1960年代以降のヴィデオアートの展覧会だ。 最近多くなった映画的な表現 (例えば Matthew Barney [レビュー]) や 絵画・写真的な表現 [レビュー] とは違う、コンセプチャル・アートに近しい表現が多く集められていた。 コンセプチャルなヴィデオアートの系譜を追うことができ、勉強なった展覧会だった。
比較的多く見られた特徴的な作品の一つは、撮影した映像をリアルタイム、もしくは、 短時間のディレイをかけてブラウン管に映し、被写体と映像の関係を問うような作品だろう。 それをもっとも良い形で実現していたのは、 Dan Graham の “Opposing Mirrors and Video Monitors on Time Deley” (1974)。 ハーフミラーを使った作品 [レビュー] のヴァリエーションとも言えるが、 ハーフミラーの代わりに2台のヴィデオカメラとヴィデオディスプレイを用い、 一方のヴィデオに短時間のディレイをかけることにより、 鑑賞者の自分と被鑑賞者の自分が向かいあうことが可能となっているのが面白い。 撮影した映像を映したモニタを被写体と合わせてもう一つのカメラで撮影する形式の作品も いくつかあったが、その中で最も面白かったのは、 Joan Jonas の “Vertical Roll” (1972)。 カメラとモニタのフレッシュレートが合ってないために撮影されたモニタの上に流れる横縞を使い、 手の動きや音をそれに合わせている作品だ。
コンセプチャルな作品やギャラリーに持ち込めない規模のパーマネントではない作品 の記録としてのヴィデオというものも多かったのだが、そんな中では、 Gordon Matta-Clark の “Splitting” (1974) と “Conical Intersect” (1975) の制作風景のヴィデオが観ることができた。 前者は木造の家をチェーンソーでまっ二つに切る作品、 後者は取り壊し直前の古いビルに大きな円錐を穿つ作品で、 いずれも写真では何度も見たことがあったのだが、ヴィデオで見るのは初めて。 “Splitting” では、 家に切れ目を入れるだけでなく、それを少し開くために家の土台を削っているのだが、 それを実際にどう実現したのか見ることができたのが、特に収穫だった。
カメラが手持ちできるほどコンパクトになったからこそ可能な作品も多かった。 そんな中で良かったのは、野村 仁 の 「カメラを手に持ち腕を回す:人物・風景」 (1972)。 タイトル通りの作品だが、単に回転するのではなく、捻りが入るところが面白い所だ。 しかし、手ぶれしたヴィデオに酔いやすい自分にとっては、この手の作品はとても辛かった。 実際、この展覧会を観ているうちに酔って辛くなってしまい、 展覧会を観始めてから1時間半程 (丁寧に観ようとしたらこの時間では全く足りない) で 退出することになってしまった。
1960-70年代のヴィデオ・アートにコンセプチャルなものが多い理由としては、 確かに、アナログのヴィデオテープレコーダー (VTR) が普及した時期と コンセプチャル・アート全盛期が重なった、ということがあるだろう。 しかし、編集やエフェクト処理をすることが限られていたアナログ・ヴィデオでは、 特殊な映像表現を指向することはできなかったということもあるかもしれない。 いや、被写体と映像の間にある直接的な類似関係が保たれるアナログ・ヴィデオだからこそ、 被写体と映像の間の関係性に取り組んだ作品が多く作られた、と言った方が良いかもしれない。 編集やエフェクト処理が容易なデジタル・ヴィデオにおいては、 A/D変換によって被写体との類似関係が切断され、 取り込まれた映像は編集やエフェクト処理の素材データとなる。 そして、1990年代に入り、画像処理できるほどにパーソナル・コンピュータが高性能化し、 液晶プロジェクタといった投影機材が普及するに従い、 素材データの編集加工処理にウェイトが移り、映画的、絵画的な表現が増えるようになった、 ということなのだろう。