夢の城

清瀬 六朗


仕事の話(三)

― 上 ―

 柿原屋敷の東の長屋のいちばん下の間に、村西兵庫助(ひょうごのすけ)、大木戸九兵衛(くへえ)、井田小多右衛門(こだえもん)の三人が寝そべっていた。

 長野雅一郎(まさいちろう)だけは、何をするわけでもないのに、いちばん端で威儀を正して、畳も敷かず板の間の上に座っている。座禅でも組んでいるようだ。

 屋敷の内側を向いた表は、軒が長く伸びているので、裏の窓のほうが明るい。四人の者たちは裏窓の襖を閉じたままにしていた。

 「何を座っているんだ、そんなにかしこまって」

 兵庫助が目を雅一郎のほうに動かして言う。雅一郎は、もったいぶって目を動かし、雅一郎をにらみ下した。

 何も言わない。

 「疲れるやつだなぁ」

 兵庫助が雅一郎から目を離す。目を離したところに
「体を鈍らすわけにいかないからこうやってるんだ」

 脅すような低い声で雅一郎が言った。兵庫助が聞いて笑いを浮かべた。

 「それはご苦労なことで」

 雅一郎はそれには答えず、正面を向いてますますいっぱいに胸を張った。

 「大きな屋敷だったな」

 その二人のやりとりの傍らで、井田小多右衛門がぼそっと言う。

 「屋敷地の中にまた塀で囲んで屋敷があるのにも驚いたけど、明徳(めいとく)寺の本堂よりも大きい館が三つも並んでるのはたいしたもんだ。牧野様の屋敷よりずっと大きいんじゃないか」

 「ふん」

 大木戸九兵衛が鼻を鳴らした。寝そべると長身なのが目につく九兵衛が、手を頭の後ろに組んで頭を載せ、両目でまっすぐ天井を見ていた。

 「それにしちゃ、やけにさびしい屋敷だったじゃないか。あの大きい中殿と西殿にはだれもいない。いや、だれもいないならいいけど、小者だけが出入りして、(ほうき)をかけたり床を拭いたりしていやがる。なんなんだあれは?」

 「大松殿から聞かなかったか?」

 兵庫助は右耳の下あたりに手枕を当てて答えた。

 「中殿は大和守(やまとのかみ)忠佑(ただすけ)様のお(やかた)、西殿は田山の方――千草(ちぐさ)姫様のお館って」

 言って生あくびをし、寝返りを打って長野雅一郎に背を向ける。

 「姫でもないだろう」

 寝返りを打ってきた兵庫助をちらっと振り向いて、大木戸九兵衛が言った。

 「もうけっこうな歳じゃないのか、田山の方って?」

 「それは、まあ、あの主計頭(かずえのかみ)の姉御だからな」

 頭を左手の手枕に載せなおして兵庫助が言う。

 「あれだろ?」

 九兵衛の向こう側の小多右衛門が、何か大儀(たいぎ)そうに声を上げた。

 「いっこうにお子が生まれないものだから、越後守(えちごのかみ)様に嫌われてるっていう」

 「さあな」

 九兵衛が答えた。

 「越後守様に嫌われてるからお子が生まれないんだろう? あの越後守様って人が、お子を欲しがるかどうか。実の兄君の小民部(しょうみんぶ)様には遊び者だからってものすごく嫌われてたような人だから、女は好きでもお子を欲しがるかどうかだ。それよりはさ」

 九兵衛は口の端から軽く笑いを漏らす。

 「あの弟の主計頭みたいな気性だとしたら、たとえ越後守様でなくてももてあますさ」

 「大和守様がここに帰ってこないで、ずっと城館に泊まりこんでるのは、見てないと定範が田山の方をほうり出すと思ってるからだ」

 小多右衛門がつづける。

 「城館のなかで主楼から離れたところに田山の館などというのを造って、三郡じゅうから、珍しい石やら、かたちのいい木やらを集めてけっこうな庭まで造らせた――大民部(だいみんぶ)様がお好きだった(すみれ)の畑をぜんぶ埋めてさ。そんなことをしたのも、その千草姫様に主楼に来てほしくないと思っておられるからじゃないか」

 「まあそんなところだな」

 兵庫助が低い声で平らに答えた。小多右衛門は舌と唇の滑りがよくなったらしく、なめらかにつづける。

 「越後守様もほんとは三郡の殿様になんかなりたくなかったって話があるらしい。それを、大和守様が、小民部様の息子が殿様になったら越後守様も遊んで暮らせなくなるとか言って焚きつけたんだそうだ」

 「やけに詳しいな」

 九兵衛がおもむろに小多右衛門に顔を向ける」

 「どこできいた?」

 「なに、番をしているときに小者がしゃべってくれたのさ。あいつらだって、いつ帰ってくるかわからない大和守様や田山の方様のために毎日掃除するのに……おいっ!」

 小多右衛門が話の途中で慌ててごろんと身を起こす。

 こういうところだけ器用なのか、(からだ)も手足も短いのが利いているのか、身を起こしてそのまま足を組んで座っている。その座っているのを見ると、ずっと寝そべってなどいなかったようにも見える――着物の皺を見ないとしてだけれど。

 「どうした、小多右衛門?」

 「しっ! だれか来る!」

 九兵衛と兵庫助が慌てて身を起こし、座りなおしたところへ、引き戸の向こうに足音と小さく「これっ!」などと言う叱り声が聞こえ、引き戸ががらっと引き開けられた。

 「う? あっ……? 何だ?」

 最初から座っていた長野雅一郎がなぜか(くび)を左右に振っている。

 引き戸を引いて入ってきたのは大松六郎彰立(あきたつ)だった。引き戸は開け放しにしてある。

 「おい、おまえら」

 彰立はさっさと畳のところに行き、畳の上に腰を下ろしながら声をかけた。畳は、さっき小多右衛門が寝そべっていた足許あたりにあったので、正面の左に小多右衛門が、その右に九兵衛が並び、九兵衛の右に兵庫助と雅一郎がいて、四人でちょうど彰立を囲むように並んでいる。

 彰立はその四人を見回した。

 「内屋敷の番では不服らしいな」

 「だれがそのようなことを」

 村西兵庫助が作り笑いを浮かべ、手をついて身をかがめる。

 「私ども、この屋敷に仕えさせていただけるならば、どのような仕事でも」

 「ふん」

 彰立が鼻で笑う。

 「小者どもが噂しているさ。そっちの小男は門の柱に(もた)れかかって、草を抜いてその抜いた草の葉を指で弾いてひまそうにしていたとか」

 言ってから井田小多右衛門の顔をじっとにらみつける。小多右衛門は、作り笑いしかけたが、彰立と目が合うと口を結んで顔をそむけた。

 「ふん」

 彰立がもういちど笑う。

 「行く場に困ってこの屋敷に拾われたにしてはいいご身分だ」

 「そうは言うがな」

 それまで黙っていた長野雅一郎が、低い、唸るような声を立てたので、彰立は驚いて首を右に回し、雅一郎のほうを向く。

 雅一郎は座禅を組んでいるようにじっと座り、両目だけで彰立を射すくめた。

 「小者が(せわ)しく出入りするばかりでだれも来ぬではないか、あの内屋敷などというところには。井田殿が退屈するのも無理はあるまい」

 「何を……」

 彰立は雅一郎に言い返しかけたが、雅一郎が自分のほうをまだ見ているのに気づくと、ことばを濁して止めてしまった。

 「まあいい」

 彰立は下を向いて眉をひそめてから、顔を上げて、向かい側の四人を落ち着かない目つきで見回した。

 「そんなことだろうと思ったんだ。そこでおまえたちがすこしましだと思えるような仕事をやろう」

 「何だ?」

 長野雅一郎が顔を上げて聞き返す。六郎彰立はことさらに背を反り返らせてつづける。

 「おまえたちの意気と武芸を活かせる仕事をやろうと言っているのだ」

 「あ、はあ」

 そう答えて雅一郎の顔は一転して晴れやかになった。

 だが、すぐに疑り深く六郎彰立のほうに小さな目を向ける。

 彰立は雅一郎にはかまいはしないふりをして、腰を浮かし、首を横に向けて小者に合図する。

 「坂丞(さかのじょう)さんに入ってもらえ」

 「さかのじょう?」

 雅一郎は兵庫助らと顔を見合わせた。

 しばらくだれも入って来ない。かわりに小者が「さ」、「こちらへ」などと何度も促す声が聞こえる。

 それでようやく屋敷裏のほうから入ってきた男の顔を、村西兵庫らは疑り深そうに見上げる。

 「坂丞」は六郎彰立の横、四人の前に腰を下ろした。目は四人の男たちを見たり、横の六郎彰立を見たりで、少しも落ち着かない。

 「あっ!」

 最初に気づいて腰を引いたのは、「坂丞」にいちばん近いところにいた井田小多右衛門だった。

 「あんた、銭貸しの笹丞(ささのじょう)じゃないか!」

 村西兵庫と大木戸九兵衛も驚きの声を上げる。

 笹丞は目を見開き、口を不満げに突き出して、顔を伏せている。

 何も言わない。落ちつきなく、村西一党を見回したり、目をそらしたりしているだけだ。

 「何がどうあれ、牧野郷の借銭借米はこんどは返さないことに決まったんだからな!」

 小多右衛門が懸命に虚勢を張った。

 「それにおれたちはいま一文なしも同然だ、人質だって出せやしない。こんなところまで取り立てに来るなんて!」

 横の大松六郎彰立のほうに半ば顔をしかめて見せた。

 「ふん」

 彰立が落ち着きを取り戻し、おうように言った。

 「そういう話ではないのだ。おまえらにはこの坂丞殿の借銭のお取り立てに力を貸してもらいたい」

 「はい?」

 村西兵庫が手をついたまま顔を上げて彰立の顔をうかがう。

 「だから」

 彰立は苛立ち、声を高くした。

 「この坂丞殿が借銭の取り立てに行くのについて行ってもらいたい。そして坂丞殿の取り立てに力を貸してほしいのだ」

 「わたしたちが?」

 兵庫が問い返す。彰立は目を細めてその兵庫を見下ろした。

 「厭か?」

 「いえ」

 村西兵庫がことばを探す。

 「しかしわれらが自らこのひとには銭を借りている身……」

 「払えぬならしかたあるまい」

 彰立が軽く言う。

 「それに、坂丞と話し合って、坂丞の銭の取り立てについて行くことで幾分でも払ったことにしてもらうんだな」

 「ただ」

 兵庫は彰立の顔をまっすぐ見てつづけた。

 「牧野郷に取り立てに行くのは、先に申した件もあり、難しいようで」

 「それに自分らを追い出したばかりの村人と顔を合わせるのは怖いか」

 彰立は兵庫のほうを見もしないで笑った。

 「ならば牧野郷に行かなくてよい」

 笹丞のほうも見向きもしない。

 「坂丞殿はほかにも貸しておられる。そこから先に取り立てればよい」

 笹丞と村西らは顔を見合わせたが、すぐに目をそらしてしまう。

 「それでよいな……返事は?」

 最後に彰立は笹丞の顔をのぞきこむ。

 「わたしはかまいませんが」

 笹丞はそう答えた。答えてから彰立や兵庫らの顔をうかがいつづける。

 長野雅一郎と村西兵庫も互いの目をうかがいあった。長野雅一郎が答えようとするのを、村西兵庫が目配せして抑える。

 「われらもそれでかまいません。せいいっぱいお役目を務めさせていただきます」

 井田小多右衛門と大木戸九兵衛は、その兵庫助の答えのあとも笹丞と目を合わせようとしなかった。

 彰立は笹丞と村西兵庫らの両方を見下ろして見回した。

 「ならばすぐに取り立てに行け」

 ゆっくりと頸を回して笹丞の顔を見る。

 「坂丞殿はいますぐ行くことに決めておられる」

 笹丞は彰立に見下ろされて、怯えたように彰立から身を遠ざける。笹丞は口をゆがめて何か言おうとした。でも何も言えない。

 「六郎様」

 長野雅一郎が、すばやく、力強い声で言った。

 笹丞は顔を上げ、すぐに身を避けるように後ろにのけぞった。

 のけぞって腰を浮かせたので、彰立の顔が雅一郎の頭より上になった。そこで彰立は上から雅一郎のほうを見下ろす。雅一郎は彰立を見もしないでつづけた。

 「われら、こちらの方の手助けをすることに何の異存もない。ですが、その前にお願いしたいことがある」

 雅一郎は顔を上げた。

 彰立は眉をひそめ、何も言わない。

 雅一郎も彰立の顔から目を離そうとしない。

 彰立は、浮いた腰をもういちど畳の上にゆっくりと下ろしなおしながら、小さい声で短く言った。

 「何だ言ってみろ」

 「はい」

 雅一郎は大きくうなずいた。

 「われらは満足な刀を持っておらぬ。牧野の村人らに奪われたり、中原の地侍どもに奪われたりいたした。ここはひとつ脇差を一人一(ふり)ずつ刀をお貸しくださらぬか。でなくては、お勤めがかなわぬのでな」

 「刀をなくすとは」

 彰立はその雅一郎の顔に鼻の穴が向くくらいに顔を上に向けた。

 「情けない者どもだ」

 雅一郎はまじめな顔でその彰立の目のあたりをじっと見ている。

 「まあよかろう。主計頭様にいますぐ申し上げよう。それから坂丞殿」

 彰立はまだ怯えている笹丞に顔を向ける。

 「はい」

 「そちらも脇差は入り用であろう?」

 「いえ、わたしは……」

 「おまえのぶんも手配しておくから、持っていくがいい。刀の貸し料は坂丞殿にもっていただく」

 「貸し料?」

 笹丞が声を震わせてうろたえた。彰立はその坂丞に目を向けた。

 「そうだ。せんこく言ったではないか。この者たちの調度も宿代・飯代もすべて坂丞殿が持つと。そうではなかったか?」

 しつこく問いつめられて笹丞はますますうつむく。

 大木戸九兵衛が見て、ふんっと笑った。

 「……はい」

 彰立は眉をひそめて横目で笹丞を見た。

 「そのようなはっきりしない返事はなさらぬがよい」

 「はい……?」

 「ほら、まただ。わたしはいいが、主計頭殿はそういう返事をことさらにお嫌いになる。よいな」

 「はい」

 「では行け! 所望(しょもう)の刀は門のところに用意させておくから受け取るがよい」

 「ありがたいことです。では」

 雅一郎はさっと立ち上がった。村西兵庫もそれにつづき、晴れやかな貌を作って彰立に会釈する。

 だが、残りの井田小多右衛門・大木戸九兵衛と笹丞とは、たがいに顔をうかがいあって、しばらく立とうとしなかった。

 それで、大松六郎彰立は、もういちど
「早く行け!」
と促さなければならなかった。

 村西一党が立ち上がり、庭に出て行ったあと、彰立はようやく腰を上げた。

 「侍も金貸しも、情けない者ばかりだ」

 彰立はそうつぶやいて、この連中が出て行ったほうをいまいましそうな目で見送った。


 薄ぼんやりした日が射しだした。庭からは緩い風が吹きこんでくる。風は、流れる糸のように、細いこまやかな流れだけれど、絶えることなく吹いてきていた。

 見上げると海棠(かいどう)の花が白くいっぱいに咲いているのが見える。

 その庭に面した土間で、娘四人ともっと小さい女の子一人が双六(すごろく)の盤を囲んでいた。あざみとさととみやと(まゆ)と松だ。

 で、この庭は、さとが働いている水鶏(くいな)屋の裏庭だ。

 最初はさととあざみと繭の三人でお手玉をして遊んでいたのだが、そこにみやが松を連れて遊びに来た。みやも松もお手玉がぜんぜんできない。それでさとが双六盤を持ってきたのだった。

 けっこう大きな盤の上に、円がいくつも書いてあって、その円を結ぶ線が描いてある。その描いてある線に沿ってならばどちらに進んでもいい。駒はひとりについて「(しょう)」とか「(すい)」とか書いた駒が一枚、「少将」とか「少帥」とか書いた駒が一枚、馬の首をかたどったかたちの駒が二枚、卒が五枚の九枚を使い、駒ごとに動きが決まっている。そういうところは双六というより兵棋に近い。ここにいる娘たちは「将」とか「帥」とかいう文字は読めないので、「将」・「帥」を「殿様」、「少将」・「少帥」を「若君」と呼んでいた。「卒」という字は、娘たちは意味は知らなかったが、ちゃんと「そつ」と呼んでいる。

 あと、もう一つ、赤くて小さい駒があった。この駒は一つでは動けないが、他の駒の下に嵌めこんで隠せるようになっていて、その駒といっしょに動けることになっていた。どの駒に隠してあるかは見ただけではわからない。この駒には何も書いていなかったが、ここにいる娘たちはその隠し駒を「姫」と呼んでいた。

 いま盤をはさんで向かい合っているのはみやと松だ。残りの三人はその二人の勝負を見ている。

 「ほら、こんどはお松ちゃんの番だよ」

 「あ、はいはい」

 松は口をいっぱいに開けて言い、自分の駒に手を伸ばした。

 「あ、だめだよ、先にさいころ振らないと」

 「え? あ、そうそう」

 松はそう言ってあざみからさいころを受け取る。

 白木に墨で目を書いたさいころを二つ、松は手の中で振った。

 出たのは、四の目と五の目だ。

 「合わせて九ね?」

 松が嬉しそうに言う。みやがふうっと大きく息を立てた。

 松は殿様の駒を掴むと、一、二、三、四と動かす。

 「ああ、だめだめ」

 あざみがその手を押さえた。

 「それは殿様の駒だから、目の数が九だったら三しか進めないよ」

 「えーっ?」

 松が不満足そうにあざみの顔を見上げる。あざみは知らぬふりでさいころをみやに手渡した。

 みやは二の目と三の目を出した。合わせて五だ。

 「ああ、どうしていつもお松ちゃんより上の目が出ないのかなぁ?」

 そんなことを言って、先のとがった駒を一つ、四(こま)動かし、あと円い駒を三つ、一齣ずつ動かす。

 「あっ! 五なのに七つも!」

 松があざみとさとを見上げて訴える。あざみが肩を落とし、首を傾げて
「だから、馬は目の数が一つで二齣動かせるってさっき言ったじゃない? だからさいころ二目で馬四齣で、あとさいころ三目で卒を一個ずつ三つ、これで勘定合うでしょ?」

 「あ、そうか」

 「……慣れてないんだったら加勢しようか、お松ちゃん?」

 さとが遠慮がちに声をかける。松は背筋を伸ばして肩を広げ、ぶるぶるっと首を振った。

 「わたしひとりで十分!」

 声にいっぱい力をこめて言い、あざみからさいころを受け取る。一心不乱に盤面をにらみつけ、右手にぎゅっと握り、その拳を二‐三度回してから盤に叩きつける。

 こんどは六と五で十一だった。

 松はその十一のうち九を使って殿様の駒を進めた。あとの二は、馬を四つ進めるのに使う。

 「これで松ちゃんの殿様はあと二齣でお城に入れるね」

 あざみが言う。松はあざみを見てにこっと笑って見せた。

 さとが同じ盤面を見て首を傾げる。

 「でも殿様だけこんなに先に出ちゃうと、相手の卒や馬に道を遮られたときどうにもならなくなっちゃうよ。殿様が討たれたら負けるよ?」

 「だいじょうぶ」

 あざみが笑って言い返す。

 「だって、おみやちゃんの卒も馬も城のこっちまで回りこめないもん」

 じっさい、松の駒が全体に盤のまん中の「城」の齣まで近づいているのに、みやの駒はまだ城から遠いところに並んでいる。いちばん近い馬の駒でも城から五齣も離れているし、次に近い卒は八齣だ。殿様や若君は最初の目からほとんど進んでいない。

 「うん、でも……」

 さとはそれでもやっぱり少し心配そうな声を立てた。

 みやは回りの声にも惑わされないように盤を見て少し考えていたが、いきなり右手を伸ばすとがばっとさいころを取り、振った。

 四と六で十だ。

 みやは、だまって二つの馬を二齣ずつ城に近づけると、残りの八で後ろのほうにいた卒の駒を動かし、城に入れてしまった。

 「あっ! それ、城に入れない駒じゃ……」

 松が言って顔を上げ、みやを両目で見る。みやはにこっとわらった。

 駒をひっくり返す。

 この双六の卒の駒はぜんぶ下が()りぬいてある。その卒の駒には、刳り抜いたところに赤い色の別の駒が()めこんであった。

 「姫だよ」

 みやが得意そうに言う。

 「姫?」

 「だからさっき言ったじゃないかぁ」

 あざみがいい加減にいらいらしながら説明する。

 「姫を馬か卒に隠して城に入れて、そのあと殿様が着くまでもちこたえたら勝ちだって」

 「えっ? あ」

 松は喉の奥で言った。

 「ああ、こういうことね。こういうことだったのね」

 唇を横に引いて笑って見せた。もっとも何かこわばった感じだ。

 「これってわたしの負けなんだ」

 「いいやぁ」

 あざみが言う。

 「つまりみやの殿様か若君が来るまでに姫を城から追い出してしまえばいいんだよ」

 「追い出すってどうやって?」

 「卒か馬で戦って勝てばいいんだよ。もっとも、城は守りが三倍になるからね、卒の一つや二つでは勝てないけど、城をびっしり囲んだら追い落としはできるはずだよ」

 「もう! せっかく負けかけたところからやっと姫を城に押しこんだのに、松ちゃんにばっかり入れ知恵しないでよ」

 みやが不平を漏らす。松は唇をきりりとむすび、眉を平らにして、きっと盤面をにらんだ。

 「さあ、行くよ」

 あざみとさともそのみやの握るさいころがいくつの目を出すか、じっと盤面を見ている。

 その大きな娘たちの下で、繭が大きな目を開いて、同じように懸命な目で松の振るさいころの行方を追おうとしていた。


 銭屋の本寺(もとでら)元資(もとすけ)の店は、道から連珠(れんじゅ)川の短い橋を渡ったところにある。

 連珠川から引いた細い堀で周りを囲い、その内側をさらに高い塀で囲って、倉を守っているのだ。店の者が出入りする戸口はいくつか作ってあるが、客が入れる入り口は、正面の連珠川にかかった短い橋を渡る以外にない。

 その元資の店に、色の白い、唇の色の明るい若い女が訪ねてきたのは、その日の昼も遅くなってからのことだった。

 気づいたのは店を出たところにいたさわだった。

 「あら、利穂(りほ)さん、どうしたんですか?」

 「うん」

 利穂は明るく笑っているようだった。

 「うちの人、お店に来てない?」

 「笹丞さん?」

 さわは首をひねった。

 「来てないと思うけど……?」

 「そう」

 利穂の声が少し(かげ)る。

 「(つかさ)屋さんにも甲子(かっし)屋さんにも志多(しだ)屋さんにも行ってないって言うし、どこへ行ったんだろう?」

 「いないの?」

 「うん」

 利穂は橋を渡って、さわのところまで来た。

 「ただいないだけならいいんだけど、取り立てのための証文の綴りを持って行っちゃったらしいの。だからだれかに証文を売り掛けに行ったんじゃないかって。どこかの店に証文を買い取ってもらおうって前からわたし言ってたから」

 「それは前からきいてるけど」

 さわが門柱に左手をついて答える。

 弱い風が利穂の髪の毛をぱらぱらと揺らしながら吹き過ぎて行く。

 「でも売らないって譲らなかったんでしょ、笹丞さん」

 「うん」

 利穂が少し笑いを浮かべたのは、照れか、苦笑いか。

 「あのひとはぜったい売らないってがんばってたけど、気が変わって、売りに来たかも知れない。で、気が変わったのをわたしに知られるのがいやで黙って出てきたんじゃないかって思ったんだけど……そういうところは意地っ張りなひとだったから」

 「わたしのとこにはいないと思うけど」

 利穂の笑顔は消えていく。さわが急いで早口に言った。

 「でも待ってて。わたしがいないあいだに来て、まだ奥にいたりするかも知れないから、ちょっと元資さんにきいてみる」

 「うん」

 「あ、中に入って待ってていいよ、利穂さん」

 「ありがとう、さわちゃん」

 小走りに奥に走っていくさわに利穂は声をかけた。

 「でもここで待ってる。もしかするとあのひとが表を通りかかるかも知れないから」

 利穂が言うと、さわは走りながら利穂のほうをちょっと見て、笑って頷いた。

― つづく ―