夢の城

清瀬 六朗


仕事の話(五)

 藤野屋の仕事場の裏口と表口から射す明かりは、月の明かりから朝の明かりに移り変わっていた。

 水汲みのための桶と天秤を取りに来た美那は、葛餅の箱が散らばっていること、そこに男の子が突っ伏すように倒れていることに、気がついた。

 「(かつ)ちゃん……?」

 背中のほうから声をかけてみた。葛太郎(かつたろう)は答えない。

 「葛ちゃん?」

 背中の動きで息をしているのはわかった。それも穏やかに。前のほうに回ってみても傷を負ったようには見えない。

 ただ、葛太郎の前の葛餅の箱が五つ、ぜんぶきれいに空になっているのが見えただけだ。

 美那は葛太郎の斜め前、葛餅の箱の散らばっているすぐ横にしゃがみこむ。顔を下げて葛太郎の顔をのぞく。

 口の端から葛餅の溶けて流れた痕が残っていた。着物の上にも葛餅のかけらがいっぱい落ちて、融けかけて染みを作っている。すかせて見ると、膝の上にも糊を引いたような跡がある。どうも右手で()った(あと)らしい。

 美那は目を細めた。そうっと首を伸ばして葛太郎の首筋に近づける。

 葛太郎がうーんと声を立てて、その小さな体を動かした。

 がくんと体を動かすと、右手の手の甲を自分の目もとに持ってくる。

 「……!」

 そしてぴゅっと躯を起こした。目のあたりにあてた自分の手が糊っぽいのに気がついたのだろう。

 目を上げてみる。

 葛太郎は美那のほうに目を向けた。

 だれなのかわからないらしい。

 葛太郎はこんどは左手を引っぱり上げ、ゆるゆると目の縁をこする。

 「こら、葛太!」

 美那は小さい声で、ゆっくりと言った。

 「あっ! 姉ちゃんっ!」

 葛太郎が大きな声を立てる。

 「しっ!」

 美那はすかさずひそめた声で叱りつけた。

 「ひとが穏便に片づけようとしてるのに、大きい声出すんじゃないの!」

 ――ほんとうに穏便に片づけようとしていたのか、このひとは?

 「あ……」

 「あ、じゃない!」

 「あーあ……」

 「あーあ、でもないでしょ!」

 意味のなさそうなやりとりが続く。

 「ほらもう、さっさと顔洗って! それに手も!」

 「あ、……え?」

 「もう信じられないよ! なんで葛餅食べるのに手ですくったりするの!」

 「あ、ああ……」

 「わけのわからない返事してんじゃないの? 葛餅、手ですくったりすると、ほら、手にくっついてにちゃにちゃうにゅうにゅするんだから! もう、溶けたまま糊になってかたまってるじゃないの。それってかたまったらなかなか落ちないんだから。それにあんたよく五箱も食べられるね? おなかこわすよ、知らないよ。さあ、ほら、早く!」

 美那はそんなことを早口に言いながら葛太郎の左手をぎゅいっと引っぱり上げた。それで少し腕が(ねじ)れて痛かったのか、葛太郎はぱっと目を開ける。

 美那はともかく立ち上がった葛太郎をずいずいと土間の隅の小さい井戸まで引っぱって行った。

 自分で水を汲み、葛太郎の右手を引っぱり、そこに思いっきり水をかけてやる。

 「わっ、冷た……」

 途中まで言って、葛太郎はようやく美那の顔を見上げて、息を飲んだ。

 やっと目覚めた葛太郎の唇の周りが弛む。

 「姉ちゃん……」

 「もう、早く顔洗ってっ」

 美那は不機嫌そうに言った。

 「これどう収めるか、いっしょに考えるからさ」

 美那は長く息をついて、横柄に顔を散らばっている葛餅の箱のほうに向けた。葛太郎も、つられてそっちのほうに顔を向ける。で、葛太郎のほうに目を戻した美那と目を合わせてしまう。

 美那はふんっと鼻息を立てた。鼻息を立ててから、馬の癖が移ったかな、と思う。

 そういえばあの馬ともしばらく会っていない。

 葛太郎は慌てて美那から目を離し、桶に水を汲んでおとなしく顔を洗い始めた。

 上がり框に腰を下ろした美那はそちらを苛立たしそうに見ている。


 それから少し経って――。

 「ねえ、どうしてあんなことやったの?」

 美那は土間のすぐ上の部屋で座って、葛太郎を問いつめた。

 「…………」

 葛太郎は口を曲げ、涙を(にじ)ませて黙っている。

 「だまってちゃわからないでしょ? 教えてよ、ねぇ」

 「…………」

 美那はまず葛太郎が食い散らした葛餅の箱を洗った。美那が洗っていると葛太郎も来て洗おうとしたので、葛太郎にはだまって布巾を押しつけ、洗い終わった箱を拭かせた。拭き終わった箱を裏庭の外に台を出して干し、干し終わるとやることがなくなってしまった。

 それで、美那は葛太郎を連れて部屋に戻り、土間から上がったすぐの部屋で、葛太郎の向かいにいる。

 「だまってちゃわからないでしょ」と言われても、言うことばが見つかっていればとっくに言ってるのだ。何も言えないから黙っている。そんなことは、薫のご意見を夜な夜な聴かされてきて育った美那にはよくわかっている。

 よくわかってはいるのだが。

 「もうすぐ橿助(かしすけ)さんが来るよ? どう言いわけするつもり?」

 「……」

 葛太郎は何か言いたそうに口を開いた。

 「え、何?」

 そのとき後ろの板戸がゆっくりと開いた。葛太郎はびくんと背を伸ばし、美那も振り返る。

 「どうしてあなたがここにいるのですか?」

 入ってきたのは薫だった。

 寝間着からもう昼の着物に着替えている。

 朝が弱いはずのおかみさんがどうしてこんなに早く着替えられたのだろうと美那は思う。

 「……はい?」

 「何を寝ぼけているのです? はい、じゃありませんよ」

 葛太郎より先に叱られる――「意見される」と言うべきなのかも知れないが――のが美那だったことが、美那にもよく呑みこめていないし、葛太郎もぽかんとしてきいている。

 「あなたには橿助を呼びに行ってちょうだいって言ったではありませんか」

 薫は言って板の間に膝を折って座り、美那のほうを横目で見る。

 美那は自分が畳の上に座っているので、いささかばつが悪い。

 「だから、橿助はあざみに呼びに行ってもらって……」

 「あざみさんを起こしたのですか?」

 「しようがないじゃない、急な話なんだから!」

 「うちの店のことに駒鳥屋さんの手をわずらわすなんて」

 葛太郎は自分の頭越しに薫と美那が言い合いをしているのが気になるらしい。

 「だって」

 美那は()ね声を立て、薫と同じように自分も薫を斜めに見る。

 「葛ちゃん、このまま置いておけないじゃない?」

 「葛太郎さんは逃げたりしませんよ、昔のあなたと違うんだから」

 「わたしだって逃げたりしたことないよ! いや、そういうこと言ってるんじゃなくて」

 葛太郎は不安そうな顔で薫と美那を交互に見ている。

 「ではどういうことを言ってるんです?」

 「だからさぁ」

 美那はことばに詰まった。

 「だから……」

 このままだと薫と美那の言い合いはもう少しつづいたかも知れない。けれども、そこに表から(わらじ)が土を蹴るせわしい音がして、あざみと橿助が入ってきた。

 あざみは帯をはんぶん結んだままで残りをだらんと垂らし、息を切らしている。

 橿助はふだんどおりの姿だ。息も切れていない。

 橿助の姿を見て、葛太郎は弾かれたように座りなおした。

 「ごめんなさい!」

 橿助は葛太郎のほうをじっとうかがうように見ようとしたが、葛太郎がいきなり頭を下げてしまったのを見て、ぷいと横斜め上を見た。

 葛太郎は頭を床にすりつけているのでそれがわからない。

 橿助はそっぽを向き、葛太郎は頭を床に着けたまま、しばらく経つ。

 あざみが、困ったように、葛太郎と、橿助と、美那と薫とを見回す。

 「ほら、葛ちゃん」

 美那が声をかけた。

 「いきなり謝るっていうのはなしよ。とくに頭すりつけて謝ったりしたら、相手のひとが困るでしょう?」

 薫がちらっとその美那に目をやり、もとの澄ました顔に戻る。

 「そうやると相手が何に怒ってるか、わからないし、もしかするとあんた、相手のひとが怒ってることとは違うことで謝ってるかもしれないのよ」

 葛太郎は顔を上げ、それで橿助があらぬ方の土間の天井を見上げているのに気がついた。

 葛太郎がきゅっと眉のあいだを引き締める。口を結んでその橿助のほうを見上げる。

 橿助は腕を胸の前で組んでいた。その組んでいる手が震えている。

 「さ」

 美那が少し優しい声をかけた。

 「自分で何をやったか、どうしてそんなことをしたか、それに、どうしていま謝ったか、それを話しなさい」

 葛太郎は、体の向きを少し変え、橿助がそむけた顔の鼻のあたりに向くようにして、両手を膝の上に乗せた。

 口を結び、その橿助の顔を見上げる。

 「さ、早く」

 「せかすんじゃありません」

 薫が美那を叱る。

 美那は不平そうに薫を見返した。

 「ぼくは、昨日の夜、夜中、そこに置いてあった葛餅を、箱、五つ、食べてしまいました。それも、そこに入っていた箱に手を突っこんですくうっていう食べかたで、食べてしまいました」

 その「手を突っこんですくう」ということばで、橿助はぶるぶるっと背を震わせ、横目で葛太郎を上からにらみつけた。

 でも、葛太郎はその両方の目で橿助を見返し、つづける。

 「もちろんそうすれば橿助さんが怒るとはわかっていました。いや、橿助さんが困る、いやだと思う、それはわかっていました。それなのになぜそんなことをしたかって言うと」

 葛太郎はそこでいちどことばを止めて唾を呑みこんだ。

 橿助は、腕を緩く組んで斜めに葛太郎を見下ろしているのは変わらないが、眉を目に近づけてそれまでより険しい顔になる。

 「橿助さんが、昨日、(まり)にひどいことを言ったからです」

 橿助のようすはほとんど変わらなかった。

 でも、美那は、橿助が眉を上げ、喉からもう少しで驚きの声を漏らしそうになったのに気づいていた。

 葛太郎は顎を引き、顔を前に向けてつづけた。

 「ぼくが怒られるのはわかります。あのときぼくは悪いとは思ってなかったけれど、でも、ぼくのせいで橿助さんは鍋を吹かしかけてしまったんだから。だから、ぼくが(かまど)で頭をたたき割られるっていうのはわかります。でも、毬までそんなことをされることはない!」

 葛太郎は橿助をまっすぐ見ていた。いまでは、葛太郎がはっきり橿助を見ているのに、橿助が目をそらしているように見える。

 「毬はぼくが橿助さんを怒らせたのを見て、ぼくを叱りに出てきたんです。その毬まで竈で頭をたたき割るなんて言うのはぼくには許せなかった。だからずっと考えたんです。どうやったら橿助さんがいちばん困るかって」

 葛太郎は淀むことなく話を進めた。

 「作ったものをだいなしにされたらいちばん困るだろうなって思いました。だから、最初は橿助さんが作った葛餅をぜんぶ床にばらまこうと思って、毬と(まゆ)が眠って、起きないのを確かめて、出てきたんです」

 あざみがとつぜんくすっと笑い、薫と美那に目を向けられて首をすくめて黙った。

 「最初はどこに葛餅があるかわからなかったんです。鍋を割ったら、とか思ったけれど、重そうだったから――割れそうになかったから、やめました。それで、葛餅がどこにあるかわからなくて、やめようとしたときに、そこの箱を見つけたんです」

 葛太郎は、まだ残っている葛餅の箱のほうに顔を上げた。

 「開けてみたら葛餅が入っていました。それを床に投げつけようと思ったんだけど」

 葛太郎は始めてことばを淀ませる。

 「……できませんでした。葛餅がきれいで、その……月が照らして、それもまっすぐあたらないで床とかからあたっただけで、ほんとにちらちらと、きれいに、そうだ、氷みたいに見えるんです。やわらかい氷みたいに。それを投げ出すなんてできなかった。だから、かわりに食べたんです。手ですくって、隅まで葛餅のかけらを集めて、ぜんぶ口のなかに入れました。そんな食べかたをしたのでこぼれて手についたり着物についたりしましたけれど、そのほかはぜんぶ食べました。でも」

 だれも何も言わない。じっとその葛太郎を見つめている。

 「食べてるうちに、ぼくは悪いことをしてるんだって、毬のために仕返ししてるんじゃなくて、ただひどく悪いことをしてるだけなんだって思えてきました。それでここで夜が明けるまで待って、橿助さんが来たら謝ろうと思ったんですけど、自分でも知らないうちに寝てしまったんです。それで、さっき、美那さんに起こされて、それで、いまこうやって謝っています。だから、ごめんなさい」

 そこまで話して、葛太郎は最初と同じように頭を下げた。

 でも、今度は、両方の肩の高さも狂わず、まっすぐ両膝のまん中に頭を下ろしていて、一人前の武士のような頭の下げかただった。

 橿助は横を向いたままだ。眉を寄せ、ことさらに眉間に皺を深く作っている。最初は表のほうの天井の隅に目を向けていたのが、いまは目を下ろして、部屋の隅の土間の床を見ている。

 口は結んだままだったが、力は入れていなかった。

 そのまま目を閉じようとする。そのまぶたが閉じきらないうちに、
「橿助さん!」

 首筋の後ろに直接に届くような鋭い声に聞こえ、美那は少し前に下がっていた首をびくんと上げる。

 声をかけたのは薫だった。

 薫には何度も叱られて――「意見」されて――きたけれども、薫がそんな声を立てるのを美那はきいたことがない。あざみも息を呑んで目を見開いて薫のほうを見ているところを見ると、同じだったのだろう。

 橿助は、閉じかけたまぶたを開き、体はまだ斜めを向いているまま、目では葛太郎をまっすぐ見ていた。

 「……」

 何か声にしようとして、できない。

 けれどもその橿助に薫が無遠慮に目を向けた。

 橿助はいちど口を閉じ、唇をきゅっと噛み、目も閉じた。

 それで長い息をついてから、低い声で言う。

 「で、葛太郎。その食ったものの味はどうだったんだ?」

 「はい?」

 葛太郎はそんなことをきかれるとは思っていなかったらしい。顔を上げてきょとんとしている。

 「その食ったものの味はどうだったんだ、って言ってるんだ」

 「はっ、はいっ!」

 橿助の声がまた不機嫌になりかけたからか、葛太郎は慌てて頷いた。

 「はいっ……最初のは――いちばん上のは、喉に下っていくときに、ほんとうに喉が渇いたときに水を飲んだような、冷たい感じがして、すっと溶けていく感じでした」

 美那が横目で葛太郎を見る。そんな説明をして橿助をいらいらさせてもしかたがないじゃないか――と考えているのだろう。

 「で、つぎの箱のは、もちろん同じような感じだったけど、何か細かい粒がいっしょに流れるみたいな、いちじくの実を呑みこんだときみたいな感じが、ほんの少しだけど、しました」

 「なん……!」

 橿助が目を大きく開く。それでまっすぐ葛太郎を見て、声を急がせてきく。

 「次は? 上から三つめはどうだった?」

 「最初と同じだったと思います」

 「思いますじゃないんだよ、そうだったんだな? ん?」

 「そうでした。たしかにそうでした」

 葛太郎も橿助と同じように目を大きく開いて、背筋を伸ばし、その橿助にまっすぐに向き合っている。

 「じゃ、その次は?」

 「二番めと同じでした」

 「じゃ、その次だ。その次はどうだった?」

 「次は……」

 葛太郎が少し引っかかる。顎を引いて少し考えてから、もとのように頭を上げた。

 「最初とも次とも違う感じで……何か、弾む感じでした。口に入れたときに、溶けて流れる前に、口の上にぼぁんと当たるみたいな、そんな弾むみたいでした」

 「おまえ……」

 橿助は言って、それから最初と同じようにぷいと上のほうを向く。

 で、そのあとまっすぐに橿助に見据えられたのが自分だったので、美那が驚いた――とまどった。

 「美那さん、すまんが葛餅を切ってくれぬか? いくらあんたでも葛餅を切るぐらいはできるだろう?」

 「うん、いいよ」

 美那は軽く答えた。答えてから、葛太郎の言いかたに較べて、自分の橿助へのことば遣いがぞんざいかなと思ったけれど、昔からこんなことばを使ってきたのだからしかたがない。

 それに「いくらあんたでも」とはいったい何だ、と、ふと思う。

 思ったけれど、美那はおとなしく土間に下りて、まな板と包丁を出し、台の前に立った。で、無造作にいちばん上の箱を取り、箱に入ったままの葛餅のまんなかに包丁を突き立てようとする。

 「あ、こら! そんなことをしたら箱が傷むだろう! もう、あんたはいくつになってもやることががさつだ」

 そんなことはずっと昔から自分でわかっていた。けれども、じかに言われて、怒るわけにも行かず、笑ってごまかすこともできず、美那は不機嫌顔のまま台の前に立っている。

 あざみが笑って横から首を出し、
「貸して」
と小さく言って美那の手から包丁を取ってしまった。

 美那はあざみに押しのけられた格好で、橿助とあざみの間にはさまれてますますぶすっとして立ちつくす。

 あざみはていねいに箱の四周に包丁を入れ、それから箱をひっくり返してとんとんとその底をたたき、まな板の上に四角いままの葛餅を落とした。

 葛餅はふるふると全体が震えたけれど崩れなかった。

 「四つに切ってくれ」

 揺れが収まったところで橿助が言う。あざみは包丁を器用に操って葛餅を「田」の字の形に四つに切る。橿助は横で立っている美那に
「何をやってるんだ? 皿を四枚、用意してくれ」

 「はぁい」

 いかにもいやそうに返事する。それに追い打ちをかけるように橿助が、
「割るんじゃないぞ!」

 あざみはすまして葛餅を切っている。後ろを(ぬす)み見ると、薫は頬を(ゆる)め、葛太郎も笑いかけている。少なくともそう見える。

 まあ、いいか。

 美那は皿を割りもせず――いくらがさつでもそれぐらいはできるのだ――、ていねいにあざみのまな板の横に並べた。

 「ついでに(さじ)もだ。あ、じゃ、次の箱を頼む」

 あざみは言われたとおりに次の箱も出して、同じように四つに切る。美那はあざみが切った葛餅をきれいに皿に一つずつ取り分けた。

 さっきからがさつだ何だとうるさく言われたので、なるたけ崩さないように気をつけて。

 あざみは、二つめの箱の葛餅を切り分けると、次の箱にかかろうとした。だが、橿助がすかさず
「次は飛ばして、その次を切ってくれ」
と言う。あざみはきょとんとしていたが、何も言わずに言われたとおりにした。

 「美那さんはぜんぶの皿に載せる餅の順番を同じにしてくれよ」
と橿助が言うので、これも何も言わずに言われたとおりにする。

 「よし。次はもういい。それをおかみさんとその子に配ってくれ……あと二皿はあんたたちのだ」

 美那とあざみは、橿助にいわれたとおり、一皿を薫に、一皿を葛太郎に配り、あと二皿は自分たちで持って、頷きあって上がり框のところに並んで腰掛けた。

 みんなで橿助の顔を見上げる。

 橿助は、一人ひとりが皿を持っているのを目で確かめ、その一人ひとりが自分のほうを見ているのも確かめて、美那とあざみと葛太郎に言った。

 「いまからそれを一つずつ食ってくれ。一つひとつは別の箱から取ったものだ。食って区別がつくかどうか、正直に言ってくれ」

 で、薫のほうを見て、
「おかみさんもお願いします」

 美那は言われたとおりに葛餅を食べた。横に座ったあざみを見ると、少しずつ匙ですくって食べている。

 「なんだいあざみのやつ、いつもはもっといちどにたくさんほおばるくせに」

 美那は横目で見て思っている。そんなので食べているから味の違いなんかわかったものではない。

 だいたい葛餅の味なんかかける蜜で決まると思っているから、蜜も黄粉(きなこ)も何もかけないで食べて味の違いがわかるわけがない。葛の、甘い、どこか微かにむせるような匂いと、微かな海の藻の匂いがする。たしか葛粉だけだとどろっとしすぎるので藻を煮て入れると聞いたことがある。葛太が言っていた「弾むような」っていうのがこの藻の煮たのかとは思うけど、どの葛餅が葛太の言う「弾む」葛餅なのかはわからない。

 「わからない」

 最初に、それぞれの葛餅を半分ぐらいで食ったところで、美那がきっぱり言って皿を置いた。

 隣のあざみがくすくす笑う。

 「なんだよ、あざみ。あんたわかったの?」

 「いいや」

 あざみは笑いつづけていた。

 「美那ちゃんが難しい顔して葛餅をくにゅくにゅしてるの、見てたらおもしろかったってだけ」

 「なんだい」

 で、あざみも皿を置いて、決まり悪そうに橿助の顔を見上げる。

 「やれやれ」

 橿助はため息をついた。

 「どうせ餅の味なんか蜜をかけないと変わりはしないとでも思ってるんだろう、この娘っ子どもが!」

 言われたとおりなので、美那は黙って首をすくめるしかなかった。あざみも同じように首を引っこめたところを見ると、同じだったようだ。

 「おかみさんはいかがです?」

 橿助に聞かれて、やっぱり薫は首を振った。

 「やっぱり違いはわからないわ」

 橿助は、最後に、口を結び、鋭い目つきを作って、葛太郎を見た。

 「で」

 重い声で言って、ことばを切る。

 「……おまえはどうなんだ?」

 「いちばん左が、昨日、二番めに食ったのと同じ、少し喉に何か残るような感じがする。次のが、昨日、最後に食ったのといっしょだ。口に入れたときに弾む感じがしたから。三番めのが、昨日、最初に食ったのといっしょだよ」

 橿助は目を閉じて、ふぅんと息を吐いた。

 しばらくそうしている。

 それから、橿助は、目尻を下げて、薫のほうに目をやった。

 「おかみさん……いや、これはお美那さんに頼むことなのかな」

 「わたし?」

 急に名まえを出されて声を立てる。自分でもはしたないと思う高い声だった。

 さっきまでただのがさつ娘扱いだったのが、急に「お美那さん」なんて呼ばれて驚いたのだ。

 まったく――。

 美那は自分が薫に「けたたましい」と言われたわけがよくわかった。

 橿助は、その美那に少し目を配ってから、薫に向かってつづける。

 「この子を店で引き取ってください。この子を……この子を……」

 薫は、橿助の言いたいことがわかったようで、だまって聞いている。

 「この子に……仕事をやりたいんです。この子は仕事をやりたがってました。この子に仕事をやりたいんです」

 「いいですけど」

 薫は少し抑えた声で言った。

 「昨日、あんなことがあったわけだし、この子がまだあなたのところで仕事をしたいかどうか、それを確かめてからにしてはどうです?」

 言って、薫は橿助を見上げる。

 睫毛(まつげ)がきれいに巻いて立っているのがはっきり見えた。

 橿助は、土間からふいに上の間に駆け上がると、ひざでどたどた音をさせ、葛太郎の向かいまでにじり寄った。

 土のついた鞋も取っていない。

 葛太郎がその勢いに押されて背をのけぞらせる。それにもかまわず橿助は突っこんでいって、両手でその葛太郎の両手を握った。

 握ったというより、両方から逃げられないように押さえこんだ感じだ。

 「な、謝る。昨日、おまえの姉ちゃんにひどいことを言ったのは謝る。いや、おれが勝手に鍋を吹かせたのをおまえのせいにして、ひどい怒鳴りかたをしたのも謝る。このとおりだ」

 橿助は、葛太郎の手を握りつけたまま、その手が自分の頭の上に行くように何度も何度も頭を下げた。

 「お、おい」

 葛太郎がもう腰が引けている。

 「やめてくれ……いや、やめてください、橿助さん、わかりましたから、わかりましたから」

 そう言いながら少しずつ後ろに下がっていくのは、葛太郎が逃げているのか、橿助が押しているのか。

 「ほんとうか? ほんとうだな? ほんとうだな? ほんとうに許してくれるんだな」

 「ほんとうです。ほんとうです。許してもらうのはぼくのほうじゃないですか」

 「じゃあ、おれの下で働いてくれるな? な?」

 「いいけど……」

 葛太郎は困って、ついに薫と美那とあざみを見回し、助けを求める。その葛太郎の目を橿助は見上げた。

 「何すればいいんです?」

 「おかみさんさえよければ、この店の――藤野屋の使用人頭の跡取りに……」

 薫はにっこり笑って頷いた。でもそれは薫だけだった。当の葛太郎をはじめとして、美那もあざみも目を丸くして口を閉じるのを忘れている。

 「いや……いいけど……いいけど……」

 葛太郎は懸命にことばを探して繰り返した。

 「毬と繭はどうするんだ? 毬と繭は……」

 「もちろんいっしょでいい。いっしょに引き取ってください、お願いします」

 橿助は薫に頭を下げた。

 「いや、この子たちにかかってる銭が大きいことは知ってます、この店の銭で払いきれるものでないことも。でも、なんとかしてください。この子じゃないとできないんです。だから、なんとか……なんとか……」

 橿助は、最初は薫に頭を下げていたのだが、途中で美那にも頭を下げ、そのうちどちらを向いて頭を下げているかもわからないようにあちこちに向かって頭を下げ始めた。

 つまり取り乱していた。

 「橿助」

 薫が声をかけた。

 「そんなに頭を下げるものではありませんよ」

 やさしくて、穏やかな声だった。

 「そんな姿を見せたら、この子が弟子になったあとで、親方は自分のために何度も何度も頭を下げたって思い出して、そのうち言うことをきかなくなってしまいますよ。そんなことにならないために、……いいですね?」

 「はぁ……はぁ……」

 頭を下げることも禁じられて、橿助は、そのくしゃくしゃで黒くなった手で、じっと葛太郎の手を握り、撫でつづけ、葛太郎の顔を見上げた。

 葛太郎は、唇を曲げ、少し泣きそうな貌をしていた。

 そして、その顔で、うん、と橿助にひとつ頷いて見せた。

 「ぜったい言うことをきくよ。だから……」

 葛太郎は、つづけて言うかわりに、橿助の手のあいだから自分の手を抜き取り、自分の小さな両手で橿助の両手を握り返した。

 そして、その大きくて黒い瞳でしっかり頷いて見せた。

 藤野の美那はふと顔を上げた。

 この家は北向きで、東側には駒鳥屋の家があるから、家の西のほうから先に日が射してくる。その隣の部屋が、昨日、美那と薫がこちらを覗いていた板戸のすき間から見える。

 そこにゆらゆらと揺れる人影があった。

 美那が小さく頷いて招いてやる。

 板戸が開いて、出てきたのは毬と、その毬に手を繋がれた繭だった。

 橿助の手を握っていた葛太郎は、目の端でその毬の姿を捉えると、慌てて体を捩って逃げかけた。もちろん橿助の手を握っているので逃げられない。

 逃げられないのをいいことに――かどうかはわからないが――、毬は葛太郎のすぐ横まで来て両膝をついた。

 両手を回してがばっと葛太郎に抱きつく。

 「葛太(かつた)……」

 その声は後ろになるほど()れていった。

 葛太郎はまだ口をぱくぱくして逃げようとしているのだが、もちろん逃げられるはずもない。

 「わたしのためにそんなひどいことしなくてよかったんだよ。わたしのために……わたし、慣れてるんだからさ」

 「いや、だから……だからさ……」

 葛太郎はしきりと何か言い返そうとする。でも、前では自分で橿助の手を握っているし、横からは毬が頬をすりつけてくるので、どうすることもできない。

 毬は目を細めてその頬を葛太郎に擦りつけてくる。

 「毬……だから、だからさ……」

 葛太郎は、橿助の手から恐る恐る自分の右手をはずすと、自分の肩の横にくっついた毬の左肩を押し返す。

 「麻で頬擦ると痛いって……だからさ……毬も痛いだろ……な?」

 たしかに毬は頬に火傷のあとを覆うために麻布をつけたままにしている。それが葛太郎のきれいな肌を擦っているのだ。

 言われた毬は、擦るのをやめて、頬をきゅっと葛太郎に押しつける。

 葛太郎は情けない貌をして橿助の顔を見た。

 橿助は、葛太郎と毬を見て、目尻を下げて、二度、頷いた。

 そのようすを、毬が、目をこすりながら、わけがわからなそうに見ている。

 美那は音を立てないようにそっと立ち上がった。

 薫とあざみがその顔をちらっと見る。

 美那は黙って小さく頷いた。そして、やっぱり音を立てないように二つの桶と天秤棒を拾うと、慣れた手(さば)き足捌きで店の表に水を汲みに出て行った。

― つづく ―