1930年代にレビュー路線となる以前、 黎明期の宝塚少女歌劇団で初演された『春から秋へ』の再現上演です。 この頃の宝塚が現在の宝塚とかなり違う 革新的な新舞踊 (日本舞踊の改良運動) を上演していたということは 渡辺 裕 『宝塚歌劇の変容と日本近代』 (新書館, ISBN4-403-12009-1, 1999) や 渡辺 裕 『日本文化モダン・ラプソディ』 (春秋社, ISBN4-393-93161-0, 2002) という本 [読書メモ] で知っていたのですが、 その本に載っていた白黒スチル写真でしか舞台の様子を知りませんでした。 なかなな無い良い機会と思い、観てきました。 『春から秋へ』は「新舞踊」の代表作と言われるものですが、 歌無しという点で黎明期の宝塚の中でも特異な作品のようで、 当時に一般に話題になったというよりも、 その後に新舞踊を画期する作品として言及されることが多かった作品とのことだそうです。 こうして再現上演することができるのも、舞踊譜と楽譜が残っているから、とも言えますが。
全体の印象とからは、日本舞踊的な要素がほとんど感じられませんでした。 オーケストラによる音楽は不協和音も使ったモダニズムを感じる (印象主義に近い) ものでしたし。 動きもポーズやリフトも使うもので、 横への移動の際にあまり足を上げないことが多い所がちょっと日本舞踊っぽいかなと思った程度でした。 もちろん、自分が日本舞踊に疎くてその動きの要素が読み取れなかった、 再演の踊り手が日本舞踊の踊り手ではなくモダンダンスの人でその身体の癖が見えてしまった、 などの理由も考えられますが。 もともと日本舞踊を記述するために開発された舞踊譜を使ってこの動きが記述されていた、という落差が感慨深かったです。 ちなみに、舞踊譜ではポーズを「見得」と書いているとのこと。 コンテンポラリーダンスとかを見慣れている今の自分からすると凄い舞台を観たという感はしませんでしたが、 オーケストラの音楽を聴く機会すらほとんどなかった人たちが日本舞踊を期待してこれを観たとしたら、 かなり「革新的」と感じたのではないかと。
そんな中で最も日本的なものを感じたのは、むしろ主題、 二匹の蝶の出会いから死までを通して人生と無常観を描いているところでした。 哺乳類のような擬人化しやすい動物ではなくむしろ脆く細やかな生き物である蝶を主人公に選び、 その登場人物の内面を描くこともなく (例えば、二匹のどちらが男性であるか細かくは演じ分けられているようだが明示的には演じられない)、 むしろ四季の移ろいを通して無常観を描く所に、日本の伝統芸能と共通するセンスを感じました。 もちろん、二匹の蝶の出会いと死から人生と無常観を描く作品ということから、 手妻 (日本の伝統的な手品) の代表的なレパートリーである 『蝶のたはむれ』 (もしくは『胡蝶の舞』) を連想されられたということもあります [読書メモ]。 ただし、『蝶のたはむれ』と違い、『春から秋へ』は最初の一匹の蝶のソロが無くていきなり出会う所から始まって、 死んだ後に多くの子を残すシーンもありません。 『蝶のたはむれ』に無かった季節も織り込まれていますし、夏の群舞も『蝶のたはむれ』にはありません。 『春から秋へ』は『蝶のたはむれ』の翻案だと言いたいわけではありません。 しかし、楳茂都が『蝶のたはむれ』を知っていたということは充分に可能性があるように思いますし、 楳茂都が手妻に着想を得て『春から秋へ』を制作してたとしたら面白いなあ、などと思ってしまいました。
写真によるとかなり作り込んだ舞台装置があったようですが、今回は舞台装置無しで。 照明も比較的フラットなもので照明演出も控えめ。 舞台装置や照明によっても作品の受ける印象はかなり違うので、 次にこの手の再現上演する機会がある時は、 音楽やダンスの再現と同じくらい拘ったものを観てみたいとも思いました。 ヴォルフガング・シヴェルブシュ『光と影のドラマトゥルギー —— 20世紀における電気照明の登場』 (法政大学出版局, ISBN4-588-27644-1, 1997-06-16) [読書メモ] を読んで以来、 当時の照明演出がどんなものだったか再現したものを観てみたい、と思っていたりします。
ちなみに、この上演は 平成21年度〜平成23年度科学研究費補助金基盤研究 (B) 「楳茂都陸平の舞踊譜と宝塚歌劇 ー 新舞踊『春から秋へ』を中心に」 の成果公演という位置づけで、前後にシンポジウムとトークがありました。 上演前のシンポジウムでどのように再現したのか話を聴くことができた、 特に、舞踊譜をほんの一部とはいえ見ることができたので、 上演をより興味深く観ることができたように思います。