演劇だけでなく現代美術の文脈でも注目されるレバノンの作家 Rabih Mroué。 FESTIVAL/TOKYO 2013 で『ラビア・ムルエ連続上演』と題してまとめて上演された 彼の作品3作を2日に分けて観てきた。
自殺したレバノンの劇作家 & 活動家を主人公とした舞台。 死者ということで舞台には誰も登場せず、 主を失った部屋に、レコードがかかったままのプレーヤ、 机の上の Facebook にログインしたままのPC、 留守番電話やスマートフォン、電源が入ったままのTVが並んでいる。 Facebook のウォール、 時々届くロンドンからレバノンに向かっている女友達からのショートメッセージ、 恋人 (というには微妙な関係) の女性からの留守番電話のメッセージなどを通して、 自殺した部屋の主が描かれる。 制作していた作品や活動、人物像の具体的な描写を欠いたこれらの語りは、 まなじ賛辞的な内容を含むだけに、空虚に感じられた。 人の登場しない舞台の空虚さも、その感覚を物質化したよう。 Facebook のウォールが主要な役割をになっていただけに、 ソーシャルメディア上のやりとりの空虚さを見せ付けられるような作品だった。
17歳の時に狙撃者の銃撃で左頭を撃ち抜かれ、 奇跡的に死は免れたものの、半身の麻痺、失語症や 記憶や認識に関わる障害を負ってしまった Rabih の実弟 Yasser を題材とした作品。 それも、Yasser 自身を舞台に上げ語らせるドキュメンタリー演劇だ。 最初のうち、失語症だったり写真に写ったものが認識できないということが語られるものの、 その原因には触れず、脳卒中とその後遺症の話としても取れるよう。 しかし、話が進むにつれて、レバノンで知識人暗殺が横行した1980s半ばに 狙撃され頭を撃ち抜かれた後遺症であること、 同じ日に共産党員だった祖父が暗殺されたことが明らかになる。 後遺症の認識障害、内戦状態のレバノンでの傷付く人々、 もっと私的で真偽不明の情事の話などが、 論理的にではなく、むしろ曖昧な繋がりのままに、提示される。 ある一人の私的な語りから社会的な問題や認識の問題まで自然に話を広げるような所、 映像も交えつつ決して熱くならず淡々と展開する所、 そして、その淡々とした展開からに滲み出る感傷に、 約2年前に観た Rimini Protokoll: Black Tie [レビュー] を思い出さされた。
dOCUMENTA(13) に出展されていた作品 [レビュー] も合わせて上演された。 dOCUMENTA(13) でのパフォーマンスの再演、 改めてライブのレクチャーをするかもしれないと少々期待したが、 dOCUMENTA(13) でのインスタレーションのうち 奥の部屋で上映されていたレクチャーのビデオだけを上映するというものだった。 インスタレーションが良かったと思っていただけに、ビデオだけになってしまい、少々残念。