夢の城

清瀬 六朗


仕事の話(二)

― 下 ―

 宿屋の水鶏(くいな)屋では、泊まりの客が出て行って、人の少なくなったところだった。

 ほっと息をついたところへ、駒鳥屋のあざみが小さい女の子を連れてやってきたのを見て、宿の女主人の玉枝(たまえ)はいやそうな顔をして見せた。

 「あざみちゃん、またさとをさそいに来たの?」

 玉枝はあざみが子どものころからこの水鶏屋をやっている。だから、あざみよりずっと歳上のはずだが、玉枝が歳をとったようにはあまり感じない。

 「ええ、まあ」

 あざみは気恥ずかしそうに笑った。

 「この子と遊んでもらおうと思って」

 あざみはつないだ手を玉枝のほうに少し突き出す。

 玉枝はしばらくあざみの顔をのぞきこんでいたが、ふと小さい女の子のほうに笑いかけた。

 「この子は?」

 「この子は藤野屋さんでこんど預かることになった預かり子なんです。ほら、玉枝さんにあいさつして」

 あざみに手を揺すられると、(まゆ)は玉枝の顔を見上げてのぞき込み、そのまま腰だけ曲げて頭を下げた。

 玉枝も腰をかがめて、その繭の顔をのぞきこんだ。

 「女の子さん、お名まえは?」

 「繭」

 「繭っていうんだ」

 「うん」

 「藤野屋さんで預かるんだから、藤野の繭って呼んでください」

 あざみが言って玉枝の目を見ながら小さく頭を下げた。あざみがどこを見ているかは繭からはわからない。

 「ふじのの……繭?」

 繭が目を大きく開いてあざみを見上げる。あざみは笑ってこんどはその繭の黒い目を見る。

 「そう。藤野の繭」

 「藤野屋さんって」

 玉枝はあきれた顔で言った。

 「また預かっちゃったの?」

 「……ええ」

 「薫さんも体は強くないのに……それに前の子で懲りてるはずじゃないの? あんなとんでもない子預かって」

 「美那ちゃんもいまはお店の手伝いもしてるし、おとなしくなってますよ」

 あざみは笑った。玉枝は疑わしそうな目で、
「そう? でも竹井から出てきたお侍を殴ったとかで、さとが怒ってたわよ」

 「あれにはいろいろ仔細があって」

 あざみが恥ずかしそうに言いわけをする。

 弦三郎に助けてもらって、仲間にはやし立てられるのがいやでとっさに殴ったといういきさつのどこに「仔細」があるのだろう?

 繭が少し口をとがらせて玉枝とあざみの顔を交互に見た。

 「それに、あの子、お店のあとは継がないんでしょう? それだったら何の意味もないじゃないの!」

 「おかみさんの元気づけにはなってますよ」

 あざみはそこまで拗ねたように言ってから、ふと思いついて、
「それにあの子がいたらたぶん泥棒だって入らないだろうし」
と愉しげに言う。玉枝もふっと笑った。

 「そうかも知れないけど、わたしたちは困るの」

 「どうしてです?」

 「あの店の葛餅が手に入らなくなったらやっぱり困るのよ。店でお客様に出してるんだから。あの店とおんなじ葛餅をうちで作ることなんかとてもできないし、ほかのお店に頼めるかっていうと、やっぱり無理だと思うからねぇ」

 「それは……」

 あざみは何を言っていいかわからず、困ってしまった。

 それで、それまでの話はなかったことにして、もとの何も考えていない声に戻って言った。

 「そんなわけで、おさとちゃんをお願いします。ね?」

 「まあ」

 玉枝は少し最初の不機嫌顔に戻りかける。

 「薫さんがそういうことならいいけどね。でも、さとも、昨日の夜、働きづめだったから」

 で、あざみの顔をのぞきこんだ。

 「あの子ね、無理でもなんでも、自分がやらないと、って思ったことには何でも全力をかけないと気がすまないみたいなのよ。だからそのうち無理がたたって倒れちゃうんじゃないかって思うこともある。そうなるとわたしの店にも困るし、それにねぇ」

 玉枝は何か言いかけて、途中でことばを濁した。

 「はい」

 あざみは、それにはかまわず、できるだけいっぱいに笑って頷いた。

 「気をつけます」

 「じゃ、裏で待ってなさい。さとを連れてくるから」

 玉枝は宿屋の奥のほうに入っていく。

 その玉枝のあとを目で追い、玉枝が見えなくなってから、繭はあざみの顔をわけがわからなそうに見上げた。

 「ふじのの……繭?」

 「そう」

 「広沢の繭とか、中の家の繭とかじゃなくて」

 「そうねぇ」

 あざみは人差し指を唇の横にあてて少し考える振りをしてから、うんっと頷いた。

 「うん、町に出てきたら村での名まえは言わなくていいよ。藤野の繭でいい。ね?」

 「うん……」

 繭はしばらく口をとがらせて目で客がいなくなった店のなかをあちこち見ていたけれど、けっきょくやっぱり気後れしたようにあざみの顔を見上げたのだった。


 それならばお(いとま)すると言って、元塚(もとづか)九郎衛友(もりとも)は、柿原屋敷の門番部屋をようやく出て行った。小者を幾人(いくたり)か連れて自分の新しい任地へ向かったのだ。

 かわって入ってきたのは背の低い痩せた男だ。

 顔が長く、目鼻立ちも整っているが、いつも不平を言いそうに唇のまんなかを押し上げている。生まれつきそういう顔かたちなのか、それともやはりいつも不平ばかり言っているからそういう顔になってしまったのかはわからない。顔色もよくない。青ざめた感じがする。

 これならばまだ衛友の相手をしていたほうがましだったと大松六郎彰立(あきたつ)は大きくため息をついた。

 「……で」
と彰立が言うと、男は
「はい」
とすかさず答える。

 律儀なのかも知れないが、何かことばをすぐに突き返されたようだ。

 男は、目を丸くして、その彰立の顔をうかがっている。落ち着いた振りをしているが、目が彰立の顔を見たり衣裳を見たり後ろの梁に目をやったりで、落ち着いていないのが手に取るようにわかる。それでせいいっぱい胸を張って座っているのがどうにもこっけいだ。

 「おまえは何者だ」

 彰立はわざと無愛想に言った。

 「はい」

 で、また男はちらちらと目を迷わす。

 「笹丞(ささのじょう)と申しまして市場で銭屋をやっている者でございます」

 「ほう、さかのじょうとは変わった名だな」

 「はい」

 笹丞は声を殺すようにして答えた。

 「で、大殿か若殿にご用だという話だが、何のご用かな?」

 「それは柿原忠佑(ただすけ)様か範忠(のりただ)様の前で申し上げます」

 笹丞は言っているあいだにも目であちこちを眺め回していて、向かい側に座っていても少しも落ち着かない。彰立は左の小鼻を引きつらせた。

 「大殿はご不在、若殿はお忙しくてとてもじゃないがおまえに会っている余裕はない」

 わざと横柄に応対する。

 だいいちこの男は(まいない)を持ってきていない。それだけでも追い返す理由としては十分なのだ。

 「わたしがご用を取り次ぐ役だ。まずわたしにその用とやらを言うがよかろう」

 「いいえ」

 それなのに笹丞は何の抑揚もつけず平然と答える。

 「だいじなことなので、柿原忠佑様か範忠様にじかに申し上げます」

 このそんなに広くない部屋にそんなに見るところがあるとも思えないのに、目はあいかわらずあちこちを探っている。

 「だから大殿はご不在、若殿はお忙しいのだ」

 彰立は繰り返した。

 「わたしが大殿か若殿に取り次ぐから、まずわたしがご用を(うけたまわ)ろう」

 「いいえ」

 笹丞はためらって、口を開けかけては閉じるのを何度も繰り返したが、けっきょく、
「それでは、忠佑様が戻られるか、範忠様がお忙しくなくなるまで待ちます」
と言う。

 彰立はこんどは大げさにため息をついた。

 「それはいつのことになるかわからぬ。一日後か、二日後か、半月も後のことか。それまでこの部屋にいていただくこともできぬから、お帰りになって出直されるがよかろう」

 「あの」

 笹丞はふらふらさせていた目線を定めて、下から()めるように彰立を見上げる。

 こうやって見られるのもやはり気もちがよくない。

 「今日じゅうにお忙しくなくなるということはないのでしょうか?」

 「ない」

 彰立は突っ返すように即答した。

 「だからお帰りになるがよい」

 「い、……いえ」

 笹丞はまた何を言うでもなく口をぱくぱくさせる。

 「ではお話しします」

 笹丞は落ちつきなく座りなおすと、彰立がいいとも何とも言っていないのに、せわしく切り出した。

 「これを買い取っていただけませんか?」

 言いながら懐から紙綴りを取り出し、彰立の前に置く。

 彰立は手も触れようともせず、背を伸ばして笹丞の顔を見下ろして言った。

 「これは何だ?」

 「借銭の証文でございます」

 笹丞は答えてひとつまばたきした。

 「これで三十貫文ほどあります」

 「三十貫文ねぇ」

 「わたしの妻は」

 笹丞は胸を張って説明を始めた。

 「この証文を市場の大きな銭屋に買い取ってもらえとしきりに言います。しかし、市場の銭屋はどれも誠の心のない者ばかりです。ご存じですか、志多(しだ)屋の理禎(まささだ)という男を。わたしのことを、笹から生まれたから笹丞だなどと陰口を叩いております。ほかの者も祖先からこの地で銭屋をやっていたこの私を目の敵にし、陰でばかにして回っています。あの本寺の元資(もとすけ)などという男も親の代から金貸しを始めたに過ぎないのですよ。それなのにまとめ役のような顔をしている。そんな者に証文を売っても安く買いたたかれるばかりです。そこで、誠の心をたいせつにされる柿原様ならば、この証文を高く買い取ってくださるはずだと思い、ここにお持ちしたしだいなんですよ」

 笹丞は言ううちに気もちが高ぶってきたのか、言い始めはおずおずとうかがうようにしゃべっていたのに、最後には、昔からの友だちに語りかけるようにうれしそうな声になってとうとうとしゃべっていた。

 だが、彰立は、顎の左側に生え始めた(ひげ)を右手で何度か()いて見せるだけだった。しばらくしてから笹丞にきく。

 「で、貸し先は?」

 「玉井郡内の村々でございますよ」

 「村々ではわからぬ」

 「はい、牧野郷、下響(しもひびき)、井川そのほかです」

 「牧野だと?」

 彰立が険しい顔になった。

 「牧野にはいくら貸した?」

 「まき……のですか?」

 「いくら貸している?」

 「はあ……いえ」

 笹丞はとんだ難題を突きつけられたようにとまどった。

 「それは、妻が勘定しておりましたゆえ、わかりません。そこで証文を調べて合算(がっさん)していただければすぐにわかりますが」

 彰立は目を丸くした。

 「わたしに……その勘定をやれと?」

 「はい、それほど難しいことではありません。そうすればすぐにわかるはずです」

 「あいにくと算盤がない」

 彰立は無愛想に言い返した。

 「それに、勘定をあんたの妻がしていたというのなら、いちど帰って、あんたの妻とやらと出直してくれ。勘定をしていたひとと話ができるなら、そのほうが話が早い」

 「いえそれは」

 笹丞は身を前にかがめて震えだした。

 「困ります……だいたいなら申し上げられますが?」

 彰立の顔をのぞきこむ。

 彰立は値踏みするように笹丞の顔を見て、鼻を鳴らしついでに答えた。

 「ではだいたいでよい。どこの村にどれぐらい貸した?」

 「はい。牧野におよそ半分です。下響には五貫文ぐらい、井川にはもう少し多いぐらいでしょうか?」

 「わたしにきかれてわかるわけがないだろう」

 彰立が頭ごなしに言う。

 「下響や井川ではどのような家に貸した?」

 「下響は、まず板屋の……」

 「そうではなく」

 彰立は苛立っていた。

 「どれぐらい返してくれそうな家に貸したのかだ。富家か、貧家か、そのあいだぐらいか?」

 「それは貧家です」

 笹丞が胸を張ってまばたきした。

 「誠の心のない市場の銭貸しは、返してもらえるあてがないなどと言って貧家には貸しません。しかしほんとうに銭が入り用なのは貧家です。柿原様は貧家にも手広く貸しておられると小綾(こあや)さんにききました。それで柿原様に……」

 「では、これは買えぬな」

 笹丞にぜんぶ言わせず、彰立は証文の綴りを笹丞に投げ返した。

 彰立に投げられてから床を滑って自分の膝の下まで来た証文綴りを、笹丞は手に取ろうとしない。

 傲然と胸を張って申し立てる。

 「では忠佑様か範忠様にお売りします」

 「だからそれなら出直してこられよと言ったはずだ!」

 彰立は怒鳴りつけた。

 その声をきいただけで、笹丞は両手を前に泳がせ、これまで胸を張っていたのはどうしたのか、後ろに縮こまってしまった。背を丸め、小さくなって、彰立のようすをうかがっている。

 手を胸の前に揃えて、その指の先が震えている。

 彰立は勢いづいた。

 「それにこのようなものはな、大殿も若殿もお買いにならぬ。考えてもみよ。牧野からは銭は取れぬ、市場の銭貸しならばそれぐらい知っていよう。そのほかも貧家ばかりとは! 貧家に貸した銭などどぶに捨てたも同然、いや、どぶに捨てた銭は拾えばまた使えるが、貧家に貸した銭はそもそも取り戻しようがない。このようなものは、そちらから一貫文でも二貫文でも添えて、おそれながらこの銭で引き取ってくださいと差し出すものだ。銭屋のくせにそんなこともわからぬのか! さっさ帰れ、腐れ銭貸しめ!」

 「そんな……」

 笹丞は両方の頬を引きつらせた。声も裏返り、そして急に早口になっている。

 「柿原様はどのような貧家にもお貸しになり、そしてきちっと約定どおり取り立てられると小綾さんからきいています。これこそ誠の心をお持ちの証拠です。市場の銭貸しは、貧家には貸さぬと言いながら、約束どおりに払わぬ借り主をそのままにして甘やかし、それを情誼などと言ってごまかしています。わたしは何よりも誠の心がたいせつだと思います。だからこれを柿原様にお持ちしたのです。そのわたしの心をわかってください、お願いします」

 笹丞は涙を(にじ)ませていた。言って何度も頭を下げる。彰立が上から抑えつけるように言った。

 「ならばなおのことその証文をわれら柿原党に売ろうとするのはおかしいではないか」

 笹丞が頭を下げるのをやめる。

 彰立はもっともらしく諭した。

 「誠の心と言われるなら、その証文にある銭についてはおまえと借り主のあいだにその誠の心があるはず。誠の心は貸した者と借りた者のあいだにじかに生まれるものだからな。ところが柿原党はその借り主を知らぬのだ。顔も知らぬ、会ったこともない、それどころか名も知らぬ。それでは誠の心など生まれようがないではないか。借り主をよく知っているのはおまえ自身だ。ならば、おまえ自身が取り立ててこそ、誠の心は果たされる。それを柿原党に取り立てさせるならば、その誠の心はどうなる? ん? それでよいのか? よくないであろう?」

 「はぁ、そうですね……」

 笹丞はうつろな目で彰立を見ていた。その彰立に淀んだ声を押し出すようにきく。

 「ならばどうすればいいのです? 教えてください」

 「だからさっさと帰れ」

 「それはできません」

 「誠の心を貫くならおまえが自分で取り立てるしかないのだ、その妻に勘定してもらいながらな」

 彰立はふんっと鼻を鳴らして話を終わるつもりだった。だが、笹丞は
「だからお願いです、教えてください! お願いです!」
その彰立の前で繰り返し頭を下げて、その顔色をうかがっている。

 それを哀れと思ったのか――。

 それとも、柿原党と張り合ってきた市場の銭貸しの一人を降参させると、それが自分の手柄になると思ったのか。

 「それでは教えてやろう」

 餅をつくように勢いよく頭を下げたり上げたりしていた笹丞の動きが止まる。

 「自分で取り立てられよ」

 笹丞の(からだ)から力が抜けるのが手に取るようにわかる。その力が抜けきってしまうわずか前に、彰立がつづけた。

 「ただし一人では心もとなかろう。柿原党の者を取り立てに何人かつけてやろう」

 「何人か、ですか?」

 「ああ」

 彰立はにやりと笑った――さっき元塚九郎衛友が自分に向かって笑ったように。

 「武士出身の者を四人――それでいいか?」

 「はい。……はい!」

 笹丞は目を輝かせた。

 「もちろん、その者たちの手当はおまえに支払ってもらう。その者たちの調度いっさいもおまえが払わねばならぬ、もちろん宿代や飯代もだ。それに柿原党がその者たちを世話するのだから、柿原党にも歩合を決めて銭を払ってもらわなければならぬ。しかし、それを除けば、自分で取り立てた銭は自分のものだ。工夫しだいでどれだけの銭でも自ら蓄えることができる。それに」

 笹丞の目が曇りはじめるまえに、彰立は声を落ち着かせて、つけ加えた。

 「自分で取り立てればその誠の心も(かな)うだろう?」

 「ああ、はい」

 笹丞はあいまいに答えた。彰立はその笹丞の顔を得意げにのぞきこんだ。

 「ん? 何か不審なところでもあるのか?」

 「あ……いえ……あの……」

 「やはり気が進まぬと言われるならそれでもよい。さっさとお帰りになるがよい」

 「いえ、気は進んでいます、進んでいますが、あの……」

 笹丞はことばを詰まらせたが、また彰立にその顔をのぞきこまれて、ぐっと唾を呑みこんだ。

 「あの、柿原党への払いはどのぐらいの歩合で……」

 「なんだそんなことか」

 彰立はわざと目を細めた。

 「五割……でどうだ?」

 「五割……?」

 「不服か? 安くして五割と言ってやったのだ。柿原党から力を貸している銭貸しの中には、六割や六割五分を出しているのもいるんだぞ」

 「いいえっ! いいえいいえ、めっそうもありません、めっそうも……」

 彰立は立ち上がった。

 「ならばその四人の者を連れてきてやる。すぐにでも取り立てに向かわれるがよい」

 「すっ……すぐですか?」

 笹丞はまた怯える。彰立は見下ろしてめんどうくさそうに言った。

 「もちろんではないか。すぐでなければ、その四人の者をほかの仕事に回すが、どうだ?」

 「では、すぐでなければ、何人の方がつくのでしょうか?」

 「だれもつかぬ」

 彰立はあっさりと答えた。

 「いますぐならば、手の空いている者が幸い四人もいる。その四人を回してやろうと言っているのだ。しかし柿原党もいま忙しい折りでな、その四人をほかの仕事に回したら、つぎに一人でも手の空いた者が出るのがいつになるかはわからぬ。やはり市場に帰ってひと月後にでもふた月後にでも出直していただくしかないな」

 笹丞は腰を浮かした。

 「いま……いますぐ行きます。だからその四人をお願いします。いますぐお願いします!」

 「うん……では待っていろ」

 彰立は何を考えていたのだろう?

 元塚九郎衛友が白麦(しらむぎ)山の賊との戦いで手柄を上げるなら、自分は市場の銭貸しを柿原党に寝返らせていくぶんの手柄を占めようとしたのだろうか。

 しかし彰立はもう少し落ち着いていてもよかった。

 ここで笹丞を問いつめればいろいろなことがわかったはずだ。竹井で一揆をわざと起こして三郡徳政に持ちこむという小森式部の筋書きも、その三郡徳政の機会をとらえて町の銭屋たちを陥れ、権勢を伸ばそうとしている柿原党のたくらみも市場に漏れている。市場の者たちが牧野から連れて来た人質というのは子どもがたった三人だった。問われれば笹丞はそんなことを喜んで話したに違いない。

 だが、笹丞から落ち着いて話を聞くには、彰立の心ははやり立ちすぎていたようだ。


 藤野屋の奥の間――いつも美那が「意見」される部屋だ――では、美那と薫が、また気まずく黙りこんでいた。

 美那がため息をついた。

 「それは大人の仕事場に入りこんでしつこくうるさくした(かつ)ちゃんもよくないけど、橿助(かしすけ)さんの怒りかたも少し度を超してはいない?」

 薫は、意見するときとは違って、美那とは向き合いも並びもせず斜めに座ったまま、少し前の床をぼっと見下ろしている。

 美那はつづけて言った。

 「それはわたしが勝手に水汲みに連れて行って勝手なことを言ったのは悪かったよ。でも、葛ちゃんのやったことって、わたしが子どものころにいくらでもやったことじゃない? わたしなんかわざと鍋ひっくり返したこともあるし、できた葛餅を夜のうちに床にぶちまけて売れなくしたこともあるし、水鶏屋さんに納める葛餅をぜんぶ食べちゃって、そのあと蜜の壺の蓋を開けたままにして、その壺の蜜ぜんぶ使えなくしたこともあるんだよ」

 ずいぶん悪いことをしたものだ。それに、水鶏屋に納める葛餅をぜんぶ食べてしまったのなら、玉枝がこの子を悪く思うのも無理はない。

 「それに較べれば葛ちゃんなんかまじめに仕事しようとしてるんだから」

 でも、薫は何も言わないで、さっきと同じようにぼんやりと床を見ているだけだ。

 美那はたまらず言った。

 「ねえ、きいてる? おかみさん」

 「きいていますよ。あなたがどういうことをしたかもちゃんと覚えています」

 薫はすかさず答え、美那はことばに詰まる。

 でも薫がぼんやり床を見ているのは変わりがない。

 「ねえ、おかみさん」

 美那が気を取り直して言った。

 「橿助さんからも話を聞こうよ。そんなにひどく怒ったのなら、ほかにもわけはあるかも知れないじゃない?」

 少し声がひっくり返って、拗ねたように聞こえる。

 薫が笑いを浮かべ、美那のほうに顔を上げた。

 「昔のあなたはよくそんな声を立てたものですね。いまの言いかたはそのころにそっくりですよ」

 「そんなのどうだっていいじゃない!」

 美那はますます拗ねた声を立てる。薫はまたうつむいてしまった。

 「だからそういうことじゃないんですよ」

 うつむいて、もとのように少し前のほうの床に目をやる。

 襖越しの日の光が、すぐ外にある梅の枝を揺らして、その床に躍っていた。

 美那は、何が「そういうことじゃない」のかわからず、少し首を傾げて黙ったままでいる。

 「あなたが店で暴れていたころとは違うんです」

 薫は目を上げて美那を見た。

 美那は息を呑んだ。

 「何が……違うんですか?」

 「橿助がね」

 薫は言い淀んだ。美那の前ではめったにそんなところを見せないのに。

 「じつは、あなたが村に行っているあいだに、仕事をやめて山に帰りたいって言い出したのです」

 「えっ?」

 美那が驚いて顔を上げると、その美那の顔を薫が見ている。

 「橿助は衰えを感じているらしいのですよ」

 「衰え? だってあんなに元気なのに」

 「味の細かいところがわからなくなったって言うのですよ」

 美那は何も答えない。

 「それを知って葛太郎さんの話を聞いていれば、橿助が怒ったわけがわかるでしょう?」

 薫は穏やかにつづけた。

 「少し前までの橿助ならば、ほかの使用人と話をしながらでも鍋が吹くのぐらい見逃しはしなかったでしょう。それが、葛太郎さんと話しただけで、鍋が煮立つのに気がつかなかったのです。葛太郎さんがうるさいから怒ったわけではないのですよ。たぶん、葛太郎さんがその衰えを橿助にまた気づかせてしまったのです」

 「そうだったんだ」

 美那は言って、すばやく立ち上がった。

 「どうするんですか?」

 「橿助さんのようす、見てくる」

 「やめておきなさい」

 薫は強く言った。だが、美那は軽く笑った。

 「ようすを見るだけ。声もかけないし、仕事もじゃましない」

 「だったらお待ちなさい」

 薫は自分も立ち上がりながら言った。

 「わたしも行くから」

 美那は、少しとまどったけれども、薫に(うなず)いて見せた。

 仕事場の土間の手前の間の、もうひとつ手前の間まで、足音を立てないようにして来て立ち止まる。

 仕事場とは板戸で仕切られているから、向こう側は見えない。

 板戸の向こうから橿助の声が聞こえる。

 「ほら、何をやってんだ! さっさと持ってこい。ああこら、そっち! 天藻(あまも)入れすぎだ……こらっ! いっぺん入れたのを上げるな。水足せ、水を……ああ井戸の水を足すんじゃない! ここに来て何月になるんだ、少しは慣れろっ! ええいもういい、いまそっち行くから!」

 板戸に一寸ほどのすき間がある。そこに美那がしゃがみ、その上から薫がのぞく。

 橿助は土間から裏の釜のほうへと背を曲げてすたすたと歩いていくところだった。

 「なんだ、だいじょうぶそうじゃない」

 美那がほっと息をついて、薫の顔を見上げる。

 薫は板戸の外を覗いたまま首を振った。

 「前ならば橿助はここにわたしがいると気づいてましたよ」

 「だっていまは隠れてたじゃない?」

 美那が上を見たまま声をひそませて言う。薫は残念そうに首を振った。

 「あなたはちがうでしょうけど、わたしはふだんから足音を立てないほうですよ」

 そういえばそうだ。薫は足をあまり上げずに歩く。だから美那でも薫に気づかないことがある。

 美那自身は足音を忍ばせるのは苦手だけれど、ひとが足音を忍ばせて近づいてきてもたいていは気づく。浅梨(あさり)屋敷での剣術の稽古でも、後ろから忍び寄られて不意を打たれることはほとんどない。

 その美那が、薫の足音に気づかないことがあるのだ。

 それでも橿助は昔ならば店の女主人の足音に気づいていた。でもいまは気づかない。

 「やることが立てこんで忙しかったからじゃない?」

 美那は言って薫に笑いかけた。でも美那自身がそんな言いわけが通じないことを感じていた。

 「さあ、戻りましょう」

 「ええ」

 美那も立ち上がって奥の間のほうに戻ろうとする。裏から橿助が戻ってきたところが板戸のすき間から見えた。

 美那は立ち止まった。

 その橿助の躯が枯れ木の細工でできているように見えた気がした。

 いままでそんなふうに感じたことはなかった。

― つづく ―