夢の城

清瀬 六朗


仕事の話(四)

― 下 ―

 長野雅継(まさつぐ)元塚(もとづか)衛友(もりとも)と銭貸しの笹丞(ささのじょう)が活発に何やら話している声が少しくぐもって聞こえる。反対側からは衛友の小者どものいびきが響いてくる。

 衛友と雅継と笹丞がいる部屋に(はす)に隣り合う部屋で、村西兵庫助(ひょうごのすけ)、大木戸九兵衛(くへえ)、井田小多右衛門(こだえもん)は横になっていた。

 笹丞の声が張りを帯びて聞こえてくると、大木戸九兵衛と井田小多右衛門は顔を見合わせ、見合わせた顔をしかめた。

 笹丞が何を言っているかは聞こえない。その声のところどころに角が立っていて、それがきんきんと耳を刺すように感じられるだけだ。雅継と衛友は笹丞より声が低いから、まして何を話しているかはわからなかった。

 「(いや)な仕事だったな」

 大木戸九兵衛が、井田小多右衛門から目を離し、暗い天井に向いて目を開けて言う。

 「ああ」

 九兵衛は驚いた。

 その返事が返ってきたのが、小多右衛門からではなく、反対側で同じように上を向いて寝そべっていた村西兵庫助からだったからだ。

 「厭な仕事だった」

 「なんだ」

 九兵衛が村西兵庫のほうを向くと、兵庫は(からだ)も脚もをきれいに伸ばして寝ていて、顔をやはり天井に向けていた。

 「おまえは気にしないかと思ってたぞ」

 「ばかを言うな」

 兵庫は平坦なことばで言った。

 「おれだって美千(みち)とふくを村に置いてきてるんだ。あいつらだって、いつ、今日おれたちが柿原屋敷まで引きずっていった娘みたいな目に()うかわかったもんじゃない」

 「それは!」

 井田小多右衛門が半身を起こして何か言いかけた。

 が、そのまま黙る。

 かわりに
「これもおまえの言う覇業(はぎょう)のためには必要なことなのか」

 「ふん」

 兵庫が軽く笑う。

 「そういえば、そんな話もしたな」

 で、九兵衛の躯越しに小多右衛門のほうに顔を向けた。

 「あんな話、真に受けてたのか」

 「真に受けてたのかって……おまえ!」

 小多右衛門が慌てて身を起こす。

 「つい昨日のことだぞ! おれたち、心を一つにしてって……。あれは嘘だったってことか!」

 「しっ!」

 大木戸九兵衛が声を挟む。

 「声が大きい。あの笹なんかはいいが、あの元塚とやらにきかれたらどうするんだ。あれはあれで評定衆だぞ」

 「むぅ……」

 小多右衛門が黙る。

 「嘘じゃない」

 兵庫はあいかわらず平らに言った。

 「それに、柿原家を頼った以上、こんな仕事をしなければならないのはわかっていたことだ。ただ」

 兵庫はことばを切って、
「厭な仕事には違いない」

 斜向こうの部屋からは笹丞の声がする。調子が上ずってきている。

 「なあ、兵庫」

 あまり間をおかず、大木戸九兵衛が声をかけた。

 「何だ?」

 「急に奇妙なことを聞くようだが……家に女房がいるってのはどういう感じだ?」

 「それはまた急に妙なことをきくな」

 兵庫は言い返した。

 「で、それはいまの話か? それとも村にいた時分の話か?」

 「どっちでもいい」

 九兵衛は少し心配そうに兵庫の顔を見た。

 部屋は暗い。兵庫がどんな(かお)をしているかはわからない。

 「村にいるころはどうってことないと思ってたよ」

 平たく、冷たい、突き放した声で兵庫は言う。

 「家に自分の妻がいて、下女がいて、裏の長屋には小者どもがいて、牛が庭を()いずり回って馬の小さいやつがぱかんぱかんしてるのがあたりまえだと思ってたな」

 「で、いまはどうなんだ?」

 九兵衛より先に小多右衛門がきく。

 「夢みたいだよ。なんか夢を見てたみたいだ。おれが妻をめとって下女を使って暮らしてたなんて」

 「……」

 小多右衛門が何か言いかけた。だが村西兵庫が先にことばをつづけた。

 「もちろんそんなことを言っちゃ美千やふくに悪い。それはわかってる。おれは一刻も早く失ったものを取り返して――信用とか財産とか取り返して、やつらを迎えなければならん。だが、何か美千やふくが身近にいたことがいまは遠い国のできごとみたいにどうしても思えてしまう。……そうなんだよ」

 「……そうか」

 九兵衛は言って、そっとその兵庫のほうから目をそらした。

 耳障りな瀬音が聞こえる。川からは街道と竹薮をはさんで、離れているはずだが、土塀のようにはっきり遮るものがないからだろうか。

 それにしても、川の音は昼間よりずっと近くに聞こえる。

 「なあ」

 顔を上に向けたまま、また村西兵庫が言う。

 「あれから広沢の(まり)とかあの一家、どうしたろうな?」

 「何を言ってるんだ」

 九兵衛が答える。

 「あいつらのせいでおれたちいまこんな目に遭ってるんだろうが。知るか、あんなやつら」

 「その話はもうしただろう――昨日の夜に」

 村西兵庫はべつに怒りもせずに応える。

 「おれはやつらを許すつもりはない。でもな」

 兵庫は寝返りを打とうとしたのか、体を動かし、途中でやめた。そのかわり、二つ、三つと咳払いをする。

 「今日のあの娘みたいに、あの村からだれか連れて行くってことになったら、最初に狙われるのはあいつらだ」

 「ああ」

 大木戸九兵衛が答え、少し間をおく。

 「でもそれはしかたがないだろう?」

 「どうしてだ?」

 兵庫がすぐにことばを返した。

 「おまえ……!」

 九兵衛が言い返すのを
「まあ聞け」
と兵庫が遮る。

 「やつらが巣山から来たよそ者だからか? それとも貧乏だからか?」

 「それもあるが」

 九兵衛は言って、また少し間をおき、そのあいだに一つため息をついた。

 「やつらはおれたちに世話になって、いちばんだいじなときにおれたちを裏切った。おれたちがいま、それもよりによってあの笹野郎の手先なんかを務めてなきゃいけないのも、やつらのせいだ」

 「だからそれはさっき言ったろ」

 兵庫が言う。

 「あいつらは治部(じぶ)様のいくさのときに、治部様を柴山に売ったんだ」

 言ったのは、それまで話をただ聞いていたか――それとも聞いてもいなかったかわからない井田小多右衛門だ。

 「それで十分じゃないか。しかも、やつらは治部様にとくに目をかけてもらっていたんだぞ。それをさ!」

 最後のほうは吐き捨てるように言う。

 「そうだ」

 兵庫の声はさっきよりくぐもっていた。

 「けどな、小多右衛門、九兵衛」

 兵庫は二人の寝ているほうに顔を向ける。

 「だとしたら、おれたちはあのいくさで何をした?」

 二人は、答えない。

 しばらく三人で川の流れる音を聞き、また、何を言っているかわからないが、高く張ったあの笹丞の声を聞いている。

 はっきりとしないのによく響き、なんとかを「知っていぁすか」と言っているところだけ聴き取れるのがどうにも耳に障る。

 その笹丞の声が続くのに耐えられないというように、小多右衛門が
「何もやっちゃいないさ。でも……」

 「そうだ。何もやっちゃいない」

 兵庫が小多右衛門の「でも」を打ち消し、ふっ、と口の端から短い笑い声を漏らす。

 「だが、おれはあのとき治部様の近習(きんじゅう)だったんだ。いくさに出なかったのは、おれがまだ独り者で、歳も若かったし、武芸も達者でなかったから――だから治部様がいくさ場には出なくていいとおっしゃった。けど、村には、おれより若くて、独り者で、それでいくさ場に出て殺されたやつもたくさんいるんだ」

 で、口を結んでから、ぽっと言う。

 「芹丸(せりまる)だってそうだ。……まあ、こんな話、おまえらには関係のないことだろうけどな」

 「そうでもないさ」

 小多右衛門がやはりところどころに短い笑い声を交えて言う。

 「おれたちはあのころ、ずっとおまえに食わせてもらっていたようなもんだったから――まあ、いまもそうだけどな」

 「おれたちも」

 こんどは大木戸九兵衛が口を開いた。

 「おれたちも、あの治部様のいくさってやつでいくさ場に出ていれば、いまごろこんなことはしてなかったかも知れないな」

 兵庫も小多右衛門も、何も言わない。

 九兵衛は黙って目を閉じた。


 「ふん」

 元塚九郎衛友は軽く鼻を鳴らして床に躯を伸ばしている笹丞を見下ろした。

 笹丞の片手はまだ椀を握っていた。添えていたというほうが当たっているかも知れない。

 椀は倒れ、最後に飲めなかった酒が床にこぼれている。

 「自分の酒量も計らずに飲んで、好き勝手を言って倒れてしまいやがった。何が大学中庸で、都の公方(くぼう)様の下で働くだ、ばかめ」

 衛友が笑みを浮かべたまま、こともなげに笹丞の顔に向かって言うのに、長野雅継は驚いたように顔を上げた。

 「元塚様……!」

 「いいんだよ、聞こえていても」

 衛友は雅継を見る。いっそう得意げに笑って見せる。

 「何がどうあれ、この男はおまえたちにくっついて借銭を取り立てるしか生きようがないんだから。独り立ちして生きていくことはできない、でも妻のところに戻るのは厭だ――勝手を言うからそんなことになるんだ、ばかめ」

 衛友はまた笹丞を罵る。笹丞がそれに応えるように躯を動かし
「ふんがっ」
と大きないびきを立てた。衛友は「へっ」と声を立た。

 べらの煮物の膳を横に押しやると、笹丞の向こうの長野雅継のほうに身を乗り出した。

 「それより、長野さんとやら」

 「はっ!」

 雅継は両膝の上に両手をきっちり載せて返答した。衛友は笹丞を笑っていたときよりもずっと大きく笑う。

 「あんたもせっかく柿原屋敷に奉公することになったんだ。どうせなら大きい仕事をしようじゃないか」

 「はぁ」

 雅継ははっきりしているのかあいまいかもわからないような返事を返す。衛友は目を細くして、斜めに雅継を見た。

 「ほらもっと気を大きく持って」

 「しかし、わたしは柿原家の用人のなかでも新参の者ですから」

 「関係ない」

 衛友はきっぱり首を横に振って張りつめた高い声で言った。

 「は?」

 「だから、新参だ古参だなんて関係ない。いや、それどころか、古参でまだ柿原の用人をやってるようだったら、それはそれ以上に上に上がる能がなかったってことだ。あんたはそうじゃない」

 「何を……言ってるんで?」

 雅継は、あるいは昨日の夜の村西一党との誓いを察知されたと思ったのかも知れない。

 でも、そういう返事のしかたは、この男がかしこまるときにはいつものことなのかも知れない。

 「だからさ、三郡のあるじの春野定範、その下につく柿原家、そしてその下で働くあんた――って、その下、その下がいちいちつくのはばからしいと思わないかと言ってるんだ。どうせなら人の上につくことを考えようじゃないか」

 「しかし、この三郡は春野家の治める領地ですし、その……」

 「天下はもとはといえば公方様のもの、もっと言えば天子様のものだろう? それに、あの越後守(えちごのかみ)定範(さだのり)にしたところが、甥っ子から力づくでこの三郡って土地を奪ったわけじゃないか。小森式部や柿原様はそれを手助けした一味だ。いや、悪いって言ってるんじゃないよ――定範様も柿原様も。土地も人も、つまりは力ある者のものになる。それだけのことだ。そしておれには力がある」

 元塚衛友はこともなげに言った。

 「それにあんたにも力がある。定範はただの色好みの無能者、柿原大和は昔はどうだったか知らないがいまではもう強欲なだけの爺さんだ。それに、柿原の息子は威張り散らすことしか知らない男だし、評定衆(ひょうじょうしゅう)筆頭の小森式部は小心者――こんな者たちの手にいつまでも三郡がとどまっているとしたらおかしな話ではないか」

 「元塚様」

 雅継は手を膝に置いたまま、笑いもせずにまっすぐに衛友の顔を見て言った。

 「ことばを(つつし)まれませ。どこでだれがきいているかわかりませんぞ」

 「聞かれていたってかまうものか」

 衛友は大きな声で言い放った。

 「いつもしている話だ。わたしがいつもこんな話をしていることぐらいみんな知ってるさ」

 「たとえそうでも、です!」

 長野雅継はまっすぐに言うことばを変えなかった。

 「九郎様。私は少し前まで村で小者を養うこともかなわず、日々、酒に溺れては妻に叱られているただの地侍(じざむらい)でありました」

 「ほう」

 衛友は興味を持ったらしい。雅継のほうに身を乗り出した。

 雅継はつづけた。

 「それが縁あって柿原様の仕事を言いつかりました。その仕事で、まあ、細かい話はしませぬがしくじり、さらにしくじりを重ねて、私は柿原様に頼りました。すると、柿原主計頭(かずえのかみ)様に自害して詫びよと叱られました」

 「あいつなら言いそうなことだな」

 衛友はつまらなそうな顔で自分の杯のなかをのぞきこみ、酒を喉へと流しこむ。それから雅継のほうに目を向けた。

 「で? どうした、腹でも切ったか? そんなことはあるまいな――いまこうして生きているのだから」

 衛友は一人で言うと笑い声を立てた。しかし雅継はにこりともせずかしこまっている。

 「は。それでもわたしは柿原主計様に許しをもらい、命を救われたのです。そうなった以上、わたしは柿原家のために全力を尽くして奉公するつもりです」

 「気もちのいい男だな、貴公は」

 身を前屈みにして右肘を右膝に載せて体を支えている衛友は、興味深そうに相手の顔をのぞきこんだ。

 「ならば柿原家のために全力を尽くすのもよかろう。考えてみればわたしは柿原家に遠慮しなければいけない義理は何もないが、あんたはそれがあるわけだ」

 「は……ぁ」

 雅継は背筋を伸ばしているのに、衛友は身をかがめているものだから、下から射すくめるように衛友の目が雅継に中る。雅継は居心地悪そうに顔を動かしたが、逃れることはできなかった。

 「まあいい」

 衛友は雅継の顔をのぞきこむのをやめて身を伸ばした。

 「貴公は明日はどこで仕事をするんだ?」

 「明日はおそらく井川のあたりということになるでしょう」

 「井川か……」

 衛友はわざと間をおく。雅継は、そのあいだ、何も言わずに待った。

 「井川は白麦(しらむぎ)山が近い。気をつけたほうがいいな」

 「山賊ごときを恐れるわれらではありません」

 「よい心がけだ」

 衛友が笑う。

 「じつは、わたしは明日から井川の東(とりで)に入る。井川から山を東に入ったところだ」

 で、また射すくめるように雅継の顔を見た。

 「何か困ったことがあれば――いや何も困ったことがなくても、訪ねてくるがよい」

 衛友はそう言ってゆっくりと自分の酒を飲み干した。

 「ふごご……ふごご……」

 二人のあいだでそんな喉の音を立てている笹丞のことなど、衛友も雅継ももう少しも気に留めてはいなかった。


 下屋敷町に帰るという二人連れの酔客を送り出し、その姿をしばらく見送ってからさとは宿に戻ろうとした。

 「ん?」

 さとがそんな声を立てたのは、夜更け、遠い屋敷町の(かがり)に照らされているだけの早瀬(はやせ)川の川上のほうから笠をかぶった女の姿がぼうっと見えてきたからだ。

 気の弱い娘なら幽霊とでも思って逃げ出したかも知れない。

 だが、さとは、しだいに宿の明かりのほうに姿を見せてくるその女を避けもせずにじっと見つづけていた。

 さとはその若い女をどこかで見たことがあるように思う。

 しかもその姿はこんな夜更けには似合わない旅姿だ。男ならばともかく、女が一人でこんな夜更けに旅に出るのはただ危ないのを通り越して無謀だ。何か災難に遭わないとしたらそのほうがおかしい。

 「お姉さん?」

 そこでさとは声をかけてみた。

 にらみつけられても笑って見せようと思っていたら、相手のほうから笑いかけてくる。

 「あら、どうなさいました?」

 「これからお出かけですか?」

 「ええ」

 色の白い若い女は血色のいい唇の端を引いて(うなず)いた。

 「でもこんな時間は危ないですよ。夜が明けてからにしたら……春だから夜明けも早いし」

 「ええ、ありがとう」

 女はほほえんだまま言った。

 「でも、今夜中に(ひびき)の宿まで行かないといけないんです」

 「響?」

 さとは問い返した。

 「でも響まではけっこうあるし、あんなところまで行ったら夜が明けますよ。途中には物騒なところもないわけじゃないし」

 「ええ」

 若い女はまた頷いた。

 「でも、わたしの夫が響にいて、どうしても明日の朝までに追いつかないといけないんです」

 「まあ、そうなんですか」

 さとは止めないことにした。

 「それじゃ、町のなかは篝があるからいいとして、町から出たら灯火を絶やさないようにしないと。油は十分にお持ちですか? なかったら分けてさし上げますけど」

 「ありがとう」

 若妻はやっぱりにこやかに答えた。

 「でもだいじょうぶ、今夜ひと晩分ぐらい持ってますし、まだしばらくは月明かりが頼りになりそうですから」

 「あと、屋敷町の番役に見つかるとうるさいですよ。送り返されるかも知れないし、それどころか捕まえられちゃうかも知れない」

 「ええ」

 若妻はそれでも笑っていた。

 「番役のいそうなところは通らないで行きます」

 「どうやら夜の旅は初めてじゃないみたいですね」

 そこでさとも若妻に笑いかけた。若妻は少し身を動かして答えた。

 「でも、一人で夜に遠出するのは始めて。その……いままでは夫がいっしょだったから。だから声かけてもらえてうれしかった」

 「それじゃお気をつけて」

 さとは若妻にそう声をかけると頭を下げた。

 若妻も頭を下げる。そのまま屋敷町に渡る橋へときれいな姿で歩いて行った。

 さとは、その若妻が去っていくのを見て、空に暗い雲が湧いてきて雨が迫っているときのような不安な感じを感じた。

 でも、夜に女の旅人を見ればそれぐらいは感じるのがふつうだろう。

 さとは急ぎ足で自分の宿屋に戻って行った。


 葛太郎(かつたろう)はずっと考えこんでいた。

 朝方、橿助(かしすけ)という親方といさかいを起こして、毬に殴られた、あの土間の入り口の上がり(がまち)だ。

 葛太郎はそこに座りこんで、ずっと考えている。

 「あいつは毬に恥をかかせたんだ。あいつは毬に恥をかかせたんだ」

 口のなかで唱える。目をきつく閉じて下を向く。

 「あいつは毬に恥をかかせたんだ」

 葛太郎は最後の「だ」のところだけ声を立て、それをだれかに聞きとがめられていないかというように後ろを見回した。

 夜の藤野屋はしずまりかえっている。

 何の物音もしない。南の空から月が照りつけているだけだ。窓は閉めてあるので、その月の影さえはっきりとは見えず、ただ部屋がぼうっと浮き上がって見えるだけだ。

 葛太郎はずいぶん長いあいだ後ろをうかがっていた。だれかを待っているようでもあった。

 どれぐらい待っただろうか。

 葛太郎は立ち上がり、土間に下りた。

 土間に下りてしまうと、もう周りをうかがうこともしなかった。

 土間の窓には襖をかけていないので、月影ははっきりと床に照っている。

 窓の格子の影までがはっきりと映っている。

 葛太郎はその月明かりをたよりに土間の中を確かめはじめた。

 最初に葛太郎は自分が怒られるきっかけになった大鍋を探った。その右側には消し炭や薪が積んである。その右には水場があって、小さい井戸が掘ってあった。そこからは裏庭だ。

 裏庭には別の釜が据えてあって、その入り口から燃え残りの(たきぎ)がはみ出ている。

 その向こうには、大きな井戸と小さい倉がひと棟あった。

 葛太郎は裏庭に首を突き出してようすを見ていた。

 だが、すぐに首を引っこめ、裏口を背にしてしばらく顔を伏せる。

 葛太郎はこんどは大鍋の反対側に行った。こちらは月明かりが入らないばかりか、大鍋の影になってかえって暗く、見分けがつかない。桶や曲げ物がごちゃごちゃと積んであるだけだが、何に使う何がどこにあるかまではわからなかった。

 月はあんなにまぶしいほどに明るいのに……。

 葛太郎は首を振って土間から出て行こうとした。上がり框から部屋に戻ろうとした。

 だが、その前に、葛太郎の目は、土間のいちばん表側にていねいに積み重ねた四角い箱を捉えた。

 葛太郎はしばらく身動きしない。土間から部屋に戻ろうと、置き石にかけた足に力をこめさえした。

 ぶるぶるっと首を振る。そして、葛太郎は、その箱のほうに、これまでよりずっと足音をひそめて近づいていった。

 振り向きはしないが、後ろの上がり框のほうをずっと気にしている。

 昼にそこから出てきた毬に殴られたことを思い出しているのだろうか?

 だが今度は何も起こらない。葛太郎はその高く積んである四角い箱のところまでたどり着いた。

 葛太郎はこんどは中庭のほうに通じる戸口を見る。

 そちらも開け放しになっていて、向こうには表の店の母屋が月に白く照らされているのが見えた。

 でも、じかに月が射しこんでいるわけではないので、裏よりは暗い。

 葛太郎はその表の側の戸口を何か懐かしそうな目で見る。そして首を振った。

 葛太郎はいよいよその積んである四角い箱のいちばん上のものを開けてみた。

 なかには向こうが透けて見えるような葛餅が入っていた。

 まだ切り分けていないけれど、切り分けていないだけきれいに見える。

 葛太郎はその四角い箱を取り上げる。自分の目の前に持ってきた。

 手で顔のすぐ前に捧げ持って、裏の戸口から入る明かりにすかして眺める。

 葛太郎は目を細めた。

 そして、いきなりその箱を頭の上に持ち上げた。傾けて床にたたきつけようとする。

 葛太郎は目を閉じた。きつく閉じた。そして頭の上に上げた手に力をこめた。

 手が震えた。箱がきちんと持てない。箱を取り落としかける。

 落ちかけた箱を葛太郎はぎゅっとつかんでいた。

 傾いたままつかんだので、きれいに平らになっていた葛餅の表に葛太郎の指のあとが残ってしまった。

 「はっ」

 葛太郎はそんな声を漏らすと、土間に尻をついてしゃがみこみ、自分の前にその葛餅の箱を置く。

 葛餅には、右と左から――裏口と表口から入る月の光が映えて、入り組んだ明かり模様を作っていた。

 虹のような明かりが隅のほうにちらっと見えることもあった。

 葛太郎はまたぶるぶるっと首を振った。

 唇と目をもういちどぎゅっと閉じる。

 目を開けた葛太郎は、右手を猛然とその葛餅の中に突き入れていた。

 手で葛餅をすくって口に持っていく。手一杯の葛餅を口のなかに入れてはぐっと呑みこむ。また一杯、また一杯……。

 葛餅は葛太郎の手で少し融け、口に押しこむときに唇の端に流れ出し、でもほとんどは葛太郎の喉に流しこまれていった。わずかのあいだに葛太郎はその葛餅を食べ終わる。木箱の隅に残っていた葛餅まで指で集めて、最後は親指のほかの四本の指で口にかきこむ。

 それをごくんと呑みこんで、葛太郎は立ち上がり、つぎの箱を取った。こんどは指で痕もつけないで、最初からまん中あたりから手ですくい上げ、口にばくんと含む。

 最初の一口で、葛太郎は何か奇妙そうな顔をした。口に入れているのが葛餅だから最初からそんなにまじめには噛んでいないが、それにしても噛むのをしばらく止め、何かを舌で探っている。

 けれどもそれはしばらくのあいだだけだった。

 葛太郎は何かを確かめると、また勢いよく手ですくって葛餅を食べ始める。

 食べ終わるとつぎの箱、またつぎの箱というように食べていく。

 五箱めを食べきったところで葛太郎はがくんと頭を下げた。

 土間の上にぺたんと座りこんだまま、頭を垂れた。

 葛太郎の前には、箱五つが無造作に散らばっている。

 その葛太郎の目から涙がこぼれだした。

 泣き声は立てない。涙がこぼれるのを拭こうとも抑えようともしない。

 葛太郎は、やがて、座りこんで泣いたまま、土間の上で眠ってしまった。


 月の明かりは裏と表の戸口からあいかわらず土間を照らしている。

― つづく ―