎もそれに同じように笑って応えるしかなかったようだ。
そんなことで、当四郎の連れて行った宿の奥の間でサッパと細切り大根の酢漬けと麦飯を山盛りで何杯も食い、最後に濁った色の麦飯に白湯をかけて腹の中に流しこんでから、木村
「さあ、屋敷に引き上げるぞ」
と言って立ち上がる。
立ち上がれなかった。
太刀を杖について
「だから言わぬことじゃない」
当四郎が範利に聞こえるように言う。
「だいじょうぶか?」
従弟よりはまじめな弦三郎が親身に声をかける。範利は
「あ、ああ」
と声を上げるだけがせいいっぱいのようだ。
そのまま腹の上のあたりに軽く手を当てて横にごろんと転んでしまう。
「いきなりたくさんお上がりになるから……」
当四郎が言って、宿から
「だいじょうぶか? 脂汗が
「あ……ああ……なに……立ちくらみのようなものだ……少し……こうしていれば……よくなる」
「すまない」とも、「食い過ぎた」ともけっして言わない。弦三郎が苦笑する。
窓の外には草むらが茂っていて、その向こうに
「それにしても冷や冷やしたぜ、よりによってこんなときに、兄貴がご同僚とほっつき歩いてきたときには」
「いったい何があったんだ?」
弦三郎がその当四郎に聞く。当四郎は少しばかり声をひそめた。
「銭屋の使者が牧野に行ってたんだ。その話は知ってるな?」
「ああ」
「その銭屋の使者が帰ってきて、銭米は取れなかったけど人質を取ってきたって自慢して回ったんだと。最初はただ人質を取ってきたって話だったのが、それがいつの間にか百人の人質を縄かけて、いやがるのを無理やり引っぱって帰ってくるって話になってさ。それで、町の銭屋がよりによって牧野から人質を取るとはけしからんとかで、銭屋を
「あ、ああ……」
弦三郎は当四郎の話に圧されたように答えた。当四郎は勝手に話をつづける。
「それだけじゃない。牧野から来た人質だったら乱のことをよく知ってるかも知れないから盛大に迎えてやらねばとか言い出すやつとかがいて、とにかく市場中の手すきの人間が早瀬川沿いでそのご使者が帰ってくるのを待ちかまえてたってわけ」
「それでおまえも手すきだったから待ってたわけだ」
「まあな」
当四郎はこれまでの深刻な話しぶりから一転し、得意そうに鼻を鳴らした。
「いいじゃないか、それで兄貴たちを見つけられたんだ。ああいうときの市場の連中は気が立ってるからな、悪くすると
「それはこっちも注意が足りなかった」
弦三郎はいちおう当四郎に謝って、
「しかし、銭屋が人質を取るぐらいふつうのことじゃないか。どうしてそれがこんな大騒ぎになるんだ?」
「だから牧野だからだよ、牧野」
当四郎は苦しんでいる範利をちらっと横目で見て、力んで話をつづける。
「あの牧野の乱のときに柴山勢が攻めてきて市場がひどい目に遭ったんだよ」
「しかし柴山勢は市場町には入らなかったはずだ」
範利が苦しい息で言う。話を聞いてはいたらしい。当四郎は動じないで、ちらっとその範利の顔を見て、軽く頷いた。
「それにしても、市場の商人が屋敷町にものを売れなくなってしまったし、屋敷町に物売りに出て捕まって殺されたってのもある。それに、屋敷町で屋敷を焼かれたり、牧野党だっていうんで主人が殺されて家の者が離散したところとか、たくさんあって、その連中がいっぱい市場町に入ってきて住んでるんだ。だから、市場の連中は柴山嫌いで牧野びいきだ」
「それはわかってるよ。おれだってこの町に住んでるんだから」
弦三郎も範利のようすをうかがってつづけた。
「で、その牧野から人質を取るからけしからんと」
「まあ、そういうことだな。それにもともと金貸し衆っていうのは市場のなかでも好かれている連中じゃない。たしかに、おとなしい金貸しもいるが、たちの悪いのもいるしな。それに、年貢やら
「ところで」
範利が首だけ当四郎のほうに向けてたずねた。
「ひとつ、弦三郎の従弟に、聞きたいことがある」
たぶんいつもの平坦な声で言いたいのだろうと思う。だが、やはり苦しいのか声の調子は乱れていた。
「はい、何でしょう?」
「弦三郎の従弟」などと呼ばれても気にするようすもなく、当四郎は愛想よく応えた。範利は同じ苦しい声でつづけた。
「どうして町の銭貸しはいまごろ取り立ての使者を送った?」
弦三郎はこの問いが出ることは避けたかった。だが、範利は、せいいっぱい調子を
「いまは米も麦もいちばん足りなくなる時分だ。村にいちばん銭米が乏しくなる。取り立ても難しいし、だいいち、その、村の者に嫌われる。そんなときにどうして銭貸しはわざわざ使者を送るのだ? おかしいではないか?」
それは「近く徳政がある」という噂を聞きつけたからに違いないのだ。で、そのことを知ると範利はあの仲間うちで言いふらすだろう。そうすると小森
といって、範利の見ている前で、弦三郎と目配せを交わすこともできない。
「さあ、そればっかりは銭屋に聞いてみないとわからないけどな」
当四郎はそれまでと変わらない明るい声で答えた。
「何か政事向きの話が絡んでるかも知れないっていうのがもっぱらの噂だな」
「それは徳政ということか?」
範利がすかさず衝いてくる。もっとも、そうきいた後に苦しそうに短く息をするのがどうもいつものこの男らしくない。
「いいやぁ」
当四郎は少し鼻にかかった声で首を振った。
「たしかに徳政があればなぁって話はいくらでもあるし、いついつ徳政がある、って噂も飛んでる。市場町の連中は徳政を待ちわびてるさ――その銭貸しどもを別にすればな。けど、天下徳政でもあれば別だけれど、三郡徳政って話だと、残念ながらあの
「それなら」
とこんどは弦三郎がきく。
「その政事向きっていうのはいったい何だ?」
「
当四郎が得意そうに言うので、弦三郎と範利とは顔を見合わせた。
「歳幣……?」
「おっと、歳幣って何だ、そんなものは知らないなんて言うなよ」
当四郎は弦三郎のほうを向いて言う。
「たしかに城館様としては目立たせたくない話だろうけど、町の連中はみんな知ってるよ。年に一千石の米を柴山
小森屋敷から来た二人が苦い顔を見合わせるのをよそに、当四郎はそれまでと同じ調子でつづけた。
「だってあのお定め書きは町じゅうに貼り出されたんだぜ。柴山勢が兵を引く条件だったんだ――城館から柴山に年ごとに一千石を下げ渡すっていうのが。そしてそれを何をもったいぶったか「歳幣」なんて呼ぶことにしたって話もな。さっきも言ったように、玉井の町の連中は柴山勢が攻めてきたときのことをよく覚えてるんだ。だから歳幣のことだって忘れちゃいないよ」
「でも」
すらすらと話す当四郎に弦三郎がたずねた。
「それがどうして町の銭屋がいま慌てて銭を集める理由になるんだ?」
「言っただろう、町の銭屋は年貢の請け負いや何やで城館とつながってるって」
「……ああ」
「でも、城館は手もとに銭も米もない。この連年の不作だからな。いや、ほんとは城館に銭も米も蓄えがあるっていうならいいんだ、政事に関わりのないおれみたいな者にはどっちでもいい。でも町の連中はとうぜん城館にも銭も米も足りないだろうって考えてる。だから」
と当四郎は声を落とし、そのぶん、力を入れる。
「歳幣に持っていく一千石とか一千貫文とかを町の銭屋に借りるに違いない。いや、ここで町の銭屋が城館にその銭を用立てできないと、城館は柿原様から借り入れなさるにちがいない。そうすると柿原様の権勢が強まる。知ってると思うけど、柿原様と町の銭屋は競い合う間柄だ――
「なるほど」
範利が
「さあ、そろそろ行くとしよう」
と筵の上に立ち上がろうとする。やっぱりいけなかった。筵の上をはでに滑ってもんどり打ち、
「あー」
と弱い声を立てて腹を抱えて横寝してしまった。
「弦三郎」
範利が哀れな声をせいいっぱい張って言った。
「何だ?」
「おれは夕刻までこの宿で世話になることにする。ゆっくり横になって考えたいことがあるんだ」
「だからいったいそれは何だ?」
「越後守様のこと、式部大夫様のこと、いや、三郡の行く末のことだ。いまきかせてもらった話で、おれはだいぶ考えを改めねばならんと思うようになった」
「そうか」
弦三郎は軽く返事する。
「だから、弦三郎……おまえもここにいて、いっしょに考えてくれ。なあ、頼む……」
「頼む」が「たぉむ」になっているような弱々しい声を立てられては、弦三郎も断るわけにいかず、その日はその宿に夕刻までとどまることにした。
ここがあの娘のいる宿だったら――。
窓の外に連珠川の流れの音を聞きながら、弦三郎の頭にふとそんな思いが宿った。
早瀬川沿いに集まって牧野からの人質を待っていた市場の者たちも、昼になり、昼飯時が過ぎると、だんだんと散って行った。
「なんだよ、うそ話だったのか?」
「だれだ、人騒がせな話を流しやがって」
口々にそんなことを言いながら、仕事のある者は仕事場に戻り、仕事のない者はほかに何かおもしろいことを探して――たぶんそうなのだろう――散って行った。
その早瀬川を東へ下ると、川は途中で二手に分かれる。片方は玉井川に注ぐ。その注ぎ口のあたりに市場の船着き場がある。もう一方の流れは北へ曲がって城館の
周囲を高い盛り土の垣に囲われ、その垣の上に高い土塀が立ててあり、さらにその垣の外を空堀がめぐって、空堀の外に、もう一重、木の柵が立ててある。外からけっして中に入れない屋敷――いや、中のようすをうかがうことすらできない屋敷だ。それは、向かい合っている建っている城館に次ぐ二つめの城館と言ってもよい屋敷だった。
それが柿原大和守
その柿原屋敷の右奥の館の裏庭に面した天井の高い土間の部屋で、四人の男が頭をその土間の床にすりつけて震えていた。
震えているのはこの男たちだけではない。板張りの床の端に腰を下ろしてその男どもを見下ろしている男もやっぱりぶるぶる震えている。
板張りの床から見下ろしている男は、がっしりした体格で、四角い顔、濃い黒い眉という顔をしていた。それが、目をかっと見開き、口の端からは泡を吹き出しそうな勢いで、激しく怒っている。
「おっ……おむっ……おあっ……」
何度か声を出そうとして、そのたびに怒りが胸からこみ上げてきて声を追い越してしまい、声にならない。その男の繰り返しているのはそういうことのようだった。
「……おまえらっ!」
そして、その広いがらんどうの部屋で何度も音が響いて帰ってくるような大声で、男は喚いた。
「父上の顔に泥を塗るようなことをして、それですむと思っているのかッ!」
いちど声を出してしまうと、もう詰まらないらしく、男はすらすらと喚いた。
その声で、いっそう下の男たちは縮み上がってしまう。
「父上の名で牧野郷に乗りこみ、蓄えの米を焼き、しかもその悪事が発覚しようとするや証人の小娘を斬り殺そうとし、
先ほどから野太い声で怒鳴り散らしているこの男は、その「父」――柿原大和守忠佑の一子、柿原
「主計頭様、そっ、それはっ、それはっ、言いがかりでございます」
顔を土間の床から少しだけ浮かせて言い、また頭をすりつけてしまったのは、あの牧野郷の寄合の場から命からがら逃げ出した村人の村西
「このおれがいつ言いがかりをつけたッ! ばかなことを申すなッ!」
「はっ、はいっ……」
ひたすら声をひっくり返して恐れ入るしかない。だが、ただ恐れ入っているだけでは、「死をもって償う」という結果を逃れることはできない。
大木戸
「とっ、殿様がっ」
声がひっくり返ろうが何をしようが、つづけて言うしかない。
「うん?」
「主計頭様が言いがかりをつけたとは申しておりません、はいっ、申しておりません!」
「それではだれが言いがかりをつけたと言うのだ!」
「はい」
村西兵庫はやっぱりぶるぶる震えながらつづけた。
「一つには広沢家という牧野郷の厄介者の一家でございます。また一つは中原村の名主地侍一党――この連中がぐるになってわれらをおとしいれ、
「黙るがよいッ!」
主計頭範忠は板張りに座っているのももどかしくなったのか、怒り声を立てて立ち上がった。
広い部屋だが、明かりはほとんど入ってこない。広い座敷を通り越した反対側の障子越しの明かりが届くのと、あとは、この土間の周囲の木戸や屋根のすき間から漏れる明かりだけだ。
それだけに外がよけいに明るく感じもするのだが。
「中原
と範忠の声もひっくり返りかけている。
「ちぃちを蔑ろにするも同然! おまえたちが柿原の名を冒さぬならそれでも許しは得られよう、だが、こともあろうに父上の名を
「違います!」
猛然と低い声で言い放ったのは、いちばん端でひれ伏していた男――中原村の
震えているのは村西兵庫と同じだったが、声が低くてひっくり返らないぶん、少しは丈夫らしく聞こえる。
「何が違うのだ、言ってみよッ!」
「恐れながら申します」
長野雅一郎はひと息ですっと言った。
「中原造酒克富、中原
「だぁまァれッ!」
範忠もついに声をひっくり返して猛り立った。
「おれの言ったことがわからぬか! 中原造酒は父上の忠臣、だれ知らぬ者もない! その中原造酒を
範忠は猛り立ったあまり、腕を組み、板張りの上を左右に歩き始める。左から右へ行き、右から左へ戻り、また左から右へ行き、また戻り、それでばんと床板を踏みしめて
「どうだッ!」
と長野雅一郎を見下ろす。
「恐れながら申し上げます」
長野雅一郎はやはり顔を床にすりつけたまま強い声で言い返した。
「父上はだまされておいでだったのです! 中原造酒は父上に忠臣を装っておりましたが、じつはとんでもない不忠の臣!」
「ええい、黙れ! 見苦しいぞ」
範忠は鼻から息を勢いよく吐き出した。そこを捉えて、長野雅一郎は体を床にすりつけたまま、顔だけ上げて範忠の顔を見上げた。
範忠がそれに気づく。雅一郎がすかさず言った。
「おそれながら、主計頭様は、あの中原造酒がどこから身を起こしたかご存じでしょうか?」
「中原
範忠の声の調子が少し下がる。雅一郎は畳みかけた。
「それには違いはありませんが、その吉継様のご子息ではありません」
「それも知っておる。その吉継の娘の夫――吉継の婿であろうが」
範忠はよく知っている。雅一郎は挫けずつづける。
「ではその
「ええいっ!」
範忠は苛立った。
「そのようなことに何の関わりがある。ともかくあの男は……」
「酒屋の
雅一郎が範忠のことばを抑えて言う。
「あの男は酒屋の克四。市場の酒売りでございました。店も持たず、その日暮らしで、そのあたりの者に酒を注いで売って歩くのが日々の暮らしという、どうしようもない男であったといいます。それが、ことば巧みに令史様のお嬢さま、すなわち茂様に言い寄り、中原村の名主の座を射止めたのでございます。市場の酒売りに村を治める何のさいがありましょう、さくがありましょう? そして、その日から、われら中原村の村人は泥を舐めるような苦しみ――ことばに言い表すことのできるような苦しみではございませんでした」
「市場の……酒売りか」
範忠はそこでことばが詰まる。詰まりはしたが、つぎにその詰まったことばを一挙に吐き出した。
「でたらめを申すな! 父の忠臣をそのように誣いるとは許せぬ! いますぐ自害せよ、死をもって償うがよいッ!」
「主計頭様!」
言い返したのは雅一郎ではなかった。雅一郎が言おうとするのに先んじて、先は声がひっくり返って何の弁明もできなかった村西兵庫助が呼びかけたのだ。
「主計頭様、この長野雅一郎という男、真実の塊のような男でございます。けっして嘘のつけるような男ではございません! どうかお調べください! そのうえで、この男の言うことが嘘であれば、その中原造酒が酒屋のなんとかという市場の男でなかったとすれば、そのときにはどのような罰をもお与えください! その身を証そうとしたこの村西兵庫の身もともに捧げたてまつりまする!」
「えっ……えいっ、えいっ」
柿原範忠は何を言っていいのかわからなくなったのだろうか?
「ふっ……」
また気もちが声を追い越しているようだ。
「不愉快であるッ!」
あらん限りの声でわめいて、そのまま板張りの端にでんっと腰を下ろしてしまった。
何も言わない。
いや、そのあとで、もうひとこと、
「あわわわおっ!」
とわめき声を立てる。それでまた黙りこむ。
そこで前の四人も顔を上げられずにいる。
冷たい土間で腰を折ったまま、体の震えを支えつづけなければならない。
「殿」
そこへ屋敷の小者がやって来て、板張りの床に同じように平伏した。
「何だ?」
「吉山
「おおっ」
拳を握ってぶるぶるしていた範忠は立ち上がり、
「おおっ、いま行く!」
踏みしめる足で怒りを床に一歩一歩刻みつけながら、ときどきぶるんとかふんとか鼻を鳴らし、範忠は座敷のほうへと去って行った。