2008年の談話室へ書いた読書メモのうち、 主に文化史や現代文化論に関するものの抜粋です。 古い発言ほど上になっています。 リンク先のURLの維持更新は行っていませんので、 リンク先が失われている場合もありますが、ご了承ください。 コメントは談話室へお願いします。
読書メモ。
10人のデザイナーを取り上げての伝記という形をとってはいますが、 アパレル産業を含む産業構造の変化や他の文化 (デザイン、建築やアート) との関係から 19世紀半ばからのファッションの変遷を描いた本です。 全体の流れはだいたい予想通り、というか、特に前半は 柏木 博 『ファッションの20世紀 &mdash 都市・消費・性』 (NHKブックス 831, ISBN4-14-001831-1, 1998) をデザイナーを主役に組み換えたような感じ。 後半になるとスタンスの違いが明確に。 基本的にモダンの線で評価する 柏木 と違い、 成美は「抵抗のポストモダン」の意義も強調します。 あと、柏木 の本の方が歴史展開を捉え易いと思いますが、 エピソードや具体例は 成美 の本の方が豊冨でしょうか。
取り上げられているデザイナーは以下の10人: Charles Frederick Worth, Paul Poiret, Gabrielle Chanel, Elsa Schiaparelli, Claire McCardell, Christian Dior, Mary Quant, Vivienne Westwood, Comme des Garçons, Martin Margiela。 1920s Avant-Garde ファンとしては、 やはり Chanel と Schiaparelli の章が興味深く読めました。 Chanel には舞台衣装デザインの才能が無かったという指摘に、そういえばそうだなぁ、と。
あと、柏木との Comme des Garçons に対する評価のポイントの違いが興味深かったです。 柏木は Comme des Garçons をミニマリズムの観点から評価していましたが、 成美は抵抗のポストモダンとして評価しています。 ミニマリズムをアヴァンギャルドの一形態とすれば、 いわゆる「アヴァンギャルドなのか抵抗のポストモダンなのか」問題というか。 10年くらい前に The Residents をネタに そんな議論をしたことを思い出してしまいましたよ (遠い目)。 しかし、モダニスト的なミニマリズムであればむしろ Issey Miyake の方が典型的。 Comme des Garçons はミニマリズムの観点よりも 「抵抗のポストモダン」の観点から評価した方が良い服が多いと思いますが、 モダニスト色薄い Yohji Yamamoto の方が「抵抗のポストモダン」らしい、とも思ったり。
入院中に見舞いに来てくれた友人と 印刷局や造幣局の美術館・博物館の話をしたことを思い出して、 手に取ってみた去年出た新書。
非鉄金属の材料科学の技術史かつ/もしくは 材料科学的アプローチに基づく考古学・工芸 (金工) 史・貨幣史の概説書。 興味深かったのは、 古代の金属出土品のミクロな構造から加工の手法を推定したり、 古代の銅銭で使用される銅アンチモン合金と青銅の違いに着目したりする、考古学の話。 あと、近世金工の発色法「煮色法」や金小判の「色揚げ」など近代直前の技術の話も。 もう少し技術的に踏み込んだ話も読みたかったですが、新書の分量ならこの程度でしょうか。 技術的な話と工芸 (金工) の話のバランスが良く、学際分野の面白さが感じられる本でした。 今後、金工を観る目が変わりそう。 ちなみに、筆者は、京都大学工学部で修士修了後、 東京藝術大学で博士を取ってるんですね。なるほど。 芸大の博士といっても、もちろん、あの 村上 隆 とは別人です。
『バウハウス・デッサウ展』 @ 東京藝術大学大学美術館 のついでにでも、 久々に東京国立博物館に寄ろうかなぁ〜。 江戸時代の金工が充実している所、どこかないかなぁ〜。
週末の疲れが取れず週末のレポートを書く気力が出ないので、 今日の通勤往復で読んだ本の読書メモを軽く。
オペラ『蝶々夫人』 (Giacomo Puccini, Madama Butterfly, 1904) の成立を、 それに先行する小説『お菊さん』 (Pierre Loti, Madame Chrysanthéme, 1887) 、 小説版『蝶々夫人』 (John Luther Long, Madame Butterfly, 1898)、 芝居版『蝶々夫人』 (David Belasco, Madame Butterfly, 1900) と追いつつ、 それを通して西洋人の日本人女性観の成立を追う本。 作品を単独で分析するというよりも、 小説が芝居、オペラに書き換えられていくうちに、 何が強調され、何が省略され、何が追加されていったのかを追うことによって、 そのオリエンタリズム的なイメージ再生産の実態を明らかにしていきます。 『蝶々夫人』にオリエンタリズムやジェンダーの問題があるのは意外ではありませんでしたが、 これでもかという具体的な分析は読み応えありました。 さらに、『蝶々夫人』を通して成立した日本人女性観に揺さぶりをかける読みが可能な 小説 Paul Loewen, Butterfly: A Novel (1988; 『異問 蝶々夫人 — ピンカートンの性の回想』, 1989)、 小説 David Henry Hwang, M. Butterfly (1988) について分析しています。
しかし、最も印象に残ったのは、 芝居版で使われたという最新の照明技術 (電気照明) を使い 夕暮れから曉までの光の変化を14分間全くセリフの無しで見せたという 当時のハイテク演出の話だったり。 オリエンタリズムやジェンダーとは関係ありませんが……。 ヴォルフガング・シヴェルブシュ 『光と影のドラマトゥルギー — 二十世紀における電気照明の登場』 (法政大学出版局, 1997; Wolfgang Schivelbusch, Licht Schein und Wahn: Auftritte der elektrischen Beleuchtung im 20. Jahrhundert, 1992) も読まねば。
映画 『郵便物語 遞信シリーズ・第一扁』 (1936) を観たり、 昔観た映画 Mikhail Tsekhanovsky (dir.), Pochta (1929) (レビュー) のことを思い出したり、という関連で、 今年の頭に出たこの新書を。
郵便の文化史、というか、郵便制度を通してみた近代化論 に関する入門的な新書。 主要なネタ本は、 Ludwig Kalmus, Weltgeschichte der Post (1937) と イマニュエル・ウォーラーステイン 『近代世界システム』 (Immanuel Wallerstein, The Modern World-System, 1974) なのかしらん。 1490年から1505年にかけてのハプルブルグ家とタクシス家の郵便契約に始まり、 1875年の万国郵便条約に結実を見る、近代郵便制度の展開を物語っています。 近代郵便制度は、中世の飛脚制度の近代化というより、 古代ペルシャ〜ギリシャ・ローマの駅伝制度のルネッサンスだったのかー。 あと、ハプスブルク帝国が率先して近代化を推進したというより、 君主の無能にもかかわらず時代の要請から近代化が進展した、 と本書は主張しているので、本のタイトルはちょっと違うのではないかと。 冒頭にシラーの戯曲『ドン・カルロス』 (J. C. F. von Schiller, Don Carlos, Infant von Spanien, 1787) の一節を掴みに使うなど、逸話選びが秀逸で面白いです。 といっても、もう少し堅い文体の方が自分の好みですが。
しかし、この本を読んでいて、こういう話が好きなら、 やっぱりウォーラーステインやフェルナン・ブローデル(Fernand Braudel) くらいは ちゃんと読んでおいた方がいいんだよなー、と、改めて思ったりしました。 そう思いつつ、なかなかちゃんと読めないでいるんですが……。
読書メモ。
様々な文化史・技術史の著作があるドイツ (Deutschland/Germany) の著作家による 照明の技術史・文化史の本です。 1783年に発明されたアルガン式ランプ (Argand lamp) に始まり、 ガス灯、アーク灯を経て、1898年に実用化された金属フィラメントの白熱電灯に至る 19世紀の照明技術の進展について、 単なる光源の光度の向上という技術進歩だけではなく、 照明をめぐる政治や文化の変化も描いています。 取り上げられている幅広いエピソードも興味深いのですが、 風俗を描いた当時の銅版画が多く使われているのが、時代の雰囲気を伝えていて良いです。 文章も平易で、とてもお薦めです。
技術史としては、古い技術が新しい技術に取って代わられるという単純な話ではなく、 古い技術が新しい技術の要素の採用で延命され併存していく様子も描かれています。
街灯の政治的意味や社会的位置付けとその変化を論じた所も興味深いです。 夜警の松明の延長線上に街灯があったパリ (Paris, FR) では 革命や暴動において街灯破壊や街灯絞刑が起きた、とか。 1889年の万国博 (l'exposition universelle) の際、 エッフェル塔 (Tour Eiffel) の対案として 太陽柱 (Colonne Soleil) という360mの高さからパリ市全域をアーク灯で照明する 電気灯台の計画があったことも紹介されています。 そのような塔による照明 (tower lighting) の照明コンセプトは18世紀からあり、 アーク灯が発明され技術的に可能になると、 アメリカ (USA) の数多くの都市で高さ50m〜100mの塔による照明が採用されたと。 市街地全域を高さ50mの塔122基で照明したというデトロイト (Detroit, MI) の話など、凄い。 しかし、このような塔による照明は、技術の実用的応用いうより記念碑的志向といったもので、すぐに廃れた、とか。
あと、舞台照明にも1章を割いていて、それが面白いです。 17、18世紀では舞台照明は光源の光度が足りず 舞台の外枠をあかりで標示したものに過ぎなかったというのは、目から鱗。 ルネッサンス以降の絵画のリアリズムは演劇理論にも影響を与えたけれども、 自然らしい光が技術的に可能になったのは19世紀に入ってから。 そして、19世紀の照明技術の進展によって、 舞台美術が平面的な書割から立体の舞台構造物となり、 明色だった舞台衣装や美術に暗色が使われるようになった、という。 舞台が観客席と区別された独立した美的イリュージョン空間となり始めたのは 18世紀中頃で、それ以降、観客席が暗くなりはじめたのですが、 19世紀を通して観客は観客席を暗くすることに抵抗を示したという話も。 むしろ、現在の暗い観客席は劇場ではなく映画館からの借り物ではないか、と指摘しています。 そして、暗い観客席のルーツでもあり、映画の先駆にして 19世紀の照明技術の革新と並行して登場した光のメディアアートとして、 パノラマ、ジオラマ、幻灯にも言及しています。
ちなみに、続編として20世紀の照明を描いた 『光と影のドラマトゥルギー —— 二十世紀における電気照明の登場』 (法政大学出版局, 1997; Wolfgang Schivelbusch, Licht Schein und Wahn: Auftritte der elektrischen Beleuchtung im 20. Jahrhundert, 1992) があります。未読ですが。
なんとなく専門的に過ぎるかなと Schivelbusch は敬遠していたんですが、 平易に書かれていてとても読み易いじゃないですか。彼の他の本も読まねば。 こういう本は、手元に置いておくと、 展覧会や舞台のレビューを書くときのちょっとしたネタに使えるので、 文庫か選書のような廉価ペーパーバックで出して欲しいものです。 というか、スカスカな新書や選書を濫造するくらいなら (以下略)。
読書メモ。書き出すとつい長くなりがちなので、気を付けないと……。
『チャーズ』の著者としても知られる物理学者にして日中交流に携わってきた 著者による『NBonline』での連載 「中国"動漫"新人類」の単行本化。 (それにしても、単行本化しても記事を残しているのは偉い。) 日本動漫 (アニメとマンガ) の中国での人気は海賊版による所が多いこと、 そして、日本動漫が民主化の道を開いたことを描いたノンフィクションです。 中国政府の文書や統計資料の調査と沢山のインタビューに基づいて 丁寧に描いているのが良いです。 ま、このような作品は基本的に多義的なので、 著者の主張のように日本動漫が民主化への道を開いた、というより、 民主化への道を開いたのは改革開放で その始まりの時代に日本動漫に接した世代が 日本動満の中にその象徴を見出したということなのかもしれませんが。
この本では、日本の戦略の欠如との対比として、 映画やテレビドラマといったサブカルチャー普及させアメリカ的価値観を広めていった アメリカの戦略に触れています。 そして、その戦略の存在の根拠として、 有馬 哲夫 『日本テレビとCIA —— 発掘された「正力ファイル」』 (新潮社, ISBN978-4-10-302231-2, 2006-10-18) を紹介しています。 例えば3S政策 (⇒ja.wikipedia.org) のような話は 陰謀論の可能性が高いと思っていたのですが、 どのくらい具体的な話があった書かれているのだろう、と、 この本がちょっと気になりました。
先週の読書メモで、 遠藤 誉 『中国動漫新人類 —— 日本のアニメと漫画が中国を動かす』 (日経BP社, ISBN978-4-8222-4627-3, 2008-02-12) を取り上げたわけですが、その後、 「その後の「中国動漫新人類」〜「中国同人事情——オタク、何やってる?」」 (『NBonline』 2008-07-08) という記事が出ました。本を出して一段落、というより、 このまま続編となって続くのではないかという勢いですね。素晴しい。
で、今週の読書メモ。 って、週一冊ペースと決めたわけじゃないですが……。
題名に「QWERTYの謎」とあるように、この本のテーマの一つは、 「タイプライター・キーボードのQWERTY配列は アームが衝突するのを防ぐためにタイピストが打ちにくい配列として設計された」 というという都市伝説を誰が言い出して誰が広めたのか、です。 しかし、そのような言説の歴史を追った部分は多くありません。
この本は、タイプライターの発明、製品化、普及、 そして、テレタイプライターからコンピュータのキーボードへの発展を描いた タイプライターとキーボードの技術史の本です。 そして、その歴史の中でも最も重点が置かれているのは、 タイプライターを製品化した企業の市場独占の思惑から QWERTY配列の独占が進められていく所です。 技術的な優劣ではなく企業の市場独占への思惑で デファクトスタンダートや国際標準が決まっていく様子の描写には、 著者の文字コード標準化での体験が重ねられているようにも感じられました。
また、キーボード配列をめぐる市場での競争や標準をめぐる政治の話だけではなく、 19世紀後半アメリカでの女性参政権運動とタイプライター普及の関係を 描いてもいます (第4章「女性参政権運動とタイプライター」)。 タイピストが「女性の仕事」 (pink-collar job) となったのは そういう経緯もあったのか〜、と。
当時の新聞や雑誌の記事や広告、特許文書などの図版が多いので、 それを見ているたけでも、とても興味深いです。 特に、The Phonograhic World 誌の1891年9月号の "A Record Of Typewriters" という特集記事から取られた 当時のタイプライターの一連の図版が目を引きました。 様々な可能性が試されていたのだな、と。
そういうわけで、QWERTY配列の是非に関心が無くても、 タイプライターとキーボードを通して見た 19世紀末から20世紀にかけての技術史として興味深く読める本でしょう。
フォント話をしたとき、 ふと 柏木 博 『家事の政治学』 (青土社, 2000) を手に取った勢い再読してしまいました。それで思い立って読んだ本の読書メモ。
19世紀後半から20世紀初頭のアメリカにおける第一次フェミニズムの潮流の一つ マテリアル・フェミニズムの歴史を辿った本です。 マテリアル・フェミニズムというのは、 男女間の不平等の原因は家事労働の性的分業にあるとし、 家事労働に対する経済的報酬や 住宅設計や都市計画の在り方の変革など、 経済的・空間的問題に的を絞って運動を展開したフェミニズムのことです。
マテリアル・フェミニストたちが取り組んだ問題別の章立てではありますが、 章ごとに主に取り組んだフェミニストを大きくフィーチャーしており、 マテリアル・フェミニスト列伝のよう。 その立場も社会主義的なもの(左)からキリスト教博愛主義的なもの(右)まで、 目指すは家事共同か家事サービスなのか、と様々。 主なイシューは家事労働、特に、炊事と育児のあり方で、 キッチンの無いアパートメントと共同キッチンや保育室を組み合わせた共同住宅などの 実験が話題の中心となっています。 しかし、私的空間の扱いの関連もあって自由恋愛主義についても一章を割いてます。 特に印象に残ったのは、こんな記述。 アパートメントホテルの原点はこんな所にあったのか〜。
アンダーヒルやアンドリュースが「自由恋愛の市民権」を護るためにはどうしても私的空間が必要であると主張したこと、 また、都市に立地したことにより、ユニタリー・ハウスホールドの実験は、他の共産主義のセツルメントとは異ったものとなり、 十九世紀末に多く建てられたアパートメント・ホテルの先駆けとなった。
このような様々な実験のエピソードも興味深く読めましたが、 最も興味深く読めたのは最後の第VI部「反動」、 特に第13章「コロンタイ女子とミセスコンシューマー」、 1920年代以降のマテリアル・フェミニズムに対するバックラッシュを描いた章です。 男性労働者に小規模な郊外住宅を住宅ローンで購入させるという雇用者が採った手段 (持ち家制度) は、 労使の衝突を緩和するためだけでなく、 女性をその妻「家庭管理者」かつ「消費者」として労働力から締め出すためでもあった、と。
しかし、このようなバックラッシュが進行した時期、というか、 20世紀初頭までの第一次フェミニズムと1960年代後半以降の第二次フェミニズムの間の時期、 というのは、アメリカにおけるて経済格差の「大圧縮時代」 (ポール・クルーグマン『格差はつくられた』の読書メモ) と大きく重なるんですよね。 赤狩りと並行してし進められた持ち家制度にしても、大圧縮 (富の再分配) に寄与した面もあったのではないか、と。 そして、そういう経済的な背景を考えると、 斎藤 美奈子 『モダンガール論』 (読書メモ) の 第4章「高度成長の逆襲」 (特にその前半) での議論と同じようなことが、 ここでも言えるではないか、と。
こんな感じで、興味深く読めるポイントはそれなりにある本ですが、 アメリカ以外の動向にはほとんど触れられていないし、 19世紀から20世紀初頭の動向以外の記述が相対的に薄め。 また、学術書的な記述で読み易いとは言い難いです。 まずは、柏木 博 『家事の政治学』 (青土社, ISBN4-7917-5793-9, 2000) を読んで、 個別に深く知りたいと思うことがあったらこの本に当たる、というのがよろしいかと。
半年前に読んだ ヴォルフガング・シヴェルブシュ 『闇をひらく —— 19世紀における照明の歴史』 [読書メモ] の続編を読んだので、読書メモ。
『闇をひらく —— 19世紀における照明の歴史』 がガス灯からアーク灯を経て白熱電灯に至る19世紀の照明史なのに対し、 『光と影のドラマトゥルギー —— 20世紀における電気照明の登場』 は、白熱灯以降の電気照明の歴史を描いた本です。 個々のエピソードに興味深いものはいろいろありましたが、 全体としての話の流れは19世紀の本に比べて弱く、少々読み進め辛く感じました。 その理由としては、本の構成の問題というより、主題上の問題があるように思います。 光度の向上という強い技術トレンドがあった19世紀に対し、 照明利用の多様化が進んだ20世紀という。 19世紀の本が技術史的だったのに対し、20世紀の本は文化史的です。 ちなみに、20世紀の本は、特に19世紀の本を読んでいることを前提としていません。
8章立てで主に扱われているのは次の話題です: 20世紀前半の建築照明や舞台照明、間接照明、映画における照明、ネオン、サーチライト、管形ランプ〜蛍光灯、演劇照明と店舗照明の相互関係、自然採光。 19世紀より資料が残っているということもあると思いますが、 舞台作品や映画における照明演出の話が多く出てきます。
最も興味深かったのは、舞台の照明演出の話。 コンテンポラリーな演劇やダンスでは、大道具小道具のような舞台装置はミニマルに、 照明を中心に演出することが多いわけですが、 そのルーツ、20世紀初頭のイギリスの演劇家 Edward Gordon Craig や スイスの演劇理論家・舞台美術家 Adolphe Appia の仕事に、この本は触れています。 このような演出が生まれた技術的な背景としては、照明の光度が上がり、 書割、ハリボテの舞台装置から現実味が失われたため、と、この本は指摘しています。
映画と照明演出の衰退の話も興味深いものがありました。 自然光スタジオから密閉したスタジオに移行することにより、 映画においても照明による演出が盛んになりました。 しかし、カラー映画移行廃れ始めました。 この理由として、カラーの表現力により光と影の造形に対する感覚が失われたことを挙げています。 さらに、ヌーベルバークが最後の一撃を加えた、と。 ヌーベルバークが照明演出を避けたのは、 写真用照明など安価な機材を利用しスタジオではなく日常の街中を多用した撮影スタイルだけでなく、 ハリウッド的なものへのアンチという面もあった、とも指摘しています。
舞台照明、映画照明以外で最も興味深かった話は、 Robert Venturi, et al, Learning from Las Vegas (1972) に触れた所。 Learning from Las Vegas が出版された時には、 Venturi が触れたような Las Vegas の商業的なネオンサインは衰退し、 1970年代のエネルギー危機によってとどめを刺されてしまった、と。 その一方で、商業目的という束縛から開放され、 文化的な収集物となり、現代美術のマテリアルとなり、 そして、その結果として再び商業ベースに乗ることになった、と。 そして、こういった経緯を、 「いいかえればネオンは、ほかのポストモデルネのノスタルジーの対象と同じように、 没落、再発見、文化の仲間入り、再商業化というサイクルを一巡りしたのである。」 と、この本はまとめています。
19世紀の本は現在と異なる照明に対する考え方や失敗に終った照明の可能性を垣間見るという点で興味深いものがありましたが、 この20世紀の本は現在に繋がる舞台や映画、商業施設における照明演出の起源を知るという意味で興味深い本でした。 どちらもお薦め。