去年後半はすっかりサボってしまった読書メモ。 本を読んでいなかったわけではないので、読んだ内容をすっかり忘れないうちに、備忘録的に。
戦前日本の近代化がどのように進められたのかを唱歌や校歌・工場歌から読み解く本です。 また、コミュニティ・ソングという観点から、その系譜に連なるものとして 戦後の県歌やうたごえ運動を位置づけて論じてもいます。 しかし、その論もさることながら、 「夏季衛生唱歌」とか唱歌遊戯とか「ヒゲタ工場歌」とか、 その具体例が面白く、惹き付けられる本でした。 『宝塚歌劇の変容と日本近代』 (新書館, ISBN4-403-12009-1, 1999) や 『日本文化モダン・ラプソディ』 (春秋社, ISBN4-393-93161-0, 2002) [読書メモ] でも、 低音(セロ)三味線や三味線コンチェルト、河合ダンス (モダン芸者の舞踊団) など 面白い例が多く楽しめましたが、こういうところもこの著者の本が好きな所です。 こういうものを丁寧に見付けてくるよなあ、とつくづく感心します。
また、狭義の音楽だけではなく唱歌遊戯や民謡体操といったものも取り上げているのも興味深かったです。 この本の中には出てきませんが、1990年代から急速に広まったヨサコイも、 「アート」な音楽表現とか身体表現というより、 唱歌遊戯とか民謡体操の延長にあるもんなんじゃないか、とか、読んでいてふと思ったりもしました (あまりちゃんと考えてはいませんが……)。
演歌が1960年代のカウンターカルチャーの中で形作られ、 それが日本的なものとして様式化していったその歴史を、豊富な資料をもとに論じた本です。 自分が意識的に音楽を聴くようになった1980年前後、 既に演歌は保守的で様式化したものとして見られていたように記憶しています。 現在の「演歌」が明治時代の「演歌」から連続したものではないと自分が知ったのは、 北中 正和 『[増補]にほんのうた』 (平凡社ライブラリー, 2003) とごく最近のこと。 経緯についてはほとんど知らなかったので、 ジャンル形成において 五木 寛之 の小説や 藤 圭子 が大きな役割を果たしたという話など、 とても興味深く読めました。
この本で触れられている曲については、 「輪島裕介『創られた「日本の心」神話——「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』」 (『昆虫亀』, http://d.hatena.ne.jp/conchucame/, 2010-10-16) に YouTube 等へのリンクがまとめられています。 実際に曲を聴きその歌う様子を観ることができるので、 「演歌」はほとんど知らない自分にはとても参考になりました。
「創られた伝統」の一例という意味では 渡辺 裕 『日本文化モダン・ラプソディ』 における邦楽改良等の話 (もしくは日本画の話とか) とも並行する所があるように思いましたが、 戦後のカウンタカルチャーに対して、戦前のハイカルチャーという点では、近代化の持つ意味合いがかなり異なるかな、とも。
しかし、書かなくなるとますます書けなくなりますね。 去年談話室に書いた読書メモをアーカイブにまとめたのですが、 7冊しか書いていません。うーむ。今年はせめて月一くらいのペースにしたいものです。 と、今回の2冊も去年秋に読んだ本ですが、リハビリも兼ねて、ということで。
やはり去年の秋に読んだ本ですが、忘れないうちに読書メモ。
1970年から1985年にかけてジャマイカのルーツ・レゲエ〜ダンスホールにおいて制作されたダブについて、 その制作の社会的、音楽産業構造的な背景と用いられている技法とその発展を、関係者の証言と楽曲分析を通して論じた本です。
第2章は1970年初頭のダブの起源を論じているのですが、 そこで分析の道具立てと概念整理もしていて、それが参考になりました。 特に、「空間性の創作」と「雰囲気の操作」というリヴァーブの2つの使い方、 リズム的なエフェクトとしてのディレイ (実際、bpm を使って分析する)、 というエコーの効果の整理は、分析的な聴き方の参考になりました。
しかし、興味深く読めたのは、 Sylvan Morris (Studio One)、King Tubby (Tubby's)、Lee Perry (Black Ark)、Errol Thompson (Randy's - Joe Gibbs) という4人のエンジニアを具体的に論じた第3〜6章。 個々のエピソードはもちろん、具体的に曲を取り上げての楽曲分析が興味深かったです。 Blood And Fire や Pressure Sounds、Trojan 等によるリイシューで持っている音源もかなりあるので、 実際に聴きながら読むとより理解が深まるだろうとは思いつつ、なかなか出来ていないのですが……。
British reggae や electronica、trip hop、jungle 等に話を広げた最終章は少々蛇足に感じましたが。 全体として聴き方の参考になる所も多く、勉強になる本でした。
ちなみに、この本の著者は、 Fela: The Life and Times of an African Musical Icon (Temple Univ. Pr., 2000) という Fela Kuti の伝記も書いています。翻訳が出れば読んでみたいものです。 (英語で読む程の気合いは……。)
読書メモ。
去年、岡田 暁生 『ピアニストになりたい!』 (春秋社, 2008) を 読んで以来、 違う人が描いた19世紀ピアノ史も読んでおきたい、と思っていて、遅ればせながら手に取った一冊。 また違う面が読めるかなと期待したところもあったのですが、基本的な枠組みは変わりませんでした。 (そんなに大きく違ったら、それはそれで問題ですが。)
ただ、『ピアニストになりたい!』は基本的にビアノ教本や練習用器具、教育制度など ピアノを弾く側の視点から記述しているわけですが、 『ピアノの誕生』はピアノの作る側の視点から、産業としてのピアノ製造や その技術の発展と美意識との関係などを描いています。 教育制度の話もビアノ産業の販路拡大策としての面も描いています。 そういう点では『ビアニストになりたい!』と相補的な内容でした。 特に興味深く読めたのは前半のビアノの技術開発に関わるエピソード、 例えば、ウィーン・アクションとロンドン・アクションの違いと美意識の関係、 今は無くなってしまったシンバル・ペダルや太鼓ペダルのような付加的なペダルの話などでした。
その同時代のフランスで絵画はどう展開していたんだろう、という興味で併読してみた一冊。 しかし、ほとんど接点が感じられなかったのは、 この本が記述している絵画のあり方に、19世紀の近代的な技術の進展が直接関わることが無かったからかもしれません。
内容は、19世紀フランスのアカデミズム絵画周辺を対象に、図像解釈学的なアプローチで、 絵画のヒエラルキーの最上にあった歴史画の終焉を辿った本です。 さらに、それらの絵画における女性像や東洋人像の変化を ジェンダーやオリエンタリズムの観点から分析しています。 アカデミズム絵画はかなり疎い分野だったのでこの本で知ったことも多かったですが、 手に取った当初の興味とはちょっとズレていたので、少々すれ違い感も……。
去年秋に読んだ本ではありますが、遅ればせながら読書メモ。
Hal Foster (ed.): The Anti-Aesthetic: Essays on Postmodern Culture (Bay Press, 1983; 『反美学』 室井 尚 + 吉岡 洋 (訳), 勁草書房, 1987/1998) と同じ編者で、 Rosalind Krauss 等も執筆しているということで手に取ってみたこの本。 正直全ての論文に付いていけたわけではないのですが、 マーティン・ジェイ 「近代性における複数の「視の制度」」 は興味深く読むことが出来た所もありました。
ジェイは、近代における主要な視覚文化を三つ、哲学と関係付けられた視覚モデル、という形で整理して示しています。 一つは、近代において最も支配的な視覚の制度という、 デカルトの主観的合理性とイタリア・ルネサンスの遠近法 (デカルト的遠近法主義)。 もう一つは、ベーコンの経験主義とオランダ十七世紀美術の描写術。 そして、この描写術は、十九世紀に写真によって生み出された視覚経験の先駆だとも指摘しています。 この議論は、描写的な写真とナラティヴな写真との対比を連想させられました。
より根底からデカルト的遠近法主義に取って代わる可能性が開けているとジェイが言う 三番目の視覚制度は「バロック」。 バロックの視覚経験は触覚的ないし触感的で硬直した視覚中心主義から逃れる、と。 しかし、無条件に賞揚しているわけではなく、 社会を操作するためにバロック的スペクタクルを用いることの容易さも指摘しています。 この議論は、抵抗/反動のポストモダンの話にも通じるような。 あと、バロックの視覚制度は Alfred H. Barr, Jr. の言う Modernism と Surrealism という2つの流れの後者に 相当するものとも言えるかな、と。
そんな感じで今までに読んだ事と関連付けられそうな所があり 表現の系譜を整理するのに使えそうな議論に一本出会えたのが、読んで収穫でした。 最近はこの手の本は敬遠しがちなのですが、たまに読むのもいいかもしれないですね。
最近読んだ本から読書メモ。
1861年に自治権を獲得してから1934年にファシズム体制により自治権を失うまでの約70年の間の ウィーンの市政と近代的な都市作りの関係を描いた本です。 文化史的な記述を期待していたのですが、ほぼ政治史の本でした。それはそれで興味深かったですが。 市政を動かした勢力は、自由主義 (1861-1895)、キリスト教社会主義 (1895-1918)、社会民主主義 (1918-1934) の三つ。 政治勢力の違いによって街作りが大きく変わるのは、 街の近代化が急速に進んだ時代だったからでしょうか。
この本を手に取った理由は、 1920s の Modernism / Avant-Garde の文化の背景としての 「赤いウィーン (Rotes Wien)」への興味から。 この時期に整備された市営集合住宅 Karl-Marx-Hof 等や、 Otto Neurath と Gerd Arntz による Isotype を生んだ Gesellschafts- und Wirtschaftsmuseum (社会経済博物館) など、この本でも触れられていました。 今まで戦間期の左翼的な社会民主党市政くらいの認識しか無かったので、 この政治状況がどのような経緯で出て来たのか今までより理解が進んだかな、と。
しかし、既にこの本を読了した後、3冊読んでいるという……。 ま、ハズレもあるので、必ずしも読書メモを書くこともないんですが、 にしても、書くペースが読むペースに付いていけていません……。
3年近く前に Schivelbusch の照明に関する本2冊を読んだときに、 他の本も読もうと思いつつ、すっかり間が空いてしまいました。 そんなわけで久々に手に取ったこの本の読書メモ。 (と言っても、一ヶ月程前に読んでいた本ですが……。)
鉄道技術の進化・革新や鉄道旅行文化の普及・進展も描いていますが、 むしろ、19世紀の鉄道の普及の一般社会の制度・概念に与えた影響や、 鉄道技術や運用のありかたに社会的背景が与えた影響を論じた本です。 19世紀にヨーロッパや北米を覆うようになった工業的な制度や概念が、 鉄道を通してどのように社会に浸透していったかを描いています。 曖昧な形で知っていたこともありましたが、より具体的はエピソードや図版を用いた記述は、 とても興味深く読むことができました。
最も興味深く読めたのは、「2 機械のアンサンブル」から「3 鉄道の空間と鉄道の時間」にかけて。 最初期の鉄道の定義は「レールとレール上を走る乗物の二つの要素からなる一機関」であり、 鉄道線路は機械として自然の障害を克服するように引かれた一方で、 その一方でレール上の輸送の独占 (個人交通の排除) は1840年になって確立されたり、と、 レール敷設と旅客・貨物輸送の事業の関係は初期から必ずしも自明ではなかったのだな、と。 また、電信の最初の実用化は鉄道における信号であり、電信網は鉄道網と共に広がったという。 さらに、鉄道網の発達が、時間の統一、標準時の制定を促したと。
「6 米国の鉄道」に書かれたヨーロッパとアメリカでの鉄道の違いも、興味深いものがありました。 ヨーロッパでの鉄道が駅馬車を置き換えるものだったのに対し、 アメリカでの鉄道は定期郵便船等の「川蒸気」をモデルにした「陸蒸気」だったと。 鉄道線路の引かれ方も直線的なヨーロッパと違い地形に沿うようなものになり。 客車も馬車をモデルにした個室形式ではなく川蒸気の船室をモデルにした大部屋が主流となります。 鉄道の話とは関係ありませんが、 米国語で「輸送する (to transport)」の代わりに「船で送る (to ship)」が使われるのは、 米国19世紀の主要交通路が水路であったため、と、この章で知りました。
「7 鉄道旅行の病理学」から「9 鉄道事故、鉄道性脊柱、外傷性ノイローゼ」にかけては、 鉄道利用に新たにもたらされた病気・障害をどう捉えていたかの話。 といっても、鉄道利用に限らず社会の工業化一般の話とも言えるようなもので、 「余談 — 工業性疲労」や「余談 — ショックの歴史」のような 鉄道と直接関係付けない一般的な話をした所の方が興味深く読めました。 振動等による金属強度低下を金属疲労と呼ぶのは、 鉄道の振動に起因する長旅の疲労と同様の現象と看做されていたからなのですね。
もちろん鉄道旅行による知覚の変化のような話も書かれていて、 それなりに面白く読みましたが、今の自分は上記のような話にむしろ興味を引かれるようです。 こんな感じで、現在自明になってる諸概念・制度のルーツを垣間みるようで、 照明の歴史の本と同様、とても興味深く読むことが出来ました。 次にシヴェルブシュの本を読むとしたら、 『楽園・味覚・理性 —— 嗜好品の歴史』 (1980; 法政大学出版局, 1988) かしらん。
久しぶりの読書メモ。最近読んだ本から。
近世に成立した日本独自の奇術である手妻の歴史を辿った本です。 古代の散楽や陰陽師、中世の放下師の話に始まり、 江戸時代初期の放下から奇術のみが分化しての手妻の成立を、 その時代の三人の手妻師を活動から描きます。 さらに、興行の形式が整った江戸時代後期、 技術革新による絶頂期と西洋化近代化の波に揉まれた明治時代、 そして、大正時代以降の衰退と、話は続きます。
著者自身が手妻の継承者ということもあって、 単に文献記述を追うだけでなく、 実際に演じるという視点から当時どのようなパフォーマンスをしていたのか 手妻の種明かし的な面も含めてを考察していて、とても面白く読めました。 当時の芸人の記録は非常に限られているわけですが、 どこまでが資料に基づきどこまでが推測なのかはっきり分けて記述しているのも良いです。
明治期の手妻の改良や西洋奇術との関係の話など、 邦楽改良 [関連読書メモ] や 日本画の成立の話などとパラレルに感じられるもので、最も興味をひかれました。 しかし、手妻という名前が示すように、江戸時代には、 宗教的な呪術や魔法としてではなく手先の技に基づく娯楽として受容され、 「伝授本」が出版され道具を売る「手品屋」が出来るくらい素人愛好家がいた、 というエピソードが最も印象に残りました。 そういう点は江戸時代も進んでいたんだなあ、と。
去年の正月のNHKの演芸番組でこの本の著者による「蝶のたわむれ」を観て以来、 江戸手妻は一度生で観たいとは思っているのですが、 この本を読んでます観たくなってしまいました。 やはり、もっと積極的に観に行く機会を作らないといかんな、と。
約2週間ぶりの読書メモは、 特にテーマを決めて続けて読んだわけではありませんが、またまた芸能史の本。
平安後期から安土桃山時代にかけての中世の女性芸能者が どんな芸をしてどんな生活をしていたのかを述べた本です。 巫女、傀儡女、遊女、白拍子女、曲舞女、その他 (瞽女、鳥追女、女猿楽) 女性芸能者の種類ごとに一章を立てて説明しています。 著者は6歳の時から能楽のお仕舞を習っていたとのことで、 能楽に残る中世女性芸能の影響 — 表現の形式や描かれた女性芸能者 — を多く挙げています。 正直に言えば知識が少な過ぎて話が追えないところもありましたが、そこが興味深く読めました。 能楽をちゃんと観てみたくなってしまったかも。
江戸時代とともに出雲の阿国が登場し歌舞伎 (近世芸能) が始るわけですが、 それを描いた終章で、中世芸能と近世芸能の違いは宗教性と享楽性だと著者は指摘します。 近世芸能である手妻が宗教的な呪術や魔法としてではなく手先の技に基づく娯楽として受容されいた という話を読んだばかりだったので [読書メモ]、 なるほどと腑に落ちました。
久々の読書メモ。
ポーランドにおける近代デザインの歴史を、19世紀末 (1880s〜) に興ったザコパネ様式 (Zakopane Style) から 戦間期の (1920-30s) のモダニズム (Modernism) まで、 地域固有性 (vernacular) と国際性という2つの対立軸に沿って描いたものです。 時代は三国分割下のポーランドから第一次大戦後の独立にかけてで、 そこでのナショナリズムとデザイン・建築様式の関係を論じています (そういう意味では、原題の方が内容をよく表している)。
実際にデザインされた建築や製品をあまり知らないうえ、本にも図版が少ないので、 あまり頭に入ってこないところがあったのも確か。 それでも、これも近代化の中での文化触変の一例かな、と、興味深く読めました。 中欧の中ではチェコやハンガリーに比べて影の薄いポーランドのアヴァンギャルドですが、 この本を読んで、むしろ「地域性のある「モダニズム」」 (p.138) というのが 戦間期のポーランドの特徴だったのかな、と。
また、著者は、この時代にポーランド以外で「地域性のある「モダニズム」」が発達した地域として スカンジナヴィアを挙げています。(ポーランドと直接的な関係は無かったようですが。) そういえば、フィンランドの Alvar Aalto やデンマークの Poul Henningsen など 個別にデザイナの名前やデザインした製品は知っている/見たことあるけれど、 北欧の国もしくは地域単位でのモダニズム運動って、ちゃんとフォローしたこと無かったな、と。 北欧モダン・デザイン史の本 (デザイン・グッズのカタログ・ムックのようなものではなく) で お薦めの本をご存知の方、是非教えて下さい。
あと、この翻訳書が良い思ったのは、 翻訳の際に削られがちな参考文献リスト等のレファレンスをちゃんと載せていること。 特に気に入ったのは、関連する博物館・美術館や主要な建築の住所付きリストが載っていること。 というか、図版や写真は少ないけれどもこのリストが充実しているというのは、 図版や写真で満足せず現地へ観に行け、という著者の意図なのかもしれません。 これを参考に建築やデザインを見る旅を自分なりにプランしてみたい、なんて思ってしまう、そんなリストです。
読書メモ。
16世紀にロシアへ併合された汎ボルガ・ウラル地域のチュルク系ムスリムの歴史を描くことによって、 正教徒とイスラームがどのように「共生」してきたのかを描いた本です。 範囲は、10世紀のヴォルガ・ブルガールのイスラーム受容から 19世紀末のロシア帝国下でのジャディード運動というイスラーム改革運動まで。 大筋では、ロシア帝国の下で正教徒への改宗とロシアへの同化が進められたわけですが、 これが一貫したものではなかったということを、この本は描いています。 特に、第4章「タタール文化復興の時代」では、 18世紀にはロシア政府とムスリムの間に協力的な関係もあったと述べています。
特に18世紀後半のエカチェリーナ二世は、 「フランスの啓蒙主義思想家ヴォルテールに感化された啓蒙専制君主であり、 イスラームを進んだ啓示宗教として評価していた。 エカチェリーナ二世は即位後、ムスリムに対するそれまでの抑圧的な政策を転換し、 (中略) 彼女は帝国の全臣民に対する信仰の自由の必要性を宣言していたが、 その宣言にあらわされた新たな政策は、一七七三年に宗教寛容令として発布された」という。 宗教寛容令というとフランスや神聖ローマ帝国における主にカトリックとプロテスタントの間のものが有名ですが、 それがロシアでは正教徒とイスラームの間のものとして発布されたという。
意外だったのは、この時代には「ロシア政府は、まだ在来の民間宗教の影響が強く残っていたカザフ社会にイスラームを広めて、 カザフ人を「文明化」することにより、当時ロシアへの依存度を高めつつあったカザフ草原の遊牧民に対する影響力の強化をはかった」 ということまであったということ。 その政策を進めるにあたってロシア政府と強力関係にあったのが、汎ヴォルガ・ウラル地方のムスリムのタタール人だったわけです。
細部のエピソードにも興味を引かれるものが多かったのですが、 中でも掴まれたのが、序文冒頭で触れられている、 テニス選手のマリア・シャラボア (Мария Шарапова [Maria Sharapova]) の姓は、 アラビア語の「シャラフ (高貴な)」、あるいは「シャラープ (ワイン)」から派生していると考えられる、という指摘。 調べてみると、シャラポアの両親はベラルーシ・ゴメリ (Гомель, BY) 出身とのことなので、 リプカ・タタール人 (Lipka Tatars / Польско-литовские татары、ポーランド=リトアニアに住んでいたムスリムのタタール人) から 同化した家系なのかもしれないなあ、なんて想像してみたり。
ちなみに、この本 (というかブックレット) は 『イスラームを知る』シリーズの中の一冊。 最初に読んでみたのは、 佐藤 次高 『イスラーム —— 知の営み』 (イスラームを知る1 / 山川出版社, ISBN 978-4-634-47461-1, 2011)。 これはシリーズ全体の導入という感じの内容でしょうか。 『共生のイスラーム』で読んだのはまだ2冊ですが、シリーズの他のタイトルを見ても、 中国や東南アジア、南アジアなどでの多様なイスラーム社会のあり方を紹介するような内容のようで、 とても面白そうです。