夢の城

清瀬 六朗


仕事の話(一)

― 下 ―

 「で、どうかな?」

 議論が再開されて、いちばん上座に座る得性(とくしょう)和尚が口を開いた。重い声だが、ことばの入り際や終わり際の声が浮いていて、どこか軽い感じがする。

 息子の元資(もとすけ)は、ふだんは腰が軽そうなしゃべり方をしているが、ことばの端々が軽くなることはめったにない。親子でそういうところがぜんぜん違っている。

 「牧野郷・森沢郷への貸し銭をこれからどうするかということについて、ご使者衆のお考えをまずききたいと思うが」

 「はい」

 隆文(たかふみ)は、まず得性和尚に、それからほかの金貸し衆に向かって深々と頭を下げた。

 「牧野様の義挙のあと、城館は牧野・森沢二郷を敵同然に見て重い年貢に地子(じし)段銭(たんせん)を課し、とても新たに田畑を開くどころではありません。それでは借りた銭が返せる道理もない。それにこの連年の不作です。水に恵まれた森沢はともかく、牧野の者たちは日々食うものにもこと欠くありさまだ。麦が食えればいいほうです。借りた銭が返せないのは牧野の村人が怠けているからではありません。牧野の村人たちはまじめでよく働く者たちです。それで銭がたまらず、返せないのは、城館のご政道と天気の不順だったせいだ」

 美那はほっと頬を弛めた。

 隆文はあの若い安総(あんそう)の言うことをちゃんと聴いていて、それをきちんと銭屋衆に伝えようとしている。

 さわも同じことを思ったようだ。美那の目を(ぬす)むように見て(うなず)いた。

 「ここはひとつ、牧野・森沢郷への貸し銭を帳消しにする、あるいは、森沢郷への貸し銭は別としても牧野郷への貸し銭だけは帳消しにする。そうすれば、かの者たちも借り銭の心配もなく田畑を開き、村を興すことに力を尽くせましょう。私はそのように考えますが」

 隆文は銭屋衆の全部を見回して、それから美那とさわのほうを向き、たがいに頷きあう。

 だが、さっきは食い入るように隆文の話を聴いていた銭屋衆も、こんどもなかなか顔を合わせないのは同じだが、たまに顔を合わせると、小さく首を振ったり、首を傾げあったりしている。

 その場のようすを見て、軽く咳払いしてから、得性和尚は言った。

 「牧野・森沢二郷、または、少なくとも牧野郷への貸し銭は帳消しにするというのが、牧野郷で話を聴いてこられたご使者の考えのようだが……」

 得性は少し言いよどむ。

 「いかがかな?」

 「うむ、言いたいことはわかるがな」

 言いにくそうに(つかさ)屋の匡修(まさなが)が言った。

 ことばを切り、崩していた足の膝を引っぱって座りなおす。

 「取り立てを一年また一年と延ばしていくというのはできても、減免というのは、その、難しかろうな」

 言ってその場の者を見わたす。すると甲子(かっし)屋の史晋(ふみみち)がすぐに言い返した。

 「難しいことはないって」

 匡修がその史晋をまた強くにらみつける。史晋は臆せずつづけた。

 「だっていつまで経っても取り立てはできないんだろう? だったら、その取り立てのできない借銭借米を帳消しにしてしまえば、年に二度も三度も取り立ての使者を送る手間が省けるってもんじゃないの。牧野・森沢というと遠い土地だし、おれたちだってそんな人手が余っているわけじゃない。現に、今度は身内で使者が立てられないで、隆文さんたちに行ってもらったわけじゃないか。手間を省いて、それでやつらが喜ぶんだったら、それでいいじゃないか」

 「手広く貸してるあんたたちはそれでいいよ」

 女銭貸しの小綾(こあや)がすぐにその史晋のほうを伏し目でにらんで言い返した。

 さっきは、(まり)葛太郎(かつたろう)(まゆ)の話を聞いて、姉と手を繋いで涙を溜めていた。そのときとはぜんぜん顔つきが違ってきている。

 「あたしたちなんかは村を回って銭を貸して、それを取り立てて暮らしてるんだから、そうかんたんに減免なんて話にされちゃ困るんだよ」

 やっぱり銭の話になると人が変わるんだなと美那は思って聞いている。べつに腹が立ちはしない。美那も町の店で働いている娘だ。そんなものだと最初から思っていた。

 「あんたのとこ、牧野には貸してないだろう?」

 史晋が言い返す。小綾はこんどは顔を上げて正面から史晋を見返した。

 「だからおまえは世間知らずなんだよ。牧野から子ども三人人質に取って借銭借米を減免してやりましたって話になったら、ほかの村だって、どうして暮らしが苦しいのはおんなじなのに牧野だけ減免したんだって話を持ち出して、払わなくなるよ。せいぜい子ども何人か差し出せばいいだろうって話になってしまう。そうなったら市場は役にも立たない子どもの遊び場になってしまうよ。ねえ」

 「うん」

 小綾に同意を求められた姉の小琴(おごと)もあいまいに頷く。

 「わたしたち、その牧野の人たちが辛い思いしてるってわからないわけじゃないのよ。でもだからって借銭を減免してやるってことになると、牧野だけを別扱いするよほど強い理由がなくちゃね」

 「だからそれはさっきご使者が言ったとおりじゃないか」

 倉持ちではない金貸しの雪次(ゆきじ)が言う。

 「あの……義挙?」
と言って匡修の顔をうかがう。匡修がもったいぶって小さく頷いた。

 「義挙以来、城館にいろいろと酷い扱いを受けている。それに、だいたい牧野は田畑がまだ十分に開けてないんだ。それで理由になるだろう?」

 「それは無理だよぉ」

 鼻にかかった声でことばを返したのは志多(しだ)屋の理禎(まささだ)だ。倉持ちの銭貸し衆では、元資を別にするとこの理禎がいちばん若い。

 「牧野はそれでも米が穫れるじゃないか。牧野より苦しいところはいくらでもあるんだ。こないだ騒ぎの起こった中原だって、中原郷のほかはぜんぶ山のなかで畑もないところがある。おれのとこが貸してる巣山なんか麦も穫れないところがあるんだぞ?」

 「巣山の柴山は城館から歳幣(さいへい)とかで年に一千石もらってることを忘れてはなるまい」

 雪次の兄貴格の時次(ときじ)が言う。

 「ほんとは一千石以上、二千石だとか三千石だって話もある。でも牧野はそんなのはもらってない。それどころかしぼり取られるばっかりだ。牧野みたいに年貢のほかにわけを(こしら)えて地子だの段銭だの取られてるところはほかにないよ」

 「それにあの牧野は市場とは昔から関係が深い」

 甲子屋の史晋がつづけて言う。

 「荒れ野の中で細々と麦だの(ひえ)だのを作っていたあの村を治部(じぶ)様がお拓きになったとき、市場の者たちはこぞって手伝いに行ったもんだと聞いてる。食えなくなって市場に流れてきてた牧野の連中で、牧野に帰って住みついたやつらもいる。牧野との情誼を守るのは市場にとってだいじなことじゃないか」

 どうもこの史晋には声がうわずる癖があって、何か話が軽く聞こえてしまうのだ。

 「だからそれはたいせつにしなければならん!」

 司屋の匡修がもったいをつけて腕を組んで言った。

 「しかし、それを減免というかたちではっきり出してしまっては、ほかの村もおんなじようなことを言い出して、収まりがつかなくなる。それにな、それでも無理をおしてそんなことをしたら、市場と牧野は手を組んで、牧野で出た損をほかの村に押しつけてるって話になるぞ。牧野の連中が反感を持たれたりしては、きっとそれはかえって情誼に(もと)る。だから、ここは、毎年、催促をつづけて、それで取れるときに返してもらう――それで十分だ。おれはそう思うぞ」

 「柿原党に米の隠し倉を焼かれたって話は考えなくていいのか?」

 雪次が言う。志多屋の理禎が首を振った。

 「だいたいな、隠し倉を持っていたことだけで、やつらはかえって責められてもいいんだ。返せないと言いながら倉に銭米を隠してたんだからな」

 「不作の年に備えて米倉を持っておくのはどこの郷でも許されてることだ」

 史晋が不機嫌な顔で言い返す。

 「それまで取り上げて銭米を返させる柿原のやり方がおかしいんだ」

 「あの人たちはどこにでも気軽に貸してるよ――そのかわりきっちり厳しく取り立てる」

 小綾が身を乗り出して口をはさんだ。

 「わたしたちはっていうと、取り立てを厳しくしないかわりに、最初から返してくれそうもないところには貸さない。だから、市場にいるとわからないけどね、村に行くとあんがい柿原は当てにされてる。嫌われてはいるけどさ、でも、わたしたちが貸さない相手にもかんたんに貸してくれるってね。それでわたしたちが貸すのを渋ると柿原から借りてやろうって厭味を言われる」

 「しかたがなかろう」

 匡修が渋い顔で言った。

 「これでもずいぶん返ってこない貸し銭を抱えてるんだ。おれたち自身がやっていけなくなってはほんとに元も子もない」

 「だったら柿原から借りてやるっていうとはおれもよく言われるけどね、小綾さん」

 雪次が口をはさむ。

 「でもほんとうに柿原から借りる気のある連中がどれだけいるかな?」

 小綾はむっとして言い返した。

 「わたしたちから借りられなくて柿原から借りてる連中は、いまは少ないけど、増えてきてはいるよ。この連年の不作以来ね、巣山はもちろん、玉井郡でも増えてるんだ」

 「やっぱりわたしたちが返してもらうあてがないから貸せませんって言うと、柿原から借りるほかはないって言うよね。そう言って泣かれて裾にとりつかれたこともあるよ。で、あとで調べてみると、やっぱり柿原から借りてるの」

 小琴が妹のことばにつけ加えた。

 「まあ、そりゃそうだよな」

 志多屋の理禎が言った。

 「どこかから借りないと食えないわけだから。さっきの話にでてきた中原だってそうだろう?」

 理禎が確かめるように自分に目を向けたので、美那は黙って頷いて見せた。

 「中原の連中が柿原から借銭を重ねてなければ、中原の名主の息子が村に取り立てに行くこともなかったし、へんな了見起こして殺されることもなかったんだ」

 「あの克四(かつし)が死んだとはな」

 司屋の匡修が急にことばを詰まらせながら言う。

 「市場にいたころは陽気でいいやつだったのに……わけもわからず調子に乗って名主なんかになるから!」

 眉をひそめて吐き出すようなその匡修のことばのあと、みんな黙りこんでしまう。

 得性和尚も目を伏せて床のほうに目を向けたまま黙っている。

 「ところでみんな」

 遠慮がちに声を上げたのは元資だった。

 得性は探るようにその自分の息子を見る。

 「だいじなところを忘れてないか?」

 金貸したちがいっせいに顔を上げて元資のほうを見た。

 「つまり、徳政のこと……徳政があるとしたら、おれたちの考えにかかわりなく、牧野や森沢への貸し銭はぜんぶ返ってこなくなるってことだ」

 「徳政があるとは限らん!」

 司屋の匡修が鋭く言い返す。さっき「酒屋の克四」の話をしたときの不機嫌を引きずっているのだろうか。

 「でもこんどのは確からしいぜ。竹井で一揆を起こさせて、城館で年貢の減免を決めるって筋で、小森式部あたりが動いてるっていうから」

 史晋が、さっきとちがって控えめに言って、匡修の顔をうかがう。

 「いまは確かでも先がどうなるかわからん」

 匡修は、史晋の顔は見ずに、腕を組んで首を振った。

 「あの越後守(えちごのかみ)のことだ。最後になって気が揺らぐかも知れぬし、ことに柿原の爺さんに反対されたら腰が引けてやめてしまうんじゃないか」

 「だが、その柿原がほんとうは反対してなくて、この徳政を使っておれたちを陥れようとしてるって話だから、こうやっていま慌てて銭集めしてるんだろう?」

 志多屋の理禎が苛立(いらだ)ち気味に言った。

 「こんなところでゆっくり話をしてるひまなんてほんとはないんだよ」

 「だが、評定衆(ひょうじょうしゅう)はあれはあれでそれほど頼りにならんわけでもない」

 時次が声を上げる。

 「評定衆が決めたことは越後守でも柿原大和でもかんたんには覆せんというぞ」

 「それは表立って決めたことについてだ」

 匡修が重々しげに言い返した。

 「竹井で一揆を起こすなんて表立っては決められんし、表立って決めてないことなんか柿原がその気になればかんたんに封じてしまえる。それに、こんどの徳政の件、評定衆の全部が動いているわけでもなさそうだ。小森式部の浅知恵だ。小森に反感を持ってる評定衆だっている。そいつらは納得してないだろう。そうでなければこんなぼろぼろ話が漏れてくるはずがない」

 「いや、だから」

 元資がもういちど話に入った。

 「おれたちはいちおう徳政があるときのことを考えていま動いてるわけだからさ。さっき志多屋さんが言ったように、いま徳政のないときのことまであれこれ考えるゆとりはないんじゃないか?」

 理禎は自分が言ったことを取り上げてもらえて、もったいぶって二度頷いた。何か芝居がかっている。そういえばこの理禎という男は芝居好きで、芝居師とも関わりが深いという話を美那はきいたことがある。

 「で、どうするんだ?」

 匡修の声はだんだん重くなって行く。

 「どっちにしても、その徳政っていうのがあるとするとだ、それがあるまでにもういちど牧野に取り立てに行くのは難しい。だから、ここで話し合うのは、牧野からも取り立てるんだってこれからも言い張るか、やめるか、どっちかってことだろう。それもまた難しいな。牧野からだって人質を取ったんだって言えばとりあえずは払ってくれる連中は増える。でも、市場の銭貸しは牧野を見捨てたのかって思われるぞ。市場の中でも商売がしにくくなる。だからって、帳消しはもちろん、牧野からは当分取り立てませんなんて言えば、やつらは喜んで牧野から取り立るまで自分も払わんって言い出すだろうな」

 その座にいる者たちはみんなため息をつく。黙ってしまう。

 元資が顔を上げ、いちばん隅に、小琴・小綾姉妹と時次・雪次にはさまれて小さくなって座っている笹丞(ささのじょう)に声をかけた。

 「ところで、笹丞さんの考えはどうなんです?」

 「わたしは……」

 笹丞はぴくんと首を引いた。

 「わたしはとくに意見はありません、はい」

 言って、整った鼻筋の両側の目ははっきりと元資を見ている。

 「みなさんのお考えをお聴きして勉強させていただいているところで」

 「そうですか」

 元資は言って頷いた。

 しばらくまただれも何も言わない。

 元資が少し身構えを崩し、短く息をついて、つづけた。

 「正直に言うと、本寺のわたしとか倉持ちの連中は、徳政になってもなんとかやってはいけるんです」

 「うちは無理だぞ」

 匡修がしかめ面で目を閉じて言う。

 「うちもだよ」

 史晋がすかさず言って鋭い目で匡修をにらむ。

 「それは失礼」

 元資は二人に軽く頭を下げた。

 「しかし、もっと困るのは倉持ちでない人たちだ。笹丞さんにはいま聞いたから」

 当の笹丞がぴくんと背を動かし、まなじりを上げて元資に目をやる。だが、笹丞が隅にいて目立たなかったからか、元資はその笹丞には目を留めないで話をつづけた。

 「時次・雪次さん、それに小琴さんとこのお二人――まず考えを言ってもらえませんか?」

 「くっ」

 笹丞が喉の奥で音を鳴らす。他のだれも気づかなかったかも知れない。でも美那は気づいていた。

 「なに?」
と美那は声を立てそうになった。だが、その前に
「ではまず、わたしから言いましょうか」
と小琴が話し始めた。

 もう少し早く声を立てておけば美那は笹丞に話をさせることができたかも知れない。けれども、やっぱり、美那は銭屋衆の一人ではないばかりか、銭屋から銭を借りていてなかなか返せない店の養い子だ。この寄合の話に入るのは、この前の川中村での話に割りこむのより気が引けた。それに何より美那はその男の名をはっきり覚えていない。

 ただ、ここの座に安総さんみたいなひとがいればな――とふとそう思っただけだ。


 美那が銭屋衆の寄合に出ていったあと、藤野屋では、使用人頭の橿助(かしすけ)が広沢の葛太郎につきまとわれて困っていた。

 「なあ、いいだろう? 何か仕事させてくれよ」

 「仕事なんかしなくていい」

 橿助は(かまど)の前に座ってうるさそうに言って断る。

 「仕事なんかしなくていいから仕事のじゃまはしないでくれ」

 「じゃまなんかしてないよ」

 葛太郎が不服そうに言う。

 「じゃとっとと部屋に戻れって」

 「仕事させてくれたらその仕事をやるよ。だからさ」

 「だから仕事はしなくていいって言ってるんだ」

 「だからおかみさんに言われたんだよ、仕事しろって。あんたも聞いてただろう?」

 「だから薫さんは店の仕事とは言ってないじゃないか」

 「言ってたよ」

 「だれが?」

 「薫さんの左のほうに座ってた姉ちゃんがさ」

 「あれは隣のあざみちゃんだろうが」

 橿助は思わず葛太郎のほうを振り向く。

 「とにかくこの店の指図をするのは薫さんで、薫さんが指図しないことはおれが決める。だから行ってろ」

 「ちぇっ!」

 葛太郎は首を振った。

 「仕事したいって言ってるのにさせない大人がいるなんて、信じられないよ」

 「おれの指図をきかないやつに仕事なんかされてたまるか!」

 「……吹くよ」

 「何?」

 橿助は葛太郎が何を言っているのかわからなかった。

 「だから煮立つよもうすぐ。いいの?」

 「だから何が?」

 「その鍋!」

 「あっ!」

 慌てて橿助は鍋の取っ手に手をかけ、また慌てて引っこめる。

 「こいつっ!」

 鍋を罵ったのか葛太郎を罵ったのか――橿助は鍋から木蓋をはずし、竈の焚き口を鉄の蓋で塞ぎ、横の卓の上に置いてあった濡れ布を慌てて鍋の周囲にあてる。しゅうと音がして布から激しく湯気が上がる。橿助は布が熱くなると別の濡れ布をすばやく取ってまたあてる。濡れ布を三たびあて替え、上から鍋をのぞきこむと、橿助はようやく大きく息をつき、はずした木蓋をすばやくもとに戻した。

 そのあいだ、葛太郎は、橿助の動きに引っぱられるようにその働きを見ていた。

 木蓋を載せ、しばらくじっとしていた橿助は、葛太郎が自分のほうを見ているのに気づくと、ふいにそちらに目をやった。

 葛太郎はさっきにも増してまるい目を輝かせて、橿助の顔を仰いでいる。

 「こらっ!」

 橿助は震える声で怒鳴った。葛太郎は思わず足を二歩三歩と後ずさりさせる。

 「おまえがうるさく言うせいでもう少しで(くず)をまるまるだめにするところだったじゃないか!」

 葛太郎は何か言おうとしたが、口のなかの唾を呑みこむのがせいいっぱいだった。

 「大人の仕事のじゃましやがって! 何もできないくせに! こんどつきまとったらこの竈にその憎らしい頭たたきつけてぶち割ってやるから、覚えておけ!」

 葛太郎は怯えた。だが、こんどは、もういちど唾を呑みこんでから、背筋を伸ばし、両方の拳を握り直して、きつい目で橿助をにらみ返した。

 「勝手なこと言うなよ」

 「何だ?」

 橿助は、葛太郎が言い返してきたのを、何かの聞き間違いとでも思ったのだろうか。

 「勝手なこと言うなって言ってるんだ」

 葛太郎は大声を上げた。

 裏口から騒ぎを聞きつけて使用人が三人ほどのぞきこんでいるのだが、止めに入る者はだれもいない。

 ただその葛太郎の言いぐさにはらはらして、戸口や、戸口の隣の窓からようすを見ている。

 「あんたが勝手に吹かせたんだろう! おれは煮立つ前に煮立つって言ってやったじゃないか! なんでおれが怒鳴られなければいけないんだ?」

 「おまえがうるさくするから吹かせたんじゃないか! 気が散るんだ、おまえみたいなのがいると!」

 「おれがいるくらいで気が散るようでよくそんな偉そうな口がきけるな! あんた……」

 葛太郎はつづけるつもりだったのだろう。だが、その前に
「葛太っ!」

 背後から鋭い娘の声が飛んで、葛太郎はそのまま身動きができなくなってしまった。

 「毬……!」

 橿助には一言も譲らなかった葛太郎は、目を伏せ、しかも伏せた目のやり場を落ちつきなくさがしている。

 毬は片足を引きずりながら歩いてきた。で、その十分に自由にならない足で土間におりようとする。手助けしようと葛太郎はその毬のほうに近づき、手をさしのべかけた。だが、その手はすばやく毬に薙ぎ払われ、右手の手の甲でぴしゃんと右の頬をはたかれた。

 音もしなかったし、それほど派手な動きではなかったが、葛太郎は弾かれたようにしゃがみこんだ。すぐに立ち上がったが、その頬を両手で強く押さえて、その上の右目からは涙がこぼれていた。

 「働きたいんならお店のひとにそんな口きくんじゃないの! だいたいあんた昨日働くのなんかいやだって言ってたじゃない」

 葛太郎は涙をにじませたままじっと立っている。顔だけ毬のほうを向いているが、毬の顔は見ていない。

 「思いつきで働かれたらお店のひとも迷惑なの!」

 言って、毬は、くるんと橿助のほうを向き、黙っている葛太郎の肩にこんどは左手をやって葛太郎も同じほうに向かせた。

 自分は橿助に頭を下げる。

 「弟が生意気を言って、こんなことになって、すみませんでした」

 橿助は唇のまわりを動かしたが、何も言わず、頭を下げている毬の頭の後ろと、となりで目を上げられずにいる葛太郎を見ている。

 毬はそのままずっと頭を上げなかった。体に巻いた布が着物のところどころからのぞいて見える。

 「お……」

 橿助はいちど声を立てかけ、それから声を引っこめ、ぷいと横を向いた。

 「そのろくでなしは柱に紐で縛りつけておけ」

 橿助は横を向いたまま言う。毬が何も言い返さないと、橿助は横を向いたままさらに言った。

 「そうしないと、おまえもいっしょに竈でその頭たたき割ってやるからな! 覚えてろ! まったく、姉も弟も揃って、ろくでもないやつらだ」

 その声を聞いて、葛太郎は顔を上げた。

 そして、腫れた頬に手を当て、血走った目でその橿助をきつくにらみつけた。

 さっきの口論のときにはけっして見せなかった目つきだ。でも、橿助はずっと横を向いていたので、その目つきに気づくことはなかっただろう。

 毬は顔を上げると、もういちどその橿助のほうに向きなおって頭を下げ、それから「さ」と葛太郎のお尻を押して、部屋のほうに戻って行く。

 葛太郎は、毬に押されるまま歩きながら、それでもときどききつい目を橿助のほうに向けていた。

 橿助は姉弟が部屋を抜けてその姿が見えなくなってしまうまで子どもたちの姿を見ることはなかった。

 かわりに橿助の目にとまったのは裏口から顔を覗かせている使用人たちだった。

 「そんなところで何やってる! あっち行けっ!」

 橿助が怒鳴ると、使用人たちは弾かれたように戸口や窓から離れて行ってしまう。

 橿助は、背を曲げると、力が抜けてしまったようにゆるゆると鍋に近づき、蓋をそっと開けて中のようすをうかがった。しばらく鍋の中をすかしてみるようにし、それから大儀そうに腰を屈め、竈の焚き口の戸を少しだけ開く。もういちどゆっくりと背を伸ばして鍋の中をのぞき見、蓋を閉めると、長い間かかって、反対側の上がり框のほうに足を運んだ。

 短い歩幅で歩いても五‐六歩のところを、ほんとうにゆっくりゆっくりと歩く。

 そして急に腰を落とした。腰を載せたところが、上がり框ではなく、その下の置き石だったことに気づいていたのか、それとも気づいていないのか。橿助はそこで右手をぽんと音がするほど強く自分の顔の眉の上に叩きつけ、そのまま右の手で顔を覆う。

 そのまま動かない。

 その橿助の口からは、むせび泣く声が少しずつ漏れはじめた。

 唇から(よだれ)が垂れるのにもかまわず、橿助は、同じところで、同じ姿でむせび泣きつづけた。

― つづく ―