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Review: Andreas Gursky @ 国立新美術館 企画展示室IE (写真展)
嶋田 丈裕 (Takehiro Shimada; aka TFJ)
2013/08/18
Andreas Gursky
国立新美術館 企画展示室IE
2013/07/03-09/16 (火休), 10:00-18:00 (金10:00-20:00).

Andreas Gursky は1980年代に活動を始めたドイツの写真作家。 Kunstakademie Düsseldorf で Bernd & Hella Becher に師事した、いわゆる Becher Schule の作家で、 いかにもそれらしいカメラを据えてかっちり構図を決めてパンフォーカスで撮影された抽象絵画のような作風だ。 今までグループ展の中で何度となく作品を観る機会があったが、大規模な個展で観るのは初めて。 Becher Schule の作風は好みなだけにそれを堪能することも出来たが、 個展でまとめて観ることで作品の読み応えもある展覧会だった。

展示では、制作年代順でもなく、似たような構図の写真を集めることもなく、 むしろ、似たような構図のものが一カ所に集まることをあえて避けるかように並べられていた。 写真の脇には作品番号が添えられているだけ。 逆にそういう作りが、自分の頭の中で制作年順に並べ替えたり似た構図でグルーピングをすることを促されるよう。 そこにバズルのようなものを読み解く面白さがあった。

初期の1980年代の作風は比較的普通の風景写真のようだが、風景の中に点在する人影の扱いに、後の展開を伺わせる。 その中で特に興味を引いたのは、並んだサッカー場2面でサッカーする人々を捉えた “Zürich” (1985)。 後に見せるランダムさを含む要素の反復による抽象化の萌芽を感じさせる作品だ。 特に、Toyota チームと Honda チームの2つのピットでのタイヤ交換場面を並べた “F1 Pit Stop IV” (2007) など、 “Zürich” の変奏に感じられた。

1990年代になると、抽象絵画のような画面作りが明瞭となる。 Jackson Pollock の抽象表現主義絵画をフラットに撮影した “untitled IV” (1997) や 油彩のストロークをアップで撮影した小品 “untitled X” (1999) などが、 彼の指向を判り易く示している。 東京証券取引所で人々が取引をする様子を俯瞰する視線から引いて撮影した “Tokyo, Stock Exchange” (1990) など、 パターンを作りだす机の配置にランダムさを加える人々の配置が、 抽象表現主義絵画の画面に構造を作りだす大きなストロークとランダムさを作りだすドロッピングなどによる絵具のハネのよう。 ダークなスーツ姿の東京証券取引所と対称的にカラフルな服も目立つシカゴ商品取引所を捉えた “Chicago Board of Trade III” (1999)、 窓越しの横からの視線で建物の構造の方が目立つようにドイツ連邦議会を捉えた “Bonn, Parliament” (1998) など、この変奏だ。 そんな作品の中、夜の香港の上海銀行のビルを (おそらく空撮で) 見下ろす視線で捉えた “Hong Kong, Shanghai Bank” (1994) では、 照明で浮かび上がる各階オフィスとそこで働く人々という “Tokyo, Stock Exchange” 的なものが、 高層オフィスビルの構造に沿って縦方向に反復されていく。 2000年代以降の画面に顕著となるランダムさを含む反復構造を持つ写真の先駆にも感じられた。

2000年代にも群衆のうねりを抽象的に捉えた作品も続くが、むしろ俯瞰的な風景写真に興味を惹かれた。 例えば、広がる牧場の柵の規則的なパターンにランダムに牛が散りばめられた “Greeley” (2002) や 幾重にも並ぶ牛舎を捉えた “Fukuyama” (2004) など。 証券取引所に比べても被写体のスケールが大きくなることにより、 パンフォーカスの平面的な画面作りの特異さも際立つ。 元々焦点深度深く撮っていると思うが、おそらく複数の写真を合成することにより、 手前から奥まで不自然なまでにピントが合っており、 奥行きのあるはずの風景写真ながら非常にノッペリとした画面となっている。 特に “Fukuyama” など、奥に連なっている牛舎が、 まるで高層ビルのように縦に積み上がっているものを横から見ているように見える。 被写体のスケールを大きくすることにより、 パンフォーカスな画面のトリッキーさが表面化するかのよう。そこが面白かった。 似たような構図のものでは、籐椅子工場のラインを捉えた “Nha Trang” も、 雑然としたラインが積み重なるパターンが面白かった。

この頃の風景写真スケールの写真では、砂漠のサーキット場のうねるコースを 人もレースカーもいない状態で捉えた “Bahrain I” (2005) や、 ピレネー山岳コースのカーブが続く道とそこに連なる観客の様子を捉えた “Tour de France I” (2007) も、 奥行きがせり上がるような平面的な画面が面白かった。 アスパラガス畑の黒いビニールがかかった畦のパターンを捉えた “Beelitz” (2007) などは、 真下に見下ろすアングルでフラットに捉えており、その後の衛星写真シリーズの前奏のよう。

2010年代にもなると、視点はさらにマクロとミクロに分裂し、画面から人の気配が消える。 マクロなものは衛星写真を合成した “Antarctic” (2010) や “Ocean I” (2010)、“Ocean II” (2010) といった 大陸や大洋を全体としてテクスチャとして捉えるような作品だ。 一方、ミクロな視点のものは、タイのチャオプラヤー川の川面の煌めきを捉えた “Bankok” シリーズ (2011)。 光っている所を暗い所を区切るかのようにくっきり撮られた画面で、 細かい波が作る不定形の光の粒で抽象表現主義絵画的な画面を作るよう。 抽象絵画的な画面作りという点で、ミクロな視点の “Bankok” シリーズの方が面白かった。

特に年代順に作風を追うように作られた展示ではなかったが、 観ながら自分の中で作品を関連付けていくうちに、いつの間にか Gursky の作風の展開にも気付かされた。 そんな読み解き甲斐もある展覧会だった。